西方からやってきたもの
こんにちは。
昨日に続き、これも授業の準備をしていて出会った論考ですが、
沖田瑞穂氏の「連続変身の説話の系譜―花咲爺を中心として―」に惹かれました。*1
その大まかな内容は次のとおりです。
日本の昔話「花咲爺」を構成している要素の中には、
主人公が次々と姿を変えてゆく「連続変身」説話の流入が認められる。
(人が、動物、樹木、木製品へと変身し、焼かれて灰となって再生するという説話)
世界の各地に広がりを持つこの説話のモチーフを分析した結果、
この説話は、エジプト起源で西から東へと伝播してゆき、
その途中で分岐して、ルーマニア、インド、チベットへ波及したと推測できる。
これを読んで、大形徹氏の所論を想起しました。*2
漢代の馬王堆帛画に見える図像は、エジプトに起源を持つ可能性があるという論です。
(こちらでも言及したことがあります。)
自分は日頃、文献に記された言葉に依拠して考察していますが、
もとより人類には、文字にはよらない文化の分厚い蓄積があるのであって、
そうした文化については、それにふさわしい研究方法があるのだろうと推察されます。
こうした異なる分野の研究に触れると、目の前が豁然と開ける思いがする一方、
自分のやっていることがいかにも微細なことのようで気後れしますが、
そこはそれぞれに価値がある、と気を取り直していきます。
2022年7月24日
*1 沖田瑞穂「連続変身の説話の系譜―花咲爺を中心として―」(『人文研紀要(中央大学)』75、2013年)。
*2 大形徹「中国の死生観に外国の図像が影響を与えた可能性について―馬王堆帛画を例として―」(日本道教学会『東方宗教』第110号、2007年)。
生命誌と道家思想
こんにちは。
授業「文学」の準備で読んだ岡田充博氏の所論に、*1
『荘子』至楽篇に見える次のくだりが紹介されていました。
旅する列子が、道端に打ち捨てられた髑髏に出会って語りかけた言葉です。
種有幾。得水則為㡭、得水土之際則為蛙蠙之衣、生於陵屯則為陵舄、陵舄得鬱棲則為烏足、烏足之根為蠐螬、其葉為蝴蝶。胡蝶、胥也、化而為蟲、生於竈下、其状若脱、其名為鴝掇。鴝掇千日為鳥、其名曰乾餘骨。乾餘骨之沫為斯彌、斯彌為食醯。頤輅生乎食醯、黃軦生乎九猷、瞀芮生乎腐蠸。羊奚比乎不箰久竹生青寧、青寧生程、程生馬、馬生人、人又反入於機。万物皆出於機、皆入於機。
生き物にはどれほどの種類があるだろう。水という環境を得れば㡭(水生生物)となり、水と土との際に生ずれば青苔となり、丘陵に生ずればオオバコとなり、オオバコが糞土を得れば烏足(植物)となり、烏足の根はスクモムシとなり、烏足の葉は胡蝶となる。胡蝶は、胥(蝶の名)であって、変化して虫となり、竈の下に生じて、その形状は抜け殻のようで、その名を鴝掇という。鴝掇は千日が経過した後に鳥となり、その名を乾餘骨という。乾餘骨の唾液は斯彌(虫の名)となり、斯彌は食醯(虫の名)となる。頤輅(虫の名)は食醯より生じ、黃軦(虫の名)は九猷(虫の名)より生じ、瞀芮(虫の名)は腐蠸(虫の名)より生じる。羊奚(草の名)は筍を生まない竹と交わって青寧(虫の名)を生じ、青寧は程(虫の名)を生み、程は馬を生み、馬は人を生み、人はまた機(万物を造りなす根源的システム)に帰っていく。万物はみな機より出で、みな機に戻っていく。
ここに示されているのは、幾多の種類の生き物たちが、
ひとつの根源から連なりあって生じ、またひとつの根源に帰っていく様です。
知識としては知っていたはずのこの道家的発想ですが、
最近知った、生命誌の知見とオーバーラップすることに感激しました。
生命誌研究者の中村桂子氏は、こう書いていらっしゃいます。*2
地球上には幾千万種に及ぶ様々な生きものがいるが、
そのすべては、DNAという物質を含む細胞でできている点で共通している。
これは、一つの祖先細胞からすべてが進化し、今の生きものたちになったからだ。
この共通祖先となった細胞は、38億年ほど前の海に存在したことが明らかにされている。
(自分なりにまとめたので、不正確なところがあるかもしれません。)
最先端の生命思想と中国古典とがここまで重なり合うとは。
もしかしたら、真実というものは本当にあるのかもしれないと思いました。
また、道家思想とは、古代人の徹底した自然観察と奔放な空想の化合物だと感じます。
2022年7月23日
*1 岡田充博「先秦時代の変身譚について」(『横浜国立大学教育人間科学部紀要Ⅱ(人文科学)12、2010年)。
*2 中村桂子『老いを愛づる 生命誌からのメッセージ』(中公新書ラクレ、2022年)所収コラム2「生きものはみんな仲間」によって私は知り得ましたが、氏の専門性をより前面に打ち出した書物に詳しく論じられているのだろうと思います。
曹丕に対する曹植の思い(承前)
おはようございます。
昨日見た曹植の「求通親親表」「鼙舞歌・精微篇」「黄初六年令」に、
かつて彼は、杞梁の妻や鄒衍らの起こした軌跡を信じていた、
ということが記されていました。
これらの奇跡は、王充の『論衡』感虚篇に集中的に見えており、
特に上記の「精微篇」は、『論衡』と同じ故事を連続的に詠じています。
(このことについては、こちらをご参照ください。)
曹植が『論衡』を愛読していたらしいことは、
他の事例があることからも、ほぼ確実であろうと思われます。
(こちらやこちらでも少し触れたことがあります。)
ところで、『論衡』感虚篇という著作物は、
世間一般の俗説について、その迷妄を片っ端から論破していく内容ですが、
そうした王充の合理的知性に、曹植はかなり影響を受けていたらしく思われます。
(たとえばこちらでも触れたように。)
だとすると、曹植が上記のような奇跡を心底信じていたとは考えにくい。
彼が信じていたのは、その故事そのものの信憑性ではなくて、
その故事が物語る、誠実な心は奇跡をも呼び起こす、という道理の方でしょう。
すると、曹植は骨肉の情の中に安穏としていたわけではなくて、
ある意思をもって、自分に対する兄の愛情を信じようとしたのだと捉えられます。
それも、「奇跡を信じる」のですから、彼は現実の厳しさを十分に知っていたはずです。
2022年7月21日
曹丕に対する曹植の思い
こんにちは。
『曹集詮評』巻7「求通親親表」の校勘作業をしていて、
次のようなフレーズに出くわしました。
臣伏以為犬馬之誠不能動人、譬人之誠不能動天。
崩城隕霜、臣初信之、以臣心況、徒虚語耳。
わたくし伏して思いますに、
犬馬の誠は人を動かすことができないのは、
人の誠が天を動かすことができないようなものです。
杞梁の妻が亡き夫を哭して城壁が崩れたとか、
鄒衍が燕で冤罪で拘束され、天を仰いで嘆くと、霜が降ってきたとか、
わたくしはその初め、このような言い伝えを信じていましたが、
私の心に照らして思いますに、それらは単なる虚妄の言葉に過ぎません。
この文章は、太和五年(231)、曹植40歳での作ですが、
彼はこの中で、かつての自分の考えの甘さを痛恨の中で振り返っているのです。
「犬馬之誠」とは、犬や馬が飼い主に対して抱く素朴な忠心で、
曹植の次のような文章の中に類似句が見えています。
まず、黄初四年に作られた「上責躬応詔詩表」に、
「踊躍之懐、瞻望反側、不勝犬馬恋主之情
(踊躍の懐ひもて、瞻望し反側し、犬馬の主を恋ふるの情に勝へず)」と見え、
また、「黄初六年令」にも、
「将以全陛下厚徳、究孤犬馬之年
(将に陛下の厚徳を全うするを以て、孤が犬馬の年を究めん)」とあります。
更に、「人之誠不能動天」については、
次の作品の中に、これを反転させた内容の辞句を認めることができます。
まず、「鼙舞歌・精微篇」(『宋書』巻22・楽志四)に、*
「精微爛金石、至心動神明(精微は金石をも爛(とか)し、至心は神明をも動かす)」
「妾願以身代、至誠感蒼天(妾 願はくは身を以て代へ、至誠 蒼天を感ぜしめん)」と、
また、前掲の「黄初六年令」にも、次のようにあります。
「信心足以貫於神明也。
(信心は以て神明をも貫くに足るなり)」、
「固精神可以動天地金石、何況於人乎。
(固より精神の以て天地金石を動かしむ可きなり、何ぞ況んや人に於いてをや)」。
そして、「求通親親表」にいう「崩城隕霜」は、
今示した「黄初六年令」の句「固精神可以動天地金石」の直前に、
「鄒子囚燕、中夏霜下、杞妻哭梁、山為之崩
(鄒子は燕に囚はれて、中夏に霜下り、杞妻は梁を哭して、山は之が為に崩る)」と見えますし、
前掲の「鼙舞歌・精微篇」にも詠じられている故事です。
こうしてみると、曹植は、文帝曹丕が在位した黄初年間、
あくまでも兄の曹丕に対して信頼する思いを持っていたということになります。
もっとも、「黄初六年令」は、先に示した部分のすぐ後に、
曹丕が曹植のいる雍丘まで訪ねてきてくれたことへの感激が綴られますから、
その前には、鬱屈した気持ちを抱く時期もあったかもしれませんが。
だとすると、昨日述べたことは少しく再考した方がよい。
同じ曹丕の弟ではあっても、曹袞と曹植とではその母が違います。
曹丕の同母弟である曹植は、兄を信じたい気持ちが強かったのかもしれません。
2022年7月20日
*「鼙舞歌・精微篇」の表現が「黄初六年令」「求通親親表」に展開していることは、林香奈「曹植「鼙舞歌」小考」(『日本中国学会創立五十年記念論文集』1998年、汲古書院)に夙に指摘している。
黄初初年の曹植
こんばんは。
後漢の献帝からの禅譲を受けて、
曹丕が魏の文帝として即位したのは黄初元年(220)十一月。
それから間もなく、曹植は魏王朝の成立を祝賀する、
「慶文帝受禅表」「魏徳論」「上九尾狐表」といった文章を作っています。
けれども、この直前に当たる同年の秋、
曹植は腹心であった丁儀・丁廙兄弟を、兄の曹丕によって殺されています。
そうした状況下で、自分を絶望に突き落とした人の即位を言祝ぐ、
それはいったいどのような心理によるのでしょうか。
曹植に「龍見賀表」(『曹集詮評』巻7)という文章があって、
皇帝の徳を示す瑞祥として、鳳凰や黄龍が出現したことを慶賀する内容ですが、
この作品の成立年代を、趙幼文は次のように推定しています。*
黄初三年(222)、黄龍が鄴の西の漳水に現れたので、
曹袞はこれを称えて上書した(『三国志(魏志)』巻20・中山恭王袞伝)。
曹植の「龍見賀表」は、これと同時期の作ではないだろうか。
曹袞は、曹植の腹違いの弟で、
非常に堅実な生活態度で学問に励んでいるのを、
文学・防輔の官人たちが王朝に上表して称賛したところ、
このことを厳しく叱責したという、きわめて慎み深い人物です。
それは、権力者に目を付けられることを恐れているからにほかなりません。
(こちらを併せてご覧ください。)
そういう人物が、瑞祥の現れたことを王朝に奏上している。
曹植も、これと同じ心理から魏王朝の成立を言祝いだのではないか。
腹心を失ってすぐ、彼らに手を下した者に向けて祝辞を述べたというのは、
決して腹心の死を忘れたわけでも、見境なく権力者にすり寄っていったわけでもなく、
震え慄く恐怖と不安から出た行為ではなかったかと思います。
骨肉の情から、兄を祝賀する気持ちもなかったわけではないでしょうが。
2022年7月19日
*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.251を参照。
漢籍電子文献資料庫のおかげ
こんにちは。
先にこちらで言及した曹植「黄初五年令」の句、
伝曰:知人則哲、堯猶病諸。
伝に曰く、「人を知るは則ち哲、堯も猶ほ諸(これ)を病む」と。
この句の出所はおそらくここか、というところが分かりました。
「知人則哲」は、先にも述べたとおり『尚書』皋陶謨、
「堯猶病諸」は、『論語』雍也篇に、仁を実践する困難をいう、
「堯舜其猶病諸(堯・舜も其れ猶ほ諸を病む)」を用いたのだと思われます。
『尚書』と『論語』とを綴り合せたのが、曹植その人か、
曹植がこれらの句を「伝」として引く以上、そうした文献が実在したのか、
それとも、曹植の記憶違いによる記述なのかはわかりませんが、
漢籍電子文献資料庫のおかげで、ここまでは辿れました。
ところで、
『論語』憲問篇にいう「子貢方人、子曰賜也賢乎哉、夫我則不暇」
(子貢 人を方(くら)ぶ、子曰く 賜(子貢)や賢なるかな、夫れ我は則ち暇あらず)
その疏に「夫知人則哲、堯舜猶病」とあって、曹植の文章に近いのですが、
論語の疏は、宋代の邢昺によるもので、曹植がそれを見ているはずはありません。
邢昺が曹植の文章を見ている可能性はあるでしょうし、
両者がともに基づいた「伝」なるものがないとも言い切れません。
(経学に詳しい方には判断が可能なのかもしれません。)
2022年7月16日
黄初二年の曹植(承前)
こんにちは。
以前、こちらで検討したことに関連して。
前に読んだ先行研究の続きを読み直しました。
植木久行「曹植伝補考―本伝の補足と新説の補正を中心として―」
(早稲田大学中国古典研究会『中国古典研究』21、1976年)の第五章です。
そこでは、主に「黄初六年令」及び「責躬詩」に拠って、
黄初二年頃の曹植の事績が精査されています。
「責躬詩」については、以前、こちらでその概略を把握しました。
それに照らして言えば、次の句の捉え方については私も植木論文に全く賛成です。
24 改封兗邑 于河之浜 ⇒鄄城侯への改封をいう。
25 股肱弗置 有君無臣 26 荒淫之闕 誰弼余身 ⇒鄄城侯時代の王機らによる検挙
27 煢煢僕夫 于彼冀方 28 嗟余小子 乃罹斯殃 ⇒王機らの検挙による洛陽への召還
29 赫赫天子 恩不遺物 30 冠我玄冕 要我朱紱 ⇒文帝の恩沢による鄄城侯への復帰
31 光光大使 我栄我華 32 剖符授土 王爵是加 ⇒鄄城王の爵位を授ける使者の来訪
ただ、異なるのは、それぞれの出来事が起こった時期の推定です。
植木論文は、東郡太守の王畿らによる検挙を、黄初二年頃のことと推定しています。
私は、この時期の曹植は臨淄侯であり、監国謁者潅均により検挙されたのだと推定します。
両者の違いは、曹植が臨淄侯として赴任した時期の推定に由来するでしょう。
この一点だけでも、黄初年間の曹植の動向を探る意味はありそうです。
2022年7月14日
直接引用の意味
こんばんは。
毎日少しずつ『曹集詮評』の校勘作業をしながら、ふと思い至ったこと。
曹植「陳審挙表」(『曹集詮評』巻7、『三国志(魏志)』巻19陳思王植伝)には、
実におびただしい数の古典語や歴史故事が直接引用されています。
なぜでしょうか。
現代日本人の多くは、これを知識のひけらかしだと感じるかもしれません。
けれど、もしかしたらそれはこういうことなのかもしれない、
と思い至ったことがひとつあります。
それは、
この文章は、私的な個人の意見を言っているのではなくて、
古来蓄積されてきた知的共有財産に基づく公的見解を表明するものなのだ、
という意思表示としての直接引用ではないか、ということです。
自分の考えを飾り立て、権威付けるための引用ではなくて、
自分の考えが、滔々と流れるものの中に位置付けられるという意識です。
我勝ちに自己アピールすることをよしとする、現代的風潮の対極にあるものです。
もちろんそれは、自分を消して全体の中に呑み込まれよと言っているのではありません。
「我」を棄てて「みんな」の考えに歩み寄るということとも似て非なるものです。
2022年7月13日
昨日の追補
こんばんは。
昨日触れた『春秋左氏伝』襄公三十一年に由来する「人心不同、若其面焉」。
これは、以前こちらで触れた曹丕の言葉、
人心不同、当我登大位之時、天下有哭者。
人心は同じからず、我が大位に登る時に当たりて、天下に哭する者有り。
この冒頭句の出自とも重なっているように思います。
とすると、この語は、『左氏伝』に由来するということがかすむほどに、
広く人口に膾炙していた言葉であったのかもしれません。
(あるいは『左氏伝』の記述も、古来あるこのことわざを取り込んだか。)
すると、曹植が「諺に曰く」としてこの句を引いたのも、
あながち記憶による曖昧な引用とも言えないように思えてきます。
また、もうひとつ「伝に曰く」の方も、
もしかしたら、当時、本物の孔安国伝というものが伝存していて、
それを曹植が引いた可能性も皆無ではありません。
これ以上に遡って確認することはできないのですが、
おしなべて、現存する書物にのみ依拠して判断することは殆うい、
このことは自覚しておきたいと思います。*
2022年7月12日
*こう思ったのは、池田昌広氏の「『袖中抄』と類書」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第27号、2022年)を拝読したからです。顕昭『袖中抄』に、中国の類書『白氏六帖』や『修文殿御覧』がいかに多く利用されているかを精査した卓論で、この中に、刊本として流通する以前の抄本『白氏六帖』の姿が窺えるという指摘がありました。
魔がさすように
こんばんは。
黄初年間の曹植の動向を精査するため、
「黄初五年令」(『曹集詮評』巻8)の訳注を始めました。
すると、「伝に曰く」として引かれた句が、
『尚書』皋陶謨にいう「知人則哲(人を知るは則ち哲なり)」と、
その前の句に対する(偽)孔安国伝の概略的内容の綴り合せであったり、
また、「諺に曰く」として引かれた句が、
こちらにも記したとおり、『春秋左氏伝』襄公三十一年の句だったりします。
このようなことに遭遇したとき、
若い頃は、昔の人のいい加減さに笑っていました。
中年になると、そのいい加減さが示す奥行きがおそろしくなりました。
そして、この頃は、自分の無知を思い知るということ以上に、
彼我の住む世界の隔たりを、つくづく感じることの方が強くなってきました。
曹植の中には様々な古典語がたっぷりと蓄積されていて、
それらを、記憶をたぐりよせるように自在に引用しているのでしょう。
彼はそうした言葉の世界を普通に呼吸していたのです。
けれども、自分にとってそれらは、辞書などによってやっと知り得る言葉です。
彼らの普通が、自分にとってはそうではない、
そんな異なる座標の上に生きた人の書き残したものを、
ただでさえ鈍い自分が、素手で理解できるとは思えません。
だから、時間がかかっても地味に細かく読んでいくしかないのですが、
それをやって、何か少しでも人の役に立てることがあるだろうか、
などと考えてしまう魔が時折ふらりと訪れます。
誰かの役に立とうなどと不遜なことを思うからいけない。
とはいっても、これは趣味でやっているのではなくて、仕事なのだから。
こう右往左往することを、けれど無意味とは思わないでおきます。
現代における古典研究の意義を考えることをばかにしない、
けれど、しっかり手は動かして読み続けます。
2022年7月11日