曹植「責躬詩」札記2

こんばんは。

前回触れた、曹植「責躬詩」の第21・22句「帝曰爾侯、君茲青土」は、
その後すぐに次のような句が続きます。

奄有海浜  奄(おほ)いに海浜を有し、
方周于魯  周の魯に于(お)けるに方(なら)ぶ。

ここでは、『毛詩』魯頌「閟宮」にいう
「建爾元子、俾侯于魯(爾が元子を建て、魯に侯たらしめよ)」を踏まえながら、
臨淄侯として当地へ赴くことを命じられた自身の処遇が、
周王朝の、周公旦に対する厚遇に匹敵するものであったと述べられています。

前回挙げた「諫取諸国士息表」からは、
現実はとてもそのようなものではなかったと知れるのですが、
それは、本詩が自らを責める趣旨のものであるだけに、
当然つかなければならないウソであったと言えるでしょう。

ただ、そうしたやむを得ない虚言をあしらいながらも、
曹植はどうしても、憤懣を漏らさずにはいられなかったようです。

たとえば、第33・34句
「作藩作屏、先軌是隳(藩となり屏となるも、先軌を是れ隳る)」は、
『春秋左氏伝』昭公九年にいう、
「文武成康之建母弟、以蕃屏周、亦其陵隊是為。」
(文・武・成・康の諸王が、弟を封じて周の蕃屏としたのは、周の衰退を防ぐためだ。)
を踏まえつつ、それを反転させて言ったものかもしれません。
「藩屏となったけれども、先王の規範を損なってしまった」と詠ずれば、
老人ばかりの、人数も不十分な軍隊しか支給されなかった現実が浮かび上がります。

また、第19・20句
「広命懿親、以藩王国(広く懿親に命じ、以て王国に藩たらしむ)」の、
「懿親」という語は、『春秋左氏伝』僖公二十四年に、次のとおり見えています。

如是則兄弟雖有小忿、不廃懿親。
だとすれば、兄弟は小さな怨みを持っても、骨肉を損なったりはしないものだ。

「如是」とは、その直前に引く『詩経』小雅「常棣」を受けて言っています。
「常棣」は、仲睦まじい兄弟愛を歌う詩です。

ところが、この『春秋左氏伝』に見える「懿親」という語を用いる曹植は、
現在、実の兄から厳しい処罰を受けるという境遇の中にあります。
すると、この言葉を用いること自体が異議申し立ての意味を帯びたかもしれません。

曹植は、そんなに心から自身の非を認めているわけではなさそうだと感じます。
もっとも、最後まで読んでみないと確かなことはわかりませんし、
酷くひねくれた読み方を自分がしている可能性もあります。

2021年10月25日

曹植「責躬詩」札記1

こんばんは。

曹植「責躬詩」(『文選』巻20)の第21・22句、
「帝曰爾侯、君茲青土(帝曰く 爾 侯よ、茲の青土に君たれと)」について。

上の句は、『尚書』に散見する「帝曰爾(汝)~」という措辞を用い、
曹植詩における「帝」は、彼に藩国への赴任を命じた曹丕のことを指しています。
曹植が臨菑侯に封ぜられたのは、建安19年(214)のことでしたが、
220年、曹操が亡くなり、曹丕が魏王に即位すると、当地に赴くよう命じられました。
(『魏志』巻十九・陳思王植伝)

一方、下の句が踏まえたものとして、『文選』李善注は、
『漢書』巻63・武五子伝に記す、劉閎を斉王に封じた策書を挙げています。

嗚呼、小子閎、受茲青社。……封于東土、世為漢藩輔。
(ああ、小子閎よ、茲の青社を受けよ。……東土に封じ、世々漢の藩輔と為す。)

ですが、この句はもしかしたら、直接的には、
曹植自身が臨菑侯に封ぜられたときの策書を踏まえているのかもしれません。
それは、彼の「諫取諸国士息表」(『魏志』陳思王植伝の裴松之注に引く『魏略』)に、
次のとおり直接引用されています。

植受茲青社。封於東土、以屏翰皇家、為魏藩輔。
(植よ茲の青社を受けよ。東土に封じ、以て皇家を屏翰せしめ、魏の藩輔と為す。)

この表現から見て、前掲の『漢書』を下敷きにしていること明白です。

そして、この魏王朝から下された策書は、
その一部が、曹植の「責躬詩」にほぼ原形のまま取り込まれ、
更に、後の明帝期に書かれた「諫取諸国士息表」にも引用されたということです。

「諫取諸国士息表」では、前掲のような策書の引用に続いて、
藩国とはいえ、その機能を持ち得ないような人員配置であったことが述べられています。

臨菑侯として青州へ赴くことを曹植に命じた策書は、
彼にとってよほど深く記憶に刻み込まれる出来事だったのかもしれません。

2021年10月22日

作品の主題と動機

こんばんは。

公開講座がもう来週に迫り、
このたび取り上げる曹植「惟漢行」のことを思い返していました。

この作品は、もう幾たびもこちらで取り上げていますが、
それなりの時間を重ねて考察していくほどに、
面白味が増していくのを感じます。

曹植のこの楽府詩は、主題と動機とが少しだけずれています。

主題は、新しく即位した明帝を諫めることでしょう。
曹植は自身を周公旦に、明帝を成王に、曹操を周文王になぞらえて、
あるべき為政者像を新帝に示そうとしています。

では、本作品は新帝を諫めようという動機から作られたのでしょうか。
それが皆無だとは言いませんが、それだけではないはずです。

そのことを物語るのが、「惟漢行」という楽府題です。
この楽府題は、本詩が曹操の相和歌辞「薤露」を踏まえることを明言しています。
曹操の「薤露」は、「惟漢二十二世」という一句から始まりますが、
本詩の題目は、ここからその一部から採ったものなのです。

新帝を諫めるという趣旨を完遂するだけであれば、
曹操の「薤露」を踏襲することを標榜する必然性はありません。
ではなぜ曹植は、この内容を「薤露」のメロディに乗せなければならなかったのか。

それは、父曹操の期待を裏切り続けた自身の不甲斐なさを思い、
新帝を補佐するということによって、父が自身に寄せてくれた思いに応えようとした、
今は亡き父に、王朝の一員として生き直す自身の姿を見てもらいたかった、
それが、曹植における「惟漢行」制作動機ではなかったか。
そんな風に私は曹植とこの作品とを捉えます。

父と子との関係は普遍的なテーマでもあるでしょう。
聴きに来てくださる方々に、何かひとつでも届くものがあればと思います。

2021年10月21日

明帝期初期の曹植

こんばんは。

『北堂書鈔』巻156・凶荒に、曹植「喜雨詩」として、
おそらくはその序文でしょうか、次のような辞句が引かれています。

太和二年大旱、三麦不収、百姓分為饑餓。
  太和二年(228)、大かんばつが起こって、各種の麦が収穫されず、
  民たちは離散して餓えた。

その時期は、『魏志』巻3・明帝紀により、同年の五月と知られます。
『宋書』巻31・五行志二「恒暘」にも同様の記述が見え、
そこではこの天災の原因が明帝の盛大な宮殿増築にあるとされています。
(当時としては常識の、いわゆる天人相関説です。)

また、これに先立つ同年四月、
明帝が崩御して侍臣たちが曹植を擁立したといううわさが立ちました。
(『魏志』明帝紀の裴松之注に引く『魏略』)
こちらもあわせてご参照ください。

こうしてみると、
曹植は、かつて父曹操がその将来を見込んだように、
たしかに、民たちの暮らしを大切にする、為政者たるにふさわしい一面を持ち、
それに対応して、人々からの信頼と親しみを集める人物であったように想像されます。

以前にも言及したとおり「求自試表」はこの年の10月頃の作ですが、
それは、自身の能力発揮の機会を切望するだけではなかったのではないでしょうか。

明帝期初期の曹植は、自己不遇感に沈むというよりは、
むしろ、王朝の一員としての使命感を募らせていたと見た方が近いかもしれません。

2021年10月20日

失われた建安文学作品

こんばんは。

曹植作品に見える表現で、
とても珍しい、空前のものと見られるものは少なくありません。
この頃、そのような指摘を割とこちらで多くしてきたように思います。

ですが、曹植の周辺にいた建安文人たちの作品で、
現存するのはそのごく一部だということに注意しておかなくてはなりません。

兪紹初輯校『建安七子集(中国古典文学基本叢書)』(中華書局、1989年)は、
建安七子たちの作品を集めた、先人たちの様々な輯本をもとに、
孔融、陳琳、王粲、徐幹、阮瑀、応瑒、劉楨の詩文を、
各人一巻ずつにまとめて収載していますが、

『隋書』巻35・経籍志四には、彼らの別伝は次のとおり記されています。

後漢少府孔融集 九巻 梁十巻 録一巻
後漢丞相倉曹属阮瑀集 五巻 梁有録一巻 亡
魏太子文学徐幹集 五巻 梁有録一巻 亡
魏太子文学応瑒集 一巻 梁有五巻 録一巻 亡
後漢丞相軍謀掾陳琳集 三巻 梁有十巻 録一巻
魏太子文学劉楨集 四巻 録一巻
後漢侍中王粲集 十一巻

「魏陳思王曹植集三十巻」に比べると作品数は少ないのでしょうが、
それでも、建安七子の作品の、相当な分量が失われたということが知られます。

曹植独自の表現だと思っていたところが、
実は、彼を取り巻く文人たちの間ではよく用いられる言い回しだった、
という可能性も十分にあり得ます。*

2021年10月19日

*このことは、こちらで述べた「冒顔」という語句に関して、古川末喜氏からいただいた示唆によるものです。ありがとうございます。

曹植の父へのまなざしと自己認識

こんばんは。

曹植「責躬詩」(『文選』巻20)は、
兄の文帝曹丕に対する詫び状的な詩であるにもかかわらず、
その冒頭は、多く父曹操の偉業を称揚する表現に当てられています。

そして、その中に次のような辞句が見えています。

朱旗所払  朱旗の払ふ所、
九土披攘  九土[中国全土]は披(ひら)き攘(はら)はる。

「朱旗」とは、五行でいう火徳を有する漢王朝の旗を言います。
曹操は生涯、後漢王朝の臣下という立場を貫いたので、朱色の旗を用いるのは当然です。
このような身の振り方は、最後まで殷に仕えた周文王を彷彿とさせるものです。
(かつて日々雑記のこちらこちらで言及したことがあります。)

興味深いのは、これと非常によく似た表現が、
漢の高祖劉邦を称賛する、曹植の「漢高帝賛」(『曹集詮評』巻6)にも、
「朱旗既抗、九野披攘(朱旗既に抗がり、九野は披き攘はる)」と見えていることです。

単語レベルにとどまらず、語の組み合わせ方からしても酷似しています。
ここに見える語の連なりは、他の作家・作品ではあまり見かけないものです。

黄初四年の曹植の中では、曹操と前漢の高祖劉邦とは重なり合っていたのでしょうか。

もちろん、曹操を周文王になぞらえるという、
曹植の他作品に顕著な表現は、この「責躬詩」の中にも認められます。

けれども、上記の二句があまりにも似ていたものですから、
もしかしたらこの時期、曹植の中ではまだ、
父曹操のイメージが定まっていなかったのかもしれないと思いました。

それは同時に、曹植が自身を、魏王朝における周公旦だと位置付けるのは、
もう少し先だということをも意味するかもしれません。

2021年10月18日

外側からの問いかけ

こんばんは。

一週間ほど前、「宮島学」というオムニバス授業で、
嚴島神社に伝わる舞楽の話をしました。

こちらの報告№12学術論文№36で論じた内容をベースに、
特に「蘭陵王」と「抜頭」を中心的に取り上げて、
これらの舞楽が、どの地域に発祥し、
どのような経路をたどって日本にやってきたのか、
そして、それらが日本でどのような変貌を遂げたのかを辿るという話です。

授業の振り返り課題として、次のような問いを提示しました。
「本日の授業を通して、文化の継承とはどのようなことだとあなたは捉えましたか。」

本日、学生たちが書いたものに目を通してまとめたのですが、
予想した以上に、的確に捉え、深く考察しようとしていたものが多かった。

授業で話した具体的な内容をまとめるという課題ではなくて、
その話の内容を受けとめることを通して開かれた思考回路を問いたかったのです。
(もっとも思考回路はそんなにすぐに開かれるものとは限りませんが。)

私はずっと、自分の専門分野からは幾分離れたところで仕事をしてきましたが、
そこで常に感じてきた軋みを、始めて肯定する気持ちになりました。

自身の研究ということにしても同様です。
中国古典文学という分野に散在する諸問題の解明に加えて、
自分はなぜ、どのような方法で、その問題に取り組んでいるのかを常に問う。
自分にとってごく自然に思われる問題意識が、
研究対象の時代には存在しなかったといものも少なくないのですから。

そうした外側からの視点なくしては、
この研究分野の存続が当然のこととは言えないように私は思います。

2021年10月17日

語気助詞の「当」と「将」

こんばんは。

以前、白居易や杜甫の詩に訳注を付けていた時、
その口語的な表現の語義については、
入矢義高監修・古賀英彦編著『禅語辞典』(思文閣出版、1991年)をよく参照しました。

この書物に教えられ、また何度か唐詩の中に事例を見た言葉のひとつに、
「当」「当復」があります。*
「まさに……すべし」とは読まず、「はた」と読む、
「さて」「いったい」といった訳がふさわしい、これといった語義を持たない語気助詞です。

この語は、禅語や唐詩より前、漢魏詩にも少なからず用いられていて、
たとえば次のような事例を挙げることができます。

・古楽府・本辞「西門行」(『楽府詩集』巻37):何能愁怫鬱、当復待来茲。
  (なんだって鬱々と心配して、いったい来年まで待っていられるものか。)
・阮瑀詩(『藝文類聚』巻27):鶏鳴当何時、朝晨尚未央。
  (一番鳥の鳴くのはいったい何時か、夜明けはまだだ。)
・曹操「秋胡行」(『宋書』巻21・楽志三):晨上散関山、此道当何難。
  (夜明けに散関山に上る、この道のまたなんと難儀なことか。)
・曹操「歩出夏門行(碣石)」(『宋書』楽志三):心意懐游豫、不知当復何従。
  (心に遊覧を思いつつ、さていったいいずれに従っていこうか。)
・甄皇后「塘上行」(『玉台新詠』巻2):念与君一共離別、亦当何時共坐復相対。
  (あなたとの別れを繰り返し思う。いったいいつ共に坐って対面できるだろうか。)

比較的多くの作品を残している曹植にももちろん用例が見出せます。
すでに訳注を公開している作品では、「七哀詩」にいう「君懐良不開、賤妾当何依」、
それに基づく晋楽所奏「怨詩行」には、「沈浮各異路、会合当何諧」という句も見えます。
また、こちらで紹介した「吁嗟篇」にも「宕宕当何依、忽亡而復存」とあり、
「種葛篇」にも「出門当何顧、徘徊歩北林)」とあります。
(滞っておりますが、これらの作品についてもいずれ訳注を公開します。)

ところで、もしかしたらこの「当」と近いのではないかと思われる語として、
「将」を挙げることができるかもしれません。

前掲の曹植「七哀詩」にいう「賤妾当何依」が、
『藝文類聚』巻32所収テキストでは、「妾心将何依」となっていて、
「当」と「将」とが極めて近しい役割を果たしているらしいことが推し測られます。

また、すでに訳注を付けた作品では、「贈白馬王彪」詩にいう、
「鬱紆将何念、親愛在離居」、
「太息将何為、天命与我違」、
「離別永無会、執手将何時」の「将」も、これに該当するかもしれません。
特に二つ目に挙げた「太息将何為」は、『魏志』巻19・陳思王植伝は「歎息亦何為」に作り、
「将」に「まさに……せんとす」の意味はほとんどないことを示唆しています。

2021年10月16日

*この項の初出は、古賀英彦「禅語録を読むための基本語彙初稿」(『禅学研究』64、1985年、花園大学)。

蘇李詩から眺める古詩

こんばんは。

李陵・蘇武の名に仮託された五言詩群、いわゆる蘇李詩は、
建安詩との間に深い影響関係を持っています。
一方、これもまたその類似性がよく指摘される古詩・古楽府との間には、
意外なことに、それほど深い交わりは認められません。
明らかな影響関係が指摘できるのは、次の2件の事例くらいです。
(以下に示す作品は、いずれも『文選』巻29所収)

李陵「与蘇武三首」其一にいう「風波一失所、各在天一隅。」
蘇武「詩四首」其四にいう「良友遠離別、各在天一方。」と、
古詩「行行重行行」にいう「相去万餘里、各在天一涯。」

蘇武詩(二)にいう「泠泠一何悲」「慷慨有餘哀」「願為双黄鵠」と、
古詩「西北有高楼」にいう「音響一何悲」「慷慨有餘哀」「願為双鳴鶴」

他方、古詩の中でも、次のような作品は、
蘇李詩との間に類似関係を認めることができません。

「渉江采芙蓉」(「古詩十九首」其六)、「庭中有奇樹」(同其九)、
「迢迢牽牛星」(同其十)、「青青河畔草」(同其二)、
「蘭若生春陽」(『玉台新詠』巻1に枚乗「雑詩九首」其六として収載)*

これら蘇李詩と関わりあわない諸作品は、いずれも、
古詩の中でも特別な一群(仮称:第一古詩群)に属するものばかりです。

他方、前掲の「行行重行行」「西北有高楼」は、
第一古詩群の中でも、比較的後発的に生まれたと見られるものです。

このように、蘇李詩という作品群との関わり方という視点を新たに設けると、
第一古詩群の成り立ちが別角度から明らかになるかもしれません。

2021年10月15日

*以上のことは、かつてこちらの学術論文№28でも指摘しています。

中国の論争

こんばんは。

ほとんど1ヵ月もの間、何も書けないでいました。
またここから再出発します。

蔡琰の作として伝わっていた「胡笳十八拍」について、
その真偽問題をめぐる、1960年前後の中国の学界動向を紹介した、
入矢義高「紹介「胡笳十八拍」論争」(『中国文学報』13、1960.10)を縦覧しました。

蔡琰「胡笳十八拍」は真作だと主張する郭沫若の所論に端を発する論争を、
ほぼ時系列で詳しく紹介しながら、要所要所で入矢義高のコメントが入っていきます。

その中で、繰り返し述べられるのが「論争のルール」ということです。
「挙げ足取りや強辯のうまさといった部分的なことではなくて」、
「一部の学者に見られた突飛な着想の独走よりも」重要な、
その「論争のルール」とは何でしょうか。

膨大な情報量をさばいていく入矢義高の所論の後を追いかけていきながら、
(いや、実際にはその紹介文についていくことが難しかった。)
その次々と押し寄せる論争内容に呆然とする中で、
ひとつ思ったのは次のようなことです。

彼らの、相手の述べることに対して全く耳を傾けようとしない姿勢、
自説を主張するばかりの、自己を相対化する意識の欠如、
これは、一歩間違えば自分にも起こり得ます。
こわいと思いました。

ところで、以前、
五言詩の成立時期に関する、民国時代の論争について、

その経緯を辿ったことがありますが(こちらでも言及した、学術論文№16)、
それが、「胡笳十八拍」論争とほぼ同質の雰囲気であったことを思い出します。
ほんの少し前の先人の説にさえ見向きもしないことでも、両者はとてもよく似ています。

そんな熱狂的な雰囲気の中で、短期間のうちに作られた現在の通説に、
いつまでも縛られている必要があるだろうか。
やっぱり疑問に思います。

2021年10月14日

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