「清商三調」の語が指す範囲
目下の検討課題は、
西晋宮廷音楽における「大曲」の位置を、
「清商三調」との関係性に焦点を絞って明らかにすることです。
その際、あらかじめ明確にしておく必要があると考えるのは、
「清商三調」という語が指し示す範囲です。
というのは、「清商三調」という言葉は、
時代によって、その輪郭がかなりの振幅で動くように看取されるからです。
昨日も示したとおり、
『宋書』楽志三は、「清商三調」を定義して、
「荀勗の旧詞を撰びて施用せる者」と説明していました。
しかし、この西晋宮廷楽団は、王朝の滅亡(311)とともに散逸し、
北方の異民族系諸国を流浪した後、南朝宋の武帝によって奪還されました(417)。
この約百年間の空白は、西晋時代の原形をかなり損なったと想像されます。
したがって、南朝に入ってからの記録に見える「清商三調」には、
西晋時代のそれから外れる部分もあるだろうことを念頭に置く必要があります。
たとえば、『宋書』楽志一では、次のような文脈に「三調」が登場し、
そこに記された「(清商)三調」は、前掲の定義よりもやや広範囲を指すようです。
ひとつは、南朝の「呉歌雑曲」を列記し、それらを、
当初は徒歌であったが、後に管弦の伴奏が被せられるようになったもの、
と説明し、これらとの対比において、「三調」を次のように定義するくだりです。
又有因弦管金石造哥以被之。魏世三調哥詞之類、是也。
また別に、管絃や金石の楽器が奏でる楽曲にあわせて歌を作り、
そうしてできた歌辞に、楽曲の伴奏を被せるものがある。
曹魏の時代の「三調」歌辞の類がこれである。
もうひとつは、南朝劉宋の昇明二年(478)、尚書令の王僧虔が、
雑舞の類に金石の楽器の伴奏を付けるべきかという問題について上奏し、
あわせて「三調」の歌辞を論じたと記されている部分です。
その上表文の中に、次のようにあります。
今之清商、実由銅雀、魏氏三祖、風流可懐、京洛相高、江左彌重。
今の世の清商曲は、実に魏の銅雀台で歌われた諸歌曲に由来するもので、
魏王朝の三祖(曹操・曹丕・曹叡)が興した気風は深く敬慕され、
西晋の都洛陽で尊崇され、南朝では愈々重んぜられている。
このように、『宋書』楽志一に記された「(清商)三調」は、
『宋書』楽志三にいう、荀勗が選定した歌辞という要素を含んでいません。
三種の曲調(平調・清調・瑟調)を広く指す南朝の「清商三調」と、
漢魏の三調の諸歌辞から、荀勗が選んで制定した宮廷歌曲「清商三調」とは、
区別して論じる必要があると考えます。
そうしないと、論点が定まらなくなりそうです。
2023年5月4日
西晋宮廷歌曲群「大曲」の位置
これまで、ここで何度か考究を試みたことのある、(直近ではこちら)
西晋王朝の宮廷歌曲「清商三調」と「大曲」との関係について、
現時点での見解をまとめる作業に入ろうと考えています。
以前、「相和」と「清商三調」との違いを明らかにしたことがあります。*1
そこでは、主に「相和」の輪郭を描き出すことに力点を置きました。
そして、魏晋の宮廷音楽の実態を知る上で最善の資料は、
北宋末に郭茂倩が編纂した『楽府詩集』よりも、
南朝梁の初め頃に成った沈約『宋書』楽志であることを示しました。
この『宋書』楽志三において、
「相和」の諸歌辞が示された後に続くのが「清商三調」で、
その下に、次のような説明が付せられています。
荀勗撰旧詞施用者。
荀勗が旧詞[漢魏の歌辞]から選り抜いて(宮廷歌曲に)用いたものである。
続けて、「清商三調」の諸歌辞が「平調」「清調」「瑟調」に分けて列記され、
その後に示されるのが「大曲」十五篇、及び「楚調」一篇です。
この「清商三調」と「大曲」との狭間には、本質的に峻別すべき段差があるのか、
それとも、たとえば「平調」と「清調」との違い程度に過ぎないのか。
『宋書』楽志三所収の「大曲」はすべて、
南朝の王僧虔「技録」に「瑟調」として記されているものです。
(こちらをあわせてご覧ください。)
この「大曲」の歌辞群に続くのは「楚調」で、
「楚調」は南朝において、平・清・瑟の「清商三調」に連なると目されていたようです。
『文選』巻28、謝霊運「会吟行」の李善注に引く沈約『宋書』にこうあります。
第一平調、第二清調、第三瑟調、第四楚調、第五側調。然今三調、蓋清平側也。
第一に平調、第二に清調、第三に瑟調、第四に楚調、第五に側調である。
しかし今でいう三調とは、おそらく清調・平調・側調であろう。
沈約が「三調」をこのように捉えていた根拠は不明ですが、
当時、平・清・瑟・楚・側の五調が同系統と見られていたことは確かと言えるでしょう。
そうしてみると、「大曲」は「清商三調」の瑟調に連続的につながり、
更に「大曲」は、続く楚調「怨詩行」に無理なくつながることになります。
つまり、『宋書』楽志三所収の「清商三調」「大曲」「楚調」はすべて、
西晋王朝においては一連の歌曲群として扱われていたのであり、
だとすると、その編者は、
『宋書』楽志三に「清商三調」の編者として記される西晋の荀勗であろう、
とかつては考えていました。*2
ただ、この推測はどうにも荀勗の為人と重なりません。
(この疑念については、拙論*2でも触れました。)
それで、この問題を考え直す必要があると感じてきたのです。
2023年5月2日
*1 拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年2月)第五章第一節・第二節を参照されたい。この節のもとになったのは、「『宋書』楽志と『楽府詩集』―その「相和」「清商三調」の分類を巡って―」(『広島女子大学国際文化学部紀要』第11号、2003年2月)、「魏朝における「相和」「清商三調」の違いについて」(『九州中国学会報』第41巻、2003年5月)。
*2 拙論「晋楽所奏「怨詩行」考 ―曹植に捧げられた鎮魂歌―」(『狩野直禎先生追悼三国志論集』汲古書院、2019年9月)に、このように推論した。
若者曹植の放埓
先に指摘した、二十代半ば(建安年間)の曹植の様子からすると、
その三十歳(黄初二年)の時、監国謁者潅均によって摘発された言動は事実であり、
潅均の文帝曹丕に対する阿諛によるものとばかりは言えないかもしれません。
『三国志(魏志)』巻19・陳思王曹植伝にいう、
「酒に酔って放埓にふるまい、使者を脅しつけた(植酔酒悖慢、劫脅使者)」は、
それに類する言動が、建安年間のことを記した部分にも多々認められます。
たとえば、建安二十四年(219)、曹仁(曹操の従弟)が関羽に包囲されたとき、
曹操は曹仁救出のため、曹植を南中郎将・行征虜将軍に任命し、訓戒を与えようとしたが、
曹植は酔っぱらっていて、命を受けることができなかったという逸話。
この『三国志(魏志)』本伝の記述に関して、
裴松之注に引く『魏氏春秋』には次のようにあります。
植将行、太子飲焉、偪而酔之。王召植、植不能受王命、故王怒也。
植 将に行かんとして、太子(曹丕)焉(これ)に飲ましめ、偪(せま)りて之を酔はしむ。
王(魏王・曹操)は植を召すも、植は王命を受くる能はず、故に王は怒るなり。
『魏氏春秋』(『隋書』経籍志・史部・古史類)は、
歴史家として定評のある孫盛(『晋書』巻82に伝あり)の著書であって、
口さがない連中のうわさ話を興味本位で集めたような「小説家」ではないでしょう。
それでも、この記述の前半、曹丕が曹植を陥れたことをいう逸話は、
その真偽を保留にしておくのが適切だろうと思います。*
曹植は生来、規範に沿ったふるまいを為すことが困難な人だったのかもしれません。
加えて、血気盛んな若者にとって、自律的な生活態度の保持は高いハードルだったでしょう。
二十代(建安年間)の曹植作品は、こうしたことを視野に入れて読む必要がある、
それなのに、彼が生身の若者であったことをつい忘れます。
2023年5月1日
*西晋時代には、初代皇帝である武帝司馬炎の、同母弟・司馬攸に対する冷遇事件が広く知られており、その関係性が曹丕と曹植とを想起させるため、歴史書等における曹氏兄弟の記述に歪みが生じたと指摘されている。津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年3月)、津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)、矢田博士「曹植の「七哀」と晋楽所奏の「怨詩行」について―不可解な二箇所の改変を中心に―」(『松浦友久博士追悼記念中国古典文学論集』研文出版、2006年)を参照。
曹植の罪の意識(再び)
曹植は、「金瓠哀辞」(『曹集詮評』巻10)の中で、
半年ほどしか生きられなかった娘の夭折を、
自身の罪によるものだと慨嘆しています。(こちらをご覧ください。)
では、その罪とは何を指して言っているのでしょうか。
それを明らかにするためには、
この作品の成立時期を推定する必要があります。
過日、それは「行女哀辞」と同時期ではないかと述べました。
もしこの推定が妥当であるとするならば、
「行女哀辞」にいう「家王征蜀漢」が重要な示唆を与えてくれます。*1
「家王」すなわち魏王である曹操が、「蜀漢を征した」時期に、
本作品が作られたということをこの句は示しています。
曹操が魏王となったのは、建安21年(216)5月です。
他方、「行女哀辞」は、同題の作が徐幹や劉楨にもあって、
(こちらに示した『文章流別論』と『文心雕龍』哀弔篇をご覧ください。)
彼らは、建安22年(217)の初めに流行病で相次いで没しています。
ということは、この作品は、建安22年初頭よりも後の成立ではあり得ません。*2
では、建安21年5月から翌年春までの間に、
曹操が蜀漢を征伐したという史実はあるでしょうか。
『三国志』や『資治通鑑』を見る限り、それはありません。
この時期の出征は、孫呉に向かってであり、「蜀漢」ではないのです。
しかし、その前年であれば、曹操は巴中の張魯を征伐しています。
曹操がこの西征から鄴へ帰還したのは建安21年2月、
魏王となったのはその3か月後です。(『三国志(魏志)』巻1・武帝紀)
かりに、「行女哀辞」の成ったのが、
もし建安21年5月から間もない時期であったとするならば、
曹操が「蜀漢を征した」出来事はまだ記憶に新しく、
その曹操を、魏王として「家王」と称しても不自然ではありません。
(それに先んじる魏公としての曹操を「家王」と称したとも考えられますが。)
なお、本作品の序によると、
「行女」が亡くなったのは初夏、生まれたのは前年の晩秋で、
この点、前述の推定と食い違うことはありません。
さて、過日の推論のように、
「金瓠哀辞」と「行女哀辞」とが同じ娘への哀辞だとすれば、
「金瓠哀辞」に詠じられた曹植自身の罪とは、
この建安20年頃から21年前半までの彼の言動を指すことになります。
この時期の彼はどのような様子だったのでしょうか。
『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の建安19年から22年に当たる部分に、
「任性而行、不自彫励、飲酒不節(性に任せて行ひ、自ら彫励せず、飲酒節せず)」
とあって、曹丕の自重的な態度と対比的に記されています。
このあたりが該当するかもしれません。
2023年4月30日
*1『文選』巻30、謝霊運「擬魏太子鄴中集詩」の李善注に引く佚文。
*2 徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.238は、もっぱら曹操の蜀漢への出征ということにのみ依拠して、「行女哀辞」の成立を建安24年(219)に繋年している。
曹植の三篇の哀辞
今日も、曹植の哀辞について続きです。
『曹集詮評』巻10に、「行女哀辞」に続けて収載されるのは、
曹丕の中子、曹喈の夭折を哀悼する「仲雍哀辞」です。
昨日示した摯虞『文章流別論』に、
「建安中、文帝・臨淄侯各失稚子」とあったのは、
これらの哀辞が捧げられた「仲雍」と「行女」を指すのではないでしょうか。
「行女哀辞」の序には、こうあります。
行女生於季秋、而終於首夏。三年之中、二子頻喪。
逝った娘は晩秋に生まれて初夏に亡くなった。
三年間のうちに、二人の幼子が相次いで死んでしまった。
先行研究は、ここにいう「二子」を、
両者とも曹植の娘「金瓠」「行女」だと捉えています。*
けれども、夭折した二人の幼子を、
前掲『文章流別論』にいう曹丕・曹植の子と見ることも不可能ではありません。
兄の子を我が子と同等に見ることは、当時としては普通でしょう。
また、「金瓠哀辞」にいう「生十九旬而夭折」は、
前掲「行女哀辞」の序にいう「行女生於季秋、而終於首夏」と、
時間的な長さ(190日間)がほぼ一致します。
「行ける女」が「金瓠」であったという可能性は十分にあると考えます。
では、曹植はなぜ、同じ娘の死を重ねて悼んだのでしょうか。
思うに、二篇の哀辞は、その制作の立脚点が異なるのかもしれません。
「行女哀辞」と題する作品は、徐幹や劉楨にもあります。
そして、こちらには「金瓠哀辞」のように固有の名前は付せられていません。
他方、「金瓠哀辞」と「行女哀辞」とでは、
その言葉が放つ熱量にかなり落差があるように感じられます。
もっともこれはあくまでも印象であって、今はまだ断定はできません。
2023年4月27日
*たとえば、趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.182、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.497、王巍『曹植集校注』(河北教育出版社、2013年)p.487、徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社・中国社会科学院老年学者文庫、2016年)p.217は、いずれもこのように捉えている。
建安年間の哀辞
『曹集詮評』巻10に「金瓠哀辞」に続いて収録されている「行女哀辞」は、
建安文人の徐幹や劉楨らに、同題で作られた作品があります。
梁の劉勰『文心雕龍』哀弔篇にこうあります。
建安哀辞、惟偉長差善、行女一篇、時有惻怛。
建安の哀辞は、惟だ偉長のみ差(やや)善く、「行女」の一篇、時に惻怛有り。
さかのぼって、晋の摯虞『文章流別論』(『太平御覧』巻596)にこうあります。
哀辞者、誄之流也。
崔瑗・蘇順・馬融等為之。
率以施於童殤夭折、不以寿終者。
建安中、文帝・臨淄侯各失稚子、命徐幹・劉楨等為之哀辞。
哀辞之体、以哀痛為主、縁以歎息之辞。
哀辞なる者は、誄の流なり。
崔瑗・蘇順・馬融等これを為(つく)る。
率(おほむ)ね以て童殤夭折に施し、寿もて終はる者には以(もち)ゐず。
建安中、文帝・臨淄侯 各〻稚子を失ひ、徐幹・劉楨等に命じて之が哀辞を為らしむ。
哀辞の体は、哀痛を以て主と為し、縁るに歎息の辞を以てす。
昨日、「金瓠哀辞」の成立年代について、
先行研究ではみなそれを建安年間としていると述べましたが、
その論拠は、前掲の文献を踏まえながら、次のとおり示されています。
曹植の「行女哀辞」は、徐幹と同じ時に作られたもので、
徐幹は建安22年(217)に没している。
そして曹植は、「行女哀辞」を作るより前に長女を亡くしているはずだ。
ゆえに、長女の夭逝を嘆く「金瓠哀辞」は、建安年間の作である。
なお、「行女」という語は、後世、辞書的には次女と解されていますが、
意外なことに、この語の用例は漢魏晋南北朝時代では稀です。
そこがまだ釈然としないところです。
2023年4月26日
曹植の罪の意識
『曹集詮評』巻10所収の「金瓠哀辞」は、
わずか半年ほどで夭逝した長女を悼んで作られたものです。
本日、この作品を校訂していて、次の句に目を驚かされました。
不終年而夭絶 天寿を全うしないで夭折してしまって、
何負罰於皇天 なんだって天の神から罰を受けることになったのだ。*1
信吾罪之所招 これは真に我が罪が招き寄せたものであって、
悲弱子之無愆 咎(とが)もないのに天罰が下された幼い娘を嘆き悲しむ。
「罪」という言葉は、
黄初年間初めに起こった一連の出来事に関連して、
この時期の曹植作品には、かなりの頻度で登場するものです。
たとえば、
摘発された自らの不埒な言動への自責を詠ずる「責躬詩」とその上表文、
それに対する処罰が文帝の計らいで軽減されたことに感謝する
「謝初封安郷侯表」や「封鄄城王謝表」、
また、この間のことを回想して書かれた「黄初六年令」、
こうした作品の中に、自身が王朝に「罪」を得たということが記されています。
それと同じ言葉が、
娘の死を招いた原因として記されていることに、
何か突出したものを感じたのです。
もしかしたら、この「金瓠哀辞」という作品は、
黄初年間、曹植が不遇の時代に入ってから作られたのだろうか、
もしそうだとすると、自身の不遇に、娘の死という不幸が重なったのか、
などと空想したのですが、それは外れているようでした。
いずれの先行研究においても、
この作品の成立時期は建安年間と判断されており、*2
その根拠も納得させられるものでした。
建安年間の曹植に、「罪」の意識があろうとは、
少なからず意外な感じを覚えました。
2023年4月25日
*1「負」字、底本(明・万暦年間の程氏刻本)は「見」に作る。今、『藝文類聚』巻34に拠って改める。
*2 たとえば、徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社・中国社会科学院老年学者文庫、2016年)p.216―217は、本作品の成立を建安二十二年(217)に繋年している。
厳可均と丁晏の同質性
ずいぶん間が空きました。
どんなに慌ただしい日々を過ごしていても、
ここに戻ってくることができるという場所を確保しておきたいです。
さて、少しずつ進めてきた『曹集詮評』のテキスト校訂が、
あと少しを残すだけとなりました。
巻10「王仲宣誄」の校訂を終えて、次の「倉舒誄」に入ったところ、
曹植作品を収める厳可均『全三国文』巻13~19のどこにも、
当該作品の、言葉の片鱗も見当たりません。
厳可均のような人でも落とすようなことがあるのだろうか、
と、ちょっと親近感を持ったりなどしたのですが、
やはりそれは間違っていました。
厳可均の編集が粗雑だったのではなくて、
「倉舒誄」という作品は、ほぼ間違いなく曹丕の作なのでした。
このことについて、丁晏が『曹集詮評』に次のように記しています。
この作品は、『藝文類聚』巻45・『古文苑』巻9(巻20?)では、
魏の文帝、曹丕の作として引かれている。
その作風を見るに、他の曹丕の作品に似通ったものがあるし、
「宜逢分祚*1、以永無疆(宜しく分祚に逢ひて、以て永く無疆なれ)」のように、
陳思王、曹植の言葉としてはふさわしくないと思われる句もある。
恐らく、明・張溥『漢魏六朝百三名家集』の『陳思王集』は、
『藝文類聚』所収の本作品が、曹植「任城王誄」に隣接して引かれているため、
誤って曹植の作品として採録したのだろう。
ただ、旧(張溥)本に載せているので、とりあえずは録した上で誤りを正しておく。
作風等による作者の比定は、自分には判断できないところですが、
それ以外の根拠については、全面的に納得できます。
厳可均は、明の張溥本*2などには見向きもせず、
より確かな文献である『藝文類聚』や『古文苑』に基づいて、
「倉舒誄」という作品を、『全三国文』巻7に曹丕の作として収載しています。
張溥本に対する扱いは異なっているのですが、
その学術的姿勢には、丁晏との間に同質のものを感じます。
厳可均(1762―1843)と丁晏(1794―1875)とは、ほぼ同時代の人です。
学風の近しさは、その時代の気風によるものなのでしょうか。
けれど、近くに寄って見てみれば、個々の違いが目に入ってくるのでしょう。
自分も、誰彼となく同時代人という枠だけで括られたくはありません。
なお、丁晏によると、明の万暦年間の程氏刻本は、本作品を採っていないそうです。
丁晏の『曹集詮評』は、この程本を底本としています。
2023年4月24日
*1「分祚」の二字、『古文苑』巻20は「介祉」に作る。
*2 張溥『漢魏六朝百三名家集』の性格については、こちらをご覧ください。
古典に基づく表現
先日の雑記で言及した「皎若」という語は、
その下に、月光が続く場合もあれば、日光が続く場合もあります。
今、そうした発想を含んでいる古典を示しておきます。
まず、『詩経』陳風「月出」に、
「月出皎兮、佼人僚兮(月出でて皎たり、佼人僚たり)」とあって、
ここでは、月光が「皎」と形容されています。
古楽府「白頭吟」の表現と同じです。
他方、日光を「皎」と形容する例が、
王褒「九懐・危俊」(『楚辞章句』巻15)に、
「晞白日兮皎皎(白日の皎皎たるを晞(のぞ)む)」とあり、
ここでは、曹植「妾薄命」と同様に、「皎皎」と輝くのは「白日」です。
なお、今「晞」を、「睎」に通ずるものとして解釈しましたが、
「明の始めて升る」(『詩経』斉風「東方未明」毛伝)との解釈もあって、
こちらの方が、曹植の「妾薄命」や「洛神賦」により近くなります。
ところで、「皎若」と日光とを結ぶ表現を含む詩歌は、
曹植の「妾薄明」にいう「皎若日出扶桑」以外にもう一例あります。
それは、阮籍「詠懐詩」(其19)冒頭に見える次の辞句です。
西方有佳人 西方に佳人に有り
皎若白日光 皎たること白日の光の若し。
この阮籍の詩では、たしかに「皎」は白く輝く太陽です。
けれども、そのような表現で形容されている「佳人」は「西方」にいます。
すると自ずから、「白日」は東方の空に昇ったばかりのそれではなく、
西方の地平線に落ちてゆく太陽が想起させられることになります。
現実の落日は、白く輝いてはいないとはいえ。
「皎若」という措辞が日光と結びつけられている例は、
現存する漢魏晋南北朝期の詩歌を見る限り、曹植と阮籍とのみです。
(もちろん、散逸作品が存在する可能性を視野に入れなくてはなりませんが。)
もしかしたら、阮籍は、曹植「妾薄命」を念頭に置きつつ、
それを敢えて反転させたのかもしれません。
このように、前代の表現を踏まえつつ、
新たな作品世界を作り出しているのが中国古典詩です。
正直なところ、これを読み解くには非常に面倒な作業が必要です。
けれど、これを作る側の人々は自由闊達に古典的世界に遊んでいたのでしょう。
それはちょうど、幾多の音楽を聴き込んだ音楽家が、
即興的に、自由自在に、曲をアレンジして演奏を楽しむのに似ています。
2023年3月27日
注釈しにくい表現
曹植作品の訳注稿が遅々として進みません。
どこまで注釈を付けたものか、いちいち迷ってしまうからです。
たとえば、「妾薄命」二首(其二)の3・4句目、
華灯歩障舒光 華灯 歩障に光を舒(の)べ、
皎若日出扶桑 皎として日の扶桑より出づるが若し。
語釈として、「華灯」「歩障」「扶桑」は必須です。
けれども、個々の語句をつないでいる措辞、
あるいはそれらの語句を通底して流れている発想に、
なにか作者が思い浮かべていたものがありそうな気がしてなりません。
「皎若」といえば、
古楽府「皚如山上雪(白頭吟)」(『玉台新詠』巻1)にいう、
「皎若雲間月(皎たること雲間の月の若し)」がまず想起されます。
けれども、こちらは月、曹植「妾薄命」では日(太陽)でした。
曹植本人の「洛神賦」(『文選』巻19)には、
「皎若太陽升朝霞(皎たること太陽の朝霞より升るが若し)」とありますが、
李善注には、「皎若」に対して特に何も指摘されてはいません。
ところで、同じ『文選』巻19所収の宋玉の「神女賦」では、
女神の現れた様子が次のように描写されています。
其始来也、耀乎若白日初出照屋梁、
其少進也、皎若明月舒其光。
其の始めて来たるや、耀乎として白日の初めて出でて屋梁を照らすが若く、
其の少しく進むや、皎たること明月の其の光を舒ぶるが若し。
この「神女賦」では、「皎若」の語がかかるのは「明月」に対してですが、
続く「舒其光」という表現は、曹植「妾薄命」にいう「舒光」との関連性を感じさせます。
そして、その前の句で喩えに用いられているのは、昇ったばかりの白日です。
もしかしたら曹植は、「神女賦」の前掲二行分をあわせて踏まえているのでしょうか。
もしそうだとすると、
先に示した曹植詩の二句は、ただ単に灯火の様子を描写しているだけなのではなく、
なにか非常に艶麗な雰囲気を醸し出していると感じられるようになります。
なお、描かれているのは、日が落ちた後の「蘭室洞房」で繰り広げられる宴席の情景です。
書いているうちに、宋玉「神女賦」も注に入れた方がいいように思えてきました。
2023年3月23日