再考再開(曹植「惟漢行」)
こんばんは。
しばらく停止していた曹植の「薤露行」「惟漢行」に対する考察を、
再開しようと思って過去の考察を振り返ってみたところ、もはや新鮮に感じるほどでした。
一度歩みを止めると、再び動き出すのに少なからぬエネルギーを要します。
とはいえ、その間、曹植作品を細々と読み継いではきたので、
前掲の二篇の楽府詩を、また別の観点から検討する素地ができたかもしれません。
そういう点から見て、最近読んだ「雑詩」は“役に立つ”ように思います。
文帝曹丕の黄初年間中、曹植がどのような環境に置かれていたかがよくわかるからです。
「雑詩」を読んできた目で「惟漢行」を見直すと、明らかに雰囲気が違っています。
先行研究が指摘しているとおり、この楽府詩は明帝曹叡の時代になってからの作でしょう。
「惟漢行」の中で注目したいのは、その末尾に周文王の故事が踏まえられていることです。
その故事を伝える『書経』無逸篇は、周公旦の作だとされています。
すでに述べたことではありますが、
周文王は曹操、武王は文帝曹丕、成王は明帝曹叡、周公旦は曹植に重なります。
そして、「惟漢行」という楽府題は、明らかに曹操の「薤露・惟漢二十二世」を踏まえています。
すると、この楽府詩を詠じた曹植は、成王を補佐する周公旦に重ねられる、
つまり、明帝曹叡を補佐する立場にある自分を意識した上での楽府詩だと言えないか。
このあたりから、曹植「惟漢行」を再読したいと考えています。
2020年7月12日