『藝藩通志』未収録の宮島詩

こんばんは。

厳島を詠じた詩が最も多く伝わるのは、
先日来話題にしている江戸期広島の漢詩人平賀周蔵で、
それらの作品は、『藝藩通志』巻32に集中的に収載されています。
ですが、先日述べたとおり、
平賀周蔵個人の詩集『白山集』『独醒菴集』の中には、
『藝藩通志』に未収録の宮島詩が埋もれている可能性があります。

その後、次のような詩を拾い上げることができたので、
それが厳島を詠ずるものだと判断された根拠とともに記しておきます。
いずれも『白山集』所収作品です。

イ、巻3「以中菴」
  ……以中菴は、『芸州厳島図会』にも描かれている。

ロ、巻4「遊厳島舟発港口五更値雨」……先に指摘済み

ハ、巻5「同前過信公隠居」
  ……「同前」とは、直前の詩「遊厳島主野孫作家」を指していう。

ニ、巻5「謁信公」
  ……前掲ハ詩に続けて収録。この直後に「発厳島」が続く。

ホ、巻5「訪信公海雲軒不遇」
  ……前掲ハ・ニ詩と同じく「信公」が登場する。
    『藝藩通志』にも見える「華表松」と「別水精寺」との間に収載。

ヘ、巻5「題興徳老上人帰雲軒」
  ……前掲「別水精寺」と「厳島舟帰」との間に収載。

平賀周蔵には、この他にもまだ埋もれた宮島詩があるかもしれません。
彼はとても宮島を愛し、幾たびも訪れて詩を詠じていますが、
そうした詩の多くに、この島の友人たちが登場します。
どのような人々なのか、興味を引かれます。

2022年8月16日

「壺中菴」とは

こんにちは。

先日紹介した平賀周蔵の詩、
「夏日陪滄洲先生遊嚴島過飲壺中菴」にいう「壺中菴」は、
彼の別の詩「題嚴島壺中庵」にも見えています。

こちらは『白山集』巻5に収められており、
先日読んだ「夏日……」詩(巻3)とは離れた場所に置かれていますが、
これは『白山集』が作品を詩体別に収載しているためであって、
詩中に登場する人物の呼称などから判断して、
両詩が同時期の作である可能性は高いと思われます。

その「題嚴島壺中庵(嚴島の壺中庵に題す)」は次のような詩です。

仙醞醸来誰得同  仙醞 醸し来りて誰か同(とも)にすることを得ん
主人高興有壺公  主人は壺公有るを高興す
登楼終日飲難尽  楼に登りて終日飲むも尽くし難く
剰見名山縮地工  剰(あまつさ)へ見る 名山縮地の工

これを私なりに通釈すれば次のとおりです。

仙界の美酒が出来上がって、誰と共に酌み交わせるだろうか。
主人は、かの壺公のいることをたいそう喜んだ。
楼閣に登って終日飲んでも飲み尽くせないほど酒は無尽蔵にあるし、
その上、神仙の術により、すばらしい山々が眼前に迫って見えるであろう。

この詩の二句目に見える「壺公」は、
先の「夏日陪滄洲先生遊嚴島過飲壺中菴」にいう「懸壺仙」、
すなわち、後漢の費長房が弟子入りした、かの薬売りの仙人でしょう。

続く第三・四句に見える表現内容、すなわち、
楼閣に登って誘われた酒が、日暮れまで飲んでも尽きなかったこと、
壺公の導きで授けられた神仙の術により、遠くの山々の景観が間近に見えたこと、
これらはいずれも、葛洪『神仙伝』巻5「壺公」の項に記されている故事です。

こうしてみると、本詩に見える「壺公」は、
先日紹介した「夏日……」詩の「懸壺仙」であると判断されます。

さて、先に「懸壺仙」とは、医者の笠坊文珉ではないかと推測しました。
また、「夏日……」詩の末尾には、「酒泉」を有する「素封」が登場していました。

本詩においては、この「懸壺仙」すなわち「壺公」の存在を、
「壺中庵」の「主人」は大いに歓迎しています。

そうすると、この庵の主は、笠坊文珉と意気投合するような人物でしょう。

そして、詩中、その主を客体化して詠じていることからすれば、
この「壺中庵」の主は、平賀周蔵とはまた別の人だと考えるのが妥当でしょうか。
(自身を「主」と称することはあり得ない話でもないとは思いますが)

2022年8月12日

厳島に遊んだ儒者と仙人

こんばんは。

昨日紹介した平賀周蔵の詩
「夏日陪滄洲先生遊嚴島過飲壺中菴」の中に、
次のような対句が見えていました。

偶随縫掖老  偶〻縫掖の老に随ひて
来伴懸壺仙  来りて懸壺の仙に伴ふ

この「縫掖老」は、詩題にいう「滄洲先生」です。
「縫掖」とは、袖の大きな一重の衣で、儒者の着るもの。*1
そこから、この詩の中で周蔵がお伴をしている赤松滄洲だと知られます。

では、これと対をなす「懸壺仙」とは誰を指すのでしょうか。
「懸壺」は、後漢の費長房が市場で出会った薬売りの老人の逸話に見える語。*2
注目したいのは、壺を懸けたる仙人が、薬売りであるということです。
ということは、その人は、医薬品を扱う、浮世離れした人物なのでしょう。
結論から言えば、これは、笠坊文珉という人物を指すのではないかと考えます。
笠坊文珉は、芸州広島藩の医師であり、平賀周蔵の友人で、
先に見た皆川淇園による『白山集』の序にその名が見えていました。

もしそうだとすると、この詩から、
平賀周蔵は、笠坊文珉とともに、赤松滄洲のお伴をして、
この初夏の嚴島遊覧を楽しんだということが浮かび上がってきます。

なお、赤松滄洲による『白山集』の序の中にも、
それらしき人物が見えてはいるのですが、
未だくずし字が判読できません。

2022年8月10日

*1『礼記』儒行篇に、孔子が若い頃に着ていた「逢掖之衣」について、鄭玄の注に「逢、猶大也。大掖之衣、大袂襌衣也(逢とは、猶ほ大なり。大掖の衣とは、大袂の襌衣なり)」とある。
*2『後漢書』巻82下・方術伝(費長房)に「市中有老翁売薬、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中(市中に老翁の薬を売る有り、一壺を肆頭に懸け、市の罷はるに及びては、輒ち跳びて壺中に入る)」とある。『蒙求』にも「壺公謫天」として見えている故事。

「滄洲先生」とは

こんばんは。

厳島を詠じた平賀周蔵の詩には、
固有名詞の場所や人物がかなり出てきます。
そのほとんどに、自分はまったく手が付けられていませんでした。

そうした詩のひとつに、「滄洲先生」という人物が登場する、
次のような作品があります。

夏日陪滄洲先生遊嚴島過飲壺中菴(『白山集』巻3)
  夏日 滄洲先生に陪して嚴島に遊び 壺中菴に過飲す

竹蹊深卜地  竹蹊 深く地を卜し
茅宇此中偏  茅宇 此の中に偏す
呦鹿新林外  呦鹿は新林の外
残花古砌前  残花は古砌の前
偶随縫掖老  偶〻縫掖の老に随ひて
来伴懸壺仙  来りて懸壺の仙に伴ふ
歓興何辞酔  歓興 何ぞ酔ひを辞せんや
素封有酒泉  素封 酒泉有り

これを自分なりに通釈すれば次のとおりです(語釈は省略)。

竹の茂る小道を分け入ってよき土地を探し求め、
茅で屋根を葺いた質素な庵が、ほかでもないこの片隅に建てられた。
夏の初め、鹿は新緑の林の外で呦呦と鳴き交わしている。
春の過ぎ去った後、花は古びた石畳の階段の前に咲き残っている。
私はたまたま老儒者に付き従って、
壺を店先に懸けて薬を売る仙人と共にやってきた。
感興が高じては、どうして酔いしれるのを辞退しようぞ。
無官のご大臣は酒の湧き出る泉をお持ちだ。

この詩題にいう「滄洲先生」が誰なのか、
『白山集』の序文を読んで、ようやく分かりました。
(前日こちらで紹介した、皆川淇園による序文とは別の一篇です。)
この序文を書いた赤松滄洲という儒者でした。

赤松滄洲は、平賀周蔵と初夏の厳島に遊び、
数日の遊覧の中で、日夜談論し、大いに意気投合したことを、
その経緯とともに、『白山集』序の中に記しています。

この、平賀周蔵の知己とも言える人物が「滄洲先生」でした。

2022年8月9日

「防輔」という官吏

こんにちは。

曹植「黄初六年令」を読み始めて、
以前こちらでも取り上げたことのある『袁子』に再会しました。

吾昔以信人之心無忌於左右、
深為東郡太守王機防輔吏倉輯等枉所誣白、獲罪聖朝。
 わたしは昔、人を信じる心から、左右の者たちを忌み嫌うことはなかったが、
 東郡太守の王機や防輔の吏の倉輯らからひどい讒言を受け、聖なる朝廷に罪を得た。

ここに見える「防輔」の意味を調べていてのことです。

『袁子』(魏の袁準『袁子正書』)は、
魏王朝が諸王諸侯に対して、相互の交流を禁止し、
朝廷に参内することも赦さなかったということを述べた後、
次のように記しています。

諸侯游猟不得過三十里。又為設防輔監国之官、以伺察之。
 諸侯は游猟するに三十里を過ぐるを得ず。
 又為(ため)に防輔・監国の官を設けて、以て之を伺察せしむ。
     (『三国志(魏志)』巻20・武文世王公伝の裴松之注に引く)

この同時代資料によると、
「防輔」は「監国」と同様、諸王を見張る役だったと知られます。

同じ意味でのこの語は、こちらでも触れた、
『三国志(魏志)』巻20・中山恭王袞伝にも見えていました。

「監国」はともかく、「防輔」という語は用例が少なく、
中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」で検索すると、
二十四史における「防輔」は、『三国志』に見える上記の2例のみです。
朝廷が諸王の動静を見張る「防輔」という官職は、
この曹魏王朝に特有のものであったと見てよいでしょう。

2022年8月8日

★津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)の第三章「曹魏における諸王政策の実態」に、「防輔と監国謁者」と題する、事例に基づいた詳細な論考が見えます。(2022年10月31日追記)

 

平賀周蔵『白山集』の序文

こんにちは。

9月の公開講座に向けての準備の一環として、
皆川淇園(名は愿)による平賀周蔵『白山集』の序文を読みました。
平賀周蔵の閲歴を概略知ることができた一方で、少し理解の及ばない部分も残りました。
ここに訓み下しを示し、疑問点を記しておきたいと思います。
内閣文庫所蔵本を翻刻した本文、及び訓み下し文は、別にこちらに上げておきます。)

安芸の国の医者、笠坊文珉は、自分と旧知の間柄である。ある日、詩集一冊を懐に入れてやってきて、これを取り出して私に見せて言った。「これは友人の平賀周蔵、字は子英、号は蕉斎という者が作った詩集です。周蔵は私に預けて、先生にこの序文を書いていただけるよう依頼してきた次第です。」そして、彼はまた子英が私に宛てて書いた手紙を取り出した。これを読んだところ、概ね、その詩集を出版すること、及び私の序文を求める旨が述べられていた。曰く、自分は幼少の頃より藝藩の大夫浅野子敦君に仕えてきた。おそらく自分は幼少の頃から学問好きであったためか、十歳になると、子敦君より特別に俸禄を賜り、広く学ぶよう命ぜられた。二十歳になると、子敦君に従って江戸へゆき、服部仲英について詩作を学んだ。仲英が亡くなった後は、詩を通しての交友関係はますます広がり、たとえば京の都の竜君玉(竜草廬)・江君綬(江村北海)といった人々とも広く交わりを結んだ。四十七歳で退職し、自ら白山居士と号した。今は五十歳になる。その初め、子敦君は物茂卿(荻生徂徠)の文章を読んで、そこに書いてあった「仕事が多くて学問ができないのは運命である。貧しくて書物が入手できないのは運命である。能力があって、人に学問をさせることができるならば、それは自身が学ばなくとも、ほとんど学ぶことに等しい」という言葉に感激したことがあって、子英を観察するに、幼い時から学問好きであった、というわけで、これに優先的に学資を給付しようということになったのである。そして、今、作った諸々の詩型の作品あわせて六百首を集めて五巻とし、これを出版して世に公開するに当たり、聊かなりともその文芸が成就したところを示すことによって、主人が私を理解し、支援してくださった、その御恩の万の一つにでも報いたいと願っている。もし序文を書いていただけるなら、どうか今述べたことを書き入れていただけないか、と。私はそこでまたその詩集を閲読するに、その詩は構想が清新で、表現は非常に練り上げられており、今の世で詩人としてもてはやされている者たちも、この詩集をよく読めば、自らを恥じる表情を浮かべるかもしれない。まさに、この詩集が世の中に伝播し、後世にまで広く伝えられることは必定である。そもそも子敦君が聡明で人を見る目があり、よく子英の学資の支援をしたこと、及び子英が明敏でよく学問に励み、以て自身の才能を成就させたこととは、真にこの二人を共に善しと称賛せずにおれようか。かくして、巻頭にその序文を書いて、これを文珉に託して持ってゆかせた。そしてその翌日、子英がやってきて私に面会し、その序文を書いたことに対する謝辞を述べ、かつまたこのように求めてきた。「今、先生にお会いすることができまして、先生の書いてくださった序文が未だ謁見が叶わなかった時と違いが無いようでは、少しばかり残念な心地がいたします。どうかこの序文を書き直してはいただけないものでしょうか。」そもそも、私の卑しく劣った人品を以てしては、その識語があろうがなかろうが、それが子英の評価の高下に影響を及ぼすには至るまい。とはいえ、彼の懇願が非常にねんごろであったため、更にこのことを書き加えて、これを子英に贈ったのである。
寛政六年(1794)冬十月
   京都の皆川愿が撰し并びに書す

この序文の大部分は、平賀周蔵が皆川淇園に当てて書いた書簡の引用です。
ただ、その中に「子敦君」「子英」等々といった言い方が出てきて、
これは、平賀周蔵が自身で書いた文面を、皆川淇園がアレンジしたものでしょう。
ですから、「曰く」以下を間接話法的に訳しました。

よくわからなかったのは、なぜ平賀周蔵は、翌日皆川淇園を直接訪ね、
序文の書き直しを懇願したのかということです。

その懇願の内容は、この通釈のとおりでよいのでしょうか。
翻刻あるいは翻訳を誤ったために、自ら理解できないのでしょうか。

更に、追記された部分というのは、どこからでしょうか。
普通に考えれば、周蔵の来訪とその懇願を記した部分なのでしょうが、
これを記すことで、却って著者の格を落とすことになりはしなかったのでしょうか。

また、京都の人である皆川淇園を、平賀周蔵は翌日すぐに訪ねています。
ということは、この時ちょうど皆川淇園は広島近辺にやってきていたのでしょうか。

2022年8月4日

 

曹植「黄初五年令」を読んで

こんばんは。

やっと本日、曹植「黄初五年令」の訳注を終えました。
半月くらいも時間がかかってしまいました。

この作品は、配下の役人たちに賞罰の基準を明示しようとしたものですが、
そのような内容の公文書にしては、論旨がすっきりとは通らず、何かが過剰な印象です。

たとえば、次のようなフレーズはどうでしょう。

九折臂知為良医、吾知所以待下矣。
 何度も臂を折って良医の何たるかを知るというが、
 わたしは臣下をどう任用すべきかを知った。

本作の成った前年、黄初四年に雍丘王となった曹植は、
それまでに何度も小さな罪を告発され、朝廷から処罰を受けています。
(たとえば「責躬詩」に詠じられているように)

前掲の二句から、思わずこの一連のことを想起しました。
また、次のような句も、こうしたことが背景にあるように感じられます。

唯無深瑕潜釁、隠過匿愆、乃可以為人君上行刀鋸於左右耳、……
 ただ、深いところに隠された小さな欠点や過失が無い者であってこそ、
 ようやく人の上に立つ君主として、左右の者たちに処刑を実施できるのであるが……

訳すると上記のようになってしまいますが、
「無深瑕潜釁、隠過匿愆」という表現は何かが過剰です。
かつて「瑕」「釁」「過」「愆」を根掘り葉掘りあげつらわれたことが、
ここへきて思わず噴出したような感があります。

2022年8月3日

曹植の『詩経』引用

こんにちは。

黄初年間における、曹植の曹丕に対する心情を探る上で、
「黄初五年令」の中の一節が、ひとつの示唆を与えてくれそうです。*1

雍丘王としての曹植のこの公的文章の中に、
「詩云、憂心悄悄、愠於群小(詩に云ふ、憂心悄悄たり、群小に愠らる)」
というフレーズが見えています。

これは、『毛詩』邶風「柏舟」にいう「憂心悄悄、愠于群小」を引用したもので、
その注釈によれば、「悄悄」は憂えるさま、「愠」は怒りをかうこと、
「群小」は君主の傍らにいる小人どもを指すといいます。*2
更に、本詩の序「小序」にはこうあります。

柏舟、言仁而不遇也。衛頃公之時、仁人不遇、小人在側。
 「柏舟」の詩は、仁徳を備えながら不遇であることを詠じるものである。
 衛の頃公の時、仁徳ある人は不遇で、小人が君主の側近にいた。

曹植の「黄初五年令」は、
このようなテーマを詠ずる「詩」の一節をまるごと引用しています。
おそらく曹植はここで、自身のことを「仁人」と位置づけ、
「群小」によって苦しめられ、「憂心」に沈む境遇にあることを述べているのでしょう。

けれど、そればかりでもないように思われます。
というのは、この「柏舟」詩は、次のような句を含んでいるからです。

我心匪鑑 不可以茹  私の心は鏡ではないから、人の心は測れない。
亦有兄弟 不可以拠  兄弟がいても、あてにはできない。
薄言往愬 逢彼之怒  近づいていって訴えても、彼の怒りに逢うのが落ちだ。

兄弟がいても、自分の力になってはもらえない。
そう嘆くこの「柏舟」詩の、別の一句をまるごと引いている曹植は、
当然、「兄弟」に言及するこの一節も熟知していたはずです。

「黄初五年令」で「柏舟」を直接引用するこの一節は、
君主と自分との間に、小人たちの悪意が介在していることを言うのみならず、

君主であり兄でもある曹丕に、助力を期待することができないことを、
婉曲的に言っている可能性があると考えます。

2022年7月28日

*1『曹集詮評』巻8所収。『文館詞林』巻695には「賞罰令」と題して収載されている。
*2「毛伝(前漢の毛亨・毛萇による解釈)」に「愠、怒。悄悄、憂貌(愠は、怒るなり。悄悄は、憂ふる貌なり)」、「鄭箋(後漢の鄭玄による解釈)」に「群小、衆小人在君側者(群小は、衆小人の君の側に在る者なり)」とある。

再び平賀周蔵の宮島詩

こんばんは。

『藝藩通志』巻32を通覧するに、
宮島に関わる漢詩を最も多く残しているのは、
江戸期安芸の国の漢詩人、平賀周蔵(1745―1805)です。

その詩作の背景を知る手掛かりを求めて、
彼の詩集『白山集』『独醒庵集』の影印を入手し、*
そこに収録されている作品と、『藝藩通志』とを照合してみました。
すると、作品の配列において、両者間には齟齬のないことがわかりました。
『藝藩通志』の編者は、宮島を詠じた平賀周蔵の詩を、
『白山集』『独醒庵集』に収載する順番どおりに書き写していったようです。

『白山集』『独醒庵集』は、
五言古詩、五言律詩、七言絶句等々といった詩体別に作品を収載しており、
制作年代順に並べるというような編集方針は取っていません。
ですから、すぐに平賀周蔵の詩作の背景を知ることはできそうにありませんでした。

ただ、もしかしたら、この二種の漢詩集の中には、
宮島に関する詩がまだ幾つか埋もれている可能性があるように感じました。

まず、「厳島」という語を詩題に含みながら、『藝藩通志』に未収録の詩が一首ありました。
(『白山集』巻4所収の「遊厳島舟発港口五更値雨」です。)

また、両詩集の中で、特に『藝藩通志』に収録する作品の前後を注意深く見れば、
固有名詞こそ含まないけれど、実は宮島を詠じている、という詩が見つかるかもしれません。
同じ詩体であれば、同じ機会に作られた作品は連続して収載されているでしょうから。

2022年7月26日

*『白山集』五巻は寛政七年(1795)刊、『独醒庵集』五巻は寛政十三年(1801)に刊行されています。私は内閣文庫から複写・製本されたものを取り寄せましたが、国立公文書館デジタルアーカイブで自由にダウンロード・閲覧ができます。

増井氏による『史通』理解

こんにちは。

劉知幾著・増井経夫訳『史通』が、弊学図書館に入りました。
ずいぶん前に出版された図書ですが、古書で入手することができました。*1

今になって図書館に入れておきたいと思ったのは、
中島敦の伯父、中島竦にまつわる逸話が、*2
その「あとがき」に記されていることを知ったからです。*3

直接のきっかけはそのようなことだったのですが、
やってきた書物を開いてすぐ、その「まえがき」に打ちのめされました。

以下、増井経夫氏の文脈にはやや沿わない切り取り方ですが、
特に心を揺さぶられたところを抜き書きします。

『史通』はあまり多くの読者を吸引してこなかった。
それは、駢文を用いたその文体が後世の人々にはやや難解であったこと、
さらにその内容が理論的であり批判的であったことにもよるだろう。
だが、著者の人間像は強烈に読者に迫るものがある。
この反骨に富んだ史書はまだまだ多くの人たちに呼びかけるものをもっているにちがいない。
耿介の故に多く排斥された劉知幾もまたその故に多くの知己を得ることと思われる。

また、「本書はかつて稿成って戦災に遭い」というくだりのさりげない迫力。

更には、「解説」に示された増井氏の劉知幾史学に対する深い洞察と、
『史通』への理解とともに示される、古典的中国学の方法に対する氏の本質的懐疑。

学問とは本来このように、
研究対象とも、その方法論とも、真摯に自由に対話するものなのだと、
何かとても大きなものに触れて、気づかされました。

2022年7月25日

*1 平凡社から1966年に出版され、後に研文出版から、1981年に第1刷、1985年に第2刷が刊行されている。
*2 増井経夫氏の「あとがき」に、「ああ来なさったか、じゃあやりましょうと、(増井氏から書店を通じて送られていた)小包を開いて書物をとり出されるといきなり朗々と講義を始められた。しかも掌を指すように出典をあげられるところは浦起竜の通釈(1752年刊行『史通通釈』二十巻)よりも鮮かであった。古人が座右に一冊の参考書をおくこともなく、よく著述し、注釈し、解説することのできる生きた姿をそこに見たのであった。そして一年ほど通って全巻を読了すると、先生はただ一言、中々よく書けてますなと、ポツリといわれただけであった」とある。
*3 中島敦『山月記・李陵』(岩波文庫、1994年第1刷。2009年第23刷)所収の、1985年に書かれた氷上英廣氏による解説によって知り得た。

 

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