変文に詠われた李陵と蘇武

こんばんは。

以前、蘇李詩(漢代の李陵と蘇武の名に仮託された五言詩)について、
その成立の背景を漢代の宴席という場に求めたことがあります。

そうした場で行われていた様々な芸能のひとつに、
李陵と蘇武の別れを題材とする、演劇もしくは語り物文芸があった。
他方、同じ宴席という場で生成展開してきたのが五言詩である。
五言詩と、李陵・蘇武の物語が、宴席という場で出会い、
そこで誕生したのがいわゆる蘇李詩である、と。
こちらの学術論文№28の後半です。)

もしかしたら、その傍証になるかもしれないと思ったのが、
変文に「蘇武李陵執別詞」という作品があることです。*

変文は唐代の民間文芸で、
蘇李詩が成ったと推定できる時代からは遠く隔たっています。
けれども、主に口頭で継承されるような民間文芸は、
それがたまたま文字に記されて残った時代を、
そのまま、その作品の成立時期と見るわけにはいきません。

匈奴に残る李陵と、漢に帰還する蘇武との別れは、
それを演劇的な文体で記す『漢書』の成った後漢初めから、
蘇李詩という詩群を生み出した時代を経て、
それが変文として書き留められた唐代に至るまで、
人々の間で長く愛され続けた物語だったのではないでしょうか。

そして、彼らの離別の場面を詠ずる文芸は、
個人的な空間ではなく、多くの人々が集う遊戯的な場で行われたと見られます。
蘇李詩も、そうした場で作られたものだと見るのが自然でしょう。
ただ、その諸篇の成立時期にはばらつきがありそうです。

2021年7月9日

*項楚『敦煌変文選注(増訂本)』(中華書局、2006年)下p.1740~1751を参照。

第一古詩群の最後のピース

こんばんは。

別格扱いの古詩群(第一古詩群)を構成する作品のうち、未詳であった最後の一首は、
「迴車駕言邁」詩(『文選』巻29所収「古詩十九首」其十一)であろうと昨日推定しました。
まず、その詩の全文を、通釈とともに示せば次のとおりです。

01 迴車駕言邁  向かう先をぐるりと転じて馬車を走らせ、
02 悠悠渉長道  長く伸びる道をはるばると経てゆく。
03 四顧何茫茫  四方を眺め渡せば、なんという茫漠たる草原、
04 東風揺百草  東方から吹いてくる風が、百の草を揺らしている。
05 所遇無故物  出会うものすべてに、もとのままの物はないのだから、
06 焉得不速老  みるみる老いてゆくことをどうして止められよう。
07 盛衰各有時  栄枯盛衰にはそれぞれ時機というものがあるけれど、
08 立身苦不早  身を立てるのに遅れを取っていることがつらい。
09 人生非金石  人の命は金石ではないのだから、
10 豈能長寿考  どうして長寿を得ることなどできようか。
11 奄忽随物化  あっという間に万物とともに化して死に至るのなら、
12 栄名以為宝  せめて死後に残る栄誉や名声を宝としよう。

このうち、まず注目したいのは、第9句「人生非金石(人生は金石に非ず)」です。
類似する表現が、第一古詩群に属する別の詩に、次のとおり見えています。*1

『文選』巻29「古詩十九首」其四「今日良宴会」に、
  「人生寄一世、奄忽若飆塵(人生 一世に寄りて、奄忽として飆塵の若(ごと)し)」と。

同其三「青青陵上柏」に、
  「人生天地間、忽如遠行客(人 天地の間に生くること、忽として遠行の客の如し)」と。

同其十三「駆車上東門」に、
  「人生忽如寄、寿無金石固(人生 忽として寄るが如く、寿に金石の固き無し)」と。

前掲「迴車駕言邁」詩の第9句は、これらの古詩と重なり合う部分を持っています。
第一に、「人生」という語を、上記の三首すべてと共有しています。
また、「金石」という語は、上記の其十三にも見えていて、用いる文脈もよく似ています。

「迴車駕言邁」詩の第11句に見える「奄忽」も注目に値します。
この語は、上記の其四詩にも用いられている、洛陽を含む地域一帯の方言です。*2

実は、上記の三首は、第一古詩群のうち、最も遅れて成ったと見られる作品です。
それらの古詩と、複数の点でつながりを持っている「迴車駕言邁」詩は、
第一古詩群の、この諸篇に連なる系列のものである可能性が高いと判断できます。

昨日は、『文選』における作品配列という観点から、
第一古詩群を構成する最後の1ピースをこの詩と推定したのでしたが、
内容面から見ても、この推定は一定の妥当性を持っていると言えるでしょう。

なお、許文雨『文論講疏』(正中書局、1937年)は、
陸機の「遨遊出西城詩」(『藝文類聚』巻28)を「迴車駕言邁」詩の模擬詩と判断した上で、
この古詩を、未詳であった十四首目の伝枚乗作の古詩(第一古詩群)と推定しています。
「辞気」を根拠とする推論に、これまでその当否の判断を保留にしてきましたが、
改めてここに、許文雨氏の慧眼に敬意を表したいと思います。

2021年7月8日

*1 第一古詩群に属する作品の通釈を、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)から抜き書きしてまとめたものがこちらです。ご参照いただければ幸いです。
*2 前掲『漢代五言詩歌史の研究』第二章第一節第一項「第一古詩群に属する詩の分類」を参照。

傅毅と第一古詩群(承前)

こんにちは。
昨日ふと思いついたことの続きです。

古詩の中でも別格扱いの一群は、
確認できる範囲の作品について言うならば、
『文選』巻29所収「古詩十九首」の中に、ほとんど含まれています。
ただ、この十九首の中には、別格でない古詩も、それなりの数、混じっています。
その、別格の諸篇と、そうでない諸篇との収載状況は、以下のとおりです。

  『文選』巻29「古詩十九首」 陸機所擬古詩 枚乗「雑詩」 『玉台新詠』巻1「古詩八首」 傅毅の詩
其一「行行重行行」 其一 其三    
其二「青青河畔草」 其五 其五    
其三「青青陵上柏」 其八      
其四「今日良宴会」 其二      
其五「西北有高楼」 其十 其一    
其六「渉江采芙蓉」 其四 其四    
其七「明月皎夜光」 其十二      
其八「冉冉孤生竹」     其三
其九「庭中有奇樹」 其十一 其七    
其十「迢迢牽牛星」 其三 其八    
其十一「迴車駕言邁」        
其十二「東城高且長」 其九 其二    
其十三「駆車上東門」 「駕言出北闕行」      
  其十四「去者日以疎」        
  其十五「生年不満百」        
  其十六「凛凛歳云暮」     其二  
  其十七「孟冬寒気至」     其四  
  其十八「客従遠方来」     其五  
其十九「明月何皎皎」 其六 其九    

 

以上、左端に○を付したものが、別格扱いの古詩群に属する作品です。
これに、『玉台新詠』巻1の枚乗「雑詩九首」其六「蘭若生春陽」を加えた13首が、
現在、別格扱いの古詩(第一古詩群)として確かだと認められるものです。*

さて、昨日見たとおり、『文心雕龍』明詩篇には、
枚乗の作と伝わる古詩のうち、その「冉冉孤生竹」だけは傅毅の作だと断定されていました。
今かりに、この一群を、『文選』編纂者が目とした古詩群Aとしましょう。

すると、『文選』巻29所収「古詩十九首」の其一から其十三までは、
一首を除いて、すべてが連続して古詩群Aに属する詩です。

続く「古詩十九首」其十四から十八までは、古詩群Aには含まれないものです。
そして最後の一首「明月何皎皎」は、古詩群Aに含まれるものです。

古詩群Aとは、先にいう別格の古詩群(第一古詩群)に傅毅の作を加えたものです。

傅毅の「冉冉孤生竹」は、陸機「擬古詩」の模擬対象となっていません。
ということは、『詩品』上品・古詩にいう「陸機所擬十四首」は、
この傅毅の作を除いて十四首あるということでしょう。
では、あと一首はいずれか。

そこで注目されるのが、其十一「迴車駕言邁」です。
その前後に古詩群Aの詩が連なっていて、ここだけ第一古詩群でないのは奇妙です。
未詳だった「陸機所擬十四首」の最後の一首はこれではないか。
これがこのたびの思い付きです。

明日、この推論に少し補足説明を加えます。

2021年7月7日

第一古詩群に属する作品の通釈を、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)から抜き書きしてこちらにまとめました。ご参照いただければ幸いです。

傅毅と第一古詩群

こんばんは。

古詩の中には、特別な一群があるということを、かつて論証したことがあります。*
(若気の至りで、第一古詩群と命名しました。第二はありません。)

その中で、『文選』巻29所収「古詩十九首」は、
この特別な一群と、そうでない諸作品とに跨って秀作を選りすぐったものである、
ということを述べました。
このことを初めて示した資料(こちら)を、ご参考までにあげておきます。
(青山学院大学で開催された、六朝学術学会第一回例会での発表資料の一部です。)

さて、古詩の中でも、早期から別格視されてきた作品が十四首、
それが陸機「擬古詩」(『文選』巻30)の模擬対象となった古詩諸篇と重なることは、
『詩品』(上品・古詩)が指摘してくれています。

ところが、前掲資料をご覧のとおり、その十三首までは特定できるのですが、
残りの一首がなおも未詳です。

他方、『文心雕龍』明詩篇にこうあります。

又古詩佳麗、或称枚叔、其孤竹一篇、則傅毅之詞。
又古詩は佳麗にして、或いは枚叔(叔は枚乗の字)と称するも、
其の「孤竹」の一篇は、則ち傅毅の詞なり。

実は、前述の別格扱いの古詩は、
陸機の模擬対象となった古詩であると同時に、
枚乗作と伝えられる古詩とも重なる作品群なのですが、
(前掲資料をご覧いただければ幸いです。)
この『文心雕龍』の記事に拠れば、
その特別な一群の中に、一首だけ傅毅の作品が混じっていると読めます。
その傅毅の詩とは、「冉冉孤生竹」(『文選』巻29「古詩十九首」其八)です。

かの陸機議する所の十四首であり、別格とされてきた古詩群に、
この傅毅「冉冉孤生竹」は含まれません。

なぜならば、『玉台新詠』巻1において、
傅毅「冉冉孤生竹」は「古詩八首」其三として収載され、
同書同巻所収の枚乗「雑詩九首」とは並存の関係にあるからです。
先にも述べたとおり、別格扱いの特別な古詩群は、
枚乗「雑詩」として伝えられる古詩群と重なり合うのでした。
『玉台新詠』を編纂した徐陵は、
宮廷の書庫から「艶歌を撰録する」(同書の序による)際に、
傅毅作の詩が、特別な古詩群とは一線を画することを知ったのでしょう。

では、十四首を構成する残りの一首はどの詩でしょうか。
もしかしたらこれか、とわかったかもしれないこと(妄想)があります。
この続きは明日書きます。

2021年7月7日

こちらの学術論文№14が初出。こちらで見ることが可能です。

蘇李詩の真偽

こんばんは。

『文選』李善注は、引用する作品の真偽には割と無頓着なところがあります。
ある作品に、ある人物の名前が冠せられているならば、
その人物の名前は、その作品の作者と見なし得るという発想なのか、
それとも、そもそも作者という概念が現代におけるそれとは少しずれているのか、
私たちのように、その作者名の真偽を吟味することなく、
そう記されているのならばそうなのだろう、
くらいの気持ちで引用しているような印象です。

先日さる授業で読んでいた巻27の曹植「美女篇」の注に、こうありました。

蘇武答李陵詩曰:低頭還自憐、盛年行已衰。
蘇武の李陵に答ふる詩に曰く、
「頭を低(た)れて還(ま)た自ら憐れむ、盛年は行くゆく已に衰ふ。」と。

この作品は、現存する作品集としては『古文苑』巻八に、
蘇武「答詩」として収載されています。

李陵・蘇武の詩(いわゆる蘇李詩)は、『文選』巻29に、
李陵「与蘇武三首」、蘇武「詩四首」が収録されていますが、
前掲の「蘇武の李陵に答ふる詩」は、この七首の中には含まれていません。

『古文苑』所収の作品群と、『文選』巻29所収の七首と、
自分としては、両者は少しく異質であるという印象が強くあって、
それゆえ、かつて蘇李詩を論じた際、『文選』所収作品のみを考察対象としました。
昨日も言及したこちらの学術論文№28)

では、『文選』所収の蘇李詩とそれ以外の蘇李詩と、
両者の間を明確に分かつ線引きは、果たして可能なのでしょうか。

このような趣旨の質問を受講生から受けて、はたと立ち止まりました。
これまでは、個別に表現の継承関係を当たって、
相対的に『文選』所収作品は古いと見てきたのでしたが、
たしかに根拠が場当たり的です。

今後の課題とします。

2021年7月5日

恋文的書簡文の淵源

こんばんは。

『文選』巻29、曹丕「雑詩二首」其一に見える句
「願飛安得翼(飛ばんことを願ふも安くにか翼を得ん)」に対して、
李善注は次のような注を付けています。

葛龔与梁相張府君牋曰、悠悠夢想、願飛無翼。
葛龔の「梁相張府君に与ふる牋」に曰く、
「悠悠として夢想す、飛ばんことを願ふも翼無し」と。

『後漢書』巻80上・文苑伝上によると、
葛龔は、梁国寧陵の人で、安帝の永初年間(107―113)に、孝廉に挙げられています。
そして、その人柄は「性 慷慨壮烈にして、勇力 人に過ぐ」と記されています。

ところが、そんな雄々しい人であったらしい葛龔の書簡文が、
前掲のとおり、どこか恋文を思わせるような雰囲気を纏っています。
これはいったいどういうわけでしょうか。

まず、なぜこれが恋文のようだと感じられるのかといえば、
端的には、「あなたのところへ飛んでいきたいのに翼がない」という言い方が、
たとえば『文選』巻29「古詩十九首」其五にいう、
「願為双鳴鶴、奮翅起高飛(願はくは双鳴鶴と為り、翅を奮ひて起ちて高く飛ばんことを)」
といった表現を彷彿とさせるからです。
また、古詩の流れを汲むと見られる蘇李詩にも、*
たとえば、『文選』巻29、蘇武「詩四首」其二につぎのような句が見えています。
「願為双黄鵠、送子倶遠飛(願はくは双黄鵠と為りて、子を送りて倶に遠く飛ばんことを)」

以前こちらで言及したとおり、
唐代の男性同士で交わされた書簡文はほとんど恋文ですが、
その淵源は、後漢のこのあたりの書簡文にまで遡り得るかもしれません。
そして、後漢の書簡文には、古詩や蘇李詩のフレーズが流入している可能性がありそうです。

2021年7月4日

こちらの学術論文№28(拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)にも収載)をご参照いただければ幸いです。

敢えて漢文で記すこと

こんにちは。

今日、大学主催のオンライン講座で、
「厳島八景」の選定者は誰なのかという話をしました。

一般に、宮島の光明院の恕信がその中心的企画者であったとされていますが、
実は、恕信の依頼を受けた、石清水八幡宮の社官、柏村直條こそが、
その真の立役者であったと言ってよいだろうと私は考えます。*1

このことを示す資料のひとつとして、
柏村直條による「厳島八景和歌(「柏」軸)」の跋文があります。*2

彼は、この跋文において、
自身の和歌題詠のことには一切触れず、
もっぱら、公家たちの「厳島八景和歌」奉納に至った経緯を、
漢文で、逐一的な日付とともに記しています。

序文の方は和文で書かれていることを思えば、
この跋文は敢えて漢文で記されたと見ることができるでしょうか。
和文による序文と、漢文による跋文とでは、
同じ出来事を対象としつつも、その記述の力点にかなりの違いが認められます。

柏村直條は、恕信の願いに深く共鳴し、
「厳島八景」の選定と和歌題詠の実現に向けて奔走しましたが、
その働きかけを受けた公家たちは、すぐにそれに応じることができませんでした。
その間の事の経緯を、事実として書き記しておきたい、
それには、もともと外来の公用語である漢文が一番ふさわしい、
(和文だと、もろもろのしがらみから完全に自由ではいられないでしょう。)
そのように柏村は考えたのかもしれません。

2021年7月3日

*1 かつてこちらの学術論文№35で、この問題を論じたことがあります。本日、その草稿を公開しました。(訂正したいと思う部分も多々ある未熟なものですが、そのまま挙げています。)
*2 朝倉尚「「厳島八景」考―正徳年間の動向―」(『瀬戸内海地域史研究』2号、1989年)による翻刻を参照。

魚の腹中から出た書簡

こんばんは。

漢代の古楽府「飲馬長城窟行」に、*
魚の腹中から帛書が出てくるという印象深いフレーズがあります。

全文の通釈はこちらをご覧いただくとして、
今は、その該当箇所のみを、訓み下しとともに示します。

客従遠方来  客 遠方より来たりて、
遺我双鯉魚  我に双鯉魚を遺る。
呼児烹鯉魚  児を呼びて鯉魚を烹(に)んとすれば、
中有尺素書  中に尺素書有り。
長跪読素書  長跪して素書を読めば、
書上竟何如  書上 竟に何如。
上有加餐食  上には餐食を加へよと有り、
下有長相憶  下には長く相憶ふと有り。

遠方から書簡が届けられるという発想であれば、
たとえば『文選』巻29「古詩十九首」其十七にも次のように見えています。

客従遠方来  客 遠方より来りて、
遺我一書札  我に一書札を遺る。
上言長相思  上には長く相思ふと言ひ、
下言久離別  下には久しく離別すと言ふ。

このように、前者の古楽府と、後者の古詩とは非常によく似ていますが、
前者にあって、後者にはないものが、魚の腹中から書簡が出現するという要素です。
この発想はどこから来たのでしょうか。

『文選』李善注にも特に指摘がなく、
ただ、奇妙な表現だという印象に留まっていたところ、
これと同様の発想が、『史記』巻48・陳渉世家の中にあるのに遭遇しました。
陳勝・呉広が、民衆を惑わせて自分たちになびかせる場面です。

乃丹書帛曰「陳勝王」、置人所罾魚腹中。卒買魚烹食、得魚腹中書、固以怪之矣。

かくして帛に赤い色で「陳勝王」と書き、人が引き網で捕った魚の腹の中に入れた。
兵士が魚を買って煮て食べようとしたところ、魚の腹中に書き物を見つけ、非常にこれを怪しんだ。

ただ、文脈としてはまるで異なっていますから、
李善は「飲馬長城窟行」の注に、この記事を引かなかったのかもしれません。

他方、文献には残らないような言い伝えの中に、
こうした発想のエピソードが伝わっていた可能性も十分にあります。

もし、この発想が、前掲の古詩と結びついて、「飲馬長城窟行」が出来たのであるならば、
この詠み人知らずの歌辞は、それほど素朴なものでもないのかもしれません。

2021年7月2日

*『文選』巻27には古辞(詠み人知らずの歌辞)として、『玉台新詠』巻1には、後漢の蔡邕の作として収載する。

曹植作品の伝播

こんばんは。

昨日、ほとんど手探り状態で、曹植と嵆康との接点を、
曹植の異母弟であり、嵆康の妻の祖父である曹林に求めました。

もとよりこれは、たしかな根拠を示せるような推論ではありません。

ただ、曹植の作品は、その死後ようやく流布するようになったのに、
曹植の死後、それほど時が経過していない段階で、
嵆康の作品の中に、曹植作品の影響が色濃く認められる部分があることを、
どういうわけなのか、従前から不思議に感じていたところ、
曹林という人物に注目することで、
この疑問が少しく氷解してくるように感じたのです。

ここで改めて、曹植の名誉回復と、その作品の伝播に関して、
『魏志』巻19・陳思王植伝に拠って記しておきます。

景初中詔曰、
陳思王昔雖有過失、既克己慎行、以補前闕。
且自少至終、篇籍不離於手、誠難能也。
其収黄初中諸奏植罪状、公卿已下議尚書・祕書・中書三府・大鴻臚者皆削除之。
撰録植前後所著賦頌詩銘雑論凡百餘篇、副蔵内外。

景初(明帝の最末期 237―239)中 詔して曰く、
「陳思王 昔は過失有りと雖ども、既に己に克ち行ひを慎しみ、以て前闕を補ふ。
且つ少(わか)きより終に至るまで、篇籍 手を離れざるは、誠に能くすること難きなり。
其れ黄初中(文帝期 220―226)の諸々の植の罪状を奏せる、
公卿已下 尚書・祕書・中書の三府・大鴻臚に議せらるる者を収めて皆之を削除せよ。
植の前後に著す所の賦・頌・詩・銘・雑論凡百餘篇を撰録し、内外に副蔵せよ。」

なお、曹植の影が映じている嵆康の作品が、いつ作られたのか、
また、曹林と嵆康との交流がいつ頃から始まったのか、
私には把握できておりません。

2021年7月1日

 

曹植と嵆康との接点(承前)

こんにちは。

昨日、曹植と嵆康との間には、
特徴的な表現の共有が認められることを指摘しました。
その上で、もしかしたら二人は、
何か直接的な縁で結ばれていたのかもしれないとも推測しました。

結論から言えば、
二人を繋いだのは嵆康の妻の祖父、曹林ではないかと私は考えます。

曹林は、曹丕・曹植らの異母兄弟で、
曹植とその文才を競ったという曹袞(?―235)の同母兄です。
こちらの雑記をご参照ください。)

曹林の孫娘については、かつて前掲の雑記でも言及しました。
また、曹林の人物像については、こちらでも述べたことがあります。

そこで、曹植・曹林・嵆康の三人について、一覧表にまとめてみました。

これによって見れば、
嵆康が、曹林の孫娘と結婚したのは、
曹植が名誉を回復し、その作品集が編まれ、内外に副蔵された
景初年間(237―239)頃から、およそ十年余りが経過した251年頃のことであり、

もし仮に、曹林の年齢を、曹植と同じだとするならば、
曹林と嵆康とが義理の父子となったのは、
二人がそれぞれ60歳、28歳の頃だと推定されます。

学識・人柄ともに優れた円熟期にある教養人の義父と、
傑出した才能と高潔な人格とを併せ持つ若き知識人とが意気投合し、
その談論の中で、曹植の生涯とその作品が話題に上った可能性は十分にありますし、
曹植の独創性あふれる表現に、二人が強く惹かれたであろうことも想像に難くありません。

先人の詩精神に強く共鳴し、
その共振の表れとして先人の表現を踏まえる、
というのではない、もっと直接的な言語継承の経路が、
曹林を通じて、曹植と嵆康との間に開かれていたのかもしれません。

2021年6月30日

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