曹植「朔風詩」と「雑詩六首」
こんばんは。
曹植の「朔風詩」と、「雑詩六首」其一との類似性については、
かつてこちらで述べたことがあります。
その段階では、まだ直観的仮説の域を出なかったのですが、
先日来、「朔風詩」を分析してきて、それが確信になりつつあります。
「朔風詩」と「雑詩六首」其一との間には、幾つかの共通点が認められます。
まず、「舟」という要素を共有していること。
それから、詩中の人物が、南方にいる人物に思いを寄せていること。
その遠くに離別している人物に会うことができないこと。
では、その南方にいる人物とは誰か。
それは、「贈白馬王彪」詩(『文選』巻24)が贈られた曹彪ではないか。
彼は、黄初四年(223)当時、まだ白馬王ではなく、孫呉と接する地の呉王でした。
そして、「朔風詩」の中で「君」と詠われているのは文帝曹丕を指すでしょう。
『文選』巻29に、「朔風詩」と「雑詩六首」とを続けて収録するのは、
あるいは、両作品をあわせて収録する先行作品集をそのまま襲った結果かもしれません。
「雑詩六首」すべての成立年を黄初四年とする李善注の是非はともかく、
(六首はひとまとまりかと考えたこともありますが、まだ保留です)
少なくとも「朔風詩」と「雑詩六首」其一との関連性は、
非常に濃厚であるような感触です。
2021年3月15日
なぜ論文を書くか。
こんばんは。
論文を書いて、それが誰かに理解されることは僥倖と言ってもよいくらいです。
どんなに言葉を尽くして論じても、だからといって理解者が増えるわけではありません。
それなのに、どうして自分は一所懸命になって、
自身の思い込みを精査し、論証と検討を重ねようとするのだろうか。
いわゆる承認欲求というものではありません。
正直、論さえ残れば、わたしは消えてなくなってしまってもかまわないと思う。
孔子はこのようなことを言っていました。
志有之、「言以足志、文以足言」。不言誰知其志、言之無文、行而不遠。……
(『春秋左氏伝』襄公二十五年)
古い記録にこうある。
「言葉によって意志が十分に伝わり、修辞によって言葉が十全に表現される」と。
言葉を発しなかったら、誰がその思いをわかってくれよう。
言葉を発するのに美しさを伴わなかったら、遠くまでの影響力を持ち得ない。……
「文」を伴う言葉とは、口語ではない、書き言葉(文言)という意味であって、
決して、美しく飾り立てた言葉という意味ではありません。
自分が身を置いている世界の外に向けて開かれた、第三者にも届く言葉。
少しだけ日常的な言語からは距離をもって存在している、理の世界の言葉です。
老荘思想家があれだけ無為自然を言いながら、
その無為自然のなんたるかを、言葉を尽くして説くことも同じでしょう。
やっぱり人は誰かと手を携えて理解し合いたい生き物なのです。
感情に振り回される日常を送っていたとしても、
いつか誰かに届けと念じつつ、自分の説を矯めつ眇めつ鍛え直して論文を書く。
(世間の皆さんに広く影響を及ぼしたいと思っているわけではなくて)
そういうタイプの人間がいることも許されるだろうと思っています。
むろん多数派でないことは承知しています。
2021年3月14日
曹植「朔風詩」、別の見方
こんばんは。
今日も前日の続きです。
曹植「朔風詩」第七・八章に詠じられた、香草をめぐる人物たちについて。
第七章にいう「子」「爾」は、詩を詠じている人と対等の関係にある人、
第八章にいう「君」とは、「子」「爾」とは別の人物で、
詩を詠じている人と、彼が「子」「爾」と呼び掛ける人の両方から香草を捧げられる主君。
昨日はこのように解釈しました。
けれども、「子」「爾」は「芳草を好む」人物で、
「君」に対しても、誠意を示すべく「秋蘭」や「桂樹」が贈られようとしています。
ならば、「子」「爾」「君」は同一人物を指すと見られないでしょうか。
同一作品の中で呼称が変わったことは、心理的な移ろいを表すものとも考え得ます。
今仮に、この三つの呼称が等しく指示している人物を「あなた」とし、
詩を詠じている人物を「わたし」として話を進めてみます。
「わたし」は「あなた」と、昔は親しい間柄だったが、今は長らく別離の状態にある。
このことは、第三・六章で明言されています。
そして、「わたし」は「あなた」と別れて、長らく厳しい旅を続けてきた。
このことは、第四・五章で詠じられています。
では、「わたし」と「あなた」との位置関係はどうでしょうか。
第一・二章からうかがえるのは、二人は南北に引き裂かれているらしいということ。
そして、第九・十章で、「わたし」は「あなた」に向けて、
舟を泛べて会いにいきたいが、その手だてがないのだと詠じています。
舟といえば、南方への交通が思い浮かべられます。
そして、そのことは、第一・二章に詠じらたことと符合します。
そうすると、「わたし」は北方、「あなた」は南方にいることになります。
ところで、第一章で「朔風」に向かう人、つまり南方にいる「あなた」は、
北風に「魏都」を想起し、この実在する地を懐かしんでいました。
ここまできて、よくわからなくなるのです。
実在する土地を持ち出してきているからには、
この詩には、何らかの現実が踏まえられているのでしょう。
「子」「爾」「君」が同一人物だとして、それは誰を指すのでしょうか。
2021年3月13日
曹植「朔風詩」の難解さ(承前)
こんばんは。
昨日に続いて、曹植「朔風詩」の難解さを掘り下げてみます。
説明の都合上、詩の原文を示します。語釈等の詳細は訳注稿をご覧ください。
仰彼朔風、用懐魏都。願騁代馬、倏忽北徂。(第一章)
凱風永至、思彼蛮方。願随越鳥、翻飛南翔。(第二章)
四気代謝、懸景運周。別如俯仰、脱若三秋。(第三章)
昔我初遷、朱華未希。今我旋止、素雪云飛。(第四章)
俯降千仞、仰登天阻。風飄蓬飛、載離寒暑。(第五章)
千仞易陟、天阻可越。昔我同袍、今永乖別。(第六章)
子好芳草、豈忘爾貽。繁華将茂、秋霜悴之。(第七章)
君不垂眷、豈云其誠。秋蘭可喩、桂樹冬栄。(第八章)
絃歌蕩思、誰与銷憂。臨川暮思、何為汎舟。(第九章)
豈無和楽、游非我隣。誰忘汎舟、愧無榜人。(第十章)
冒頭、「古詩十九首」其一とそれが基づく『韓詩外伝』の表現を用いて、
遠く離れ離れになっている二人を象徴的に詠い出します。
第一章に詠われた人は、南から北方を懐かしみ、
第二章の人は、北にいて南方にいる人に思いを馳せています。
ここまでなら問題ありません。
分からないのは、この古詩的表現に「魏都」という現実が混ざりこんでいることです。
魏の都とは、魏王国の鄴をいうのか、それとも魏朝の都である洛陽でしょうか。
いずれにせよ、「代馬」を疾駆させて向かうほど北方にはありません。
南の「蛮方」から見れば、こう感じられるのでしょうか。
第三章で詠われる離別は、第一・二章を受け、南北に引き裂かれた二人を指すでしょう。
第六章に「昔我同袍、今永乖別」というのも、同じ二人のことを言うでしょう。
昨日言及した第七章の「子(そなた)」「爾(おまえ)」は、
この文脈を受けて出てきた呼称です。
そして、結びの第九・十章に、
「舟を汎べて」会いに行きたいけれど叶わないと呼びかけられている人は、
前述の「子」「爾」であり、
第三章でその離別の悲痛が詠じられた相手であり、
この相手と本詩を詠じている人物とは、遠く南北に隔てられています。
そこで目に留まるのが、第八章に見えている、冬に花を咲かせる桂の樹です。
訳注稿の語釈に示したとおり、これは『楚辞』遠遊に詠われている南方特有の植生です。
すると、対を為す「秋蘭」は、相対的に北方にいる人に関連付けられるでしょうか。
第八章に登場する「君」は、「秋蘭」や「桂樹」が捧げられる人物です。
ならば、南方にいると想定される「子」「爾」とは別人だということになります。
そして、南と北とに切り裂かれている二人が、ともに誠意を表したいと思っている相手、
それが「君」だということになります。
そもそも、「子」「爾」は対等に近い間柄で用いられる呼称であり、*
それに対して「君」には上下関係のニュアンスが付いてきます。
本詩における「君」も、文字通り主君と見てよいかもしれません。
そして、南北に隔てられた人物たちから見ての「君」であったのかもしれません。
2021年3月12日
敢えての難解さか?
こんばんは。
本日、曹植作品訳注稿「04-15 朔風」を公開しました。
ただし、これから更に修正しなくてはならない箇所が出てきそうです。
というのは、とにかく何を言っているのかよく分からないところがあるのです。
たとえば、ちょうど中間あたりに位置している次のような表現。
子好芳草 「子」は香しい芳草を好んでいた。
豈忘爾貽 「爾(なんぢ)」にそれを贈ることを、私はどうして忘れるものか。
繁華将茂 けれど、これから豊かに茂って花開こうかというときに、
秋霜悴之 秋の霜がこれを損なってしまった。」
君不垂眷 「君」がこちらを顧みてくださらなくても、
豈云其誠 どうしてその真心をひるがえしたりしようか。
秋蘭可喩 秋蘭(ふじばかま)は誠心の証にすることができるし、
桂樹冬栄 南方では桂の木が冬に花を咲かせるのだ。」
この二章の中に見える呼称「子」「爾」「君」は、同一人物を指すのでしょうか。
それとも、「子」と「爾」は同一人物で、「君」は別の一人を指すのでしょうか。
私は後者の説を取りますが、
話が紛らわしくなっているのは、いずれの人物にも香草が纏わりついているからです。
曹植は敢えてこのような表現をしつらえて、
詩と事実との関係性を分かりにくくしているのかもしれません。
もし本当にそうであるならば、
ではなぜ彼は分かりにくい表現をする必要があったのでしょうか。
この難解さこそが、本詩の成立背景を物語っている可能性もあるように思います。
2021年3月11日
ボールペンと万年筆
こんばんは。
しばらく休ませていた万年筆にインクを入れて、試し書きしてみた一昨日。
危ぶまれていた不調もあらわれず、すっかり回復した様子です。
普段、メモを取るときはボールペンを使っているのですが、
ためしに手帳へのメモを、この回復した万年筆で書いてみたところ、
字がとても丁寧になることにハッとさせられました。
それで思い出したのが、古楽器によるバロック音楽の演奏です。
35年ほど前の手帳に(買ったばかりの万年筆で)書き記してあったことを、
ひっぱり出して読み返してみました。
たぶん、ラジオか何かで聴いたことを契機としてのメモでしょう。
モダン楽器は、どの音程もどの調も均質であることを目指し、
バロックの古楽器は、楽器自体による制約から、
その不均質さを逆に生かして、音の微妙な陰翳を大切にするそうである。
モダンは、楽器を人間に従属させ、
バロックは、楽器から人間への働きかけを、人間が受けとめ、
それとの相互作用によって第三の方向を打ち出す。
他者からの働きかけによる制約は、時としてプラスとなることもあるのだな。
古楽器の音色は、とても繊細でふくよかで、色っぽい感じさえします。
そして、人間がすべてをコントロールする近現代の文明よりも、
人間と自然とが共存する古代中世の人々の方に、私は親しみを感じます。
(もちろん様々な困難があったはずで、単純に昔の方がよかったとは思いませんが)
ボールペンは、自分の思考のスピードに沿ってくれるけれど、
万年筆は、どうしても緩やかな手の動きで記述することとなります。
そして、その時間のたゆたいの中でこそ醸成されるものがあるように感じます。
だからこそ、いつまでの記憶の底に残っていくのでしょう。
古人の作品をノートに書き写すときばかりでなく、
時には考察のメモにも万年筆を使ってみようかと思いました。
2021年3月10日
後漢末の儒者の野性味
こんばんは。
昨日言及した『後漢書』蔡邕伝に、次のような逸話が載っています。
蔡邕の隣人が、酒食の席を設けて彼をもてなそうとした。
ところが、蔡邕はその門前まで来て、奏でられる琴の音に殺気を感じて引き返す。
それは、琴を奏でる人が、カマキリに狙われている蝉を見て恐れおののき、
その気持ちが琴の音色に出ていたのであった。
蔡邕はこれを聞くとにっこりと笑い、そういうことだったのか、と言った。
音を聞いただけで、それを奏でる人の心のあり様が感じ取れる。
その直観に基づいて、迷うことなく自分本位の行動を取る。
謎が解けたあとは、自分の勘違いをさらりと認めて流す。
研ぎ澄まされた、融通無碍な精神のあり様に、しなやかな野性味を感じます。
そういえば、あの大儒者鄭玄も、私たちの意表をつくような人物像です。
彼は、身長180cm余り、大酒飲み、眉目秀麗、温和なたたずまいだったそうですが、
加えて様々な学芸に通じた通人で、招かれた袁紹の宴で一座の人々を驚かせたといいます。
(『後漢書』巻35・蔡邕伝)
儒学者というと、私たちはつい頭の硬そうな人を想像しますが、
当時の儒者は、もっと自由闊達な雰囲気を纏っていたように感じられます。
彼らは、硬軟両方の世界に通じた人々でした。
2021年3月9日
後漢時代の儒者と通俗文芸
こんばんは。
曹植文学に関する、余冠英の概説論文にこうあります。
“通俗”は、当時(建安期)の新興階級の文人たちに見られる進歩的傾向で、
後漢の霊帝期にはすでにそれが認められたが、
保守的な旧階級に属する文人、たとえば蔡邕はこうした傾向に反対した。
(詳しくは『後漢書』蔡邕伝に見える。)*1
『後漢書』巻60下・蔡邕伝を通覧しましたが、
彼が文学的新潮流である通俗性を批判したような記事は見出せず、
もっぱら現実社会と切り結んで生きた儒者の、波乱万丈の生涯が記されていました。
他方、蔡邕と建安文人たちとの関わりを指摘するのは、岡村繁の所論です。*2
さて、『文選』巻27に詠み人知らずとして収載される古楽府「飲馬長城窟行」は、
『玉台新詠』巻1では、蔡邕の作だと明記されています。
『玉台新詠』に記す作者名には、それ相当の根拠がありますので、*3
この楽府詩が蔡邕の手になるとは、あながち荒唐無稽な説だとも言えません。
そして、本作品は次のとおり、余冠英が通俗的とした古詩を濃厚に反映するものです。*4
青青河辺草 青々と茂った川辺の草をながめつつ、
緜緜思遠道 連綿と続く遠い旅路にあるあの人に思いを馳せる。
遠道不可思 遠い旅路にある人に、思いを致すことはできないのだけれど、
夙昔夢見之 昨晩、夢の中でお会いした。
夢見在我傍 夢の中ではまるで私のすぐ傍にいるようだったのに、
忽覚在佗郷 ふと目覚めてみればあの人は見知らぬ土地にいるのだった。
佗郷各異県 見知らぬ土地とこちらではそれぞれ県も違っているし、
輾転不可見 転々と居所を移すあの人とは、お会いすることもかなわない。
枯桑知天風 枯れた桑の木でさえ空に吹き渡る風を感知するし、
海水知天寒 広大な海の水でさえ寒い季節の到来を察知するものだ。
入門各自媚 だが、人々は門を入るや口々に空疎なお愛想を言うばかりで、
誰肯相為言 誰も敢えて私のために言葉をかけてくれようとはしない。
客従遠方来 そこへたまたま遠方から旅人がやってきて、
遺我双鯉魚 私に二尾一対の鯉を送り届けてくれた。
呼児烹鯉魚 童子を呼んで鯉を煮るように言いつけたところ、
中有尺素書 その中に一尺の白絹にしたためた手紙が入っていた。
長跪読素書 ひざまずいて白絹の手紙を読んだところ、
書上竟何如 手紙には、さていったいどのように書かれていたかというと、
上有加餐食 初めには、しっかりご飯を食べるようにとあり、
下有長相憶 最後には、いつまでもあなたのことを思っているとしたためられていた。
後漢時代の儒者たちは、必ずしも儒学一辺倒ではありません。*5
人の世の推移は、ページがめくられるようにぱらりと切り替わるわけではなくて、
様々なシーンが重層的に共存しつつ推移していくものだと思います。
2021年3月8日
*1 余冠英「建安詩人代表曹植」(『漢魏六朝詩論叢(中華現代学術名著叢書)』商務印書館、2016年)p.75を参照。
*2 岡村繁「蔡邕をめぐる後漢末期の文学の趨勢」(『日本中国学会報』第28集、1976年)を参照。
*3 こちらの論文№14、著書№4のpp.24―27を参照されたい。
*4 この楽府詩における古詩の影響については、論文№30、前掲の著書pp.351―353を参照されたい。
*5 論文№25、前掲の著書pp.388―401を参照されたい。
文学を俯瞰する視点
こんばんは。
一昨日話題にした、文学は俯瞰できるかという問題。
私は、そのこと自体は可能だと考えます。
ただ、文学の歴史を捉え、語る上で、その視点が重要だと思うのです。
たとえば、人類の歴史はある方向に向かって流れていると捉え、
(こうして捉えられる人類史には、精査されていない前提が多く紛れ込んでいます。)
その大きな流れの中に、個々の作者や作品を位置付けるという方法は、
その大きな視点を持ち得ない私には不可能です。
(幾多の史料や作品を読み込んだ大学者は話が別だと思いますが。)
以前、平安朝の大江千里『句題和歌』を論じたことがあります。(こちらの№23)
千里は、漢詩句を題に掲げてそれを和歌に翻案する、
いわゆる句題和歌という新しいジャンルを創始した歌人ですが、
本歌集は、この分野の初期作品だけに、漢詩直訳調で完成度が低いとされています。
ですが、作品を評価することよりも(どの地点からの評価でしょうか)、
なぜ彼がそのような新しいスタイルの歌を創始したのか、
そちらの方が、よほど重要なのではないかと私には思われてなりませんでした。
彼は、和歌の世界に新風を巻き起こそうとして「句題和歌」を創始したわけではありません。
自らを苦境から救い出すために、この諧謔的なスタイルを作り出したのです。
個々人の生の証として残された文学作品。
それらを作者の立ち位置に寄り添って精読していくと、
その作者が新しい表現を創出しないではいられなかった必然性が見えてきます。
そして、その思いを受け取った別の誰かが、敬愛の気持ちとともにその表現を継承する、
その手渡されてゆく言葉のリレーをたどることこそが、
文学史研究なのだと私は考えています。
(同様のことは、こちらの著書№4の終章でも書いています。)
繰り返し同じことを言うようで恐縮ですが、これは一貫した思いです。
2021年3月7日
外国文学との戯れ
こんにちは。
江戸時代後期の広島の漢詩人、平賀周蔵の詩を少しずつ読んでいます。
来年度の公開講座に向けて、いわば“お仕事”として始めた読書ではあるのですが、
日々この漢詩人に会うのが楽しみになってきました。たとえば、
江戸時代の宮島には、石風呂というサウナのような施設がありましたが、
これに入ってみたら、十日余りで持病が治ったので、戯れに詠じたという詩があります。
(『宮島町史 地誌紀行編Ⅰ』(宮島町、1992年)所収『藝藩通志』巻32)
その長い詩題の中に自ら「其の語は俗に近く、其の調は俳に類す」と言うとおり、
実にのびのびと漢語と戯れているような作風の詩です。
一例として、洞窟の中に燃え盛る炎を描写した後に続く句、
「莫是玉石倶焚灼(是れ玉石の倶に焚灼せる莫からんや)」について。
「玉石倶焚灼」は、
『書経』胤征にいう「火炎崑岡、玉石倶焚(火は崑岡に炎え、玉石倶に焚く)を踏まえます。
「玉石倶焚」とは、善悪の区別なく災難に巻き込まれることを意味し、
五経のひとつである『書経』に出るだけに、元来はまじめなことを言っているのです。
ところが、平賀周蔵の詩では、この上に「莫是」が来ます。
「まさか~というわけでもあるまい」「あるいは~かもしれない」という語感の俗語です。
「まさか玉と石とが一緒に焼かれているのではあるまいな。」
炎を前にして、たぶん大真面目な表情でこう詠ずる彼は、
内心、こみあげてくる笑いにお腹のあたりを揺さぶられていたかもしれません。
彼は日頃から読んでいる『書経』を取り上げ、これと戯れています。
そして、その戯れを、外国文学である漢詩の中で自在に表現しているのです。
以前目に留まった鈴木虎雄『陸放翁詩解』(弘文堂書房、1950年)の序文にこうあります。
漢字そのものまで放逐してしまえという議論のある時代に一国人が他国の詩を作るなどということは無用のことの様である。しかし智識を世界に求めて自国のすぐれた文学を興そうとするならば他国の文学をよく理解するという必要があるのである。他国の文学をよく理解するには仮りに他国人の地位に置いて之を自ら製作してみる必要もある筈である。(漢字かなづかいは現代のものに改めた。)
平賀周蔵の詩を詠んでいて、これをふと思い出しました。
漢詩の作れない私にできるのは、すばらしい先人たちを敬愛することだけです。
2021年3月6日