過去の遺漏に気付く

昔の自分が気付いていなかったことに新たに気付く、
これは、忸怩たる思いが半分、あと半分は少しうれしい気持ちです。
一歩ずつでも前進しているということですから。

本日の授業(演習)で、過去の遺漏をひとつ見つけました。
(白居易と元稹との間で交わされた詩を読んでいます。)

白居易の「秋題牡丹叢」(『白氏文集』巻九、0415)の1・2句目、

晩叢白露夕  枯れかかった牡丹の群がりに白露の降りる夕べ、
衰葉涼風朝  衰えた葉に涼やかな秋風が吹きぬける朝。

に対して、語釈に次のことを示すべきでした。

『礼記』月令、孟秋の月(初秋)に、
「涼風至、白露降、寒蝉鳴(涼風 至り、白露 降り、寒蝉 鳴く)」と。

この古典を踏まえる表現が二句に渡っていて、
しかも一見ありふれた言葉のように見えるためでしょうか、
昔の自分は、上記のことを指摘できていませんでした(著書3)。
ここに修正し、次の機会があれば改めたく思います。

それはさておき。

こういうとき、私は中国古典文学をやっていてよかったと思います。
普通、すでに終わった人だと思われかねない年齢も、
この世界ではまだばりばりの現役です。
そして、小さな先入観を越えるものに出会って自分を刷新する、
そうした学びが、その気持ちさえあれば、ずっと継続できるのですから。

学ぶは、まねぶ、というスタンスの古典学は、
いわば自分が世界を分析する、今風の学修とは異質です。
ですが、一旦自己を忘れ、まねぶことによって、古人の生を生きなおす、
それによって気付かされることの面白さ、うれしさは格別です。

食わず嫌いで敬遠するのは、とても惜しいことをしていると思いますよ。

それではまた。

2019年7月4日

 

魏王朝の宮廷歌曲と民間の歌謡

魏王朝で演奏された宮廷音楽に、
「相和」十七曲(後に十三曲に編成)があります。
また、魏の人々は、後に「清商三調」と呼ばれる歌辞も多作しました。
(両者の違いについては、こちらの№17・19をご覧いただければ幸いです。)

これらの歌曲が、続く西晋時代にどのような位置を占めるようになるのか、
そのことを考察するため、先年、漢魏晋楽府詩一覧を作成しました。
(この作業から得たことは、こちらの№17の成果の一部となっています。)

この一覧は、修訂して公開する予定です。
ところが、すぐに終わるかと思われたこの修訂作業、
ここへきて、その見通しが甘かったことを痛感させられています。

というのは、魏の文人たちが手がけたのは、
「相和」はもとより、「清商三調」のみに限らないことに思い至ったからです。

そうすると、先行する漢代の歌謡を広く見渡す必要が出てきます。

そのようなわけで、今、
逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1983年)に導かれながら、
断片をも含めて一覧に記入する作業を行っています。

この作業では、逐一典拠に当たっての確認はしていません。
もっぱら逯欽立の仕事に依拠して記すのみです。
だからとても楽なのです。
翻って、逯欽立の仕事ぶりのすごさに打ちのめされます。
たいへんな量の断片を拾い上げ、それを出典とともに記していった先人の仕事。
頭を垂れて、感謝するばかりです。

……そうしてまた愕然とするのが、
ここに収載された歌辞が、当時歌われていたものの一部に過ぎないという事実です。

このことを念頭におき、
逯欽立の記す歌辞を縦覧する限り、
それは魏王朝で演奏された「相和」「清商三調」には似ていません。

魏の建安文壇に盛行した五言詩が民間から遊離したものであることは、
すでに先人が指摘しているとおりですが、*
楽府詩もまた同様であったということがよくわかります。

それではまた。

2019年7月3日

*岡村繁「五言詩の文学的定着の過程」(『九州中国学会報』17,1971年)を参照。

 

『文選』所収の公讌詩(宴のうた)

『文選』巻二十に、建安詩人たちの「公讌詩」が収められています。
収録された詩人とその作品は次のとおり。

曹植(字は子建)「公讌詩一首」
王粲(字は仲宣)「公讌詩一首」
劉楨(字は公幹)「公讌詩一首」
応瑒(字は徳璉)「侍五官中郎将建章台集詩一首」

この作品収載の順番について、
初唐の文選学者、李善は次のように注しています。

贈答・雑詩、子建在仲宣之後。而此在前。疑誤。

贈答詩(巻二十三・二十四)や雑詩(巻二十九)では、
曹植の作品は、王粲の後に置かれている(実際には更に劉楨よりも後)。
それなのに、ここでは王粲の前に曹植の詩が置かれている。
恐らくは、収載の順番を誤ったのではないか。

これに対して、私は次のように考えています。
もともと曹植詩から応瑒詩までまとまりを成していたものを、
『文選』がそのまとまりのまま採録して、この順になったのではないか、と。

この宴を主催しているのは曹丕(曹植の兄、後の魏の文帝)、
(李善は、王粲の詩が作られた場は曹操主催の公宴だと解釈していますが。)

その宴に侍る人々の筆頭は、立場上、曹植だった、
そして、その宴で競作された作品は、そうした立場の順に従って記された、
だから、その年齢に関わらず(曹植は王粲よりも15歳も若い)、
曹植の「公讌詩」が、王粲や劉楨よりも前にあるのではないか、という仮説です。

応瑒の作品だけは、題名が著しく異なっていますので、
別の視点から考えなくてはなりませんが、
その辞句から、曹植らと同じ機会に作られた可能性が高いように思います。

岩波文庫の『文選 詩篇(一)』(岩波書店、2018年1月)p.155に、

応瑒の詩までの四首は同じ状況における作とみなしうる。

とあります。そう判断された根拠を知りたい。
もしかしたら、すでに先人が指摘しているのかもしれません。

それではまた。

2019年7月2日

 

わかりやすくおもしろく?

ずっと授業で苦戦しています。

こちらとしては十分に意を尽したつもりでも、
よく理解できないと感じる学生が少なからずいるようです。

これ以上因数分解できないほどに砕いても、
相手にちゃんと伝わらない、ということは厳然としてあります。

それは、説明の仕方云々の問題ではなく、
相手にそれを受けとめる準備ができていないということでしょう。

そのことに落胆することが近年ますます増えてきました。
そして、卒論で中国古典を選ぶ人は奇特な人となりました(今年はゼロ)。

振り返ってみれば、もう二十年以上も前からその傾向はありました。

とはいえ、まだ若くて元気だったためか、
わかりやすいこととおもしろいこととは別だ」と言ったりもしている。
ほとんど世間にケンカを売っているようなものです。
この前のめりがよろしくないのでしょうね。

そうはいっても、自分で本当に面白いと思えなければ、
やっぱり“わかりやすくおもしろく”講義することはできないし。

憮然(しょんぼり)とする日々です。

それではまた。

2019年7月1日

 

 

 

伏流する物語

文献に記されたことは氷山の一角である、ということについて。

漢代の墓壁を飾る画像石
そこにわりとよく描かれている題材のひとつに、
大人(孔子)が小さな子どもに向き合っている図があります。
子どもは小さな車輪のついたおもちゃを手にしていて、
その類型的な図像からすぐにそれとわかります。

この子どもは、項橐(託とも表記される)だとされています。
ところが、彼の事跡を古代の文献上に確認することはかなり難しい。

たとえば『戦国策』秦策五に、
「そもそも項槖は七歳にして孔子の師となった」とありますが、
それは甘羅という人物が相手を説得するために引き合いに出しただけであって、
項槖と孔子との故事そのものを記すのではありません。

ところが、時代を唐代まで下ってみると、
敦煌変文(敦煌から発掘された絵解き物語)に、
二人の様々な問答を会話体で記す「孔子項託相問書」があります。

では、これらの小話は、唐代になって始めて作られたものなのでしょうか。
おそらくはそうではないだろうと思います。

先行研究*に列挙された項橐に言及する文献は、
敦煌変文に記されているような問答を記述するものではありません。
ですが、そのことが即、この物語が存在しなかったことを意味するわけではない。
項橐と孔子との問答は、誰もが知る小話として広く流布していた、
その有名な話の主人公が、時に文献上に断片的に記されて今に伝わっている、
そういうことなのではないかと考えます。

それではまた。

2019年6月28日

*たとえば、張鴻勛「《孔子項託相問書》故事伝承研究」(『敦煌学輯刊:1985年敦煌吐魯番学術討論会論文専輯』1986年第1期)、劉長東「孔子項橐相問事考論―以敦煌漢文本《孔子項橐相問書》為中心」(『四川大学学報(哲学社会科学版)』総第125期、2003年第2期)。

 

空白がもつ意味

比較的長い期間にわたる文学史を考えるときも、
ある個人の文学作品に取り組むときも、
わたしはだいたいいつも年表を作ることにしています。

そして、その際、一年を一行と固定することにしています。なぜか。

時間の推移や濃淡が、
空間に変換されてくっきりと立ち現れてくるから。

たとえば、曹操の事跡をたどってみたとき

三十代半ばまでと、それ以降と、
まず年表上の文字の密度が違うことに目を奪われます。
それは、彼の後半生がとても忙しかったことを物語っているでしょう。

ですが、若い時期の曹操が何もしなかったはずはない。
年表の上部に目立つ空白は、
世の人々の目に触れる言動が少なかったことを意味するに過ぎません。
青年時代の曹操は、
混乱の度を深めていく世の趨勢を観察しながら、
自分なりに様々な考えをめぐらせていたのではないでしょうか。

そうしたことを、1年1行の年表は示唆してくれます。

起こった事柄だけを記していくと、
ずっと同じペースで出来事が生じていたかのように見えてしまいますね。

表立って現れていないものの存在を念頭において考えること。
それは、出土したものを復元する考古学の作業に似ているのかもしれません。

それではまた。

2019年6月27日

 

不調なときも

このところずっと不調です。
不調なときは、自分のことをいなくていい存在だと思ってしまう。
もし仮にそんなことをいう者がいたとしても、それに自分が加担してどうする、
この世にあるものすべてに存在意義があるのだという持論はどうした、
と、がんばって思い直すことにしています。

不調なときも、できることを最低限、継続してやっていく。
今は、次のような作業を続けています。

第一に、[電子資料]の[曹操の事跡と人間関係]の修訂。
『三国志』の本文及び裴松之注に見える曹操関係の記事を網羅したもので、
今、約半分の確認を終えたところ。もうしばらくかかりそうです。

第二に、漢魏晋時代の楽府詩一覧の修訂。
これは近日中に作業を終え、[ご利用ください]で公開する予定です。

第三に、曹植作品訳注稿。
これは、これから数年間かけて行っていく最重要課題です。

訳注稿は、まずノートに手書きで調べたことを記していきます。
こうした勉強方法(敢えて「勉強」と言います)は、ほんとうにいいです。

その昔、恩師の岡村繁先生が、
目で見ただけではわからなかったものも、書けばわかってくる、
何か思いつく(気づく)のは、たいてい手を動かして書いているときだ、
ということをおっしゃっていましたが、私もそう実感します。

それではまた。

2019年6月26日

 

 

 

繰り返される言葉

昨日言及した「不患人之不己知、患己不知人也」ですが、
これととてもよく似た言葉が『論語』の憲問篇にも見えています。

不患人之不己知、患己無能也。

これを自分にひきつけて解釈するならば、
(『論語』くらいの古典になると、それが許されると思います)

人に理解されないことを嘆くひまがあるなら、
その分、自分に足りないものを自覚し、充実に努めよう、ですね。

孔子はこのようなことを繰り返し言っていたのでしょう。
だから弟子たちがそれをそれぞれに書き留めた。

同じ憲問篇には、

邦有道穀、邦無道穀、恥也。
(邦に道あれば穀す、邦に道無くして穀するは、恥なり)

とあって、この「邦有道……、邦無道……」というフレーズは他にも見えます。
孔子はよほどこのことを繰り返し考えたらしい。

孔子ほどの人にも、
何度もそこへ立ち返って思いに沈むテーマというものがあった。
そのことに私はかえって勇気づけられます。

くよくよ考える必要はないと言われれば、それはただのお悩みとなりますが、
(昨今はこのように言われることが多いように思います。)

憂いを全身で引き受けて考え抜くならば、それは思想に育つでしょう。

一個人の置かれた苦境の中にも、遠くの人に届く普遍性をそなえたテーマがある。
だからこそ、私もこうして孔子の言葉にすくわれているのだと思います。

それではまた。

2019年6月25日

 

理解されないと嘆くよりも、

私は『論語』の熱心な読者ではありませんが、
それでもその中に、とても好きないくつかの言葉があります。

不患人之不己知、患己不知人也。(学而篇)
人の己を知らざるを患(うれ)へず、己の人を知らざるを患へるなり。

人にわかってもらえないことは辛い。けれど、
では、自分は誰かのことを十分に理解していると言えるのか、
感じ取れなかったたくさんのことがあるのではないか。
そう省みると気持ちがしんとなります。

かなり前、投稿した拙論に対する査読コメントに、
次のようなことが記されていました。

この部分は、本論文にとって重要なことを述べているのだろうから、
もう少し丁寧に説明をしてもらえないか。

初めてたどりついた考察結果は、本人にもうまく説明できません。
それをカッコに入れて、外側からまるごと尊重してくださったのだと思います。

このような理解の仕方があるのだと、後になって深く心に刻みました。

こちらに受容体がないばっかりに理解できない、
そうした盲点がありうるということに、せめて自覚的でいたいです。

それではまた。

2019年6月24日

 

白居易の晩年

複雑すぎる現実に背を向けて、個人の幸福を追求する、
そんな生き方について昨日述べました。

それは、主に現代の私たちのことを述べたのですが、
唐代の白居易も、そんな生き方をした人だと想起されるでしょう。

たしかに一見、そのように思えます。
ですが、この詩人(文人官僚)にはもっと複雑な面があるように思います。

白居易はその晩年、
官僚としての第一線を退き、副都洛陽で悠々自適の日々を送ります。
ちょうどこの頃の作「想東遊五十韻」(『白氏文集』巻57、2717)(著書5)に、
次のような句があります。

良辰宜酩酊  すばらしいひとときはとことん酔っぱらうがよい。
卒歳好優遊  歳月はのんびりゆったり過ごすのにもってこいだ。

一見、世俗の煩わしさから解放されたよろこびを詠じているかのように見えます。
ですが、次の古典を踏まえていることに気づき、私は愕然としました。

『春秋左氏伝』襄公二十一年に、
「詩曰、優哉游哉、聊以卒歳、知也」とあり、
これに対する杜預の注に、
「『詩』小雅。言君子優游於衰世、所以辟害、卒其寿、是亦知也」とある。

白居易は決して天下泰平を言祝いでいるのではないのですね。
「卒歳好優遊」という表現の背後に、
「衰へたる世」において「害を辟(避)ける」知性を言っているのです。

『春秋左氏伝』は、知識人たちにとって必読の書でしたから、
白居易本人はもちろんのこと、それを読んだり朗誦したりした人々も、
みな上記のことはわかっていたはずです。
(詩歌にのせて詠えば、だれもそれをとがめることはできません。)

何人かの方々がすでに論及されているように、
白居易の晩年には、半隠遁的と片付けられないところがあります。

私自身も、以前に書いた論文(学術論文33報告…等18)について、
提示した事実は事実でも、その解釈は妥当だったのか、
まだ釈然としないものを感じています。

それではまた。

2019年6月21日

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