高翔する鶏

こんばんは。

先週末の続きです。
本日、曹植作品訳注稿「05-04 闘鶏」の修正をしました。
「長鳴」は、闘鶏の勝者を意味するという説明と、それに伴う通釈の訂正です。

その上で、鶏が「翼を扇ぎて独り翺翔」することへの疑問が残りました。
3世紀の鶏は空を飛べたのでしょうか。それはないでしょう。
同時期の劉楨や応瑒の「闘鶏詩」には、そうした描写は見当たりません。
現存資料を見る限り、別の文字に作るテキストがあるわけでもないようです。
ならば、曹植が闘鶏を見て、このようなイメージを持ったと考えるほかないでしょう。

そこで、曹植作品における「翺翔」という語の使われ方を縦覧してみたところ、
「闘鶏」以外では、以下の7例を拾い上げることができました。
(巻次はすべて丁晏『曹集詮評』に拠ります。)

巻1「節遊賦」に「歩北園而馳騖、庶翺翔以解憂。」
   北園に歩みて馳騖し、翺翔して以て憂を解かんことを庶(こひねが)ふ。

巻3「離繳雁賦」に「感節運之復至兮、仮魏道而翺翔。」
   節運の復た至るに感じ、魏(たか)き道に仮りて翺翔す。

巻3「酒賦」に「爾乃王孫公子、遊侠翺翔。」
   爾(しか)して乃ち王孫公子は、遊侠翺翔す。

巻5「遊仙」に「翺翔九天上、騁轡遠行遊。」
   九天の上に翺翔し、轡を騁(は)せて遠く行遊す。

巻6「冬至献襪履頌」に「翺翔万域、聖体浮軽。」
   万域に翺翔し、聖体は浮き軽し。

巻8「釈愁文」に「趣遐路以棲跡、乗青雲以翺翔。」
   遐(とほ)き路に趣きて以て棲跡し、青雲に乗りて以て翺翔す。

巻10「平原懿公主誄」に「魂神遷移、精爽翺翔。」
   魂神は遷移して、精爽は翺翔す。

こうしてみると、曹植作品における翺翔という語は、
現実の重圧から軽やかに解き放たれるような場面で多く用いられているようです。
このような意味での用例は、他の建安詩人たちにも認められます。
(それが、闘鶏と結びついているところに曹植の独自性があるわけですが。)

そこから更に、魂の飛翔という意味をも帯びることになるのでしょう。
その明確な例は、最後に挙げた「平原懿公主誄」です。

「闘鶏」における「翺翔」を、
鶏の魂が飛翔したものと捉えたのは、
あながち的外れでもなかったかもしれません。

2021年5月10日

闘鶏の勝者

こんばんは。

昨日、曹植作品訳注稿の「05-04 闘鶏」を公開したのですが、
ひとつ、間違った解釈をしてしまっていたことに先ほど気づきました。
根拠となる文献を確認した上で、近日中に訂正をしますが、
なぜ誤ったかということをも含めて、ここに書き記しておきたいと思います。

間違っていたのは、一首の末尾の方にある「長鳴入青雲(長鳴して青雲に入る)」です。
私はこれを、戦いに負けた鶏が鳴き声を上げたのだと捉えていました。
というのは、本詩の語釈にも示したとおり、「入青雲」というフレーズが、
王粲や曹植の他の詩において、悲しげな鳴き声とともに詠じられていたからです。

また、この句に続く「扇翼独翺翔(翼を扇ぎて独り翺翔す)」に疑問を持ったからです。
鶏が空を飛び回ることはないだろう、とすると、これは想像上のことか、
それなら、負けた鶏の魂が空を飛翔しているのだろうか、
などと妄想に妄想を重ねていたのでした。

しかしながら、趙幼文は、『尸子』や『春秋左氏伝』襄公21年の杜預注に拠って、
闘鶏では、勝った者がまず鳴き声を上げるということを指摘しています。*
これに従うべきだと思い直しました。

仮に、長く鳴き声を上げて飛翔するものが鶏それ自体でないにせよ、
それが敗者の魂であるとは限らない、
勝者のそれかもしれないということに今気づきました。

ただ、そこはかとなく寂しさが漂うように感じるのはどこから来るのだろう。

2021年5月7日

*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.2を参照。

インドネシアからの示唆

こんばんは。

「異文化としての日本」という耳慣れない科目名の授業を担当しています。
留学生や、外国からおいでになった、あるいは海外経験の豊富な先生方から話を聞き、
日本人学生も留学生も一緒になってディスカッションをする中で、
「日本」を外側から、ひとつの異文化として見直そう、という趣旨の科目です。

毎年、留学生の顔ぶれが変われば、聞ける話も変わります。
前回の授業では、インドネシアからの留学生が次のような話をしてくれました。

インドネシアには、300以上の民族集団が存在し、
語彙や文法の異なる、700以上の言語が併存している。
国民の義務としては、必ずいずれかの宗教に帰依することが求められる、と。

様々な文化が共存する中で、その紐帯となっているのが宗教であること、
しかも、その宗教は、複数ある中から選ぶのだということに心底驚かされました。

ある宗教に帰依すると、排他的になるのが常かと思っていましたが、
少なくともこの国では違うんですね。

神と個々人との関係が絶対的に大事なのであって、
人と人とが争うなんてナンセンス、という考えになるのでしょうか。

様々な異文化が共存している状態が当たり前で、
たとえば、各地域のイスラム教の礼拝施設を見せてもらうと、
それぞれの民族集団が持っている文化に根差した様々な外観をしていて、
言われなければそれがモスクだとは分からないくらいに土地に溶け込んでいました。

なお、公用語はインドネシア語ですが、
それを母語とする人々は比較的少数だそうで(多数派が牛耳ったわけではない)、
公用語となったのは、文法体系などがシンプルで学びやすい言語だからだろうとのこと。

未来へのヒントを惜しげもなく分け与えられたような時間でした。

思えば、これは旧中国における統治方法と一脈通ずるところもあるかもしれません。
前近代の中国と、その周辺地域との緩やかな関係性に近いものを感じます。
(強大な文明が中核にあるという点では中国は独特ですが。)

この科目は、こうした授業が必要だと思ったから自ら担当者となって作りました。
もとより、学術的な専門性という観点は敢えて持たない教養科目です。
再編後の教育課程からは消えますが、これが最後となる今学期、
学生たちの変化を丁寧に見守っていこうと思います。

2021年5月6日

同時代作品の援用

こんばんは。

共同研究で読んでいる『宋書』楽志二の、
成公綏の楽府詩「晋四箱歌十六篇」中の数篇の訳注を終えました。
西晋王朝の宮中で、元旦に歌われた雅楽の歌辞です。

書いてある内容は理解できるにしても、
踏まえている経書や先行作品があるようなないような、
そのあたりのところがはっきりしない表現が多くて往生しました。

明らかにそれとわかるような典故表現ではない、ということは、
すでにそうした発想が常識となっていたことを意味するのかもしれません。

そうした中で、少し引っかかっているのが、
同時代の文人の表現を援用したかと思われる辞句が散見することです。

たとえば、次の句に見える「仁風」という辞句について。

播仁風  仁愛あふれる風を広く吹きわたらせ、
流惠康  民への恵みをゆきわたらせる。

為政者の民への働きかけを風に喩えること、
そして、その為政者の働きは仁徳を基本とすることは、
当時の政治思想、及びその文学的表現においては常識に属することです。

ただ、「仁風」と熟した語句が、
皇帝の民に対する恵みと対句で用いられている例は、
同時代の応貞「晋武帝華林園集詩」(『文選』巻20)にいう、
「玄沢滂流、仁風潛扇(玄沢 滂く流れ、仁風 潛かに扇ぐ)」くらいでした。*1
(ただし、文字どおりの「管見の及ぶ限り」です。)

応貞のこの詩は、西晋王朝が成立してほどない泰始四年(268)、
武帝司馬炎の主催する、華林園での宴に参列した際に作られたものです。
(『文選』李善注に引く干宝『晋紀』及び孫盛『晋陽秋』)

この宴に招かれた群臣の中に、成公綏がいた可能性はないでしょうか。
もしそうならば、彼は同僚の応貞が作った詩の辞句を覚えていて、
宮廷雅楽の歌辞作成にそれを織り込んだのかもしれません。

いや、やっぱり、「仁風」と恵みとの対句は常識的な発想でしょうか。
応貞の詩と、成公綏の楽府詩との前後関係も不明ですし。*2

2021年5月5日

*1 「仁風」の用例として、曹植「娯賓賦」(01-17)に「聴仁風以忘憂兮(仁風を聴きて以て憂を忘る)」とありました。
*2 その後、成公綏の楽府詩は、泰始5年以降の成立だとわかりました(『宋書』楽志一)。ということは、応貞の詩の方が先行しています。

現代日本人の病

こんにちは。

昨日に続き、まだ一昨日見た映画「ブータン 山の教室」の余韻の中にいます。
半ばいたたまれない気持ちで見たシーンで、強く印象に残っているのが、
主人公をふもとの町まで迎えにきた村の若者の態度と科白です。

主人公である、やる気のない新任教員は、
若者と食事をともにするときも電子機器を手放しません。
そんな相手に対して、「先生はそれの名手ですね」といった風な言葉をかけます。
その目には、皮肉めいた意地悪な光など微塵も宿っていません。
静かに微笑んで、淡々としたものです。

また、もう一人の同行者の若者は、
旅の安全を祈願して、石を積んで神に祈り、主人公にもそれを促しますが、
やる気のない新任教員は、そんな神など信じてはいません。
すると、それを咎めるでもなく、「では私が代わりに」と石を積んでいくのです。

彼ら山の人々はなぜここまで純粋かつ強靭でいられるのか。
それは、山の精霊たちとともにあるという実感からではないかと思います。
(精霊という言葉は正確ではないかもしれませんが、人間を超えた存在という意味です。)

ひるがえって自分はどうか。
授業で学生たちにうまく言いたいことが伝わらなかった、
今年もゼミ生はだれもいないのではないか、
同僚に誤解されたのではないか、などといちいち憂えています。
要するに、考えても仕方がない他人の心に、勝手に振り回されているのです。
これは多かれ少なかれ、現代日本に生きる人間はみな罹っている病かもしれません。

あの山の人々のように、
自身を大いなる存在の中に置いて生きることができたなら。
思えば、これは中国の道家思想と共鳴しあう考え方だとふと気づきました。

2021年5月4日

天地の精霊に捧げる歌

こんばんは。

『宋書』楽志二所収の宮廷歌曲の歌辞に語釈を付けていった後、
一日の終わりに平賀周蔵の漢詩を読むのがこのところの日課になっています。

『宋書』楽志所収の楽府詩が典故表現を連ねていることは当然として、
今日は平賀周蔵まで典故をまるごと用いた詩を詠じていました。
「華表松(鳥居の松)」という詩が、
『捜神後記』所収の、次のような故事をまるごと踏まえるものだったのです。
丁令威という人が、仙術を学んで、鶴に姿をかえて故郷に戻り、
華表(街の標識)のあたりに飛び戯れていたところ、
若者に矢を射かけられ、空高く飛び去っていったという話です。

漢学の素養豊かな平賀周蔵にとって、
「華表」といえば、丁令威が彷彿として浮かび上がる。
それを踏まえて詩を作ることは一種の知的遊戯であったでしょう。

ただ、今日の私は、少し虚ろな心持ちでこの詩を読みました。
というのは、昨日、「ブータン 山の教室」という映画を見てしまったから。

この映画の中で、土地の歌を歌う女性が言った言葉が忘れられません。

(主人公に、どういうわけで毎日歌を歌っているのか聞かれて。)
「私は歌を天地の精霊、万物に捧げています。」
(更に、歌を捧げるとはどういうことなのかを聞かれて。)
「鳥は鳴くのに誰がどう思うかなんて考えないでしょう。私もそれと同じです。」

あまり正確な記憶ではありませんが、このような趣旨の言葉でした。

また、別の歌で「純粋な心」という言葉が繰り返されていたことも印象に残りました。

時代が下ってからも、先人の言葉によりかからず、
自身が眼前にあるものから直接素手で何かを掴みとってきたような詩は、
そこに天地の精霊が降りてきていたのかもしれません。
その言葉が生まれる瞬間、小さな自我は消え去っていたのではないでしょうか。

自身の言葉が、人間を超えた崇高ななにものかに捧げられる。
人が歌うというのは、本来このようなものであったのか、と打たれました。

2021年5月3日

李陵詩を踏まえた魏の詩

こんばんは。

昨日、郭遐周「贈嵆康詩三首」其三に、
蘇武「詩四首」其一の一句「四海皆兄弟」がまるごと取り込まれていることを指摘しました。

ですが、別れの場面という両作品共通の文脈は視界の外に置いて、
あれは『論語』顔淵篇からそれぞれ直接引用したものだと見る人もいるでしょう。
私自身も二割方はまだ疑問を残していると言いました。

郭遐周は本当に、蘇武の詩を知っていて、その中の一句を取り込んだのでしょうか。

そこで、「贈嵆康詩三首」の其一、其二についても見てみたところ、
其二の結びにいう次の句に目が留まりました。

言別在斯須  別れを告げるのは、ほんのわずかな時間の出来事で、
惄焉如調飢  憂えて思い焦がれる気持ちは、まるで朝食前の空腹のようだ。

下の句は、『毛詩』周南「汝墳」にいう、
「未見君子、惄如調飢(未だ君子を見ず、惄として調飢の如し)」を用いています。

一方、上の句は、『文選』巻29、李陵「与蘇武三首」其一にいう、
「良時不再至、離別在須臾(良時は再びは至らず、離別は須臾に在り)」、
「長当従此別、且復立斯須(長く当に此より別るべし、且く復た立ちて斯須せん)」を想起させます。*

特に、李陵詩の「離別在須臾」と、郭遐周詩の「言別在斯須」とは、
一句を構成する語の組み合わせ方がよく似ていて、
しかもこうした表現が認められるのは、意外にも現存する漢魏詩ではこの両者のみです。

こうしてみると、郭遐周「贈嵆康詩三首」其二は、
前掲の李陵「与蘇武」詩を踏まえたものと判断してよいでしょう。

そして、昨日見たとおり、其三には蘇武詩の一句がそのまま見えているのでした。
郭遐周はほぼ間違いなく、いわゆる蘇李詩を踏まえてこの別れの詩を作ったと見られます。
もしそうであるならば、魏の時代、すでに蘇李詩は成立しており、
しかも広く人々の間に流布していたということになります。

なお、更に少し前の建安詩においても、蘇李詩を踏まえたと見られる事例は少なくありません。
このことについては、こちらの論文№28、著書№4のp.258―264で論じています。
もしよろしければ、そちらをご覧いただければ幸いです。

ただし、『文選』巻29所収の李陵「与蘇武三首」及び蘇武「詩四首」蘇李詩と、
それ以外の蘇李詩との区別の問題は、未だ解明できていません。

2021年5月2日

*戴明揚『嵆康集校注』(中華書局、2014年)p.96は、「且復立斯須」のみを挙げ、「離別在須臾」には言及していない。

 

蘇武詩を踏まえた魏の詩

こんにちは。

応瑒「闘鶏詩」をきっかけに、「兄弟」という語を含む漢魏の詩歌を検索していて、
郭遐周という人の「贈嵆康詩三首」其三のある辞句に目が留まりました。*1
本詩の初めから6句を以下に示します。

離別自古有  離別は古来あるものだ。
人非比目魚  人は比目の魚ではないのだから。
君子不懐土  君子は土地にしがみついたりはしないものだ。
豈更得安居  どうしてこれ以上安穏とした暮らしをむさぼるものか。
四海皆兄弟  四海の内はみな兄弟だという。
何患無彼姝  かの忠義の人がいないなどと何の心配をすることがあろうか。*2

注目されたいのは、この第5句「四海は皆兄弟なり」です。
というのは、同一句が『文選』巻29、蘇武「詩四首」其一に見えているから。

この辞句は、『論語』顔淵篇に、
子夏が司馬牛を慰めて言う次の部分を踏まえています。

死生有命、富貴在天。
君子敬而無失、与人恭而有礼、四海之内、皆為兄弟也。
君子何患乎無兄弟也。

死生には運命というものがあり、富貴を決めるのは天である。
君子は敬虔な姿勢で落ち度がないようにし、人に対して恭順で礼儀正しくすれば、
世界中の人々は、みな兄弟となるのだ。
君子は、兄弟がいないなどと何の心配をすることがあろうか。

郭遐周の詩は、「四海皆兄弟」に続く「何患無○○」も、前掲の『論語』を踏まえています。
また、その三句目「君子不懐土」も、『論語』里仁篇にいう、
「君子懐徳、小人懐土(君子は徳を懐ひ、小人は土を懐ふ)」をひねったものです。
ですから、「四海皆兄弟」の典拠として、『論語』が真っ先に挙げられるのは当然でしょう。*3

それでも、郭遐周の詩は八割がた、蘇武詩を念頭に置いているだろうと私は判断します。
なぜならば、この詩が離別を詠ずるものだからです。

前掲の『論語』顔淵篇には、この要素がありません。
他方、蘇武の詩は、李陵との離別を背景に設定して作られたものです。
(実際に蘇武が作ったわけではないことは、今は措いておきます。)

郭遐周は、嵆康との別れに際して、
蘇武が李陵に送った別れの詩を踏まえた詩を贈ったのでしょう。

2021年5月1日

*1 引用は、『詩紀』巻18所収テキストに拠った。
*2 『毛詩』鄘風「干旄」に「彼姝者子、何以畀之(彼の姝なる者は子、何を以てか之に畀(あた)へん」、毛伝に「姝、順貌。畀、予也」、鄭箋に「時賢者既説此卿大夫有忠順之徳、又欲以善道与之。心誠愛厚之至(時に賢者は既に此の卿大夫の忠順の徳を有するを説(よろこ)び、又善道を以て之に与へんと欲す。心は誠に愛は厚きの至れるものなり)」と。戴明揚『嵆康集校注』(中華書局、2014年)p.97の語釈に導かれた。
*3 前掲の戴明揚『嵆康集校注』p.97に、“『論語』:「子夏曰:『四海之内、皆兄弟也。』”と。

第三人称で詠ずる詩

こんばんは。

昨日言及した応瑒の「闘鶏詩」(『藝文類聚』巻91)の中に、
「兄弟は戯場に遊び、駕を命じて衆賓を迎ふ」という句がありました。
この「兄弟」とは、曹丕・曹植ら兄弟を指すのでしょう。*1

ただ、応瑒と曹氏兄弟との関係性から言って、
「兄弟」という語が用いられていることに少しく違和感を覚えました。

応瑒は、曹操に召されて丞相掾属となってから、平原侯(曹植)の庶子となり、
後に、五官中郎将(曹丕)の文学に遷っています。(『三国志』魏書巻21・王粲伝)

曹植が平原侯となったのは建安16年(211)、
同年、曹丕は五官中郎将・丞相副となり、建安22年(217)に太子となっています。

すると、応瑒から見て、曹植や曹丕は上司に当たるような存在です。
そうした二人を、「兄弟」という語で呼んでも不都合はなかったのでしょうか。

「兄弟」という語は、詠み人知らずの楽府詩(古楽府)には割合よく見かけます。
たとえば、「相和・鶏鳴」(『宋書』巻21・楽志三)に、*2
 「兄弟四五人、皆為侍中郎(兄弟四五人、皆 侍中郎と為る)」、
「相逢狭路間(相逢行)」(『玉台新詠』巻1)に、
 「兄弟両三人、中子為侍郎(兄弟両三人、中子は侍郎と為る)」、
「艶歌行」(『玉台新詠』巻1)に、
 「兄弟両三人、流蕩在他県(兄弟両三人、流蕩して他県に在り)」、
「古上留田行」(『文選』巻28、陸機「豫章行」李善注)に、
 「兄弟有両三人、小弟塊摧独貧(兄弟両三人有り、小弟は塊摧して独り貧し)」のように。
こうしてみると、この語は割と類型化された文脈上に登場するようです。

一方、応瑒「闘鶏詩」の「兄弟」は、これとは違ってリアルな兄弟を指すようです。
そして、その言葉で眼前の兄弟二人に向かって呼び掛けているのではなく、
第三人称でその存在を淡々と指示しているようなスタンスです。

「闘鶏詩」は、曹植、応瑒、劉楨の作品が残っているのでしたが、
劉楨も、かつて応瑒と同じく平原侯曹植の庶子でした。(『三国志』魏書巻12・邢顒伝)
そうすると、この三人の作は同じ機会に作られた競作である可能性もありますが、
それにしては、応瑒の詩はその詩作のスタンスがどこか冷やかです。
考察の見通しも何もない、あるのは印象だけですが。

2021年4月30日

*1 林家驪『阮瑀応瑒劉楨合集校注』(河北教育出版社、2013年)p.62も、曹丕・曹植兄弟二人を指すとする。
*2 以下、出典は最も古いものを挙げた。この時代の詩歌を網羅的に集めた逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1984年第2次印刷)でのページ数を挙げれば、「相和・鶏鳴」p.258、「相逢狭路間(相逢行)」p.265、「艶歌行」p.278、「古上留田行」p.288である。

 

闘鶏観戦と物寂しさ

こんばんは。

昨日、曹植「闘鶏」(05-04)を読み始めました。
この詩は、古くは『藝文類聚』巻91に収録されていますが、
そこには、劉楨や応瑒の、同じ題目の作品もあわせて収載されています。*

そこで目に留まったのが、応瑒の詩の最初に見える次のような句です。

戚戚懐不楽  びくびくと恐れつつ心中は楽しまず、
無以釈労勤  疲労を解きほぐすすべもない。
兄弟遊戯場  兄弟(曹丕・曹植ら兄弟か)は遊戯場に遊び、
命駕迎衆賓  御者に命じて馬車の準備をさせ、賓客たちを迎えにいかせた。

曹植の詩の冒頭にも、次のようにあります。

遊目極妙伎  目を遠くへ遊ばせて、舞踊の妙技を眺め尽くし、
清聴厭宮商  耳を澄ませて、飽きるほどに音楽を聴き尽くした。
主人寂無為  主人は、ひっそりとした心持ちで何もすることが無く、
衆賓進楽方  賓客たちは楽しみの方法を進言した。

両詩とも、この後に闘鶏の場面の激烈な描写が続くのですが、
その前に、こうした物寂しい心情描写が置かれていることに意表を突かれました。
これはどういうわけなのか、心にとめておこうと思います。

なお、もう一人の劉楨の詩には、こうした要素は認められません。
応瑒や曹植のような表現は、当時として一般的であったとも言えないようです。

2021年4月29日

*三者を比較する論が、鈴木修次『漢魏詩の研究』(大修館書店、1967年)p.602~603、p.634~635に見えているが、ここに書き留めた部分は取り上げられていない。

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