小舟に乗ってバランスをとる

昨日述べた、宮廷歌曲の大衆化、やっぱりこれは言い過ぎです。
魏晋の時代の民間の歌謡を概観すれば、それはすぐに分かることです。
「薤露」のような五言の句型を取るものが、そこにはほとんど認められません。

前漢以来、宮中で歌われてきた「薤露」が、
(後漢に入ると、外戚などの催す宴席にも波及するのですが、それはひとまずおいて)
魏の時代、曹操の歌辞によって特別な意味を帯びることとなった、
それが、西晋王朝に移行すると、一介の文人が替え歌を作るまでに一般化した。
こういうことだろうという見通しです。
実態から乖離した“強い”言葉は、よろしくないですね。

さて、今日、学科内のFD(教え方の勉強会)で、
ICTを効果的に用いた授業を展開されている同僚の方々のお話を聞きました。
様々な分野の専門家がいるので、こうしたお話が聞けるのです。

これは自分も取り入れたいし、また取り入れることが有効だと思うものあり、
また、古典文学の教育にはあまりなじまないかと思うものあり。
当たり前のことですが、取捨選択が必要だと思いました。

自分が教員となってこのかた30年あまり、
特にコンピュータやネット環境の方面で次々に新しいことが起こりました。
道具を使いこなすことだけで終わってしまうのは論外ですが、
新しい道具すべてに背を向けるのではなくて、
時代の流れに沿いながら、でないと、本当に継承すべき大切なものも守れない。
バランスを取るのが難しく、また面白いとも感じます(元気なときは)。

それにしても、専門以外のことをなんとたくさん身につけなくてはならないことか。

それではまた。

2019年7月24日

 

宮廷歌曲の大衆化か?

魏王朝で演奏された宮廷歌曲群「相和」の中に、
武帝曹操の歌辞「薤露」があります。

これは、前漢以来、宮中で歌い継がれてきたと推定される歌曲「薤露」に、
魏の武帝、曹操が新たに歌辞を付けて歌わせたものです。

「薤露」はもともと「蒿里」とあわせて一曲で、
前漢王朝の草創期、自殺を余儀なくされた田横という人物を悼んで、
彼の門人が歌ったのがその初めだと言い伝えられています。
それが、前漢武帝期に二つに分割され、
「薤露」は王公貴人の葬送歌、「蒿里」は士大夫・庶人の葬送歌となりました。

曹操による歌辞も、こうした歴史的経緯を踏まえ、
「薤露」は漢王室を、「蒿里」は漢末の群雄を追悼するものです。
すると、この二曲は魏王朝にとって非常に重要な意味をもつものだったでしょう。
(以上については、著書4のp.326―328、学術論文19をご参照いただければ幸いです。)

ところが、続く西晋時代の傅玄(217―278)に、
曹操(155―220)の「薤露」に基づく「惟漢行」という楽府詩があります。
(この楽府題は、「惟漢二十二世」という句に始まる曹操の「薤露」を踏まえたものであることを示しています。)

そして、傅玄の「惟漢行」は、項羽と劉邦の「鴻門の会」を題材としており、
(「鴻門の会」は、当時の宴席で楽しまれていた出し物のひとつであったと推定できます。)
内容として、曹操の「薤露」を踏襲する挽歌ではありません。

こうしたことから、次のような推論が可能だと私は考えます。

まず、西晋当時、まだ「相和・薤露」のメロディは生きていたということ。
だからこそ、傅玄は替え歌を作ることができたと判断されます。

更に、魏王朝の滅亡とともに、宮廷歌曲「薤露」の威光も失われたということ。
そうでなければ、先述のような内容の替え歌が許されるはずもないし、
そもそも一介の文人が気楽に替え歌を作るということも不可能でしょう。
(以上のことは、口頭発表17の一部で拙く述べましたが、文章化はこれからです。)

昨日話題にした『楽府詩集』には、
なるほど「薤露」「蒿里」は、ともに魏楽所奏と記されています。
他方、それ以外の「相和」歌辞には、魏晋楽所奏とされているものも少なくありません。
この違いは何に拠るのか、相変わらず謎のままです。

それではまた。

2019年7月23日

 

不明であることは明らか

現在、修訂作業を進めている漢魏晋楽府詩一覧には、
北宋末頃に成った『楽府詩集』に記す、
「魏楽所奏」「魏晋楽所奏」「晋楽所奏」という付記も入れています。
(これは、その楽府詩が、魏や西晋王朝の宮廷音楽として演奏されたことを示すものです。)

『楽府詩集』は、時代的にかなり降ってから成った楽府詩の総集であって、
(以下、「ご利用ください」の「楽府関係年表」を合わせてご覧ください。)
こうした付記が、何を根拠としているのかは不明です。

このことを突き止めたいと思いながら、未だ果たせないでいます。

初唐の歴史家、呉兢の『楽府古題要解』に拠ったかとする説もありますが、
この書物が、呉兢の趣味的な興味関心に出るものであろうことは、
かつてこちらの論文(学術論文17)で明らかにしました。

『楽府詩集』に多く引く文献として、
ほかに、六朝末、陳の釈智匠が著した『古今楽録』があります。
この書は、西晋の「荀氏録」、劉宋の「元嘉正声技録」「大明三年宴楽技録」など、
魏晋音楽が現役であった、あるいは復元されて間もない時期の記録を多く引用していて、
むしろこちらの方が『楽府古題要解』よりも、上述の付記の根拠となり得る資料であったかもしれません。

ただ、仮に『楽府詩集』の編者、郭茂倩がしかるべき資料に拠っていたとしても、
その資料が完全な姿で現存していない以上、その信憑性は依然として不明のままです。

かつて上記の論文で、魏晋の楽府詩の分類に関しては、
『楽府詩集』よりも『宋書』楽志に拠るべきであることを明らかにしましたが、
その『宋書』楽志の記載内容からは魏楽所奏と判断される歌辞が、
『楽府詩集』では晋楽所奏となっている例もあります。
(一例を挙げれば、“楚辞鈔”及び曹操・曹丕の三者による「相和・陌上桑」の歌辞など)

このような具合で、土台から心もとない楽府詩研究ですが、
少なくとも、分かっていることと不分明の境界線は引いておきたいと思います。
魏晋楽府詩一覧は、そのための基礎資料くらいにはなるかもしれません。

作業は、後漢から西晋まで終了しました。
残りは、開始時には視野に入れていなかった、前漢時代の歌謡の追記です。

それではまた。

2019年7月22日

 

曹丕の肉声か?

曹丕の詩は、漢代の古詩や古楽府、建安の先輩詩人たちの表現を多くちりばめ、
そこに彼の肉声を聴いたと感じることは、私にはあまりありません。

そんななか、『文選』巻二十九所収「雑詩二首」其二にふと目が留まりました。

西北有浮雲 西北の空にぽっかりと浮んだ雲、
亭亭如車蓋   高いところに寄る辺なく浮かぶさまは車の傘のようだ。
惜哉時不遇   残念なことに、よき時運にめぐり合わず、
適与飄風会   たまたま巻き上がる疾風と出会ってしまった。
吹我東南行   疾風は私を吹き上げて東南に向かわせ、
行行至呉会   どんどんと進んでいって、呉会(呉や会稽の一帯)に至った。
呉会非我郷   呉会という土地は我が故郷ではない、
安能久留滞   どうして久しくここに留まることなどできようか。
棄置勿復陳   だが、辛さは心の外に捨て置いて、二度と泣き言を並べるのはやめよう。
客子常畏人   異邦人(自分)は常に他人を憚ってびくびくしている。

第一句は、『文選』巻二十九「古詩十九首」其五にいう「西北有高楼、上与浮雲斉」を思わせ、

第九句は、同上「古詩十九首」其一に「棄捐勿復道、努力加餐飯」とあるほか、
漢魏の詩歌にはよく見かける常套句です。

また、第七・八句は、近しい先輩詩人の王粲の「七哀詩」(『文選』巻二十三所収二首の其二)にいう
「荊蛮非我郷、何為久滞淫」を明らかに模倣しています。

こんな風に、曹丕のこの詩には、どこかで目にしたことがあるような辞句が並んでいます。

ところが、末尾の「客子 常に人を畏る」には、他に類似句が見当たりません。
(もっとも、現存する作品を見る限りではありますが。)
漢魏詩では、旅人はだいたい故郷を思うことになっているのに、
ここに詠じられているのは、見知らぬ人にびくびくとして萎縮している小心者です。

これはまったくの直感的な感想でしかないのですが、
曹丕という人物の持つ弱さが、ここに丸腰で現れているように感じました。

そして、ここから遡って上の方の句を見直してみると、
曹丕のそこはかとない物寂しさ、不安感がにじみ出ているようにも感じられます。

なお、この感想は、彼の事跡をひととおり見ているからこそ出たものであって、
作品そのものに立脚した分析から導き出された解釈ではありません。
したがって、もちろんこのままでは論にはなりません。

それではまた。

2019年7月19日

屈折した為政者批判

昨日の訂正です。
魏文帝として即位して後の曹丕に対しては、
曹植はわりあい明確に批判している、として提示した拙論についてです。

曹植の鼙舞歌「聖皇篇」は、
あからさまに曹丕を名指しで批判するものではありません。

その内容が、兄弟を強制的に任地に赴かせた曹丕の所業と酷似しているため、
この詩に曹丕への批判を読み取ろうとする先人も少なくありませんが、
(特に中国の先人にはこうした解釈をされる方が多いです。)

しかし、この「聖皇篇」は、『宋書』巻22・楽志四に記すとおり、
漢代鼙舞歌(佚文)の「章和二年中」を踏襲するもので、
その内容も、まさしく後漢の承和二年に起こった出来事に合致しています。

ただし、内容も踏襲する替え歌、という枠を借りて、
曹植は非常にきわどいことを言っていると、表現のあり様から読み取れます。
その曹丕に対する批難の口ぶりは、かなり皮肉っぽく隠微です。

なぜ、このような屈折した表現方法を取ったのか。
それは、曹丕が即位して以降の曹植は、常に権力者の監視下に置かれていたから。
(『三国志』巻19「陳思王植伝」)
直接的な為政者批判は、たちどころに厳罰を引き寄せることになるでしょう。
とはいえ、わだかまる憤懣は、これを表出しないではいられない。
その屈託の中から噴出した歌辞が、彼の鼙舞歌「聖皇篇」だということです。

もし疑問を感じられるようでしたら、上記の拙論をお読みいただければ幸いです。

それではまた。

2019年7月18日

 

曹植の奇妙な詩

曹植の「侍太子坐」は奇妙な詩です。
太子である兄曹丕の主催する宴席に侍って作ったと題する本詩ですが、
全体として、なにか不穏な雰囲気が感じられるのです。

この漠然とした不安定感はどこから来るのか。
比較的それが鮮明に見えているのは、次に示す結びの二句です。

翩翩我公子  ひらりひらりと軽快な我が公子、
機巧忽若神  その技芸の巧みさはまるで神業だ。

「翩翩我公子」は、『史記』平原君虞卿列伝にいう太史公の評、
「平原君、翩翩濁世之佳公子也(平原君は、翩翩たる濁世の佳公子なり)」を踏まえています。

とすると当然、『史記』本文のこの直後に続く、
「然未睹大体(然れども未だ大体を睹ず)」を言外に含んでいるはずです。
曹植は決して、太子の軽快さを褒めているばかりではない。
ものごとの大局を見渡す目がない、と批判していることになるのです。

そして、最後の句の「機巧」がまたわかりにくい。

この語は、一般に器械などの精妙な仕掛けをいいますが、
人の属性に対しては、狡猾というニュアンスで用いられる場合が多いようです。
(詳しくは、いずれ公開していく曹植作品訳注稿をご覧ください。)

ただ、いずれの意味で取るにしても、「忽若神」との整合性に疑問が残ります。
意識を張り巡らし、きっちりと計算する感のある「機巧」と、
ふわりふわりとした様子をいう「忽若神」とがしっくりこないのです。

民国の学者、古直の『曹子建詩箋』は、
『三国志』文帝紀や、曹丕『典論』自序などに拠り、
騎射、撃剣、弾棊などの諸芸に巧みであることを指すか、と推測しています。
古直も「機巧」という語に釈然としないものを感じたのかもしれません。
(前掲の通釈は、いちおう古直の語釈に拠っています。)

魏文帝として即位した頃の曹丕に対しては、
曹植はわりあいはっきりと批判の意を表している、と読み取れる場合があります。
たとえばこちらの第一章をご覧ください。)

それが、曹丕の太子時代にまで遡れるということでしょうか。
それとも、すべては私の思い込みでしょうか。
いずれまた、自分の中で解釈が変わるかもしれませんが、
上記のとおり、現時点での考えを残しておきます。

それではまた。

2019年7月17日

 

最初の言葉がもつ欠落

昨日、曹植のことを伝えていきたい、といった趣旨のことを書きました。

これ、訂正します。
人に伝える前に、まず自分が曹植のことを知らないと。
書いたあとで、このことに思い至りました。
ですが、その時そう思ったことはたしかなので、書き直しはしません。

なぜ、伝えるなどと書いたのかといえば、
それは、いずれ曹植の詩文をだれも読まなくなるのではないか、と感じたから。
この危機感、大仰ではありますが、ずっと底を流れているものです。
(中国古典文学、特に古い時代の詩文を研究する人は減少傾向にあります。)

この危機感が現実のものとならないように、まず自分がやらないと。
だから、私は私で曹植の作品を読んでいくことにします。
そうしているうちに仲間もできるかもしれない。

それはさておき。

言葉にしてみて始めて、その思考の不備に気付くということがあります。
最初に発する言葉は、たいてい不安定で、いつも何かが足りない、
そして、その欠落を補うようにして、次の言葉が出てくる。
最初の言葉さえ決まれば、それがきれいな欠落を有してさえいれば、
あとは自然に転がっていくように感じています。

もちろん、その前には、たくさん読んで、調べます。
そのうち、核をもったイメージが現れてきて、それからやっと書き出すのです。
論文の書き方には、研究者それぞれに流儀というものがあるのだろうと想像しますが、
私の場合はこんな感じ。あらかじめ構成立てるということはしません。

それではまた。

2019年7月16日

 

 

 

来し方を悔いる人

曹植(192―232)は、その死後「思」という諡(おくりな)が与えられました。
その意味は、「前の過ちを追悔す」だといいます。
(『資治通鑑』魏紀・明帝太和六年十一月の胡三省注に引く『諡法』による)*

諡ですから、周囲の人々が彼にふさわしい称号として贈ったものです。
景初中(237―239)の詔に、
「陳思王は、その昔過失があったとはいえ、
 十分に克己して行いを慎み、先の欠落を補った」と再評価されています。
(『三国志』巻19「陳思王植伝」)
曹植の生涯を見渡せる私たちからすれば、ずいぶん失礼な再評価ですね。

では、曹植自身は、その前半生をどう思っていたのでしょうか。

曹操が亡くなって約1年後、兄曹丕が後漢王朝の禅譲を受けたとき、
後漢の献帝が崩御したと勘違いして哭した蘇則とともに、
曹植は、父の思いを損なった自らの不甲斐なさに激して慟哭したといいます。
それがまた文帝曹丕の不興を買うのですが。
(『三国志』巻16「蘇則伝」裴松之注に引く『魏略』)

その作品から窺える、曹操が存命中の曹植は、
関わりのある文人たちを、友人として手厚く遇する愛情深い人物です。

他方、歴史書に記された事跡(特に若い頃の)を見ると、やはり失態が目に付く。

といって、曹植を責めているのではさらさらありません。
不用意な言葉で人を傷つけたりして、間違いの多い人生を歩んできた自分は、
曹植に対してひそやかな親しみを感じます。
もちろん、一方的な思い込みかもしれません(たぶんそうでしょう)。
でも、この人のことをきちんと伝えていきたいというモチベーションにはなります。

それではまた。

2019年7月15日

*伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)の「解説」に導かれて知り得たものです。

結界としての社会規範

曹操を取り巻く知識人たちは、決して一様ではありません。

昨日述べた孔融のように、その言動が曹操の逆鱗に触れて殺された者、
荀彧のように、早くに袁紹の無能さを見切って曹操のもとへやってきた名参謀、
邴原のように、曹操に対して一定の距離を保ちつつ、その息子たちの指導を任された者、
何夔のように、曹操の求めに応じて助言はするけれども、
死んでも辱めを受けるまいと、常に懐に毒薬をしのばせていた者もいます。

孔融は、極めてラディカルな儒家思想の持ち主でした。*
他の知識人たちも、その思想的な根幹においては同質であったでしょう。

では、何が生死を分けたのか。

それは、月並みながら、儒家的な社会規範という結界の有無だと思います。
孔融はあまりにもラディカル過ぎた、
本心がむき出しであったということではないかと思うのです。

そういえば、岡村繁先生は型を重んずる方でした。
型さえきちんとしていれば、その中にいる限り自由なのだ、と。
型どおりが過ぎると慇懃無礼なのではありませんかと不躾にも問えば、
いや、わかる人にはわかるんや、とおっしゃっていた。
そして、当の先生は孔融の思いを深いところで受け止めていらっしゃいました。

今にして、先生のおっしゃったことが実感としてわかります。

それではまた。

2019年7月12日

*岡村繁「父の子に於ける、実は情欲の為に発せしのみ」(『小尾博士古稀記念中国学論集』汲古書院、1983年)を参照。

権力者と知識人

昨日、目を止めた建安13年(208)、
孔融が曹操のために市場で殺されるという出来事が起こりました。
(孔融は、孔子二十世の孫で、建安七子の一人に数えられる知識人です。)
孫権からの使者に対して、曹操を誹謗中傷する発言をしたというのがその理由です。
(『三国志』巻12「崔琰伝」裴注引『魏氏春秋』)

孔融は、建安2年(197)、曹操に殺されかけた大尉の楊彪を弁護し、
(皇帝を僭称した袁術と婚姻関係を結んでいるというのが楊彪の罪状です。)
曹操も、知識人社会の世論を意識して、その説得に従いました。
(同巻12「崔琰伝」裴注引『続漢書』)

ただ、ここへきて曹操は、
積もりに積もった孔融への怒りが抑えきれなくなったのでしょうか。

たとえば、建安元年(196)、司空となった曹操に対して、
孔融はことさらに昔と同じ態度をとり、書簡も非常に高慢な書きぶりでした。
(同巻11「王脩伝」裴注引『魏略』)

また、曹操が禁酒法を制定した時も、孔融は書簡を送って嘲笑しましたし、
(同巻12「崔琰伝」裴注引張璠『漢紀』)

建安7年(202)、袁紹を破った曹操に宛てた書簡でも、
孔融はまことしやかな嘘を書いて、ことさらに曹操を愚弄しています。
(同巻12「崔琰伝」裴注引『魏氏春秋』)

卑しい出自の権力者に対する清流人士の抵抗、といえば聞こえはいいのですが、
実態はそんなに単純なものではなかったように思います。

孔融と旧交のある知識人、たとえば脂習や邴原は、
孔融の言動に対して、決して肯定的な評価はしていませんでした。
脂習は、孔融の傲慢さをたしなめていますし(前掲『魏略』)、
邴原は孔融の推挙を辞退しています(巻11「邴原伝」裴注引『邴原別伝』)。

かといって、
孔融を批判した彼らが曹操寄りかといえば、それも違います。
知識人たちは、儒家的な規範を盾に、曹操という権力者と対等に渡り合い、
曹操もまたそれを容認、というよりもそれに従わざるを得なかったというのが実態のようです。

(もしよろしければ、こちらの、特に後半をご覧ください。)

修訂作業を進めている「曹操の事跡と人間関係」は、
やっと建安13年まで来ました。
時に曹操は54歳、まだまだこれからです。

それではまた。

2019年7月11日

1 75 76 77 78 79 80 81 82