05-39 鞞舞歌 有序 五首(序)

05-39 鞞舞歌 有序 五首(序)  鞞舞歌 序有り 五首(序)

【解題】
漢代の「鞞舞歌」五首を模して作った歌辞の序文。『宋書』巻十九・楽志一に、「鞞舞、未詳所起。然漢代已施于燕享矣。傅毅・張衡所賦、皆其事也(鞞舞は、未だ起こる所を詳らかにせず。然れども漢代には已に燕享に施さる。傅毅・張衡の賦する所は、皆其の事なり)」と記した後に続けてこの序文を引く。『楽府詩集』巻五十三、「魏陳思王鼙舞歌」に引く『古今楽録』に、「漢曲五篇、一曰「関東有賢女」、二曰「章和二年中」、三曰「楽久長」、四曰「四方皇」、五曰「殿前生桂樹」、並章帝造」と。五篇とも章帝の作とされているのは事実ではなく、章帝が「章和二年」に没したことに絡む誤解と見るのが妥当であろう。この序文は、『太平御覧』巻五七四、『詩紀』巻十三にも収載されている。「鞞」は、騎兵が馬上で打ち鳴らす鼓。鼙に同じ。

漢霊帝西園鼓吹有李堅者、能鞞舞。遭乱西随段煨。先帝聞其旧有技、召之。堅既中廃、兼古曲多謬誤、異代之文未必相襲。故依前曲、改作新歌五篇。不敢充之黄門、近以成下国之陋楽焉。

漢の霊帝の西園の鼓吹に李堅なる者有り、鞞舞を能くす。乱に遭ひて西のかた段煨に随ふ。先帝は其の旧(もと)技有るを聞きて、之を召す。堅は既に中廃し、兼ねて古曲には謬誤多く、異代の文 未だ必ずしも相襲はれず。故に前曲に依りて、新歌五篇を改作す。敢へて之を黄門に充てず、近く以て下国の陋楽と成す。

【通釈】
後漢の霊帝のとき、西園の黄門鼓吹に李堅という名の人物がいて、鼙舞の踊りが上手かった。彼は、動乱に遭遇して西方の段煨に付き従っていた。先の武帝(曹操)は、彼がもと鼙舞の技芸を持っていたと聞いて、彼を召し出した。だが、李堅はとっくに舞を止めていたし、加えて古曲には誤謬が多く、異なる時代の文辞は必ずしも踏襲されてはいない。だから、前代の曲に依拠して、新しい歌辞五篇を改作した。とてもこれを宮中の黄門鼓吹に充てることはできず、身近なところで下国の粗末な音楽とした。

【語釈】
○霊帝 後漢の皇帝(在位一六七―一八九)、諱は劉宏、章帝の玄孫。子の無い桓帝が崩御すると、竇皇太后とその父竇武によって、十二歳で擁立された(『後漢書』巻八・孝霊帝紀)。
○西園 宮中の西の庭園。霊帝はここで犬に進賢冠や綬を身に付けさせて戯れた(『後漢書』孝霊帝紀)。
○鼓吹 宮中の宴楽などを掌る官署、黄門鼓吹をいう。増田清秀『楽府の歴史的研究』(創文社、一九七五年)六一―六四頁を参照。
○遭乱西随段煨 「乱」は、董卓が引き起こした混乱。彼は少帝を廃して献帝を擁し、洛陽を焼き払って長安に遷都した(『後漢書』巻七十二・董卓伝)。「段煨」は、漢末の武将。董卓に命ぜられて華蔭(陝西省)に駐屯し、長安から東遷する献帝を供応した(『後漢書』董卓伝、李賢等注に引く『典略』)。
○先帝 魏の武帝、曹操(一五五―二二〇)。
○中廃 途中でやめる。
○黄門 黄色く塗られた宮中の門。ここでは前掲の黄門鼓吹をいう。
○下国 諸侯の国。『文選』巻十一、王延寿「魯霊光殿賦」に「初恭王始都下国、好治宮室(初め恭王の始めて下国に都し、好んで宮室を治む)」、李善注に「以天子為上国、故諸侯為下国(天子を以て上国と為す、故に諸侯を下国と為す)」と。