結節点に位置する作品

こんばんは。

曹植は「惟漢行」において、魏王室の一員たらんとする意欲を詠じていました。
この作品は、彼の生涯において重要な位置を占めていると見られます。
というのは、この作品以後とそれ以前とでは、
曹植の王朝に対するスタンスに歴然たる違いが認められるように思うからです。

「惟漢行」以降の曹植は、
王朝運営に参画できない自己不遇感と絶望に塗りつぶされていきます。
このことは、「怨歌行」及び明帝期に書かれた数々の文章が物語っているとおりです。
そして、この時期の曹植は、絶望の淵に身を置きながらも、
自身の能力を発揮する機会を求め続ける姿勢においては一貫しています。

では、「惟漢行」以前、すなわち文帝期の曹植はどうだったのでしょうか。
この時期の作と推定されている文章を縦覧すると、*
魏朝の成立を慶賀する「慶文帝受禅表」「魏徳論」「上九尾狐表」「龍見賀表」などの文章、
あるいは以前にも述べたことがある、兄の文帝曹丕に貢ぎ物を奉る文章、
そして、自身の過ちを詫びる「責躬詩」及びその上表文、自戒の文章「写灌均上事令」
このような類の、自らを低く置くような作品が目に付く一方、
主体的に王朝運営に携わろうとする意欲を示すものはほとんど認められません。
文帝期の曹植は、厳しい監視下で、我が身を守るのに精いっぱいだったように看取されます。

魏朝成立後の曹植は、たしかにずっと不遇でしたが、
このように見てくると、その鬱屈は一様ではなかったように思われます。
文帝期の不自由な精神的軟禁状態から、
主体的な現実参加を思い立ってすぐに挫折した明帝期初頭、
その挫折を挽回しようとして果たせなかった明帝期の半ばに当たる最晩年。
文帝期から明帝期へ、色が変わる結節点に位置するのが「惟漢行」なのだと考えます。

2020年8月10日

*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)の編年を参照。ただし、「龍見賀表」は、魏朝成立期ではなく、黄初三年の作かと推測されている。同書p.251を参照。(2022.07.19追記)