「薤露行」と「惟漢行」
こんばんは。
曹植における「惟漢行」は、
その「薤露行」の続編であるとの仮説を昨日述べました。
ですが、曹植の「惟漢行」と「薤露行」とは句数が異なっています。
「薤露行」は、曹操の「薤露・惟漢二十二世」と同数の句を持っていますが、
(そのことが意味することは、先にこちらで推測しました。)
曹操「薤露」に拠っていることをその楽府題が明示している「惟漢行」は、
曹操「薤露」や曹植「薤露行」よりも四句多いのです。
このことをどう考えるべきでしょうか。
曹植が「惟漢行」歌辞を作ったとき、
曹操「薤露」は、「相和」の一曲として魏の宮中で歌われていました。
ですから、そのメロディは当然生きています。
だからこそ、葬送歌であるというその本来の意味を離れて、
先行作品とは異なる内容の歌辞をそれに乗せることもできたのだと言えます。
(新歌辞が楽府題の意味に沿って作られるのは、そのメロディが滅びてからです。)
それなのに、曹植の「惟漢行」は、曹操「薤露」と句数が同じではない。
このことは、両者の拠ったメロディが果たして同じなのか、私たちに疑念を抱かせます。
さらに、西晋の傅玄には、曹植「惟漢行」と同じ楽府題を持つ作品がありますが、
傅玄「惟漢行」の句数は、曹植のそれとも、曹操「薤露・惟漢二十二世」とも異なっています。
傅玄は、魏から西晋時代を生きた人なので、彼もまた当然、
「相和」の一曲として歌われる曹操「薤露」を聞き知っていたはずなのですが。
曹操「薤露」は16句、曹植「惟漢行」は20句、傅玄「惟漢行」は26句、
三者はいずれも五言ではありますが、句数においてこれを貫く法則性は見出せません。
他方、曹操「薤露」の本辞である「薤露」古辞は、
崔豹『古今注』(『文選』巻28、陸機「挽歌詩三首」李善注引)に記すところでは七言3句、
いよいよ魏楽所奏「相和」の「薤露」とは乖離しています。
「薤露」の楽曲が現存していない以上、これより先には遡れませんが、
少なくとも、曹植「惟漢行」と曹操「薤露」や曹植「薤露行」の句数が一致しないということが、
すなわち双方の無関係性を意味するわけでもない、ということは言えるかと思います。
あるいは曲全体やその一節を繰り返したり、
あるいはまた、歌辞の一部をメロディの枠からあふれさせてみたり、
言葉と音楽との関係が、想像する以上にゆるやかであった可能性が考えられます。
2020年7月25日