自分はここにいる。

こんにちは。

明日から始まる中国語の授業の準備をしていて、
つくづく今は語学学習に適した環境に恵まれていると実感しました。
ネット上にいくらでもすばらしい教材が無償で提供されているのですから。

ひるがえって古典研究の方面はどうだろう。
中国文学の歴史を俯瞰してみたとき、
古代、中世、近世、最近世と、それぞれの時代に、
新しい社会的状況の出現を背景に新しい文学ジャンルが生まれ、
それは清新な勢いを持っている時にこそが輝いているように感じます。

ひるがえって自分が取り組んでいる中世初期の文学はどうだろう。
正直なところ、この分野の研究にそれほどの活況があるとは感じません。
やはり研究の世界でも、その時々に勢いのあるジャンルがあるように思います。

それでは、中世文学に魅力がないのか、
その時代を対象とする文学研究は活力に欠しいものばかりなのか、
と問われれば、それは違うと言うことができます。

人が集まるところには、その分エネルギーが集まります。
けれども、大勢の人が通り過ぎた後にこそ、
自分のペースで作品を読み込んでゆくことができるとも言え、
その速度とリズム感は、文学研究にふさわしいもののように感じます。

様々な歩幅と志向性でそれぞれが真摯に探究している、
そうした世界の一角に自分も身を置いている、
という感覚を見失ってはだめだと思う。

そして、学問の世界の外には、更にまた様々な世界が広がっていて、
それらの中には、非常に面白い、強い輝きを放っているものも多くあります。
が、それらに対しても、卑下したりしてはだめだと思う。

他者がいる。そして、自分はここにいる。

2022年11月23日

定型文に拠りつつ

こんにちは。

やっとひとつ、新しい「曹植作品訳注稿」を公開できました。
黄初三年(222)、鄄城王に立てられたことへの謝意を記す上表文、
「封鄄城王謝表(鄄城王に封ぜられて謝する表)」(『曹集詮評』巻7)です。

この文章の結びに、次のようにあります。

雖因拝章陳答聖恩、下情未展。
(章を拝するに因りて聖恩に陳答すと雖も、下情未だ展べず。)

ここにいう「陳答」は、用例の少ない語です。
ですが、前掲句の「拝章」「陳」「情」を一連としたかたちでは、
当時の公的文書の中に複数箇所、同一のフレーズを見出すことができます。
たとえば、『三国志(魏志)』及びその裴松之注に引くところでは、
巻2・文帝紀の裴注に引く、魏王曹丕の後漢献帝に対する上書、
巻9・曹洪伝の裴注に引く『魏略』に記す、曹洪の文帝曹丕に対する上書、
巻11・管寧伝に載せる、文帝に対する管寧の上疏文等々に、
「拝章陳情(章を拝して情を陳ぶ)」と見えています。

「拝章陳情」は、当時におけるこの種の文章の常套句だったのでしょう。

もしかしたら曹植は、この定型文に依拠しながらも、
敢えてそこから少し外れる表現を取ることで、
「聖恩」すなわち皇帝からの恩沢に、返礼を述べるということ、
「下情」すなわち自身の心情は、十分には言い尽くせていないということを、
明瞭に打ち出そうとしたのかもしれません。

2022年11月22日

文学研究雑感

こんにちは。

「文学研究」とは大きく出たものですが、
週末、少し思うところがあったので記しておきたいと思います。

先週は、曹植作品の、続く時代における受容について記すことが多くありました。
そこで、こうした視点からの研究について、先行事例を探してみたところ、
山東大学の博士学位論文(2014年11月30日発表)、
王津氏による「唐前曹植接受史」と題する研究がありました。

もしかしたら、自分の考えていることは既に論じられているのではないか、
と少しどきどきしながら入手しましたが、縦覧したところ重ならないようでした。
仔細に見ていけば、すでに指摘されていることもあるかもしれません。
ですが、基本的に研究の立脚点に違いがあると感じました。

一般に、中国の論文は、巨視的に文学史を把握する力が強いと感じます。
高いところから通史的に俯瞰するような力強いスタンスです。
(清朝考証学は、これとはかなり異質ですが。)

一方、自分がやっていることといえば、地を這うような読解が基本です。
漢語を母語としない以上、そうするほかありません。
そうした地面すれすれの視点から見えてきたものを拾い上げて、
それらがいつしか有機的に結び合って何らかのことを語り始めるまで、
ゆっくりと熟成を待つような、たいそう迂遠なものです。

こんなに違うと、自分の研究は現代中国の研究者たちに届かないかもしれない。
けれども、それはそれで仕方がないことかと思っていますし、
ここで流されると、自身にとってすら無意味なものになってしまいます。

他方、授業の準備の一環として、
入矢義高『洛陽伽藍記』(平凡社・東洋文庫、1990年)を見ていて、
その「東洋文庫版あとがき」に打ち震える思いがしました。

「ふと立ち寄った小さな古本屋で」見付けた「呉若準『集証』の影印本」を、
「その面白さに牽きこまれて、とうとう徹夜して読み了えた。」
「本を読むことの楽しさにこれほど没入できたのは、私にとっては滅多にない経験で、
その時の興奮を今でも懐かしく思い起こすことができる。」

こんな歓喜をいつか自分も味わえるようになりたい。
それを念じつつ日々精進したいと思います。

2022年10月17日

史料としての文学作品

こんにちは。

魏の基礎を築いた曹操の子であり、魏の文帝曹丕の弟である曹植は、
いわば曹魏王朝を構成する要人のひとりであるはずですが、
そうした彼の具体的な足取りについては、意外と不明瞭な点が少なくありません。

特に、兄の曹丕が、曹操の後を継いで魏王となった延康元年(220)から、
後漢王朝の禅譲を受けて、魏の初代皇帝として即位した黄初元年(220)を経て、
その生涯を終える黄初七年(226)に至る間の曹植の動向については、
複数の研究者が『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の記述内容に異を唱えており、
つまりそれは、この間の曹植の事績が未詳であることを意味しているでしょう。

そこで今、曹植自身の文学作品「責躬詩」を中心的に取り上げて、
彼自身の言葉に依拠しつつ、その背後にある事実を明らかにしたいと考えています。

それで、「責躬詩」を論じる先行研究を探してみたのですが、
日本にも、中国にも、中心的に取り上げたものは見当たりませんでした。
探し方が悪いという可能性も否定できませんが、
表現的にも内容的にも堅苦しさばかりが先に立つ本詩は、
曹植文学を論じるには物足りない素材だと思われたのでしょうか。
あるいは、この作品から読み取れることは周知の事実なのでしょうか。*
そもそも文学作品を事実の推定に用いること自体、ナンセンスなのでしょうか。

なお、黄初年間の曹植に関する先行研究を読む中で、
以前「黄初六年令」に附した訳注に不備があることに気づきました。

本作品の語釈の「東郡太守王機」で、
“「王機」という人物については未詳。”としていたのを、次のように改めました。
“「王機」は、西晋王朝成立の元勲であり、曹魏の国史『魏書』の撰者である王沈の父。津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』三八号二〇〇五年一二月)の注(22)を参照。”

この重要な指摘を見落としていました。

2022年10月14日

*たとえば、比較的新しく刊行された岩波文庫の『文選 詩篇(一)』(2018年)pp.101―118、川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(2022年2月)pp.337―354では、本詩に詠われたことの事実関係について、特に問題視してはいないような印象を受ける。

曹植と西晋宮廷文人たち

こんばんは。

以前こちらで言及した応貞「晋武帝華林園集詩」(『文選』巻20)に、
次のような表現が見えていました。

玄沢滂流  玄沢 滂(あまね)く流れ、
仁風潛扇  仁風 潛(ひそ)かに扇(あふ)ぐ。

これは、李善注にも指摘するとおり、
曹植の「責躬詩」にいう次の表現を明らかに踏まえています。

玄化滂流  玄化 滂(あまね)く流れ、
荒服来王  荒服 来王す。

いずれも、自然に恩沢を敷き広げる為政者の善政をいうもので、
文脈を踏まえた上での辞句の援用だと言えます。

また、『宋書』楽志二所収の、西晋王朝の宮廷歌謡、
成公綏「晋四箱歌十六篇・雅楽正旦大会行礼詩十五章」其四にいう

嘉禾生 穂盈箱  嘉禾生じ、穂は箱に盈つ。

これは、曹植「魏徳論謳」(『藝文類聚』巻85)にいう

猗猗嘉禾 惟穀之精  猗猗たる嘉禾は、惟れ穀の精なり。
其洪盈箱 協穂殊茎  其れ洪(おお)いに箱に盈ち、穂を協(あは)せ茎を殊にす。

を踏まえているでしょう。
「嘉禾」と「盈箱」とをセットで援用しているのですから。

西晋王朝の宮廷文人たちと曹植とは、
意外に強い結びつきを持っていたのかもしれません。
そうした事例は、
これまでに何度か言及したことがありますが、
前掲の表現もこれに加えることができそうです。

なお、こうした気づきは、こちらの共同研究によって得られたものです。

2022年10月13日

曹植と諸葛亮

こんにちは。

『曹集詮評』巻9「漢二祖優劣論」の校勘をしていて、
『金楼子』巻4・立言篇九下に、次のような記事があるのを知りました。

諸葛亮曰、曹子建論光武、将則難比於韓周、謀臣則不敵良平。
時人談者亦以為然。
吾以此言誠欲美大光武之徳、而有誣一代之俊異。何哉。……

 諸葛亮曰く、曹子建 光武を論ずるに、
 将は則ち韓(韓信)周(周勃)に比(なら)び難く、
 謀臣は則ち良(張良)平(陳平)に敵(かな)はず、と。
 時人の談ずる者も亦た以て然りと為す。
 吾は以(おも)へらく 此の言は誠に光武の徳を美大せんと欲するも、
 而も一代の俊異を誣(そし)るところ有り。何ぞや。……

曹植(192―232)と諸葛亮(181―234)とは、同時代の人です。
その諸葛亮が、光武帝に対する曹植の批評を取り上げて論じています。
また、同時代人の談論も、曹植の批評に同意するものが多い、と記しています。

魏王朝に罪人扱いされていた曹植が名誉を回復し、
その百余篇の作品が、王朝の内外に副蔵されることとなったのは、
景初年間(237―239)中に発布された詔によるものですが、
(『三国志(魏志)』巻十九・陳思王植伝)

『金楼子』に記されているのはそれ以前のことです。

もし、この記事が事実を記しているのだとするならば、*
曹植の作品は、彼の存命中から広範な人々に読まれていたことになります。
しかも、魏とは敵対関係にあった蜀にまで伝播していたことを意味するでしょう。

曹植自身が感じていたであろう閉塞感とは正反対の、
思いのほか開けた空気に、何か、非常に意外な感じを受けました。

2022年10月12日

*清・厳可均『全三国文』は、諸葛亮のこのコメントを採録していない。

陸機と曹植、李善の指摘

こんばんは。

以前、こちらに記したことの続きです。

曹植「贈白馬王彪」詩の第一句、
「謁帝承明廬(帝に謁す 承明の廬)」に対して、
『文選』李善注(巻20)は、陸機「洛陽記」を挙げています。
(具体的な文章は、先に記したところをご参照いただければ幸いです。)

他方、この「承明」について、
『三国志(魏志)』巻2・文帝紀の裴松之注に次のようにあります。

諸書記是時帝居北宮、以建始殿朝群臣、門曰承明。
陳思王植詩曰「謁帝承明廬」是也。……
 諸書に記す 是の時 帝は北宮に居り、建始殿を以て群臣を朝し、門を承明と曰ふと。
 陳思王植の詩に曰く「謁帝承明廬」とは是れなり。……

これによると、「承明」とは、
魏王朝草創期、文帝が群臣を集めた建始殿の門だと説明できます。

ところが、前掲の『文選』李善注は、陸機「洛陽記」を挙げているのでした。
李善注は、『三国志』裴松之注を引かないわけではありません。*
それなのに、なぜ裴松之注ではなくて、陸機の著作なのでしょうか。
李善は、曹植「応詔」詩(『文選』巻20)にも、陸機の同書を引いています。

たまたまだった可能性も否定できませんが、
もしかしたら李善は、曹植と陸機との間につながりのある可能性を、
後世の私たちに向けて示唆しようとしたのかもしれません。

なお、これまでにも何度か、
陸機と曹植との文学的関係性について言及したことがあります。
「陸機と曹植」でサイト内を検索してみて、自分でも思い出した次第です。

2022年10月11日

*『魏志』の部分については、富永一登『文選李善注引書索引』(研文出版、1996年)p.359~360を参照。

黄初三年の曹植(訂正)

こんにちは。

昨日、黄初三年の曹植について、
東郡太守王機らの誣告によって洛陽に出頭したことと、
鄄城侯から鄄城王に爵位を進められたのとでは、
洛陽への出頭の方が先だと推定しました。

ここまでの推定は、概ね妥当だろうと思いますが、
鄄城王として立てられたのは、罪人として赴いた洛陽においてではなく、
洛陽から帰還した先の鄄城であったと見るのがおそらく適切です。
昨日の記述の一番最後は、軽率な判断でした。

ではなぜ、鄄城への帰還後、王位を授けられたと推測されるのか。
「責躬詩」では、このことが明確に示されていません。
ですが、「黄初六年令」に、文帝の計らいを記した次の句、

違百寮之典議、舎三千之首戻、反我旧居、襲我初服、……
 百官の典範に則った議論に背いて、首領級の大罪を赦していただき、
 私を旧居に戻し、元の輿服を与えてくださって、……

これに拠って、前述のように考えました。
まずは、もとの鄄城侯としての待遇に戻したということです。
鄄城王に立てたのは、その次の段階だったでしょう。

なお、「上責躬応詔詩表」に見える、
文帝からの恩恵を表現する次のようなフレーズ、

不別荊棘者、慶雲之恵也  荊棘を別(わ)けざるは、慶雲の恵みなり。
七子均養者、鳲鳩之仁也  七子をば均しく養ふは、鳲鳩の仁なり。
 荊棘のような邪魔者をも差別しないで潤すのは慶雲の恵みです。
 七羽の子を分け隔てなく養うのは鳲鳩(カッコウ)の仁愛です。

これは、罪人とされた曹植に対しても、
他の兄弟たちと同等の待遇が与えられたことを言うものでしょう。

『三国志(魏志)』巻2・文帝紀、黄初三年の条に、
三月乙丑(3日)、文帝の弟たちが皆、侯から王へと爵位を進められ、
同年の夏四月戊申(14日)、鄄城侯の曹植が王に立てられた記事が見えています。
前掲「上責躬応詔詩表」の句は、これに対応するものではないでしょうか。

2022年10月8月

黄初三年の曹植

こんばんは。

昨日は、黄初二年における曹植の動向を押さえました。
彼は監国謁者潅均の摘発によって上洛することとなりましたが、
文帝曹丕の取り計らいによって罪を軽減され、
臨淄から洛陽へ向かう途中の延津で安郷侯に任ぜられ、
次いで同年、鄄城侯に遷されたのでした。

では、続く黄初三年の曹植はどのような状況にあったのでしょうか。

『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝によると、
彼はこの年、鄄城王に立てられています。*

他方、「黄初六年令」によると、
この年には、東郡太守の王機らによって讒言されています。

では、曹植が鄄城王に立てられたのと、
王機らの讒言により都に出頭したのとでは、いずれが先だったのでしょうか。

まず、このたびは実際に洛陽へ赴いたと見られます。
「黄初六年令」にいう「我が旧居に反す」「反旋して国に在り」、
また、「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)にいう、
「臣は釁(つみ)を抱きて藩に帰りし自(よ)り、……」から、
一旦は洛陽に上り、罪状を告げられ、赦され、その後に鄄城に戻ったと知られます。

そして、洛陽での出来事を詠じて、
「責躬詩」(『文選』巻20)には、次のようにあります。

赫赫天子  明々と輝ける徳を有する天子、
恩不遺物  その恩沢は万物に対して遺漏がない。
冠我玄冕  わたくしに黒い冠冕をかぶらせ、
要我朱紱  わたくしの腰に朱色の組み紐を佩びさせた。
光光大使  光り輝く大使がやってきて、
我栄我華  わたくしに栄華が届けられた。
剖符授土  割り符を割いて封土を授与し、
王爵是加  これに王の爵位が加えられたのである。

曹植は、王機らに罪状を挙げられて赴いた洛陽で、
鄄城王の位を授けられたと見られます。

2022年10月7日

こちらの注で述べたとおり、『三国志(魏志)』巻2・文帝紀では、黄初三年夏四月十四日のことと記されている。

黄初二年の曹植(三たび)

こんにちは。

黄初二年、臨淄侯の曹植は、
監国謁者潅均に摘発されて罪を得ましたが、
同母兄の文帝曹丕の取り計らいにより、
まずは安郷侯への貶謫、続いて鄄城侯に遷されることで済みました。
(『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝)

刑罰を軽減されて安郷侯に遷されることになった、
その文帝の計らいに対する感謝を表するのが、
「謝初封安郷侯表」(『曹集詮評』巻7、『藝文類聚』巻51)です。

背景となった経緯はある程度わかっているので、
比較的スムーズに訳注作業が進むかと思っていたところ、
いきなり躓いてしまいました。

それは、冒頭にいう「臣抱罪即道」です。
「罪」はわかります。では「即道」とは何でしょう。

当初、私はこのように捉えていました。
洛陽に出頭して罪状が定まり、臨淄へと戻る帰途に就いたのだろう、と。
曹植に具体的な処罰の内容が申し渡されたのは都の洛陽で、
そこから一旦、臨淄へ戻ることとなったのだろう、
その帰りの途中で、安郷侯への転封が告げられたのだろう、
と、何となく思い込んでいたのでした。

けれど、この捉え方は誤っているのではないか。
そのことを示唆してくれたのは、李善の『文選注』です。
巻20の曹植「上責躬応詔詩表」の李善注に引く『曹(植)集』に、

植抱罪、徙居京都、後帰本国。
 植は罪を抱きて、居を京都に徙し、後に本国(鄄城)に帰る。

また、同巻20の曹植「責躬詩」の李善注に『(曹)植集』を引いて、

求出猟表曰、臣自招罪舋、徙居京師、待罪南宮。
 出猟を求むる表に曰く、
 「臣は自ら罪舋を招き、居を京師に徙して、罪を南宮に待つ」と。

とあり、これらによれば、処罰は都の洛陽で執行されるのであったようです。

他方、「責躬詩」本文にこうありました。

明明天子  聡明なる天子は、
時惟篤類  身内の者に手厚く対処しようと思われた。
不忍我刑  わたくしを処罰して、
暴之朝肆  その身を朝廷や市場に晒すには忍びなかったのである。

ここから推し測るに、
曹植は、都の雑踏の中に罪人としての身を晒さずに済んだ、
(安郷侯、次いで鄄城侯への転封に振り替えられたことによって)
と見ることが十分に可能です。

「謝初封安郷侯表」の冒頭、
「即道」とは、上京の旅路に就いたのだと捉え直します。
結局、黄初二年時点での曹植は、洛陽には至っていないと思われます。

(たったこれだけのことにほとんど半日かかってしまいました。)

2022年10月6日

 

1 10 11 12 13 14 15 16 17 18 82