04-12 贈丁儀王粲

04-12 贈丁儀王粲  丁儀・王粲に贈る

【解題】
「丁儀」については[04-10 贈丁儀]の解題、「王粲」については[04-11 贈王粲]の解題を参照。本作品は、曹操の西方遠征の勝利を祝う席上で、従軍に加われなかった丁・王の二人に贈るという設定で作られた諧謔の詩である可能性がある。龜山朗「建安年間後期の曹植の〈贈答詩〉について」(『中国文学報』第四十二冊、一九九〇年十月)を参照。『文選』巻二十四所収。李善注に、当時存在した曹植の別集には「答丁敬礼・王仲宣」と題されていたことを記す。「敬礼」は丁廙の字、「仲宣」は王粲の字。丁廙は、丁儀の弟。詳細は[04-14 贈丁廙]を参照。今は、『文選』のテキストに従っておく。なお、『文選』では「贈」字の上に「又」がある。

従軍度函谷  軍に従ひて函谷を度(わた)り、
駆馬過西京  馬を駆りて西京を過ぐ。
山岑高無極  山岑は高くして極まり無く、
涇渭揚濁清  涇渭は清と濁とを揚ぐ。
壮哉帝王居  壮なる哉 帝王の居、
佳麗殊百城  佳麗なること百城に殊(こと)なれり。
員闕出浮雲  員闕 浮雲より出で、
承露概泰清  承露 泰清に概(いた)る。
皇佐揚天恵  皇佐 天恵を揚げ、
四海無交兵  四海 兵を交ふる無し。
権家雖愛勝  権家は勝つことを愛すと雖も、
全国為令名  国を全うすることをば令名と為す。
君子在末位  君子は末位に在れば、
不能歌徳声  徳声を歌ふこと能はず。
丁生怨在朝  丁生は怨みて朝に在り、
王子歓自営  王子は歓びて自ら営めり。
歓怨非貞則  歓と怨とは貞則に非ず、
中和誠可経  中和こそ誠に経(のっと)る可し。

【通釈】
従軍して函谷関を越え、馬を駆り立てて西京を通り過ぎた。切り立つ山々は限りなく高くそびえ、濁った涇水、澄んだ渭水はそれぞれの波しぶきを揚げる。壮大なることよ、帝王の居所は。その佳麗さは幾多の都城とは一線を画する。円闕は浮雲を突き抜けて建ち、承露盤は天上界に届かんばかりである。丞相様は皇帝陛下の恵みを高く掲げて、四海の内に兵器を交えて戦うことは無くなった。兵法家は勝利を愛するものだとはいえ、相手の国をまるごと温存させることをこそ名誉と見なす。君子たるお二人は官僚の端くれとして長期の従軍がかなわず、主君の徳を歌い上げることができなかった。丁君は朝廷の内で怨みを抱き、王氏は自身の生活を楽しんでいる。だが、歓楽も哀怨も正しき規範ではない。いずれの感情にも偏らない中和の精神こそが、誠に則るべき道である。

【語釈】
○従軍度函谷 建安二十年(二一五)の張魯討伐(『三国志』巻一・武帝紀)を指す。古直『曹子建詩箋』巻一は、建安十六年(二一一)の関中(陝西省)討伐を指すとするが、この時には王粲は従軍しており、下文の「君子在末位、不能歌徳声」と矛盾する。龜山前掲論文を参照。「函谷」は、弘農郡弘農県(河南省)にある、秦の時代に作られた函谷関(『漢書』巻二十八上・地理志上)。長安の東、黄河沿いに位置する。
○西京 漢王朝の西の都、長安。前掲の「函谷」から、張魯が割拠する漢中(陝西省南部)に向かう途上に位置する。
○涇渭揚清濁 「涇渭」は、涇水と渭水。涇水は、長安の東で渭水に合流し、清い渭水との対比で濁りが目立つ。『毛詩』邶風「谷風」に「涇以渭濁、湜湜其沚(涇は渭を以て濁る、湜湜たる其の沚)」、その毛伝に「涇渭相入、而清濁異(涇渭相入りて、清濁異なり)」と。
○壮哉帝王居 類似する表現として、『漢書』巻四十・陳平伝に、高帝(劉邦)が曲逆を通過した際、その城に登ってその広大な街並みを望んで曰く、「壮哉県、我行天下、独見雒陽与是耳(壮なる哉 県、我は天下を行くも、独り雒陽と是とを見るのみ)」と。
○佳麗殊百城 「佳麗」は、元来は人の美しさに対して用いられる語。『戦国策』中山策に「臣聞趙、天下善為音、佳麗人之所出也(臣聞く 趙は、天下の善く音を為す、佳麗なる人の出づる所なり)」、その高誘注に「佳、大。麗、美」と。ここでは都城の麗しさを形容する。富永一登「『文選』李善注の活用―注引曹植詩文から見た文学言語の継承と創作―」(『六朝学術学会報』第4集、2003年)の指摘による。

○員闕出浮雲 「員闕」は、長安の建章宮に設けられた楼門。張衡「西京賦」(『文選』巻二)に「圜闕竦以造天、若双碣之相望(圜闕は竦(そび)えて以て天に造(いた)り、双碣の相望むが若し)」と。「員」は「圜」に同じ。類似する表現として、『淮南子』本経訓に「魏闕之高、上際青雲(魏闕の高きこと、上は青雲に際(まじ)はる)」と。
○承露概泰清 「承露」は、天の清らかな露を受ける台。前掲注に示した建章宮の庭に設けられていた。班固「西都賦」(『文選』巻一)に「抗仙掌以承露、擢双立之金茎、軼埃堨之混濁、鮮顥気之清英(仙掌を抗げて以て露を承け、双立の金茎を擢(ぬ)き、埃堨の混濁を軼(ぬき)んでて、顥気の清英を鮮やかにす)」と。「概」は「扢」に同じ。「扢」は、接するの意。「泰清」は、天空をいう。『鶡冠子』度万篇に、聖人の徳について「上及太清、下及泰寧、中及万霊(上は太清に及び、下は泰寧に及び、中は万霊に及ぶ)」と。「太」は「泰」に同じ。
○皇佐 皇帝の輔佐。ここでは曹操を指す。曹操は、建安元年(一九六)、後漢の献帝を許都に迎え、同十三年(二〇八)からは丞相として天子を補佐する立場にあった。
○天恵 皇帝からの恵み。
○四海 天下をいう。
○権家 兵家をいう。『史記』巻三十二・斉大公世家に、周文王の右腕となった太公望呂尚について、「其事多兵権与奇計(其の事には兵権と奇計多し)」と。
○全国為令名 『孫子』謀攻篇にいう「凡用兵之法、全国為上、破国次之(凡そ兵を用ふるの法は、国を全うするを上と為し、国を破るを之に次ぐとす)」を踏まえる。「令名」は、すばらしい名声。『春秋左氏伝』襄公二十四年に、子産の語として「夫令名徳之輿也、徳国家之基也(夫れ令名は徳の輿なり、徳は国家の基なり)」と。
○君子在末位 「君子」は、丁儀と王粲とを指す。『琴操』に「騶虞操」の背景を説明して、「古者聖王在上、君子在位、役不踰時、不失嘉会(古は聖王 上に在り、君子 位に在りては、役は時を踰えず、嘉会を失せず)」と。一句はこれを踏まえ、二人が低い位ながら官位に就いているため、長期の従軍には加われなかったことをいう。
○歌徳声 徳に由来する曹操の名声を歌い上げる。
○中和 いずれの感情にも偏らない、バランスの取れた精神状態をいう。儒家思想の根幹を為す。『礼記』中庸に「喜怒哀楽之未発、謂之中。発而皆中節、謂之和。中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也。致中和、天地位焉、万物育焉(喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂ふ。発しては皆節に中たる、之を和と謂ふ。中なる者は、天下の大本なり。和なる者は、天下の達道なり。中和を致せば、天地ここに位し、万物ここに育つ)」と。