05-11-1 豫章行 二首(1)
05-11-1 豫章行 二首 其一 豫章行 二首 其の一
【解題】
豫章(広西省)の山に生じた白楊の生涯を歌う古楽府「豫章行」に乗せて、理解者にめぐり会うことの得難さを詠じた楽府詩。同じ楽府題の作品[05-11-2 豫章行 二首 其二]も併せて参照されたい。『藝文類聚』巻四十一、『楽府詩集』巻三十四所収。「豫章行」の古辞は、清調曲歌辞のひとつとして、西晋の荀勗による宮廷歌曲歌辞目録「荀氏録」及び南朝宋の王僧虔「大明三年宴楽技録」(以上は『楽府詩集』巻三十三所引)に記されている。
窮達難豫図 窮達 豫(あらかじ)め図ること難く、
禍福信亦然 禍福 信(まこと)に亦た然り。
虞舜不逢堯 虞舜 堯に逢はずんば、
耕耘処中田 耕耘して中田に処らん。
太公不遭文 太公 文に遭(あ)はずんば、
漁釣終渭川 漁釣して渭川に終はらん。
不見魯孔丘 見ずや 魯の孔丘、
窮困陳蔡間 陳蔡の間に窮困せるを。
周公下白屋 周公 白屋に下りて、
天下称其賢 天下 其の賢なるを称せり。
【通釈】
困窮と栄達と、人生行路をあらかじめ意図して設けることは難しく、吉凶禍福もまた、言い伝えられているとおりである。虞舜が堯に出会わなかったならば、彼は田畑の中で農耕生活を送っていただろう。太公望呂尚が周文王(西伯昌)に出会わなければ、彼は渭水のほとりで魚釣りをしながら生涯を終えただろう。ところが、見よ、(理解者にめぐり会えなかった)魯の孔丘は、陳・蔡の間で困窮した。周公旦は、貧しく身分の低い者にもへりくだり、天下の人々はその賢明さを称賛したものだが。
【語釈】
○虞舜不逢堯、耕耘処中田 「虞舜」は、中国古代の伝説上の聖天子、舜。その王朝名が「虞」であることから、舜をこう称する。「堯」は、舜に天子の座を譲った聖天子。堯は、舜が歴山で農耕に従事しつつ民を感化したことに目を留めたのである(『史記』巻一・五帝本紀)。
○太公不遭文、漁釣終渭川 「太公」は、太公望呂尚。「文」は、周の文王、名は昌。殷に仕えていた時は西伯と称された。呂尚はかつて貧困の中、渭水のほとりで釣りをしていたところ、西伯昌に見出され、その師に立てられた(『史記』巻三十二・斉太公世家)。
○不見魯孔丘、窮困陳蔡間 「丘」は、孔子の名。孔子は、魯に生まれ、斉・宋・衛を転々とした後、陳蔡の間で困窮し、魯に帰国した(『史記』巻四十七・孔子世家)。
○周公下白屋 「周公」は、周の文王の子であり、武王の弟である旦。「白屋」は、茅葺の粗末な家。貧しい者を指していう。『論衡』語増に、「伝語曰、周公執贄下白屋之士(伝語に曰く、周公は贄を執るも白屋の士に下ると)」と。