後漢末の儒者の野性味

こんばんは。

昨日言及した『後漢書』蔡邕伝に、次のような逸話が載っています。

蔡邕の隣人が、酒食の席を設けて彼をもてなそうとした。
ところが、蔡邕はその門前まで来て、奏でられる琴の音に殺気を感じて引き返す。
それは、琴を奏でる人が、カマキリに狙われている蝉を見て恐れおののき、
その気持ちが琴の音色に出ていたのであった。
蔡邕はこれを聞くとにっこりと笑い、そういうことだったのか、と言った。

音を聞いただけで、それを奏でる人の心のあり様が感じ取れる。
その直観に基づいて、迷うことなく自分本位の行動を取る。
謎が解けたあとは、自分の勘違いをさらりと認めて流す。

研ぎ澄まされた、融通無碍な精神のあり様に、しなやかな野性味を感じます。

そういえば、あの大儒者鄭玄も、私たちの意表をつくような人物像です。
彼は、身長180cm余り、大酒飲み、眉目秀麗、温和なたたずまいだったそうですが、
加えて様々な学芸に通じた通人で、招かれた袁紹の宴で一座の人々を驚かせたといいます。
(『後漢書』巻35・蔡邕伝)

儒学者というと、私たちはつい頭の硬そうな人を想像しますが、
当時の儒者は、もっと自由闊達な雰囲気を纏っていたように感じられます。
彼らは、硬軟両方の世界に通じた人々でした。

2021年3月9日

後漢時代の儒者と通俗文芸

こんばんは。

曹植文学に関する、余冠英の概説論文にこうあります。

“通俗”は、当時(建安期)の新興階級の文人たちに見られる進歩的傾向で、
後漢の霊帝期にはすでにそれが認められたが、
保守的な旧階級に属する文人、たとえば蔡邕はこうした傾向に反対した。
(詳しくは『後漢書』蔡邕伝に見える。)*1

『後漢書』巻60下・蔡邕伝を通覧しましたが、
彼が文学的新潮流である通俗性を批判したような記事は見出せず、
もっぱら現実社会と切り結んで生きた儒者の、波乱万丈の生涯が記されていました。

他方、蔡邕と建安文人たちとの関わりを指摘するのは、岡村繁の所論です。*2

さて、『文選』巻27に詠み人知らずとして収載される古楽府「飲馬長城窟行」は、
『玉台新詠』巻1では、蔡邕の作だと明記されています。
『玉台新詠』に記す作者名には、それ相当の根拠がありますので、*3
この楽府詩が蔡邕の手になるとは、あながち荒唐無稽な説だとも言えません。
そして、本作品は次のとおり、余冠英が通俗的とした古詩を濃厚に反映するものです。*4

青青河辺草  青々と茂った川辺の草をながめつつ、
緜緜思遠道  連綿と続く遠い旅路にあるあの人に思いを馳せる。
遠道不可思  遠い旅路にある人に、思いを致すことはできないのだけれど、
夙昔夢見之  昨晩、夢の中でお会いした。
夢見在我傍  夢の中ではまるで私のすぐ傍にいるようだったのに、
忽覚在佗郷  ふと目覚めてみればあの人は見知らぬ土地にいるのだった。
佗郷各異県  見知らぬ土地とこちらではそれぞれ県も違っているし、
輾転不可見  転々と居所を移すあの人とは、お会いすることもかなわない。
枯桑知天風  枯れた桑の木でさえ空に吹き渡る風を感知するし、
海水知天寒  広大な海の水でさえ寒い季節の到来を察知するものだ。
入門各自媚  だが、人々は門を入るや口々に空疎なお愛想を言うばかりで、
誰肯相為言  誰も敢えて私のために言葉をかけてくれようとはしない。
客従遠方来  そこへたまたま遠方から旅人がやってきて、
遺我双鯉魚  私に二尾一対の鯉を送り届けてくれた。
呼児烹鯉魚  童子を呼んで鯉を煮るように言いつけたところ、
中有尺素書  その中に一尺の白絹にしたためた手紙が入っていた。
長跪読素書  ひざまずいて白絹の手紙を読んだところ、
書上竟何如  手紙には、さていったいどのように書かれていたかというと、
上有加餐食  初めには、しっかりご飯を食べるようにとあり、
下有長相憶  最後には、いつまでもあなたのことを思っているとしたためられていた。

後漢時代の儒者たちは、必ずしも儒学一辺倒ではありません。*5
人の世の推移は、ページがめくられるようにぱらりと切り替わるわけではなくて、
様々なシーンが重層的に共存しつつ推移していくものだと思います。

2021年3月8日

*1 余冠英「建安詩人代表曹植」(『漢魏六朝詩論叢(中華現代学術名著叢書)』商務印書館、2016年)p.75を参照。
*2 岡村繁「蔡邕をめぐる後漢末期の文学の趨勢」(『日本中国学会報』第28集、1976年)を参照。
*3 こちらの論文№14、著書№4のpp.24―27を参照されたい。
*4 この楽府詩における古詩の影響については、論文№30、前掲の著書pp.351―353を参照されたい。
*5 論文№25、前掲の著書pp.388―401を参照されたい。

文学を俯瞰する視点

こんばんは。

一昨日話題にした、文学は俯瞰できるかという問題。
私は、そのこと自体は可能だと考えます。
ただ、文学の歴史を捉え、語る上で、その視点が重要だと思うのです。

たとえば、人類の歴史はある方向に向かって流れていると捉え、
(こうして捉えられる人類史には、精査されていない前提が多く紛れ込んでいます。)
その大きな流れの中に、個々の作者や作品を位置付けるという方法は、
その大きな視点を持ち得ない私には不可能です。
(幾多の史料や作品を読み込んだ大学者は話が別だと思いますが。)

以前、平安朝の大江千里『句題和歌』を論じたことがあります。(こちらの№23)
千里は、漢詩句を題に掲げてそれを和歌に翻案する、
いわゆる句題和歌という新しいジャンルを創始した歌人ですが、
本歌集は、この分野の初期作品だけに、漢詩直訳調で完成度が低いとされています。
ですが、作品を評価することよりも(どの地点からの評価でしょうか)、
なぜ彼がそのような新しいスタイルの歌を創始したのか、
そちらの方が、よほど重要なのではないかと私には思われてなりませんでした。

彼は、和歌の世界に新風を巻き起こそうとして「句題和歌」を創始したわけではありません。
自らを苦境から救い出すために、この諧謔的なスタイルを作り出したのです。

個々人の生の証として残された文学作品。
それらを作者の立ち位置に寄り添って精読していくと、
その作者が新しい表現を創出しないではいられなかった必然性が見えてきます。
そして、その思いを受け取った別の誰かが、敬愛の気持ちとともにその表現を継承する、
その手渡されてゆく言葉のリレーをたどることこそが、
文学史研究なのだと私は考えています。
(同様のことは、こちらの著書№4の終章でも書いています。)
繰り返し同じことを言うようで恐縮ですが、これは一貫した思いです。

2021年3月7日

外国文学との戯れ

こんにちは。

江戸時代後期の広島の漢詩人、平賀周蔵の詩を少しずつ読んでいます。
来年度の公開講座に向けて、いわば“お仕事”として始めた読書ではあるのですが、
日々この漢詩人に会うのが楽しみになってきました。たとえば、

江戸時代の宮島には、石風呂というサウナのような施設がありましたが、
これに入ってみたら、十日余りで持病が治ったので、戯れに詠じたという詩があります。
(『宮島町史 地誌紀行編Ⅰ』(宮島町、1992年)所収『藝藩通志』巻32)
その長い詩題の中に自ら「其の語は俗に近く、其の調は俳に類す」と言うとおり、
実にのびのびと漢語と戯れているような作風の詩です。

一例として、洞窟の中に燃え盛る炎を描写した後に続く句、
「莫是玉石倶焚灼(是れ玉石の倶に焚灼せる莫からんや)」について。

「玉石倶焚灼」は、
『書経』胤征にいう「火炎崑岡、玉石倶焚(火は崑岡に炎え、玉石倶に焚く)を踏まえます。
「玉石倶焚」とは、善悪の区別なく災難に巻き込まれることを意味し、
五経のひとつである『書経』に出るだけに、元来はまじめなことを言っているのです。

ところが、平賀周蔵の詩では、この上に「莫是」が来ます。
「まさか~というわけでもあるまい」「あるいは~かもしれない」という語感の俗語です。

「まさか玉と石とが一緒に焼かれているのではあるまいな。」

炎を前にして、たぶん大真面目な表情でこう詠ずる彼は、
内心、こみあげてくる笑いにお腹のあたりを揺さぶられていたかもしれません。
彼は日頃から読んでいる『書経』を取り上げ、これと戯れています。
そして、その戯れを、外国文学である漢詩の中で自在に表現しているのです。

以前目に留まった鈴木虎雄『陸放翁詩解』(弘文堂書房、1950年)の序文にこうあります。

 漢字そのものまで放逐してしまえという議論のある時代に一国人が他国の詩を作るなどということは無用のことの様である。しかし智識を世界に求めて自国のすぐれた文学を興そうとするならば他国の文学をよく理解するという必要があるのである。他国の文学をよく理解するには仮りに他国人の地位に置いて之を自ら製作してみる必要もある筈である。(漢字かなづかいは現代のものに改めた。)

平賀周蔵の詩を詠んでいて、これをふと思い出しました。
漢詩の作れない私にできるのは、すばらしい先人たちを敬愛することだけです。

2021年3月6日

文学作品を俯瞰できるか

こんばんは。

先日来ゆるゆると読んできた『文選』巻29所収の曹植「朔風詩」、
本日やっと李善注に従っての語釈を終えましたが、肝心の本文がよく読めません。

李善が珍しく「言ふこころは」云々と句の解釈を示しているのは、
それなくしては読者が意味をよく掴めないからでしょう。

また、本詩の成立年代に関して、先行研究に諸説があることも、*1
本作品の難解さを物語っているようです。

とはいえ、この詩が建安年間の作ではないことは明瞭に看取されます。
本作品が、曹植の後半生、その苦境の中で作られたものであることはほぼ確実でしょう。

艱難の中で詠じられた詩と言えば、阮籍(210―263)の「詠懐詩」八十四篇が思い浮かびますが、
この作品も、比較的近い時代の顔延之(384―456)や沈約(441―513)にとってさえ、
「難以情測(情を以て測り難し)」だったといいます(『文選』巻23李善注所引)。

その真意がつかみにくいという点では、阮籍詩も曹植詩も同じです。

ところで、吉川幸次郎の所論に、阮籍「詠懐詩」についてこう書かれています。
「もはや従来の五言詩のように個人的な哀歓ではない。ひろく人間全体にひろがる問題である。」*2
そして、曹植ら建安詩人たちの作品は「個人の哀歓を主題とする」傾向が強いとしています。

吉川論文は、阮籍「詠懐詩」が「五言詩の歴史の上にしめる地位を明らかにしようと」したものです。
だから、いきおいこのような書き方になるのでしょう。

けれども、地を這うような歩みで曹植作品を読み進めている自分は、
固有の人物の切実な思いを、そんな風に高いところから俯瞰したくないと感じてしまうのです。

2021年3月5日

*1 黄節『曹子建詩註』(中華書局、1973年)巻1、p.46―49、伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.99―107を参照。
*2 吉川幸次郎『阮籍の「詠懐詩」について 附阮籍伝』(岩波書店、1981年)p.32を参照。本論文は『吉川幸次郎全集』第七巻所収。初出は『中国文学報』第5冊、1956年10月、及び第6冊、1957年4月。

曹植は政治的野心家か?

こんばんは。

曹植文学を概観した余冠英「建安詩人代表曹植」に、次のような内容の論述が見えています。*

曹植はたいそう手柄を上げることに熱心だった人で、死後の名声を強烈に追求した。
彼の第一の志望は、政治上において功績を打ち立てること、
その次には、学術上において貢献すること、
最後にやっと、ひとりの文学者たることである。
だが、結局はなお文学に敬意をもち、文学でも人は不朽の存在となれると考えた。
だから、皇帝を補佐することが挫折して後は、文学によって後世に名を残そうと決心した。

この論述部分には、曹植の「与楊徳祖書」や「薤露行」の句が織り込まれていますが、
今、その用い方の妥当性については措いておくこととします。

ただ、本当にそう言えるだろうか、と思わず立ち止まったのは、
曹植を政治的野心家だとする余冠英の見方に対して、いくつもの反証が思い浮かんだからです。

たとえば、曹植二十歳頃の逸話として、
冷静沈着な人格者で、毅然とした態度で曹植に接する家丞の邢顒を煙たがり、
文学的才能にあふれた庶子の劉楨と親しく交わって、却って劉楨にたしなめられたとあります。
(『魏志』巻12・邢顒伝)

この曹植の至らなさは、まだ彼が若かったからだとも言えますが、
その後、側近たちが曹植を、父曹操の後継者として強く推すようになっても、
その贈答詩や「与楊徳祖書」を見る限り、彼の意識は文学に向っているように感じられます。

この点、彼は兄の曹丕とは振る舞い方が異なっていると言えます。
たとえば曹丕は、自身の地位を固めるため、賈詡に助言を求めたりしていますから。
(『魏志』巻10・賈詡伝)

曹植はどのような契機から、現実社会での勲功を強く求めるようになったのでしょうか。
それ以前に、そもそも人間は一貫して変わらない存在なのでしょうか。

2021年3月4日

*余冠英「建安詩人代表曹植」(『漢魏六朝詩論叢(中華現代学術名著叢書)』商務印書館、2016年)p.75を参照。

蛇行する思考

こんばんは。

一般に、曹植は魏王朝が成立して以降、ずっと不遇だったとされています。
たしかに、文帝曹丕、明帝曹叡の治世年間(曹植の年齢は29歳から41歳で没するまで)、
彼は王室の一員でありながら、王朝の運営に積極的に関わるということが許されませんでした。

ただ、同じく不遇とはいっても、
文帝期と明帝期とでは、彼の気持ちのあり様はかなり異なっていると窺われ、
その一例として挙げることができるのが、これまでにも何度か言及した「惟漢行」です。

この楽府詩に詠われたような、為政者に対する意欲的な訓戒は、
その言論が厳しく監視されていた文帝期には、およそ為し得ないものでした。
「惟漢行」は、文帝期から明帝期に移行して間もない時期に成った作品なのだと私は見ます。
このことは、かつてこちらでも述べました。

では、曹植は、兄の文帝曹丕や甥の明帝曹叡に対して、どんな思いを抱いていたのでしょうか。
自身を劣悪な環境に捨て置いたまま、力を発揮する場を与えない君主にして骨肉。
彼らのことを曹植は恨みに思っていたのでしょうか。

制作年は不明ながら、曹植は次のような「楽府歌」(『曹集詮評』巻5)を残しています。

膠漆至堅  膠(にかわ)と漆(うるし)とは、この上なく堅固に結びあうものだが、
浸之則離  これを水に浸したならば、両者は離れ離れになる。
皎皎素絲  真っ白に輝く、まだ染めていない絹糸も、
随染色移  染めるに従って色が移ってゆく。
君不我棄  貴方様が私を見捨てたのではなくて、
讒人所為  讒言した者のせいで私たちは引き裂かれたのだ。

「膠漆」「素絲」といった言葉から、捨てられた女性の怨みを詠じたものと見られますが、
それに仮託して、君主に容れられない苦しみを詠じているようにも読めます。

「君」が誰を指しているのかはわかりませんが、
もしこれが魏王室の皇帝(文帝か明帝)を言っているのだとすれば、
曹植は、自分と君主との間を、第三者の讒言が切り裂いたのだと捉えていたことになります。

すでに述べたこと、また、曹植研究においては常識的なことも一部に含んでいますが、
新しく巡り合った作品に言及しながら、少し振り返ってみました。

2021年3月3日

万人に言えること

こんばんは。

『曹集詮評』のテキスト校勘を少しずつ進めています。
曹植の作品は、唐宋時代の類書に引かれて伝わっているものがかなり多く、
そうしたテキスト間には、細々とした文字の異同が交錯していて、
それらをひとつひとつ確認していくのは、実に細かい神経を要する作業です。
この作業に用いた目をふと日常生活に振り向けてみると、愛すべきテキトウだらけですね。

また、文学作品を読むときは、
細かい周波数のアンテナを張って、言葉の端々から様々なものを読み取りますが、
このアンテナも、そのまま日常生活に対して向けるとたいへんなことになってしまいます。

文学研究という姿勢をそのまま社会生活に持ってくると、不都合なことが多いかもしれません。
だから、普段の生活では、スイッチを切っておいた方が安らかでいられます。

けれど、別の見方をするならば、
日常生活では何かと不都合なこうした性質も、文学研究にはプラスに活きると言えます。

どんな性質も、それ自体がダメだというものはないと思います。
欠点を矯正して生きやすい人生を往くよりも、
その特性にもっと磨きをかけた方がずっといいと思う。
その際に必要なのは、自らが知る自身の価値、本当の意味でのプライドです。

2021年3月2日

『文選』の伝播力

こんばんは。

曹植「朔風詩」(『文選』巻29)の中に、次のような対句があります。

昔我同袍  昔 我らは袍を同じくせしも、
今永乖別  今 永(とこしへ)に乖(そむ)き別(わか)る。

この上の句を、多くの先行研究は「昔 我が同袍」と読んで(解釈して)います。
この読みは妥当でしょうか。

『文選』李善注の指摘によれば、
「同袍」は、『毛詩』秦風「無衣」に見える次の句を踏まえています。

豈曰無衣  どうして衣が無いなどというものか、
与子同袍  そなたと綿入れを共にしよう。

これに基づくのならば、「同袍」を「袍を同じくす」と読んでもよいはずです。
ではなぜ、多くの先人が「同袍」と名詞化して捉えたのでしょうか。

この句を含む四句一聯に対して、
(前掲の対句の前に「千仞易陟、天阻可越(千仞も陟り易く、天阻も越ゆ可し)」とあります。)
盛唐に成った『文選』五臣注のひとつ、張銑の注が次のような注釈をつけています。

言険事亦易為也、而嗟我兄弟乖別。同袍、共被之義。
言ふこころは、険事も亦た為し易きなり、而して我が兄弟の乖別するを嗟く。
同袍は、被を共にするの義なり。

これに拠って、唐代以降、「同袍」を、兄弟の意とする解釈が定着していったのしょう。

なお、漢魏晋南北朝時代の詩において、「同袍」という語の用例は、
この曹植「朔風詩」と、
同じ『文選』巻29所収の「古詩十九首」其十六にいう
「錦衾遺洛浦、同袍与我違(錦衾 洛浦に遺れ、同袍 我と違ふ)」の2例のみですが、*
これが唐代に入ると格段に増えます。
そして、その多くは、兄弟、もしくは夫婦の意味で用いられているようです。
兄弟の意は曹植「朔風詩」から、夫婦の意は「古詩十九首」其十六から出たものでしょう。

唐代の知識人たちは『文選』を基本的教養として学びましたから、
そこで用いられている語句は、彼らの間に広く深く浸透していったと思われます。

「同袍」という語の意味的展開と定着は、
『文選』を経由してこそ起こった出来事であると考えます。

2021年3月1日

*逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』の電子資料(凱希メディアサービス、雕龍古籍全文検索叢書)によって確認した。

言葉の外にある思い

こんばんは。

文学研究上(自由な読書とは別に)作品を読んでいると、
その言葉の向こう側に、作者の思いが透いて見えるときがあります。
でもそれは、作者の言葉を起点に引いた推測の線上に浮かび上がってくるのであって、
その作品を離れて、読者がまったく自由に思い描いたものではありません。
このことを、昨日に続き、曹植「惟漢行」を例に述べてみます。

この作品の最後の一段四句は、昨日挙げた二句を含めて次のとおりです。
(作品全体については、こちらの訳注稿をご覧ください。)

在昔懷帝京  その昔、帝都の有り様を懐かしく思い起こせば、
日昃不敢寧  今は亡き先代は、日の傾くまで敢えて休息もせず人材登用に努めたものだ。
濟濟在公朝  その結果、立派な人士たちが威厳をもって朝廷に居並び、
萬載馳其名  永遠にその名声を馳せることになったのだ。

二句目が『書経』無逸篇を踏まえることは昨日も述べたとおりですが、
この句の「寧」、及びこれに続く句の「済済」の出典は、
『詩経』大雅「文王」にいう「濟濟多士、文王以寧(済済たる多士、文王は以て寧し)」、
そして、「済済たるは公朝に在り」という状況が出現したのは、
『史記』周本紀の記事から、賢者に対する君主の手厚い待遇によるものと知られます。

さて、ここで目に留まるのは、
『詩経』における周文王は安寧な心持ちでいるのに、
曹植「惟漢行」で周文王になぞらえられた人物(曹操)は、敢えて安寧ではないことです。
これはどういうわけか。

先代の曹操は、人材登用の現状に安住せず、この課題に尽力し続けていた。
曹植はこのことを、『詩経』との間に敢えてズレを生じさせることで表現したのでしょう。

曹植のこの詩の趣旨は、昨日も述べたとおり、
自身を周公旦になぞらえながら、周文王に相当する曹操の偉業を顕彰しつつ、
成王に重なる、即位して間もない明帝曹叡を戒めるということでした。

ならば、曹植「惟漢行」の末尾四句は、
明帝に対して、一層の人材登用に努めるように進言したものと読めます。

そして、ここからは一歩踏み込んだ推測ですが、
その登用されるべき人材の中には、自分たち諸王が含まれていたかもしれません。

曹植「惟漢行」の制作は、明帝の太和元年(227)秋からほど近い時期と推定されますが、
(このことは、すでにこちらで述べています。)
曹植はその翌年、「求自試表」(『魏志』巻19陳思王植伝、『文選』巻37)を著し、
自身の立場に相応しい役割を与えられたい旨、明帝に訴えています。

こうしてみると、上述の推測はあながち外れてもいないように思います。

2021年2月28日

1 33 34 35 36 37 38 39 40 41 80