漢代画像石に描かれた歴史故事

漢代画像石には、現世での宴席風景を描くものが多く、
「二桃殺三士」や「荊軻刺秦王」などの歴史故事は、しばしばその一角に見えています。
これは、宴席で上演されていた様子をそのまま写し取ったものだろう、
とかつて推定したことはこちらでも述べました。

ですが、画像石の中には、昨日も言及した武梁祠のように、
歴史的人物の図像をびっしりと並べるタイプのものが一方にあり、
これは、現実の建造物に描かれた絵画を写し取ったものであろうと推定されています。*
(曹植の画賛も、こうした図像群に対して寄せられたものだと見られます。)

漢代画像石に描かれた歴史故事、と一口に言っても、
実は、前掲のタイプと、後者のタイプとがあったのではないでしょうか。
武梁祠に描かれた人物たちの故事がすべて、宴席芸能として上演されていたかは疑問です。

では、祠堂の内壁をうずめる人物たちは、当時どのようなかたちで伝えられていたのでしょうか。

この問題について、
変文のような絵物語として行われていたと推論したことがあるのですが(学術論文42)
これも、一部にそうした例があるにせよ、すべてがそうだとは言い切れませんね。

ただ、漢代当時、歴史的人物が図像とともに伝えられていたことは確実です。
『漢書』藝文志・諸子略・儒家類には、『列女伝頌図』という書名が見えていますし、
『太平御覧』巻411には、かの董永の故事を記す文献が、『孝子図』として引かれています。
また、『隋書』経籍志・史部・雑伝類には、漢代、阮倉なる人物が列仙図を作り、
これを契機に、劉向が列仙・列士・列女の伝を作ったと記されています。

かつて論じたことに但し書きを付したいのは、
そうした図像に、もれなく語りの芸能が付いていたとは断言できないということです。

それではまた。

2019年12月6日

*このことは、清朝の瞿中溶が、その『漢武梁祠画像考』序において夙に指摘しています。