07-06 求自試表 二首(1)

07-06 求自試表 二首(1)  自ら試みられんことを求むる表 二首(1)

【解題】
太和二年(二二八)、自身の甥に当たる明帝曹叡(在位二二六―二三九)に宛てて、王朝の一員として力を発揮させていただきたいという切望を書き送った上表文。テキストは李善注本『文選』巻三十七に拠る。『魏志』巻十九・陳思王植伝には、太和元年、雍丘王から浚儀王へ、更に翌年、再び雍丘王に転封となったことを記した後に、「植常自憤怨、抱利器而無所施、上疏求自試(植は常に自ら利器を抱くも施す所無きを憤怨し、上疏して自ら試されんことを求む)」として本作品を引用する。

  臣植言、臣聞士之生世、入則事父、出則事君、事父尚於栄親、事君貴於興国。故慈父不能愛無益之子、仁君不能畜無用之臣。夫論徳而授官者、成功之君也、量能而受爵者、畢命之臣也。故君無虚授、臣無虚受、虚授謂之謬挙、虚受謂之尸禄、詩之素餐所由作也。昔二虢不辞両国之任、其徳厚也。旦奭不譲燕魯之封、其功大也。
  臣植言ふ、臣聞く 士の世に生まるるや、入りては則ち父に事(つか)へ、出でては則ち君に事ふと。父に事へては親を栄えしむるを尚び、君に事へては国を興すを貴ぶ。故に慈父も無益の子を愛する能はず、仁君も無用の臣を畜(やしな)ふ能はず。夫れ徳を論じて官を授くるは、成功の君なり。能を量りて爵を受くるは、畢命の臣なり。故に君には虚しく授くる無く、臣には虚しく受くる無く、虚しく授くる 之を謬挙と謂ひ、虚しく受くる 之を尸禄と謂ひ、詩の素餐の由りて作(な)る所なり。昔 二虢の両国の任を辞せざるは、其の徳 厚ければなり、旦・奭の燕・魯の封を譲らざるは、其の功 大なればなり。

  今臣蒙国重恩、三世于今矣。正値陛下升平之際、沐浴聖沢、潜潤徳教、可謂厚幸矣。而窃位東藩、爵在上列、身被軽煖、口厭百味、目極華靡、耳倦絲竹者、爵重禄厚之所致也。退念古之受爵禄者、有異於此、皆以功勤済国、輔主恵民。今臣無徳可述、無功可紀、若此終年無益国朝、将挂風人彼己之譏。是以上慙玄冕、俯愧朱紱。
  今 臣は国の重恩を蒙ること、今に三世なり。正に陛下升平の際に値ひ、聖沢に沐浴し、徳教に潜潤するは、厚幸と謂ふ可し。而して位を東藩に窃(ぬす)み、爵は上列に在り、身 軽煖を被り、口 百味を厭き、目 華靡を極め、耳 絲竹に倦むは、爵重く禄厚きの致す所なり。退きて古の爵禄を受くる者を念ふに、此に異なる有り、皆 功勤もて国を済ひ、主を輔け民を恵むを以てなり。今 臣には徳の述ぶ可き無く、功の紀(しる)す可き無く、此の若くして年を終へ国朝に益無くんば、将に風人の彼己の譏りに挂(かか)らんとす。是(ここ)を以て上は玄冕に慚ぢ、俯しては朱紱に愧づ。

  方今天下一統、九州晏如。顧西尚有違命之蜀、東有不臣之呉、使辺境未得税甲、謀士未得高枕者、誠欲混同宇内、以致太和也。故啓滅有扈而夏功昭、成克商奄而周徳著。今陛下以聖明統世、将欲卒文武之功、継成康之隆、簡良授能、以方叔邵虎之臣鎮衛四境、為国爪牙者、可謂当矣。然而高鳥未絓於軽繳、淵魚未懸於鉤餌者、恐釣射之術或未尽也。昔耿弇不俟光武、亟撃張歩、言不以賊遺於君父也。故車右伏剣於鳴轂、雍門刎首於斉境。若此二子豈悪生而尚死哉、誠忿其慢主而陵君也。
  方今 天下一統して、九州は晏如たり。顧(た)だ西には尚ほ違命の蜀有り、東には不臣の呉有り、辺境をして未だ甲を税(と)くを得ず、謀士をして未だ枕を高くするを得ざらしむるは、誠に宇内を混同して、以て太和を致さんと欲すればなり。故(いにしへ)啓 有扈を滅ぼして夏功は昭らかに、成 商奄に克ちて周徳は著(あらは)る。今陛下は聖明を以て世を統べ、将に文武の功を卒(を)へ、成康の隆を継がんと欲す。良を簡(えら)び能に授け、方叔・邵虎の臣 四境を鎮衛せるを以て、国の爪牙と為すは、当たれりと謂ふ可し。然れども高鳥は未だ軽繳に絓(か)からず、淵魚は未だ鉤餌に懸からざるは、恐らくは釣射の術の或いは未だ尽くさざればならん。昔 耿弇は光武を俟(ま)たず、亟(すみや)かに張歩を撃ち、賊を以て君父に遺らじと言ふなり。故(いにしへ) 車右は剣に鳴轂に伏し、雍門は首を斉境に刎ねたり。此の二子の若きは豈に生を悪みて死を尚ばんや、誠に其の主を慢(あなど)りて君を陵(しの)ぐに忿(いか)ればなり。

  夫君之寵臣、欲以除害興利、臣之事君、必以殺身静乱、以功報主也。昔賈誼弱冠求試属国、請係単于之頸而制其命、終軍以妙年使越、欲得長纓占其王、羈致北闕。此二臣、豈好為夸主而耀世俗哉、志或鬱結、欲逞才力、輸能於明君也。昔漢武為霍去病治第、辞曰、匈奴未滅、臣無以家為。固夫憂国忘家、捐躯済難、忠臣之志也。
  夫れ君の臣を寵するは、以て害を除き利を興さんと欲すればなり、臣の君に事(つか)ふるは、必ず以て身を殺して乱を静め、功を以て主に報いんとすればなり。昔 賈誼は弱冠にして属国に試みられんことを求め、単于の頸を係(つな)ぎて其の命を制せんことを請ひ、終軍は妙年を以て越に使ひするに、長纓を得て其の王を占し、北闕に羈致せんことを欲す。此の二臣は、豈に好んで主に夸りて世俗に耀かんことを為さんや、志 或いは鬱結せるありて、才力を逞しくし、能を明君に輸(いた)さんと欲するなり。昔 漢武 霍去病の為に第を治めしが、辞して曰く「匈奴 未だ滅びず、臣は家を以て為す無し」と。固(もと)より夫れ国を憂へ家を忘れ、躯を捐(す)てて難を済(すく)ふは、忠臣の志なり。

  今臣居外非不厚也、而寝不安席、食不遑味者、伏以二方未尅為念。伏見先武皇帝武臣宿兵、年耆即世者有聞矣。雖賢不乏世、宿将旧卒猶習戦也。窃不自量、志在効命、庶立毛髪之功、以報所受之恩。若使陛下出不世之詔、効臣錐刀之用、使得西属大将軍、当一校之隊、若東属大司馬、統偏師之任、必乗危躡険、騁舟奮驪、突刃触鋒、為士卒先。雖未能禽権馘亮、庶将虜其雄率、殲其醜類、必効須臾之捷、以滅終身之愧、使名挂史筆、事列朝策。雖身分蜀境、首懸呉闕、猶生之年也。
  今 臣は外に居て厚からざるに非ざるなり。而るに寝ねては席に安んぜず、食ひては味はふに遑(いとま)あらざるは、伏して以(おも)ふに 二方 未だ尅(か)たざるを念と為せばなり。伏して見るに 先武皇帝が武臣宿兵は、年耆いて世に即ける者に聞こゆる有り。賢は世に乏しからずと雖も、宿将旧卒は猶ほ戦ひに習ふなり。窃(ひそ)かに自ら量らずも、志は命を效(いた)すに在り、庶はくは 毛髪の功を立て、以て受くる所の恩に報いんことを。若使(もし)陛下 不世の詔を出し、臣が錐刀の用を效し、西のかた大将軍に属して、一校の隊に当たり、若しくは 東のかた大司馬に属して、偏師の任を統ぶるを得しめば、必ずや危に乗じて険を蹈み、舟を騁せ驪を奮ひ、刃を突き鋒に触れ、士卒の先と為らん。未だ権を禽にし亮を馘(みみき)る能はずと雖も、庶(こひねが)はくは将に其の雄率を虜にし、其の醜類を殲(つ)くさん。必ずや須臾の捷を效(いた)し、以て終身の愧を滅し、名を史筆に挂け、事を朝栄(筞=策)に列せしめん。身は蜀境に分かれ、首は呉闕に懸かると雖も、猶ほ生くるの年のごとくならん。

  如微才不試、没世無聞、徒栄其躯而豊其体、生無益於事、死無損於数、虚荷上位而忝重禄、禽息鳥視、終於白首、此徒圏牢之養物、非臣之所志也。
  如し微才 試みられず、世を没(を)ふるまで聞こゆる無く、徒(いたづら)に其の躯を栄にして其の体を豊かにし、生きては事に益無く、死しては数に損無く、虚しく上位を荷ひて重禄を忝(かたじけな)くし、禽のごとく息し鳥のごとく視て、白首に終へば、此れ徒に圏牢の養物にして、臣の志す所に非ざるなり。

  流聞東軍失備、師徒小衂、輟食棄餐、奮袂攘袵、撫剣東顧而心已馳於呉会矣。臣昔従先武皇帝、南極赤岸、東臨滄海、西望玉門、北出玄塞、伏見所以行軍用兵之勢、可謂神妙也。故兵者不可豫言、臨難而制変者也。志欲自効於明時、立功於聖世。毎覧史籍、観古忠臣義士、出一朝之命、以殉国家之難、身雖屠裂、而功銘著於景鍾、名称垂於竹帛、未嘗不拊心而歎息也。
  流聞するに東軍は備へを失ひ、師徒は小衂(せうぢく)すといへば、食を輟(や)め餐を棄て、袂(そで)を奮ひて衽(すそ)を攘(かか)げ、剣を撫して東顧し 而して心は已に呉会に馳す。臣は昔 先武皇帝に従ひ、南のかた赤岸を極め、東のかた滄海に臨み、西のかた玉門を望み、北のかた玄塞を出づ。伏して見るに 軍を行(や)り兵を用ふる所以の勢、神妙と謂ふ可きなり。故(もと)より兵なる者は豫言す可からず、難に臨みて変を制する者なり。志 自ら明時に効(いた)し、功を聖世に立てんと欲す。史籍を覧て、古の忠臣義士、一朝の命を出だして、以て国家の難に殉じ、身は屠裂せらると雖も、而して功は銘せられて景鍾に著はれ、名は称せられて竹帛に垂るるを観る毎に、未だ嘗て心を拊ちて歎息せずんばあらざるなり。

  臣聞明主使臣、不廃有罪。故奔北敗軍之将、用秦魯以成其功、絶纓盗馬之臣、赦楚趙以済其難。臣窃感先帝早崩、威王棄代、臣独何人、以堪長久。常恐先朝露、填溝壑、墳土未乾、而身名並滅。
  臣聞く 明主の臣を使ふや、罪有るを廃てずと。故に奔北敗軍の将、秦魯に用ひられて以て其の功を成し、纓を絶たれ馬を盗むの臣、楚趙に赦されて以て其の難を済へり。臣 窃かに感ず 先帝の早く崩じ、威王の代を棄てしに、臣独り何人ぞ、以て長久なるに堪へんやと。常に恐る 朝露に先んじて、溝壑を填め、墳土未だ乾かざるに、身名並びに滅びんことを。

  臣聞騏驥長鳴、伯楽昭其能、盧狗悲号、韓国知其才。是以効之斉楚之路、以逞千里之任、試之狡兎之捷、以験搏噬之用。今臣志狗馬之微功、窃自惟度、終無伯楽韓国之挙、是以於邑而窃自痛者也。
  臣聞く 騏驥 長く鳴きて、伯楽 其の能を昭らかにし、盧狗 悲号して、韓国は其の才を知ると。是を以て之を斉楚の路に効(いた)して、以て千里の任を逞しくし、之を狡兎の捷に試して、以て搏噬の用に験ぜられん。今臣は狗馬の微功を志すも、窃かに自ら惟度するに、終に伯楽・韓国の挙無し。是を以て於邑して窃かに自ら痛む者なり。

  夫臨博而企竦、聞楽而窃抃者、或有賞音而識道也。昔毛遂趙之陪隷、猶仮錐嚢之喩、以寤主立功。何況巍巍大魏多士之朝、而無慷慨死難之臣乎。夫自衒自媒者、士女之醜行也、干時求進者、道家之明忌也。而臣敢陳聞於陛下者、誠与国分形同気、憂患共之者也。冀以塵露之微、補益山海、蛍燭末光、増輝日月。是以敢冒其醜而献其忠。必知為朝士所笑。聖主不以人廃言。伏惟陛下少垂神聴、臣則幸矣。
  夫れ博に臨みて企竦し、楽を聞きて窃かに抃(う)つ者は、或いは音を賞して道を識る有ればなり。昔 毛遂は趙の陪隷なるも、猶ほ錐嚢の喩へに仮りて、以て主を寤し功を立つ。何ぞ況や巍巍たる大魏は多士の朝にして、慷慨して難に死するの臣無からんや。夫れ自ら衒(う)り自ら媒するは、士女の醜行なり。時を干(もと)め進を求むるは、道家の明忌なり。而も臣敢へて陛下に陳聞するは、誠に国と形を分かち気を同じうし、憂患 之を共にする者なればなり。冀(こひねが)はくは塵露の微を以て、山海を補益し、蛍燭の末光もて、輝きを日月に増さんことを。是を以て敢へて其の醜を冒して其の忠を献ず。必ずや朝士の笑ふ所と為らんことを知る。聖主は人を以て言を廃せず。伏して惟(おも)ふに 陛下少しく神聴を垂れなば、臣は則ち幸ひなり。

【通釈】
 臣植が申し上げます。臣はこう聞いております。男子は世に生まれると、内に入っては父に仕え、外に出ては君主に仕えるものだと。父に仕えては親族を栄えさせることを尊び、君主に仕えては国を興隆させることを重んじます。だから、愛情深い父も役立たずの子を愛することはできず、仁徳ある君主も無用の臣下を養うことはできません。そもそも徳を評定して官職を授けるのは、功を成し遂げる君主で、自分の能力を量って爵位を受けるのは、君命を全うする臣下です。だから、君主はむやみに官職を授けることはなく、臣下はむやみに爵位を受けることはないのであって、むやみに授けることを誤った登用といい、むやみに受けることを屍に与える俸禄といい、『詩経』の「素餐」の詩が作られた由来がそれです。昔、虢仲・虢叔が両国の任を辞さなかったのは、その徳が厚かったからであり、周公旦・召公奭が燕・魯の封土を辞退しなかったのは、その功績が大きかったからです。
 今、臣は国から手厚い恩を受けること、今に至るまで三代となります。まさに陛下の天下泰平の世に当たり、聖なる恩沢に浴し、仁徳あふれる教化にたっぷりと潤い、厚き幸せというべきです。そして、身の程知らずにも東の藩に位を与えられ、爵位は上位にあって、身体は軽く暖かな衣類をはおり、口は様々な美味を飽きるほどに味わい、眼はきらびやかなものを愛で尽くし、耳は管絃の音楽を倦むほどに楽しんでいるのは、高い爵位と手厚い俸禄がこれを可能としているのです。退いて考えますに、古の爵禄を受けた者は、これとは異なっていて、みな優れた働きを為して国家を救い、君主を助けて民たちに恵みをもたらしたから爵禄を受けたのです。今、臣には述べるべき徳は無く、記すべき功績も無く、こうして生涯、王朝に利益をもたらすことがなければ、『詩経』の詩人たちが歌う「彼己」の謗りにかかることでしょう。このようなわけで、上を仰いでは王がいただく黒の冠に恥じ入り、下を向いては佩玉を連ねる朱色の紐に恥じ入っております。
 まさに今は天下が統一され、中国全土が安らかな状態です。ただ、西にはなお君命に歯向かう蜀があり、東には臣下として服従しない呉があって、辺境の兵士たちにはまだ甲冑を脱がせるわけにはいかず、軍の参謀たちにはまだ高枕で眠れる安心を与えられないのは、誠に、天下をひとつにして、それで太平の世を致さんとすればこそです。むかし、啓が有扈を滅ぼして夏の功業は光り輝き、成王が殷の残党や奄に打ち勝って周の徳は顕れ出ました。今、陛下は聖なる英明さで天下を統べられ、これからまさに周の文王・武王の功業を全うし、成帝・康帝の隆盛を受け継ごうとしていらっしゃるところで、善良なる者を選び、能力ある者に官を授け、方叔・邵虎のごとき臣下による四方の国境の護衛を、国家の爪牙としているのは、至当と言うべきです。しかしながら、空高く飛ぶ鳥が、軽やかに放たれる繳に未だ掛からず、水底深く潜む魚が、餌を仕掛けた釣り針に未だ掛からないのは、恐らくは釣射の術が未だ十分に尽くされていないからかもしれません。昔、耿弇は光武帝の救援を待たずに、張歩を急襲し、賊を君父に遺すわけにはいかないと言いました。その昔、車の右を守る者は轂が音を立てたことで自刃したとして、雍門狄は越に攻め込まれた斉の国境で自刎しました。この二人は、どうして生を憎んで死を尊んだと言えましょうか。誠にその君主を侮り凌辱した者たちへの憤懣から自らを投げ出したのです。
 そもそも君主が臣下を大切にするのは、それによって害を除き、利を起こそうとするため、臣下が君主に仕えるのは、必ずそれで自身を犠牲にして乱を鎮め、手柄をあげて君主に報いるためです。昔、賈誼は二十歳で属国の官として試用されるよう求め、匈奴の単于の首をつないでその命を拘束したいと申し出ましたし、終軍は若い年で使者として越に赴き、長い紐を手に入れてその王の心中を推し測りつつ、漢王朝の北の宮闕に引っ張ってこようとしました。この二人の臣下は、どうして好き好んで君主に大言壮語し、世間でもてはやされようとしたでしょうか。志に鬱屈するものがあって、才や力を存分に発揮し、能力を明君のために差し出そうとしたのです。昔、漢の武帝が霍去病のために邸宅を造営した時、去病はこれを辞退して言いました。「匈奴は未だ滅んでいない。臣は家なんぞをどうしようというのだ」と。もとより国を憂えて家を忘れ、我が身を投げ出して国難を救うのは、忠臣の志です。
 今、臣は王朝の外におり、待遇が手厚くないわけではありませんが、そうして横になっても敷物の上で落ち着かず、食事をしても味わう余裕がないのは、伏して思うに、二方が未だ討伐できていないのが気がかりなのです。拝察するに、先の武皇帝の武官や老練の兵士たちは、老齢となって逝去した者でもその評判が聞こえております。賢者は世に乏しくないとはいえ、老練の将軍や古参の兵士たちはなお戦いに習熟しております。内心、身の程知らずにも思いますに、我が志は命を投げ出すことにあり、毛髪ほどのささやかな功績を立てて、受けたご恩に報いたいということです。もし、陛下におかれて不世出の詔を示され、臣に剣の尖端ほどの働きをさせていただけるならば、もし西のかた曹真大将軍の下で、一つの部隊に当たらせてもらえるならば、あるいは東のかた曹休大司馬の下で、二軍の任務を統率させてもらえるならば、きっと危険をものともせず、舟を走らせ黒馬を疾駆させ、刀剣を突き立て、切っ先に触れんばかりに、兵士たちの先頭に立って戦います。未だ孫権を生け捕りにし、諸葛亮の首を討ち取ることができなくても、どうか、その大将を捕らえ、その大勢の敵兵たちを皆殺しにすることをお許しいただきたい。そうすれば、必ずやあっという間に戦利品をあげ、それによって終身の恥を雪いで、名を歴史書に記させ、事績を王朝の記録に連ねさせるように致します。体が蜀との国境で分断され、首が呉の宮闕にかけられたとしても、それでもなお生きているのと同然という態度でおりましょう。
 もしこの微才が試されず、逝去して名が聞こえることもなく、ただいたずらにその身を豊かに栄えさせるだけで、生きていても国家の大事に貢献することはなく、死んでも国家の命運に損失を及ぼすことはなく、虚しく上位の官を担い、手厚い俸禄をかたじけなくして、自由を奪われた禽獣のように、白髪頭になるまで生きながらえるだけならば、これはただ柵に囲われた家畜であるに過ぎず、臣の志すところではございません。
 噂によりますと、東軍は備えを失い、士卒は少しく損傷を受けたそうで、これを聞いて、臣は食事もうっちゃって、袂を打ち振るい、裾をまくり上げ、剣をなでつつ東方を顧みて、心はもう呉会の地へと馳せております。臣は昔、先の武皇帝に従って、南は赤岸の際まで迫り、東は東海に臨み、西は玉門を望み、北は長城を踏み越えましたが、拝察するに、軍隊を動かし兵器を用いる方法のあり様は、神業とも言うべきものでございました。もとより兵事はあらかじめ予定を立てて論じることはできず、難所に臨んで異変を制圧するものです。臣が志すのは、自身をこの明君の時代に投げ出し、聖なる御世に功績を立てたいということです。歴史書を広く眺め、古の忠臣義士が、はかない命を差し出して、国家の困難に殉じ、その肉体は屠られ八つ裂きにされようとも、功績はかの景公の鋳造した鍾にくっきりと刻まれ、名声は竹帛に記されて後世に伝わっているのを見るたびに、いつも胸を打ってため息をつかないではいられません。
 臣の聞くところでは、明君は臣下を用いるのに、罪ある者も斥けないといいます。それゆえ、敗北した将軍は、秦・魯に用いられて、その功業を成し遂げ、冠の紐を絶たれ馬を盗んだ臣下は、楚・趙に赦されて、その国難を救いました。臣がひそかに感じているのは、先帝は早くに崩御され、威王曹彰は亡くなってしまったのに、臣だけが何者なのか、生きながらえているということです。常に恐れているのは、朝露よりも先に命を落として墓穴を埋め、墳墓の土も乾かないうちに、肉体も名もともに滅びてしまうということです。
 臣はこう聞いております。駿馬が長く嘶いて、伯楽はその能力を明察し、盧の犬が悲しげに吠えて、韓の国の人々はその才能を知った、と。ですから、その馬の力を斉・楚の間の長い道で発揮させ、それで一日に千里をゆく任務を存分に完遂させ、その犬の力を、狡兎のすばしこさに対して試みて、それで兔を打ち倒して咬むという働きができるか、試してみるのです。今、臣が志すのは犬や馬のごとき微力を尽くすことですが、ひそかに自ら推し測りますに、結局伯楽や韓国の人々のごとき推挙がありません。だから涙を流して慟哭し、ひそかに自身を痛ましく思っているのです。
 そもそも博奕を前にしてつま先立ち、音楽を耳にしてひそかに手拍子を取る者は、ひょっとして音楽を鑑賞でき、博奕の遊び方を知っているのではないでしょうか。昔、毛遂は趙の下っ端の奴隷でしたが、それでも嚢中の錐の喩えに仮託して、それで主を悟らせ功績を立てました。まして勢い盛んな大魏の多士済済たる王朝において、悲憤慷慨して難局に死を賭して臨もうという臣下がいないものでしょうか。そもそも自ら媒酌人となって自身を売り込むのは、男女の恥ずべき行為で、時流に迎合して出世を求めるのは、道家が明確に忌避するところです。それなのに臣が敢えて陛下に陳情したのは、誠に自分は国家と骨肉の間柄であって、憂患はこれをともにすべき者だからです。どうか、塵や露のような微細な存在で、大いなる山海を補益し、蛍や燭の末の光で、日月に輝きを加えさせていただきとうございます。この気持ちゆえに、敢えてその醜行を冒して、その忠義心を捧げます。きっと王朝の士人たちに笑われるだろうことは分かっていますが、聖なる君主は発言者が誰であるかによってその言葉を斥けたりはしません。伏して思いますに、陛下には少しく耳を傾けていただけますよう。そうすれば、臣は幸甚に存じます。
  
【語釈】
○入則事父、出則事君 『論語』子罕篇にいう「出則事公卿、入則事父兄、喪事不敢不勉、不為酒困、何有於我哉(出でては則ち公卿に事へ、入りては則ち父兄に事へ、喪事には敢へて勉めずんばあらず、酒困を為さざるは、何か我に有らんや)」を踏まえる。士人としての常識。
○慈父不能愛無益之子、仁君不能畜無用之臣 『墨子』親士にいう「雖有賢君、不愛無功之臣、雖有慈父、不愛無益之子(賢君有りと雖も、無功の臣を愛せず、慈父有りと雖も、無益の子を愛せず)」を踏まえる。
○夫論徳而授官者、成功之君也 『史記』巻八十・楽毅列伝に引く、燕の恵王への返書にいう「察能而授官者、成功之君也、論行而結交者、立名之士也(能を察して官を授くるは、功を成すの君なり、行ひを論じて交はりを結ぶは、名を立つるの士なり)」、『荀子』君道にいう「論徳而定次、量能而授官、皆使其人載其事而各得其所宜(徳を論じて次を定め、能を量りて官を授け、皆(王念孫の校勘により「其」をトル)人をして其の事を載(な)して各〻其の宜しき所を得しむ)」を踏まえる。
○量能而受爵者、畢命之臣也 『文選』李善注に引く『尸子』に、「君子量才而受爵、量功而受禄也(君子は才を量りて爵を受け、功を量りて禄を受くるなり)」と。
○故君無虚授、臣無虚受 『管子』法法に「明君不以禄爵私所愛、忠臣不誣能以干爵禄(明君は禄爵を以て愛する所に私せず、忠臣は能を誣りて以て爵禄を干めず)」、王符『潜夫論』忠貴に「明主不敢以私愛、忠臣不敢以誣能。夫窃人之財、猶謂之盗。況偸天官以私己乎(明主は敢へて以て愛するに私せず、忠臣は敢へて以て能を誣(いつは)らず。夫れ人の財を窃むは、猶ほ之を盗と謂ふ。況んや天官を偸みて以て己に私するをや)」と。
○尸禄 職責を果たさず、俸禄だけ受け取ること。『文選』李善注に引く「韓詩章句」に、「何謂素餐。素者質也。人但有質朴、而無治民之材、名曰素餐。尸禄者、頗有所知、善悪不言、黙然不語、苟得禄而已、譬若尸矣(何をか素餐と謂ふ。素とは質なり。人の但だ質朴有るのみにして、民を治むるの材無き、名づけて素餐と曰ふ。尸禄とは、頗る知る所有るに、善悪を言はず、黙然として語らず、苟(かりそ)めに禄を得るのみ、譬ふれば尸の若し)」と。
○詩之素餐 『詩経』魏風「伐檀」に「彼君子兮不素餐(彼の君子は素餐せず)」と。「素餐」は、前掲「尸禄」と同義。前掲注に示す「韓詩章句」を参照。
○二虢不辞両国之任、其徳厚也 「二虢」は、周文王の弟の虢仲と虢叔。それぞれ東虢、西虢に封ぜられた。『春秋左氏伝』僖公五年、虢を討つ晋侯に加担しようとした虞公を諫める宮之奇の言に、「虢仲虢叔、王季之穆也。為文王卿士、勲在王室、蔵於盟府(虢仲・虢叔は、王季〔周文王の父〕の穆〔二世〕なり。文王の卿士と為りて、勲は王室に在りて、盟府に蔵せらる)」とある。「両国」と「二虢」との対応関係については諸説あるが、前掲『左伝』の正義に引く賈逵の説に従っておく。「其徳厚」は、『荀子』君道にいう「徳厚者進而佞説者止、貪利者退而廉節者起(徳の厚き者は進みて佞説する者は止まり、利を貪る者は退きて廉節なる者は起く)」を踏まえる。
○旦奭不譲燕魯之封、其功大也 「旦奭」は、周文王の子であり、武王の弟である周公旦と召公奭。それぞれ魯と燕に封ぜられた。『史記』巻四・周本紀に、周の武王が殷の紂王を討伐した後に封じた「功臣謀士」として、「封弟周公旦於曲阜、曰魯。封召公奭於燕(弟の周公旦を曲阜に封じて、魯と曰ふ。召公奭を燕に封ず)」とある。
○三世 魏の武帝曹操、文帝曹丕、明帝曹叡をいう。曹植から見て、その父、兄、甥に当たる。
○陛下 明帝曹叡をいう。
○升平 天下泰平。『文選』李善注に引く『孝経鉤命決』に、「明王用孝、升平致誉(明王は孝を用て、升平 誉れを致す)」と。
○沐浴聖沢 『史記』巻二十四・楽書に、「君子不為約則修徳、満則弃礼、佚能思初、安能惟始、沐浴膏沢而歌詠勤苦(君子は約すれば則ち徳を修め、満つれば則ち礼を弃つるを為さず、佚して能く初めを思ひ、安んじて能く始めを惟ひ、膏沢に沐浴して勤苦を歌詠す)」とあるのを踏まえるか。
○徳教 『孝経』天子章に「愛敬尽於事親、而徳教加於百姓、刑于四海、蓋天子之孝也(愛敬 親に事ふるに尽き、而して徳教をば百姓に加へ、四海を刑す、蓋し天子の孝なり)」とある。
○窃位東藩 「窃位」とは、官位を与えられながら職責を果たさないこと。『論語』衛霊公に「臧文仲其窃位者与(臧文仲は其れ位を窃む者ならんか)」と。「窃位」、李善注本は「位窃」に乙す。今、五臣注本、集注本『文選』巻七十三、『魏志』本伝に従って改める。「東藩」は、東方の諸侯。『漢書』巻五十三・景十三王伝(中山靖王勝)に、「位雖卑也、得為東藩、属又称兄(位は卑しと雖ども、得て東藩と為り、属も又た兄と称す)」と。本作品の成った太和二年当時、曹植は、洛陽の東方に位置する雍丘の王であった。
○身被軽煖 「軽煖」の用例として、『文選』李善注に引く『孝経援神契』に「甘肥適口、軽煖適神(甘肥は口に適し、軽煖は神に適す)」、『墨子』辞過に、「聖王」が作った「衣服の法」として「冬則練帛之中、足以為軽且煖(冬は則ち練帛の中、以て軽く且つ煖かしと為すに足る)」と。
○口厭百味 「百味」の用例として、『文選』李善注に引く崔駰「七依」に「雍人調膳、展選百味(雍人 膳を調へ、百味を展選す)」と。
○風人 『詩経』国風の詩人。
○彼己之譏 『毛詩』曹風「候人」に「彼其之子、不称其服(彼の其の子、其の服に称はず)」、鄭箋に「不称者、言徳薄而服尊(称はずとは、徳薄くして服尊きを言ふ)」と。陳寿祺撰・陳喬樅述『三家詩遺説考』韓詩遺説攷六(王先謙編『清経解続編』巻1155所収)は、『韓詩』では「其」を「己」に作るとする。
○玄冕 諸侯の正装で用いられる黒い冠。『周礼』夏官、弁師に「掌王之五冕。皆玄冕、朱裏、延紐(王の五冕を掌る。皆玄冕、朱裏、延紐なり)」と。
○朱紱 諸侯の佩玉に付ける朱色の組紐。『礼記』玉藻に「公侯佩山玄玉而朱組綬(公侯は山玄玉を佩びて朱の組綬なり)」と。『文選』李善注に引く『蒼頡篇』に「紱、綬也」と。
○方今天下一統、九州晏如 『文選』李善注に引く『尚書大伝』に「周公一統天下、合和四海(周公は天下を一統して、四海を合和せしむ)」と。また、「九州晏如」の類似表現として、司馬相如「難蜀父老」(『文選』巻四十四)に「及臻厥成、天下晏如也(厥の成るに臻るに及んで、天下晏如たるなり)」と。
○税 捨てる。『爾雅』釈詁に「税、舎也」と。
○高枕 憂慮することがない様子をいう。近い文脈での用例として、『漢書』巻四十八・賈誼伝に引く彼の上疏に「陛下高枕、終亡山東之憂矣(陛下は枕を高くして、終に山東の憂ひ亡からん)」と。
○太和 すばらしい統治がもたらした天下泰平をいう。『法言』孝至に「或問泰和。曰、其在唐虞成周乎。観書及詩温温乎、其和可知也(或ひと泰和を問ふ。曰く、其の唐・虞・成周に在らんか。書及び詩を観れば温温乎として、其の和すること知る可きなり)」、李軌注に「発号出令而民説之(号を発し令を出して民は之を説ぶ)」と。「太」は「泰」に同じ。
○啓滅有扈 「啓」は夏王朝の禹の子。「有扈」は夏に服従しなかった国の名。『尚書』甘誓に「啓与有扈戦于甘の野(啓は有扈と甘之野に戦ふ)」、『史記』巻二・夏本紀に「有扈氏不服、啓伐之、大戦於甘。……遂滅有扈氏、天下咸朝(有扈氏服せず、啓は之を伐たんと、大いに甘に戦ふ。……遂に有扈氏を滅ぼして、天下咸朝す)」と。
○成克商奄 「成」は周王朝の武王の子、成王。「商奄」とは、殷王朝の残党と、周に反した奄の国。『尚書』大誥に「武王崩。三監及淮夷叛。周公相成王、将黜殷、作大誥(武王崩ず。三監及び淮夷叛す。周公 成王を相け、将に殷を黜ぼさんとして、大誥を作る)」、孔安国伝に「三監、管蔡商。淮夷、徐奄之属。皆叛周(三監とは、管・蔡・商なり。淮夷とは、徐・奄の属なり。皆 周に叛す)」と。また、『史記』巻四・周本紀に、成王即位後のこととして「召公為保、周公為師、東伐淮夷、残奄(召公 保と為り、周公 師と為り、東のかた淮夷を伐ち、奄を残(ほろぼ)す)」と。
○陛下以聖明統世 『漢書』巻五十八・兒寛伝にいう「陛下躬発聖徳、統楫群元(陛下は躬ら聖徳を発し、群元を統楫す)」の顔師古注に引く臣瓉注に「統、猶総覧也(統とは、猶ほ総覧なり)」と。
○文武之功 「文武」は、周の文王と武王。『毛詩』大雅「生民」の小序に「文武之功、起於后稷(文・武の功は、后稷より起こる」と。
○成康之隆 「成康」は、周の成王と康王。『文選』巻一「東都賦」李善注に引く『春秋命歴序』に「成康之隆、醴泉涌出(成康の隆まるや、醴泉 涌出す)」と。
○簡 選ぶの意。『爾雅』釈詁下に「柬、択也」と。「簡」は「柬」と音義ともに通ず(邢昺疏)。
○方叔 周の宣王が南征して蛮荊を伐った時の武将。『毛詩』小雅「采芑」に「方叔涖止、其車三千(方叔は涖む、其の車は三千)」、毛伝に「方叔、卿士也。受命而為将也」、その小序に「采芑、宣王南征也」と。
○邵虎 周の宣王に淮夷の討伐を命じられた武将。『毛詩』大雅「江漢」に「江漢之滸、王命召虎(江漢の滸、王は召虎に命ず)」、毛伝に「召虎、召穆公也」、その小序に「江漢、尹吉甫美宣王也。能興衰撥乱、命召公平淮夷(江漢は、尹吉甫 宣王を美するなり。能く衰を興こし乱を撥め、召公に命じて淮夷を平らげしむ)」と。「邵」は「召」と音が同じ。
○国爪牙 国の防衛をするもの。『毛詩』小雅「祈父」に「祈父、予王之爪牙、胡転予于恤、靡所止居(祈父よ、予は王の爪牙なるに、胡ぞ予を恤ひに転じ、止居する所靡からしむる)」と。
○耿弇不俟光武、亟撃張歩、言不以賊遺於君父也 『太平御覧』巻四一七に引く『東観漢記』に、「張歩攻耿弇。時上在魯、聞弇為歩所攻、自往救之、未至、陳俊謂弇曰、虜兵盛、可且閉営休士、以須上来。弇曰、乗輿且到、臣子当撃牛釃酒以待百官。反欲以賊虜遺君父耶。乃出大戦、自旦及昏、復大破之。後数日車駕至臨淄、自労軍也(張歩 耿弇を攻む。時に上は魯に在り、弇が歩の攻むる所と為るを聞きて、自ら往きて之を救はんとして、未だ至らず、陳俊 弇に謂ひて曰く「虜兵盛んなり、且く営を閉ぢ士を休ましめ、以て上の来るを須つ可し」と。弇曰く「乗輿 且し到らば、臣子は当に牛を撃ち酒を釃して以て百官を待つべし。反って賊虜を以て君父に遺らんと欲するや」と。乃ち出でて大いに戦ひ、旦より昏に及ぶまで、復た大いに之を破る。後に数日にして車駕は臨菑に至り、自ら軍を労ふなり)」と記す逸話を指す。
○車右伏剣於鳴轂、雍門刎首於斉境 『説苑』立節に見える次の説話を指す。すなわち「越甲至斉、雍門子狄請死之。斉王曰、鼓鐸之声未聞、矢石未交、長兵未接、子何務死。知為人臣之礼邪。雍門子狄対曰、臣聞之、昔者王田於囿、左轂鳴、車右請死之、而王曰、子何為死。車右対曰、為其鳴吾君也。王曰、左轂鳴者、工師之罪也。子何事之有焉。車右曰、臣不見工師之乗、而見其鳴吾君也。遂刎頸而死。知有之乎。斉王曰、有之。雍門子狄曰、今越甲至、其鳴吾君也。豈左轂之下哉。車右可以死左轂、而臣独不可以死越甲也。遂刎頸而死。是日、越人引甲而退七十里。……斉王葬雍門子狄以上卿之礼(越甲 斉に至り、雍門子狄 死せんことを請ふ。斉王曰く「鼓鐸の声 未だ聞こえず、矢石 未だ交はらず、長兵 未だ接せざるに、子は何ぞ死せんと務むるや。人臣為るの礼を知るや」と。雍門子狄は対へて曰く「臣 之を聞く、昔 王は囿に田(かり)し、左轂 鳴りて、車右は死せんことを請へば、王曰く『子何為れぞ死せん』と。車右対へて曰く『其の吾が君に鳴るが為なり』と。王曰く『左轂の鳴るは、工師の罪なり。子に何事か之れ有らんや』と。車右曰く「臣は工師の乗を見ずして、其の吾が君に鳴るを見るなり』と。遂に刎頸して死す。之有るを知れるか」と。斉王曰く「之有り」と。雍門子狄曰く「今 越甲至りて、其れ吾が君に鳴るなり。豈に左轂の下ならんや。車右は以て左轂に死す可く、而して臣は独り以て越甲に死す可からずや」と。遂に刎頸して死す。是の日、越人は甲を引きて退くこと七十里、……斉王は雍門子狄を葬るに上卿の礼を以てす)」と。
○除害興利 ほぼ同じ句が、『文選』李善注に引く『尸子』に「禹興利除害、為万民種(禹は利を興し害を除き、万民の為に種う)」と見える。
○賈誼弱冠求試属国、請係単于之頸而制其命 『漢書』巻四十八・賈誼伝に、文帝への上疏を引いて、「陛下何不試以臣為属国之官、以主匈奴。行臣之計、請必係単于之頸而制其命(陛下 何ぞ試みに臣を以て属国の官と為し以て匈奴に主たらしめざる。臣の計を行ひて、請ふらくは必ずや単于の頸を係ぎて其の命を制せんことを)」と。
○終軍以妙年使越、欲得長纓占其王、羈致北闕 『漢書』巻六十四下・終軍伝に「南越与漢和親、乃遣軍使南越、説其王、欲令入朝、比内諸侯。終軍自請、願受長纓、必羈南越而致之闕下(南越 漢と和親せんとし、乃ち軍を遣はして南越に使ひし、其の王に説かしめ、入朝して、諸侯に比び内(い)れしめんと欲す。終軍 自ら請ふらく「願はくは長纓を受け、必ず南越を羈(つな)ぎて之を闕下に致さんと」)」とある。なお、終軍はその後二十余歳で亡くなった。「占」は、心中ひそかに思い量る。『爾雅』釈言に「隠、占也」、郭璞注に「隠度」と。賈誼と終軍の故事は、先行する孔融「薦禰衡表」(『文選』巻三十七)に「昔賈誼求試属国、詭係単于、終軍欲以長纓、牽致勁越(昔 賈誼は属国に試されんことを求めて、単于を係(つな)ぐと詭(いつは)り、終軍は欲するに長纓を以てして、勁越を牽(ひ)き致さんとす)」と見えている。
○漢武為霍去病治第、辞曰、匈奴未滅、臣無以家為 『漢書』巻五十五・霍去病伝に「上為治第、令視之、対曰、匈奴不滅、無以家為也(上は為に第を治め、之を視しむれば、対へて曰く「匈奴 滅せず、家を以て為す無きなり)」とある。
○憂国忘家 同一句が、『文選』李善注に引く趙岐『孟子章指』に「憂国忘家(国を憂へ家を忘る)」と。
○寝不安席、食不遑味 類似句として、『戦国策』秦策三に、秦の昭王が蒙驁に亡国の臣である応侯の心中を問い、「今也寡人一城囲、食不甘味、臥不便席。今応侯亡地而言不憂、是其情也(今や寡人は一城囲まれ、食しては味を甘しとせず、臥しては席に便(くつろが)ず。今 応侯は地を亡ひて憂へずと言へるは、是れ其の情なるか)」と。
○即世 この世を去る。逝去。李善注は、『春秋左氏伝』昭公二十六年、王子朝(周の景王の子)が発した諸侯への布告の中に見える、「穆后及太子寿、早夭即世、単劉賛私立少以間先王(穆后及び太子寿は、早夭にして世に即き、単(旗)・劉(狄)は私を賛し少を立て以て先王に間す)」を挙げる。
○宿将 古参の将軍。たとえば、『史記』巻七十三・白起王翦列伝に「王翦為秦将、夷六国。当是時、翦為宿将、始皇師之(王翦は秦将為りて、六国を夷らぐ。是の時に当たりて、翦は宿将為り、始皇は之を師とす)」と。
○不世 世にも稀な。『文子(通玄真経)』下德に、「欲治之主、不世出。可与治之臣、不万一。以不世出、求不万一、此至治所以千歳不一(治めんと欲するの主は、世に出でず。与に治む可きの臣は、万に一ならず。不世出を以て、不万一を求む、此れ至治の千歳に一もあらざる所以なり)」と。
○錐刀之用 小さな刀の尖端のような働き。李善注に引く『東観漢記』に引く黄香の上疏に、「以錐刀小用、蒙見宿留也(錐刀の小用を以て、宿留せらるるを蒙るなり)」と。
○西属大将軍 ここにいう「大将軍」は、西方の諸葛亮を破った曹真を指す。『魏志』巻三・明帝紀、太和二年の条に「蜀大将諸葛亮寇辺、天水、安南、安定三郡吏民叛応亮。遣大将軍曹真都督関右、並進兵。右将軍張郃撃亮於街亭、大破之(蜀の大将 諸葛亮 辺を寇(あだ)し、天水、安南、安定の三郡の吏民は叛して亮に応ず。大将軍曹真を遣りて関右に都督たらしめ、並びに兵を進めしむ。右将軍張郃 亮を街亭に撃ち、大いに之を破る)」と。
○一校之隊 大将軍の下に就く校尉の部隊。司馬彪『続漢書』百官志一によると、大将軍は五つの部隊を統括し、各部隊に校尉が一人配属される。
○東属大司馬 ここにいう「大司馬」は、東方の呉と戦った曹休を指す。『魏志』明帝紀、太和二年九月の条に「曹休率諸軍至皖(曹休 諸軍を率いて皖に至る)」と。
○統 眺めわたして統括する。『漢書』巻五十八・兒寛伝「統楫群元」の顔師古注に引く臣瓉の注に「統、猶総覧也」と。
○驪 黒馬。『礼記』檀弓上に「夏后氏尚黒、……戎事乗驪」、鄭玄注に「戎、兵也。馬黒色曰驪」と。
○為士卒先 同じ辞句が、『漢書』巻四十五・伍被伝に「大将軍号令明、当敵勇、常為士卒先(大将軍 号令は明らかに、敵に当たりては勇にして、常に士卒の先と為る)」と見えている。
○禽権馘亮 孫権を生け捕りにし、諸葛亮を討つ。「馘」については、『毛詩』大雅「皇矣」に「攸馘安安(馘(みみき)る攸(ところ)安安たり)」、毛伝に「馘、獲也。不服者殺而献其左耳、曰馘(馘とは、獲るなり。服せざる者は殺して其の左耳を献ず、馘と曰ふ)」と。
○殲 悉く平らげる。『爾雅』釈詁上に「觳・悉・卒・……殲・拔・殄、尽也」と。
○醜 多くの。『爾雅』釈詁上に「黎・庶・烝・多・醜・師・旅、衆也」、その郭璞注に「皆見詩」と。
○捷 戦利品。『春秋左氏伝』荘公三十一年の経文「斉侯来献戎捷(斉侯 来りて戎捷を献ず)」の杜預注に「捷、獲也」と。
○朝策 朝廷の記録。「策」は、文字を記した竹の札。諸本「栄」に作る。今『文選』集注本に拠って改める。
○身分蜀境 李善注は、『文選』巻九・班彪「北征賦」にいう「首身分而不寤兮、猶数功而辞諐(首身分かれて寤(さと)らず、猶ほ功を数へて諐(あやまち)を辞す)」の影響を指摘する。
○首懸呉闕 『史記』巻一一〇・匈奴列伝に、使者郭吉が匈奴の単于に告げて「南越王頭已懸於漢北闕(南越王の頭は已に漢の北闕に懸けらる)」と(『漢書』巻六・武帝紀にも見える記事)。
○猶生之年也 同じ辞句が、李善注に引く傅毅「与荊文姜書」にも「雖死之日、猶生之年(死の日と雖も、猶ほ生の年のごとし)」と見える。
○没世無聞 『論語』衛霊公にいう「君子疾没世而名不称焉(君子は世を没(を)へて名の称せられざるを疾む)」を踏まえる。
○禽息鳥視 「禽」は、鳥獣で未だ孕んでいないもの(『周礼』天官・庖人の鄭玄注)。一句は、捕らわれた禽獣のように、ただ生きるだけのことをいう。視覚や呼吸のみを残して、かろうじて生きながらえることを意味する「視息」という熟語がある。蔡琰「悲憤の詩」(『後漢書』巻八十四・列女伝)に「為復彊視息、雖生何聊頼(為に復た彊ひて視息せんとするも、生くると雖も何の聊頼かあらん)」と。
○圏牢之養物 囲われた場所で養われる家畜をいう。『説文解字』六篇下・囗部に「圏、養畜之閑也」、同二篇上・牛部に「牢、閑也。養牛馬圏也」、『周礼』地官・充人の鄭玄注に「牢、閑也」と。
○流聞 あまりよろしくない伝聞が流れる。『漢書』巻二十七中之下・五行志中之下に、王音が成帝に対して「泆行流聞、海内伝之、甚於京師(泆行 流聞し、海内 之を伝へ、京師よりも甚し)」と。
○東軍失備 東方の呉と戦った曹休が敗れたことをいう。『魏志』明帝紀、太和二年九月の条に、前掲「東属大司馬」の注に引いた文に続いて「与呉将陸議戦於石亭、敗績(呉将陸議と石亭に戦ひ、敗績す)」とある。
○衂 くじける。
○攘袵 衣服の裾を払う。「奮袂」とともに、憤激するさまを表す。
○撫剣 剣に手をかける。いきり立ったさまを表す。たとえば『春秋左氏伝』襄公二十六年に、叔向の無視に怒った子朱が「撫剣従之(剣を撫して之に従ふ)」とある。
○赤岸 広陵(江蘇省)あたりの地名。『文選』巻三十四、枚乗「七発」に広陵の曲江の波を描写して、「凌赤岸、篲扶桑、横奔似雷行(赤岸を凌ぎ、扶桑を篲(はら)ひ、横(ほしひまま)に奔ること雷の行(めぐ)るに似たり)」と。
○東臨滄海 「滄海」は、東の海。曹操「歩出夏門行」(『宋書』巻二十一・楽志三)に「東臨碣石、以観滄海(東のかた碣石に臨み、以て滄海を観る)」と。
○玉門 西域と内地とを区切る関所の名。敦煌郡竜勒県にある(『漢書』巻二十八下・地理志下)。
○玄塞 北狄の侵入を阻止する長城を指す。五行思想で北方の色は黒。よって黒を意味する「玄」を冠する。
○行軍用兵之勢、可謂神妙也 兵法の絶妙さを「神」と表現する例として、『孫子』虚実篇に「能因敵変化而取勝者、謂之神(能く敵に因りて変化し而して勝を取る者、之を神と謂ふ)」と。
○兵者不可豫言、臨難而制変者也 兵法における臨機応変の重要性を説く例として、前掲『孫子』虚実篇の直前に、「水因地而制流、兵因敵而制勝。故兵無常勢、水無常形(水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝を制す。故に兵に常勢無く、水に常形無し)」と。
○以殉国家之難 類似表現として、司馬遷「報任少卿書」(『文選』巻四十一)に、李陵について「常思奮不顧身、以徇国家之急(常に奮ひて身を顧みず、以て国家の急に徇はんことを思ふ)」と。
○功銘著於景鍾 『国語』晋語七に、即位した晋の悼公が魏頡(顆の子)に対して「昔克潞之役、秦来図敗晋功。魏顆以其身却退秦師于輔氏、親止杜回。其勲銘於景鍾(昔 克潞の役にて、秦来りて晋の功を敗らんと図る。魏顆は其の身を以て秦師を輔氏に却退せしめ、親ら杜回を止む。其の勲は景鍾に銘せらる)」と言った。その韋昭注に「景鍾、景公鍾也(景鍾とは、景公の鍾なり)」と。なお、「景鍾」と「竹帛」との対句は、楊修「答臨淄侯牋」(『文選』巻四十)にも、「若乃不忘経国之大美、流千載之英声、銘功景鍾、書名竹帛、斯自雅量素所畜也(乃ち経国の大美を忘れず、千載の英声を流し、功を景鍾に銘まれ、名を竹帛に書かるるが若きは、斯れ雅量の素より畜ふる所自りするものなり)」と見える。
○名称垂於竹帛 『墨子』兼愛下に「以其所書於竹帛、鏤於金石、琢於槃盂、伝遺後世子孫者知之(其の竹帛に書し、金石に鏤(きざ)み、槃盂に琢(きざ)む所を以て、後世の子孫に伝遺すれば之を知るなり)」と。
○奔北敗軍之将用、秦魯以成其功 敗軍の将を再び用いて勝利した秦の事例として、『史記』巻五・秦本紀に記す次の故事がある。すなわち、秦の繆公は、老臣の百里傒・蹇叔の危惧を無視して、その子の孟明視・西乞術、及び白乙丙に晋を伐たせたが大敗した。繆公は、秦に返された三将軍を厚遇し、二度目の敗退後もいよいよ厚遇し、三度目に晋軍を大いに破ったという。[(繆公)使百里傒子孟明視、蹇叔子西乞術及白乙丙将兵。……(晋)発兵遮秦兵於殽、擊之、大破秦軍、無一人得脱者。虜秦三将以帰。……帰秦三将。……遂復三人官秩如故、愈益厚之。……繆公復益厚孟明等、使将兵伐晋、渡河焚船、大敗晋人、取王官及鄗、以報殽之役。]また魯の事例としては、『史記』巻八十六・刺客列伝に記す、曹沫と魯の荘公との故事がある。魯の曹沫は、斉と戦って三度敗走したが、荘公は彼を将軍の任から解かなかった。後に斉の桓公と魯の荘公とが盟約を交わす際、曹沫は匕首を以て桓公を脅迫し、三度の敗戦で失った土地を奪還したという。[曹沫者、魯人也、以勇力事魯荘公。莊公好力。 曹沫為魯将、与斉戦、三敗北。魯荘公懼、乃献遂邑之地以和。猶復以為将。斉桓公許与魯会于柯而盟。桓公与荘公既盟於壇上、曹沫執匕首劫斉桓公、桓公左右莫敢動、而問曰「子将何欲。」曹沫曰「斉強魯弱、而大国侵魯亦甚矣。今魯城壊即圧斉境、君其図之。」桓公乃許尽帰魯之侵地。……曹沫三戦所亡地尽復予魯。]
○絶纓盗馬之臣赦、楚趙以済其難 「絶纓」は、『説苑』復恩に見える次の故事をいう。すなわち、楚の荘王が設けた酒宴で、美人の衣を引いた者がいた。美人は、その者の冠の纓を断ち切って王に訴えたが、王はこれを不問に付した。救われた者は、後に晋との戦いで常に最前線で戦功を挙げたという。[楚荘王賜群臣酒、日暮酒酣、灯燭滅、乃有人引美人之衣者、美人援絶其冠纓、告王曰「今者燭滅、有引妾衣者、妾援得其冠纓持之、……」王曰「賜人酒、使酔失礼、奈何欲顕婦人之節而辱士乎。」乃命左右曰「今日与寡人飲、不絶冠纓者不懽。」群臣百有餘人皆絶去其冠纓而上火、卒尽懽而罷。居三年、晋与楚戦、有一臣常在前、五合五奮、首卻敵、卒得勝之、荘王怪而問曰……、対曰「……臣乃夜絶纓者。」遂敗晋軍、楚得以強。]。「盗馬」は、『呂氏春秋』仲秋紀・愛士に見える次の故事をいう。すなわち、秦の繆公に、逃げた馬を取って食べたことを許された野人たちは、後に韓原で秦が晋と戦った時、包囲されて攻撃される繆公の車を防衛し、秦に大勝利をもたらした。[昔者秦繆公乗駕(もと「馬」に作る。今、陳奇猷『呂氏春秋校釈』によって改める。)而車為敗、右服失而野人取之。繆公自往求之、見野人方将食之於岐山之陽。繆公歎曰「食駿馬之肉而不還(すみやかに)飲酒、余恐其傷女也。」於是徧飲而去。処一年、為韓原之戦、晋人已環繆公之車矣、晋梁由靡已扣繆公之左驂矣、晋恵公之右路石奮投而撃繆公之甲、中之者已六札矣。野人之嘗食馬肉於岐山之陽者三百有餘人、畢力為繆公疾闘於車下、遂大克晋、反獲惠公以帰。]この秦の逸話を、本文では「趙」としているのは、趙氏は秦と先祖を同じくしているためである。『史記』巻四十三・趙世家に「趙氏之先、与秦共祖」と。
○先帝 文帝曹丕。黄初七年(二二六)、四十歳で崩御した(『魏志』巻二・文帝紀)。
○威王 任城王曹彰。曹丕の弟、曹植の兄に当たる。黄初四年六月、上京した洛陽で没した(前掲『魏志』文帝紀、同巻十九・任城威王彰伝)。
○先朝露、填溝壑 「朝露」は、はかない人生の象徴。『漢書』巻五十四・蘇武伝に、李陵が蘇武に匈奴への降伏を説得した言葉の中に、「人生如朝露、何久自苦如此(人生は朝露の如し、何ぞ久しく自ら苦しむること此くの如き)」と。この両句は、『列女伝』貞順伝に記す、梁の寡婦、高行が梁王に言った「妾夫不幸早死、先狗馬填溝壑(妾が夫は不幸にして早く死に、狗馬に先んじて溝壑を填む)」を踏まえる。
○墳土未乾 同じフレーズが、『漢書』巻68「霍光伝」に、霍禹(霍光の子)が宣帝への不満を語った中に、「将軍墳土未乾、尽外我家(将軍が墳土は未だ乾かざるに、尽く我が家を外す)」とある。
○身名並滅 類似表現として、『文選』李善注に引く李尤「武功歌」に「身非金石、名倶滅焉(身は金石に非ず、名も倶に焉に滅ぶ)」とある。
○騏驥長鳴、伯楽昭其能 「騏驥」は駿馬、「伯楽」は馬を見る目がある人。『戦国策』楚策四に記す次の記事、すなわち、汗明なる人物が春申君に、車を引いて坂道を行き悩んでいた駿馬が、伯楽に出会い、天を仰いで長く嘶いたのは、伯楽が自分の理解者であることを知っていたからだと述べて、自身の任用を求めたという記事を踏まえる。
○盧狗悲号、韓国知其才 「盧狗」は、韓の国の名犬、韓子盧。『戦国策』斉策三に、魏を伐とうとした斉王を諫めようと、淳于髠が語った次の話、すなわち、天下の壮犬韓子盧が、狡兎東郭逡を追いかけて、共倒れとなった両者を、農夫が労せずして手に入れたという物語に見えている。ただ、それが「悲号」したことについては出所未詳。
○斉楚之路 斉(山東省)と楚(湖北省)とをむすぶ道。遠い道のりをいう。
○千里之任 一日に千里を走るという駿馬の任務。『荀子』修身に「夫驥一日而千里、駑馬十駕則亦及之矣(夫れ驥は一日にして千里なるも、駑馬も十駕せば則ち亦た之に及ぶ)」と。
○於邑 涙を流し、声を上げて悲しむさま。双声語。『楚辞』九歎「憂苦」に「長嘘吸以於悒兮(長く嘘吸して以て於悒す)」、王逸注に「嘘吸・於悒、皆啼泣貌也」と。「邑」は「悒」と同音。
○博 昔のボードゲーム。『説文解字』五篇上・竹部に「簙、局戯也。六箸、十二棊也」と。
○企竦 つま先立ちになって立つ。『説文解字』八篇上・人部に「企、挙歱也」と。
○抃 両手を打ち鳴らす。『説文解字』十二篇上・手部に「拚、拊也」と。「抃」は「拚」に同じ。
○昔毛遂趙之陪隷、猶仮錐嚢之喩、以寤主立功 秦に包囲された趙は、平原君に楚との合従を提案させることとなった。随行を志願した毛遂を、嚢中の錐のように突出した存在ではないとして平原君は斥けたが、毛遂はこれに反駁して同行し、楚王の同意を取り付けた故事(『史記』巻七十六・平原君伝)を踏まえる。[秦之囲邯鄲、趙使平原君求救、合従於楚、約与食客門下有勇力文武備具者二十人偕。……得十九人、餘無可取者、無以満二十人。門下有毛遂者、前、自賛於平原君曰……平原君曰「夫賢士之処世也、譬若錐之処嚢中、其末立見。今先生処勝之門下三年於此矣、左右未有所称誦、勝未有所聞、是先生無所有也。先生不能、先生留。」毛遂曰「臣乃今日請処嚢中耳。使遂蚤得処嚢中、乃穎脱而出、非特其末見而已。」平原君竟与毛遂偕。……平原君与楚合従、言其利害、日出而言之、日中不決。……毛遂按剣歴階而上、……毛遂按剣而前曰「……合従者為楚、非為趙也。吾君在前、叱者何也?」楚王曰「唯唯、誠若先生之言、謹奉社稷而以従。」]
○自衒自媒者、士女之醜行也 楚から越に赴き、呉越の関係について越王と深く語り合う范蠡を、大夫の石買が批判して言った「衒女不貞、衒士不信。客歴諸侯、渡河津、無因自致。殆不真賢也(衒女は貞ならず、衒士は信ならず。客は諸侯を歴し、河津を渡り、自ら致すに因無し。殆ど真の賢ならざるなり」(『越絶書』越絶外伝記范伯)を踏まえる。
○干時求進者、道家之明忌也 たとえば『荘子』山木に、「昔我聞之大成之人曰、自伐者無功、功成者堕、名成者虧。孰能去功与名而還与衆人(昔 我は之を大成の人に聞く 曰く、自ら伐(と)る者は功無く、功成る者は堕(やぶ)れ、名成る者は虧(うしな)はる。孰か能く功と名とを去りて還して衆人と与にする)」と。
○与国分形同気、憂患共之者也 肉親であることを言う。『呂氏春秋』季秋紀、精通に「父母之於子也、子之於父母也、一体而両分、同気而異息。若草莽之有華実也、若樹木之有根心也、雖異処而相通、隠志相及、痛疾相救、憂思相感、生則相歓、死則相哀、此之謂骨肉之親(父母の子に於けるや、子の父母に於けるや、一体にして両つながら分かれ、気を同じくして息を異にす。草莽の華実有るが若く、樹木の根心有るが若く、処を異にすと雖も相通じ、志を隠すとも相及び、痛疾あらば相救ひ、憂思あらば相感じ、生きては則ち相歓び、死しては則ち相哀しむ、此を之れ骨肉の親と謂ふ)」と。
○以塵露之微、補益山海 『文選』李善注に引く謝承『後漢書』に、楊喬の言葉として「猶塵附泰山、露集滄海、雖無補益、款誠至情、猶不敢嘿也(猶ほ塵の泰山に附き、露の滄海に集まるがごとく、補益する無しと雖も、款誠至情もて、猶ほ敢へて嘿せざるなり)」とあるのを踏まえる。
○蛍燭末光、増輝日月 「蛍燭末光」とは、ホタルやロウソクといった元来が弱い光の、更に末端の微光をいう。君主を「日月」に喩えた例として、『淮南子』主術訓に「人主之居也、如日月之明也(人主の居るや、日月の明るきが如きなり)」と。
○聖主不以人廃言 『論語』衛霊公にいう「子曰、君子不以言挙人、不以人廃言(子曰く、君子は言を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず)」を踏まえる。