注釈が困難な言葉

こんばんは。

『宋書』巻20・楽志二所収の、
成公綏「晋四箱歌十六篇・雅楽正旦大会行礼詩十五章」其九の結びに、

朝閶闔 宴紫微  閶闔に朝(まね)き 紫微に宴す
(帰順してきた異民族たちを)閶闔に招き入れ、紫微宮にて宴を催す。

という句があります。
この「紫微」に対する語釈がひどく難航しました。
(訳注の草稿を書いた去年の自分は何をしていたのでしょう。)

この語が、天界の王宮を意味し、
それが同時に地上界の宮城にも重なることは明らかです。

けれども、それを説明するのに的確な古典籍がなかなか見当たらず、
やむなく『史記』巻27・天官書にいう「紫宮」を挙げました。*
でも、これは「紫宮」であって「紫微」ではありません。

『文選』李善注は、この語にどのような注を付けているでしょうか。
そこで、八箇所に見える「紫微」に当たってみました。
たとえば、傅咸「贈何劭王済」詩(巻25)にいう、

日月光太清 列宿曜紫微  日月は太清に光き 列宿は紫微に曜(かがや)く
赫赫大晋朝 明明闢皇闈  赫赫たる大晋朝 明明として皇闈を闢く

これは、前掲の成公綏の歌辞に発想がよく似ているものですが、
この「紫微」に対して李善は次のとおり注しています。

春秋合誠図曰、北辰其星七、在紫微之中也。
『春秋合誠図』に曰く、「北辰 其の星は七、紫微の中に在るなり」と。

『春秋合誠図』は、緯書(経書と対比させて言う)と括られる部類の書物で、
緯書は、前漢末から王莽期を経て後漢初め、急速に多く出現しました。
(素性が不明瞭な、ややいかがわしい雰囲気をまとった書物です。)

李善は、「紫微」という語に注するのに、
緯書をもってきて説明するほかなかったのでしょうか。
もしこれ以外に適切な文献を提示することが難しかったのであれば、
この語は、それほど古くから用いられていたわけではないのかもしれません。
自分が探し当てられないだけなのかもしれませんが。

2022年9月7日

*『史記』天官書に「中宮。天極星、其一明者、太一常居也。旁三星三公、或曰子屬。後句四星、末大星正妃、餘三星後宮之屬也。環之匡衞十二星、藩臣。皆曰紫宮(中宮。天極星、其の一の明るき者は、太一の常に居るなり。旁の三星は三公、或いは曰く、子の屬なりと。後の句(まが)れる四星、末の大星は正妃、餘れる三星は後宮の屬なり。之を環して匡衞せる十二星は、藩臣。皆紫宮と曰ふ)」と。

曹植「九詠」の佚文について

こんばんは。

『曹集詮評』の著者丁晏は、
「九詠」の佚文を収載した後で、次のように記しています。

以上十六条、引為九詠者僅八条、
外擬九詠一条、九歌詠二条、七詠二条、擬楚辞一条、擬辞二条。
子建蓋擬楚辞之九歌為九詠、故称目錯出。
前正文九詠篇首、芙蓉車兮桂衡二句、書鈔一百四十一即引作擬楚辞、是其証也。
其称七詠者、文誤耳。*
茲掇挙明引九詠者於前、而餘八条附之。

 以上の十六条で、「九詠」として引くものはわずかに八条のみ、
 その他は「擬九詠」一条、「九歌詠」二条、
 「七詠」二条、「擬楚辞」一条、「擬辞」二条である。
 曹植は、おそらく『楚辞』の九歌を模擬して「九詠」を作ったのであり、
 それゆえ、篇目について様々に不揃いな呼称が出現したのだろう。
 前の正文「九詠」の冒頭にいう「芙蓉車兮桂衡」の二句が、
 『北堂書鈔』巻一百四十一では「擬楚辞」として引かれているのがその証である。
 その「七詠」と称するものは、文字が誤っただけである。*
 ここに取り上げる上で、明らかに「九詠」として引くものは前に、
 それ以外の八条は、その後に付記する。

このように、丁晏は、
曹植「九詠」が『楚辞』九歌の模擬作品であることをつとに指摘していました。
たしかに、『北堂書鈔』などの類書に引かれた本作品には、
それが『楚辞』を祖述するものであることを示す篇目が多く見られます。
(そうすると、遡れば『北堂書鈔』の編者虞世南が指摘していたと言えます。)

では、様々な篇目で伝わるそれらの断片は、
“正文「九詠」”の一部が散逸したものなのか、
それとも一連の作品群を構成する、“正文”以外の一篇なのでしょうか。
この点については、丁晏は特に触れていないのですが、
私は、後者の可能性が高いと考えます。
曹植「九詠」はもともと、『楚辞』の九歌のように九篇あったのであり、
その中の一篇だけが“正文”として伝わっているという見方です。

なお、曹植には別に「九愁賦」(『曹集詮評』巻1)という作品があって、
その中の一句「寧作清水之沈泥、不為濁路之飛塵
(寧ろ清水の沈泥と作るとも、濁路の飛塵とは為らざれ)」が、
“正文「九詠」”の最後の部分に紛れ込んでいるのですが、
「九愁賦」と「九詠」とは、篇名は似ていても、
本来は別のジャンルの作品ではなかったかと考えます。
「九愁賦」は完結する一篇、
「九詠」は、その作品構成においても『楚辞』九歌を踏襲していた、
そのことを示唆するのが、比類を見ない佚文の数の多さと多彩さである、
という見通しです。

2022年9月6日

*丁晏が「七詠」として採録する、『北堂書鈔』巻158からの二条、孔広陶校註『北堂書鈔』(天津古籍出版社、1988年)p.735は「九詠」に作る。丁晏が目睹した『書鈔』は、未校訂のテキストであった可能性もある。

曹植「九詠」の注釈

こんばんは。

先週述べた曹植の「九詠」という作品について、
もしかしたら、これは周知のことを言っただけではないか、
と思って、CNKI(中国の論文データベース)で確認してみました。

総数で5000件を超える曹植関係の学術成果の中で、
この作品を主題として取り上げているのは、修士論文2件、雑誌論文1件。
それらは、曹植「九詠」が『楚辞』九歌の模擬作品であることを指摘しています。
中国の研究者にとって、これは言うまでもないことなのでしょう。
だから、それを敢えて取り上げて論じる意味を感じないし、
取り上げても、それを更に深める意味を感じないのかもしれません。

私は、ここに自分なりの存在意義があるだろうと考えています。
多く論じられている作品に、更に多くの論者が蝟集するのには理由がありそうです。
けれど私は、自分の目に留まった問題点を掘り下げる方向を取ります。
(中心から外れたテーマで論文を書くことに意味があるのか自問もしますが、)
おそらくは普遍的な法則性を目指す理系の学問とは違って、
文学研究は、人間の様々なあり様を“発見”することに意味がある、
それも、いろいろある、ではなくて、そこから普遍性に至る道を探るものだと思うから。

さて、曹植「九詠」は注釈付きで行われていたらしいことについて。
『文選』李善注に引くところは前回提示したとおりです。

そのうち、「曹植九詠章句」は、2ヶ所とも「鍾、当也」という文面で、
この語釈は、他にはあまり見かけないものかもしれません。

「曹植九詠注」として引くのは、3ヵ所とも牽牛織女についての説明で、
曹植「洛神賦」(巻19)、曹丕「燕歌行」(巻27)に注してこれを引いたのは、
作者との関連性の深さからなのかもしれません。
けれど、謝恵連「七月七日夜詠牛女」(巻30)に対してはどうでしょう。
李善は、本詩の題目の下に、既に『斉諧記』を引いた上で、
更に、詩の本文でも2ヶ所、「曹植九詠注曰」として注記をしています。

李善が引く曹植「九詠」注釈は、以上の二種類だけなので、
初唐の時点ではすでに、その全文は伝わっていなかったのかもしれません。
その貴重な断片を、李善『文選注』はとても尊重している、という印象を持ちました。

また、注釈付きで読まれていたらしいことは、
曹植「九詠」自体が、いかに大切にされていたかを物語ってもいるようです。
(注釈が曹植自身による場合は、また別の意味が生じると思います。)

2022年9月5日

曹植の「九詠」について

こんばんは。

曹植に「九詠」(『曹集詮評』巻8)と題する作品があります。

今まとまったかたちで伝わっているのは、
『藝文類聚』巻56に収載された一篇のみですが、
これはもともと、九篇の詩歌から成る、
『楚辞』九歌に倣う作品群だったのではないでしょうか。

その根拠として、
まず、「九詠」と「九歌」との語の類似性です。

加えて、『類聚』所収の冒頭は、

芙蓉車兮桂衡  芙蓉の車に桂の衡(車の横木)、
結萍蓋兮翠旌  萍の車蓋を結んで翠(カワセミの羽)の旌を立てて。

このように、形式面でも、表現面でも、「九歌」を想起させるものです。
「兮」字を挟んでその上下に三字あるいは二字が来る形式は、
『楚辞』の中でも九歌に特有のものです。*
修辞としては、たとえば『楚辞』九歌「山鬼」にいう、
「辛夷車兮結桂旗(辛夷の車に桂の旗を結ぶ)」によく似ています。

更に、丁晏『曹集詮評』、厳可均『全三国文』に記されているとおり、
この「九詠」には非常に多くの佚文があって、その内容も多彩であることです。
このことは、伝存する一篇以外にも複数の作品があったことを意味しているでしょう。

以上に述べた三つのことから、
曹植「九詠」は、『楚辞』九歌を祖述する、
元来は九篇から成る作品であったと推定することができます。

なお、この「九詠」には、注釈も著されていたようです。
それが曹植自身によるものか、別の人物によるものなのかは不明ですが、
『文選』李善注には、「曹植九詠章句」として二箇所(巻14・37)、
「曹植九詠注」として三箇所(巻19・27・30)引かれています。

曹植「九詠」が注釈付きで流布していたことについては、継続して考えます。

2022年9月1日

*1 藤野岩友『巫系文学論(増補版)』(大学書房、1969年。初版は1951年)の「神舞劇文学」を参照。

冷徹な観察眼と親愛の情

こんばんは。

曹植「七哀詩」詩(05-03)に見える次の印象的な対句、

君若清路塵   君は清路の塵の若く、
妾若濁水泥   妾は濁水の泥の若し。

これについて、黄節は次のように指摘しています。*

節案、清路塵与濁水泥是一物、浮為塵、沈為泥。
故下云浮沈異勢、指塵泥也。
亦喩兄弟骨肉一体、而栄枯不同也。……

 考えるに、「清路の塵」と「濁水の泥」とは元来ひとつの物で、
 浮揚すれば塵となり、沈殿すれば泥となる。

 ゆえに、下の句に「浮沈勢を異にす」というのは、塵と泥とを指すのである。
 また、骨肉を分けた兄弟はもともと一体ではあるけれど、
 その栄枯盛衰は同じではないということをも喩えているのである。……

詩中では、「君」と「妾」とあるので、
厳密に言えば、夫婦の間柄を兄弟に喩えたという一段が間に入りますが、
それはともかくも、この詩では、
「君」(夫・兄)は、清らかな道に巻き上がる塵、
「妾」(妻・弟)は、濁水の底に沈殿する泥に喩えられています。

更に言えば、「君」は曹丕、「妾」は曹植と捉えてほぼ間違いないでしょう。
(詩と現実とを直結させて解釈することの当否はこの際ひとまず置いておきます。)

さて、以前こちらでも指摘したとおり、
曹植はこれと非常によく似た対句を「九愁賦」の中にも置いています。

寧作清水之沈泥  寧ろ清水の沈泥と作るとも、
不為濁路之飛塵  濁路の飛塵とは為らざれ。

このように、「泥」と「塵」とを対置させる点で一致していますが、
ただ、「九愁賦」と「七哀」詩とでは、それを生ずる場の清濁が異なっています。

まだ「九愁賦」の全文を精読していないので断定はできませんが、
「清水の沈泥」は曹植自身、「濁路の飛塵」は曹丕を指しているようです。
つまり、自身を清らかな方に、相手を濁った方に置いているように読めるのです。

曹植の、兄曹丕に対する心情は、白か黒かの単色ではなさそうです。
(それは万人について言えることなのでしょうが。)

人に対する冷徹な観察眼や諧謔的批評と、
その人に対する親愛の情、もしくはその人を信じたいという思いとは、
ひとりの人の心中に共存しうるものだと考えます。

2022年8月30日

*黄節『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)巻1、p.4を参照。

黄初六年の曹植と曹丕

こんばんは。

亀の速度で、まだ「黄初六年令」を読んでいます。
(訓み下しだけは、先にこちらに提示したことがあります。)

その中に見える次のようなフレーズに、強い既視感を覚えました。

孤以何徳、而当斯恵。孤以何功、而納斯貺。

 わたくしは何の徳があって、この恵みに浴しているのだろう。
 わたくしは何の功があって、この賜りものをいただいているのだろう。

徳と功とを対で並べ、
自身の乏しいそれに見合わないほどの恩恵を被っていると述べています。

これと非常に近い表現が、「求自試表」にも次のように見えていたのでした。

今臣蒙国重恩、三世于今矣。
……
今臣無徳可述、無功可紀、若此終年無益国朝、将挂風人彼己之譏。

 今、臣は国から手厚い恩を受けること、今に至るまで三代となります。
 ……
 今、わたくしには述べるべき徳は無く、記すべき功績も無く、
 こうして生涯、王朝に利益をもたらすことがなければ、
 『詩経』の詩人たちが歌う「彼己」の謗りにかかることでしょう。

何の徳も功績もないのに、王朝から手厚い恩恵を受けている、
ということを述べている点では、先の「黄初六年令」と共通しています。

けれども、「求自試表」の方は、
厚遇に見合う働きをしていないことへの焦燥感が強く全面に出ています。
この上表文は、太和二年(228)、
即位して三年目の明帝曹叡(曹植の甥)に奉られたものです。

一方「黄初六年令」の方は、
自身の兄である文帝曹丕からの恩恵を、
かたじけなくおしいただいているような口ぶりです。
(少し前の部分から文脈をたどれば、そのように判断できます。)
この時期の曹植は、兄の親愛を心の底からうれしく思っている様子なのです。

この黄初年間末の曹植と曹丕との関係性を伏線として、
その三年後に書かれた「求自試表」は捉える必要があるように思います。
明帝期の曹植だけに焦点を当てて見ていると、
まるで、分をわきまえず王朝への参画を望む人のようで、
そんなふうに断ずるのは酷です。

2022年8月29日

奇跡を起こした話

こんばんは。

以前こちらでも紹介しましたが、
曹植の「黄初六年令」「鼙舞歌・精微篇」等には、
奇跡を引き起こした人物として、鄒衍や杞梁の妻が挙げられています。

それらは、直接的には『論衡』感虚篇の影響だろうと先に指摘しました。

けれども、鄒衍と杞梁の妻とを対で挙げる例は、
『後漢書』劉瑜伝に引く劉瑜の上書の中にも、次のように見えていました。

鄒衍匹夫、杞氏匹婦、尚有城崩霜隕之異。
鄒衍は匹夫、杞氏は匹婦なれども、尚ほ城崩・霜隕の異有り。

その李賢注には、『淮南子』(佚文)、『列女伝』(貞順篇)が引かれています。

こうしてみると、彼らの不思議な話は当時広く知られた言い伝えで、
しかも、一対の故事として言及されることが多かったと言えるかもしれません。

話の性格としては、昨日述べた、熊渠・李広の逸話と類似しているようにも感じられます。

なお、劉瑜という人物は、前掲の『後漢書』本伝によると、
年若くして経学を好み、とりわけ図讖・天文・歴算の術に長けていたといいます。
後漢時代の経学は、こうした預言めいた傾きを含んでいたのでしょうか。

2022年8月26日

石の虎を射る話

こんにちは。

曹植「黄初六年令」(『曹集詮評』巻8)の中に、
誠心は天地金石をも動かすということの一例として示された、
「雄渠李広、武発石開(雄渠・李広は、武発して石開く)」という句は、
西周時代の楚の君主、熊渠(雄は、熊と音が同じ)、及び
前漢時代の将軍、李広の故事を踏まえています。

熊渠については、劉向『新序』雑事篇にこう記されています。

楚熊渠子、夜行見寝石、以為伏虎、関弓射之、滅矢飲羽。下視知石也。
 楚の熊渠は、夜に移動していて横たわる石を見かけ、それを伏せた虎だと思って、
 弓を引き絞ってこれを射ると、その矢も羽も深く呑み込まれた。
 見下ろしてよく観察すると、それが石だとわかった。

この逸話は、『韓詩外伝』巻六にもほぼ同じ文面で見えています。

李広については、『史記』巻109・李将軍列伝に次のとおりあります。

出猟、見草中石、以為虎而射之、中石没鏃、視之石也。
 李広は猟に出て、草の中の石を見かけて、虎だと思いこれを射たところ、
 矢は石に命中し、やじりが深く突き刺さったが、よく観察するとそれは石だった。

熊渠と李広とでは、その生きた時代がずいぶんかけ離れています。
けれども、二人の真率なる武勇を語るエピソードは、こんなにも似ています。

後漢の王充は、『論衡』儒増篇の中で、これらのエピソードをまとめて、
(『呂氏春秋』季秋紀・精通篇に見える、養由基が石の兕を射た話もあわせて)
「儒書」の割り増し表現の一例として挙げています。

思えば、これらのエピソードを記す書物の成立は、
『呂氏春秋』『韓詩外伝』『史記』『新序』のすべてが秦漢時代です。
これらの書物は、一本の線でつながる継承関係にあるのではなく、
その背後に、話題の共通基盤のようなものがあったように思えてなりません。

2022年8月25日

長雨と天人相関説

こんばんは。

以前、こちらの拙論で論及したことのある長雨と天人相関説について、
少しばかり反証めいたことを記しておきます。

それは、長雨が常に天子の失政に起因するとは限らない、
という至極当然の事実です。

先に論じた「贈丁儀」詩(訳注稿04-10)では、
「朝雲不帰山、霖雨成川沢(朝雲 山に帰らず、霖雨 川沢を成す)」の後に、
「黍稷委疇隴、農夫安所獲(黍稷 疇隴に委てらる、農夫 安んぞ獲る所ぞ)」が続き、
更にその次の一段では直接的な為政者批判が為されていますので、
当該詩に詠じられた長雨は、天人相関説に結び付け得ると判断できます。

けれども、曹植は別に「愁霖賦」という作品で長雨を詠じ、
しかも、曹丕や応瑒も同じ題名の作品を残しています(『藝文類聚』巻2)。

応瑒は建安22年(217)に疫病で亡くなっていますから、
もし、現存する曹丕・曹植・応瑒の作品が同じ機会に作られたのならば、
曹植の「愁霖賦」も当然、曹操存命中の建安年間の作だということになります。

そして、それらの作品には特段の為政者批判は認められず、
描かれているのは、雨の中、行き悩む車の様子、おそらくは行軍の有様です。

こうしてみると、この時代の文人たちが持ち出す天人相関説は、
君主を批判するため、用意周到に設定されたフレームなのだと考えられます。
いくら現代自然科学とは別世界に生きていた人々だとはいえ、
悪天候が人間の所業に起因するものだとは信じていなかったでしょう。
(このことは、先にもこちらで述べました。)

2022年8月24日

曹植の妻の死

こんばんは。

曹植は、26歳(建安22年)の頃より以降、
放恣なふるまいにより、父曹操の愛情を失っていったとされています。

ただ、曹植の作品から窺える彼は、情に厚い、誠実な人柄で、
それと、史書に記された放埓さとの間には、何か噛み合わないものを感じます。
人には様々な側面があると言ってしまえばそれでおしまいですが、
曹植本人の伝記資料のみを見ていては見えてこないこともあるでしょう。

それで、ふと目に留まったのが、
曹植の妻が、曹操に死を賜ったという記事です。
『魏志』巻12・崔琰伝の裴松之注に引く『世語』にこうあります。

植妻衣繍、太祖登台見之、以違制命、還家賜死。
 曹植の妻は、刺繍を施した衣服を着ていた。
 曹操は、高台に登ってこれを目にし、
 規律違反という理由で、家に帰して死を賜った。

『世語』は、『隋書』経籍志二、史部・雑伝類に、
「魏晋世語 十巻 晋襄陽令郭頒撰」として記されています。
歴史書としての出来はともかくとしても、
近い時代の人物による記録である点で無視できません。*

曹植の妻は、名士崔琰の兄の娘です。
崔琰は、曹植とそうした姻戚関係があったにも関わらず、
曹操からその後継者問題について問われた際に、
内密にすることもなく、長子を立てるべきだと進言した公平無私の人物です。
その崔琰でさえ、建安22年(216)、つまらぬ者の讒言で曹操から死を賜りました。

曹植にとって尊敬してやまぬ父曹操ではありましたが、
詩人としてひときわ鋭い感受性を持っていた彼が、
自らの父の残忍さに全く気づいていなかったと言えるかどうか。
それとも、「人を疑うことを知らぬ」(曹植「黄初六年令」)彼は、
父の人となりを信じ切っていたのでしょうか。

2022年8月23日

*興膳宏・川合康三『隋書経籍志詳攷』(汲古書院、1995年)p.296を参照した。

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