曹植と孔融

こんばんは。

曹植「求自試表」(『文選』巻37)に、次のような一節があります。

昔賈誼弱冠求試属国、請係単于之頸而制其命、
終軍以妙年使越、欲得長纓占其王、羈致北闕。

昔 賈誼は弱冠二十歳にして属国の官として試されんことを求め、
単于の首をとらえ、その命を制圧せんと申し出た。
終軍は年若くして越に使者として赴くのに、
長い纓(冠の紐)を拝受し、その王を占し、拘束して宮殿の北門まで連れてこようとした。

李善注の導きにより、これに類似する表現が、
孔融の「薦禰衡表」(『文選』巻37)に、次のとおり見えていることが知られます。

昔賈誼求試属国、詭係単于、終軍欲以長纓、牽致勁越。
昔 賈誼は属国に試されんことを求めて、単于を係(つな)ぐと詭(いつは)り、
終軍は欲するに長纓を以てして、勁越を牽(ひ)き致さんとす。

ここに用いられた逸話は、それぞれ『漢書』に次のとおり記されています。

巻48・賈誼伝に引く彼の文帝に対する上疏;
陛下何不試以臣為属国之官、以主匈奴。行臣之計、請必係単于之頸而制其命。
陛下 何ぞ試みに臣を以て属国の官と為し以て匈奴に主たらしめざる。
臣の計を行ひて、請ふらくは必ずや単于の頸を係ぎて其の命を制せんことを。

巻64下・終軍伝;
南越与漢和親、乃遣軍使南越、説其王、欲令入朝、比内諸侯。
終軍自請、願受長纓、必羈南越而致之闕下。
南越 漢と和親せんとし、乃ち軍を遣はして南越に使ひし、其の王に説かしめ、入朝して、諸侯に比(なら)び内(い)れしめんと欲す。
終軍 自ら請ふらく「願はくは長纓を受け、必ず南越を羈(つな)ぎて之を闕下に致さんと」と。

『漢書』、孔融「薦禰衡表」、曹植「求自試表」を照らし合わせてみると、
『漢書』には無いけれど、孔融・曹植の表に揃って見いだせる表現というものがあって、
その顕著なものが「求試属国」です。
また、曹植は、賈誼と終軍とを並べる発想を、孔融から受け取ったのかもしれません。

曹植は、孔融のこの文章を自身の中に蓄積していたのでしょうか。
もしそうだとすると、とても興味深く思います。
というのは、禰衡も孔融も、曹植の父曹操をたいそう不快がらせた人物たちだからです。
こちらの[曹操の事績と人間関係]で検索してみていただければ幸いです。)
孔融が処刑されたのは建安13年、時に曹植は17歳でした。
そうしたこととは関係なく、曹植は孔融の文章を愛読していたのでしょうか。

2020年12月9日

電子資料[曹操の事跡と人間関係]の公開

こんばんは。

電子資料[曹操の事跡と人間関係]の公開が実現しました。
アプライドの濱田様には、たいへんな作業を完遂していただきました。

これは、高秀芳・楊済安編『三国志人名索引』(中華書局、1980年)を手引きとして、
『三国志』の本文及び裴松之注に出てくる曹操の事跡を網羅したものです。
原文のままではなくて、多少端折ったり補足したりもしています。
現行の中華書局標点本と、ちくま文庫『正史三国志』のページ数を記しているので、
御覧になるのに便利かと存じます。
どうぞご利用ください。
間違い等があればご教示いただけるとありがたく存じます。

曹操はその生涯、いったいどれほど多数の人々と関わったのでしょうか。
その傘下には、全国から陸続と優秀な人々が集まってきました。
あまりにも大勢いるので、中にはその存在を忘れられる人もいたようです。
他方、曹操の招きにどうしても応じない人々もいました。
そうした人々のことも、この歴史書はたしかに書き留めています。

この資料を作り始めたのは、もう20年近く前のことです。
その頃のことを思うと、少しだけ感慨に浸ってもいいかという気持ちです。

2020年12月8日

表現者の幸福

こんばんは。

曹植の作品を読みながらふと思いました。
彼は、特にその後半生、あまり報われることのなかった人ですが、
表現者としては、実はとても幸福な人だったのではないか、
自分はそれを確認したくて彼の文学に取り組んでいるのでないかということです。

まず、言葉によって自身の思いを表現している間は、
現実とは別の次元で、とても充実した幸福感を味わっていたはずだと思います。

それに、こうも考えます。

曹植の作品は、その死後、多くの人々に読まれ、その表現が継承されました。
近い時代では、『魏略』の撰者魚豢、竹林七賢の阮籍、嵆康、西晋の陸機、潘岳らです。
彼は後の時代の人々にたくさんの贈り物をしたのです。

本人はすでにこの世にはいないのだから、無意味だという考え方もあるけれど、
どこかで彼は、そのことを喜んでいるように思えてなりません。

見知らぬ他者に手渡される言葉を生み出した者こそが、真の文学者だと私は考えます。
そして、その「文学」というものの成立を、
曹植の表現の上にたしかに跡付けたいという研究の趣旨を自分は掲げています。

ですが、実は、曹植の上述のような表現者としての幸福を見届けたい、
それによって彼を弔いたいのだと思います。
(たいへん不遜な物言いですが、思うのは自由ですから。)

2020年12月7日

演習授業の方法

こんばんは。

昨日は、曹植の「求自試表」について、
明帝を周の成王に重ねているという点から見るとその趣旨が明瞭になる、
といったふうなことを述べたばかりなのですが、
今日は、当時の三国鼎立の情勢を、周の宣王の故事に重ねるくだりに遭遇しました。
この作品は、まだ半分も読んでいません。
まだ見通しを立てる段階にはない、と戒められたように感じました。

ところで、私はこれまで(少なくとも十年以上)、
演習科目では白居易と元稹との交往詩を読み続けてきました。
それは、学生に古典文学作品と直に向き合ってほしいという願いからです。
加工された情報ではなく、直接、古人の言葉に触れる体験をしてほしかったのです。
ですが、来年度からこの方法はやめにして、
比較的多くの同僚たちが取っている授業の方法、つまり、
自分で見つけたテーマで研究発表をするという方式にしようかと考えています。
学生たちが置かれた情勢の流れる速度に、
私が長らく保持してきた授業方法が適合しなくなっていると感じるのです。

ただ、中国古典文学という非常に大きなものを相手に、
半年かそこらで何かを論じることができるようになると考えることは、
大変に不遜というかなんというか。
論じるというより、興味を以て近づいてみる、というくらいがよさそうです。
そして、論じるときは、必ず原文に触れて、そこから引き出されたものであること。
こうした条件を示すならば、私の思いも学生たちに通じるでしょうか。

2020年12月4日

少しずつ明らかに

こんばんは。

少しずつ読み進めている「求自試表」(『文選』巻37)ですが、
李善注に従って読むほどに、明帝が即位して間もない頃の曹植の思いが明らかとなってきました。

やはり、この上表文は、彼の「惟漢行」と緊密に結び合っています。
明帝の歴史的位置を、周の成王になぞらえて表現する句が踵を接して現れるのです。
すると、成王を補佐した周公旦のことも、当然これに付随して想起され、
そこに浮かび上がってくるのは、曹植が望む、魏王朝における自身の立ち位置です。

王朝の中で役割が与えられないという自身の不遇を訴えるよりも、
自身が明帝を補佐する立場となることは、歴史的必然性として主張されているようです。
幼少期からその将来を嘱望されてきた人ならではの、迷いの無さです。

それにしても、李善は実に多くのことを示唆してくれます。
それにかかる時間は、現代社会において物事が進む速度とは大きくかけ離れていますが、
これはどうしても必要なことです。

2020年12月3日

忘れ去られないように

こんばんは。

広島の漢詩人、平賀周蔵という人物の作品を読むことにしました。
宮島に遊んだことを詠ずる詩を、比較的多く作っているのが目に留まりまして。

江戸時代中期から後期の人で、広島藩の重臣浅野士敦に仕えたそうです。
本名よりも、平賀蕉斎という号の方で知られているようです。
その作品集として、『白山集』『独醒庵集』『蕉斎筆記』があって、
岩波『日本古典文学大辞典』にも記載があります。

ところが、この人物や作品を論じた先行研究が、
日本の論文データベースCiNii(https://ci.nii.ac.jp/)にも、
科学研究費助成事業データベースKAKEN(https://kaken.nii.ac.jp/ja/index/)にも、
見当たりません。

CiNiiは、単行本に収録された論文は網羅していないので、
もしかしたら、論文集所収の先行研究があるのかもしれませんが。

非常に意外な感じがしました。
やはり、漢文というだけで敬遠されているのでしょうか。

その宮島遊覧の詩は、『藝藩通志』『宮島町史』に翻刻はされていますが、
ほとんど本格的に読まれていないのならば、これを紹介する意義はあるだろうと思います。

2020年12月2日

曹植の神仙楽府

こんばんは。

曹植の五言詩は、漢代宴席文芸である古詩や蘇李詩を基にしながらも、
そこから離陸していく部分をたしかに持っています。
こちらでも少し言及しました。)

同様のことは、神仙を詠じた彼の楽府詩にも認められるように思います。
矢田博士「曹植の神仙楽府について―先行作品との異同を中心に―」(『中国詩文論叢』9号、1990年)は、
このことを指摘して次のように論じています。

a.神仙楽府は、漢代、宴会用の祝頌歌辞として、主人の延命長寿を祈願して作られた。
b.曹植は、神仙そのものに懐疑的である一方、それを詠ずる楽府詩の創作には積極的である。
c.曹植の神仙楽府の中には、現実世界に対する批判を含むものがある。
d.それらの作品では、現実否定が、仙界へ飛翔する動機として描かれる傾向にある。
e.現実世界からの逃避として仙界を目指すという発想は、『楚辞』遠遊にヒントを得たものだろう。
f.時の為政者を諷諌する際、神仙の要素は、詠ずる者の身を守る安全弁として機能しただろう。

矢田氏の所論の中で、特に興味深いのは上記のcとdです。
これらは、漢代の宴席で行われていた神仙楽府詩とは一線を画するところでしょう。

こうした表現構造は、魏晋の間を生きた阮籍の「詠懐詩」を彷彿とさせます。*

2020年12月1日

*阮籍「詠懐詩」の表現的基本構造については、大上正美「阮籍詠懐詩試論―表現構造にみる詩人の敗北性について―」(『漢文学会会報(東京教育大学漢文学会)』第36号、1977年。『阮籍・嵆康の文学』創文社、2000年に収載)に夙に指摘する。あわせて、柳川順子「阮籍「獼猴賦」試論」(『日本中国学会報』第38集、1986年)をも参照されたい。

少し弱音を吐きます。

こんばんは。

『文選』所収作品を李善注に従って読んでいると、
典拠となった原典を探索するうちに、はっとするような言葉にめぐり合うことがあります。

先週は、『論語』衛霊公篇にいう次のようなフレーズに出会いました。

子曰、賜也、女以予為多学而識之者与。対曰、然。非与。曰、非也。予一以貫之。

先生が言った。賜(子貢)や、おまえは私のことを多く学んで覚えている人間だと思うか。
子貢は答えた。はい。違いますか。
先生は言った。違うんだよ。私はひとつのことでもって貫いている。

多くの知識をお持ちの先生だが、それらには通底するテーマがあるのだ、
と知った子貢は、その後どう変化したでしょう。(あるいは変わらなかったでしょうか。)

子貢には、目から鼻へ抜けるような賢さを持つ人というイメージがありますが、
そんな彼だからこそ、孔子はこう語って聞かせたのかもしれません。

それはさておき、「一以て之を貫く」、私はこの言葉に非常に勇気づけられました。
この四半世紀ほど、時代の変化に応じて教育内容も変えるよう強く求められ続けてきましたが、
現代的な問題意識は、自身が今を生きている以上、当然持っていることです。
その上で、古典や文学の変わらぬ存在意義は何か、ひたすらに考え続けているのです。
ですが、時流に乗った言葉が行き交う中、必要とされないことはつらいです。
(孔子は苦労の連続でしたが、同志と呼びうる愛弟子たちがいたのはたいへんな幸福だと思います。)

2020年11月30日

曹植における『韓詩』の援用

こんばんは。

曹植の『詩経』解釈が多く韓詩に由来することは既に指摘されていますが、*1
「求自試表」(『文選』巻37)を読んでいて、またひとつ、そうした表現に出会いました。

今臣無徳可述、無功可紀、若此終年無益国朝、将挂風人彼己之譏。

今、私には述べるべき徳もなく、記すべき功績もないのに、
このようにして一生を終えるまで、国家王朝に何の寄与もしないならば、
きっと『詩経』国風の詩人が詠じた「彼己」の批判に抵触することになるでしょう。

「彼己」とは、曹風「侯人」にいう「彼己之子、不称其服(彼己の子、其の服に称はず)」で、
現行の『毛詩』では、「己」字を「其」に作っています。
同じ(近い)音を、「己」と「其」と、それぞれ別の文字で表記したものでしょう。

その趣旨は、曹植の引用を見る限りでは、現行の『毛詩』に同じだと見ることができます。
すなわち、その人の徳と、彼に対する待遇が釣り合わないという意味です。*2

この「彼己」という字が『韓詩』に基づくという推定は、
これまでにも何度か援用した陳喬樅の「韓詩遺説攷」六に見えます。*3
『後漢書』巻2・明帝紀の永平二年冬十月の詔にいう「詩刺彼己」とその李賢注が示され、
明帝は『韓詩』を学んだということが、『後漢書』巻29・郅惲伝等によって推定されています。*4
実に圧倒されるばかりの緻密な考証です。

さて、曹植が韓詩によって『詩経』を学んだ、そのことの意味は何でしょうか。
『詩経』を踏まえた曹植作品が、『韓詩』によって解釈されるべきだということはわかります。
では、曹植はなぜ『韓詩』に拠ったのでしょうか。
たまたまそれがそこにあったからなのか、選び取った結果なのか。
そこがわからない点です。

2020年11月27日

*1 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.22を参照。
*2『毛詩』鄭箋(鄭玄の『毛詩』解釈)に、「不称者、言徳薄而服尊(称はずとは、徳薄くして服尊きを言ふ)」とある。
*3 陳寿祺撰・陳喬樅述『三家詩遺説考』韓詩遺説攷六(王先謙編『清経解続編』巻1155)。
*4 陳喬樅の推定の根拠をかいつまんで紹介すると、『後漢書』郅惲伝に「及長、理『韓詩』『厳氏春秋』、明天文歴数(長ずるに及びて、『韓詩』『厳氏春秋』を理め、天文歴数に明るし)」、「(光武帝)後令惲授皇太子『韓詩』、侍講殿中(後に惲をして皇太子に『韓詩』を授け、殿中に侍講せしむ)」といい、この時、後の明帝はまだ皇太子ではなかったが、その永平三年の詔を見ると、彼が学んだのも『韓詩』であったと推定できる、と。

魚豢が捉えた文帝曹丕

こんばんは。

先日、一部を引用した魚豢の文章は、
その『魏略』で佞倖を批判する文章です(こちらの学術論文№41で全文を引用)。
その中で、少しばかりひっかかりを覚えるのが次のような記述です。

以武皇帝之慎賞、明皇帝之持法、而猶有若此等人、而況下斯者乎。

武帝(曹操)の恩賞に対する慎重さ、明帝(曹叡)の法を順守する姿勢を以てしても、
それでも、このような人々(君主にへつらい、私的な恩沢を受ける者たち)がいたのだから、
ましてこれ以下の者においては言うまでもない。

このとおり、魏王朝の初代皇帝、文帝曹丕がひとり無視されています。
曹丕は、その後に続く「斯(これ)を下る者」の中に含まれていたのでしょうか。

『魏志』裴松之注所引『魏略』に記された曹丕の事績を見ると、
もちろん王朝を統べる皇帝として行った事柄も当然記されてはいますが、
それ以上に目に付くのが、臣下たちに対する私(わたくし)的な理由による人事対応です。

具体例を、こちらの学術論文№34の第三章で挙げているので、ご覧いただければ幸いです。
(『魏略』以外の文献も引いていますが、『魏略』の記事が比較的多いです。)

このような事績を記している魚豢であればこそ、
そして、この種の不公平さにひどく鬱屈したものを抱えていた彼であればこそ、
前掲の文章において曹丕への言及が見えないのは、故意に無視した結果だと私は考えます。

2020年11月26日

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