日々の雑記
中国古典学の分野には、
日々の読書の中で気付いたことなどを記す、
札記という記述様式があります。
(たとえば清朝の顧炎武『日知録』のように)
先学の方々が著された札記というものを、
自分もしてみたいと思いました。
が、私はそれほど頻繁に何かに気付くわけではありません。
では、あれこれ考察した内容なら、とも考えましたが、
終日ぼんやりしている日も少なくありません。
これからは毎日、孜々として励むのだ、
というような誓いを突発的に立てることの無益は、
これまでの経験からよくわかっています。
そのとき、ふと浮上してきたのが、
大好きな武田百合子の『日日雑記』*という書名です。
日々、心の目に映ずる様々なことを、
札記的なもの、考察の断片とともに書いていけば、
細々とでも長く続けていけるかもしれない、と思いました。
ただ、中身はまるで違うのです。
私には武田百合子のような文章はとても書けない、
書けないからこそ、ひたすら味わう、
そんなあこがれの文筆家から、書名の一部を拝借しました。
ありがとうございます。
それではまた。
2019年6月13日
*単行本(中央公論社、1992年)や文庫本(中公文庫、1997年)では『日日雑記』となっている書名ですが、その一部の初出雑誌(和光『チャイム銀座』1987年11月号~1988年4月号)では「日々雑記」であったことを、武田花編『あの頃 単行本未収録エッセイ集』(中央公論新社、2017年)で知りました。せめて「日日」を「日々」として、後塵を拝する恥ずかしさを回避しようとしたのでしたが。
個人の研究室
ようこそ。
「柳川順子の中国文学研究室」へ。
このサイト名を口にすると、軽くうろたえます。
自分の名前を強く意識することは普段ほとんどありませんから。
では、なぜこんな不慣れなことを始めたかといいますと、
まず、生涯、一人の研究者であり続けたいと思ったからです。
大学教育から離れても、研究活動は続けます。
それなら、人知れず個人として研究すればよいではないか、
という考え方もあるかもしれません。
ですが、それだと自分は閉塞感を覚えるだろうなと思いました。
個人としての研究活動ではあっても、
その活動はどこかのだれかに何らかのかたちで波及するかもしれない。
そういう思いを心の片隅に置いておくのと、そうでないのと、
姿勢に違いが生ずるのではないかと私は感じます。
研究活動は、社会的に意味のあることだと考えます。
それがすぐに実利を生まないにしても。
そのような活動を地道に続けていくために、
大学という職場を離れた、一個人の研究室が必要だと考えました。
すっきりとした、居心地のよさそうな研究室でしょう。
アプライドの佐藤様にお世話いただき、
アプリケイツの濱田様に作成していただきました。
今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。
2019年6月12日