「侍太子坐」解題への追記
こんばんは。
丁晏『曹集詮評』を底本とした曹植作品のテキストファイルを作成し、
少しずつ、諸本に当たって文字の異同を確認する交換作業を進めていますが、
地味な作業の中、時々拾い物をすることがあります。
昨日も『初学記』巻10に引く『魏文帝集』に目が留まりました。
曹丕が太子に立てられたのは建安22年(217)ですが(『魏志』文帝紀)、
実はそれ以前、すでに曹操の後継者と定められていたようで、
このことを示すのが、その『魏文帝集』の記述です。
喜び勇んでノートに書いたのですが、念のため確認をしたら、
すでにこちらの雑記に、津田資久氏の論文に教わったこととして記していました。
曹植作品訳注稿「04-02 侍太子坐」の解題に、本日このことを追記しました。
新しい収穫が何もない日もあれば、
天啓のような光がたくさん降ってくる日もあります。
何もない地味な日々を、くさらずに焦らずに、丁寧に踏みしめていきたい。
2021年4月20日
古詩を取り込んだ楽府詩
こんにちは。
昨日紹介した、阮籍「詠懐詩」其六十四が踏まえた可能性のある、
曹植「送応氏詩二首」其一について。
その末尾にいう「念我平常居、気結不能言」は、
訳注稿にも示したとおり、『玉台新詠』巻1所収「古詩八首」其七を踏まえています。
今、その全文を挙げれば次のとおりです。
01 悲与親友別 親友と別れるのが悲しくて、
02 気結不能言 気は結ぼれてものを言うこともできない。
03 贈子以自愛 そなたに、どうかご自愛くださいとの言葉を送ろう。
04 道遠会見難 道は遠く、お会いすることも難しくなるだろう。
05 人生無幾時 人の一生はいくばくもなくて、
06 顛沛在其間 その短い間には思いがけない挫折が待ち構えているものだ。
07 念子棄我去 繰り返し念頭に浮かび上がるのは、そなたが私を捨て去ってゆき、
08 新心有所歓 新しい心持で、親密な友に巡り会うのだろうということだ。
09 結志青雲上 世に出て、青雲の志を実現されたあかつきには、
10 何時復来還 いつかまた帰ってきてくれるだろうか。
相手に対する思いの濃密さ、距離の近さに少しく違和感を覚えるような詩ですが、
当時の中国の士人たちにとってはこれが普通だったのでしょうか。
それはともかく、「気結不能言」という句は、
別に、『宋書』巻21・楽志三所収の「艶歌何嘗行・白鵠」にも見えています。
ただ、この晋楽所奏の「艶歌何嘗行・白鵠」は、
この楽府詩の原型と見られる『玉台新詠』巻1所収の古楽府「双白鵠」に、
前掲の古詩「悲与親友別」や、
『文選』巻29所収の蘇武「詩四首」其三の句などが流入して成ったものと見られます。*
このような理由により、
曹植「送応氏詩二首」其一の語釈に、
晋楽所奏「艶歌何嘗行・白鵠」を挙げることはしませんでした。
2021年4月19日
阮籍「詠懐詩」と曹植詩
こんばんは。
昔のノートを見ていて拾い物をしました。
阮籍「詠懐詩」其六十四*と曹植「送応氏詩二首」其一との間に、
影響関係があるのではないかというメモ書きです。
まず阮籍詩の全文を示せば次のとおりです。
01 朝出上東門 朝に上東門を出て、
02 遥望首陽基 遥かに首陽山の麓を望む。
03 松柏鬱森沈 松柏は鬱蒼と繁茂し、
04 驪黄相与嬉 コウライウグイスは嬉しそうに鳴き交わしている。
05 逍遙九曲間 屈曲する黄河のほとりをのんびりとぶらつき、
06 徘徊欲何之 行きつ戻りつしてどこへ赴こうとするのか。
07 念我平居時 我が往年の日常を思えば、
08 鬱然思妖姫 憂悶が頭をもたげて妖姫が思われる。
第1・2句は、以前にも触れたように、漢魏詩には常套的なものです。
前掲の曹植「送応氏詩」の冒頭にも、類似する句が次のとおり見えています。
(曹植の本詩全体については、こちらの訳注稿をご覧ください。)
歩登北邙阪 歩みて北邙の阪を登り、
遥望洛陽山 遥かに洛陽の山を望む。
そして、それ以上に注目されるのは、阮籍詩の第7・8句に似た句が、
同じ曹植「送応氏詩二首」其一の結びにも、次のとおり見えていることです。
念我平常居 我が平常の居を念ひ、
気結不能言 気は結ぼれて言ふ能はず。
阮籍詩の第7句「念我平居時」は、
曹植詩の「念我平常居」とほとんど重なり合っています。
前掲の冒頭二句、そして結びの句が、揃ってこのように似ているのですから、
これは明らかに、阮籍が曹植詩を踏襲したと見てよいでしょう。
両詩とも同じように、
ひらけた場所から遠くを眺めやり、
眼下に広がる情景を描写した後に、
苦い思いとともに過去を振り返る、という構成を取っています。
阮籍詩にいう「妖姫」は、何を指しているのか未詳ですが、
この詩が、曹植「送応氏詩二首」其一を念頭に作られたものだとすると、
そこから解明への糸口が探し出せるかもしれません。
2021年4月18日
*作品の順次は、黄節『阮歩兵咏懐詩注』(中華書局、2008年)に拠った。
『焦氏易林』と歴史故事(再び承前)
こんにちは。
今日も昨日の続きを少しばかり。
『焦氏易林』巻2、「賁」之「升」にこうあります。
随和重宝 随侯の珠や和氏の璧といった貴重な宝物は、
衆所貪有 大衆が貪欲に所有しようとするものだ。*1
相如睨柱 藺相如は、和氏の璧を手にして柱を睨みつけ、
趙王危殆 趙王の命運は危機的状況だ。
後半3・4句目は、藺相如のいわゆる「完璧」の故事を踏まえたものです。
秦の昭王は、趙の恵文王が和氏の璧を手に入れたことを聞きつけ、
それと十五城とを交換しようと持ち掛けてきました。
この交渉のために秦へ出向いたのが藺相如です。
藺相如は、秦王が和氏の璧を取り、十五城を引き渡すつもりがないのを見ると、
璧に瑕疵があると欺いてこれを奪還し、柱に撃ちつける身振りを取って強気の交渉に出ます。
『史記』巻81・廉頗藺相如列伝は、この一連の経緯を活写して、その中にこうあります。
相如持其璧睨柱、欲以撃柱 相如は其の璧を持ちて柱を睨み、以て柱に撃たんと欲す。*2
この場面は非常に劇的で、漢代画像石にも割合よく描かれているところです。*3
この他、『史記』廉頗藺相如列伝に見える劇的な表現として、
たとえば藺相如が秦王から和氏の璧を奪還した後の様子を次のように描写しています。
王授璧、相如因持璧却立、倚柱、怒髪上衝冠、謂秦王曰……
王は璧を授け、相如は因りて璧を持ちて却きて立ち、柱に倚り、
怒髪上りて冠を衝き、秦王に謂ひて曰く……
「怒髪上衝冠」に類似する表現は、
たとえば『史記』巻86・刺客列伝に、荊軻が刺客として秦へ出発するのを見送る一同の様子を描写して、
「士皆瞋目、髪尽上指冠(士は皆目を瞋(いか)らせ、髪は尽く上りて冠を指す)」と、
また、『史記』巻7・項羽本紀に、鴻門の会に乱入した樊噲の様子を描写して、
「瞋目視項王、頭髪上指、目眥尽裂(目を瞋せて項王を視、頭髪は上に指し、目眥(まなじり)は尽く裂く)」とあります。
更に、後漢時代に上演されたことが確実な「鼙舞歌」の、
その忠実な祖述作品であると判断される曹植「鼙舞歌・孟冬篇」にいう、
「張目決眥、髪怒穿冠(目を張りて眥を決し、髪は怒りて冠を穿つ)」も想起されます。*4
要するに、これらは激情が最高潮に達したところで出てくる類型的な辞句で、
こうした表現は、口頭によって上演されるような文芸ならではと見ることができそうです。
また、藺相如の「完璧」の故事が演劇的であることは、
その会話を主体とする文体に、繰り返しが認められることからも推し測られます。*5
しかも、それが漢代画像石に描かれていることも、
この故事が語り物か演劇として上演されていた可能性を示唆しています。*6
『焦氏易林』は、こうした漢代の文芸をごく自然に吸収して成ったものなのでしょう。
曹植もその同じ空気を呼吸していたのだと思われます。
(ことによっては『焦氏易林』を愛読していたとも想像されます。)
2021年4月15日
*1「所」字、叢書集成初編所収の『焦氏易林』は「多」に作り、「別本作所」と注記する。今、この別本に従っておく。
*2 劉銀昌「『焦氏易林』詠史詩探析」(『渭南師範学院学報』第26巻第1期、2011年1月)に、『焦氏易林』が『史記』のこの表現を直接用いていることを指摘する。
*3 張道一『漢画故事』(重慶大学出版社、2006年)p.98―101、長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)p.90を参照。
*4 柳川順子「漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として―」(『中国文化』第73号、2015年)(こちらの学術論文№39)を参照されたい。
*5 宮崎市定「身振りと文学―史記成立についての一試論―」(『宮崎市定全集5』岩波書店、1991年。初出は『中国文学報』第20冊、1965年4月)を参照。
*6 柳川順子「漢代画像石と語り物文芸」(『中国文学論集』第43号、2014年12月)(こちらの学術論文№38)を参照されたい。
『焦氏易林』と歴史故事(承前)
こんばんは。
昨日紹介した論文、劉銀昌「『焦氏易林』詠史詩探析」には、
歴史故事を詠じたいくつもの興味深い四言詩が取り上げられています。
その中から二首ほど紹介し、思ったことを述べます。
まず、『焦氏易林』巻4、「中孚」之「困」に見える次の辞句です。
武陽漸離 秦舞陽と高漸離は、
撃筑善歌 筑を打ち鳴らしてよく歌を歌う。
慕丹之義 燕の太子丹の心意気を慕い、
為燕助軻 燕のために荊軻を助けた。
陰謀不遂 だが、陰謀は成し遂げられず、
矐目死亡 目をつぶされ死んでしまっては、*1
功名何施 その功名もどうして広く知れわたることがあろう。
ここに詠われているのは、『史記』巻86・刺客列伝(荊軻)に記された、
荊軻に伴って秦へ向かった殺し屋の秦舞陽と、荊軻の親友で筑の名手であった高漸離です。
次に紹介するのは、『焦氏易林』巻3、「姤」之「震」に見える次の辞句です。
二桃三口 二つの桃に三つの口では、*2
莫適所与 (斉の景公が)与えたものとの間に合致することがない。
為孺子牛 (斉の景公は)吾が幼子のために牛を演じるような真似をし、
田氏生咎 これだから、田氏(田乞)が反乱を起こすという禍を生じたのだ。*3
この前半二句は、『晏子春秋』巻2・諫下「景公養勇士三人無君臣之義晏子諫」に記された故事で、
その内容は、斉の景公に仕えた三勇士、古冶子・田開疆・公孫接を、
晏嬰が、自ら手を下すことなく、二つの桃を用いて死に至らしめたというものです。
(以前、こちらでも触れたことがあります。)
後半の第三句は、『春秋左氏伝』哀公六年に記された、
斉の景公が、我が子(荼、後の晏孺子)のために自ら縄をくわえて牛のまねごとをし、
縄を引く荼がころんで、景公は歯を折った、という故事を指しています。
最後の第四句にいう田乞の反乱とは、『史記』巻32・斉大公世家に記す、
景公の没後に晏孺子を廃し、その異母兄の陽生(悼公)を立てたことを指して言います。
この他、『焦氏易林』巻2の「臨」之「同人」に、いわゆる「管鮑の交わり」が、
同じく巻2「臨」之「泰」、巻4「漸」之「睽」に、伍子胥の故事が、
また、巻2「賁」之「升」に、藺相如の故事が見えることを、劉銀昌氏の所論は指摘しています。
これらはいずれも、人口に膾炙した親しみやすい歴史故事です。
直接、『史記』『晏子春秋』『春秋左氏伝』などを閲覧して援用したというよりも、
すでに広く民間に流布した物語に借りて、易の理の様々な局面を説いて見せたという印象です。
2021年4月14日
*1「矐目」、叢書集成初編所収の『焦氏易林』は「霍自」に作り、「自」に対して「別本作目」と注記する。『史記』巻86・刺客列伝(荊軻)に「秦皇帝惜其善撃筑、重赦之、乃矐其目(秦の皇帝(始皇帝)は其(高漸離)の善く筑を撃するを惜しみ、重ねて之を赦し、乃ち其の目を矐(つぶ)す)」とあるのに拠り、今このように改める。劉銀昌氏の論文もそのように改めている。
*2「二桃」、叢書集成本『焦氏易林』は「一身」に作り、「別本作三桃」と注記する。「三」は「二」の誤写と見てこのように改める。劉銀昌氏の論文もそのように改めている。
*3「生」字、叢書集成本『焦氏易林』は「主」に作り、「別本作生」と注記する。今、この別本に従う。劉銀昌氏の論文も同じ。
『焦氏易林』と歴史故事
こんにちは。
劉銀昌「『焦氏易林』詠史詩探析」という論文を読みました。*1
昨日触れた『焦氏易林』の中に歴史故事を取り上げたものが少なくないことに注目し、
その具体的な詩篇(『焦氏易林』は、四言詩様式でその哲理を説く)を挙げて、*2
特に司馬遷『史記』との関係性の深さを指摘しています。
『史記』は、その成立当初(前漢武帝期BC97)、正副あわせて二部のみでした。
『史記』巻130・太史公自序に、「蔵之名山、副在京師(之を名山に蔵し、副は京師に在り)」とあります。
その後の『史記』の流伝について、『漢書』巻62・司馬遷伝にはこうあります。
遷既死後、其書稍出。
宣帝時、遷外孫平通侯楊惲祖述其書、遂宣布焉。
司馬遷が没して(武帝期BC86頃)以降、その書物(『史記』)は少しずつ世に出るようになった。
宣帝(在位BC74―BC49)の時、司馬遷の外孫、平通侯の楊惲がその書物を祖述し、かくして流布することとなった。
焦延寿は、昭帝期(BC87―BC74)から宣帝期頃の人のようで、*3
河南省陳留郡の小黄県の官吏として生涯を終えたことが、『漢書』巻75・京房伝に記されています。
これらのことを考え合わせてみると、
果たして焦延寿は『史記』を目にすることが可能だったか、やや疑問です。
もし焦延寿が直接『史記』を目睹できなかったのであれば、
『焦氏易林』に見える歴史故事を詠じた四言詩は、
どこからその素材を得たのでしょうか。
2021年4月13日
*1 収載する学術雑誌は、『渭南師範学院学報』第26巻第1期、2011年1月。
*2 陳良運『焦氏易林詩学闡釈』(百花洲文芸出版社、2000年)中編第四「中国古代哲理詩之淵藪」の用語を用いた。
*3 陳良運前掲書p.275―282を参照。
『焦氏易林』と曹植
こんばんは。
曹植の楽府詩「当牆欲高行」に、次のようなフレーズがあります。
衆口可以鑠金 衆人の口は金をも融かすと言うとおり、
讒言三至 讒言が三たびやってくれば、
慈母不親 慈母も愛する子から遠ざかる。
「衆口 以て金をも鑠(と)かす可し」は、
『楚辞』九章「惜誦」や鄒陽「獄中上書自明」(『文選』巻39)などに見え、
世の中に広く行われていた諺のごとき言葉のようです。
また、「讒言 三たび至らば、慈母も親(ちか)づかず」は、
故事の内容としては『戦国策』秦策二などに見え、
表現としては、山東嘉祥県武梁祠西壁の「曾母投杼」の図像の下に、
「讒言三至、慈母投杼(讒言三たび至らば、慈母も杼を投ず)」と見えていて、
これも諺のような言葉だったと思われます。
(詳細は訳注稿の方をご覧いただければ幸いです。)
さて、この二つの諺的な言葉をともに収載するのが『焦氏易林』です。
「坤」之「夬」(「坤」卦が「夬」卦に変易するという意味)にこうあります。
一簧両舌 一枚の簧(リード)に二枚の舌、
妄言謬語 根拠のない間違いだらけの言葉、
三姦成虎 三人の悪者が(いもしない虎をいると言えば)虎がいることになり、
曽母投杼 (嘘も三たび重なれば)孝行者の曹参の母でさえ杼を投げ出して逃げる。
また、「萃」之「巽」として、次のような言葉が見えています。
衆口銷金 民衆の口は金をも溶かす。
愆言不験 誤った言葉はあてにはできない。
腐臭敗兔 腐臭のする腐敗した兔は、
入市不售 市場に入っても売り物にはならない。
『焦氏易林』の別々の場所に見えている辞句が、
曹植の楽府詩「当牆欲高行」の中でひとつに組み合わされて用いられている、
このことをどう見るのが妥当でしょうか。
曹植が『焦氏易林』を愛読していたということなのか、
あるいは、曹植が馴染んでいた世界と『焦氏易林』が生まれた土壌が同じということなのか。
なお、『焦氏易林』を著した焦延寿は、前漢昭帝期(BC87―BC74)の人です。
2021年4月12日
初めて触れる世界に対しては
こんばんは。
今日、新入生を迎え(直接対面はしていませんが)、
昨年度、新しい地域創生学部に入学した学生たちとあわせて、
これで、従来の人間文化学部・国際文化学科と、新学部の同学科・地域文化コースと、
ちょうど半々の学生数となりました。
学部学科の名称は変わりましたが、
自分にできる教育内容の、目指すところは基本的に同じであって、
それは、他者に対する敬意ということに尽きます。
国際文化学科でよく耳にしたのは、異文化理解という言葉です。
では、地域創生の地域文化コースは、同質な我らが文化の継承を目指すのか。
そうではないでしょう。
ある地域の中に入っていって、
その土地に根付いた生活文化を学ぶということ、
それは、ほとんど異文化を学ぶことと同じなのだと思います。
その地域の人々に対する敬意なくしては、信頼してもらうことはできないし、
そこから何かを学び、その価値を発展的に継承していくこともできないと思います。
こう思い至ったのは、本日宮島を訪れて、
その地域に伝わる文物を専門的に研究している同僚と、
宮島で、神事、代々伝わる文化財、伝統行事等を継承する方々との、
深くかつ親密な信頼関係で結ばれたやり取りを目の当たりにしたからです。
そこでの私はほとんど異邦人で、たぶん学生たちは当初これと同じ位置にあるでしょう。
そこで大切なのは、異文化理解と同じ、相手に対する敬意だと思ったのです。
初めて触れる世界に対しては、かかる態度で臨むのが基本です。
よく、郷に入っては郷に従え、と言いますが、
あれは決して因循姑息な処世術を説いたものなどではない、
異文化理解とほぼ同義の、こういうことであったか、と急に目の前が明るくなりました。
2021年4月5日
「斉瑟行」への疑問
こんにちは。
曹植「名都篇」の訳注に入りました。
この楽府詩は、先に読んだ「美女篇」、「白馬篇」と合わせて三首、
「斉瑟行」の歌辞であると、『歌録』(佚、『文選』李善注等に引く)に記されています。*1
篇名の「名都」「美女」「白馬」は、その歌辞の冒頭二字を取ったものです。
「斉瑟行」という楽府題の作品で、曹植に先行する、あるいは同時代の人の作は、
『楽府詩集』巻63(雑曲歌辞)を見る限り見当たりません。
曹植に続く作品であれば少なくはないのですが。
そもそも、「斉瑟行」という楽府題は、
「善哉行」「董逃行」「艶歌羅敷行」等のように漢代からあったものなのでしょうか。
それとも、曹植のある時期の連作楽府詩をまとめて、後世こう称するようになったのでしょうか。
歌辞の発する雰囲気からして、上記の三篇は同質であり、
また、曹植の不遇な後半生の作ではなさそうだと私には感じられます。
この感触は、もちろん今後の検証が必要であること言うまでもありませんが、
少なくとも、そこに詠われた内容から、後半生の明帝期と判断することには躊躇します。*2
何が詠じられているか、ということに依拠して、現実と作品とを結びつけるわけにはいきません。
2021年4月4日
*1『歌録』という書物について、拙著(こちらの著書№4)のp.377注(43)から、以下抜き書きしておきます。「増田前掲書(注7[1])五四三―五四五頁に『歌録』への言及が見える。この書物は、『隋書』巻三十五・経籍志四(集部・総集類)に「歌録十巻」と記すのみで、著者、成立年代ともに未詳。ただ、富永一登『文選李善注引書索引』(一九九六年、研文出版)によって閲してみると、李善注には「沈約宋書」として『宋書』楽志を引く例が複数個所あるので、李善が「相和」の説明に『宋志』を引かず、『歌録』を引いたのは[2]、この文献を、『宋書』楽志よりは古い、しかも依拠するに足る文献と判断したからだろう。なお、この李善注に引く『歌録』に記す「古相和歌十八曲」は、『宋書』楽志三にいう「本十七曲」[3]よりも一曲多い。魏楽以前の「相和」の数であろうか。」
この注だけでは意味不明な部分について、以下付記しておきます。
[1]『楽府の歴史的研究』(1975年、創文社)をいう。
[2]『文選』巻18、馬融「長笛賦」にいう「吹笛為気出精列相和」に対して、李善が「『歌録』曰、古相和歌十八曲、「気出」一、「精列」二」と注していることを指していう。
[3]『宋書』巻21・楽志三に「相和、漢旧歌也。絲竹更相和、執節者歌。本一部、魏明帝分為二、更逓夜宿。本十七曲、朱生・宋識・列和等、復合之為十三曲(相和とは、漢の旧曲なり。絲竹更相和して、節を執る者歌ふ。本一部なりしも、魏の明帝、分かちて二と為し、更逓りて夜宿せしむ。本十七曲なるも、朱生・宋識・列和等、復たこれを合して十三曲と為す)」と。
*2 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)巻3は、このように推定しています。その根拠として、「美女篇」は、曹植自身の自己不遇感が美女に重ね合わせられているといい、「白馬篇」の背景には、当時における鮮卑族の勢力拡大があるといい、「名都篇」は、明帝期の洛陽城造営が背景にあるとします。いずれに対しても反証を示すことが可能です。もちろん、先行研究のすべてがこのような見方をしているわけではありません。
「思い出す」文学研究
こんばんは。
文学研究とは「思い出す」ことだ、
とは、たしか小林秀雄が言っていたのだったかと思いますが、
十数年ほど来、折に触れて思い出す言葉です。
研究の対象である文学作品を、客体化して評論するのではなく、
自分自身の中にある記憶を掘り起こすこととして行う。
これはいったいどういうことでしょうか。
どんなに昔の人であっても、人間の心はそんなに変質してはいない、
だから、その人の思うことは、自分の中にもその片鱗は存在しているはずで、
それを掘り起こし、思い出す、それが文学研究である、と。
ただ、このことは、研究対象を自分に引き付けて好きに解釈することではありません。
まず、生きた時代や環境が違うのだから、それは実は不可能です。
ある作家、作品、文学的事象などを、自分の記憶として「思い出す」ためには、
その相手の座標に飛び込んでいく必要があります。
その上で、作品なり記録なりを読んでいく。
対象を理解しようとすれば、自分自身の中を耕すことは必然です。
素の自分にはなかった、はじめて出会う思いにも遭遇することがありますから。
けれど、同じ人間である以上、必ずどこかに理解の糸口はあるはずで、
そうして耕された自分になって始めて、冒頭に述べた「思い出す」ことができます。
思えば、一見客観性があるかのように思われる研究分野においてさえも、
誰から見ても同一の結論になることばかりではないようです。
文学を研究する自分は、もっと自信をもって、
古を生きた自身を「思い出す」ということをしたいと思います。
2021年4月3日