『文選』所収の公讌詩(宴のうた)
『文選』巻二十に、建安詩人たちの「公讌詩」が収められています。
収録された詩人とその作品は次のとおり。
曹植(字は子建)「公讌詩一首」
王粲(字は仲宣)「公讌詩一首」
劉楨(字は公幹)「公讌詩一首」
応瑒(字は徳璉)「侍五官中郎将建章台集詩一首」
この作品収載の順番について、
初唐の文選学者、李善は次のように注しています。
贈答・雑詩、子建在仲宣之後。而此在前。疑誤。
贈答詩(巻二十三・二十四)や雑詩(巻二十九)では、
曹植の作品は、王粲の後に置かれている(実際には更に劉楨よりも後)。
それなのに、ここでは王粲の前に曹植の詩が置かれている。
恐らくは、収載の順番を誤ったのではないか。
これに対して、私は次のように考えています。
もともと曹植詩から応瑒詩までまとまりを成していたものを、
『文選』がそのまとまりのまま採録して、この順になったのではないか、と。
この宴を主催しているのは曹丕(曹植の兄、後の魏の文帝)、
(李善は、王粲の詩が作られた場は曹操主催の公宴だと解釈していますが。)
その宴に侍る人々の筆頭は、立場上、曹植だった、
そして、その宴で競作された作品は、そうした立場の順に従って記された、
だから、その年齢に関わらず(曹植は王粲よりも15歳も若い)、
曹植の「公讌詩」が、王粲や劉楨よりも前にあるのではないか、という仮説です。
応瑒の作品だけは、題名が著しく異なっていますので、
別の視点から考えなくてはなりませんが、
その辞句から、曹植らと同じ機会に作られた可能性が高いように思います。
岩波文庫の『文選 詩篇(一)』(岩波書店、2018年1月)p.155に、
応瑒の詩までの四首は同じ状況における作とみなしうる。
とあります。そう判断された根拠を知りたい。
もしかしたら、すでに先人が指摘しているのかもしれません。
それではまた。
2019年7月2日
わかりやすくおもしろく?
ずっと授業で苦戦しています。
こちらとしては十分に意を尽したつもりでも、
よく理解できないと感じる学生が少なからずいるようです。
これ以上因数分解できないほどに砕いても、
相手にちゃんと伝わらない、ということは厳然としてあります。
それは、説明の仕方云々の問題ではなく、
相手にそれを受けとめる準備ができていないということでしょう。
そのことに落胆することが近年ますます増えてきました。
そして、卒論で中国古典を選ぶ人は奇特な人となりました(今年はゼロ)。
振り返ってみれば、もう二十年以上も前からその傾向はありました。
とはいえ、まだ若くて元気だったためか、
「わかりやすいこととおもしろいこととは別だ」と言ったりもしている。
ほとんど世間にケンカを売っているようなものです。
この前のめりがよろしくないのでしょうね。
そうはいっても、自分で本当に面白いと思えなければ、
やっぱり“わかりやすくおもしろく”講義することはできないし。
憮然(しょんぼり)とする日々です。
それではまた。
2019年7月1日
伏流する物語
文献に記されたことは氷山の一角である、ということについて。
漢代の墓壁を飾る画像石。
そこにわりとよく描かれている題材のひとつに、
大人(孔子)が小さな子どもに向き合っている図があります。
子どもは小さな車輪のついたおもちゃを手にしていて、
その類型的な図像からすぐにそれとわかります。
この子どもは、項橐(託とも表記される)だとされています。
ところが、彼の事跡を古代の文献上に確認することはかなり難しい。
たとえば『戦国策』秦策五に、
「そもそも項槖は七歳にして孔子の師となった」とありますが、
それは甘羅という人物が相手を説得するために引き合いに出しただけであって、
項槖と孔子との故事そのものを記すのではありません。
ところが、時代を唐代まで下ってみると、
敦煌変文(敦煌から発掘された絵解き物語)に、
二人の様々な問答を会話体で記す「孔子項託相問書」があります。
では、これらの小話は、唐代になって始めて作られたものなのでしょうか。
おそらくはそうではないだろうと思います。
先行研究*に列挙された項橐に言及する文献は、
敦煌変文に記されているような問答を記述するものではありません。
ですが、そのことが即、この物語が存在しなかったことを意味するわけではない。
項橐と孔子との問答は、誰もが知る小話として広く流布していた、
その有名な話の主人公が、時に文献上に断片的に記されて今に伝わっている、
そういうことなのではないかと考えます。
それではまた。
2019年6月28日
*たとえば、張鴻勛「《孔子項託相問書》故事伝承研究」(『敦煌学輯刊:1985年敦煌吐魯番学術討論会論文専輯』1986年第1期)、劉長東「孔子項橐相問事考論―以敦煌漢文本《孔子項橐相問書》為中心」(『四川大学学報(哲学社会科学版)』総第125期、2003年第2期)。
空白がもつ意味
比較的長い期間にわたる文学史を考えるときも、
ある個人の文学作品に取り組むときも、
わたしはだいたいいつも年表を作ることにしています。
そして、その際、一年を一行と固定することにしています。なぜか。
時間の推移や濃淡が、
空間に変換されてくっきりと立ち現れてくるから。
たとえば、曹操の事跡をたどってみたとき、
三十代半ばまでと、それ以降と、
まず年表上の文字の密度が違うことに目を奪われます。
それは、彼の後半生がとても忙しかったことを物語っているでしょう。
ですが、若い時期の曹操が何もしなかったはずはない。
年表の上部に目立つ空白は、
世の人々の目に触れる言動が少なかったことを意味するに過ぎません。
青年時代の曹操は、
混乱の度を深めていく世の趨勢を観察しながら、
自分なりに様々な考えをめぐらせていたのではないでしょうか。
そうしたことを、1年1行の年表は示唆してくれます。
起こった事柄だけを記していくと、
ずっと同じペースで出来事が生じていたかのように見えてしまいますね。
表立って現れていないものの存在を念頭において考えること。
それは、出土したものを復元する考古学の作業に似ているのかもしれません。
それではまた。
2019年6月27日
不調なときも
このところずっと不調です。
不調なときは、自分のことをいなくていい存在だと思ってしまう。
もし仮にそんなことをいう者がいたとしても、それに自分が加担してどうする、
この世にあるものすべてに存在意義があるのだという持論はどうした、
と、がんばって思い直すことにしています。
不調なときも、できることを最低限、継続してやっていく。
今は、次のような作業を続けています。
第一に、[電子資料]の[曹操の事跡と人間関係]の修訂。
『三国志』の本文及び裴松之注に見える曹操関係の記事を網羅したもので、
今、約半分の確認を終えたところ。もうしばらくかかりそうです。
第二に、漢魏晋時代の楽府詩一覧の修訂。
これは近日中に作業を終え、[ご利用ください]で公開する予定です。
第三に、曹植作品訳注稿。
これは、これから数年間かけて行っていく最重要課題です。
訳注稿は、まずノートに手書きで調べたことを記していきます。
こうした勉強方法(敢えて「勉強」と言います)は、ほんとうにいいです。
その昔、恩師の岡村繁先生が、
目で見ただけではわからなかったものも、書けばわかってくる、
何か思いつく(気づく)のは、たいてい手を動かして書いているときだ、
ということをおっしゃっていましたが、私もそう実感します。
それではまた。
2019年6月26日
繰り返される言葉
昨日言及した「不患人之不己知、患己不知人也」ですが、
これととてもよく似た言葉が『論語』の憲問篇にも見えています。
不患人之不己知、患己無能也。
これを自分にひきつけて解釈するならば、
(『論語』くらいの古典になると、それが許されると思います)
人に理解されないことを嘆くひまがあるなら、
その分、自分に足りないものを自覚し、充実に努めよう、ですね。
孔子はこのようなことを繰り返し言っていたのでしょう。
だから弟子たちがそれをそれぞれに書き留めた。
同じ憲問篇には、
邦有道穀、邦無道穀、恥也。
(邦に道あれば穀す、邦に道無くして穀するは、恥なり)
とあって、この「邦有道……、邦無道……」というフレーズは他にも見えます。
孔子はよほどこのことを繰り返し考えたらしい。
孔子ほどの人にも、
何度もそこへ立ち返って思いに沈むテーマというものがあった。
そのことに私はかえって勇気づけられます。
くよくよ考える必要はないと言われれば、それはただのお悩みとなりますが、
(昨今はこのように言われることが多いように思います。)
憂いを全身で引き受けて考え抜くならば、それは思想に育つでしょう。
一個人の置かれた苦境の中にも、遠くの人に届く普遍性をそなえたテーマがある。
だからこそ、私もこうして孔子の言葉にすくわれているのだと思います。
それではまた。
2019年6月25日
理解されないと嘆くよりも、
私は『論語』の熱心な読者ではありませんが、
それでもその中に、とても好きないくつかの言葉があります。
不患人之不己知、患己不知人也。(学而篇)
人の己を知らざるを患(うれ)へず、己の人を知らざるを患へるなり。
人にわかってもらえないことは辛い。けれど、
では、自分は誰かのことを十分に理解していると言えるのか、
感じ取れなかったたくさんのことがあるのではないか。
そう省みると気持ちがしんとなります。
かなり前、投稿した拙論に対する査読コメントに、
次のようなことが記されていました。
この部分は、本論文にとって重要なことを述べているのだろうから、
もう少し丁寧に説明をしてもらえないか。
初めてたどりついた考察結果は、本人にもうまく説明できません。
それをカッコに入れて、外側からまるごと尊重してくださったのだと思います。
このような理解の仕方があるのだと、後になって深く心に刻みました。
こちらに受容体がないばっかりに理解できない、
そうした盲点がありうるということに、せめて自覚的でいたいです。
それではまた。
2019年6月24日
白居易の晩年
複雑すぎる現実に背を向けて、個人の幸福を追求する、
そんな生き方について昨日述べました。
それは、主に現代の私たちのことを述べたのですが、
唐代の白居易も、そんな生き方をした人だと想起されるでしょう。
たしかに一見、そのように思えます。
ですが、この詩人(文人官僚)にはもっと複雑な面があるように思います。
白居易はその晩年、
官僚としての第一線を退き、副都洛陽で悠々自適の日々を送ります。
ちょうどこの頃の作「想東遊五十韻」(『白氏文集』巻57、2717)(著書5)に、
次のような句があります。
良辰宜酩酊 すばらしいひとときはとことん酔っぱらうがよい。
卒歳好優遊 歳月はのんびりゆったり過ごすのにもってこいだ。
一見、世俗の煩わしさから解放されたよろこびを詠じているかのように見えます。
ですが、次の古典を踏まえていることに気づき、私は愕然としました。
『春秋左氏伝』襄公二十一年に、
「詩曰、優哉游哉、聊以卒歳、知也」とあり、
これに対する杜預の注に、
「『詩』小雅。言君子優游於衰世、所以辟害、卒其寿、是亦知也」とある。
白居易は決して天下泰平を言祝いでいるのではないのですね。
「卒歳好優遊」という表現の背後に、
「衰へたる世」において「害を辟(避)ける」知性を言っているのです。
『春秋左氏伝』は、知識人たちにとって必読の書でしたから、
白居易本人はもちろんのこと、それを読んだり朗誦したりした人々も、
みな上記のことはわかっていたはずです。
(詩歌にのせて詠えば、だれもそれをとがめることはできません。)
何人かの方々がすでに論及されているように、
白居易の晩年には、半隠遁的と片付けられないところがあります。
私自身も、以前に書いた論文(学術論文33、報告…等18)について、
提示した事実は事実でも、その解釈は妥当だったのか、
まだ釈然としないものを感じています。
それではまた。
2019年6月21日
自分本位ということの中に
昨日、うまく言いおおせなかったことがあります。
“現実参加の志”と、自分本位ということの関係性です。
両者は、決して二項対立ではないのです。
往々にして、上記ふたつのことは、
滅私奉公と、個人主義、というふうに言い換えて捉えられがちです。
ですが、本来それは次元の異なる別物です。
今は社会が複雑すぎて一個人の力では動かしがたい現実がある。
だから、現実に背を向けて、個人の楽しみを追求しよう、
そんなふうに生きている人が多いかもしれない。
そして、個人の楽しみを追求するのが個人主義だと、
そう思っている人も多いでしょう。
そんな現代人の目から見ると、
“現実参加の志”をもって生きた(そして多くは敗れた)古人は、
よくわからない人たちだと感じられるでしょうね。
自分たちが大切にしている個人主義からは大きく外れる人たちだ、と。
彼らも、個人主義であったと私は思います。
個人主義の対義語は、全体主義であると捉えた上で。
彼らは、自分本位で、現実参加を志向したということです。
もっとも、それは儒家思想として、
深く彼らの精神基盤に組み込まれているのではありますが。
自分本位で考え、自身を大切にすることと、
周りの人たちに何らかのかたちで寄与しようとすることとは矛盾しない。
自分本位の中に、現実参加の志が含まれている。
そう考えることは、あるいは理想論に過ぎないのかもしれません。
それでもかつてこうした人々がいたことはたしかです。
それではまた。
2019年6月20日
毒されていたかもしれない。
同僚の皆さんを観察していると、
(観察とは失礼、お許しください。)
研究者は、その研究対象が持つ価値観に、
多かれ少なかれ影響を受けているものだと感じます。
中国古典文学に長らく取り組んできた私にも、
自分では気づかないうちに染まっていた考え方があります。
それは、現実参加の志。
吉川幸次郎の言葉だったと思います。
自身が身を置く社会に対して、積極的に関わっていこうとする姿勢です。
私はここ十有余年、極めて真面目にこれを実践しようとしてきました。
その結果、大学が置かれた現実というものに負けた。
負けて、自分の生真面目さがよろしくなかったことに気づきました。
やっぱり人には向き不向きがあります。
先月、ふと気づいたら還暦を迎えていた私は、
これからは自分本位に生きるのだ、と気持ちを新たにしました。
かといって、以降、天然のわがままになるのかといえば、
それはたぶん違うだろうと思います。
一度は深く関わったこと、
それは自分の中に深く刻印されていくものでしょう。
中国古典を学ぶ者として自然に身についてしまった姿勢と、
現代の状況を生きていく上であらまほしき姿勢と、
交差する点はあると思います。
文学作品を通して追体験した古人の思いを、
今を生きる者として換骨奪胎すればどのようになるのか。
いわゆる研究なるものには直結しない問題ですが、
古典を学ぶ者として、こうした課題に時に思いを致しながら、
地道に、魏の曹植の作品を読んでいきます。
それではまた。
2019年6月19日