「我」と連呼する曹植「五遊詠」
こんにちは。
本日、曹植「五遊詠」の訳注稿を公開しました。
訳注作業を進める中で、ひとつ腑に落ちない部分が残りました。
それは、第05・06、第17・18に登場する「我」です。
(作品の全文は、訳注稿の方をご覧いただければ幸いです。)
05 披我丹霞衣 わたしは我が紅色の霞の衣を羽織り、
06 襲我素霓裳 我が白い虹の裳裾を重ねている。
17 帯我瓊瑶佩 わたしは我が美玉の佩びものを身につけ、
18 漱我沆瀣漿 我が夜露の飲みものをすする。
なぜこの二つの対句の中で、「我」と繰り返す必要があったのでしょうか。
「我」は、自分を指し示すばかりでなく、親密さを表現する語でもありますが、
それを踏まえてもなお、今ひとつしっくりきません。
それで、もしかしたらこれだろうか、と思ったのが、
後漢・張衡の「思玄賦」(『文選』巻15)を曹植が踏まえた可能性です。
「思玄賦」には、たとえば次のような句が見えています。
奮余栄而莫見兮、播余香而莫聞
余が栄を奮ひても見る莫(な)く、余が香を播(し)けども聞(か)ぐ莫し。
雲霏霏兮繞余輪、風眇眇兮震余旟
雲は霏霏として余が輪を繞(めぐ)り、風は眇眇として余が旟(はた)を震(ふる)はす。
ここでは、「我」でなく「余」ですが、
対をなす目的語の上に、並んで付けられているという点では同じです。
ただ、張衡「思玄賦」にいう「余(われ)」と比べて、
曹植「五遊詠」の「我」は、その必然性がそれほど強くないように感じます。
あまり影響関係はないのかもしれません。
2021年8月5日
妻をなだめる夫の詩
こんにちは。
後漢末の秦嘉という人は、
郷里の隴西郡から会計官として上京する際、
病に伏して同行がかなわない妻に宛てて、三首の詩を贈りました。
以下に示すのはその二首目です。
皇霊無私親 大いなる神霊にえこひいきはなく、
為善荷天禄 善行を積めば天からご褒美をいただける。
傷我与爾身 それなのに、痛ましいことに、私とお前とは、
少小罹㷀独 年若くして肉親を失う目にあった。
既得結大義 結婚してからも、
歓楽苦不足 ともに歓楽を尽くす機会にはほとんど恵まれなかった。
念当遠離別 遠く離別する今、
思念叙款曲 わたしは心からの思いを細やかに述べたいと思う。
河広無舟梁 河は広くて舟も橋もなく、
道近隔丘陸 道は近くても丘陵に隔てられている。
臨路懐惆悵 路上に臨んでは恨みを抱き、
中駕正躑躅 車を前にしてはぐずぐずと出発をためらう。
浮雲起高山 浮雲は高い山からわき起こり、
悲風激深谷 悲しげな風は深い谷に激しく吹き付ける。
良馬不廻鞍 だが、よき馬は鞍の向かう方向を変えず、
軽車不転轂 軽やかな車は車輪を回らせて後戻りするということはない。
針薬可屡進 おまえは鍼灸や薬をたびたび用いるがよい。
愁思難為数 心配事はやたらとするものではない。
貞士篤終始 貞節ある男は、最初から最後まで篤い真心を貫くのであって、
恩義不可促 二人の間に結ばれた恩義は、あくせくと求めるものであってはならぬ。
この最後の句は、「促」字を「属」に作るテキストがあります。
鈴木虎雄は「属」に作るのを是とし、
内容的に、『礼記』喪服四制にいう「門内之治、恩揜義、門外之治、義断恩」
(家庭内では、愛情が公義を覆い、家庭外では、公義が愛情を遮断する)を踏まえて、
「恩」と「義」とは同列に連ねるわけにはいかないという意味に解釈しています。
「このたびは恩愛の綱はたちきらねばならぬ」というわけです。*1
これに対して、内田泉之助は「促」の方を取って、これを字義通りに解釈し、
「恩義は永続すべきで、それを故意に短促中絶すべきでない」の意で捉えています。*2
手元にあるものを見た限りでしかないのですが、
この部分については、先人の誰もが理解に苦しんでいるようでした。
私の解釈は前掲の訳文のとおりです。
仕事で遠く都に旅立つ夫に対して、自分のことを忘れ去るのではないかと心配する妻と、
その妻の心中を察しつつ、彼女のわだかまりを解きほぐしてなだめようとする夫。
もしこれで疎通するならば、こういう夫婦は今もいそうだなと思いました。
2021年8月4日
*1 鈴木虎雄訳解『玉台新詠集』(岩波文庫、1956年第3刷、初版は1953年)上、p.116~117を参照。
*2 内田泉之助『玉台新詠』(明治書院・新爵漢文大系、1988年8版、初版は1974年)上、p.87~88を参照。
後漢末における五言詩の位置
こんばんは。
昨日紹介した、趙壹「刺世疾邪賦」に見える二首の五言詩歌は、
鄭振鐸『中国俗文学史』に、その文体が「最も口語に近い」ものと評されています。*1
もともと民間歌謡と同類のものだった五言詩だが、
知識人社会でも広く行われるようになった漢末に至っても、
それはなお民歌的作風を留め、濃厚な口語的成分を多分に含んでいた、
その一例として、趙壹の歌が上述のようなコメントと共に紹介されているのです。
ただ、この五言詩歌が口語を用いた民歌的作風だと言い切れるか、
自分としては判断を保留にしておきたく思います。
というのは、この作品には古典籍に出自を持つ語句が散見するからです。*2
たとえば、「秦客」の作った詩の冒頭、
「河清不可俟、人命不可延(河清は俟つ可からず、人命は延ばす可からず)」は、
『春秋左氏伝』襄公八年に引く周の詩にいう、
「俟河之清、人寿幾何(河の清むを俟つに、人寿は幾何ぞ)」を踏まえています。
また、「魯生」がこれを継いで作った歌の第二句、
「欬唾自成珠(欬唾は自ら珠を成す)」は、
『荘子』秋水篇にいう、
「子不見夫唾者乎。噴則大者如珠、小者如霧。
(子は見ずや夫の唾なる者を。噴すれば則ち大なる者は珠の如く、小なる者は霧の如し)」
を、その本来の意味内容とは切り離して、文字面のみ遊戯的に用いていますし、
続く「被褐懐金玉(褐を被て金玉を懐く)」は、
『老子』第七十章にいう「聖人被褐懐玉(聖人は褐を被て玉を懐く)」を踏まえています。
鄭振鐸は「俗文学」という新たな視座で中国文学史を捉えなおそうとして、
その独自の文脈の中に本作品を位置付けたのでしょう。
私としては、立派な教養人である趙壹が、
その心情を吐露する際に五言詩型を取ったのはなぜか、興味を惹かれます。
後漢末当時、五言詩はまだ、正統的な文学ジャンルとしては認められていませんでしたが、
彼は、漢代の正統派文学である賦作品の中に、この五言詩型を組み入れています。
なぜ四言詩ではなくて、また楚辞系の詩歌でもなくて五言詩なのか。
そこから、後漢末における五言詩の位置を、推し測ることができるように思います。
2021年8月3日
*1 鄭振鐸『中国俗文学史』(商務印書館、2010年。原本初版は1938年)p.43を参照。
*2 吉川忠夫訓注『後漢書』第九冊・列伝七(岩波書店、2005年)p.310~311を参照。
後漢末の文人たち
こんばんは。
後漢末、曹操の下に形成されたいわゆる建安文壇は、
シビアな競争意識を支えとして成り立っていた可能性があると指摘されています。*
彼ら建安文人たちの心性を知る上で、
もしかしたら手がかりになるかもしれない作品に出会いました。
といっても、これまで知られていなかった作品を発見したわけではありません。
その作品が示唆することに改めて気づかされたのです。
それは、曹操と同年代の文人、
趙壹の「刺世疾邪賦」(『後漢書』巻80下・文苑伝下)という作品で、
その中に登場する「秦客」と「魯生」が、掛け合いで次のような五言詩歌を作っています。
まず、「秦客」の作った詩から。
河清不可俟 黄河が澄むのは待っていられないし、
人命不可延 人の命は伸ばせない。
順風激靡草 順風が激しく吹き付けて草をなびかせ、
富貴者称賢 富貴の者が賢者だと称賛される。
文籍雖満腹 書物の中身が腹いっぱいに満ちてはいても、
不如一嚢銭 一袋の銭には及ばない。
伊優北堂上 くねくねと媚びへつらう者は奥座敷に上り、
抗髒倚門辺 意気軒高な硬骨漢は門の片隅に身を寄せる。
これを聞いた「魯生」が、継いで作った歌は次のとおりです。
埶家多所宜 勢力のある者には宜しきところが多く、
欬唾自成珠 咳や唾でさえ自ずから珠玉となる。
被褐懐金玉 粗末な服を着ながら心に宝を持つ者は、
蘭蕙化為芻 香草の蘭蕙もまぐさに変化する。
賢者雖独悟 このことを賢者だけは分かっているが、
所困在群愚 どうしようもないのは群れなす愚者たちだ。
且各守爾分 まあとりあえずはそなた自身の分を守り、
勿復空馳駆 無駄に走り回ることはやめたまえ。
哀哉復哀哉 不憫にも重ねて不憫なことだ。
此是命矣夫 これは運命なのだ。
このやり取りに、不遇な文人たちの置かれた社会環境が垣間見えるようです。
こうした社会的風潮の中に身を置いていた後漢末の文人たちが、
曹操のような実力第一主義者の下に集まったのは自然の趨勢だと言えます。
そして、その文人たちが互いにしのぎを削ったのも自然の成り行きだと思えます。
ただ、その中にも隠者的志向を持つ徐幹のような人はいましたし、
王粲のような十分に恵まれた家柄の人もいましたが。
2021年8月2日
*岡村繁「建安文壇への視角」(『中国中世文学研究』第5号、1966年)を参照。
曹丕と曹植との間柄(再考)
こんばんは。
一般に認識されている曹丕と曹植との兄弟仲は、
よく知られている「七歩詩」(『世説新語』文学篇)に凝縮して見えるように、
決して仲睦まじいものではありません。
私自身も、二人の間柄に関心を持ったきっかけが曹植「贈丁儀」詩で、
これは、自分の腹心が、兄に殺害される直前に作られた詩と目されますから、*
二人はシビアに反目しあう関係にあったのだと見ていました。
ですが、魏の文帝として即位して以降の曹丕の逸話には、
曹植に対して、兄らしい親しみや愛情をもっているように見られるものもあります。
たとえば、こちらやこちらに記したエピソードなどがそれですが、
いずれも魚豢の『魏略』によるもので、信頼するに足る資料だと言えます。
また他方、曹植が自身の不遇を詠ずる場合、
兄の曹丕その人の仕打ちを非難するようなことはほとんどなく、
(為政者に対する皮肉っぽい批判と見られるような表現は散見するのですが)
こちらに述べたとおり、兄弟の間を裂く讒言の介在を告発するという立場を取ります。
二人の間柄については、
上述のとおり、これまでにも蛇行しつつ考えてきましたが、
やはり、これは抜本的に考え直す必要があると思いを新たにしました。
昨日述べたような、十代の頃の二人から再考です。
思うに、少年時代の仲睦まじい日々があったからこそ、
曹植は最後まで、兄を心底憎むことはできなかったのかもしれません。
また、曹丕は本来、とても心根の優しい人だったと推測されますが、*
様々なめぐりあわせにより、兄弟たちを冷酷に遠ざける権力者に成り下がった、
その、ある人物が変質していった過程にも興味があります。
2021年7月26日
*こちらの学術論文№34をご覧いただければ幸いです。
兄曹丕の詩句の影響か?
こんばんは。
曹植の「五遊詠」(『曹集詮評』巻5)に、次のような対句があります。
披我丹霞衣 我が深紅の霞の衣を着て、
襲我素霓裳 我が白絹色の虹の裳裾を重ねる。
これは、『楚辞』九歌「東君」にいう、
「青雲衣兮白霓裳(青雲の衣に白霓の裳)」を踏まえています。*1
白い虹の裳という発想でも、「衣」と「裳」とを対置させている点でも、
このことはたしかだと言えます。
ただ、『楚辞』の場合は、「青」と「白」とが対を為していました。
曹植の場合は、「丹(深い朱色)」と「素(白)」です。
では、この色のコントラストは、曹植独自のものなのでしょうか。
逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』を調べてみると、*2
「素霓」の語は曹丕、曹植に各1、西晋の傅咸に2ヶ所用いられているだけで、
「白霓」は用例無しでした。
現存する作品は実在したもののごく一部だということを念頭に置いた上で、
それでも、上述の用例の偏りには興味を惹かれます。
上記の曹丕の作は「黎陽作詩(黎陽にて作る詩)」(『藝文類聚』巻59)で、
その中には次のような対句が見えています。
白旄若素霓 白い旄(はた)は、白絹色の虹のようで、
丹旗発朱光 丹色の旗は、朱色の光を放っている。
ここでは、「白・素」と「丹・朱」とが対を為していて、
その色の対比は、前掲の曹植作品と同じです。
曹丕のこの詩は、建安八年(203)、彼が17歳の時に、
曹操が黎陽を攻めて袁譚・袁尚を破った行軍に従って作られたといいます。*3
もしかしたら、曹植が五歳年上の兄の詩句を覚えていて、
後年、それをアレンジして「五遊詠」に用いた可能性はないかと想像しました。
十代の時点では、まだ兄弟間の確執は生じていませんでしたし、
12歳と17歳との差はけっこう大きいですから、
見上げるような兄から、少年曹植は様々なことを吸収していたかもしれません。
2021年7月25日
*1 黄節『曹子建詩註』(中華書局、1973年)巻2、p.81に指摘する。
*2 逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』の電子資料(凱希メディアサービス、雕龍古籍全文検索叢書)を用いた。
3 夏伝才・唐紹忠校注『曹丕集校注』(河北教育出版社、2013年)p.1を参照。
古典的作品との再会
おはようございます。
一昨日、曹植における『楚辞』の影響に触れましたが、
一日おいて、こういうことなのかと思い至ったところがあります。
最初は奇想に満ち溢れた言葉の宝庫として、目を見張りつつこれを摂取し、
後半生、自身のおかれた境遇と、屈原がたどった悲劇的人生とを重ねあわせつつ、
ふたたび曹植は、『楚辞』文学に出会ったということなのでしょう。
『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝に、こうあります。
陳思王植字子建、年十歳餘、誦読詩・論及辞賦数十万言、善属文。
陳思王植、字は子建。
彼は十歳あまりの年齢で、『詩経』『論語』及び辞賦文学数万言を読んで朗誦し、
詩文を綴ることに長けていた。
ここにいう「辞賦」とは、『楚辞』及びその系統を引く漢代の韻文を指します。
曹植は、この『楚辞』系文学には子供の頃から慣れ親しんでいたのです。
その当初の摂取は、『詩経』や『論語』と同等の古典的教養としてだったでしょう。
その文学がリアリティをもって感得されたのは、
彼が様々な苦い経験を経て後のことだったのではないでしょうか。
同じことが、たとえば古詩・古楽府についても言えるかもしれません。
曹植は十代の頃から、父曹操が招いた当代第一級の文人たちと宴席を共にしつつ、
漢代以来のこの種の宴席文芸を、日々浴びるように耳にしていたでしょう。
そして、その中で常套的に詠じられる悲哀に満ちた離別を、
自身に固有の文脈において捉えなおし、新たな文学作品を創出した、
それが彼の後半生の「雑詩」や楽府詩だったということではないでしょうか。
困難なのは、少なからぬ曹植作品が制作年代未詳であることです。
そこは、精読を通して推察するしかありません。
2021年7月24日
諸事雑感
こんばんは。
先日、大学からの求めに応じて、自身の研究内容を紹介する書類を提出しました。
地域の企業との連携に資するシンクタンクのようなものを作ることが目的のようでした。
自分にはあまり関係がなさそうなので、ならばいっそ存分に、とばかり、
研究の概要を次のように書いて出しました。
中国3世紀、三国魏の文学は、それ以前の文学とは一線を画するとされています。ですが、その実相や、そうした特徴が出現した経緯は未だ明らかにはされていません。それは、魏の文学の土台となった漢代の文化的状況が未解明だからです。
私はかつて、魏の文学を特徴づける五言詩の源流を、前漢後期の後宮に探し当て、その生成展開の場を、後漢時代の宴席という場に突き止めて、五言詩という文学ジャンルの本質を歴史的に究明しました。さらに、この漢代の宴席という場に着目し、場を共有する様々な文芸と五言詩歌とが融合して、新たな文芸ジャンルを創出していった過程を明らかにしました。
これらの宴席文芸はすべて、曹植を含む魏の建安文人たちに引き継がれ、知識人の文学として磨き上げられます。ところが、そこから踏み出すものを内在させているのが曹植の作品です。では、それは具体的にどのような要素で、それが生じたのはなぜでしょうか。また、それは続く時代の文人たちにどのような影響を与えたでしょうか。この問いが、目下第一の研究テーマです。
この他、白居易の文学や、漢文学的見地からの宮島学など、縁あって携わることとなった研究も行っています。
なんだか少しえらそうです。
研究者として過不足ない自己紹介ができるようになりたいものです。
その前には、本学のまた別の部署から、
地域の方々や高校生たちに向けた研究紹介が求められました。
本学への進学を考えている高校生たちの中に、
中国古典文学に興味を持っている人が何人いるのか、非常に心もとないですが、
そんな雑念は振り払って、真正面からまじめに書きました。
ただ、なんとなく疲れてしまいます。
自分が教員としての仕事を始めた当初は、こんなに自己PRなるものは求められませんでした。
座して人を待つ時代は終わって、自分から打って出る時代になったのかもしれません。
正直なところ、あと十歳若かったら、自分はもたなかっただろうと思います。
とはいえ、地味に研究することを誰にも咎められることはないので。
一方、自分の声が誰かに届くことを夢見ていることもたしかです。
それならばいっそ、とばかりに、本サイトのトップ「ご挨拶」に少し追記をしました。
さて、先日来、曹植詩に認められる自在な浮揚感に注目してきましたが、
こうした詩想は先秦時代の『楚辞』にすでに見えるものです。
曹植が『楚辞』からインスパイアされたものは、
屈原という悲劇的ヒーローの生き方よりは、
この古典的詩集に横溢する奇想的作風の方だったのかもしれません。
他方、曹植詩は『詩経』国風の系譜に連なる、と『詩品』には述べられていました。
今読んでいる作品がたまたま遊仙楽府詩だから、
『楚辞』との詩想の近似性が目に留まったというだけかもしれません。
もっと多くの作品を読んでからでないと、適正な判断はできないと肝に銘じます。
また、一旦言葉にしてしまうと、それが思考にバイアスとして作用するので、
そのことにも自覚的でなければと思います。
2021年7月22日
若い建安詩人たち
こんばんは。
馬齢を重ねて還暦もとうに過ぎ、
身体(脳という臓器も含めて)の衰退を日々痛切に感じる一方、
たまに、若い時にはなかった余裕(諦観)でものごとを受け流せたりして、
脱力できる老いも悪くないと思うこともあります。
それで、ふと振り返ってみれば、
日々考察している曹植をはじめとする建安詩人たちは、
みな、この老いるという感覚を知らないうちに亡くなっているのですね。
曹植(192-232)は41歳、その兄の曹丕(187-226)は40歳、
建安七子の筆頭、王粲(177-217)も41歳、
やや先輩格の阮瑀(165?-212)や徐幹(170?-217?)は48歳前後、
陳琳、応瑒、劉楨はみな、生年は未詳、没年は揃って疫病の蔓延した217年で、
おそらくは王粲らとそれほど違わない年齢だったのではないでしょうか。
なお、孔融(153-208)だけは56歳の生涯で、
経歴上も、他の建安七子とは別の立ち位置にあるようです。
なんとなく自分よりも年上だと思っていた文人たちが、こんなにも若い。
その事実に虚を突かれました。
鈴木修次『漢魏詩の研究』(大修館書店、1967年)p.680には、
建安詩を「新しい時代を生み出そうとする青年の文学」だと表現しています。
そして、それは「生理年齢における青年期」ではなく「精神年齢」なのだと言っています。
ですが、実際の年齢が、彼らの文学のあり様に枠を与えたようなところはないでしょうか。
どんな人間であれ、時を重ねれば必ず見えてくるものがある、とは言いません。
けれども逆に、どんなに優れた才能を持つ人物であったとしても、
時を経なければ感得できないものはあると思います。
建安詩人のほとんどは、そのような年齢に達する前に没しました。
そして、その死の直前まで、時に緊張感の走る環境の中でしのぎを削っていました。
その結果が、鈴木前掲書にいう、激情のほとばしる、荒削りの作風ということなのでしょう。
このような年齢構成の文人集団は、他にあったでしょうか。
以前、中唐の詩人たちの没した年齢について見てみたことがありますが、
白居易75歳、元稹53歳、崔玄亮66歳、劉禹錫71歳、
韓愈57歳、柳宗元47歳、李賀27歳、孟郊64歳、杜牧51歳といった年齢でした。
少し前の盛唐の人々では、孟浩然が52歳、王維が61歳、李白が62歳、杜甫が59歳です。
建安文壇の人々は、もしかしたら年齢から見ても、突出した文人集団だったのかもしれません。
(いや、自分が知らないだけで、他にもあったかもしれません。)
2021年7月21日
曹植文学への一視角
こんばんは。
昨日は、曹植「遠遊篇」のあまりにも自在な空間移動に唖然としましたが、
彼は鶏でさえ飛翔させているのです(こちらでも触れた「闘鶏」詩)。
これくらいのことは何でもなかったでしょう。
思えば、彼がよく歌っていたという「吁嗟篇」も、
「遠遊篇」に一脈通じるような大気のうねりを纏っています。
その本文と通釈を挙げれば次のとおりです。
吁嗟此転蓬 ああ、この転がってゆく蓬よ、
居世何独然 世の中に居るのに、どうしてお前だけがこうなのだ。
長去本根逝 長い間、もとの根を離れて行ったきり、
夙夜無休間 朝から晩まで、休む間もない。
東西経七陌 東西に、七本のあぜ道を通り過ぎ、
南北越九阡 南北に、九本のあぜ道を超えてゆく。
卒遇回風起 そこへ突然、つむじ風が起こるのに遭遇し、
吹我入雲間 私は雲の間に吹き入れられた。
自謂終天路 自分では天への道を終点まで行ったと思っていたら、
忽焉下沈淵 今度は唐突に、深い淵の底へ下される。
驚飆接我出 そこに突風が逆巻いて、私を迎えて連れ出して、
故帰彼中田 わざわざかの田畑の中に帰してくれた。
当南而更北 きっと南へ行くのだと思えば、更に北方へ赴かせられ、
謂東而反西 東かと思っていたら、逆に西へ向かうことになる。
宕宕当何依 あちらこちらと流浪して、いったい何を頼りにすればよいのだろう。
忽亡而復存 ふと亡びかけたかと思えば、また息を吹き返す。
飄颻周八沢 ひらひらと漂いつつ、八つの湖沼を巡り、
連翩歴五山 絶え間なく翼を動かして五つの山を歴遊する。
流転無恒処 流転を重ねて安住の地を持たない、
誰知吾苦艱 この私の苦しみを、誰が分かってくれようか。
願為中林草 できることならば林の中の草となり、
秋随野火燔 秋の日、野火に身をゆだねて焼かれてしまいたい。
糜滅豈不痛 焼けただれて消滅することに、痛みを感じないわけがないけれど、
願与根荄連 ただ願うのは、もとの根っこに連なりたいということなのだ。
(『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く。)
曹植は後半生(特に文帝期)、元来は身内である皇帝から、
転々と封地を移されるという仕打ちを受けました。
そうした境遇に投げ込まれた苦しみを詠ずる詩歌として、
私はこれまでこの作品を、半ば無意識的に解釈してきたように思います。
それは、作家の人生がまずあって、それを反映したものが作品であるとする、
ありふれたひとつの常識に囚われた見方です。
けれども、このように表現された内容から見るのではなく、
表現の体質というか、もっと深い基層を流れるある種の傾向のようなところから、
曹植文学の特質を捉えることができないだろうかと思いました。
2021年7月20日