曹植と魚豢(承前)

こんばんは。

昨日に続き、曹植と魚豢とのつながりに関する考察です。
二人はともに、同じ「韓詩」に由来する表現をしているというだけでしょうか。
それとも、魚豢の表現は、曹植の言葉から直に何物かを受け取った結果なのでしょうか。

まず、曹植の「求自試表」にいう「尸禄」は、
「韓詩章句」に由来する語ですが、『詩経』魏風「伐檀」には見当たりません。
また、魚豢の文章に見えていた「尸素」という語は、
前述の「韓詩章句」に由来する、曹植が用いていた「尸禄」と、
『詩経』魏風「伐檀」にいう「彼君子兮、不素餐兮(彼の君子は、素餐せず)」の
「素餐」とを組み合わせたものでしょう。

いずれにせよ、曹植と魚豢とがともに用いる「尸」は、「韓詩章句」を経てこそ出てくる語です。
二人はともに、たしかに「韓詩」によって『詩経』を受容していると言えます。

では、二人の間に直接的な影響関係はあるでしょうか。
結論から言えば、それは明らかにあります。

というのは、曹植と魚豢の文章が共有する「虚授」「虚受」という語は、
『詩経』本文はもちろん、「韓詩章句」にも見えていないからです。
つまり、魚豢が、曹植の文章の中にこの語を見出し、これを踏襲したのだということです。

そういえば、魚豢は曹植の文章について、次のような言葉を残していました。

余毎覧植之華采、思若有神。以此推之、太祖之動心、亦良有以也。
 余は植の華采を覧る毎に、神有るが若しと思ふ。
 此を以て之を推せば、太祖の心を動かせるは、亦た良(まこと)に以(ゆえ)有るなり。
 (『魏志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く)

これにより、魚豢はたしかに曹植の作品を愛読していたと知られます。

2020年11月19日

曹植と魚豢

こんばんは。

『魏略』の撰者魚豢に、今日、思いがけないところで再会しました。
(かつてこちらの学術論文№41で論じたことがある人です。)

読んでいたのは、曹植「求自試表」(『文選』巻37、『魏志』巻19・陳思王植伝)、
その中に、次のようなフレーズがあります。

君無虚授  君主は根拠もないのにむなしく官職を授けることがなく、
臣無虚受  臣下は根拠もないのにむなしくそれを受け取ることがない。
虚授謂之謬挙  根拠もないのにむなしく授ける、これを誤った人材登用といい、
虚受謂之尸禄  根拠もないのにむなしく受ける、これを給料泥棒という。
詩之素餐所由作也  『詩経』の「素餐」の詩(魏風「伐檀」)が作られたわけである。

この表現は、『文選』李善注の指摘によれば、
『詩経』解釈の一派「韓詩章句」にいう次の記述を踏まえたものです。

何謂素餐。素者質也。人但有質朴、而無治民之材、名曰素餐。
 何をか素餐と謂ふ。素とは質なり。人の但だ質朴有るのみにして、民を治むるの材無き、
 名づけて素餐と曰ふ。
尸禄者、頗有所知、善悪不言、黙然不語、苟得禄而已、譬若尸矣。
 尸禄とは、頗る知る所有るに、善悪を言はず、黙然として語らず、
 苟(かりそ)めに禄を得るのみなること、
 譬ふれば尸(しかばね)の若し。

さて、清朝の陳喬樅「韓詩遺説攷」五は、*
曹植「求自試表」の前掲部分を挙げ、
また、魚豢の言(『魏志』巻3・明帝紀の裴松之注に引く)にいう、
次のフレーズを併せて引いて、両者はともに韓詩に基づくと指摘しています。

為上者不虚授  上の位にある者は、根拠もないのにむなしく官職を授けず、
処下者不虚受  下に居る者は、根拠もないのにむなしくそれを受け取らない。
然後外無伐檀之歎  そうして後に、外には「伐檀」の嘆きが無くなり、
  内無尸素之刺  内には給料泥棒の風刺が無くなる。

曹植と魚豢とは、ほぼ同時代の人ではありますが、一見接点はなさそうな二人です。
それが、どういうわけでこのように近似した表現をしているのか、
もう少し考えてみたいと思います。

2020年11月18日

*陳寿祺撰・陳喬樅述『三家詩遺説考』(王先謙編『清経解続編』巻1154)所収。

第三者に読まれる手紙

こんばんは。

以前にも触れたことがありますが、
曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)と、楊修の「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)は、
曹丕に読まれていた可能性が極めて高いと判断されます。

楊修が、曹植とのやり取りの中で紡ぎだした、
「不忘経国之大美、流千載之英声(経国の大美を忘れず、千載の英声を流す)」が、
曹丕「典論論文」(『文選』巻52)にいう、
「蓋文章経国之大業、不朽之盛事(蓋し文章は経国の大業、不朽の盛事なり)」と酷似し、

曹植・楊修の往復書簡と、曹丕の「典論論文」とでは、
前者が後者に先行していること、すでに先行研究によって論証されています。*

ということは、曹丕が楊修の書簡からかの文辞をいただいたということになるでしょう。

曹丕「典論論文」の冒頭にいう「文人相軽んず」の言も、
前掲の先行研究が夙に指摘しているとおり、
曹植の書簡に開陳されていた、無防備な文人批評を意識してのものでしょう。

当時、書簡はすでに文学的に成熟していたので、
これを第三者が読むことは大前提とされていたのでしょうか。
それとも、父曹操の後継者をめぐる緊迫した情況の下、
曹丕は曹植らの書簡を盗み見ながら、その動向に目を光らせていたのでしょうか。

曹植がその書簡の末尾にいう「書不尽懐(書は懐ひを尽くさず)」、
あるいは、楊修の返書の、真意を隠すかのような持って回った述べ方の背後には、
もしかしたら、そうした事情が隠されているのかもしれません。
曹植は何ものにも頓着していない可能性もありますが、
少なくとも楊修の書面が見せる韜晦の表情は、
注意深く構えられたものと見た方がよいように思います。

2020年11月17日

*岡村繁「曹丕の「典論論文」について」(『支那学研究』第24・25号、1960年)を参照。

曹植「与楊徳祖書」の目的

こんばんは。
久しぶりにここに戻ってきました。

先週、やっと曹植の「与楊徳祖書」の通釈を終えました。
まだ解題ができていないので、訳注稿に提示することはできていませんが。

改めてこの書簡の全体を通して訳出すると、
いよいよその内容を過たず把握することの難しさを痛感しました。
話題があちらこちらへと散って、表面上ではその一貫性を見出しにくいのです。
ですが、散らばった話題が相互に伏線となって絡み合いつつ、
ひとつの依頼を為しているようにも読めます。

この書簡は何を目的としてしたためられたものなのか。
それは、この文献が文学評論の資料として取り上げられることとは別に、
一度きちんと押さえておくべき問題ではないかと思いました。

この問題を解明するためには、
楊修からの返書「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)を押さえる必要があるでしょう。
ただ、楊修のこの文章もまた、その真意を明確には記していません。

とはいえ、両者の書簡いずれにも、
具体的な辞句の裏側、意識の底に流れているものがあるはずです。
耳を研ぎ澄ませば、それを聴き取ることができるでしょうか。

2020年11月16日

言語表現の質的転換

こんばんは。

曹植の「薤露行」にいう「人居一世間、忽若風吹塵」は、
「古詩十九首」其四(『文選』巻29)にいう「人生寄一世、奄忽若飆塵」を踏まえています。
また、その第一句「天地無窮極」は、
同じ曹植の「送応氏詩二首」其二(『文選』巻20)にいう
「天地無終極、人命若朝霜」の上の句とほとんど一致しています。
(本詩全体の通釈や、各句の訓み下しについては、こちらの訳注稿をご覧ください。)

「古詩」は、漢代の宴席で生成展開してきたジャンルです。
また、如上の別れの詩は、旅立つ人を見送る宴席で作られました。
この両者に共通するのは、その作品生成の場が宴席であったということです。
ならば、これらの作品と濃厚な影響関係を持つ曹植「薤露行」もまた、
同質の場で作られたものだと推測できるでしょう。

と考えていたのですが、
この論法は、曹植作品のすべてに対して適用できるわけではないと思い至りました。

たとえば、「贈白馬王彪詩」にいう「人生処一世、去若朝露晞」は、
かの李陵が蘇武を説得する科白「人生如朝露、何久自苦如此」(『漢書』蘇武伝)、
古歌辞「薤露」の「薤上朝露何易晞、露晞明朝更復落、人落一去何時帰」を彷彿とさせます。
(本詩全体の通釈や、各句の訓み下しについては、こちらの訳注稿をご覧ください。)

李陵と蘇武の故事は、漢代の宴席で語られ演じられていた可能性が高いものです。
こちらの学術論文№28で論究しています。)
また、「薤露」が後漢時代の宴席で歌われていたことは、すでにこちらでも述べたとおりです。
さらに言えば、前掲の「送応氏詩二首」其二にいう「人命若朝霜」をも思わせます。

この他、「贈白馬王彪詩」には、「古詩」や「蘇李詩」を踏まえる表現も散見します。
たとえば、前掲「古詩十九首」其一の「棄捐勿復道」を踏まえた「棄置莫復陳」、
「古詩十九首」其十一の「人生非金石」を踏まえた「自顧非金石」、
蘇武「詩四首」其三(『文選』巻29)の「去去従此辞」を思わせる「援筆従此辞」等々。
(「蘇李詩」が「古詩」の一分派であることは、前掲学術論文№28に述べました。)

ですが、「贈白馬王彪詩」は、単なる宴席文芸であるとはとても言い切れません。
では、「薤露行」や「送応氏詩二首」等と何が違っているのでしょうか。
ここに、言語表現の質的転換を見ることができるように思いますが、
それは第三者に証明して見せることはできるのでしょうか。

2020年11月6日

文学評論というよりも

こんばんは。

曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)の語釈が、やっとひととおり終わりました。
まだ本文を訳出していないので、これはあくまでも印象に過ぎませんが、
この書簡は、よく言われるような文学評論というよりも、
肝胆相照らす友人に、文学的雑感を書き送ったもののように感じました。
(身近な文人たちに対する遠慮会釈のない批判を大いに含む)

辞賦は小道であり、自分の本懐は、藩侯としての責務を全うことにあるとする主張も、
楊修に自作の辞賦を送ることへの言い訳めいた謙遜の文脈で出てきます。
楊修は、曹植を曹操の後継者に押した、彼の側近の一人ですが、
曹植は楊修のことを、部下というより、文学的遊びでの親友と見ているように感じられます。

ところで、先に「与楊徳祖書」と曹丕の「典論論文」との関係性について、
集英社・全釈漢文大系『文選(文章編)五』に指摘するところを紹介しましたが、
これに先んじて、この問題を詳細に論ずる先行研究がありました。
岡村繁「曹丕の「典論論文」について」(『支那学研究』第24・25号、1960年)です。
特に、その成立年代の推定については非常に緻密な論が展開されています。

かつて読んだはずなのに、すっかり忘れていました。
恥じ入るばかりです。

2020年11月5日

曹操の自己認識

こんばんは。

曹操は、曹植からのみならず、自身でも自らを周文王や周公旦になぞらえていたのでしたが、
この自己認識は、若い頃から終始一貫していたわけでもなさそうです。

たとえば、初平2年(191)、袁紹のもとを離れた荀彧を配下に迎え入れた曹操は、
大いに喜び、彼を「吾之子房也」と称しています。(『魏志』巻10「荀彧伝」)
子房すなわち張良は、漢の高祖劉邦に仕えて、その天下制覇を支えた智者です。
荀彧を張良だという以上、自身は漢の高祖だということになるでしょう。

また、興平元年(194)、陶謙の没後すぐに徐州を奪取しようとした曹操を、
荀彧は、漢の高祖や後漢の光武帝を引き合いに出して諫めています。(同上「荀彧伝」)
これは、曹操と荀彧との間に、共通認識として、
劉邦にも比すべき覇者への道が見えていたということを物語るでしょう。

更に、建安元年(205)、曹操が袁譚を南皮に破ると、臧覇らが祝賀に集まり、
自身の子弟や将軍たちの父兄家族を鄴に赴かせようとしましたが、
曹操は彼らの忠孝を、劉邦に対する蕭何、光武帝に対する耿純に比しています。
(『魏志』巻18「臧覇伝」)

ということは、王朝を打ち立てた漢の高祖や光武帝に自身をなぞらえているのです。

こうしてみると、比較的若い頃の曹操は覇者たらんとする野心を持っていたが、
自身の力が圧倒的になっていくにつれ、周囲の状況を勘案しつつ、
その自らの立ち位置を修正していったと言えるようです。

建安15年(210)に発布された「述志令(己亥令)」では、
自らの来し方を振り返り、終始一貫して寡欲であった自身をアピールしていますが、
それは多分に、後から意味づけ直され、演出されたものだったでしょう。

2020年11月4日

曹植の中の曹操像

こんばんは。

昨日述べたように、
曹植は「惟漢行」で、自身を周公旦に、曹操を周文王になぞらえていたのでしたが、
曹操も、自らを周公旦になぞらえていました。

曹操「短歌行・対酒」(『宋書』巻二十一・楽志三、『文選』巻二十七)にこうあります。

周公吐哺   周公は食事も中断して客人を手厚く迎えたが、
天下帰心  このようであったからこそ天下の人民は心を彼に寄せるのだ。

ここに詠じられた周公旦は、言うまでもなく曹操自身がかくありたいと願った人物像です。
曹操は、あくまでも後漢王朝の臣下として献帝を補佐する立場を取りました。
そのことを表明する上で、周公旦という人物を持ち出すことは効果的だったでしょう。

さて、この周公旦の逸話は、曹植の「娯賓賦」においても用いられ、
そこに描かれた、人を大切にする君主は曹操だと推定できるのでした(2020年8月3日)。
若き日の曹植は、自身の父を周公旦のような人物だと捉えていたのでしょう。
前掲の「短歌行・対酒」はもちろん実際に聴いていたはずですし。

すると、曹植が「惟漢行」において自身を周公旦になぞらえたということは、
その社会的立場の取り方において、父曹操のあり様を踏襲しようとしたということになります。
曹丕のように、実際的な意味において父の後継者となるのではなく、
君主たる者を支える立場を取るというその姿勢において、
曹植は父の跡を継ごうとしたということです。

ただ、その望みはあえなく潰えて実現しなかったのでしたが。

2020年11月3日

曹植における「惟漢行」制作の動機

こんばんは。

先週末、六朝学術学会報に論文を投稿しました。
「曹植における「惟漢行」制作の動機」というタイトルで、
その内容は、以下のとおりです。
(このところ、ここに考察経過を書いてきた内容を練り直したものです。)

曹植の「惟漢行」は、
自身を周公旦に重ねつつ、即位したばかりの明帝を戒める詩である。
本歌の曹操「薤露・惟漢二十二世」が持つ挽歌としての要素を、この詩は持たない。
それなら、他の楽府題に乗せて詠じてもよかったはずだ。
では、なぜ敢えて曹植は、曹操の「薤露」に基づくことを標榜したのか。
それは、彼自身の若い頃の作「薤露行」の続編であることを示すためである。
「薤露行」は、明君を補佐することへの意欲を高らかに詠じた作品で、
その明君とは、父であり魏国王である曹操である。
曹植は、父の生前、その期待を裏切ってばかりの不肖の息子であったが、
甥の明帝が即位するに至って、
自身が周公旦に相当する立場にあることに改めて思い至った。
そして、周文王に匹敵する我が父曹操の事績を示しつつ、
成王に当たる若き明帝を補佐しようという志を「惟漢行」に詠じたのである。
これは、亡き父から受けた恩愛に報いることであり、
不甲斐ない過去の自分をもう一度生き直そうと宣言することでもあった。

ひとつ、後から書けばよかったと思ったことがあります。
それは、曹操自身も自らを周公旦になぞらえているということです。
このことについてはまた明日に。

2020年11月2日

ひきこもり宣言

こんばんは。

本日から一週間、こちらへは出てこずにひきこもります。

11月2日にはまた戻ってくることを期して、ここに記しておきます。

2020年10月26日

1 40 41 42 43 44 45 46 47 48 80