蘇李詩の真偽
こんばんは。
『文選』李善注は、引用する作品の真偽には割と無頓着なところがあります。
ある作品に、ある人物の名前が冠せられているならば、
その人物の名前は、その作品の作者と見なし得るという発想なのか、
それとも、そもそも作者という概念が現代におけるそれとは少しずれているのか、
私たちのように、その作者名の真偽を吟味することなく、
そう記されているのならばそうなのだろう、
くらいの気持ちで引用しているような印象です。
先日さる授業で読んでいた巻27の曹植「美女篇」の注に、こうありました。
蘇武答李陵詩曰:低頭還自憐、盛年行已衰。
蘇武の李陵に答ふる詩に曰く、
「頭を低(た)れて還(ま)た自ら憐れむ、盛年は行くゆく已に衰ふ。」と。
この作品は、現存する作品集としては『古文苑』巻八に、
蘇武「答詩」として収載されています。
李陵・蘇武の詩(いわゆる蘇李詩)は、『文選』巻29に、
李陵「与蘇武三首」、蘇武「詩四首」が収録されていますが、
前掲の「蘇武の李陵に答ふる詩」は、この七首の中には含まれていません。
『古文苑』所収の作品群と、『文選』巻29所収の七首と、
自分としては、両者は少しく異質であるという印象が強くあって、
それゆえ、かつて蘇李詩を論じた際、『文選』所収作品のみを考察対象としました。
(昨日も言及したこちらの学術論文№28)
では、『文選』所収の蘇李詩とそれ以外の蘇李詩と、
両者の間を明確に分かつ線引きは、果たして可能なのでしょうか。
このような趣旨の質問を受講生から受けて、はたと立ち止まりました。
これまでは、個別に表現の継承関係を当たって、
相対的に『文選』所収作品は古いと見てきたのでしたが、
たしかに根拠が場当たり的です。
今後の課題とします。
2021年7月5日
恋文的書簡文の淵源
こんばんは。
『文選』巻29、曹丕「雑詩二首」其一に見える句
「願飛安得翼(飛ばんことを願ふも安くにか翼を得ん)」に対して、
李善注は次のような注を付けています。
葛龔与梁相張府君牋曰、悠悠夢想、願飛無翼。
葛龔の「梁相張府君に与ふる牋」に曰く、
「悠悠として夢想す、飛ばんことを願ふも翼無し」と。
『後漢書』巻80上・文苑伝上によると、
葛龔は、梁国寧陵の人で、安帝の永初年間(107―113)に、孝廉に挙げられています。
そして、その人柄は「性 慷慨壮烈にして、勇力 人に過ぐ」と記されています。
ところが、そんな雄々しい人であったらしい葛龔の書簡文が、
前掲のとおり、どこか恋文を思わせるような雰囲気を纏っています。
これはいったいどういうわけでしょうか。
まず、なぜこれが恋文のようだと感じられるのかといえば、
端的には、「あなたのところへ飛んでいきたいのに翼がない」という言い方が、
たとえば『文選』巻29「古詩十九首」其五にいう、
「願為双鳴鶴、奮翅起高飛(願はくは双鳴鶴と為り、翅を奮ひて起ちて高く飛ばんことを)」
といった表現を彷彿とさせるからです。
また、古詩の流れを汲むと見られる蘇李詩にも、*
たとえば、『文選』巻29、蘇武「詩四首」其二につぎのような句が見えています。
「願為双黄鵠、送子倶遠飛(願はくは双黄鵠と為りて、子を送りて倶に遠く飛ばんことを)」
以前こちらで言及したとおり、
唐代の男性同士で交わされた書簡文はほとんど恋文ですが、
その淵源は、後漢のこのあたりの書簡文にまで遡り得るかもしれません。
そして、後漢の書簡文には、古詩や蘇李詩のフレーズが流入している可能性がありそうです。
2021年7月4日
*こちらの学術論文№28(拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)にも収載)をご参照いただければ幸いです。
敢えて漢文で記すこと
こんにちは。
今日、大学主催のオンライン講座で、
「厳島八景」の選定者は誰なのかという話をしました。
一般に、宮島の光明院の恕信がその中心的企画者であったとされていますが、
実は、恕信の依頼を受けた、石清水八幡宮の社官、柏村直條こそが、
その真の立役者であったと言ってよいだろうと私は考えます。*1
このことを示す資料のひとつとして、
柏村直條による「厳島八景和歌(「柏」軸)」の跋文があります。*2
彼は、この跋文において、
自身の和歌題詠のことには一切触れず、
もっぱら、公家たちの「厳島八景和歌」奉納に至った経緯を、
漢文で、逐一的な日付とともに記しています。
序文の方は和文で書かれていることを思えば、
この跋文は敢えて漢文で記されたと見ることができるでしょうか。
和文による序文と、漢文による跋文とでは、
同じ出来事を対象としつつも、その記述の力点にかなりの違いが認められます。
柏村直條は、恕信の願いに深く共鳴し、
「厳島八景」の選定と和歌題詠の実現に向けて奔走しましたが、
その働きかけを受けた公家たちは、すぐにそれに応じることができませんでした。
その間の事の経緯を、事実として書き記しておきたい、
それには、もともと外来の公用語である漢文が一番ふさわしい、
(和文だと、もろもろのしがらみから完全に自由ではいられないでしょう。)
そのように柏村は考えたのかもしれません。
2021年7月3日
*1 かつてこちらの学術論文№35で、この問題を論じたことがあります。本日、その草稿を公開しました。(訂正したいと思う部分も多々ある未熟なものですが、そのまま挙げています。)
*2 朝倉尚「「厳島八景」考―正徳年間の動向―」(『瀬戸内海地域史研究』2号、1989年)による翻刻を参照。
魚の腹中から出た書簡
こんばんは。
漢代の古楽府「飲馬長城窟行」に、*
魚の腹中から帛書が出てくるという印象深いフレーズがあります。
全文の通釈はこちらをご覧いただくとして、
今は、その該当箇所のみを、訓み下しとともに示します。
客従遠方来 客 遠方より来たりて、
遺我双鯉魚 我に双鯉魚を遺る。
呼児烹鯉魚 児を呼びて鯉魚を烹(に)んとすれば、
中有尺素書 中に尺素書有り。
長跪読素書 長跪して素書を読めば、
書上竟何如 書上 竟に何如。
上有加餐食 上には餐食を加へよと有り、
下有長相憶 下には長く相憶ふと有り。
遠方から書簡が届けられるという発想であれば、
たとえば『文選』巻29「古詩十九首」其十七にも次のように見えています。
客従遠方来 客 遠方より来りて、
遺我一書札 我に一書札を遺る。
上言長相思 上には長く相思ふと言ひ、
下言久離別 下には久しく離別すと言ふ。
このように、前者の古楽府と、後者の古詩とは非常によく似ていますが、
前者にあって、後者にはないものが、魚の腹中から書簡が出現するという要素です。
この発想はどこから来たのでしょうか。
『文選』李善注にも特に指摘がなく、
ただ、奇妙な表現だという印象に留まっていたところ、
これと同様の発想が、『史記』巻48・陳渉世家の中にあるのに遭遇しました。
陳勝・呉広が、民衆を惑わせて自分たちになびかせる場面です。
乃丹書帛曰「陳勝王」、置人所罾魚腹中。卒買魚烹食、得魚腹中書、固以怪之矣。
かくして帛に赤い色で「陳勝王」と書き、人が引き網で捕った魚の腹の中に入れた。
兵士が魚を買って煮て食べようとしたところ、魚の腹中に書き物を見つけ、非常にこれを怪しんだ。
ただ、文脈としてはまるで異なっていますから、
李善は「飲馬長城窟行」の注に、この記事を引かなかったのかもしれません。
他方、文献には残らないような言い伝えの中に、
こうした発想のエピソードが伝わっていた可能性も十分にあります。
もし、この発想が、前掲の古詩と結びついて、「飲馬長城窟行」が出来たのであるならば、
この詠み人知らずの歌辞は、それほど素朴なものでもないのかもしれません。
2021年7月2日
*『文選』巻27には古辞(詠み人知らずの歌辞)として、『玉台新詠』巻1には、後漢の蔡邕の作として収載する。
曹植作品の伝播
こんばんは。
昨日、ほとんど手探り状態で、曹植と嵆康との接点を、
曹植の異母弟であり、嵆康の妻の祖父である曹林に求めました。
もとよりこれは、たしかな根拠を示せるような推論ではありません。
ただ、曹植の作品は、その死後ようやく流布するようになったのに、
曹植の死後、それほど時が経過していない段階で、
嵆康の作品の中に、曹植作品の影響が色濃く認められる部分があることを、
どういうわけなのか、従前から不思議に感じていたところ、
曹林という人物に注目することで、
この疑問が少しく氷解してくるように感じたのです。
ここで改めて、曹植の名誉回復と、その作品の伝播に関して、
『魏志』巻19・陳思王植伝に拠って記しておきます。
景初中詔曰、
陳思王昔雖有過失、既克己慎行、以補前闕。
且自少至終、篇籍不離於手、誠難能也。
其収黄初中諸奏植罪状、公卿已下議尚書・祕書・中書三府・大鴻臚者皆削除之。
撰録植前後所著賦頌詩銘雑論凡百餘篇、副蔵内外。
景初(明帝の最末期 237―239)中 詔して曰く、
「陳思王 昔は過失有りと雖ども、既に己に克ち行ひを慎しみ、以て前闕を補ふ。
且つ少(わか)きより終に至るまで、篇籍 手を離れざるは、誠に能くすること難きなり。
其れ黄初中(文帝期 220―226)の諸々の植の罪状を奏せる、
公卿已下 尚書・祕書・中書の三府・大鴻臚に議せらるる者を収めて皆之を削除せよ。
植の前後に著す所の賦・頌・詩・銘・雑論凡百餘篇を撰録し、内外に副蔵せよ。」
なお、曹植の影が映じている嵆康の作品が、いつ作られたのか、
また、曹林と嵆康との交流がいつ頃から始まったのか、
私には把握できておりません。
2021年7月1日
曹植と嵆康との接点(承前)
こんにちは。
昨日、曹植と嵆康との間には、
特徴的な表現の共有が認められることを指摘しました。
その上で、もしかしたら二人は、
何か直接的な縁で結ばれていたのかもしれないとも推測しました。
結論から言えば、
二人を繋いだのは嵆康の妻の祖父、曹林ではないかと私は考えます。
曹林は、曹丕・曹植らの異母兄弟で、
曹植とその文才を競ったという曹袞(?―235)の同母兄です。
(こちらの雑記をご参照ください。)
曹林の孫娘については、かつて前掲の雑記でも言及しました。
また、曹林の人物像については、こちらでも述べたことがあります。
そこで、曹植・曹林・嵆康の三人について、一覧表にまとめてみました。
これによって見れば、
嵆康が、曹林の孫娘と結婚したのは、
曹植が名誉を回復し、その作品集が編まれ、内外に副蔵された
景初年間(237―239)頃から、およそ十年余りが経過した251年頃のことであり、
もし仮に、曹林の年齢を、曹植と同じだとするならば、
曹林と嵆康とが義理の父子となったのは、
二人がそれぞれ60歳、28歳の頃だと推定されます。
学識・人柄ともに優れた円熟期にある教養人の義父と、
傑出した才能と高潔な人格とを併せ持つ若き知識人とが意気投合し、
その談論の中で、曹植の生涯とその作品が話題に上った可能性は十分にありますし、
曹植の独創性あふれる表現に、二人が強く惹かれたであろうことも想像に難くありません。
先人の詩精神に強く共鳴し、
その共振の表れとして先人の表現を踏まえる、
というのではない、もっと直接的な言語継承の経路が、
曹林を通じて、曹植と嵆康との間に開かれていたのかもしれません。
2021年6月30日
曹植と嵆康との接点
こんばんは。
曹植の「名都篇」(『文選』巻27)に、
「鳴儔嘯匹侶(儔に鳴じ、匹侶に嘯く)」という句があります。
「鳴」や「嘯(うそぶく)」といった動詞が、
「儔(とも)」や「匹侶(なかま)」を目的語としていることに、
あまり見慣れないような感じを受けて立ち止まりましたが、
この表現について、李善は特に注してはいません。
他方、これとよく似た表現が、
同じ曹植の「洛神賦」(『文選』巻19)にも、
「命儔嘯侶(儔に命じ侶に嘯く)」と見えています。
こちらにも、『文選』李善注は特に何も語釈を施してはいません。
ということは、こうした表現は、先行作品を踏まえたのではない、
曹植独自のものだと言えるかもしれません。
それが、嵆康「贈秀才入軍詩十九首」其二(『詩紀』巻18)に、
「鴛鴦于飛、嘯侶命儔(鴛鴦 于(ここ)に飛び、侶に嘯き儔に命ず)」
と踏まえられています。
今、踏まえられている、と思わず書いてしまったのですが、
おそらく、そう言ってもよいだろうと思われます。
現存する作品を見る限り、
この表現は、曹植以前には見当たらず、
それ以降の時代においても、用例が極めて少ないから、
つまり、それほどありふれた表現ではなさそうだと言えるからです。
このほかにも、
曹植の「責躬詩」(『文選』巻20)にいう、
「遅奉聖顔、如渇如飢(聖顔を奉ぜんと遅(ねが)ふこと、渇するが如く飢うるが如し)」が、
嵆康「贈秀才入軍五首」其三(『文選』巻24)に、
「思我良朋、如渇如飢(我が良朋を思ふこと、渇するが如く飢うるが如し)」と、
踏まえられている事例を認めることができます。
(このことは、すでにこちらの学術論文№43で言及しています。)
これらは、必ずしも偶然の類似とは言い切れないのではないか、
二人は何らかの直接的な縁で結ばれていたのではないか、と思えてなりません。
このことについては、明日につないで考察します。
2021年6月29日
陳寿祺「三家詩遺説攷自序」
こんにちは。
昨日触れた陳喬樅の父、陳寿祺による「三家詩遺説攷自序」には、
『詩経』解釈の四つの流派、すなわち斉・魯・韓の三家詩及び毛詩について、
その研究史の一端が次のように記述されています。
漢伝詩者四家、魯斉韓、並立学官、元始之世、始置毛詩博士、不久旋廃。
後漢賈逵嘗受詔撰斉魯韓詩与毛氏異同。集攷三家詩、自景伯始。惜其書不伝。
宋王伯厚詩攷、所緝三家遺説、止取文字別異、缺漏甚多。
寿祺案、両漢毛詩未列於学、凡馬班范三史所載、及漢百家著述所引、皆魯斉韓詩。
異者見異、同者見同、緒論所存、悉宜補綴、不宜取此而棄彼也。
今稍増緝以備瀏覧、猶有未能具載者、他日当別成一篇、使学者有所攷焉。
嘉慶二十有四年己卯仲春、福州陳寿祺識於三山之遂初楼。
漢代、『詩経』を伝える者に四家があった。
「魯詩」「斉詩」「韓詩」の三家詩は、並びに学官を立て、
元始(前漢・平帝、1―5)の世になって、始めて「毛詩」博士が置かれたが、
それほど長く続かないうちに、間もなく廃止された。
後漢の賈逵(30―101)は、かつて詔を受けて斉・魯・韓詩と毛詩との異同を著した。*1
三家詩を集めて検討するのは、景伯(賈逵の字)より始まったのである。
ただ惜しいことにその書物は伝わっていない。
宋代の王伯厚(王応麟、1223―1296)による『詩攷』は*2、
収集する三家の遺説が、文字の異同を取り上げるに止まり、欠落や遺漏が非常に多い。
わたくし寿祺が考えるに、
両漢代において、「毛詩」は未だ学問としては認められておらず、
およそ司馬遷『史記』、班固『漢書』、范曄『後漢書』に記されているところ、
及び漢代の諸々の著述に引かれているところは、みな「魯詩」「斉詩」「韓詩」である。
異なるものはその異なるところを示し、同じものはその同じところを示し、
議論のあるところはすべて補い綴り合せるべきであって、
こちらを取り上げてあちらを捨て去るというのはよろしくないのである。
今 少しずつ蒐集を増して、もって皆様のご閲覧に備えたが、
それでもまだ、具体的に詳しく載せることができないものがあるので、
他日、必ずや別に一篇を完成させ、学ぶ者に、これをもとに考究していただきたい。
嘉慶二十四年(1819)仲春、福州の陳寿祺が、三山(福州)の遂初楼に記す。
両漢時代、三家詩が主流であったとは初めて知りました。
陳氏父子による『三家詩遺説攷』には、
様々な書物に引かれた三家詩が幅広く渉猟され、考証が加えられていますが、
そうした調査の裏付けがあってこその、この見解なのでしょう。
そうした趨勢の中で、後漢の鄭玄はなぜ『毛詩』を選んで解釈を付したのか、
経学の素人から見るととても不可思議に感じられます。
この時点では、『毛詩』が唯一、後世に残る『詩経』になろうとは、
誰にも予想されていなかったでしょう。
2021年6月28日
*1 『後漢書』巻36・賈逵伝に「(帝)復令撰斉魯韓詩与毛詩異同」と。
*2 王応麟『詩攷』は、津逮秘書所収テキストが叢書集成初編に収載されている。
父子二代にわたる仕事
こんにちは。
またしばらく間が空きました。
校務が立て込んでも時間を作って毎日の気づきを記したい、
と思いながらそれが継続できないのはなぜか、考えてみました。
それは、こんなことをやって何か意味があるのか、
もっと言えば、誰かの役に立っているのか、
などとふと思ってしまうからです。
自分は雑草と同じで、勝手に地面から芽吹いた存在なのですから、
誰かのために役立つことなどを夢想しないことです。
気づきの意味無意味を問わないことです。
さて、かつて何度か言及したことがある、
『三家詩遺説攷(考)』(王先謙編『清経解続編』巻1118―1166)について、
先日新たに知ったことがあるので、ここに記しておきます。
これまで私は、その著者を陳喬樅と記してきました。
参照したその記述の中に、「喬樅謹案(喬樅謹んで案ずるに)」とあったので。
ところがこれは、彼の父、陳寿祺から二代にわたる研究の成果でした。
その巻頭、陳喬樅「魯詩遺説攷自序」の中にこうあります。
喬樅幼承庭訓、稍長治三家詩、先大夫因出所撰三家詩遺説、命卒其業。
喬樅 幼くして庭訓[家庭教育]を承(う)け、稍(やや)長じては三家詩を治む。
先の大夫[父親]は因りて[そこで]撰する所の『三家詩遺説』を出して、
其の業を卒(を)へんことを命ず。
この自序の末尾には、「時道光十有八年戊戌(1838)秋九月」と記されています。
一方、その前に置かれた、父陳寿祺による「三家詩遺説攷自序」には、
「嘉慶二十有四年己卯(1819)仲春」と見えています。
父から受け渡された仕事を、その子は約二十年の歳月をかけて完成させた、
ということを、本書の巻頭部分から知らされました。
書名を記している部分は修正しました。
ただ、陳喬樅という名が明記されている部分の引用についてはどう記したものか、
修正の仕方は統一できていません。
2021年6月27日
素直でない遊仙詩
こんばんは。
本日読み始めた「遠遊篇」は、過日見た「遊仙」と違って、
仙界へ遊ぶということが、現実否定と分かちがたく結びついています。
そのことが顕著な句として、たとえば、
瓊蕊可療饑 美玉の蕊は、飢えを癒すことができる。
仰首吸朝霞 首を上方へ伸ばして、朝の霞を吸い込もう。
崑崙本吾宅 崑崙山はもともと私の住まいである。
中州非我家 中原の帝都など私が家ではない。
また、本詩の結びは次のとおりです。
金石固易弊 金石は元来が壊れやすいものだ。
日月同光華 私は(そんなものには拠らず)日月とともに光り輝きたい。
斉年与天地 天地と等しい永遠の歳月を渡ってゆくのだ。
万乗安足多 万乗の車を動かせる天子なんぞ、どうして見上げるに足るものか。
これらの表現は、
『楚辞』九章・渉江にいう次の句を中核に踏まえています。
登崑崙兮食玉英、与天地兮同寿、与日月兮同光。
崑崙に登りて玉英を食し、天地と寿を同じくし、日月と光を同じくす。
ただ、その直後にある、
「中州非我家(中州は我が家に非ず)」や、
「万乗安足多(万乗 安んぞ多とするに足らんや)」は、
曹植によって新たに付け加えられた言葉です。
そして、その付け加えられた言葉によって、
遊仙が、長寿を祈願するだけの遊仙には終わらなくなるのです。
このことは、すでに矢田博士氏によって論じられています。*1
加えて、こうした曹植の遊仙詩が、
阮籍「詠懐詩」と同じ構造を持つことを指摘しておきたいと思います。*2
2021年6月21日
*1 矢田博士「曹植の神仙楽府について―先行作品との異同を中心に―」(『中国詩文論叢』9号、1990年)を参照。
*2 このことは、すでに2020年12月1日の雑記に、先行研究とともに記しています。