陸機と曹植について(継続)
陸機「弔魏武帝文」(『文選』巻60)にこうあります。
信斯武之未喪 信(まこと)に斯の武の未だ喪(ほろ)びず、
膺霊符而在茲 霊符に膺(あた)りて茲に在る。
この表現は、
『論語』子罕篇に見える、
孔子が、匡の地で危険な状況に陥った際に言った言葉、
文王既没、文不在茲乎。……天之未喪斯文也、匡人其如予何。
文王は既に没すれど、文は茲に在らずや。……
天の未だ斯の文を喪(ほろぼ)さざるや、匡人 其れ予を如何せん。
を踏まえ、『論語』にいう「文」を「武」に置き換えて、
魏の武帝曹操を最大級に称賛したものです。
加えてここには、曹植「大魏篇(「鼙舞歌五篇」其三)」の冒頭にいう、
大魏応霊符 大魏 霊符に応じ、
天禄方甫始 天禄 方(まさ)に甫始(はじ)まる。
が踏まえられていること、前掲陸機作品の李善注にも指摘するところです。*
では、陸機はどのような経緯で曹植作品に出会ったのでしょうか。
曹植(192―232)の作品は、
彼がその名誉を回復した魏の明帝の景初年間(237―239)に前後して、
意外と速い速度で広範囲に伝播していったと思われます。(かつてこちらで触れました)。
当然、陸機が故郷で研鑽を積んだ時期(呉が滅亡した280年から十年間)、
その作品はすでに呉の地に流入していたと見られます。
とはいえ、陸機における曹植作品の摂取には、
彼の西晋王朝での後見役、張華の存在が非常に大きかったと見られます。
(このことについては、かつてこちらで述べました。)
2025年5月4日
*ただし、李善注に引くところは「大魏膺霊符、天禄方茲始」に作る。これは、本文のテキストに渉って誤ったか。なお、『文選』巻8、孫楚「為石仲容与孫晧書」の「協建霊符、天命既集(霊符に協(とも)に建て、天命既に集(な)る)」に対する李善注には、曹植の同作品を引いて「大魏応(應)霊符、天禄乃始」に作る。「膺」字は、その上半分が「應(応)」と同じであるため、書き誤った可能性もある。