絶望に発する豹変か?

後漢末から魏晋にかけての名族に、荀氏一族があります。

曹操の名参謀として尽力した荀彧や、
荀彧の推薦を受けて曹操に仕えることとなった荀攸はその代表的人物たちでしょう。

ところが、魏王朝が西晋王朝に取って代わられると、
それまで幾重にも結び合わされていた魏王室との姻戚関係を断ち切って、
一族の荀勗や、荀顗(荀彧の子)は、露骨なまでに新しい政権にすり寄っていきます。*

たしかに、荀彧は、曹操に自殺を迫られたようなものですし、
その長男の荀惲は、曹植と親しかったため文帝曹丕から冷遇されたといいます。
(『三国志』巻10・荀彧伝)。

そのようなことがあったのだから、
荀氏一族が魏王朝に対して恨みを持ったであろうことは容易に想像できるし、
逆に、西晋王朝との距離を縮めていったのは当然だとも思えます。

貴族というものは、かくも王朝に対して醒めた距離を取るものなのでしょう。
しかし、それにしてもすごい豹変ぶりだなと思っていたところ、
次のような内容の資料が目に留まりました。

西晋の武帝(司馬炎)に、司徒の欠員補充について相談された荀勗は、
「三公は皆が仰ぎ見る人物を任用すべきである。
 昔、魏の文帝(曹丕)が賈詡を三公にしたとき、孫権はこれを笑った」と言った。
(『三国志』巻10・賈詡伝の裴松之注に引く『荀勗別伝』)

曹丕が文帝として即位するや賈詡を高位に抜擢したのは、
賈詡が自分を太子として推してくれたことを知っていたからだといいます。
(同賈詡伝裴松之注に引く『魏略』)

曹丕の人事は、おしなべてこのように“私”的なものでしたが、
それを嘲笑した孫権の言葉を荀勗はしかと記憶していて、それを司馬炎に伝えたのです。

もしかしたら荀勗は、単なる私怨から曹魏に背を向けたのではないかもしれない、
その王朝草創期からすでに腐っていた曹魏に心底絶望していたが故に、
新興の司馬晋にさっさと乗り換えたということなのかもしれない、とふと妄想しました。

それではまた。

2019年8月1日

*丹羽兌子「魏晋時代の名族―荀氏の人々について―」(中国中世史研究会編『中国中世史研究―六朝隋唐の社会と文化―』東海大学出版会、1970年)を参照。

 

先人たちと共に

一昨日話題に挙げた、曹植の「元会」詩にいう「清酤盈爵、中坐騰光」。

曹植がもし『楚辞』招魂を意識しているとするならば、
宴席に集った人々の、ほろ酔い気分で紅色に染まった頬が内側から輝くさまを、
美女のまなざしが放つ輝きに重ねていることになる、とは先にも述べたとおりです。

言葉の組み合わせ方が意外で、斬新な表現だと感じます。
ところが一方、この句に続いて、曹植は先行作品をまるごと用いてもいます。

珍膳雑遝  珍しいご馳走が多彩に盛られ、
充溢円方  丸い皿、四角い器にあふれんばかりだ。

これは、後漢の張衡「南都賦」(『文選』巻四)にいう、

珍羞琅玕  珍しいご馳走は玉のように麗しく、
充溢円方  丸い皿、四角い器にあふれんばかりだ。

を踏まえていること、疑いを納れません。ほとんど同じですね。

そして、張衡のこの表現は、
曹植と関わりが深かった王粲の「公讌詩」(『文選』巻二十)にいう、
「嘉肴充円方(嘉肴は円方に充つ)」に用いられています。

実は、上記のことを、黄節『曹子建詩註』は指摘していません。
思わずガッツポーズを取ったのですが、

伊藤正文「曹植詩補注稿(詩之一)」(『神戸大学文学部紀要』8、1980年)、
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)が、既にこのことを指摘していました。

やっぱり先人たちの仕事はすごいです。
そして、このような分野を専攻してよかった、と思うのです。
(すんでのところで天狗にならずにすみますから。)
“私が”ではなくて、先人とともに曹植の文学に迫っていくのだという、
不思議に静かで満ち足りた、それでいて渇望と情熱とが入り混じった気持ちです。

それではまた。

2019年7月31日

 

自分を語るのではなく

来週のオープンキャンパスに向けて、教員紹介パネルの原稿を作成しました。

国際文化学部・国際文化学科から、
人間文化学部・国際文化学科(もうひとつの学科は健康科学科)へ、
さらに来年からは、地域創生学部・地域創生学科・地域文化コース(文化継承)です。

私が本学の前身である広島女子大学に赴任したときは、
まだ文学部が上級学年に残っていました。

この一連の推移は、日本全国、どこの大学にも見られる現象でしょう。
ウェブ上に記されたものは消えないそうなので、敢えて書き残しておきます。

それにしても、自己紹介の文章を書きながら、
自分はそれでも古典文学研究者として生きようとしているのだと、
ちょっと驚きました。

問わず語りに書いていたら絶対に出てこない言葉が、自分の手から出てくる、
だからといって、パネルを見る人を過剰に意識しているわけでもない、
不思議な言語体験でした。

ウェブ上に書くことも、これと少し似ているかもしれません。
“自分”という意識はかえって希薄になります。
そういえば、論文もそうです。だから恥ずかしさはない。

それではまた。

2019年7月30日

語注という作品解釈

前期の授業もやっと最終週です。
様々な仕事が重なって、曹植作品を読む時間が取りづらい日々ですが、
一旦途切れてしまうと再開にエネルギーが必要になるので、
何もしないよりはまし、
ということで、今朝もひとつだけノートに語釈を書き付けました。

それはさておき。

語釈に際しては、黄節の『曹子建詩註』にいつも多くのことを教えられます。
ですが、それのみに依拠するのは危うい、ということに本日改めて気付かされました。

元旦の宴席風景を描写した「元会」詩の次の句、

清酤盈爵  清らかな一夜造りの酒が杯を満たし、
中坐騰光  一座の人々は輝きを発する。

この中の「騰光」という語に対して、黄節は、
『楚辞』招魂にいう「蛾眉曼睩、目騰光些」を踏まえる可能性を指摘します。

『楚辞』における「騰光」とは、
細長い弓なりの眉のもと、うるんだ瞳で流し目をする、そんな美女の目が放つ光輝です。
そうした言葉を、曹植は宴席の高揚した雰囲気を描写するのに用いている、
と黄節は指摘しているのです。

この語釈を見たときは、思わず膝を打ちました。
曹植の他の詩でも、同質の事例があったことを思い出したからです。

ですが、『佩文韻府』などで用例に当たってみたところ、
「騰光」は、『楚辞』を経由せずとも、わりと普通に用いられている言葉のようでした。
振り出しに戻って考え直さないと。

語釈は、必ずしもすべてが、誰の目から見ても的確というものばかりでもなくて、
注釈の有り様には、その人ならではの読みが顕れる、
だから、先人の注を妄信するのではなく、先輩注釈者と対話しながら作品を読んでいく、
そのような付き合い方をすればよいのだな、と思ったことです。

それではまた。

2019年7月29日

 

 

まだ先が見えていないと仮定して

先に触れたこともある曹植の「贈丁儀」は、
もし私の推定が妥当であるならば、非常に怖ろしい詩です。

かつて、曹操の跡継ぎとして曹植を強く推した丁儀。
220年、曹操の死後、魏王となった曹丕は、その年の秋、彼を処刑します。
(秋は処刑の季節です。)

そのまもなく殺されることになる丁儀に対して、曹植は、

子其寧爾心    君よ、どうかその心持を安らかに保ってくれ。
親交義不薄    私たちの親交は、薄からぬ情義で結ばれているのだから。

などと悠長なことを言っているばかりか、
その上文では、口を極めて為政者批判をしているのですから。

その為政者とは、兄の曹丕を指します。
丁儀の命は曹丕の手の内に握られているというのに、その曹丕を批判している。
しかも、兄の曹丕と自分とは、薄からざる「義」で結ばれている、
(「親交」は、『荘子』山木篇を踏まえ、肉親どうしの情誼を言います。)
だから大丈夫だ、などと言っているわけです。

曹植は当時、すでに鄄城に封ぜられ、その地にありましたから、
丁儀の置かれた過酷な境遇を、リアルに感じ取れなかったのかもしれません。
情報が遮断されていた可能性もある。

ですが、それにしても、曹植の言葉はあまりにも現実から遊離しています。

そんなわけで、自分の解釈に自ら疑念を持っていたのですが、
本日の授業でじっくりと読み返し、やはりこう見るしかないと判断しました。

当時の曹植は、兄の底知れぬ不安とそこから生じる酷薄さに気付いていなかったのかもしれません。
曹彰(丕の弟、植の兄)も、特別扱いで封国への赴任は免除されると期待していたといいます。
(『三国志』巻十九・任城王彰伝の裴松之注に引く『魏略』)

その人には、まだ自身のその後の人生が見えていない、
ところが、私たちはその人の生涯がいちおう見渡せる地点に立っている。
そうしたことを念頭において、その人の、その時々の作品を読む必要があると思いました。

それではまた。

2019年7月26日

 

 

人は自然に学を好むのか?

人は自然に知的探究心を持つ生き物でしょうか。

そういう人もたしかにいると思います。
でも、そうではない人が大部分を占めているのが現実かもしれない。

「国語」でも習う『荀子』勧学篇は、人間が生来持つ惰弱さと可塑性を前提としています。
魏の嵆康(224―263)には、張邈の「自然好学論」に反駁した「難自然好学論」という作品があります。

このようなことを思い起こしたのは、
本日、一年生の自由研究の発表会で次のような発言を聞いたからです。

先輩たちにアンケートを取って、授業の選択理由を聞いたところ、
1番目には、自分が興味のあるものを選択する、
2番目には、単位が取りやすいものを選択する、という結果だった、と。

このうち、1番目の選択理由は、一見とてもよさそうです。
ですが、私にはここに大きな落とし穴があるように思えて仕方がありません。
というのは、
個々人によって「興味のある」の意味する範囲が違うから。
大部分の学生は、現時点において「興味のある」科目を選ぶでしょう。
すると、今の自分には興味がもてない、咀嚼できないものは避けられてしまいます。
それが価値のないものだと言えるか、そこに大きな疑問を感じるのです。
(もちろん、今はわからないけれど何か面白そう、と選択する学生もいるはずですが。)

親しみやすく、わかりやすいものばかりがよしとされることに納得がいかない、
歯ごたえのあるものの中に、いつかその人を支える滋養となり得るものも含まれているのではないか、
そう思えてなりません。

これは、必ずしも自分の専攻する古典の凋落を嘆いているのではありません。
学生たちの自由選択を最大限に重視した結果、
継承すべきものが凋落していく流れを長年見てきたという背景からです。

他方、年齢を重ねてからも学べる環境ができればいい、とも言えるかもしれない。
実利には関わらない純粋な学問は、いつだって始められるはずです。

それではまた。

2019年7月25日

小舟に乗ってバランスをとる

昨日述べた、宮廷歌曲の大衆化、やっぱりこれは言い過ぎです。
魏晋の時代の民間の歌謡を概観すれば、それはすぐに分かることです。
「薤露」のような五言の句型を取るものが、そこにはほとんど認められません。

前漢以来、宮中で歌われてきた「薤露」が、
(後漢に入ると、外戚などの催す宴席にも波及するのですが、それはひとまずおいて)
魏の時代、曹操の歌辞によって特別な意味を帯びることとなった、
それが、西晋王朝に移行すると、一介の文人が替え歌を作るまでに一般化した。
こういうことだろうという見通しです。
実態から乖離した“強い”言葉は、よろしくないですね。

さて、今日、学科内のFD(教え方の勉強会)で、
ICTを効果的に用いた授業を展開されている同僚の方々のお話を聞きました。
様々な分野の専門家がいるので、こうしたお話が聞けるのです。

これは自分も取り入れたいし、また取り入れることが有効だと思うものあり、
また、古典文学の教育にはあまりなじまないかと思うものあり。
当たり前のことですが、取捨選択が必要だと思いました。

自分が教員となってこのかた30年あまり、
特にコンピュータやネット環境の方面で次々に新しいことが起こりました。
道具を使いこなすことだけで終わってしまうのは論外ですが、
新しい道具すべてに背を向けるのではなくて、
時代の流れに沿いながら、でないと、本当に継承すべき大切なものも守れない。
バランスを取るのが難しく、また面白いとも感じます(元気なときは)。

それにしても、専門以外のことをなんとたくさん身につけなくてはならないことか。

それではまた。

2019年7月24日

 

宮廷歌曲の大衆化か?

魏王朝で演奏された宮廷歌曲群「相和」の中に、
武帝曹操の歌辞「薤露」があります。

これは、前漢以来、宮中で歌い継がれてきたと推定される歌曲「薤露」に、
魏の武帝、曹操が新たに歌辞を付けて歌わせたものです。

「薤露」はもともと「蒿里」とあわせて一曲で、
前漢王朝の草創期、自殺を余儀なくされた田横という人物を悼んで、
彼の門人が歌ったのがその初めだと言い伝えられています。
それが、前漢武帝期に二つに分割され、
「薤露」は王公貴人の葬送歌、「蒿里」は士大夫・庶人の葬送歌となりました。

曹操による歌辞も、こうした歴史的経緯を踏まえ、
「薤露」は漢王室を、「蒿里」は漢末の群雄を追悼するものです。
すると、この二曲は魏王朝にとって非常に重要な意味をもつものだったでしょう。
(以上については、著書4のp.326―328、学術論文19をご参照いただければ幸いです。)

ところが、続く西晋時代の傅玄(217―278)に、
曹操(155―220)の「薤露」に基づく「惟漢行」という楽府詩があります。
(この楽府題は、「惟漢二十二世」という句に始まる曹操の「薤露」を踏まえたものであることを示しています。)

そして、傅玄の「惟漢行」は、項羽と劉邦の「鴻門の会」を題材としており、
(「鴻門の会」は、当時の宴席で楽しまれていた出し物のひとつであったと推定できます。)
内容として、曹操の「薤露」を踏襲する挽歌ではありません。

こうしたことから、次のような推論が可能だと私は考えます。

まず、西晋当時、まだ「相和・薤露」のメロディは生きていたということ。
だからこそ、傅玄は替え歌を作ることができたと判断されます。

更に、魏王朝の滅亡とともに、宮廷歌曲「薤露」の威光も失われたということ。
そうでなければ、先述のような内容の替え歌が許されるはずもないし、
そもそも一介の文人が気楽に替え歌を作るということも不可能でしょう。
(以上のことは、口頭発表17の一部で拙く述べましたが、文章化はこれからです。)

昨日話題にした『楽府詩集』には、
なるほど「薤露」「蒿里」は、ともに魏楽所奏と記されています。
他方、それ以外の「相和」歌辞には、魏晋楽所奏とされているものも少なくありません。
この違いは何に拠るのか、相変わらず謎のままです。

それではまた。

2019年7月23日

 

不明であることは明らか

現在、修訂作業を進めている漢魏晋楽府詩一覧には、
北宋末頃に成った『楽府詩集』に記す、
「魏楽所奏」「魏晋楽所奏」「晋楽所奏」という付記も入れています。
(これは、その楽府詩が、魏や西晋王朝の宮廷音楽として演奏されたことを示すものです。)

『楽府詩集』は、時代的にかなり降ってから成った楽府詩の総集であって、
(以下、「ご利用ください」の「楽府関係年表」を合わせてご覧ください。)
こうした付記が、何を根拠としているのかは不明です。

このことを突き止めたいと思いながら、未だ果たせないでいます。

初唐の歴史家、呉兢の『楽府古題要解』に拠ったかとする説もありますが、
この書物が、呉兢の趣味的な興味関心に出るものであろうことは、
かつてこちらの論文(学術論文17)で明らかにしました。

『楽府詩集』に多く引く文献として、
ほかに、六朝末、陳の釈智匠が著した『古今楽録』があります。
この書は、西晋の「荀氏録」、劉宋の「元嘉正声技録」「大明三年宴楽技録」など、
魏晋音楽が現役であった、あるいは復元されて間もない時期の記録を多く引用していて、
むしろこちらの方が『楽府古題要解』よりも、上述の付記の根拠となり得る資料であったかもしれません。

ただ、仮に『楽府詩集』の編者、郭茂倩がしかるべき資料に拠っていたとしても、
その資料が完全な姿で現存していない以上、その信憑性は依然として不明のままです。

かつて上記の論文で、魏晋の楽府詩の分類に関しては、
『楽府詩集』よりも『宋書』楽志に拠るべきであることを明らかにしましたが、
その『宋書』楽志の記載内容からは魏楽所奏と判断される歌辞が、
『楽府詩集』では晋楽所奏となっている例もあります。
(一例を挙げれば、“楚辞鈔”及び曹操・曹丕の三者による「相和・陌上桑」の歌辞など)

このような具合で、土台から心もとない楽府詩研究ですが、
少なくとも、分かっていることと不分明の境界線は引いておきたいと思います。
魏晋楽府詩一覧は、そのための基礎資料くらいにはなるかもしれません。

作業は、後漢から西晋まで終了しました。
残りは、開始時には視野に入れていなかった、前漢時代の歌謡の追記です。

それではまた。

2019年7月22日

 

曹丕の肉声か?

曹丕の詩は、漢代の古詩や古楽府、建安の先輩詩人たちの表現を多くちりばめ、
そこに彼の肉声を聴いたと感じることは、私にはあまりありません。

そんななか、『文選』巻二十九所収「雑詩二首」其二にふと目が留まりました。

西北有浮雲 西北の空にぽっかりと浮んだ雲、
亭亭如車蓋   高いところに寄る辺なく浮かぶさまは車の傘のようだ。
惜哉時不遇   残念なことに、よき時運にめぐり合わず、
適与飄風会   たまたま巻き上がる疾風と出会ってしまった。
吹我東南行   疾風は私を吹き上げて東南に向かわせ、
行行至呉会   どんどんと進んでいって、呉会(呉や会稽の一帯)に至った。
呉会非我郷   呉会という土地は我が故郷ではない、
安能久留滞   どうして久しくここに留まることなどできようか。
棄置勿復陳   だが、辛さは心の外に捨て置いて、二度と泣き言を並べるのはやめよう。
客子常畏人   異邦人(自分)は常に他人を憚ってびくびくしている。

第一句は、『文選』巻二十九「古詩十九首」其五にいう「西北有高楼、上与浮雲斉」を思わせ、

第九句は、同上「古詩十九首」其一に「棄捐勿復道、努力加餐飯」とあるほか、
漢魏の詩歌にはよく見かける常套句です。

また、第七・八句は、近しい先輩詩人の王粲の「七哀詩」(『文選』巻二十三所収二首の其二)にいう
「荊蛮非我郷、何為久滞淫」を明らかに模倣しています。

こんな風に、曹丕のこの詩には、どこかで目にしたことがあるような辞句が並んでいます。

ところが、末尾の「客子 常に人を畏る」には、他に類似句が見当たりません。
(もっとも、現存する作品を見る限りではありますが。)
漢魏詩では、旅人はだいたい故郷を思うことになっているのに、
ここに詠じられているのは、見知らぬ人にびくびくとして萎縮している小心者です。

これはまったくの直感的な感想でしかないのですが、
曹丕という人物の持つ弱さが、ここに丸腰で現れているように感じました。

そして、ここから遡って上の方の句を見直してみると、
曹丕のそこはかとない物寂しさ、不安感がにじみ出ているようにも感じられます。

なお、この感想は、彼の事跡をひととおり見ているからこそ出たものであって、
作品そのものに立脚した分析から導き出された解釈ではありません。
したがって、もちろんこのままでは論にはなりません。

それではまた。

2019年7月19日

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