「相和」歌辞制作という不遜

こんばんは。

昨日取り上げた曹植「惟漢行」について、
「相和」の歌辞を作ったということが不遜とされた可能性を指摘しました。
なぜそのように推測し得るのか、少し追記します。

「相和」は、別紙のとおり、魏の宮中で演奏された歌曲群です。
他方、魏晋の時代、「清商三調」と総称される歌曲群が別にありました。

「相和」と「清商三調」とは、北宋末の『楽府詩集』では相和歌辞と総称されていますが、
少なくとも魏晋当時においては、両者は明確に区別されていたと判断されます。

「相和」と「清商三調」との異質性として、
まず、「相和」諸歌曲は、歌辞と楽曲とが基本的に一対一で対応しますが、
「清商三調」は、一つの楽府題(楽曲)に対して複数の歌辞がある、
つまり、誰でもその替え歌を作ることができるようなものであったと思われます。
また、「相和」にはその来歴が非常に古いものが多いのに対して、
「清商三調」は相対的に新しく、古辞であっても遡って後漢時代あたりまでです。
更に、「古詩」との影響関係は、「清商三調」の方にのみ認められます。

総じて、「清商三調」は当時の游宴の場で作られた歌辞であり、
「相和」は、漢王朝以来の、何か特別な来歴を持つ歌曲群であったと推測されます。
それゆえ、「相和」歌辞の作者は、詠み人知らず、武帝曹操、文帝曹丕に限定されるのでしょう。
(以上のことについては、こちらの学術論文№17,19に詳しく論じました。)*

ところが、こちらの「漢魏晋楽府詩一覧」を見てみると、
「相和」諸曲に対して、別の歌辞を付けた者としては以下の数例があり、
うち、魏王朝当時の作者としては曹植のみです。

・曹植「薤露行」  ・張駿(前涼の君主)「薤露」
・曹植「惟漢行」  ・傅玄(西晋王朝の文人)「惟漢行」
曹植「平陵東」

曹植にしてみれば、
我が父の「薤露・惟漢二十二世」に寄せて新歌辞を作るのに何の問題もなかったでしょう。
ですが、同時代の口さがない連中は、
誰もが敢えて手を触れないものに触れた、とこれを非難したかもしれません。

冒頭に述べたことは、以上のような検討を経ての推測です。

2020年8月8日

*「清商三調」は、『宋書』巻21・楽志三の定義によるならば、西晋王朝の宮廷音楽のために、荀勗が漢魏の旧詞から選び出した歌曲である。ここでは、荀勗に選び取られる以前、魏王朝もしくは後漢末の建安文壇において、「清商三調」の楽曲にのせて作られた歌辞を指すものとして述べた。