08-15 与楊徳祖書

08-15 与楊徳祖書  楊徳祖に与ふる書

【解題】
楊修(一七五―二一九)、字は徳祖に書き送った書簡。『魏志』巻十九・陳思王植伝の裴松之注に引く『典略』によると、楊修は、後漢の太尉楊彪の子。建安中(一九六―二二〇)、孝廉に挙げられ、郎中となったが、曹操に要請されて倉曹属主簿となった。魏の太子以下、こぞって彼との交友を求めたが、特に曹植との間で多く書簡が交わされた。本作品はそのひとつ。テキストは李善注本『文選』巻四十二に拠る。楊修の返書は「答臨淄侯牋」(前掲『魏志』裴注引『典略』、『文選』巻四十)。本作品の成立時期は、建安二十一年(二一六)から翌年にかけて、曹丕「典論論文」よりもやや先んじる頃と推定される。岡村繁「曹丕の「典論論文」について」(『支那研究』第二四・二五号、一九六〇年)を参照。

植白、数日不見、思子為労、想同之也。
僕少小好為文章、迄至于今、二十有五年矣。然今世作者可略而言也。
昔仲宣独歩於漢南、孔璋鷹揚於河朔、偉長擅名於青土、公幹振藻於海隅、徳璉発迹於此魏、足下高視於上京。
当此之時、人人自謂握霊蛇之珠、家家自謂抱荊山之玉。吾王於是設天網以該之、頓八紘以掩之、今悉集茲国矣。
然此数子猶復不能飛軒絶跡、一挙千里。
以孔璋之才、不閑於辞賦、而多自謂能与司馬長卿同風、譬画虎不成、反為狗也。前書嘲之、反作論、盛道僕讃其文。
夫鍾期不失聴、于今称之。吾亦不能妄嘆者、畏後世之嗤余也。
世人之著述、不能無病。僕常好人譏弾其文、有不善者、応時改定。
昔丁敬礼常作小文、使僕潤飾之。僕自以才不過若人、辞不為也。敬礼謂僕、卿何所疑難、文之佳悪、吾自得之、後世誰相知定吾文者邪。吾常歎此達言、以為美談。
昔尼父之文辞、与人通流、至於制春秋、游夏之徒、乃不能措一辞。過此而言不病者、吾未之見也。
蓋有南威之容、乃可以論其淑媛、有龍泉之利、乃可以議其断割。劉季緒才不能逮於作者、而好詆訶文章、掎摭利病。昔田巴毀五帝、罪三王、呰五覇於稷下、一旦而服千人。魯連一説、使終身杜口。劉生之辯、未若田氏、今之仲連、求之不難、可無息乎。
人各有好尚、蘭茝蓀蕙之芳、衆人所好、而海畔有逐臭之夫、咸池六茎之発、衆人所共楽、而墨翟有非之之論、豈可同哉。
今往僕少小所著辞賦一通相与。夫街談巷説、必有可采、撃轅之歌、有応風雅、匹夫之思、未易軽棄也。辞賦小道、固未足以揄揚大義、彰示来世也。
昔揚子雲先朝執戟之臣耳、猶称壮夫不為也。吾雖徳薄、位為藩侯、猶庶幾勠力上国、流恵下民、建永世之業、留金石之功、豈徒以翰墨為勲績、辞賦為君子哉。
若吾志未果、吾道不行、則将采庶官之実録、辯時俗之得失、定仁義之衷、成一家之言。雖未能蔵之於名山、将以伝之於同好、非要之皓首、豈今日之論乎。其言之不慙、恃恵子之知我也。
明早相迎、書不尽懐。植白。

植白す、数日見えざれば、子を思ひて労を為す、想ふに之に同じからん。
僕は少小より好んで文章を為り、今に至るに迄ぶまで、二十有五年なり。然らば今の世の作者は、略して言ふ可きなり。
昔 仲宣は漢南に独歩し、孔璋は河朔に鷹揚し、偉長は青土に名を擅(ほしいまま)にし、公幹は藻を海隅に振るひ、徳璉は迹を此の魏に発し、足下は上京に高視す。
此の時に当たりて、人人自ら謂へらく霊蛇の珠を握れりと、家家自ら謂へらく荊山の玉を抱けりと。吾が王は是に於いて天網を設けて以て之を該(つつ)み、八紘を頓(ととの)へて以て之を掩ひ、今 悉く茲の国に集まれり。
然れども此の数子は猶ほ復た飛軒もて跡を絶ち、一挙して千里なること能はず。
以(おも)へらく孔璋の才は、辞賦に閑(なら)はず、而も多(た)だ自ら謂へらく 能く司馬長卿と風を同じくすとは、譬ふれば虎を画ひて成らず、反つて狗と為るなり。前に書もて之を嘲るに、反つて論を作り、盛んに道(い)へらく 僕 其の文を讃すと。
夫れ鍾期は聴を失はず、今に于ても之を称す。吾も亦た妄りに嘆ずる能はざるは、後世の余を嗤はんことを畏るればなり。
世人の著述は、病無きこと能はず。僕は常に人の其の文を譏弾するを好み、善からざる者有らば、時に応じて改定す。
昔 丁敬礼 常(=嘗)て小文を作り、僕をして之を潤飾せしむ。僕 自ら以(おも)へらく才は若(かくのごと)き人に過ぎずと、辞して為さざるなり。敬礼 僕に謂ふ、「卿は何の疑難する所ぞ。文の佳悪は、吾自ら之を得。後世 誰か吾が文を定むる者を相知らんや」と。吾 常に此の達言を歎じ、以て美談と為す。
昔 尼父の文辞、人と通流すれども、春秋を制するに至りては、游夏の徒も、乃ち一辞を措く能はず。此に過ぎて病あらずと言ふ者、吾は未だ之を見ざるなり。
蓋し南威の容有りて、乃ち以て其の淑媛を論ず可く、龍泉の利有りて、乃ち以て其の断割を議す可し。劉季緒 才は作者に逮ぶ能はざるに、而も好んで文章を詆訶し、利病を掎摭す。昔 田巴は五帝を毀(そし)り、三王を罪し、五覇を呰(そし)り、稷下に於いて、一旦にして千人を服せしむ。魯連 一たび説きて、終身 口を杜(ふさ)がしむ。劉生の辯は未だ田氏に若かず、今の仲連 之を求むること難からず、息(や)むこと無かる可けんや。
人には各〻好尚有り。蘭茝蓀蕙の芳は、衆人の好む所なれども、海畔には臭を逐ふの夫有り。咸池六茎の発は、衆人の共に楽しむ所なれども、墨翟には之を非(そし)るの論有り。豈に同じくす可けんや。
今 僕が少小より著せし所の辞賦一通を往(おく)り相与ふ。夫れ街談巷説にも、必ず采る可き有り、撃轅の歌にも、風雅に応ずる有り、匹夫の思ひも、未だ軽んじて棄つること易からざるなり。辞賦は小道にして、固より未だ以て大義を揄揚し、来世に彰示するに足らざるなり。
昔 揚子雲は先朝執戟の臣のみなるも、猶ほ壮夫は為さずと称するなり。吾は徳薄しと雖も、位は藩侯為りて、猶ほ庶幾(こひねが)はくは力を上国に勠(あは)せ、恵みを下民に流し、永世の業を建て、金石の功を留めんことを。豈に徒(ただ)に翰墨を以て勲績と為し、辞賦もて君子と為さんや。
若し吾が志 未だ果たされず、吾が道 行はれずんば、則ち将に庶官の実録を采り、時俗の得失を辯じ、仁義の衷(まこと)を定め、一家の言を成さんとす。未だ之を名山に蔵すること能はずと雖も、将に以て之を同好に伝へんとす。之を皓首に要(もと)むるに非ずして、豈に今日これ論ぜんや。其の言に之れ慙ぢざるは、恵子の我を知るを恃(たの)めばなり。
明早に相迎へん、書は懐ひを尽くさず。植白す。

【通釈】
拝啓。数日お会いしないと、そなたのことを思って気がふさぎます。想像するに、そなたも同じお気持ちでしょう。
私は年少の頃から好んで文章を作り、今に至るまで二十五年となりました。ですから今の世の作者たちについては大体語ることができます。
昔 王粲は漢水の南において抜きんでた文人であり、陳琳は黄河の北に勇名を馳せ、徐幹は青州にその名声をほしいままにし、劉楨は斉の一帯で存分に美文を織り成し、応瑒はこの魏の地から活躍を始め、そなたは帝都から四方を見下ろしておられました。
ちょうどこの時、人々は自身のことを、霊蛇の珠や荊山の玉のような、これを手に入れた者には富をもたらすような才能を持つ人材だと思っておりました。我が王は、そこで天下を被う網を設けて彼らを包み込み、天地を繋ぐ八本の綱を揃えて被い取り、今その人材が悉くこの国に集まっているのです。
けれどもこの数人の文人たちはまだ、軽やかな車を飛ばして足跡を絶ち、一挙して千里を飛翔するほどのことはできておりません。
思うに、陳琳の才能は、辞賦には習熟していないのに、ただ自分では司馬相如と同じ作風だと思っていて、これを譬えるならば虎を描いて虎と成らず、却って犬になってしまったようなものです。先ごろ書簡でこれを嘲笑したところ、彼は反対に論を作り、私が彼の文を称賛したと盛んに述べ立てておりました。
そもそも鍾子期が、伯牙の奏でる琴の音の中に、過たず彼の思いを聞き取ったことは、今でも称賛されています。私もまた妄りに感嘆することができないのは、後世の人々にあざ笑われることを畏れるからです。
世の中の人々の著述に、欠点がないことはあり得ません。私はいつも人から文章を批判されることを喜んで受け入れ、良くないところがあれば、随時改定するようにしています。
昔 丁廙は短文を作ったとき、私にその潤色を求めてきたことがありました。私は自身の才能をこのような人には及ばないものと考え、辞退して引き受けませんでした。すると丁廙は私にこう言いました。「君は何を慮って渋っておられるのですか。文章の良し悪しに関する批評は、私自身が受けるのです。後世、私の文章を改定した者のことは誰にもわからないでしょう。」私は常に、この拘りのない至言に感嘆し、美談としております。
昔 孔子はその文辞を人と拘りなく共有はしたけれども、『春秋』を制作するに至っては、子游や子夏といった文学に優れた高弟でさえ、一言も手を入れることはできませんでした。これを超えて、自分の文章には欠点がないと言う者に、私はいまだかつてお目にかかったことがありません。
思うに、南之威のような器量があってこそ、それをもとに美人を論評することができるのであり、龍泉の剣のような鋭利さがあってこそ、それをもとに剣の切れ味を議論できるのです。劉季緒は、才は作者にとても及ばないのに、好んで人の文章をあげつらい、長所短所を指摘します。昔、田巴は稷下において五帝を誹り、三王を罪人扱いし、五覇をけなして、一日に千人を屈服させました。そんな彼に対して、魯仲連は一たび説き、終身その口を塞がせました。劉生の弁舌はまだ田氏には及ばず、今の魯仲連は、難なくこれを求めることができるのですから、収束しないわけがないでしょう。
人には各〻好みというものがあって、蘭・茝・蓀・蕙のような香しさは、多くの人の好むものですが、海の畔には、悪臭を放つ人を好んで追いかける男もおります。咸池や六茎の音楽が始まると、多くの人は共に楽しむものですが、墨翟には音楽を非難する論があります。どうして人の好みを同一にすることなどできましょう。
今 私が年少のころから著した辞賦一束をお送りいたします。そもそも街角での談話にも必ず取るべき何かがあり、轅を撃って歌う民間歌謡にも風雅に合致するものがありまして、つまらぬ男の思いにも、軽々しく捨てるわけにはいかないものもあります。辞賦は小道であって、もとより大義を称揚し、未来にその価値を顕彰するには足りないものです。
昔、揚雄は先の王朝の侍郎に過ぎなかったのに、それでも壮夫は辞賦に手を染めないものだと言いました。自分は徳が薄いとはいえ、位は藩侯ですから、これでも、力を合わせて国家を盛り立て、恵みを下々の民たちに敷き広げ、永遠に残る仕事を成し遂げ、金石のように不滅の功績を残したいと考えております。どうして、ただ筆や墨を用いて手柄を立てたり、辞賦を作ることで自分をひとかどの人間だと思ったりなどしましょうか。
もし我が志が未だ果たされず、我が道が行われないならば、その時は百官の実録に取材して、時代の風俗の得失を明確に論じ分け、仁義の真心を自身の内に思い定めて、独創的な著述を成し遂げたいと考えております。これが名山に収蔵されることはまだかなわないにしても、これを同好の士に伝えたいと思います。このことは、白髪頭になる頃に求めるのでなくて、どうして今すぐにこれを問題にしましょうか。その言葉を恥じもせずぬけぬけと申し上げたのは、恵施のようなそなたが、私のよき理解者でいてくださることを頼みとすればこそです。
明日の朝お迎えに上がります。手紙では思いは書き尽くせません。敬具。

【語釈】
○僕少小好為文章、迄至於今二十有五年矣 曹植は十歳余りでよく詩文が作れたというが(前掲『魏志』本伝)、ここにいう「二十有五年」とは、生まれてから現在までの歳月を言う。
○仲宣独歩於漢南 「仲宣」は、王粲(一七七―二一七)の字。「漢南」は、漢水の南、荊州(湖南省常徳市)一帯を指す。王粲は長安の擾乱を避け、荊州に割拠する劉表のもとに身を寄せていた(『三国志(魏志)』巻二十一・王粲伝)。
○孔璋鷹揚於河朔 「孔璋」は、陳琳(一五六―二一七)の字。「河朔」は、黄河の北。ここでは冀州(河北省臨漳県)を指す。陳琳は、冀州に割拠する袁紹幕下で記室を務めていた(前掲王粲伝)。「鷹揚」は、鷹が空に飛揚するように勇名を馳せること。『毛詩』大雅「大明」に「維師尚父、時維鷹揚(維れ師尚父、時に維れ鷹揚たり)」と。
○偉長擅名於青土 「偉長」は、徐幹(一七〇―二一七)の字。「青土」は、『尚書』禹貢にいう古代九州のひとつ「青州」を指す。今の山東省から遼寧省にかけての地。徐幹は北海劇(山東省昌楽県)の人(『中論』序)。
○公幹振藻於海隅 「公幹」は、劉楨(?―二一七)の字。「海隅」は、『呂氏春秋』有始覧に「九薮」の一つとして「斉之海隅」とあり、また「九州」の一つとして「東方為青州、斉也」と見えている。劉楨の出身地、東平(山東省)はこの内に含まれる。
○徳璉発迹於此魏 「徳璉」は、応瑒(?―二一七)の字。その出身地、汝南郡の南頓(河南省)は、曹操が献帝を迎えた許都(河南省許昌市)に近い。曹魏政権の実質化はここに始まる。ゆえにこの地を指して「此魏」という。
○足下高視於上京 「足下」は、楊修を指す。その父楊彪は、後漢王朝の太尉(『魏志』陳思王植伝裴注に引く『典略』、『後漢書』巻五十四・楊震伝附楊彪伝)。ゆえに「上京」という。「上京」とは、国都の意。
○霊蛇之珠 漢の諸侯隋侯が、傷を負った大蛇に薬を塗ってやったところ、後に大蛇が大珠を銜えて返礼しに来た故事をいう。『淮南子』覧冥訓に、道なるものについて「譬如隋侯之珠、和氏之璧、得之者富、失之者貧(譬ふれば隋侯の珠、和氏の璧の如く、之を得る者は富み、之を失ふ者は貧し)」とあり、その高誘注に上述の内容を記す。
○荊山之玉 楚人の和氏が、荊山で見出した荒玉。和氏は、献上した王にその価値が認められず、足切りの刑を受けた。後に、和氏の嘆きに耳を傾けた王は、荒玉を磨かせて宝を得た。前掲の『淮南子』高誘注に見えるほか、より古くは、『韓非子』和氏に見えている。
○吾王 建安二十一年(二一六)に魏王となった曹操を指す。
○設天網以該之、頓八紘以掩之 類似する発想として、『文選』李善注に引く崔寔「政論」(佚)に、「挙弥天之網、以羅海内之雄(弥天の網を挙げて、以て海内の雄を羅す)」(厳可均『全後漢文』巻四十七)、また馬融「広成頌」(『後漢書』巻六十上・馬融伝)に、「挙天網、頓八紘(天網を挙げ、八紘を頓ふ)」と。「八紘」とは、八方の天地の隅をつなぐ綱。『淮南子』地形訓に「九州之外、乃有八殥。……八殥之外、而有八紘、亦方千里(九州の外、乃ち八殥有り。……八殥の外、而して八紘有り、亦た方千里なり)」、高誘注に「紘、維也。維落天地而為之表、故曰紘也(紘は、維なり。天地を維落して之が表を為す、故に紘と曰ふなり)」と。
○一挙千里 『韓詩外伝』巻六に見える、船人盍胥が晋の平公に対して述べた「夫鴻鵠一挙千里、所恃者六翮爾(夫れ鴻鵠は一挙千里、恃む所は六翮のみ)」を踏まえる。
○孔璋之才、不閑於詞賦 陳琳の才能について、曹丕「与呉質書」(『文選』巻四十二)には「孔璋章表殊健、微為繁富(孔璋は章表殊健、微為繁富)」、同「典論論文」(『文選』巻五十二)には、阮瑀とあわせて、「琳瑀之章表書記、今之雋也(琳・瑀の章表・書記は、今の雋なり)」と論評されている。
○司馬長卿 前漢の辞賦作家、司馬相如(?―前一一八)、字は長卿。
○譬画虎不成、反為狗也 『文選』李善注に引く『東観漢記』に「馬援誡子厳書曰、效杜季良而不成、陥為天下軽薄子、所謂画虎不成反類狗也(馬援が子の厳を誡むる書に曰く、杜季良(杜保)に效ひて成らず、陥りて天下の軽薄子と為るは、所謂 虎を画きて成らず反つて狗に類するなり)」(『後漢書』巻二十四・馬援伝にも同様の記述あり)と。『東観漢記』に「所謂」とあることから、俗諺に類する辞句であったと推測される。
○鍾期不失聴 琴の名手伯牙と、そのよき理解者である鍾子期との故事をいう。伯牙が琴を演奏しつつ思うことを、鍾子期はすべて音の中に聴き取ったという(『列子』湯問)。
○僕常好人譏弾其文…… この基層にある考え方として、たとえば『荀子』修身に「非我而当者、吾師也。是我而当者、吾友也。諂諛我者、吾賊也(我を非として当たる者は、吾が師なり。我を是として当たる者は、吾が友なり。我に諂諛する者は、吾が賊なり)」と。
○丁敬礼 曹植の側近の一人である丁廙。[04-14 贈丁廙]の解題を参照。
○潤飾之 文章の草稿につやや彩りを加える。『論語』憲問に「為命、裨諶草創之、世叔討論之、行人子羽修飾之、東里子産潤色之(命を為るに、裨諶之を草創し、世叔之を討論し、行人子羽之を修飾し、東里の子産之を潤色す)」と。
○若人 このような人。『論語』公冶長に「子謂子賤、君子哉若人(子、子賤を謂はく、君子なる哉、若き人)」、何晏集解に引く包咸注に「若人者、若此人也(若人とは、此の若き人なり)」と。ここでは、丁敬礼すなわち丁廙を指す。
○以為美談 人が称賛するような立派な事柄。『春秋公羊伝』閔公二年に、斉の桓公は、荘公の没後長らく君主不在であった魯を滅ぼさず、使者高子を遣わして僖公を立てさせたことについて、「魯人至今以為美談(魯人は今に至るまで以て美談と為す)」と。
○尼父 孔子の諡(おくりな)。孔子の字、仲尼に由来する。『礼記』檀弓上に「魯哀公誄孔丘曰、天不遺耆老、莫相予位焉。嗚呼哀哉尼父(魯の哀公 孔丘を誄(いた)みて曰く、天は耆老を遺さず、予が位を相(たす)くる莫(な)し。嗚呼(ああ)哀しき哉尼父よ)」と。
○游夏之徒 孔子の高弟、言偃(字は子游)や卜商(字は子夏)。子游は孔子よりも四十五歳、子夏は四十四歳の年少で、両名とも文学に優れる(『史記』巻六十七・仲尼弟子列伝)。
○乃不能措一辞 ここまでの数句は、『史記』巻四十七・孔子世家にいう「孔子在位聴訟、文辞有可与人共者、弗独有也。至於為春秋、筆則筆、削則削、子夏之徒不能賛一辞(孔子 位にに在りて訟を聴くに、文辞に人と共にす可き者有らば、独有せざるなり。春秋を為(つく)るに至りては、筆すべきは則ち筆し、削るべきは則ち削り、子夏の徒も一辞を賛(たす)くる能はず)」の内容を踏まえる。
○南威 春秋時代晋国の美女。『戦国策』巻二十三・魏策二に「晋平公得南之威、三日不聴朝、遂推南之威而遠之曰、後世必有以色亡其国者(晋の平公は南之威を得て、三日聴朝せず、遂に南之威を推して之を遠けて曰く「後世に必ずや色を以て其の国を亡す者有らん)」と。
○龍泉 名剣の名。その産地に因んでこう称する。『戦国策』巻二十六・韓策一に、蘇秦が韓王を説得する中で「韓卒之剣戟、皆出於冥山、……龍淵、大阿、皆陸断馬牛、水撃鵠雁(韓卒の剣戟、皆冥山、……龍淵、大阿より出で、皆陸に馬牛を断ち、水に鵠雁を撃つ)」と。「龍淵」は「龍泉」に同じ。本文のみ、唐の高祖李淵の諱を避けたか。『三国志』裴注に引くところは「淵」に作る。
○劉季緒 李善注に引く摯虞『文章志』(佚)に、「劉表子。官至楽安太守。著詩賦頌六篇(劉表の子なり。官は楽安太守に至る。詩賦頌六篇を著す)」とある。『三国志』陳思王植伝裴注に引く同書は、劉季緒の名は脩であることを記し、「楽安」は「東安」に作る。
○昔田巴毀五帝……使終身杜口 戦国時代斉の雄弁家魯仲連が、世間を惑わす田巴の妄言を論破して口を塞がせた故事をいう。李善注に引く『魯連子』に「斉之辯者曰田巴、辯於狙丘、而議於稷下、毀五帝、罪三王、一日而服千人。有徐劫弟子曰魯連、謂劫曰、臣願当田子、使不敢復説(斉の辯者 田巴と曰ふ、狙丘に辯じて、稷下に議し、五帝を毀ち、三王を罪し、一日にして千人を服せしむ。徐劫の弟子に魯連と曰ふもの有り、劫に謂ひて曰く、臣願はくは田子に当たりて、敢へて復た説かざらしむ)」と。『史記』巻八十三・魯仲連鄒陽列伝に対する張守節「正義」に引く『魯連子』も同様な内容を記す。「五帝」は、伝説上の五人の聖天子。『史記』巻一・五帝本紀によれば、黄帝・顓頊・帝嚳・堯・舜をいう。「三王」は、夏の禹、殷の湯王、周の文王。「五覇」は、春秋時代の五人の覇者。諸説あるが、「三王」の道が衰退した後を受けて中国の復興に尽力した、夏の昆吾氏、商の大彭氏・豕韋氏、斉の桓公、晋の文公としておく。『白虎通』号・論三皇五帝三王五伯を参照。「稷下」は、今の山東省淄博市臨淄区の北。斉の宣王がここに学者を集めて優遇した(『史記』巻四十六・田敬仲完世家)。「杜口」は、口をつぐませる。用例として、『漢書』巻四十九・鼂錯伝に、鄧公が景帝に鼂錯を評して「内杜忠臣之口、外為諸侯報仇(内に忠臣の口を杜(ふさ)ぎ、外に諸侯の為に仇に報ず)」と。
○海畔有逐臭之夫 『呂氏春秋』孝行覧、遇合にいう「人有大臭者、其親戚兄弟妻妾知識無能与居者、自苦而居海上、海上人有説其臭者、昼夜随之而弗能去(人に大いに臭ふ者有り、其の親戚兄弟妻妾知識に能く与に居る者無し、自ら苦しみて海上に居れば、海上の人に其の臭ひを説(よろこ)ぶ者有り、昼夜之に随ひて去ること能はず)」を踏まえる。
○咸池 五帝の一人、黄帝が作った音楽。『楽動声儀』(『文選』所収の本作品、及び巻十七、傅毅「舞賦」の李善注に引く)に、「黄帝楽曰咸池(黄帝の楽を咸池と曰ふ)」と。次の注も参照されたい。
○六茎 五帝の一人、顓頊が作った音楽。『漢書』巻二十二・礼楽志に「昔黄帝作咸池、顓頊作六茎(昔黄帝咸池を作り、顓頊六茎を作る)」と。
○墨翟有非之之論 墨翟の思想を著した『墨子』に、音楽を否定する趣旨の非楽篇がある。もと上中下の三篇があったが、現存するのはその上のみ。
○街談巷説 これより以下数句は、『漢書』巻三〇・藝文志、諸子略にいう「小説家者流、蓋出於稗官。街談巷語、道聴塗説者之所造也。孔子曰、雖小道、必有可観者焉……。閭里小知者之所及、亦使綴而不忘。如或一言可采、此亦芻尭狂夫之議也(小説家なる者の流れは、蓋し稗官より出づるなり。街談巷語、道聴塗説者の造る所なり。孔子曰く、「小道と雖も、必ず観る可者有り……。」閭里の小知者の及ぶ所も、亦た綴りて忘れざらしむ。如し一言の采る可き或らば、此れも亦た芻尭・狂夫の議なり)」を踏まえる。
○撃轅之歌 民衆が歌う歌。崔駰「西巡頌表」(『太平御覧』巻五八八)に、「唐虞之世、樵夫牧監、撃轅中韶、感於和也(唐虞の世、樵夫・牧監、轅を撃ちて韶に中たるは、和に感ずればなり)」と。
○風雅 『詩経』の国風、小雅、大雅。敷衍して、典雅な詩文をいう。
○揚子雲 前漢末の辞賦作家、揚雄(前53―後18)。「子雲」はその字。
○先朝執戟之臣耳 「執戟之臣」とは、宮中の警備官。東方朔「答客難」(『史記』巻一二六・滑稽列伝、『文選』巻四十五)に「官不過侍郎、位不過執戟(官は侍郎に過ぎず、位は戟を執るに過ぎず)」、『史記』巻九十二・淮陰侯列伝に、韓信の言として「臣事項王、官不過郎中、位不過執戟(臣は項王に事へて、官は郎中に過ぎず、位は戟を執るに過ぎず)」(『漢書』巻三十四・韓信伝にも同様の句あり)という用例が見える。これらにより、侍郎や郎中の職にある者を指してこう称したと知られる。『漢書』巻八十七下・揚雄伝賛に、揚雄の事蹟として「奏羽猟賦、除為郎(羽猟賦を奏し、除せられて郎と為る)と。
○揚子雲……猶称壮夫不為也 揚雄『法言』吾子にいう「或曰、吾子少而好賦。曰、然。童子彫虫篆刻。俄而曰、壮夫不為也(或るひと曰く、吾子は少くして賦を好めり、と。曰く、然り。童子は彫虫篆刻す、と。俄かにして曰く、壮夫は不為さざるなり、と)」を踏まえる。
○勠力 力を合わせる。『国語』晋語四に「晋鄭兄弟也。吾先君武公与晋文侯勠力一心、股肱周室、夾輔平王(晋・鄭は兄弟なり。吾が先君武公は晋の文侯と力を勠(あは)せ心を一にして、周室に股肱たりて、平王を夾輔す)」と。
○上国 帝室との対比において、藩国を指していう。
○流恵下民 天子の恩恵を、仲介者として民に敷き広げる。王褒「四子講徳論」(『文選』巻五十一)に、「今刺史質敏以流恵、舒化以揚名(今刺史は質は敏にして以て恵みを流(し)き、化を舒べて以て名を揚ぐ)」と。
○建永世之業 『書経』微子之命にいう「作賓于王家、与国咸休、永世無窮(王家に賓と作り、国と咸く休く、永世窮まり無し)」を響かせ、王室とともにある永遠をいう。
○流金石之功 同様な文脈での用例として、『呉越春秋』勾践伐呉外伝第十に、楽師が越王に君王たる者の功徳を説いて「功可象於図画、徳可刻於金石、声可託於絃管、名可留於竹帛(功は図画に象る可く、徳は金石に刻む可く、声は絃管に託す可く、名は竹帛に留む可し)」と。
○実録 『漢書』巻六十二・司馬遷伝の班固による賛に、「自劉向・揚雄博極群書、皆称遷有良史之材、服其善序事理、辨而不華、質而不俚、其文直、其事核、不虚美、不隠悪、故謂之実録(劉向・揚雄の博く群書を極めてより、皆遷には良史の材有りと称し、其の善く事理を序するに服し、辨じて華ならず、質にして俚ならず、其の文は直にして、其の事は核たりて、虚しくは美ならず、悪を隠さず、故に之を実録と謂ふ)」と。
○一家之言 前掲『漢書』司馬遷伝に引く「報任少卿書」(『文選』巻四十一にも収載)に、『史記』について「凡百三十篇、亦欲以究天人之際、通古今之変、成一家之言(凡そ百三十篇、亦た以て天人の際を究め、古今の変を通じ、一家の言を成さんと欲す)」とあるのを踏まえる。
○蔵之於名山、伝之於同好 前掲の司馬遷「報任少卿書」に、「僕誠已著此書、蔵之名山、伝之其人、通邑大都(僕誠に已て此の書を著し、之を名山に蔵し、之を其の人、通邑大都に伝へば)」とあるのを踏まえる。「其人」とは、その李善注に「謂与己同志者(己と志を同じくする者を謂ふなり)」と説明する。李善注は、孔安国「尚書序」(『文選』巻四十五)にいう「若好古博雅君子、与我同志、亦所不隠也(若し好古博雅の君子、我と志を同じくせば、亦た隠さざる所なり)」を踏まえるだろう。
○其言之不慙、恃恵子之知我也 李善注に、張衡の書(佚文)にいう「其言之不慙、恃鮑子之知我也(其の言に之れ慙ぢざるは、鮑子の我を知るを恃めばなり)」を踏まえることを指摘する。また、上の句は、『論語』憲問篇にいう「其言之不怍、則爲之也難(其の言に之れ怍ぢざれば、則ち之を為すことや難きなり)」を意識している。「恵子」は、荘周の友人である恵施。ここでは、曹植のよき理解者である楊修を指す。