曹丕と楊修
こんにちは。
このところ、継続的に曹植の作品を読んでいて、
改めて、兄である曹丕のことが気にかかるようになりました。
二人の間柄についてはこれまでにも触れてきましたが、
本日は、曹丕と楊修との関わりを示す資料をひとつ記します。
そこに、曹丕が抱えていた悲しさの一端が垣間見えるように思うからです。
楊修は、曹植と肝胆相照らす仲でした。
それは、曹植の「与楊徳祖書」(『文選』巻42)と、
楊修の返書「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)から端的に見て取れます。
では、楊修と曹丕との関係はどうだったのでしょうか。
楊修は当代きっての俊才でしたから、
曹丕以下、魏の公子たちは競って彼と交友関係を結ぼうとしました。
『魏志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く魚豢『典略』は、
このことを記した上で、前掲の曹植・楊修の往復書簡を引用しています。
そして、曹植と楊修との親密さとこのことに起因する楊修の死、
曹操の崩御と曹丕の即位をひと連なりに記した後に、
次のような逸話を紹介しています。
初、修以所得王髦剣奉太子、太子常服之。
及即尊位、在洛陽、従容出宮、追思修之過薄也、撫其剣、駐車顧左右曰、
「此楊徳祖昔所説王髦剣也。髦今焉在。」及召見之、賜髦穀帛。
初め、修は得る所の王髦の剣を以て太子に奉じ、太子は常に之を服す。
尊位に即くに及びて、洛陽に在り、従容として宮を出で、
修の過薄なりしを追思するや、其の剣を撫し、車を駐めて左右を顧みて曰く、
「此れ楊徳祖の昔説く所の王髦の剣なり。髦は今焉(いづく)にか在る」と。
召して之に見ゆるに及び、髦に穀・帛を賜ふ。
楊修から贈られた王髦の剣を、いつも身に帯びていた太子時代の曹丕。
曹丕は楊修に強いあこがれの気持ちを持っていたはずですが、
楊修は、自分の方は見向きもせず、弟とばかり親密なやり取りを重ねていました。
そのことを踏まえると、曹丕のこの有様にはいじらしささえ感じます。
曹丕は即位してからも、その剣を肌身離さず持っていました。
彼は、自身に対して酷薄だった楊修のことを今もありありと覚えていて、
その上で、その剣の制作者でしょうか、王髦を召し出して褒美を賜っています。
この振る舞いには、何か根強いコンプレックスの影を感じます。
なお、このことを記す『典略』の撰者魚豢は、
三国魏の時代を生きた人であり、また信頼するに足る歴史家です。*
2021年9月6日
*こちらの学術論文№41をご参照いただければ幸いです。
家を出された女性の自尊感情
こんにちは。
古楽府に科白が多用されることは、
田中謙二氏によって指摘されているところですが、*1
どこからどこまでが誰の科白なのか、不分明なことも少なくありません。
このことは、古楽府によく似た古詩においても同様で、*2
たとえば『玉台新詠』の巻頭に置かれた次の古詩もそのひとつです。
01 上山采蘼蕪 山に上って蘼蕪(センキュウ)を採り、
02 下山逢故夫 山を下るときに元夫に出会った。
03 長跪問故夫 両ひざをついて腰を伸ばし、元夫に問いかけた。
04 新人復何如 「新しいお人はどんなご様子ですか。」
05 新人雖言好 「新妻はきれいだとはいえ、
06 未若故人姝 元妻の見目麗しさには及ばないよ。
07 顔色類相似 顔つきは似ていても、
08 手爪不相如 指先の美しさは比べ物にならない。」
09 新人従門入 新妻は門から入り、
10 故人従閤去 元妻は脇のくぐり戸から去っていった。
11 新人工織縑 新妻はかとり絹を織るのに巧みで、
12 故人工織素 元妻は染めていない白絹を織るのに巧みだった。
13 織縑日一匹 かとり絹を織るのは一日に一匹、
14 織素五丈餘 白絹を織るのは五丈余り。
15 将縑来比素 かとり絹をもってきて白絹に比べてみれば、
16 新人不如故 新妻は元妻にはかなわない。
今、このように通釈してみたのは、
松浦崇氏の所論による啓発を受けてのことです。*3
まず、氏の所論の一部を、以下のとおりかいつまんで紹介します。
本詩は、大きく二つの部分に分けられ、
第1・2句は前半八句の導入部、第9・10句は後半八句の導入部となっている。
内容は、以下のとおり、当時における女性の「四徳」をすべて織り込むものである。
第3・4句では、言外にそれとなく元妻の気立ての良さが表現され、
第5・6句は、彼女の言葉遣いの美しさを表現するものであり、
第7・8句では、指先にまで及ぶ容姿の美しさを詠じ、
第12・13・14・15・16句は、彼女の手仕事の巧みさを描写している。
このように女性の理想像を余すところなく描いた本作品は、
女性の読者を想定した『玉台新詠』の巻頭を飾るにふさわしいものである。
以上の論述内容の中で、特に深く納得させられたのは、
本詩がちょうど半分に分割されるということ、
それぞれの最初の二句が、以下に続く部分の導入となっているという指摘です。
これを踏まえ、個々の語釈を吟味した上で、前掲のように訳しました。
「子なきは去れ」が一般通念であった時代、
涙を呑んで婚家を離れた女性たちは少なくなかったでしょう。
元夫は、再会した元妻の、見た目の美しさばかりを言い募るのですが、
それを聞かされる元妻の心中はどうでしょうか。
もしかしたら後半の八句は、
世間的には不幸と見えただろう女性たちへの賛歌かもしれない。
婚家の期待には沿えなかったけれど、
自らの仕事に誇りを持つ女性の自尊感情を、
第三者の視点から代弁しているように思えてなりません。
もっとも、これは私なりの解釈です。
先人たちもみな、それぞれに解釈されています。
2021年9月4日
*1 田中謙二『楽府散曲(中国詩文選22)』(筑摩書房、1983年)p.35を参照。
*2 田中前掲書p.54―59に、本作品が「ふつう古詩と呼ばれている一篇の古楽府」として紹介され、第4句、及び第9・10句を元妻の科白、第5・6・7・8句、及び第11・12・13・14・15・16を元夫の科白として捉えている。
*3 松浦崇「古詩「上山采蘼蕪」考」(『中国文学論集』第12号、1983年)を参照。本詩の解釈をめぐる諸説も、この論文に分析的に紹介されている。
曹植の言葉の波及
こんばんは。
曹植(192―232)の作品に見える表現で、
彼に先んずる人々の作品には用例が見いだせず、
他方、彼に続く時代の人の作品にその片鱗が見いだせる場合、
その後続作品は、曹植作品の影響を直に受けている可能性が高いと言えます。
これまでにもいくつか、そういった事例に遭遇したことがありますが、
次に示すのも、その一例として見てよいかもしれません。
それは、「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)の次の句です。
形影相弔、五情愧赧。
自身の身体と影とが哀れみ合うような中、
五つの感情がすべて、恥ずかしさで赤面する思いだ。
「形影相弔」という印象的な句は、
三国・蜀から西晋にかけての李密(224―287)の、
「陳情事表(情事を陳ぶる表)」(『文選』巻37)に次のとおり見えています。
煢煢独立、形影相弔。
寄る辺なく一人ぼっちで、自身の身体と影とが哀れみ合うような状態だった。
また、魏の阮籍(210―263)の「奏記詣曹爽(奏記 曹爽に詣(いた)る)」には、*1
曹植作品にいう「五情愧赧」に似た表現が、次のとおり見えています。
憂望交集、五情相愧。
憂える思いが交々集まってきて、五つの感情が互いに恥じ入る思いだ。
時代が東晋まで下りますが、
陶淵明(365―427)の「影答形(影の形に答ふ)」詩にいう、*2
「身滅名亦尽、念之五情熱(身滅べば名も亦た尽く、之を念ずれば五情熱し)も、
「形」「影」が向き合っているところに「五情」の語が出てくるので、
もしかしたら、曹植作品を意識しているのかもしれません。
2021年8月31日
*1『阮籍集』(上海古籍出版社、1978年)巻上、p.54。
*2『陶淵明集』(中華書局、1979年)巻二、p.36。
※蔡琰の「悲憤詩」其一(『後漢書』巻84・列女伝)にも、自身の影と向かい合うという発想で孤独を表現する、「煢煢対孤景、怛咤糜肝肺(煢煢として孤景に対すれば、怛咤として肝肺を糜(ただ)れしむ)」という句が見えます。ただ、この例の場合、発想は似ていても、用いられた言葉が違います。ですから、どこまで相互に影響関係があったかは不明です。これとは逆に、言葉は同じでも、文脈が異なる、意味が異なるという例もよく見かけるところです。言葉の影響関係は、これを精査することが難しいと感じます。(2021.09.20追記)
注釈者との対話
こんばんは。
毎日少しずつ曹植作品の訳注作業を重ねています。
『文選』所収作品であれば、李善注をまず見ることにしています。
李善注の後を追いかけて調べながら、
正直、そこまでしなくても、と思うことも少なくありません。
それでも、李善の言葉に耳を傾けるのはなぜか。
ひとつには、唐代初めの彼は、私たちの目睹できない文献も見ているため、
それだけ、作者の言語感覚により近づけるだろうと考えるからです。
作者の思いとは別に、読者が自由に解釈してもよいとする考え方もあります。
けれども、私はこの道は取りません。
それは、無意識的に自らを拘束している枠を打ち破りたいから。
「自由」というとき、往々にして現代的な枠に縛られているものだと思います。
だから私は、いったん相手の座標に身を置いてみることにしています。
加えて、李善注とは対話の楽しみがあるからです。
なぜこのような文献を引くのかと問いながら原典を当たると、
結果、そこには自分の意表を突くような解釈が立ち現れることがある。
だから、まったく気が抜けません。
自分を大きく超える存在が眼前にある。
それと格闘することによって、自分の小さな枠を超えていきたい。
2021年8月30日
別れの宴を詠ずる蘇李詩
こんにちは。
鄭振鐸は、その『中国俗文学史』第三章第六節で、
李陵・蘇武の詩(いわゆる蘇李詩)の妙味を次のように評しています。
民歌には別離した相手への思いを表現するものが最も多く、
この二首(『文選』巻29、蘇武「詩四首」其一、其三)のように、
別離の際の情感を描いて、すばらしい出来のものはむしろ非常に少ない。
この指摘にはハッとさせられました。
たしかに、『文選』所収の李陵「与蘇武三首」、蘇武「詩四首」は、
すべて、別れの宴での情感や情景を詠ずるものばかりです。
では、蘇李詩に近いとされる古詩に、そうした内容のものがあったかどうか。
少なくとも、古来別格視されてきた第一古詩群にも、
また、名作の誉れ高き「古詩十九首」(『文選』巻29)にも、*
このような趣旨の作品は認められません。
古詩には、離別の悲しみを詠ずるものが非常に多くあります。
また、宴席に言及するものもたしかにあります。
ですが、別れの宴を詠じたものは、上記の作品群には見当たらないのです。
では、『文選』所収以外の蘇李詩ではどうでしょうか。
このあたりのところから、
蘇李詩の素性を洗い出すことができるかもしれません。
2021年8月27日
*第一古詩群と「古詩十九首」との関係については、こちらの一覧をご覧ください。
個人に属さない知的財産
こんにちは。
昨日、あのようなことを話し始めたのは、
『文選』巻20、曹植「上責躬応詔詩表」の李善注に引くある文献の内容が、
同じ時代の別の人物が著した書物の中にも認められたからです。
それは、「陛下」という語に対する説明です。
李善が引いていたのは、後漢末の応劭の『漢書集解』でした。
『漢書』巻1下・高帝紀下にいう「大王陛下」について、
初唐の顔師古の注が、応劭の解釈を次のとおり引いて説明しています。
陛者、升堂之陛。
王者必有執兵陳於階陛之側。
群臣与至尊言、不敢指斥。
故呼在陛下者而告之。因卑以達尊之意也。
若今称殿下、閣下、侍者、執事、皆此類也。
陛とは、堂に升るための階段である。
王なる者には、必ず兵器を手にして階段の側に居並ぶ者たちがいる。
群臣が至尊なる王に申し上げる場合、敢えて名指しはしない。
わざわざ階段の下にいる者を呼んで、これに告げる。
身分の低い者によって最も尊い存在に取り次いでもらうということだ。
たとえば今、殿下、閣下、侍者、執事と称するようなものは、皆この類である。
ところが、同じ時代の蔡邕も、
その『独断』巻上で、ほとんど同じことを述べています。
陛下者、陛階也。所由升堂也。
天子必有近臣執兵陳於階側、以戒不虞。
謂之陛下者、群臣与天子言、不敢指斥天子。
故呼在陛下者而告之。因卑達尊之意也。上書亦如之。
及群臣士庶相与言曰殿下、閣下、執事之属、皆此類也。
陛下なる者、陛は階なり。由りて堂に升る所なり。
天子には必ず近臣の兵を執りて階の側に陳び、以て不虞を戒むる有り。
之を陛下と謂ふは、群臣の天子に言ふに、敢へて天子を指斥せず。
故(ことさら)に陛下に在る者を呼びて之に告ぐ。
卑(ひく)きに因りて尊に達するの意なり。上書も亦た之の如し。
群臣・士庶に及んで相与(とも)に言ひて殿下、閣下、執事と曰ふの属は、皆此の類なり。
見てのとおり、語句の多くが応劭『漢書』集解と重なっています。
どうしてこのようなことが起こったのでしょうか。
福井重雅氏による『独断』の解題に、
本書は、蔡邕が、自ら師事した胡広の『漢制度』を底本として執筆したもので、
その成立は、本書中の記述から、熹平元年(172)頃と推定される、
との見解が述べられています。*
蔡邕(133―192)の『独断』と、
応劭(?―204以前)の『漢書集解』との前後関係は未詳です。
では、応劭と蔡邕との間に接点はあったのでしょうか。
それとも、いずれかの書物が、成立と同時に人々の間に伝播して、
どちらかが、どちらかの著した書物を目睹することができたのでしょうか。
あるいは、二人がともに参照した書物があるのでしょうか。
前漢中期の司馬遷『史記』から、後漢前期の班固『漢書』へ、
前漢末の劉向「別録」・劉歆「七略」から、班固『漢書』藝文志へ、
といった記事の取り込みは、異なる時代間での継承です。
蔡邕と応劭のように、同じ時代の撰者どうしの場合、
そのほとんど同じ記述は、どのような関係にあると見るのが妥当でしょうか。
当時の著述や、それを記した書物の伝わり方が自分には謎です。
(もしかしたら周知のことなのかもしれませんが。)
知的共有財産という話題からすっかり逸れてしまいました。
2021年8月26日
*福井重雅『訳注西京雑記・独断』(東方書店、2000年)p.199を参照。
知的共有財産と著作権
こんばんは。
前近代の中国において、
ほぼ同じ記述が、別の人の著作に認められることは少なくありません。
今なら著作権に抵触しそうな事柄ですが、
では、彼らにこのような意識がなかったかというと、必ずしもそうではありません。
北斉の顔之推は、その『顔氏家訓』慕賢篇で次のように説いています。
用其言弃其身、古人所恥。
凡有一言一行、取於人者、皆顕称之、不可窃人之美、以為己力。
雖軽雖賤者、必帰功焉。
窃人之財、刑辟之所処、窃人之美、鬼神之所責。
その言葉を用いながら、その本人を無視するのは、古人の恥としたところだ。
およそ言葉ひとつ行いひとつでも、人から得たものであるならば、
そのことをすべて明示し、顕彰すべきであって、
人の美を盗んで、自身の力によるものとしてはならない。
どんなに身分の低い者であろうとも、必ず彼の功績とすべきである。
人の財を盗めば、刑法によって処罰される。
人の美を盗めば、鬼神に責め立てられるであろう。
現代でいう著作権が、多く金銭に絡む問題であるのに対して、
顔之推が言っているのは、人の営為には敬意を払おうというモラルでしょう。
その違いはあっても、ここで顔之推ははっきりと、
人から得た知見や言葉を黙って用いることの非を説いています。
顔之推がこのように説いているということは、
それだけそうした事例があったということの証かもしれません。
そして、案外そうした人々は、そのことを罪だとは思っていない可能性があります。
彼らは、こっそり人の美を盗むという意識ではなくて、
それを特定の誰にも属さない知的共有財産と見ているのかもしれません。
2021年8月25日
曹植の「胡顔」(追記)
こんばんは。
昨日は、曹植の拙速かとさえ思った「胡顔」ですが、
実は彼の腹心であった丁廙の「蔡伯喈女賦」(『藝文類聚』巻30)にも、
次のような表現が見えています。
我羈虜其如昨、経春秋之十二。忍胡顔之重恥、恐終風之我萃。
私が捕虜となったのは昨日のことのようだが、もう十二年の歳月を経た。
どの面下げてとの思いで重ねる恥を忍びつつ、
私を憔悴させる吹きなぶる風が恐ろしい。
「蔡伯喈女」とは、後漢末の大儒、蔡邕のむすめ、蔡琰(字は文姫)です。
彼女は漢末の動乱の中、匈奴に連れ去られ、曹操の尽力によって帰国が叶いました。
丁廙は、同時代の彼女の悲劇を賦作品に著したのです。
この作品のあることを指摘したのは、李詳『顔氏家訓補注』です。*
(この書に附する『北斉書』文苑伝に引く顔之推の「観我生賦」に対する注)
その上で、李詳は次のように論じています。
「終風」と「胡顔」とは対句を為している。
「終風」は、『詩経』邶風の中の一首である。
ならば、『詩経』の中に「胡顔」があってしかるべきだ、と。
たしかに言われてみればそのとおりだと思います。
ただ、昨日も示したとおり、すでに唐代、『詩経』には「胡顔」の語が見えません。
ここから先は、よく見えません。
2021年8月24日
*周法高『顔氏家訓彙注(中央研究院歴史語言研究所専刊之四十一)』(台聯国風出版社、1960年)付録一・144裏、及び王利器『顔氏家訓集解(増補本)』(中華書局、1993年)p.686に引くところによる。李詳の注そのものは未見。
※黄節『曹子建詩註』巻1「責躬詩」附「上責躬応詔詩表」の語釈にも、丁廙「蔡伯喈女賦」を引き、更に『毛詩』小雅「巧言」の鄭箋「顔之厚者、出言虚偽、而不知慙於人(顔の厚き者、言を出すこと虚偽にして、而して人に慙づるを知らず)」を援用して、丁廙と曹植の言うところが同趣旨であることを指摘している。ただし、黄節(1873―1935)と李詳(1858―1931)と、いずれの指摘が先んじるかは未詳。(2021年8月26日追記)
曹植の筆の走り
こんばんは。
今日も曹植「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)を読んでいて、
注釈者たちを困惑させている表現に出会いました。
それは次のような句です。
忍垢苟全、則犯詩人胡顔之譏。
恥を忍んでかりそめの生を全うしては、
詩人がいう「どの面下げて」のそしりを犯すことになる。
「詩人」といえば『詩経』の作者たちを言いますが、
五臣注(呂向)にも言うとおり、『詩経』の中に「胡顔」という語は見えません。*
一方、李善注は、この句に先んじて見える、次の句を指すのだと捉えています。
窃感相鼠之篇、無礼遄死之義。
ひそかに「相鼠」の詩篇にいう「無礼者は速やかに死すべし」の趣旨に感じ入る。
「相鼠」とは、『毛詩』鄘風の中の一篇で、その中に次のようにあります。
相鼠有体、人而無礼 鼠を相(み)るに体有り、人にして礼無し。
人而無礼、胡不遄死 人にして礼無くんば、胡(なん)ぞ遄(はや)く死せざる。
ただ、ここには「胡」はあっても「顔」はありません。
曹植は、「胡顔」という語が『詩経』の中に見えているかのように書いているのですが。
その齟齬を李善は当然わかっていて、
まず、『毛詩』鄘風「相鼠」の句を次のように解釈します。
『毛詩』謂何顔而不速死也。
『毛詩』は、どの面下げて(厚顔にも)速やかに死なないでいるのか、という意味だ。
こう述べた上で、時代は少し下るけれども、
殷仲文「解尚書表」(『文選』巻38)に見える、次のような用例を挙げ、
それが曹植のこの文章の「胡顔之譏」に由来するものだいうことを指摘しています。
臣亦胡顔之厚、可以顕居栄次。
小生はそれでもどの厚顔をぶらさげて、
栄誉ある地位にふんぞり返ることができましょうか。
「胡顔」という語は非常に用例の少ない言葉ではあるのですが、
顔之推の「観我生賦」(『北斉書』巻45・文苑伝)にも、次のとおり見えています。
小臣恥其独死、実有媿於胡顔。
小生はひとり死ぬということを恥じ、
実に、厚顔にも生き長らえることを恥じる思いがありました。
この顔之推が用いた「胡顔」は、明らかに曹植の前掲の辞句を踏まえた表現でしょう。
原典である曹植の言葉は、少し舌足らずなようにも、また些か拙速な感じもするのですが、
(以前に記した「求自試表」の文体とも通じるような感触を覚えます。)
それが後世では、ひとつの古典となっているのでしょうか。
2021年8月23日
*胡克家『文選考異』巻四に、これが三家詩のテキストであった可能性を指摘する。(2021年8月27日追記)
曹植の造語か
こんにちは。
曹植「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)に語釈を付けていて、
少しばかり奇妙なことに気づきました。
目が留まった語釈の対象は、次のような対句です。
昼分而食 真昼になってからやっと食事をし、
夜分而寝 真夜中になってからやっと眠りにつく。
この部分に対して、李善の注は、
『韓非子』十過に見える、次のような文章を引いています。
昔者衛霊公将之晋、至濮水之上、税車而放馬、設舎以宿、夜分而聞鼓新声者。
その昔、衛の霊公が晋に赴こうとして、濮水のほとりまでやって来て、
馬車から馬を解き放ち、宿舎を設けて泊まったところ、
真夜中に新声を奏でる音が聞こえてきた。
この記述の内容が、曹植の文章に踏まえられている、というわけではなくて、
ただ「夜分」という語の用例として挙げられたもののようです。
ところが、片方の「昼分」に対して、李善は何も注していません。
『大漢和辞典』や『漢語大詞典』を引いてみると、
「昼分」の用例として挙げられているのは、曹植のこの文章のみです。
インターネット上のいくつかのデータベースで検索してみても、
やはり、曹植以前に遡ってこの語の用例を確認することはできませんでした。
前掲のとおり、曹植のこの表現は、非常に明瞭な対句です。
「夜分」という語は、『韓非子』に見るとおり、すでに使われていたのでしょう。
「昼分」は、これに対置させた、曹植の造語だったのかもしれません。
ちなみに、西晋の夏侯湛「昆弟誥」(『晋書』巻55・夏侯湛伝)に、
「厥乃昼分而食、夜分而寝(それ乃ち昼分にして食し、夜分にして寝ぬ」という、
曹植の文章にほとんど重なる文面の句が見えます。
「昼分」の用例が、少なくともこの時代、他には見当たらないことや、
夏侯氏一族と曹魏王朝との関わりの深さから考えるに、
夏侯湛のこの表現は、直接、曹植の文章から学んだものなのかもしれません。
2021年8月19日