典故表現のレベル

こんばんは。

標題に挙げた「典故表現のレベル」とは、
典故(古典に出る語や故事)を踏まえた表現の完成度をいうのではありません。
そうではなくて、
典故のどの局面・レベルを踏まえているのかという点は、
作品を読む上で重要なカギを握っている場合があるということです。
といっても、これでは通じないと思うので、以下、例を挙げて説明します。
(ここに示す事例は、すでに何度か論及したことがあるものですが、視角を変えて改めて)

たとえば、曹植「惟漢行」の結びに見える次の二句です。
(詩全体の通釈と語釈はこちらをご覧ください。)

在昔懷帝京  その昔、帝都の有り様を懐かしく思い起こせば、
日昃不敢寧  今は亡き先代は、日の傾くまで敢えて休息もせず人材登用に努めたものだ。

このフレーズは、『書経』無逸篇に、周文王の事績について、

自朝至于日中昃、不遑暇食、用咸和萬民。
朝より日の中昃に至るまで、食に遑暇(いとま)あらず、用て咸(ことごと)く万民を和す。

と記すのを踏まえています。

ただ、重要なのは、踏まえられているのが周文王の故事だということのみではありません。
それ以上に、その故事を記したのが誰であるかということに注目したいのです。

『書経』無逸篇は、周公旦が、幼くして即位した成王を戒めるべく著したもので、
その訓戒のために引用されたのが、周文王の逸話です。

周公旦は、周文王の息子であり、成王の叔父に当たります。
そして、この血縁関係は、曹植と、曹操と、明帝曹叡との関係にぴったり重なります。
曹植が「惟漢行」で『書経』無逸篇を踏まえる表現をしたということは、
「惟漢行」において、曹植は自らを周公旦に重ねているということにほかなりません。

すると、前掲「惟漢行」の二句は、

作者の曹植が、自らを周公旦の位置に置き、
周文王に相当する曹操(父)の故事を引きながら、
成王に相当する、即位したばかりの明帝(甥)に対して、
君主たる者の心構えを説いたものである、と読むことができます。

『書経』無逸篇は、誰が、誰に対して、誰の故事を、何のために説いたのか。
これらを丸ごと押さえてこそ、前掲の曹植詩の二句を的確に読み解くことができます。
周文王の故事を踏まえているという点だけでは、上述の推測が導き出せるわけではありません。

そして、このことは当然、曹植「惟漢行」の全体に及ぶものです。
たとえば、本詩はその前半、なぜか、君主たる者の心構えを説いていますが、
その理由は、もうすでに明らかでしょう。

「惟漢行」の末尾に見える典故表現を、上述のような視角から捉え、
このことを梃子として詩の全体像を眺めわたす、そうしてこそ、
曹植がどのような思いから「惟漢行」を詠じたのか、その真意を捉えることができるのです。

2021年2月27日

愛ある査読

こんばんは。

先週、ある学会の学会報編集委員会に初めて出席しました。

事前に、すべての投稿論文について、寄せられた査読コメントを全員で共有し、
それに基づいて、出席者全員で掲載不掲載を検討していったのですが、
感激したのは、善意あふれる査読コメントが多かったことです。

後日、ある査読者にそのことについてお礼を述べると、
自分はある学会誌に投稿して、いただいた査読コメントが本当にありがたかった、
だから、自分も同じようにしたいと思った、とのことでした。

このような善意の循環があれば、学会も健やかに存続していけると思ったことです。

掲載されることとなった論文であっても、そうでなくても、
この学会の編集委員会は、実に真摯に投稿論文に向き合っているのだと知りました。

更に、原稿が無いと最終的な判断が難しい場合があるから、
今後は事前にすべての投稿論文を電子化して共有してはどうか、という動議も出されました。
なんという誠実さでしょう。

すべての学会報がそのようであるかどうかはわかりませんが、
投稿論文がたとえ不掲載となっても、若い人たちには、めげずに再投稿してほしい。
と同時に、自分も愛ある査読をしていきたいものだと強く思いました。

2021年2月26日

 

似ている言葉

こんばんは。

曹植「愁霖賦」(『曹集詮評』巻2)は、
「迎朔風而爰邁兮(朔風を迎へて爰に邁く)」という語に始まります。

ちょうど今読んでいる「朔風詩」(『文選』巻29)の冒頭にも、
「仰彼朔風、用懐魏都(彼の朔風を仰ぎて、用て魏都を懐ふ)」とあります。

では、同じ「朔風」という語が使われていることを根拠に、
両作品が、同じ時期の、同じ背景のもとに生まれたものだと言えるでしょうか。
一語の一点が共有されているからと言って、そんな判断はできません。
言葉は基本みんなのものですから、このレベルの一致は他にいくらでもあるでしょう。

他方、「朔風詩」は、「失題」(『曹集詮評』巻4)、「雑詩六首」其一(『文選』巻29)、
そして、「贈白馬王彪」(『文選』巻24)に共通する要素を持つと先に述べました
そう判断したのは、複数の言葉が組み合わさって成る発想の類似性からです。

なお、「愁霖賦」を伝える『藝文類聚』巻2には、
曹植の作品以外に、曹丕、応瑒の同題目の作品も収録されています。
題目を同じくする作品が複数名の文人に見られる場合、多くは競作されたと考えられます。
そして、応瑒の没年(217)から、この賦の成立は建安年間と推定できます。
出征の途上で設けられた宴席での作でしょうか。

一方、「朔風詩」に描かれているのは、南北に引き裂かれた者の離別の悲哀です。
その成立年代は、その内容から見て、建安年間とは思われません。

今述べたこの部分、これが第三者にも通じるように説明できればよいのですが。

2021年2月25日

 

変身する話

こんばんは。

『文選』李善注を読んでいて、とても魅力的な話に行き合いました。
『淮南子』俶真訓に見える次のくだりです。*1
(切り取り方に、少し無理があることをご容赦ください。)

たとえば夢の中で鳥となって空を飛び、夢の中で魚となって淵の底に沈み、
その夢をみているときは、それが夢であるとはわからず、
目覚めてからそれが夢であったとわかるのだ。
今まさに大いなる覚醒があって、
その後に今のこのことが大いなる夢だとわかろうというものだ。

万物生成の始め、自分が未生のときは、どうして生が楽しいとわかっただろうか。
今自分は未だ死んではいない、それならまたどうして死が楽しくないとわかるだろうか。
昔、公牛哀は身体の転化する病にかかって、七日で虎と化した。
その兄が戸を閉じて中に入り、これを覗いたところ、虎は襲い掛かって彼を殺した。
だから、表皮の文様が獣となり、爪や牙が獣のそれに変化して、
志向が心の臓と共に変易し、精神が肉体とともに形を変えてしまって、
その虎であるときは、自分がかつて人であったことがわからず、
その人であるときは、自分がしばし虎となっていたことがわからないのである。

この公牛哀の故事は、『荘子』斉物論篇に見える胡蝶の夢と同趣旨です。
そればかりか、その前の記述にも『荘子』とほぼ同じフレーズが散見します。
前漢の『淮南子』が、先秦時代の『荘子』を踏まえたことは間違いないでしょう。*2

他方、『淮南子』に見える公牛哀の故事は、
後漢の王充『論衡』の無形、奇怪、遭虎、論死、死偽の各篇に引用されています。*3
特段の説明もなく言及されることから、当時広く知られた故事だったように看取されます。
(あるいは、王充によほど気に入られた話だったのかもしれません。)

現実世界とその外と、彼我の境界を踏み越えていく思想。
覚醒した目で、この世での出来事はすべて夢なのだと言い切る哲学。
こんなものの見方もあるのだと、『淮南子』を学生たちに紹介しようと思いました。
(類似する内容の書物は他にもありますが、出会い頭のご縁ということで)

ところで、『文選』巻29の李善注は、
曹植「朔風詩」の一句「四気代謝」に対する注釈として、
前掲『淮南子』の文章に続く「二者代謝舛馳(二者は代謝して舛馳す)」を挙げています。
ここにいう「二者」は、変化して入れ替わる人と虎とを指しているので、
用例としては、あまりぴったりとしないように思うのですが、いかがでしょうか。
もしこう質問したら、李善はどのように返答されるでしょうか。

2021年2月24日

*1 原文は以下のとおり。
譬若夢為鳥而飛於天、夢為魚而没於淵、方其夢也、不知其夢也、覚而後知其夢也。今将有大覚、然後知今此之為大夢也。始吾未生之時、焉知生之楽也。今吾未死、又焉知死之不楽也。昔公牛哀転病也、七日化為虎。其兄掩戸而入覘之、則虎搏而殺之。是故文章成獣、爪牙移易、志与心変、神与形化、方其為虎也、不知其嘗為人也、方其為人也、不知其且為虎也。
*2 何寧『淮南子集釈』(中華書局、1998年)を参照。
*3 この故事が『論衡』に引用されていることは、前掲『淮南子集釈』により知り得た。引用箇所は、中國哲學書電子化計劃https://ctext.org/pre-qin-and-han/zh を手引きに確認した。

推測と憶測(続き)

こんばんは。

民国時代くらいまでの中国の研究に多い論として、
作品が描く内容を、現実世界の中に探り出して結びつけるという方法があります。
表現されていることを、現実の出来事に直結させて解釈する方法、
その基層には、文学作品は現実世界の反映だとする考え方があるようです。

これだと、単なる憶測だと片づけられても仕方がないかもしれません。

他方、作品が内包する不可解さに目を留め、
その綻びや分からなさがどうして生じたのか、考察を重ねていくうちに、
作品の背後にある現実や、作者の心情を究明することとなる、という研究方法があります。
これは、前述の方法とは、結論が似ているようでいて、実はその考察の起点と筋道が異なるものです。
まず不可解さを認識し、その由来を説明する最も合理的な理由を探っていった先に、
現実世界なり、作者の心情なりにたどり着くのですから。

これに対しては、単なる推測(すなわち憶測)だと片づけることはできないはずです。

もし本当にこれを批判しようとするならば、
指摘された不可解さを説明する、更に合理的な根拠を提示すればよいのです。
その前に、その不可解さの認識が共有できていなければなりませんが。

2021年2月23日

直観と検証

こんばんは。

曹植「朔風詩」(『文選』巻29)を読み始めてすぐ、
これは「失題」詩(『曹集詮評』巻4)に似ていると思いました。

双鶴倶遨遊  双鶴 倶に遨遊し、
相失東海旁  相失ふ 東海の旁。
雄飛竄北朔  雄は飛びて北朔に竄(のが)れ、
雌驚赴南湘  雌は驚きて南湘に赴く。
棄我交頸歓  我が頸を交へたる歓びを棄て、
離別各異方  離別して各(おのおの)方を異にす。
不惜万里道  惜しまず 万里の道を、
但恐天網張  但だ恐る 天網の張れるを。

「朔風詩」にも、ここに挙げた「失題」詩と同様、
北と南とに引き裂かれた者の悲しみが詠われているからです。

また、「朔風詩」は彼の「雑詩六首」其一にも似ていると思いました。
(両詩を収載する『文選』巻29において、後者は前者に続けて出てきます。)

遠い南方にいる慕わしい人に思いを馳せていること、
舟を泛べて会いに行きたいという叶わぬ思いを詠じていることが共通しています。

余冠英の所論は、「失題」詩の成立を、
「贈白馬王彪」詩(『文選』巻24)と同時期だと推測しています。*

特に根拠が示されているわけではありませんが、強い説得力を持つ見方です。

他方、「朔風詩」の成立時期については諸説があるようですが、
「失題」詩、「贈白馬王彪」詩と同時期に成ったのではないかという気がしています。
その言葉の使い方や発想の類似性から、そう感じるのだと思います。

もちろん、精読するうちに、この直観は修正を迫られるかもしれません。
直観は自由に、後から理詰めで検証を、というスタイルです。

2021年2月22日

*余冠英「建安詩人代表曹植」(『漢魏六朝詩論叢(中華現代学術名著叢書)』商務印書館、2016年)

「雑詩」とは何か

こんばんは。

「曹植作品訳注稿」、先週末から「朔風詩」(『文選』巻29)に入りました。
この作品をなんとなく敬遠してきたのは、それが四言詩だからです。

この詩を収録する『文選』巻29・雑詩上は、「古詩十九首」に始まります。
古詩は、漢代の詠み人知らずの五言詩。
だから当然、ここに収載されている「雑詩」は多くが五言詩だろうと思っていました。
実際、たしかにそうではあるのですが、その中で「朔風詩」は四言です。

それなら、「雑詩」とはいったいどのようなジャンルなのでしょうか。
それを探る手掛かりとして、『文選』巻29・30所収作品の一覧を作ってみました。
こちらです。

これによると、魏晋までは、「雑詩」はひとつの詩体の呼称だったと見られます。
同じ作者の中で、たとえば「雑詩」と「情詩」とが併存しているからです。

一方、『文選』巻29・30の冒頭に「雑詩上」「雑詩下」と挙げられているのは、
狭義の「雑詩」に連なる諸作品を包括する、いわば上位概念としてのジャンル名のようです。

巻30の雑詩下には南朝の作品が収載されていますが、
「雑詩」という詩題は減少し、
詩作の場を明記した作品、特定の誰かと唱和した詩などが増加して、

魏晋の「雑詩」とはかなり趣きが違っています。
これらの作品のどんな点が、狭義の「雑詩」に連なると『文選』の編者は見たのでしょうか。

また、漢魏晋から南朝までを包括する、広義の「雑詩」とはどのようなものでしょうか。
すぐに解明できるとは思いませんが、そんな疑問符を頭の片隅に置きながら、
曹植「朔風詩」を読んでゆこうと思います。

2021年2月21日

 

推測の妥当性を決するもの

こんばんは。

推測と憶測とは似て非なるものだ、と昨日述べました。
では、その推測の妥当性は、誰がどのようにして判断するのでしょうか。

そのジャッジを経験豊かな第三者に求めること。
これは、投稿した論文に与えられる査読コメントがそれでしょう。
ですが、査読者のすべてが真に妥当な批評をしてくださるとは限りません。
(的確かつ親切な査読コメントをいただけたなら、それはたいへんな幸運です。)
こんなことを言うのは非常に傲慢なことかもしれませんが、
本当に耳を傾けるべき第三者の声は、自分でそれを聴き分ける必要があると思います。
そうするのでないと、進むべき方向性が見えなくなってしまいます。

私は、まず自分の中に第三者の目を持つことだと思っています。
とはいえ、その内なる第三者だって、完全に自分から独立した存在ではありませんから、
いつ、無自覚的に、自分に都合のよい判断をしてしまうとも知れません。
人の脳は、自分が見たいものを見るようにできていると聞きます。
ただ、健康な精神は自身を疑うことができる、
病んでいる人は、自身にその病識がないのだとも聞きます。

自説の作り上げた世界の中に安住して、それ以外が見えなくなっている研究者。
それは想像するだに恐ろしい、閉塞感で苦しくなるような存在です。
そうならないようにということは常に自戒したいです。

2021年2月20日

推測と憶測

こんばんは。

「相和」と総称される魏の宮廷歌曲群があります。
それが、古い来歴を持つ特別な歌曲群であったらしいことは、
すでに何度か述べました。(たとえば2019年12月18日2020年8月8日8月9日など)

「相和」は、いわゆる「清商三調」とは区別しないと見方を誤るし、
まして、宗廟を祭る歌舞や、王朝の成立経緯を歌い上げる鼓吹曲などとは一線を画します。
いくら楽府詩というジャンル名で総称されていようと、
いくらその中に類似する発想が認められようと、そこは同列には論じられません。

そんな、魏王朝にとっては特別な「相和」歌辞なので、
その作者は、古辞(古い詠み人知らず)か、武帝曹操か、文帝曹丕に限定されます。
このことはすでにこちらにも示したとおりです。

誰でもその歌辞が作れるわけではなかった「相和」ですが、
その唯一の例外が曹植です。
彼は、曹操の歌辞による「薤露・惟漢二十二世」に対して、「薤露行」「惟漢行」の二首を、
また、古辞「平陵東」に対して、替え歌を一首作っています。
他の文人には、そうした表現行為は認められません。

こうしてみると、曹植における「薤露」歌辞の制作は、何か非常に突出して見えます。

ただ、この時代の作品は多く散佚しているのです。
曹植は「相和」の他の楽曲にも歌辞を作っていたのではないか。
魏朝に仕えた人で、「相和」歌辞を作った人は曹植以外にもいるのではないか。
そのような疑問も当然起こってくると思います。

ですが、それを疑うならば、この時代の文学研究はすべて成り立たなくなる。
要は、多くの散佚作品がある可能性を常に念頭に置きながら、
たとえば「相和」の作者について言えば、そこに歴然とある偏りに目を向けること、
そして、曹植という人物が置かれた立場(魏王朝の一族)を視野に入れることでしょう。

ところで、北宋時代末頃に成った『楽府詩集』、
時代が900年ほど隔たっているのですが、その分類には意外と多くの論文が従っています。
疑問視ということにも、盲点のようなものがあるのでしょうか。

推測と憶測とは、似て非なるものです。
推測は、空白の存在を自覚しつつ推し測る、学術的な行為だと私は思います。

2021年2月19日

雑記再開

こんばんは。

本日、曹植「三良詩」(『文選』巻21)の訳注稿を公開しました。

直近に公開した「求自試表」の訳注稿は、語釈だけで二ヶ月もかかりましたが、
今回は、先にこちらの論文№42を書いたときに読み、そのノートがあったので楽でした。
楽に進めるときもあるし、岩盤を小さなノミで削って進むようなときもあります。

何かを論じようとするときは、というより自ずから論に結実するまでには、
それ相当の時間をかけて作品を読解します。
自分の考えが本当に妥当か、矯めつ眇めつ検討を重ねます。

中国の古典文学は、思い付きで何かが語れるほど、
すぐにわかりやすくその懐を開いてくれるわけではありません。
でも、そうして深めた考察は、単なる思い付きと見分けがつくのでしょうか。

私は、それができる人になりたいと念じています。
真摯に検討を重ねた所論が、単なる推測だと片づけられることの無念。
どんなに言葉を尽くしても到達できない他者のいる場所。

2021年2月18日

1 34 35 36 37 38 39 40 41 42 80