黄初三年の曹植(訂正)
こんにちは。
昨日、黄初三年の曹植について、
東郡太守王機らの誣告によって洛陽に出頭したことと、
鄄城侯から鄄城王に爵位を進められたのとでは、
洛陽への出頭の方が先だと推定しました。
ここまでの推定は、概ね妥当だろうと思いますが、
鄄城王として立てられたのは、罪人として赴いた洛陽においてではなく、
洛陽から帰還した先の鄄城であったと見るのがおそらく適切です。
昨日の記述の一番最後は、軽率な判断でした。
ではなぜ、鄄城への帰還後、王位を授けられたと推測されるのか。
「責躬詩」では、このことが明確に示されていません。
ですが、「黄初六年令」に、文帝の計らいを記した次の句、
違百寮之典議、舎三千之首戻、反我旧居、襲我初服、……
百官の典範に則った議論に背いて、首領級の大罪を赦していただき、
私を旧居に戻し、元の輿服を与えてくださって、……
これに拠って、前述のように考えました。
まずは、もとの鄄城侯としての待遇に戻したということです。
鄄城王に立てたのは、その次の段階だったでしょう。
なお、「上責躬応詔詩表」に見える、
文帝からの恩恵を表現する次のようなフレーズ、
不別荊棘者、慶雲之恵也 荊棘を別(わ)けざるは、慶雲の恵みなり。
七子均養者、鳲鳩之仁也 七子をば均しく養ふは、鳲鳩の仁なり。
荊棘のような邪魔者をも差別しないで潤すのは慶雲の恵みです。
七羽の子を分け隔てなく養うのは鳲鳩(カッコウ)の仁愛です。
これは、罪人とされた曹植に対しても、
他の兄弟たちと同等の待遇が与えられたことを言うものでしょう。
『三国志(魏志)』巻2・文帝紀、黄初三年の条に、
三月乙丑(3日)、文帝の弟たちが皆、侯から王へと爵位を進められ、
同年の夏四月戊申(14日)、鄄城侯の曹植が王に立てられた記事が見えています。
前掲「上責躬応詔詩表」の句は、これに対応するものではないでしょうか。
2022年10月8月