05-43 精微篇(鼙舞歌4)
05-43 精微篇(鼙舞歌4) 精微篇(鼙舞歌4)
【解題】
『宋書』巻二十二・楽志四所収「鼙舞歌」五篇の其四。「鼙舞歌」については、「鞞舞歌 有序 五首(序)」(05-39)を参照されたい。本作品は、漢代「鼙舞歌」の「当関東有賢女」に当てて作られた(『宋書』楽志四)。『楽府詩集』巻五十三、『詩紀』巻十三にも収載。詩の本文は、基本的に『宋書』に拠る。
精微爛金石 精微は金石をも爛(ただ)れしめ、
至心動神明 至心は神明をも動かす。
杞妻哭死夫 杞妻は死せし夫を哭し、
梁山為之傾 梁山は之が為に傾く。
子丹西質秦 子丹は西して秦に質となり、
烏白馬角生 烏は白く馬は角の生ぜり。
鄒衍囚燕市 鄒衍は燕の市に囚(とら)へられ、
繁霜為夏零 繁霜 夏の零(しずく)と為る。
関東有賢女 関東に賢女有り、
自字蘇来卿 自ら蘇来卿と字す。
壮年報父仇 壮年にして父の仇に報い、
身没垂功名 身は没するも功名を垂る。
女休逢赦書 女休の赦書に逢ふは、
白刃幾在頸 白刃の幾(ほとん)ど頸(くび)に在るときなり。
俱上列仙籍 倶に上りて仙籍に列せられんとするも、
去死独就生 死を去りて独り生に就く。」
太倉令有罪 太倉の令に罪有り、
遠徴当就拘 遠く徴せられて拘(とらはれ)に就くに当たり、
自悲居無男 自ら悲しむ 居に男(むすこ)無く、
禍至無与俱 禍の至るも与に倶にする無きを。
緹縈痛父言 緹縈(ていえい)は父の言を痛み、
荷担西上書 荷担して西して上書す。
槃桓北闕下 北闕の下に槃桓し、
泣涙何漣如 泣涙 何ぞ漣如たる。
乞得并姊弟 乞ひ得たり 姉弟を并せて、
没身贖父躯 身を没して父が躯を購はんことを。
漢文感其義 漢文は其の義に感じて、
肉刑法用除 肉刑は法として用(もっ)て除かる。
其父得以免 其の父は以て免ぜらるるを得、
辨義在列図 義を辨ぜしは列図に在り。
多男亦何為 男多きも亦た何をか為さん、
一女足成居 一女 居を成すに足る。」
簡子南渡河 簡子 南のかた河を渡るに、
津吏廃舟船 津吏 舟船を廃す。
執法将加刑 法を執りて将に刑を加へんとするに、
女娟擁櫂前 女娟(けん) 櫂(かい)を擁して前(すす)む。
妾父聞君来 妾が父は聞く 君の来たりて、
将渉不測淵 将に不測の淵を渉らんとするを。
畏懼風波起 風波の起こらんことを畏懼し、
祷祝祭名川 祷祝(とうしゅく)して名川を祭る。
備礼饗神祇 礼を備へ神祇(じんぎ)を饗して、
為君求福先 君が為に福先を求む。
不勝釂祀誠 釂祀(せうし)の誠に勝(た)へずして、
至令犯罰艱 罰の艱(かた)きを犯さしむるに至る。
君必欲加誅 君 必ず誅を加へんと欲せば、
乞使知罪愆 乞ふ 罪愆を知らしめよ。
妾願以身代 妾 願はくは身を以て代はらんことを。
至誠感蒼天 至誠 蒼天を感ぜしむ。
国君高其義 国君 其の義を高しとし、
其父用赦原 其の父は用て赦原せらる。
河激奏中流 「河激」 中流に奏せられ、
簡子知其賢 簡子 其の賢なるを知る。
帰娉為夫人 帰娉 夫人と為り、
栄寵超後先 栄寵 後先を超ゆ。
辯女解父命 辯女 父の命を解く、
何況健少年 何ぞ況んや健なる少年においてをや。」
黄初発和気 黄初 和気を発し、
明堂徳教施 明堂 徳教施さる。
治道致太平 治道 太平を致し、
礼楽風俗移 礼楽もて風俗移る。
刑錯民無枉 刑錯 民に枉無ければ、
怨女復何為 怨女も復た何をか為さん。
聖皇長寿考 聖皇 長寿考、
景福常来儀 景福 常に来儀せん。」
【押韻】明・生・卿・生(下平声12庚韻)、傾・名(下平声14清韻)、零(下平声15青韻)、頸(上声40静韻)。拘・俱・躯(上平声10虞韻)、書・如・除・居(上平声09魚韻)、図(上平声11模韻)。船・川・愆(下平声02仙韻)、前・淵・先・天・賢・先・年(下平声01先韻)、艱(上平声28山韻)、原(上平声22元韻)。施・移・為・儀(上平声05支韻)。
【通釈】
精妙なる精神のはたらきは金石をも煮崩れさせ、真心は神明をも動かす。杞梁の妻は亡くなった夫を哭し、梁山はそのために傾いた。燕の太子丹は西のかた秦国で人質となり、彼の帰国への強い希求が、烏を白くし馬に角を生じさせた。鄒衍は燕の市場にて無実の罪で捕らえられ、身の潔白を思うあまり、びっしりとおいた霜が夏の零となった。
関東に賢明なる娘がいて、自らその呼び名を蘇来卿としていた。壮年となって父の仇敵に報復し、身は没しても、功名を後世に残した。秦家の娘の休が、恩赦の文書に巡り合ったのは、白くきらめく刃がほとんど彼女の首に置かれたときであった。ともに天上に昇って仙籍に列せられるところだったが、死から逃れ去り、ひとり生き延びることとなった。」
太倉の令に罪過があり、遠くから呼び出しがかかって拘束されることとなったとき、自ら悲しんで、家に息子がなく、禍がやってきても、ともに対処する者がいない、と言った。娘の緹縈は父の言葉をひどく悲しみ、荷物を背負って西のかた長安へ赴いて上書した。宮殿の北闕の下を行きつ戻りつして、なんとさめざめと涙を流したことか。願い出て、姉妹ともに、その身を官に差し出し、代わりに父の身体を贖うこととなった。漢の文帝は彼女の義に感じ入り、肉刑は法的処分から除かれることとなった。その父はこれによって無罪放免を得ることができ、義を理路整然と説いた緹縈は列女図に描かれている。息子が多くてもまた何の役に立つものか。ひとりの娘で十分に家を守り抜くことができたのだ。」
趙簡子は南のかた河を渡ろうとしたところ、渡し場の吏員は船を出すことができなかった。法を執行してこれに刑罰を加えようとしたところ、娘の娟が櫂を抱いて前に進み出て言った。「私の父は、殿様がいらっしゃって、これから不測の淵を渡ろうとされるのを聞きまして、風波が起こるのを懼れ、お祈りをして名川を祭ったのでございます。十全な祭礼を執り行い、神様をもてなしまして、殿様のために幸先よろしきを求めたのですが、酒杯を飲み干して祭りたいとの誠心に堪えられず、厳罰に値する罪を犯すこととなってしまいました。殿様がもしどうしても誅罰を加えようとなさるなら、どうか、その罪状を父にご教示いただけませんか。わたくしは父の身代わりになりたいと存じます。」彼女の真心は蒼天を感じ入らせた。国君は彼女の義を高く評価し、その父はこれによって釈放された。「河激」の歌謡が流れの中ほどで歌われて、それを聞いた趙簡子は彼女の賢明さを知った。帰国して、彼女は娶られて趙簡子の夫人となり、その栄誉と寵愛は、後にも先にも比類を見ないものだった。弁舌に秀でた娘たちは、父の運命を解き放った。まして健やかなる少年たちにおいてはなおさらだろう。」
黄初の今、世の中には和やかな気があふれ、明堂からは徳ある教えが敷き広げられている。治世の道は天下泰平をもたらし、礼楽によって民の風俗はよき方向へと導かれている。刑罰を施す上で、民が冤罪に陥れられることもないので、怨女たちもまた何をすることがあろうか。聖なる皇帝陛下には長寿であらせられますよう、大いなる福がとこしえに到来しますよう、お祈り申し上げます。」
【語釈】
○精微爛金石 「精微」は、心の精妙なる働き。用例として、『漢書』巻七十六・張敞伝に「夫心之精微、口不能言也、言之微眇、書不能文也(夫れ心の精微は、口 言ふ能はず、言の微眇は、書 文する能はざるなり)」と。一句の発想は、『韓詩外伝』巻六にいう「楚熊渠子夜行、見寝石以為伏虎、彎弓而射之、没金飲羽。下視知其為石。石為之開、而況人乎(楚の熊渠子 夜行して、寝石を見て以て伏虎と為し、弓を彎きて之を射れば、金を没し羽を飲む。下視して其の石為るを知る。石も之が為に開く。而して況んや人をや)」が近い。『新序』雑事篇にもほぼ同じ記事が見える。
○杞妻哭死夫、梁山為之傾 「杞妻」は、春秋斉の大夫、杞梁殖の妻。彼女が戦死した夫を哭し、そのために城壁が崩れたという故事は、劉向『列女伝』貞順篇、『説苑』善説篇、『論衡』感虚篇等に見えている。だが、彼女が崩壊させたのは、いずれの文献においても城壁であって「梁山」ではない。これは、『論衡』感虚篇に記す、梁山が崩れ、河を塞いで三日流れなかったのを、景公が白装束で哭すと、河水は再び流れ始めたという別の記事(『春秋穀梁伝』成公五年、『韓詩外伝』巻八にも見える)を、杞梁の妻の故事と組み合わせたのであろう。黄節『曹子建詩註』巻二を参照。
○子丹西質秦、烏白馬角生 「子丹」は、燕の太子丹。西方の秦に拘束されていたが、烏が白くなり馬に角が生じる等の奇跡が起こったことにより帰国が許された。『論衡』感虚篇の、杞梁の妻に関する記事の直前に見えている。
○鄒衍囚燕市、繁霜為夏零 「鄒衍」は、春秋斉の陰陽家。罪もないのに燕に拘束され、天を仰いで慨嘆すると、夏空から霜が降ってきた。『論衡』感虚篇に、杞梁の妻の故事に続いて記されている。「衍」字、『宋書』楽志四が「羨」に作るのは、梁の武帝蕭衍の諱を避けたため。
○関東有賢女、自字蘇来卿 漢代「鼙舞歌」に、「関東有賢女」と題する歌辞があり、曹植のこの歌辞は、それに当てはめて作られたものだという。本詩解題を参照。「蘇来卿」という人物については未詳。この二句に類似する措辞が、たとえば古楽府「艶歌羅敷行」(『宋書』巻二十一・楽志三)に「秦氏有好女、自名為羅敷(秦氏に好女有り、自ら名づけて羅敷と為す)」、魏の左延年「秦女休行」(『楽府詩集』巻六十一)に「秦氏有好女、自名為女休(秦氏に好女有り、自ら名づけて女休と為す)」と見える。
○壮年報父仇、身没垂功名 父や宗家の敵討ちをする女性の故事は、漢魏晋時代、少なからぬ文献に見えている。下見隆雄『儒教社会と母性、母性の威力の観点でみる漢魏晋中国女性史』(研文出版、一九九四年)三五三―四二一頁を参照。
○女休 魏の左延年「秦女休行」に詠われた女性。宗家のために仇討をし、死罪となったが、処刑を目前にして赦された。葉文挙「『秦女休行』本辞考」(『古籍整理研究学刊』二〇〇六年一月、第一期)は、後漢後期の緱氏の娘玉(『藝文類聚』巻三十三に引く皇甫謐『列女伝』)に比定するが、未詳。
○仙籍 仙人の戸籍。それに名を列ねるとは、死後の世界の住人になることをいう。
○太倉令 前漢文帝期の医術者、太倉公淳于意。『史記』巻十・孝文本紀、巻一〇五・扁鵲倉公列伝(太倉公)に、本詩に詠ぜられた内容を含む記述が見える。
○緹縈 前掲の語釈に示した太倉公淳于意の娘。罪を得た父のために都長安へ赴き、肉刑の非を説く上書によって天子を動かし、父を窮地から救い出した。このことは、前掲『史記』のほか、劉向『列女伝』巻六・弁通伝「斉太倉女」にも見えている。また、班固の詠史詩の中に、彼女のことを詠じた一篇がある(前掲『史記』の正義、及び『文選』巻三十六、王融「永明九年策秀才文五首」其三の李善注に引く)。
○槃桓 同じところを行きつ戻りつする。畳韻語。
○北闕 宮城の北側にある門。皇帝に上書や謁見を望む者はここから出入りする。
○泣涙何漣如 「漣如」は、涙の流れるさま。『焦氏易林』巻一「坤之井」に、「三女求夫、伺候山隅。不見復関、泣涕漣如(三女夫を求め、山隅に伺候す。復関を見ず、泣涕漣如たり)」と。なお、この『焦氏易林』は、『毛詩』衛風「氓」の「不見復関、泣涕漣漣」を踏まえる。
○乞得 「得」は、動詞の後に付いて、下に動作の結果を示す。……した結果……となる。口語。
○姊弟 姉妹。この場合の「弟」は、妹をいう。
○漢文 前漢の文帝(在位前一八〇―前一五七)。
○辨義 理路整然と正義を説き明かす。「辨」字、「辯」と音義通ず。
○在列図 緹縈の故事が絵図に描かれたことをいう。この種の故事は図を伴って伝えられたらしい。たとえば『漢書』巻三十・藝文志、諸子略・儒家類「劉向所序六十七篇」の注記に、『列女伝頌図』と見える。
○成居 ひとかどの人物として責務を果たす。「矯志」詩(04-16)にも「尸位素餐、難以成居(尸位素餐は、以て居を成し難し)」と。
○簡子南渡河、津吏廃舟船 「簡子」は、春秋時代・晋の六卿の一人、趙簡子。諱は鞅、諡は簡。「南渡河」以下については、『列女伝』弁通伝「趙津女娟」に「初簡子、南撃楚、与津吏期。簡子至、津吏酔臥、不能渡(初め簡子、南のかた楚を撃たんとして、津吏と期す。簡子至るに、津吏は酔臥して、渡すこと能はず)」と。
○女娟 前掲『列女伝』弁通伝「趙津女娟」に登場する「津吏」の娘。
○福先 吉祥。『説苑』君道に「祥者福之先者也(祥なる者は福の先んずる者なり)」と。
○不勝釂祀誠、至令犯罰艱 「釂祀誠」は、酒杯を飲み干す祭祀に誠を尽くす、「犯罰艱」は、厳罰が課せられる重罪を犯すという意味か。前掲『列女伝』に、「妾父聞主君東渡不測之水、恐風波之起、水神動駭、故祷祠九江三淮之神。供具備礼、御釐受福、不勝巫祝杯酌餘瀝、醉至於此(妾が父は主君の東のかた不測の水を渡るを聞きて、風波の起こり、水神の動駭せんことを恐れ、故に九江三淮の神に祷祠す。供具は礼を備へ、釐(さいわい)を御(むか)へ福を受けんとして、巫祝が杯酌の餘瀝に勝へず、醉ひて此に至る)」と。
○必 もしも……ならば。仮定を強調する。
○至誠感蒼天 類似する発想が、本詩の二句目に「至心動神明」、「黄初六年令」(08-02)に「信心足以貫於神明也(信心は以て神明を貫くに足るなり)」「固精誠可以動天地金石(固より精誠は以て天地金石を動かす可し)」と見えている。
○国君 ここでは、趙簡子を指す。
○河激奏中流 「河激」は、女娟が歌った歌謡の名称。前掲『列女伝』に、「中流為簡子発河激之歌、其辞曰「升彼舸兮面観清、水揚波兮杳冥冥。祷求福兮醉不醒、誅将加兮妾心驚。罰既釈兮瀆乃清、妾持楫兮操其維。蛟竜助兮主将帰、呼来櫂兮行勿疑(中流にして簡子の為に河激の歌を発す。其の辞に曰く「彼の舸に升(の)りて面して清を観れば、水は波を揚げ杳として冥冥たり。祷(いの)りて福を求め 醉ひて醒めず、誅 将に加へられんとして妾が心は驚く。罰 既に釈されて瀆(けが)れも乃ち清(す)み、妾は楫を持ちて其の維(つな)を操る。蛟竜は助けて主は将に帰らん、呼来(ああ)櫂とりて行きて疑ふこと勿かれ」と)」と。
○帰娉 帰国した後に娶る。あるいは、「帰」は嫁ぐ、「娉」は娶るの意であることから、二字を併せて結婚の意味で捉えることも可能か。ただし、用例は他に見当たらない。
○黄初発和気 「黄初」は、魏の文帝の年号。二二〇―二二六年。この時期における「和気」の醸成は、文帝の詔(『藝文類聚』巻三十三)にいう「今兵戎始息、宇内初定。民之存者、非流亡之孤、則鋒刄之餘、当相親愛、養老長幼。自今以後、宿有仇怨者皆不得相讎(今兵戎始めて息み、宇内初めて定まれり。民の存する者、流亡の孤に非ざれば、則ち鋒刄の餘なり。当に相親愛して、老を養ひ幼きを長ぜしむべし。今自り以後、宿(もと)より仇怨有る者は皆相讎するを得ざれ)」からもうかがえる。
○明堂 天子が政教を行う建物。
○礼楽風俗移 『孝経』広要道章にいう「移風易俗、莫善於楽、安上治民、莫善於礼(風を移し俗を易ふるに、楽よりも善きは莫く、上を安んじ民を治むるに、礼よりも善きは莫し)」を踏まえる。
○刑錯 刑罰が執行されること。『史記』巻四・周本紀に「成康之際、天下安寧、刑錯四十餘年不用(成・康の際、天下安寧にして、刑錯 四十餘年 用ゐられず)」、裴駰『集解』に引く応劭の注に「錯、置也。民不犯法、無所置刑(錯は、置くなり。民 法を犯さざれば、刑を置く所無し)」と。
○怨女 本詩に詠われたような、宗家や父の代わりにその無念を晴らす女性たち。
○復何為 「復」は、いったい。疑問詞「何為」の語気を強める。
○聖皇 皇帝に対する尊称。曹植「鼙舞歌」の第一首「聖皇篇」の冒頭にも見えていた。
○長寿考 「寿考」は、寿命。『文選』巻二十九「古詩十九首」其十一に「人生非金石、豈能長寿考(人生は金石に非ず、豈に能く長く寿考ならんや)」と。ここでは、皇帝の長寿を祈念する祝辞。
○景福常来儀 「景福」は、大いなる福。『毛詩』大雅「既酔」に「君子万年、介爾景福(君子万年、爾が景福を介く)」、鄭箋に「介、助、景、大也」と。「常」は、永遠に変わりなく。「来儀」は、為政者の徳に感応して到来することをいう。『尚書』益稷に、「簫韶九成、鳳皇来儀(簫韶は九成し、鳳皇は来儀す)」と。