曹植の「閨情」詩と「浮萍篇」
(昨日の続きです。)
古直はその『曹子建詩箋』巻四において、
「浮萍篇」と「閨情」(『玉台新詠』巻2「雑詩五首」其四)との類似性を指摘しています。
これは、自分には意表を突かれる鋭い指摘だったのですが、
縦覧してみたところ、他の注釈者は特に何の言及もしていないようでした。
古直の指摘で、特に興味を引かれたのは、
「浮萍篇」にいう
「恪勤在朝夕、無端獲罪尤(恪勤して朝夕に在りしに、端無くも罪尤を獲」と、
「閨情」詩にいう
「束身奉衿帯、朝夕不堕傾(身を束ねて衿帯を奉じ、朝夕堕傾せず)」との関連性です。
夫に棄てられた妻の嘆きは、漢魏詩においてそれほど珍しいテーマではありません。
しかし、そこに、罪を得た妻が終日謹んで務めに励む、という要素が加わっている例は、
これらの曹植作品に先行して他にあったかどうか。
また、「浮萍篇」の冒頭にいう
「浮萍寄清水、随風東西流(浮萍清水に寄せ、風に随ひて東西に流る)」と、
「閨情」詩にいう次の対句、
寄松為女蘿 松に寄せて女蘿(ひめかづら)と為り、
依水如浮萍 水に依りて浮萍の如し。
この両者が同趣旨であることも、示唆に富む古直の指摘です。
「閨情」詩にいう「寄松為女蘿」は、
『毛詩』小雅「頍弁」にいう
豈伊異人、兄弟匪他 豈に伊(こ)れ異人ならんや、兄弟にして他に匪(あら)ず。
蔦与女蘿、施于松柏 蔦と女蘿と、松柏に施(し)く。
を踏まえた表現であり、
これは、明らかに兄弟間の親密さを希求して詠じたものです。
(このことは、すでにこちらの雑記でも述べています。)
以上の両視線が交差するところには、
黄初年間中、曹丕・曹植兄弟をめぐって起こった、
一連の出来事が浮かび上がってくるように思えてなりません。*
それが、牽強付会か、推定と称し得るものなのか、吟味したいと思います。
2024年6月7日
*柳川順子「黄初年間における曹植の動向」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第2号、2023年3月)、「曹氏兄弟と魏王朝」(『大上正美先生傘寿記念三国志論集』汲古書院、2023年9月)を参照されたい。
牽強付会か推定か
敢えて一般的に言うならば、
中国の研究者は、詩の内容と現実の出来事とを結びつけて解釈することが多く、
日本の研究者は、詩と現実とを切り離して解釈しようとする傾向が強いように見えます。
たとえば、昨日言及した「浮萍篇」について、
伊藤正文『曹植』(岩波・中国詩人選集、1958年)は、
古直の解釈を、非常に冷静な態度で次のように紹介しています(p.167)。
制作年代を、古直は黄初年間と推定する。
古直はこの篇を、棄婦に託して、兄弟君臣の感を歌ったものと考えたからであろう。
古直『曹子建詩箋』について、伊藤氏は、
「「文選」注なども収められており、教えられる所が多く、
特に古直氏のは、私には非常に有難かった」とまで述べているのですが(前掲書p.24)、
それでも、先人の説をつとめて客観的に扱おうとする姿勢が読み取れます。
そこで、古直の前掲書を見ると、
曹植「浮萍篇」の句「和楽如瑟琴」に対して、
『詩経』小雅「棠棣」を挙げ、更に「種葛篇」との類似性にも論及しています。
つまり、こちらの雑記で述べたことをさらりと指摘しているのです。
また、「浮萍篇」の表現について、「種葛篇」以外にも、
「閨情二首」其一(『曹集詮評』巻4、『玉台新詠』巻2「雑詩五首」其四)との類似性を、
具体的な辞句を挙げて指摘しています。
ただ、古直は、それらの句を「浮萍篇」の辞句と「同意」としか記していません。
このような記し方だと、ひとつの推測と見なされてしまうのかもしれません。
牽強付会の説と、根拠ある推定と、その分岐点はどこにあるのでしょうか。
作品の表現内容と現実の事物とを、その類似性のみに依拠して結びつけるならば、
それは牽強付会の説に落ちてしまうでしょう。
けれども、表現相互の関係性を精査しつつ、
なぜ作者がそのような表現上の関係性を作り出したのか、
あるいは、作者も意図しないところでなぜそのような関係性が生じたのか、
それを詰めていった先に見えてくるものは、根拠ある推定となり得るのだと考えます。
2024年6月6日
曹植の「浮萍篇」と「種葛篇」
本日、曹植「浮萍篇」の訳注稿を公開しました。
この詩は、以前にもこちらで言及したことのある「種葛篇」と、
とてもよく似た表現・内容を持っています。
第一に目に留まるのは、「種葛篇」にいう、
「窃慕棠棣篇、好楽如瑟琴(窃かに棠棣篇を慕ひ、好楽 瑟琴の如し)」が、
「浮萍篇」にも、同じ『詩経』小雅「棠棣」(『毛詩』では「常棣」)を踏まえて、
「和楽如瑟琴(和楽すること瑟琴の如し)」とあることです。
「種葛篇」の「好楽」が、「浮萍篇」では「和楽」となっていますが、
これにより、『詩経』にいう「兄弟既翕、和楽且湛」に一層近づくことになります。
こうしてみると、「浮萍篇」も「種葛篇」と同様に、
夫婦の離別に兄弟間の齟齬を重ねる、ダブル・ミーニングの詩だと捉えられます。
また、「浮萍篇」では、
二人が遠く隔てられている今を、昔と対比させて、
「曠若商与参(曠かなること商と参との若し)」と表現していますが、
「商与参」の語は、「種葛篇」の中にも、
「昔為同池魚、今為商与参(昔は池を同じくする魚為り、今は商と参と為り)」
と見えていましたし、
また、「曠」の字は、文脈は異なりますが、
「種葛篇」でも「恩紀曠不接(恩紀 曠しく接せず)」と用いられていました。
両作品は、非常に密接につながっていると言えそうです。
2024年6月5日
陸機詩の源流
陸機作品には曹植の表現がよく織り込まれています。
そうした例を、これまでにも何度か拾い上げてきましたが、
今日もまたひとつ、そうした例を記します。
陸機「呉王郎中時従梁陳作」(『文選』巻26)にいう
「在昔蒙嘉運(在昔 嘉運を蒙る)」は、
曹植「浮萍篇」(『玉台新詠』巻2)にいう
「在昔蒙恩恵(在昔 恩恵を蒙る)」を織り込んだ表現かもしれません。
とてもありふれた表現のように見えるのですが、
「在昔蒙」の三字が連なる例は、漢魏晋南北朝詩ではこの2例のみです。
『文選』李善注は、陸機の詩における曹植作品の影響を特に指摘してはいません。
文脈や内容の面で、先行する曹植作品を「踏まえている」わけではないので、
指摘がないということは、特段それを欠落とするには当たりません。
この場合の陸機作品における曹植文学の影響は、
いわゆる典故表現(非常に近い時代の作品を踏まえる)ではなく、
ある作家や作品によほど心酔して慣れ親しんだ人が、
自身の創作において、その敬愛する作家の表現を自然に想起して織り込んだ、
といったようなことではなかったでしょうか。
六朝梁の鍾嶸『詩品』上品「陸機」の条にいう、
「其源出於陳思(其の源は陳思より出づ)」との評は、
まことに故あってのことであったかと、深く納得させられました。
鍾嶸のこの評は、陸機詩における曹植の影響を感受してのことでしょう。
その素養のない自分は、疑問点に立ち止まり、調べてやっと、
当初の感覚のたしかさを確認することができます。
感覚はもちろん外れる場合もあります。
2024年6月2日
曹植詩のダブル・ミーニング
本日、曹植「種葛篇」の訳注稿を公開しました。
この楽府詩には、明らかに二つの意味が重ねられています。
ひとつは、夫の愛情を失った妻の悲しみ、
そしてもうひとつは、兄曹丕から受けた冷遇に対する曹植の悲嘆です。
なぜ、そのように言えるのか。
根拠の第一は、この詩の第七・八句に示された次の表現です。
窃慕棠棣篇 窃(ひそ)かに棠棣篇を慕ひ、
好楽如瑟琴 好楽 瑟琴の如し。
上の句にいう「棠棣」は、『詩経』小雅の篇名ですが、*1
それをわざわざ明記しているところに強い意図を感じます。
続く句は、その「棠棣」の中に見える次の句を踏まえたものです。
妻子好合 如鼓瑟琴 妻子好合すること、瑟琴を鼓するが如し。
兄弟既翕 和楽且湛 兄弟既に翕(あつ)まりて、和楽し且つ湛(たの)しむ。
このように「棠棣」の詩は、
夫婦和合を歌うとともに、兄弟が集って楽しむさまを詠じているのです。
また、「棠棣」詩全体の趣旨について、
『韓詩』の序は、現行の『毛詩』と同じく、次のように述べています。*2
夫栘、燕兄弟也。閔管蔡之失道也。
夫栘(棠棣に同じ)は、兄弟を燕(うたげ)するなり。
管蔡(周公旦の兄弟、管叔鮮と蔡叔度)の道を失ふを閔(いた)むなり。
このことに注目すると、「種葛篇」の冒頭二句、
種葛南山下 葛を種う 南山の下、
葛藟自成陰 葛藟 自ら陰を成す。
これもまた、『詩経』周南「樛木」に歌われた「葛藟」を意味すると同時に、
『詩経』王風の「葛藟」と題する詩篇をも想起させるものではないかと思えてきます。
王風「葛藟」の趣旨は、『毛詩』小序に(『韓詩』は伝存せず)、こう述べられています。
葛藟、王族刺平王也。周室道衰棄其九族焉。
葛藟は、王族の平王を刺(そし)るなり。周室 道衰へて其の九族を棄つ。
この発見で霧が晴れた、と雀のように小躍りしていたところ、
これらのことはすでに、朱緒曾『曹集考異』巻6にさらりとこう指摘してありました。
此亦不得於文帝、借棄婦而寄慨之辞。
篇中葛藟棠棣皆隠寓兄弟意。
此れも亦た文帝に得られず、棄婦に借りて慨を寄するの辞なり。
篇中「葛藟」「棠棣」は皆 兄弟の意を隠寓す。
相変わらず自分の知識が薄弱なことには恥じ入るばかりですが、
生まれたときから中国古典界にどっぷりと身を置いている者ではない以上、
前述のようにまわりくどく記していくほかありません。
2024年5月22日
*1 現行の『毛詩』では「常棣」に作る。詳細は、本詩訳注稿の語釈を参照されたい。
*2 陳寿祺撰・陳喬樅述『三家詩遺説考』韓詩遺説攷七(王先謙編『清経解続編』巻一一五六所収)を参照。なお、曹植作品における『詩経』が多く『韓詩』に拠っていることについては、こちら(2020.11.27)、(2023.03.13)も併せて参照されたい。
亡国の民の気持ち
先週末、福岡に出向いたとき、
ふと思い立って、九州大学箱崎キャンパス跡地を訪れました。
レンガ造りの工学部の建物以外は何もない、荒野を目の当たりにして、
一瞬、祖国を失った者の思いが自分と重なったような感覚におそわれました。
そこには、白骨もなければ、雑草の生い茂る廃屋もなく、
むしろ、これから何かが建てられていくのであろう囲いなどがあります。
けれど、私にはその光景が、時の趨勢によってなぎ倒された
「大学」の残骸のように感じられてなりませんでした。
それは、大学が移転を余儀なくされた実際の理由とは関わりません。
(それについては、自分は何も知りませんし、言う資格もありません。)
もっと漠然とした、ここ三十年ほど自分も身を以て体験してきた、
基礎的な学問に対する無理解と軽視、のようなものです。
基礎的な学問は、決して社会から切り離された、特権的な領域ではないと思う。
ただそれが社会に還元されるまでの時間的サイクルが異なるだけです。
人間社会には様々な組織や団体がありますが、
それらがすべて同じ価値観、同じ時間的サイクルで動いたらどうなるか。
そこに豊かな未来があるようにはとても思えません。
大学というものは、世間とは異なる存在のしかたを保持してこそ、
社会に対して真の貢献ができるのだと思います。
もっともそれは、旧来の学問の中に安住することでは決してありません。
ひとりひとりの研究者は常に自らを更新し続けています。
また、自分たちの社会的地位を守ろうとしているわけでもありません。
(よくこのような決めつけられ方をしたものですが。)
話が茫漠と広がっていくばかりなのはよろしくありません。
また具体的な考察へ戻りたいと思います。
「祖国」は失われたけれど、恩師の教えは常に心の中にあります。
岡村繁先生から学んだことを次世代の方々へ繋いでいく、
そのために自分にできるのは、真っ当な論文を書くということに尽きます。
立派な論文は書けなくても、姿勢として真っ当なものは目指せます。
2024年5月14日
潜魚と飛鳥(承前)
曹植「情詩」(『文選』巻29)に見える、
水底に潜む魚と、飛翔する鳥との対句について、
それを、自適の境遇にあるものを詠じた表現だと言えるかどうか。
このような躊躇を覚えたのはまず、
前回述べた、阮籍「詠懐詩」から遡っての捉えなおしによるものです。
そしてもうひとつ、曹植自身の「公讌詩」(『文選』巻20)に、
次のような対句が見えているからです。
潜魚躍清波 水底に潜んでいた魚は清らかな波間に躍り上がり、
好鳥鳴高枝 可愛い鳥が高い枝の上でさえずっている。
この句が詠ずるもの自体は、庭園の中のありふれた風物だと思われます。
たとえば、曹丕「善哉行・朝游」(『宋書』巻21・楽志三)にも、
宴の情景の中に「淫魚」と「飛鳥」とが詠じられています。
ただ、魚と鳥とが共に、曹植「情詩」にも登場していて、
そこでは、魚も鳥も、人間から距離を取った場所に身を置いている、
そこに、「公讌詩」と「情詩」との間を隔てる質的な相違を感じたのです。
「情詩」にそこはかとない影を感じたのは、
その冒頭句「微陰翳陽景(微陰 陽景を翳ふ)」にも由来します。
この句が描く情景は、文選巻29「古詩十九首」其一にいう、
「浮雲蔽白日(浮雲は白日を蔽ふ)」を思わせますが、
この古詩にいう「浮雲」と「白日」とは、
漢代、「邪佞の忠良を毀つを喩」えたものと捉えられていました(李善注)。
「情詩」と「古詩十九首」其一との共通項として、
帰ってこない「遊子」が詠じられていることも挙げられます。
以上のことが少し引っ掛かったので、訳注稿には追記しておきました。
けれど、詮索しすぎなのかもしれず、また後日、削除することになるかもしれません。
2024年5月7日
潜魚と飛鳥
曹植「情詩」(『文選』巻29)に、次のような対句が見えています。
游魚潜淥水 遊泳する魚は清らかな水の底に身を潜め、
翔鳥薄天飛 飛翔する鳥は天にも届かんばかりに高く飛ぶ。
この表現について、『文選』李善注は、
「言得所也(所を得るを言ふなり)」と解釈しています。
ですが、曹植のこの辞句をこのように捉えることが妥当かどうか。
というのは、阮籍「詠懐詩」其七十六に、*1
次のような対句があることを想起させられたからです。
綸深魚淵潜 釣り糸が深く垂れて、魚は淵の底に潜み、
矰設鳥高翔 いぐるみが設けられて、鳥は高く飛翔する。
阮籍のこの表現は、
『荘子』大宗師にいう
「且汝夢為鳥而厲乎天、夢為魚而没於淵
(且つ汝 夢に鳥と為りて天に厲(いた)り、夢に魚と為りて淵に没す)」
及び、これに対する郭象注、
「言無往而不自得也(言ふこころは 往きて自得せざるは無きなり)」
を念頭に置いたものではないか、と黄節は指摘します。*2
たしかに、『荘子』のこの部分を踏まえるとするならば、
阮籍の前掲の詩句は、自由自在な境地を詠じたものだと捉えられます。
けれども、どうしてもそこで立ち止まってしまうのは、
その魚や鳥の自由が、「綸深」「矰設」からの脱出であるからです。
単純に悠々自適の境地に遊んでいるわけがない。
では、それに先行する曹植「情詩」の方はどうでしょうか。
そこには、釣り糸や巧妙に仕掛けられた“いぐるみ”は見えていません。
ただそれでも、潜る魚や飛ぶ鳥を、自由や自適の象徴と見ることには躊躇を覚えます。
それはなぜか。その理由を少し掘り下げてみようと思います。
2024年5月6日
*1 作品番号は、黄節『阮歩兵詠懐詩註』(人民文学出版社、1984年)に拠った。
*2 黄節の前掲書p.92を参照。
曹植「種葛篇」と陸機の詩
曹植「種葛篇」に「恩紀曠不接(恩紀 曠しく接せず)」という句があります。
あまり見たことがないように感じた表現ですが、
「恩紀」は、比較的用例の多い、当時普通に用いられている語でした。
ところが、「曠不接」という字の並びは意外にも少なく、
漢魏晋南北朝時代を通して、陸機の次の二例が認められるくらいでした。
「贈尚書郎顧彦先二首」其一(『文選』巻24):
形影曠不接、所託声与音 形影 曠しく接せず、託する所は声と音とのみ。
「為顧彦先贈婦二首」其二(『文選』巻24):
形影参商乖、音息曠不達 形影 参商のごとく乖れ、音息 曠しく達せず。
陸機のこの二首の詩は、
「形影」「曠不」といった語の共有、
「声与音」と「音息」という語の類似性から見て、
ひとつの詩想でつながっているということは確かだと言えます。
そして、陸機のこの詩想は、
「曠不」という語の共有、離別という共通のテーマから見て、
曹植「種葛篇」に着想を得たものだと判断できます。
いや、曹植の表現に着想を得たというよりは、
強い共感・共鳴から生まれたものだと言った方が近いかもしれません。
自身の詩を磨き上げるために、先人の優れた表現を踏襲したというのではなくて。
曹植は、骨肉の乖離を夫婦のそれに喩えて表現しました。
そして、陸機は、故郷を遠く離れて異郷の西晋王朝に出仕した人です。
曹植が詠じた肉親との隔絶は、我が琴線に触れるテーマであったに違いありません。
なお、『文選』李善注は、如上の表現の類似性には言及していません。
加えて、前述のとおり、この表現は後の時代に継承された形跡が認められません。
まるで曹植と陸機との間でのみ交わされた目くばせのようです。
2024年5月3日
「塵」と「泥」
以前(2024.04.04)、検討したことの続きです。
「七哀詩」で詠じられた「清路塵」と「濁水泥」は、
「九愁賦」では「濁路之飛塵」と「清水之沈泥」とに変容していました。
「七哀詩」は、古詩「西北有高楼」「明月何皎皎」を特に顕著に踏まえています。
「九愁賦」については、丁晏「陳思王年譜」の序文に、*
王既不用、自傷同姓見放、与屈子同悲、乃為九愁・九詠・遠遊等篇、以擬楚騒。
王は既に用ゐられず、自ら同姓にして見放たるるを傷むこと、屈子と悲しみを同じくし、
乃ち九愁・九詠・遠遊等の篇を為りて、以て楚騒に擬す。
とあるとおり、自身を屈原に重ねて表現した、『楚辞』の模擬作品だと見られます。
王室と同姓でありながら放逐された屈原、彼に自らの境遇を重ねるということは、
曹操が存命中であった建安年間の曹植には、その必然性がありません。
おそらく、『楚辞』の模擬作品だと言える「九愁賦」が作られたのは、
曹操の没後のことだったと見てほぼ間違いないでしょう。
一方、「七哀詩」は王粲や阮瑀らとの競作であった可能性が高く、
もしそうだとするとその成立は建安年間です。
そして、このふたつの作品の間で、
上述のような「泥」と「塵」との転換が起こっているのです。
建安年間の終焉を境に、大きく変化したものは何かといえば、
それは第一に、曹丕とその弟たちとの関係性でしょう。
しかも、「塵」と「泥」を対比的に示す表現は、
もともとは、古詩にも、『楚辞』にも、無かった要素です。
「七哀詩」や「九愁賦」は、敢えて独自にこの要素を加えているのです。
そこに、作者曹植の詩想の磁場を感じないではいられません。
2024年5月2日
*『曹集詮評』(文学古籍刊行社、1957年)p.216。丁晏にこの言及のあることは、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)pp.37の指摘によって知り得た。