「雑詩」とは何か

こんばんは。

「曹植作品訳注稿」、先週末から「朔風詩」(『文選』巻29)に入りました。
この作品をなんとなく敬遠してきたのは、それが四言詩だからです。

この詩を収録する『文選』巻29・雑詩上は、「古詩十九首」に始まります。
古詩は、漢代の詠み人知らずの五言詩。
だから当然、ここに収載されている「雑詩」は多くが五言詩だろうと思っていました。
実際、たしかにそうではあるのですが、その中で「朔風詩」は四言です。

それなら、「雑詩」とはいったいどのようなジャンルなのでしょうか。
それを探る手掛かりとして、『文選』巻29・30所収作品の一覧を作ってみました。
こちらです。

これによると、魏晋までは、「雑詩」はひとつの詩体の呼称だったと見られます。
同じ作者の中で、たとえば「雑詩」と「情詩」とが併存しているからです。

一方、『文選』巻29・30の冒頭に「雑詩上」「雑詩下」と挙げられているのは、
狭義の「雑詩」に連なる諸作品を包括する、いわば上位概念としてのジャンル名のようです。

巻30の雑詩下には南朝の作品が収載されていますが、
「雑詩」という詩題は減少し、
詩作の場を明記した作品、特定の誰かと唱和した詩などが増加して、

魏晋の「雑詩」とはかなり趣きが違っています。
これらの作品のどんな点が、狭義の「雑詩」に連なると『文選』の編者は見たのでしょうか。

また、漢魏晋から南朝までを包括する、広義の「雑詩」とはどのようなものでしょうか。
すぐに解明できるとは思いませんが、そんな疑問符を頭の片隅に置きながら、
曹植「朔風詩」を読んでゆこうと思います。

2021年2月21日

 

推測の妥当性を決するもの

こんばんは。

推測と憶測とは似て非なるものだ、と昨日述べました。
では、その推測の妥当性は、誰がどのようにして判断するのでしょうか。

そのジャッジを経験豊かな第三者に求めること。
これは、投稿した論文に与えられる査読コメントがそれでしょう。
ですが、査読者のすべてが真に妥当な批評をしてくださるとは限りません。
(的確かつ親切な査読コメントをいただけたなら、それはたいへんな幸運です。)
こんなことを言うのは非常に傲慢なことかもしれませんが、
本当に耳を傾けるべき第三者の声は、自分でそれを聴き分ける必要があると思います。
そうするのでないと、進むべき方向性が見えなくなってしまいます。

私は、まず自分の中に第三者の目を持つことだと思っています。
とはいえ、その内なる第三者だって、完全に自分から独立した存在ではありませんから、
いつ、無自覚的に、自分に都合のよい判断をしてしまうとも知れません。
人の脳は、自分が見たいものを見るようにできていると聞きます。
ただ、健康な精神は自身を疑うことができる、
病んでいる人は、自身にその病識がないのだとも聞きます。

自説の作り上げた世界の中に安住して、それ以外が見えなくなっている研究者。
それは想像するだに恐ろしい、閉塞感で苦しくなるような存在です。
そうならないようにということは常に自戒したいです。

2021年2月20日

推測と憶測

こんばんは。

「相和」と総称される魏の宮廷歌曲群があります。
それが、古い来歴を持つ特別な歌曲群であったらしいことは、
すでに何度か述べました。(たとえば2019年12月18日2020年8月8日8月9日など)

「相和」は、いわゆる「清商三調」とは区別しないと見方を誤るし、
まして、宗廟を祭る歌舞や、王朝の成立経緯を歌い上げる鼓吹曲などとは一線を画します。
いくら楽府詩というジャンル名で総称されていようと、
いくらその中に類似する発想が認められようと、そこは同列には論じられません。

そんな、魏王朝にとっては特別な「相和」歌辞なので、
その作者は、古辞(古い詠み人知らず)か、武帝曹操か、文帝曹丕に限定されます。
このことはすでにこちらにも示したとおりです。

誰でもその歌辞が作れるわけではなかった「相和」ですが、
その唯一の例外が曹植です。
彼は、曹操の歌辞による「薤露・惟漢二十二世」に対して、「薤露行」「惟漢行」の二首を、
また、古辞「平陵東」に対して、替え歌を一首作っています。
他の文人には、そうした表現行為は認められません。

こうしてみると、曹植における「薤露」歌辞の制作は、何か非常に突出して見えます。

ただ、この時代の作品は多く散佚しているのです。
曹植は「相和」の他の楽曲にも歌辞を作っていたのではないか。
魏朝に仕えた人で、「相和」歌辞を作った人は曹植以外にもいるのではないか。
そのような疑問も当然起こってくると思います。

ですが、それを疑うならば、この時代の文学研究はすべて成り立たなくなる。
要は、多くの散佚作品がある可能性を常に念頭に置きながら、
たとえば「相和」の作者について言えば、そこに歴然とある偏りに目を向けること、
そして、曹植という人物が置かれた立場(魏王朝の一族)を視野に入れることでしょう。

ところで、北宋時代末頃に成った『楽府詩集』、
時代が900年ほど隔たっているのですが、その分類には意外と多くの論文が従っています。
疑問視ということにも、盲点のようなものがあるのでしょうか。

推測と憶測とは、似て非なるものです。
推測は、空白の存在を自覚しつつ推し測る、学術的な行為だと私は思います。

2021年2月19日

雑記再開

こんばんは。

本日、曹植「三良詩」(『文選』巻21)の訳注稿を公開しました。

直近に公開した「求自試表」の訳注稿は、語釈だけで二ヶ月もかかりましたが、
今回は、先にこちらの論文№42を書いたときに読み、そのノートがあったので楽でした。
楽に進めるときもあるし、岩盤を小さなノミで削って進むようなときもあります。

何かを論じようとするときは、というより自ずから論に結実するまでには、
それ相当の時間をかけて作品を読解します。
自分の考えが本当に妥当か、矯めつ眇めつ検討を重ねます。

中国の古典文学は、思い付きで何かが語れるほど、
すぐにわかりやすくその懐を開いてくれるわけではありません。
でも、そうして深めた考察は、単なる思い付きと見分けがつくのでしょうか。

私は、それができる人になりたいと念じています。
真摯に検討を重ねた所論が、単なる推測だと片づけられることの無念。
どんなに言葉を尽くしても到達できない他者のいる場所。

2021年2月18日

曹植「求自試表」の文体

こんばんは。

曹植「求自試表」の文体について、先日少し触れました。
冒頭では整然と対句が並んでいますが、途中から筆が滑走していくような印象です。

訳注稿は、あと解題を完成させて、近日中に公開する予定ですが、
そこでは、先に述べたようなことは明示できないでしょう。

そこで、こちらに別途、その本文と通釈のみを示しておくこととしました。
(訳注稿でも本文・通釈は示しますが、句の構成を可視化することは難しいので。)

黄色でマークしているのは対句で、
対を為す部分は行頭の高さが揃うように按配しています。
ひとつながりに続く文章で、改行する場合は、半角落としています。

こうしてみると、文章の後半、かなりラフな文体となっていくことが一目瞭然です。

2021年2月5日

※本文と通釈を記したファイルは、その後、修正版に差し替えました。(2021年2月7日)
※その後にまた誤訳を見つけたので、再修正版に差し替えております。(2021年2月8日)

学生たちへのエール

夕方、山の端がほんのり紅色に染まっています。

今日は、演習科目の今期最後の授業で、
受講生全員に、今年読んだ作品に関する発表をしてもらいました。
ここでも何度か話題にしたことがある、元稹と白居易との交往詩についてです。
十数名がそれぞれに自分なりの考えを述べ、なかなか充実した発表が多かったです。

授業は次のような方法を取りました。
(Teamsを用いて、グループディスカッションにはチャネルを設けて)

1、学生は事前に、あらかじめ提示された作品(訓読付き)の通釈を試みる。
2.授業に試みの通釈を持ち寄り、グループ内で疑問点を出しあう。
3、グループの代表が疑問点を述べ、それに対するヒントを教員から得る。
4、通釈をグループで再検討し、グループの代表が発表する。
5、教員の追加説明、講評を聞く。
6、授業後、自分なりの通釈と考察をレポートにまとめて提出する。

基本、このサイクルを繰り返しました。
(前期と後期との間で何人か辞めていったのは負荷が大きかったのでしょうか。)

今日うれしかったのは、このようなことを言った学生がいたことです。

授業の中では、このような解釈に落ち着いたのだけれど、
その後、改めて考えてみると、違う解釈も可能ではないかと思った。
自分はこう考える。その根拠は……

昨今、権威ある先行研究にひれ伏すような論文が少なくないですが、
そんなことに感じる憂鬱を吹き飛ばすような出来事でした。

学生たち、がんばれ!
私も教員をやっててよかった。
卒論ゼミの選択にはつながらなかったけれど(ゼロを更新中)、
演習を通して何かを学んでくれたのではないか、それで十分だと思いました。

2021年2月4日

 

駑馬の歩みでも

こんばんは。

『文選』李善注に指摘する文献の原典を当たっていて、
『荀子』修身にいう、次のような言葉に出会いました。

夫驥一日而千里、駑馬十駕則亦及之矣。
 そもそも駿馬は一日に千里を走るが、
 駑馬に十回乗ったならば、これだって駿馬に追いつく。

『文選』巻37所収の曹植「求自試表(自ら試めされんことを求むる表)」、
もうかれこれ二か月もかかって、先週やっと読み終わったと思った李善注でしたが、
ひとつ取りこぼしているものがあって、それがこれでした。

そして、清朝の銭大昕の札記『十駕斎養新録』は、
この『荀子』にいうところに由来する書名なのかと初めて気づきました。
こんな大学者でも、自身の歩みを駑馬のそれのように感じていたのでしょうか。

曹植の「求自試表」は長文で、李善注の量も多く、
少しずつしか進めない、気が遠くなるような読書体験でしたが、
なんだか、先人たちに、それでよいのだ、と言ってもらったような気がしました。

この、前途が遠く先へ先へと伸びていくような感覚には、
思わず脱力することももちろんあるのですが、
それよりも、むしろ不思議な自由さを感じることが多々あります。
自我意識にがんじがらめになったような現代的一般通念からは外れて、
虚心坦懐に古人の言葉に耳を傾けることには、
小さな自己の殻を打ち破っていく爽快感すら覚えます。

2021年2月2日

曹植の焦燥感

こんにちは。

先週末、やっと『文選』巻37所収曹植「求自試表」の李善注を読み終わりました。
李善が注していない語句で、更に語釈が必要なものもありそうですが、
まずひととおり本文を耕し終わったかというところです。

この文章、最初の部分は非常に端正に整った構成を取っている一方で、
書き進められるほどに、最初の端正さを打ち破って作者の筆が走っていくようです。
このことは、いずれ通釈をしながら明瞭に見えてくるでしょうが、
対句を意識して見渡すと、おぼろげながらも既にそう言えるように思います。

先に、この文章が書かれた背景について触れたことがありますが、
そこで述べたことは、一篇中の文体の推移のあり様からも推し測れるかもしれません。

明帝が即位して間もない太和二年(228)、
魏や呉との関係が緊迫の度を増していたこの時期、
曹植が、王朝の中に自身の足場をどう獲得していこうとしていたか、
彼の焦燥感を生々しく伝える文章のようです。

2021年2月1日

訂正(元白交往詩の空白期間)

こんにちは。

長慶4年(824)6月から約5年間、元稹と白居易との間には詩の往来が途切れる、
先日述べたことについて、訂正します。

現存する二人の作品を縦覧する限りはそのとおりなのですが、
『白氏文集』を見る限り、少なくともこの間、白居易から元稹に寄せられた詩はあります。
元稹から白居易に送られた詩が、現行の『元氏長慶集』に認められないだけです。

花房英樹氏の研究によって明らかにされているように、*1
太和二年(828)当時、元白交往詩集として「唱和」「因継」の十六巻があり、*2
この巻数から見て、現存する元白交往詩が、そのすべてを伝えていないことは明白です。

杭州の白居易と越州の元稹との間でやり取りされた詩、
あるいはその前の時期、江州の白居易と通州の元稹との間を往来した詩は、
とりわけ世の人々に歓迎されたため、その多くが今に伝えられることとなった、
他方、後半生の作は、特に元稹側の作品が残りにくかった、ということなのでしょう。

ただ、二人の間に流れる気持ちのあり様は、
後半生、かなり変質しているように感じられることはたしかです。
丁寧に読んでいきたいと思います。

2021年1月29日

*1 花房英樹『白氏文集の批判的研究』(彙文堂書店、1960年)p.310―340、同『白居易研究』(世界思想社、1971年)p.217―286、同『元稹研究』(彙文堂書店、1977年)p.203―217に詳しい。
*2 白居易「和微之詩二十二首 并序」(『白氏文集』巻52、2250)に記す。前掲花房英樹『元稹研究』p.203の指摘による。

解釈を読者に委ねる詩

こんにちは。

過日、こちらで述べたことの続きです。
前途が見えないと嘆く元和14年の元稹に対しても(その様子を思い浮かべながら)、
前途が開けるに違いないと詠う長慶3年の元稹詩に答えるときも、
白居易は等しく、官界での窮達に一喜一憂することの無意味さを説いていました。

これだけ見ると、白居易は悟りきった超俗の人のように感じられますが、
実際にはそんな風に美化することはできないと思います。

たとえば元和15年(820)、忠州刺史から司門員外郎として都に戻る途上、
彼は「宿渓翁(渓翁に宿す)」(『白氏文集』巻11、0565)と題するこんな詩を詠んでいます。

衆心愛金玉  大衆の心は金銀財宝を愛し、
衆口貪酒肉  大衆の口は酒や肉を貪るものだ。
何此渓上翁  ところが、なんとこの渓谷の畔の翁は、
飲瓢亦自足  瓢で水を飲むような質素な暮らしにも自ら満足している。
渓南刈薪草  渓谷の南で芝刈りをし、
渓北修牆屋  渓谷の北で庵を修理し、
歳種一頃田  一年に一頃の田を耕し、
春駆両黄犢  春には二頭の黄色い仔牛を追いたてる。
於中甚安適  彼の心の中は非常に安定して満ち足りた状態で、
此外無営欲  これ以外には何も欲というものを持っていない。
渓畔偶相逢  私は渓谷の畔でたまたまこの翁と出会い、
庵中遂同粥  かくして彼の庵の中で同じ粥をすすったのであった。
辞翁向朝市  翁に別れを告げ、賑やかな都へ赴こうとした時、
問我何官禄  彼は私に向かって「何という官禄をもらうのかい」と聞いてきた。
虚言笑殺翁  そこで、私はこう大言壮語して翁を大笑いさせたのである。
郎官応列宿  「郎官は、天空に居並ぶ星座に対応する、輝かしい公職なのですよ」と。

白居易は、山中でつつましい生計を営んでいる翁を敬愛しつつも、
自身が拝命した官職のことを、いかにも嬉しそうに、誇らしげに語って聞かせています。

それで、彼はまったく、愛すべき俗人だ、と思ったのです。

ただ、この翁に対する大言壮語をどう見るか。
もしかしたら、山中の翁を相手にこんなホラが吹けるほど、
官僚社会における窮達を相対化して見ていた、とも考え得るかもしれません。
大真面目に「拝命する」よりも、浮世の戯れと捉えていたのだ、と。

こうなると、解釈は読者に委ねられるのでしょう。
読む人によって、読む時々によって、鏡のように映す姿を変える詩があります。

2021年1月28日

 

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