枯木の蘇生(承前)
こんばんは。
一昨日来の問題意識に関する資料やヒントが得られないかと、
興膳宏「枯木にさく詩―詩的イメージの一系譜―」(『中国文学報』41、1990.4)を読みました。
前漢の枚乗「七発」は、
龍門山の半死半生の桐の巨木と、
それを素材として作られた琴が奏でる哀切なメロディーを詠じ、
六朝末の庾信「枯樹賦」は、
殷仲文の故事(『世説新語』黜免)を引きつつ、
見たところは茂っているが、生気のない槐の木を描き、
初唐の盧照鄰「病梨樹賦」は、
見るからに貧相で弱々しい病木を描写して、
それは詩人の自画像でもあった、
と一連の詩的イメージの系譜が論じられています。
そこに論及されている作品の中には、
しかし、蘇って花を咲かせ、葉を茂らせる枯木は見当たりませんでした。
枯木に花を咲かせる爺爺の昔話を持つ日本人からすれば、これは少し意外な感じがします。
更に広く探せば、枯木の蘇生を描く作品や故事等が見つかるのかもしれません。
ところで、曹植「七啓」に見える「窮沢」「枯木」の対句は、
陸機「文賦」(『文選』巻17)に見える次の句と、対句を構成する要素が同じです。
兀若枯木 枯木のようにぼんやりと、
豁若涸流 涸れた水流のように渇ききる。
「文賦」のこの部分は、創作意欲が枯渇した状態を表現しているので、
もちろん「七啓」とは文脈が異なっています。
ただ、「七啓」の当該部分は、美しい言語表現が持つエネルギーを言っていたので、
この点において、「文賦」とテーマを共有しているとは言えます。
もしかしたら陸機は、曹植の先行表現をどこかで意識していたかもしれません。
あるいは、意識に昇らないほど自身の内に血肉化されていたか。
2020年12月23日
枯れ木の蘇生
こんばんは。
昨日言及した、曹植「七啓」に見える、枯れ木や涸れ沢が蘇るという表象は、
はたして本当に彼オリジナルのものなのでしょうか。
曹植の他の作品に類似表現が現れるか調べてみたところ、
片方の枯れ木についてのみ、次のような事例を認めることができました。
まず、文帝期の黄初3年(222)、31歳の時の作、
「封鄄城王謝表(鄄城王に封ぜられて謝するの表)」に、
枯木生葉、白骨更肉、非臣罪戻所当宜蒙。
枯れ木が葉を生じ、白骨に再び肉が蘇るような恩恵は、
私のような罪過あるものがかたじけなくすべきものではございません。
また、明帝期の太和3年(229)、38歳の時の作、
「転封東阿王謝表(東阿王に転封せられて謝するの表)」にも同様に、
此枯木生華、白骨更肉、非臣之敢望也。
これは、枯れ木に花が生じ、白骨に再び肉が蘇るようなことで、
私が身の程知らずにも敢えて望むものではございません。
更に、明帝期の太和5年(231)、亡くなる前年の40歳の時に奉った、
「諫取諸国士息表(諸国の士息を取るを諫むるの表)」にも、
「潤白骨而栄枯木者(白骨を潤し、枯れ木に花を咲かせる者)」という表現が見えます。
これらの事例の中では、「枯木」はいつも「白骨」と対を為しています。
先に見た「七啓」では、それが「窮沢」と並んでいました。
「七啓」は、その序に「并命王粲作焉(并びに王粲に命じて作らしむ)」とあって、
王粲は、建安22年(217)に流行り病で亡くなっていますから、
少なくともそれ以前の作であることはたしかです。
枯れ木と対を為す言葉が、「窮沢」から「白骨」に切り替わったのは、
彼の境遇の激変に因るものだったのかもしれません。
枯れ木と涸れ沢の表象が、曹植独自のものかどうかは未詳ですが、
少なくとも、彼における枯れ木の蘇生というイメージが、
生涯を通して、繰り返し思い起こされるものであったらしいことはうかがえます。
2020年12月22日
曹植と張華とを結ぶ糸
こんばんは。
週末に『宋書』楽志を読む研究会に参加していて、
張華の「晋四廂楽歌(朝会用の音楽)十六篇」其五で興味深い表現に出会いました。
(担当された狩野雄氏のご指摘あればこその気づきです。)
それは、西晋王朝の徳政に応ずる瑞祥として詠われた次の対句です。
枯蠹栄 枯れて虫に食われた木に花が咲き、
竭泉流 枯渇した泉から水が流れ出す。
この対句が、セットで出てくる先行表現として、
曹植「七啓」(『文選』巻34)に、次のように見えています。
鏡機子曰、夫辯言之艶、能使窮沢生流、枯木発栄。
鏡機子が言った。言葉の艶麗さは、涸れ沢に流れを生じ、枯れ木に花を咲かせる、と。
『文選』李善注にも、この対句に対する注釈は見えていません。
また、趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.15にも特に指摘はありません。
ならば、この二つを並べる発想は、曹植オリジナルのものなのかもしれません。
(当時のすべての作品が伝存しているのでない以上、断定はできませんが。)
もちろん、曹植「七啓」と張華の楽府詩とでは、用いられた文脈が異なるのですが、
他の部分にも、曹植作品から取り込まれたと見られる事例が認められることを踏まえると、*
西晋の張華が、朝会で奏でられる音楽の歌辞を作る際、
ひとつ前の王朝の悲劇的な皇族であり、第一級の文人である曹植という人の言葉を、
その文脈とは関わりなく、意識的に多く織り込もうとした可能性も無ではないように思います。
2020年12月21日
*たとえば、曹植「鼙舞歌・大魏篇」(『宋書』巻22・楽志四)に発し、陸機「弔魏武帝文」(『文選』巻60)に用いられた「霊符」という語辞など。
はやる気持ちで書いた文章
こんばんは。
少しずつ曹植「求自試表」を読み進める中で、
ふと、この作品は、短期間で一気に書き上げられたのかもしれないと思いました。
本作品は、『魏志』巻19・陳思王植伝、太和2年(228)の条に引かれており、
ということは、この年に書かれたと見てよいでしょうが、
その中に、同年9月、曹休が呉の陸議と戦って敗れたことへの言及が見えているのです。
そうすると、その制作時期はごく短い期間に絞られることになります。
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.379は、
この「求自試表」の成立背景について、次のように推論しています。
前述の呉との戦いの後、曹休が亡くなって、
同年10月、公卿近臣に、優秀な将軍各一人の推挙を求める詔が出されたが、
曹植のこの上表文は、この求めに対して、自ら応じる趣旨で作られたのではないか、と。
そうなのかもしれません。
それは、本作品が主張する内容ともよく合致します。
曹植はこの文章を、焦燥感に駆り立てられつつ書いたのかもしれません。
時に、文章に小さい綻びのような乱調が感じられるのも、
あながち気のせいとも言えないかもしれません。
まだ全文を読み通したわけではないので、あくまでも感触ですが。
2020年12月18日
言葉にはできない
こんばんは。
白居易と元稹との交往詩を読んでいる演習の授業で、
今日は、白居易「寄微之」*1に応酬した、元稹「酬楽天歎損傷見寄」*2を読みました。
通州司馬から虢州長史に遷った元稹を元気づけようとする白居易詩に対して、
元稹は次のような詩を返しています。
前途何在転茫茫 前途は何(いづ)くにか在る 転(うた)た茫茫たり
漸老那能不自傷 漸く老いては 那(なん)ぞ能く自ら傷まざらん
病為怕風多睡月 病みては 風を怕るるが為に 多く月に睡(ねむ)り
起因行薬暫扶床 起きては 行薬に因りて 暫(しば)し床に扶(よ)る
函関気索迷真侶 函関 気 索(さび)しくして 真侶を迷はしめ
峡水波翻礙故郷 峡水 波 翻りて 故郷を礙(さまた)ぐ
唯有秋来両行涙 唯だ 秋来 両行の涙有り
対君新贈遠詩章 君に対して新たに贈る 遠き詩章
なんとも唐突に感じられるのは、最後から2行目、
「ただ、秋よりこのかた、二筋の涙が流れているばかり」という句です。
この時、元和十四年の秋、元稹は幼い娘を亡くしています。
そのことが背景としてあっての涙なのでしょうか。*3
しかし元稹は詩中でそのことに一言も触れていません。
心身ともにひどく憔悴している自身の近況を詠じているばかりです。
相手の詩に酬いるのに、娘の夭折を詠ずるわけにはいかなかったのかもしれません。
その後、このことを告げる詩なり書簡なりを白居易に送ったのでしょうか。
それが「君に向けて、新しく送る、遠方からの詩篇」でしょうか。
それとも「遠詩章」とは、この応酬詩をいうのでしょうか。
ちょっとはっきりとは読み取れません。
ただひとつ思ったのは、心の中で一番大きな部分を占めていることは、
とりわけそれがつらくて悲しいものである場合は、
すぐに言葉にはできないものなのかもしれないということです。
本人も敢えて触れないでいることに、
他人が踏み込んで、勝手な憶測をするなんて罪深いことなのかもしれません。
なお、演習の授業方法を変えようかと考えていましたが、
少なくともあと一年間は、この罪深い考察を続けてみることにします。
2020年12月17日
*1 白居易「微之に寄す」(『白氏文集』巻18、1144)
*2 元稹「楽天が損傷を歎じて寄せらるるに酬ゆ」(『元氏長慶集』巻21)
*3 呉偉斌輯佚編年箋注『新編元稹集』(三秦出版社、2015年)p.4897~4898は、本詩を娘の夭折より前の作だとしている。本詩は元稹自身の不幸を詠ずるばかりで、娘の夭折に対する感情を詠じていないというのがその理由である。
論拠とベクトル
こんばんは。
今日、研究生に向けての授業で、次のような話をしました。
古詩(漢代詠み人知らずの五言詩)の中には別格の一群がある。
その一群の存在に着目すれば、古詩の成立年代を推定することができる。*
このたった2行に尽きるベクトルの上に、
具体的な根拠と、そこから導き出される結論を述べようとすれば、
かなり刈り込んでも、90分1コマの時間が必要です。
それで、研究というものは、論拠がすべてなのだと気づかされました。
どんな論者であっても、根拠なくして、人にその所論を納得してもらうことはできません。
この点、学問は本来的に非常にフラットな世界なのだと私は思います。
また、自分が論文の読者である場合は、
列挙された論拠に目を奪われるばかりではなく、
その底を貫いて走るベクトルを的確にキャッチできる人でありたいと思いました。
誤読されると、それを論じた人は寂しさを感じるでしょう。
(この点、同じ言葉で書かれていても、詩や小説といった文学作品とは異なっているのでしょう。)
もちろん、その論旨をきちんと把握した上で、
そこから自由に着想を得、考察を展開するのは大歓迎されることだろうと思います。
2020年12月16日
*こちらの著書№4の第一章、及び第二章の第一節で述べた内容です。
模倣と創作と著作権
こんばんは。
来週の「日中比較文学論」で、魯迅に与えた日本近代文学の影響を取り上げます。
それで、秋吉收『魯迅 野草と雑草』(九州大学出版会、2016年)を読み返していました。
魯迅の散文詩集『野草』が、日本の近代文学からどれほど多くの素材を摂取しているか、
厖大な質量の資料を元手として、精緻で行き届いた論証が展開されています。
昨年の授業で交換留学生に今一つ伝わらなかったところは、
『晨報副刊』所掲作品と『野草』執筆の準備期間との関連性を明示するつもりです。
ところで、この授業ではずっと、現代的な著作権の問題が伏流しています。
古来、日本の文学がどれほど中国文学から直接的な影響を受けているかを知った学生が、
それを現代的常識に照らして、どうなんだろうと疑問に感じたようで、
これは、そこから浮かび上がってきた問題意識なのです。
この問題について、今回真正面から取り上げることができるかもしれません。
というのは、秋吉收氏が本書の「あとがき」で触れているように、
魯迅自身が“模倣による創作”という流儀にコンプレックスを抱いていたらしいからです。
言うまでもなく、こうした表現手法は古来中国には普通にあったものですが、
近代初頭に位置する魯迅には、それが後ろめたいこととして感じられていたらしい。
時代が大きく切り替わる、その狭間を生きた人ならではの苦しさだったのかもしれません。
それにしても、これは本当に凄い本で、毎年この授業で紹介できることに誇りを感じます。
本物の論著を世に問える研究者がここにいる、と指し示すことができる誇らしさ。
自分の研究成果ではないのに、この世界もまだまだ捨てたものではないと嬉しくなるのです。
このような研究に触れると、自分もがんばろうと元気が湧いてきます。
2020年12月15日
李善注をめぐる想像
こんばんは。
李善注には時々、一見不用ではないかと思われるようなものが見られます。
今日も、次のような事例に遭遇しました。
本文「伏見先武皇帝武臣宿兵、年耆即世者有聞矣」の「即世」に対して、
李善は「左氏伝、子朝曰、太子寿、早夭即世」と注しています(『文選』巻37/9a)。
本文を読み下せば、
「伏して見るに先の武皇帝が武臣宿兵、年耆(お)いて世に即く者に聞こゆる有り」、
これを訳せば、
「愚考するに、先の武帝の武将や老練の兵士は、年老いて逝去した者に高い評判がある」。
この本文で、「即世」すなわち逝去したのは、武帝に従った将軍や兵士たちです。
ところが、李善が指摘する『春秋左氏伝』昭公二十六年の記事を見ると、
「即世」の主語は、周の景王の太子寿とその母穆后で、
その後に続くのは、単旗・劉狄が私心から年少者を立て、先王の制に違ったという記事です。
本文と李善注とは、まったく文脈がかみ合っていません。
それに、「即世」という語は、『左伝』のこの部分以外にも用例は少なくないものです。
では、李善はなぜ、わざわざ上記の注を付したのでしょうか。
こういぶかしんでいたのですが、
『左伝』のこのあたりの部分を翻訳で読み、何かひっかかりを覚えました。*
それは、李善が示すとおり、「子朝」の諸侯への布告を記す部分だったのですが、
李善が敢えて「子朝曰」としたのには、意図するところがあったと考えるべきでしょう。
「子朝」は、景帝の子、王子朝。
当初、景帝は彼を立てようとしていたが、たまたま崩御し、国人は長子の猛を王に立てた。
子朝は猛を殺し、晋人は、子朝を攻めて、丏を立てた。それが敬王である。
『史記』巻4・周本紀には、このようなことが記されています。
李善はこう考えたのかもしれません。
曹植は、『春秋左氏伝』を熟読している。
だから、文脈は異なっても、『左伝』の言葉が自然と出てきたのだろう。
それに、『左伝』昭公二十六年のこの記事は、魏にもあった後継者争いを想起させる。
そのことに、曹植の意識が向かっていたとは十分あり得ることだろう、と。
曹植は自身を周公旦になぞらえましたが、
それをする以上、周王朝全般の歴史に拠って熟考していたはずだ、
と、李善は指摘しておきたかったのかもしれません。
この想像の当否はともかく、
李善の注釈態度に、単なる博引旁証とは言い切れない何かを感じたので記しておきます。
2020年12月14日
*小倉芳彦訳『春秋左氏伝』下(岩波文庫、1989年)p.269―271を参照。
日常に美を見出した表現者たち
こんばんは。
『アンリ・ル・シダネル展』カタログ(2011年)を、*
今日、広島市立図書館から借りてきました。
縁あって、来年度、このフランスの画家と絵画に関連する話を、
公開講座のひとつで担当することになったので。
図録や解説を閲覧しながら、
その日常の中に美を見出していく姿勢に惹かれました。
そして、こうした美意識は、唐代の詩人、白居易とも通ずると感じました。
そういえば、以前の公開講座で、
薔薇を詠じた白居易詩について話したことがありますが、
それは、このカタログの展覧会に連携する講座であったことを思い出しました。
シダネルは、ジェルブロワという町に構えた自宅の庭に薔薇園を作り、
この古い街を、薔薇でいっぱいにしたそうです。
一方、白居易も、自宅の庭園を非常に愛し、その様子を詩文に描写しましたし、
また薔薇の花を、まるで人を愛しむかのように詠じてもいます。
自然物に向かって、人に対するかのように語りかける詩人と、
庭や窓辺に咲く花やテーブルなど、日常生活の中の情景を愛しみながら描く画家と、
その感性において共鳴するものがあるように感じます。
19世紀末のフランスの画家と、9世紀の中国の詩人と、
こんなにかけ離れていても響き合うものがある、ということは、
日常の中に美を見出して表現するということの普遍的価値を示唆しているでしょう。
白居易の作品は自分の専門ではないけれど、
縁あって、これを読む経験を積んできてよかったと思いました。
2020年12月11日
*監修・執筆:ヤン・ファリノー=ル・シダネル、古谷可由
*翻訳:古谷可由、小林晶子
初めて見た李善注
こんばんは。
『文選』李善注で、「漢書文也」というだけのものに遭遇しました。
私としては初めて見るスタイルの注記だったので、
この曹植「求自試表」(胡刻本『文選』巻37/8b)以外にもあるのかと調べてみました。
すると、類似する注記として、
班彪「王命論」(『文選』巻52/3b、4a)に「史記文」とありました。
後から出典を追記するのにコンパクトな表記にしたのか、
それとも、『史記』や『漢書』からの直接引用であることを敢えて示そうとしたのか。
「王命論」の冒頭近くには「論語文也」という注記もあって、
このような書物が見落とされるはずはないので、追記説は苦しいかもしれません。
ところで、班彪(3―54)は、その息子の班固が著した『漢書』を見ずに没していますが、
その「王命論」に対する李善注では、著者が未見のはずの『漢書』が随所に引かれています。
これは、いずれ『漢書』に流れ込んでいく記述内容だという認識からの注記なのか、
それとも、ただ単に、『漢書』に記されている内容が、
「王命論」に踏まえられているということを指摘するだけなのでしょうか。
前漢時代の出来事を注記しようとしたら、『漢書』を挙げるほかないのかもしれませんが。
2020年12月10日