曹植「責躬詩」への疑問2

こんにちは。

判然としないところの多い曹植「責躬詩」について、
本日もその不明点を記します。
訳注稿もあわせてご覧ください。)

原文・通釈ファイルの14行目「済済雋乂、我弼我輔」について、
以前、こちらで疑問を提示したことがあります。

「輔」「弼」という語は、元来が天子に対する輔佐をいう。
すると、「我」を曹植自身をいうものと捉え、
「済済たる雋乂」が自分を補佐する、と解釈することはできない。
「我」とは、天子である曹丕のことを指すのだろうか。

ただ、そうしてみると、また別の困難が持ち上がってくるのでした。

この問題について、
13・14行目「車服有輝、旗章有叙。済済雋乂、我弼我輔」をすべて、
諸侯たちが任地へ赴く出発の場面を描写したものだと捉えてはどうかと考えてみました。

これから各地へ出発してゆく曹丕の弟たち、
彼らの一行が、それぞれの「車服」や「旗章」を輝かせながら整然と並び、
一方、これを見送る側に、天子を補佐する優れた臣下たちがずらりと居並んでいる、
という情景を描いたものではないかと捉えたのです。

この解釈は、曹植「聖皇篇」に見える次のような表現から連想したものです。*
すなわち、「諸王」の任地への出発を描いたところに、

貴戚並出送  帝王の親族たちはこぞって見送りに出てきて、
夾道交輜輧  道の両側に、四面にとばりを垂れた車をひしめかせている。
車服斉整設  諸王たちに下賜された車や衣服はうち揃って整列し、
韡曄耀天精  きらきらと日の光に輝いている。

とあるのがそれです。
諸王の出発を見送る人々の中に、「貴戚」ばかりではなく、
天子の周りを固める「済済たる雋乂」がいた可能性はないでしょうか。

ただ、諸王や諸侯が任地へ赴く際、
具体的にどのような情景がそこに広がっていたのか、
私には今一つ正確な把握ができていません。

2021年12月30日

*この作品については、かつてこちらの学術論文№39で論じたことがあります。あわせてご参照いただければ幸いです。ただし、前掲部分の「韡曄」の訓み下しが誤っていました。「韡曄として」とすべきでした。