父と息子

曹操の息子、曹丕は、
父の没後、魏王を継承し、同年、後漢の禅譲を受けて魏の文帝となってから、
曹植ら、血肉を分けた弟たちを地方へ飛ばしてその言動を見張り、
兄弟間で連絡を取り合うことも禁じました。

曹植の「贈丁儀」詩(『文選』巻24)には、
権力を持って間もない頃の曹丕に対する、曹植の手厳しい批判が読み取れます。
よろしければこちらをご覧ください。論の妥当性は保留だと考えていますが。)

曹丕はたしかにダメな為政者だと言うほかありません。
自分をひいきしてくれる人は重んじ、諌めてくれる人は疎んじ、
脅威に感じる人物は徹底的に抹殺しようとする、臆病で、弱い為政者です。

ですが、先日、授業をきっかけに彼の足跡をたどりなおし、
曹丕がこうなったのには、それなりの理由があると思うようになりました。

それは、父曹操との関係です。

たとえば、
建安13年、司徒の趙温が曹丕(時に22歳)を召しだしたところ、
曹操は、「選挙、もとより実を以てせず」といい、趙温を免官にしています。
(『三国志』巻2「文帝紀」裴松之注に引く『献帝起居注』)
曹丕は推挙には値しない人間だ、趙温は自分におもねった、というわけですね。
(『魏書』は現王朝に遠慮して「茂才に挙げらるるも行かず」としています。)

同じ年、ずば抜けた才能を持っていた曹沖が13歳で夭折。
曹丕は、愛息子を失って悲嘆にくれる父曹操をなぐさめますが、
父に言われたのは、「これは私の不幸だが、お前たちにとっては幸いだ」です。
(『三国志』巻20「曹沖伝」)

また、曹沖を亡くした曹操は、
かつて曹沖のよき相手になると評価していた周不疑を殺そうとしますが、
これを諌めた曹丕に言ったのは、「彼はお前が使いこなせる相手ではない」です。
(『三国志』巻6「劉表伝」裴松之注に引く『零陵先賢伝』)

建安13年といえば、曹操が荊州の劉表を伐ち、赤壁の戦いで呉・蜀に敗れた年です。
曹操の曹丕に対する過酷な物言いは、こうした状況下であったからかもしれない。
ですが、ここまで冷酷に、父に無能呼ばわりされたらどうでしょう。

しかも、弟たちには、腕力にすぐれた曹彰や、
傑出した文才とざっくばらんな性格で父に愛された曹植がいます。

曹操は、今で言えば、辣腕経営者のような人物なのでしょう。
対して曹丕は、おそらく心根はやさしいのでしょうが、凡庸な人間です。

もし、曹氏父子がごく普通の庶民であったなら、
曹操もあそこまで曹丕を厳しく追い詰めることはなかったでしょう。
そして、曹丕にも弟たちを追い落とす必要が生じなかったのではないでしょうか。

それではまた。

2019年7月10日

 

 

 

 

魚豢という歴史家がいた。

昨日お話しした焦先という人物、
彼の存在に目を止め、その事跡を記したのは、魚豢という魏の歴史家です。

彼の著した『魏略』という歴史書は、
『三国志』に注した南朝宋の裴松之が最も多く引く文献ですが、
完本としては現存していません。

ですが、
裴松之注に引かれた断片を網羅的に見ていくと、
魚豢の編集姿勢には、同時代の他の歴史書にはない独特の傾向が見て取れます。

たとえば、各人物の社会的位置よりも、その生き方に着目する列伝の括り方。

官僚の贈収賄、学問界の弛緩、不公平な人材登用など、
当時の上層支配者階級に対する批判が随所に噴出していること。

その一方で、無名の人物が懸命に生きた証を積極的に後世に伝えようとする筆致。
(その饒舌さが、唐・劉知幾の『史通』で批判されているほどです。)

『魏略』は、魚豢の私撰の歴史書ですが、
当時の国史編纂者が目睹できた資料に基づいて執筆されたと推定されます。

そして、
国家事業として編纂が命じられた『魏書』とは異なって、
時の王朝にはおもねらない、事実を事実として書き残そうとする姿勢が顕著です。
(私撰であるがゆえ、無名であるがゆえに、それが可能だったのでしょう。)

魚豢という人物は、身分制社会が固定していく中国中世の入口に立って、
その環境に言い知れぬ息苦しさを感じながらも、
歴史書の著述を以て、自身の思想を生ききったのだと思います。

もしよろしければ、こちらをご覧ください
本稿を収載する『狩野直禎先生米寿記念三国志論集』(汲古書院、2016年)を、
手に取っていただければさらにありがたいです。

それではまた。

2019年7月9日

 

焦先という人がいた。

漢魏晋楽府詩一覧に、歌謡全般を追記していく作業の中で、
焦先という、なつかしい人物に再会しました。
(かつてこの論文(学術論文41)で言及したことがあるのです。)

魏が呉を討伐することについて人々に問われ、
敢えてそれには答えず、「謬歌」したというその歌辞は、

祝衂祝衂、非魚非肉。更相追逐、本心為当殺牂羊、更殺其羖䍽邪。
(『三国志』巻十一「管寧伝」裴松之注引『魏略』より)

このようによくわからないものです。
当時の人々も意味が取れず、あれこれと詮索したらしい。

後漢末の動乱の中で、家族を失い、
衣類も満足になく、かたつむりのような自作の家で暮らす彼は、
もし現代に生きていたら、福祉政策の対象とされていたかもしれません。

ですが、それとは異なる人間関係の中で、彼は生きていました。

旧知の人は、彼のことを、逃亡者ではない「狂痴の人」なのだと役人に説明した。
これによって彼は連行されることなく、戸籍が与えられ、
埋葬の仕事や落穂拾いなどをして生計を立て、八十九歳まで生きました。

周囲の人々は、焦先と自分たちとの間に線を引いたりせず、
集落の中に、彼の居場所を設けた。そればかりか、
彼の一見不可解な言動に、自分たちには計り知れぬ意味を見出そうとした。

前掲の『魏略』のほか、
皇甫謐の『高士伝』(『三国志』管寧伝裴注引)にも焦先への論及があります。

一見“普通”から浮きあがる人のことを隠者とみる当時の文化。
これは、社会はさまざまな人から成り立っていて、
それぞれに天から与えられた使命があると見る考えに基づくのでしょう。

同質な人々が集って、そこから少しでも外れる者は疎外される現代の日本社会。
そこに、大昔の中国を移植すれば、などとは毛頭思っていませんが、
それでも、古のことを知れば現代を相対化できる、
それは確かなことだと言えます。

なお、福祉政策が不要などと主張しているのでは全くありません。
言うまでもないことですが。

それではまた。

2019年7月8日

 

試行錯誤

先日、ふと思いついたことを記した『文選』所収の公讌詩ですが、
やっぱり、簡単に仮説どおりにはいきません。

王粲の詩だけ、詩に描かれた場面からして違いますし、
主人と仰いでいる対象は、やはり李善のいうように曹操と見るのが自然です。

ただ、劉楨の詩から、宴が日中から深夜にまで及んだことがうかがわれ、
このことに気づくことができたのは収穫でした。

この授業、交換留学生ひとりを相手に話をしています。
(専門分野が中国古典ではないのに、こんな話を聞いてもらって申し訳ない。)
とても熱心に聞いてくれるので、わからないことが次々と明るみに出てきます。
先行する注釈などにも、案外そのとおりでないものもありますね。

何にせよ、こうしてわきおこる疑問は考察への糸口。

それに、日常の中で感じるちょっとした苦痛はしばし忘れられます。
小人なので、放っておくと負のスパイラルに陥ってしまう。
やっぱり閑居していてはろくなことがないです。

それではまた。

2019年7月5日

 

過去の遺漏に気付く

昔の自分が気付いていなかったことに新たに気付く、
これは、忸怩たる思いが半分、あと半分は少しうれしい気持ちです。
一歩ずつでも前進しているということですから。

本日の授業(演習)で、過去の遺漏をひとつ見つけました。
(白居易と元稹との間で交わされた詩を読んでいます。)

白居易の「秋題牡丹叢」(『白氏文集』巻九、0415)の1・2句目、

晩叢白露夕  枯れかかった牡丹の群がりに白露の降りる夕べ、
衰葉涼風朝  衰えた葉に涼やかな秋風が吹きぬける朝。

に対して、語釈に次のことを示すべきでした。

『礼記』月令、孟秋の月(初秋)に、
「涼風至、白露降、寒蝉鳴(涼風 至り、白露 降り、寒蝉 鳴く)」と。

この古典を踏まえる表現が二句に渡っていて、
しかも一見ありふれた言葉のように見えるためでしょうか、
昔の自分は、上記のことを指摘できていませんでした(著書3)。
ここに修正し、次の機会があれば改めたく思います。

それはさておき。

こういうとき、私は中国古典文学をやっていてよかったと思います。
普通、すでに終わった人だと思われかねない年齢も、
この世界ではまだばりばりの現役です。
そして、小さな先入観を越えるものに出会って自分を刷新する、
そうした学びが、その気持ちさえあれば、ずっと継続できるのですから。

学ぶは、まねぶ、というスタンスの古典学は、
いわば自分が世界を分析する、今風の学修とは異質です。
ですが、一旦自己を忘れ、まねぶことによって、古人の生を生きなおす、
それによって気付かされることの面白さ、うれしさは格別です。

食わず嫌いで敬遠するのは、とても惜しいことをしていると思いますよ。

それではまた。

2019年7月4日

 

魏王朝の宮廷歌曲と民間の歌謡

魏王朝で演奏された宮廷音楽に、
「相和」十七曲(後に十三曲に編成)があります。
また、魏の人々は、後に「清商三調」と呼ばれる歌辞も多作しました。
(両者の違いについては、こちらの№17・19をご覧いただければ幸いです。)

これらの歌曲が、続く西晋時代にどのような位置を占めるようになるのか、
そのことを考察するため、先年、漢魏晋楽府詩一覧を作成しました。
(この作業から得たことは、こちらの№17の成果の一部となっています。)

この一覧は、修訂して公開する予定です。
ところが、すぐに終わるかと思われたこの修訂作業、
ここへきて、その見通しが甘かったことを痛感させられています。

というのは、魏の文人たちが手がけたのは、
「相和」はもとより、「清商三調」のみに限らないことに思い至ったからです。

そうすると、先行する漢代の歌謡を広く見渡す必要が出てきます。

そのようなわけで、今、
逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1983年)に導かれながら、
断片をも含めて一覧に記入する作業を行っています。

この作業では、逐一典拠に当たっての確認はしていません。
もっぱら逯欽立の仕事に依拠して記すのみです。
だからとても楽なのです。
翻って、逯欽立の仕事ぶりのすごさに打ちのめされます。
たいへんな量の断片を拾い上げ、それを出典とともに記していった先人の仕事。
頭を垂れて、感謝するばかりです。

……そうしてまた愕然とするのが、
ここに収載された歌辞が、当時歌われていたものの一部に過ぎないという事実です。

このことを念頭におき、
逯欽立の記す歌辞を縦覧する限り、
それは魏王朝で演奏された「相和」「清商三調」には似ていません。

魏の建安文壇に盛行した五言詩が民間から遊離したものであることは、
すでに先人が指摘しているとおりですが、*
楽府詩もまた同様であったということがよくわかります。

それではまた。

2019年7月3日

*岡村繁「五言詩の文学的定着の過程」(『九州中国学会報』17,1971年)を参照。

 

『文選』所収の公讌詩(宴のうた)

『文選』巻二十に、建安詩人たちの「公讌詩」が収められています。
収録された詩人とその作品は次のとおり。

曹植(字は子建)「公讌詩一首」
王粲(字は仲宣)「公讌詩一首」
劉楨(字は公幹)「公讌詩一首」
応瑒(字は徳璉)「侍五官中郎将建章台集詩一首」

この作品収載の順番について、
初唐の文選学者、李善は次のように注しています。

贈答・雑詩、子建在仲宣之後。而此在前。疑誤。

贈答詩(巻二十三・二十四)や雑詩(巻二十九)では、
曹植の作品は、王粲の後に置かれている(実際には更に劉楨よりも後)。
それなのに、ここでは王粲の前に曹植の詩が置かれている。
恐らくは、収載の順番を誤ったのではないか。

これに対して、私は次のように考えています。
もともと曹植詩から応瑒詩までまとまりを成していたものを、
『文選』がそのまとまりのまま採録して、この順になったのではないか、と。

この宴を主催しているのは曹丕(曹植の兄、後の魏の文帝)、
(李善は、王粲の詩が作られた場は曹操主催の公宴だと解釈していますが。)

その宴に侍る人々の筆頭は、立場上、曹植だった、
そして、その宴で競作された作品は、そうした立場の順に従って記された、
だから、その年齢に関わらず(曹植は王粲よりも15歳も若い)、
曹植の「公讌詩」が、王粲や劉楨よりも前にあるのではないか、という仮説です。

応瑒の作品だけは、題名が著しく異なっていますので、
別の視点から考えなくてはなりませんが、
その辞句から、曹植らと同じ機会に作られた可能性が高いように思います。

岩波文庫の『文選 詩篇(一)』(岩波書店、2018年1月)p.155に、

応瑒の詩までの四首は同じ状況における作とみなしうる。

とあります。そう判断された根拠を知りたい。
もしかしたら、すでに先人が指摘しているのかもしれません。

それではまた。

2019年7月2日

 

わかりやすくおもしろく?

ずっと授業で苦戦しています。

こちらとしては十分に意を尽したつもりでも、
よく理解できないと感じる学生が少なからずいるようです。

これ以上因数分解できないほどに砕いても、
相手にちゃんと伝わらない、ということは厳然としてあります。

それは、説明の仕方云々の問題ではなく、
相手にそれを受けとめる準備ができていないということでしょう。

そのことに落胆することが近年ますます増えてきました。
そして、卒論で中国古典を選ぶ人は奇特な人となりました(今年はゼロ)。

振り返ってみれば、もう二十年以上も前からその傾向はありました。

とはいえ、まだ若くて元気だったためか、
わかりやすいこととおもしろいこととは別だ」と言ったりもしている。
ほとんど世間にケンカを売っているようなものです。
この前のめりがよろしくないのでしょうね。

そうはいっても、自分で本当に面白いと思えなければ、
やっぱり“わかりやすくおもしろく”講義することはできないし。

憮然(しょんぼり)とする日々です。

それではまた。

2019年7月1日

 

 

 

伏流する物語

文献に記されたことは氷山の一角である、ということについて。

漢代の墓壁を飾る画像石
そこにわりとよく描かれている題材のひとつに、
大人(孔子)が小さな子どもに向き合っている図があります。
子どもは小さな車輪のついたおもちゃを手にしていて、
その類型的な図像からすぐにそれとわかります。

この子どもは、項橐(託とも表記される)だとされています。
ところが、彼の事跡を古代の文献上に確認することはかなり難しい。

たとえば『戦国策』秦策五に、
「そもそも項槖は七歳にして孔子の師となった」とありますが、
それは甘羅という人物が相手を説得するために引き合いに出しただけであって、
項槖と孔子との故事そのものを記すのではありません。

ところが、時代を唐代まで下ってみると、
敦煌変文(敦煌から発掘された絵解き物語)に、
二人の様々な問答を会話体で記す「孔子項託相問書」があります。

では、これらの小話は、唐代になって始めて作られたものなのでしょうか。
おそらくはそうではないだろうと思います。

先行研究*に列挙された項橐に言及する文献は、
敦煌変文に記されているような問答を記述するものではありません。
ですが、そのことが即、この物語が存在しなかったことを意味するわけではない。
項橐と孔子との問答は、誰もが知る小話として広く流布していた、
その有名な話の主人公が、時に文献上に断片的に記されて今に伝わっている、
そういうことなのではないかと考えます。

それではまた。

2019年6月28日

*たとえば、張鴻勛「《孔子項託相問書》故事伝承研究」(『敦煌学輯刊:1985年敦煌吐魯番学術討論会論文専輯』1986年第1期)、劉長東「孔子項橐相問事考論―以敦煌漢文本《孔子項橐相問書》為中心」(『四川大学学報(哲学社会科学版)』総第125期、2003年第2期)。

 

空白がもつ意味

比較的長い期間にわたる文学史を考えるときも、
ある個人の文学作品に取り組むときも、
わたしはだいたいいつも年表を作ることにしています。

そして、その際、一年を一行と固定することにしています。なぜか。

時間の推移や濃淡が、
空間に変換されてくっきりと立ち現れてくるから。

たとえば、曹操の事跡をたどってみたとき

三十代半ばまでと、それ以降と、
まず年表上の文字の密度が違うことに目を奪われます。
それは、彼の後半生がとても忙しかったことを物語っているでしょう。

ですが、若い時期の曹操が何もしなかったはずはない。
年表の上部に目立つ空白は、
世の人々の目に触れる言動が少なかったことを意味するに過ぎません。
青年時代の曹操は、
混乱の度を深めていく世の趨勢を観察しながら、
自分なりに様々な考えをめぐらせていたのではないでしょうか。

そうしたことを、1年1行の年表は示唆してくれます。

起こった事柄だけを記していくと、
ずっと同じペースで出来事が生じていたかのように見えてしまいますね。

表立って現れていないものの存在を念頭において考えること。
それは、出土したものを復元する考古学の作業に似ているのかもしれません。

それではまた。

2019年6月27日

 

1 76 77 78 79 80 81 82