教員としての所感

こんにちは。

教員としての無力感を覚えることが少なくない昨今、
これを打破せよとばかりに、教え方の勉強会が学内でも盛んに行われます。

教え方にすばらしい技能を持っているかと問われれば、私は黙り込むほかありません。
長年、自分の至らなさに苦い思いをかみしめながら試行錯誤してきました。

ただ、今朝ふと振り返って思ったのですが、
教育というものには、
こちらの熱意や技術だけではどうにもならない部分があります。
それは、相手あってのことですから。
何かを受け取る用意のない人には、どんな言葉も届かない、
その視点が、昨今の教育技術論には抜けているのではないかと思ったのです。

これを学べば、こんな能力が身につく、とか、
この資格を取得すれば、こんな有利なことがある、などと言われて、
果たしてその学ぶ内容に知的好奇心を感じるものだろうか。
自分ならますます嫌になるだろうと思います。

これはどういうことだろう、なぜだろう、
と考えることそれ自体がものすごく面白いことなのです。
そういう、疑問符でいっぱいの人には、ちょっとした一言も響くはずです。

『論語』衛霊公篇にある次のフレーズ、

子曰、不曰如之何如之何者、吾末如之何也已矣。
  先生がおっしゃった。
  「どうしよう、これをどうしよう」と言わない人には、
  私は彼をどうしようもないなあ。

これも、そういうことが示唆されているのだろうと思います。

打っても響かなかった高校時代の私ですが、
孔子という人は、教育者としてすごい人だったのだ、
とおっしゃった国語の先生の言葉が、なぜか深く印象に残っています。

2021年5月21日

日月を連ねる

こんにちは。

先日こちらでも言及した曹植「与陳琳書」の中に、
「連日月以為佩(日月を連ねて以て佩と為す)」という句があります。

表面上これに似た辞句が、昔のノートに記されていました。
(五言句型を為すという点で目に留まったものです。)

『漢書』巻21・律暦志上にいう、
「日月如合璧、五星如連珠(日月は璧を合するが如く、五星は珠を連ぬるが如し)」、
また、これとほぼ同一の、『桓譚新論』(『太平御覧』巻329)にいう、
「日月若合璧、五星若連珠」がそれです。

更に調べてみると、この対句は他の書物にも散見するものでした。*
『宋書』巻27・符瑞志上、司馬彪『続漢書』天文志上、
『旧唐書』巻33・暦志二、同巻79・傅仁均伝、『新唐書』巻25・暦志一にも、
ほとんど同一の対句が見えています。

『漢書』の記述は、前漢太初元年(BC104)の出来事、
『桓譚新論』は周の武王、『宋書』は堯、『続漢書』は三皇のことについて、
『旧唐書』『新唐書』では、いずれも暦法をめぐる説明や論駁の中に、
前掲の対句が、ほとんど形を変えずに見えています。

ということは、「日月如合璧、五星如連珠」は、
ある固有の歴史的事件に対してのみ用いられる辞句ではなくて、
ある特別なめぐり合わせで現れる、天文上の現象を指して言うのでしょう。
なお、『文苑英華』巻3・天象三には、「日月如合璧賦」三首が収録されています。

以上に述べたことは、中国の天文学に詳しい方々には常識なのかもしれませんが、
自分への覚書として、ここに記しておきます。

先に示した曹植「与陳琳書」の辞句、
あるいは、それとの関連性がほの見えた成公綏による宮廷歌曲の歌辞と、
ここに記した表現との影響関係については、もう少し精査する必要があると思います。

2021年5月19日

*台湾・中央研究院の漢籍電子文献資料庫によって検索した。

 

オンライン学会のよさ

おはようございます。

先週末、オンラインで開催された九州中国学会大会に参加しました。
これがとてもよかったので感想を記しておきます。

この学会の大会は、昨年度もオンライン開催でしたが、
発表に対する質疑応答は、文字の書き込みによって行われました。

今年は、リアルタイムの発表と質疑応答で、まずこれが予想外によかった。
やはり、時間的な制約の中でやり取りされる言葉には力があります。

他方、昨年度のように文字で記された質疑応答は、
内容に濃い密度があり、特にその分野の研究者には有益だっただろうと思います。

もし可能ならば、
リアルタイムの質疑応答を設けながら、
その後しばらくは質疑応答コーナーへの書き込み閲覧を開放する、
という複合的な開催方法が実現できれば最高だなあと思った次第です。

更に、リアルタイムの発表に先立って、
一定期間、発表資料の提示があればなおよかったと思います。
(一部の発表ではこれが為されたようですが、私にはよくわからなかった。)

以上は、もとより恩恵を受けるだけの者のわがままな感想ですが、
提案をすることは、設定や運営をしてくださった方々への感謝の表明でもある、
と私は思っています。

大会の最後に、新谷会長が名残惜しいとおっしゃったこと、同感でした。

ところで、オンライン学会には、リアルな対面式の学会にはない気安さがあります。
それは、発表者の話にまっすぐ向き合っているという実感からくるものです。
リアルな学会では、顔見知りの方々にご挨拶したり、そのタイミングが合わなくて疲れたり、
あるいは、知らない人たちばかりの中で所在なく過ごしたり、がつきものですが、
オンライン学会にはこれがありません。
ここから始まるリアルでフラットな学術交流があってもよい、
(そのためには、会員相互が自由に連絡を取り合える基盤が必要です)
それを後押ししてくれる側面を、オンライン学会は持っていると思いました。

2021年5月17日

文意の取れない書簡文

こんばんは。

先日、訳注を公開した「与陳琳書」ですが、
単語レベルではなんとか理解できても、実はその文意が取れません。
「翠雲」「北斗」「虹蜺」「日月」といった天上界のものを身にまとうこと、
そうした服飾が美しいと言っているところまではわかるのですが、
なぜ、それを「帝王」が身につけないと言っているのか、そこが理解できません。
(そのため、「望殊於天、志絶於心矣」は、苦肉の策であのような解釈をしています。)

この曹植作品を念頭に置いていた可能性のある、
成公綏の「雅楽正旦大会行礼詩」(『宋書』楽志二)では、
西晋王朝の初代皇帝、武帝(司馬炎)の壮麗な姿を歌い上げるのに、
「日月」「五星」「虹蜺」「彗」「慶雲」を身におびるといった表現がなされています。
こうした表現は、成公綏のこの歌辞に限らず、他の作品にも散見するものです。

だから当然、「帝王」は天上界のものを身につけるのだと思っていました。
ところが、曹植の文章にはそれとは逆のことが書いてあります。

それならば、この「帝王」は、一般的にいう「帝王」ではないのか、
もしかしたら、魏王となった曹操を指して言っているのか、とも考えたのですが、
曹植作品において(同時代の他の文人の作品においても)、
この語がそうした用いられ方をした例を見出すことができません。

この書簡文の全文が残っていれば、あるいは解明できるのかもしれませんが、
断片しか残されていない今、未詳とするしかないでしょうか。

2021年5月16日

 

竹林七賢の先人たち

こんばんは。

毎日亀のような歩みで読んでいる曹道衡『魏晋文学』から、*1
ほとんど竹林の七賢かと思わせられるような後漢の人々の逸話を教えられました。
この指摘を手引きとして、自分なりに確認したことを記しておきます。

たとえば、汝南の袁閎は、党錮の獄が起った延熹(158―167)の末、
世俗との関係を断ち切り、戸を閉め窓を塞いで、賓客との面会を拒絶しましたが、
頭には頭巾もかぶらず、身には一重の衣もはおらず、
足には木の草履、食事はハジカミのみの粗食だったそうです(『風俗通義』愆礼)。
また、大切にしていた母親が亡くなった際には、所定の服喪に従わず、
当時の人々の中には、彼を「狂生」と呼ぶ人もいたそうです(『後漢書』巻45・袁閎伝)。
ですが、後にこうした振る舞いが市民権を得てからでしょうか、
西晋の皇甫謐(215―282)撰『高士伝』(『太平御覧』巻508、698)や、
魏の周斐撰『汝南先賢伝』(『太平御覧』巻556)には、慕わしき人物として記されています。*2

同じく『風俗通義』過誉篇に記された、
桓帝期(146―167)頃の人である、河内の趙仲譲は、
高唐令に任命されると、身分を隠して任地に赴き、視察の後、数十日でふっと立ち去りました。
この逸話は、東平相となった阮籍の行動(『晋書』巻49・阮籍伝)を想起させます。
また彼は、時の大将軍、外戚の梁冀(?―159)に従事中郎として仕えた時期、
ある冬の日に庭の中に坐り込んで皮衣を脱いで虱取りをし、
終わると一糸まとわぬ姿で寝転がったといいますが、
これも『世説新語』任誕篇に記された劉伶の逸話を彷彿とさせます。

後漢の袁閎や趙仲譲は、
精神の根底に儒家思想があるということにおいても、
『晋書』本伝に「本(もと)済世の志有り」と評された阮籍と共通するものを持つと言えます。

竹林の七賢は突如出てきたわけではなくて、その先蹤者たちがいたということ、
そうした生き方をしないではいられない状況が、すでに後漢後期からあったということに、
今更ながらに気づかされました。

2021年5月15日

*1『曹道衡文集』(中州古籍出版社)巻四所収『魏晋文学』第一章第二節「魏晋的社会状況和思潮」p.162を参照。
*2 王利器『風俗通義校注』(中華書局、1981年)p.160~161を手引きとした。

西晋宮廷歌曲と曹植

こんばんは。

本日、曹植「与陳琳書」の訳注稿を公開しました。

この断片的書簡文に着目したのは、
『宋書』楽志二を読んでいる研究会の中で、
成公綏による西晋王朝の「雅楽正旦大会行礼詩」に、
この曹植の文章が踏まえられている可能性が指摘されたからです。

成公綏の当該歌辞で、曹植のこの書簡の影響が認められる部分は以下のとおりです。

登崑崙 上增城  崑崙山に登り、その一角にある増城に上って、
乘飛龍 升泰清  飛ぶ龍に乗り、天空に駆け上る。
冠日月 佩五星  日月を冠とし、五星を身に帯びて、
揚虹蜺 建彗旌  虹を掲げ、彗星の旗を立てる。
披慶雲 蔭繁榮  慶雲を敷き広げ、繁茂する草木を恵みで被いつつ、
覽八極 游天庭  世界の果てまでも見て回り、天帝の宮殿に遊ぶ。

この一節は『楚辞』の影響が濃厚な部分ですが、
「日月を冠し、五星を佩び、虹蜺を揚げて、彗旌を建つ」は、
『楚辞』の中にも明らかにそれとわかる出典を見出すことはできませんでした。
ところが、曹植の「与陳琳書」には、これと非常によく似た発想の辞句が並んでいます。
この林香奈氏のご指摘に、目の前がぱあーっと明るくなりました。

これに限らず、西晋王朝の宮廷歌曲の歌辞には、
曹植作品の表現が、かなり多く用いられていることが確認されています。

西晋の宮廷歌曲の歌辞を作った人々は、
なぜ曹植の言葉をこれほどまでに多く用いているのでしょうか。

すぐには解明できないにせよ、この疑問符を頭の片隅に置いておこうと思います。

2021年5月14日

連れ立って飛翔する鳥

こんばんは。

阮籍「詠懐詩」に見える「翺翔」の語、
昨日挙げた2例以外に、ひとりで飛ぶのではない次の詩句があります。

すなわち、『文選』巻23にも収載されている、
「昔日繁華子」に始まる、楚の安陵君と魏の龍陽君という二人の寵臣を詠じた詩に、
「願為双飛鳥、比翼共翺翔(願はくは双飛の鳥と為り、翼を比べて共に翺翔せんことを)」
とあるのがそれです。

この表現は、まず『文選』巻29「古詩十九首」其五にいう、
「願為双鳴鶴、奮翅起高飛(願はくは双鳴鶴と為り、翅を奮ひて起ちて高く飛ばんことを)」
を彷彿とさせますし、

古詩と作風の近い蘇武詩(『文選』巻29、蘇武「詩四首」其二)にも、
「願為双黄鵠、送子倶遠飛(願はくは双黄鵠と為りて、子を送りて倶に遠く飛ばんことを)」
とあったことが想起されます。

また、成立時期は不明ですが、
舞曲歌辞「淮南王篇」(『宋書』巻22・楽志四)にも、

「願化双黄鵠還故郷(願はくは双黄鵠に化して故郷に還らんことを)」と見えています。

こうした流れを汲む表現パターンは、
阮籍よりも前、すでに建安詩に散見します。たとえば、

曹丕「於清河見輓船士新婚別妻」詩(『玉台新詠』巻2)に、*
「願為双黄鵠、比翼戯清池(願はくは双黄鵠と為りて、翼を比べて清池に戯れんことを)」、

同じく曹丕「又清河作」(『玉台新詠』巻2)に、
「願為晨風鳥、双飛翔北林(願はくは晨風の鳥と為りて、双飛して北林に翔けんことを)」、

そして、曹植「送応氏詩二首」其二(04-04-2)にも、
「願為比翼鳥、施翮起高翔(願はくは比翼の鳥と為りて、翮を施べて起ちて高く翔けんことを)」
とあったのでした。

前掲の阮籍「詠懐詩」の詩句は、こうした流れの中から浮かび上がってきたものでしょう。
ただ、そのありふれた言葉にそこはかとない不吉さが漂うように感じるのは、
その連れ立って飛ぼうとする二人が寵臣だからでしょうか。

漢魏詩の常套的表現に、
阮籍が新たな意味を付与する例は少なくありませんが、
この詩に見える連れ立って飛ぶ鳥の表象も、そのひとつと言えるかもしれません。

2021年5月13日

*『藝文類聚』巻29では徐幹の作とする。

「翺翔」する阮籍

こんばんは。

一昨日、建安詩において「翺翔」という語は、
現実から軽やかに放たれるという文脈で多く用いられていると述べました。
これを具体的に示せば次のとおりです。

『藝文類聚』巻28に引く陳琳詩に、
 間居心不娯、駕言従友生  間(閑)居して心は娯しまず、駕してここに友生に従ふ。
 翺翔戯長流、逍遥登高城  翺翔して長流に戯れ、逍遥して高城に登る。

劉楨「公讌詩」(『文選』巻20)に、
 遺思在玄夜、相与復翺翔  遺思 玄夜に在り、相与(とも)に復た翺翔す。
 輦車飛素蓋、従者盈路傍  輦車は素蓋を飛ばし、従者は路傍に盈つ。

同じく劉楨「贈五官中郎将四首」其一(『文選』巻23)に、
 昔我従元后、整駕至南郷  昔 我 元后(曹操)に従ひ、駕を整へて南郷に至る。
 過彼豊沛都、与君共翺翔  彼の豊沛の都に過(よぎ)りて、君と共に翺翔す。

ここで注目したいのは、いずれの「翺翔」も仲間とともにあるということです。

ところが、おそらくはたった一人で「翺翔」するのが阮籍です。
その「詠懐詩」には三首の用例がありますが(其十二、三十五、六十三)、*

其三十五(世務何繽紛)に、
 時路烏足争、太極可翺翔  時路 烏(いづく)んぞ争ふに足らん、太極 翺翔す可し。

其六十三(多慮令志散)に、
 多慮令志散、寂寞使心憂  多慮は志をして散せしめ、寂寞は心をして憂へしむ。
 翺翔観彼沢、撫剣登軽舟  翺翔して彼の沢を観、剣を撫して軽舟に登る。

其三十五は、周りの者たちとの煩わしい関係を振り切っての「翺翔」を、
其六十三は、鬱屈した現実世界から脱出する飛翔を詠じています。
ここに、仲間たちのいる気配は感じられません。

曹植作品における「翺翔」はどうなのでしょうか。

なお、この語に特定しての用例は、
意外なことに、阮籍のあと梁代までふつりと途絶えます。
「翺翔」ではない、他の表現による飛翔はあるのだろうと思います。
また、この時代の作品は多くが失われていることを念頭に置かなくてはなりませんが。

2021年5月12日

*作品の順次は、黄節『阮歩兵咏懐詩注』(中華書局、2008年)に拠った。

高翔する鶏

こんばんは。

先週末の続きです。
本日、曹植作品訳注稿「05-04 闘鶏」の修正をしました。
「長鳴」は、闘鶏の勝者を意味するという説明と、それに伴う通釈の訂正です。

その上で、鶏が「翼を扇ぎて独り翺翔」することへの疑問が残りました。
3世紀の鶏は空を飛べたのでしょうか。それはないでしょう。
同時期の劉楨や応瑒の「闘鶏詩」には、そうした描写は見当たりません。
現存資料を見る限り、別の文字に作るテキストがあるわけでもないようです。
ならば、曹植が闘鶏を見て、このようなイメージを持ったと考えるほかないでしょう。

そこで、曹植作品における「翺翔」という語の使われ方を縦覧してみたところ、
「闘鶏」以外では、以下の7例を拾い上げることができました。
(巻次はすべて丁晏『曹集詮評』に拠ります。)

巻1「節遊賦」に「歩北園而馳騖、庶翺翔以解憂。」
   北園に歩みて馳騖し、翺翔して以て憂を解かんことを庶(こひねが)ふ。

巻3「離繳雁賦」に「感節運之復至兮、仮魏道而翺翔。」
   節運の復た至るに感じ、魏(たか)き道に仮りて翺翔す。

巻3「酒賦」に「爾乃王孫公子、遊侠翺翔。」
   爾(しか)して乃ち王孫公子は、遊侠翺翔す。

巻5「遊仙」に「翺翔九天上、騁轡遠行遊。」
   九天の上に翺翔し、轡を騁(は)せて遠く行遊す。

巻6「冬至献襪履頌」に「翺翔万域、聖体浮軽。」
   万域に翺翔し、聖体は浮き軽し。

巻8「釈愁文」に「趣遐路以棲跡、乗青雲以翺翔。」
   遐(とほ)き路に趣きて以て棲跡し、青雲に乗りて以て翺翔す。

巻10「平原懿公主誄」に「魂神遷移、精爽翺翔。」
   魂神は遷移して、精爽は翺翔す。

こうしてみると、曹植作品における翺翔という語は、
現実の重圧から軽やかに解き放たれるような場面で多く用いられているようです。
このような意味での用例は、他の建安詩人たちにも認められます。
(それが、闘鶏と結びついているところに曹植の独自性があるわけですが。)

そこから更に、魂の飛翔という意味をも帯びることになるのでしょう。
その明確な例は、最後に挙げた「平原懿公主誄」です。

「闘鶏」における「翺翔」を、
鶏の魂が飛翔したものと捉えたのは、
あながち的外れでもなかったかもしれません。

2021年5月10日

闘鶏の勝者

こんばんは。

昨日、曹植作品訳注稿の「05-04 闘鶏」を公開したのですが、
ひとつ、間違った解釈をしてしまっていたことに先ほど気づきました。
根拠となる文献を確認した上で、近日中に訂正をしますが、
なぜ誤ったかということをも含めて、ここに書き記しておきたいと思います。

間違っていたのは、一首の末尾の方にある「長鳴入青雲(長鳴して青雲に入る)」です。
私はこれを、戦いに負けた鶏が鳴き声を上げたのだと捉えていました。
というのは、本詩の語釈にも示したとおり、「入青雲」というフレーズが、
王粲や曹植の他の詩において、悲しげな鳴き声とともに詠じられていたからです。

また、この句に続く「扇翼独翺翔(翼を扇ぎて独り翺翔す)」に疑問を持ったからです。
鶏が空を飛び回ることはないだろう、とすると、これは想像上のことか、
それなら、負けた鶏の魂が空を飛翔しているのだろうか、
などと妄想に妄想を重ねていたのでした。

しかしながら、趙幼文は、『尸子』や『春秋左氏伝』襄公21年の杜預注に拠って、
闘鶏では、勝った者がまず鳴き声を上げるということを指摘しています。*
これに従うべきだと思い直しました。

仮に、長く鳴き声を上げて飛翔するものが鶏それ自体でないにせよ、
それが敗者の魂であるとは限らない、
勝者のそれかもしれないということに今気づきました。

ただ、そこはかとなく寂しさが漂うように感じるのはどこから来るのだろう。

2021年5月7日

*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.2を参照。

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