元白交往詩雑感(1)
こんにちは。
昨日の演習で、白居易の「寄微之」(『白氏文集』巻18、1144)と、
これに応えた元稹の「酬楽天歎損傷見寄」(『元氏長慶集』巻21)とに対して、
両者の思いが少しすれ違っているように感じる、との感想が学生たちから寄せられました。
この交往詩については、つい最近こちらでも取り上げたことがあるのですが、
学生たちと考察する中で、新たに見えてきたこともありますので、
先には示していなかった通釈とともに再度取り上げます。
さて、白居易詩の自注「時微之為虢州司馬(時に微之は虢州の司馬為り)」から、
この唱和詩は、元和14年(819)の作であることが知られます。
時に、白居易は48歳、元稹は41歳です。
今日はまず、二首の詩を紹介します。
白居易「寄微之(微之に寄す)」
高天黙黙物茫茫 高き天は黙して語らず、万物は茫漠として捉えどころがないが、
各有来由致損傷 損傷を引き寄せるのには、各々しかるべき理由がある。
鸚為能言長翦翅 鸚鵡はおしゃべりがうまいために、翅を切られて長く拘束され、*1
亀縁難死久搘牀 亀はなかなか死なないという特性により、久しく寝台を支え続けることとなった。*2
莫嫌冷落抛閑地 零落してつまらぬ土地に投げ打たれたことを嫌がってはいけない。
猶勝炎蒸臥瘴郷 それでも、蒸し暑さの中で瘴気の立ち込める村に臥せっているよりましなのだから。
外物竟関身底事 一身外の富貴や名利など、結局この身と何の関係があるものか。*3
謾排門戟繋腰章 やたらと門戟を並べ立てたり、腰に印章をかけて見せびらかせたりすることとは。
元稹「酬楽天歎損傷見寄(楽天が損傷を歎じて見寄せらるるに酬ゆ)」
前途何在転茫茫 これから先の道はどちらにあるのか、いよいよ茫漠として捉えどころがない。
漸老那能不自傷 次第に年老いてきて、どうして自分を痛ましく思わないでいられよう。
病為怕風多睡月 病に臥せっては、風にさらされるのも怖くて、月明かりの下でひたすら眠り、
起因行薬暫扶床 起き上がっては、薬効を発散させるため、しばし寝台につかまって歩き回る。
函関気索迷真侶 函谷関は、物悲しい風土が道士を路に迷わせ、
峡水波翻礙故郷 三峡の水は、逆巻く波が長安への道を阻む。
唯有秋来両行涙 ただ、この秋以来、二筋の涙が流れるばかりだ。
対君新贈遠詩章 君に遠くから新たに詩を贈ろう。
たしかに学生たちの言うとおり、
白居易が、ひたすら社会的な意味での不運を慰めようとしているのに対して、
元稹の答えは、どこか虚ろで、白居易の言葉を受け留めきれていないようにすら感じられます。
官僚としての不遇感よりも、心身の健康状態の悪さの方が前面に出ている印象です。
このすれ違いは、どういうわけで生じたのでしょうか。
継続して考えていきます。
2021年1月8日
*1『文選』巻十三、禰衡「鸚鵡賦」に「性辯慧而能言兮、才聡明以識機(性は弁慧にして能く言ひ、才は聡明にして以て機を識る)」「閉以雕籠、翦其翅羽(閉づるに雕籠を以てし、其の翅羽を翦る)」と。
*2『史記』巻128、亀策列伝に「南方老人用亀支牀足、行二十餘歳、老人死、移牀、亀尚生不死(南方の老人 亀を用ひて牀足を支へ、行くゆく二十餘歳、老人死して、牀を移せば、亀は尚ほ生きて死せず)」と。
*3『荘子』外物篇に「外物不可必(外物は必とす可からず)」と。
学者の眼識
こんにちは。
昨日に続いて、『曹集詮評』の校勘作業に関連して。
その巻頭に並んでいるのは辞賦作品ですが、
厳可均(1762―1843)の『全上古三代秦漢三国六朝文』を参照すると、
六朝時代までの文献の面影をよく伝える類書を、最大限尊重していることが窺えます。
丁晏『曹集詮評』が底本とした明代の程氏刻本や、
その校勘に用いられたという張溥『漢魏六朝百三名家集』は、
完全なかたちに近い姿の作品を多く収録しているという良さはあっても、
個々の部分に雑駁さがあるのだろうことは容易に想像されます。
もし、断片でも類書に収載されているならば、それは貴重な資料です。
厳可均がそれらを重要視したのは実に適切な判断でしょう。
ところで、宮崎市定「張溥とその時代:明末における一郷紳の生涯」は、*
この『漢魏六朝百三名家集』の編者について、
「彼は本質的には今日いう所のジャーナリストであったと考えるのが一番適当」と評し、
「厳可均の『全上古三代秦漢三国六朝文』が出来た上は、
張溥の一百三家集は無くもがなの書のように思われる」とまで言い切っています。
時代ごとに、その気風に適合した文化人というものが現れるのでしょう。
一方、長い時を渡って伝えられてゆく言葉や物があることも、また真実だと思います。
2021年1月7日
*『宮崎市定全集13』(岩波書店、1992年)所収。初出は『東洋史研究』33巻3号、1974年、p.323-369。
※その後、『曹集詮評』の校勘作業を進める中で、丁晏は、厳可均が見落としていた資料、特に『北堂書鈔』所収のそれを実によく拾っていることがわかってきました。(2021.02.06追記)
種まきの作業
こんにちは。
始めたばかりの『曹集詮評』の校勘作業、
当初は、丁晏が書き込んでいる異同についてのみ、
そこに指摘された文献に当たって確認するつもりだったのですが、
これはきちんとやらないとだめだと思い直しました。
比較の対象となっている文献を詳しく見ると、*1
指摘された部分以外のところにも文字の違いがあったり、
細かいところで丁晏の指摘どおりでない文字があったりしたからです。
たいへんな作業を経て成ったはずの丁晏纂・葉菊生校訂『曹集詮評』ですが、*2
やはり人の手と目による作業ですから、間違いは当然あるでしょう。
後から気付いた者が随時修正してゆけばよいのだと思います。
こわいのは、決定版テキストとして全面的に寄りかかってしまうことです。
早い段階でこのことに気づけて幸運でした。
すんでのところで、いい加減な作業を重ねてしまうところでした。
香港中文大学中国文化研究所の『曹植集逐字索引』にも詳しい校勘が記されていますが、*3
やっぱり自分の目で確認をした方がよいと思います。
今きちんとやっておくと、後になって過去の自分に助けられます。
2021年1月6日
*1 たとえば、今日当たったところでは、隋の『北堂書鈔』、唐の『藝文類聚』『初学記』、北宋の『太平御覧』といった、六朝期のテキストをよく保存している類書など。
*2 丁晏纂・葉菊生校訂『曹集詮評』(文学古籍刊行社、1957年)の出版説明によると、本書は、明の万暦年間の、休陽の程氏による刻本を底本として、明の張溥本(『漢魏六朝百三名家集』)、『文選』を用いて校訂を加え、各種の類書を参考にして佚文を集め、欠落を補正したもので、比較的完備した善本であるという。
*3 魏晋南北朝古籍逐字索引叢刊・集部第九種『曹植集逐字索引』(中文大学出版社、2001年)。
陸機と曹植(再び)
こんにちは。
西晋の陸機が、曹植の文学作品を読み込んでいたらしいことは、
かつてこちらで述べたことがあります。
また、陸機の「文賦」に見えるある対句表現が、
曹植「七啓」を踏まえた可能性があると先日指摘したところです。
本日、『曹集詮評』の校勘作業をしていて、
これもまた、陸機が曹植から受け取ったものかもしれないと思う事例に出会いました。
曹植に、亡父曹操を追慕する「懐親賦」という作品があります。
これを収める『初学記』巻17は、この作品に続けて陸機の「思親賦」を引き、
『藝文類聚』巻20では、陸機の「祖徳賦」「述先賦」「思親賦」の三篇が曹植作品に続きます。
曹植以前の両漢代、
辞賦文学にこのような主題を真正面から取り上げるものがあったのでしょうか。
すべて調べたわけではない、従って単なる印象に過ぎないのですが、
漢代の賦といえば、規模の大きな、宮廷文化に密着した作品がまず思い起こされます。
たとえば班固の「両都賦」や張衡の「南都賦」など都城を詠ずるもの、
皇帝の狩猟や広大な宮苑を詠じた司馬相如の「上林賦」や揚雄の「羽猟賦」など。
他方、魏の時代、創作活動のサロン化に伴い、
賦というジャンルが小品化したことは定説と言ってよいでしょうが、
曹植の「懐親賦」はそうした作品群とも異なっています。
もし、曹植のこの作品が、辞賦文学に新たなテーマをもたらしたのだとすれば、
それは陸機を励まし、創作意欲を大いにかき立てたかもしれません。
曹植にとって曹操が偉大なる父であったのと同様に、
陸機にとって祖父の陸遜と父陸抗は、敬愛し、誇りに思う存在でした。
また、辞賦文学は、その源流をたどれば、わが故郷の南方に由来する文学様式でした。
この文学様式に、このようなテーマを盛ることができるのだと、
彼は、もしかしたら曹植の作品に意を強くしたかもしれないと想像しました。
もちろん十分な調査をした上でないと確かなことは言えませんが。
2021年1月5日
曹植と張華とを結ぶ糸(承前)
あけましてこんにちは。
これまでの日々雑記から曹植関連の記事を読み返してみました。
すると、これまで別々に指摘していたことを結び付けて、
より考察を深めていけるかもしれないと思うことが幾つか出てきました。
たとえば、曹植「箜篌引」(『文選』巻27)が、
西晋王朝で、「野田黄雀行」のメロディに乗せて歌われていることについて。(2020.04.01)
曹植の「箜篌引」は、
側近たちのために設けた宴席の情景を詠ずるもので、
彼の「贈丁廙」詩(『文選』24)と、
同じ場面を詠じながら、宛先の有無だけが異なっていると看取されます。(2020.04.03)
すると、「箜篌引」は、曹植が後に喪うことになる腹心の友人たちを想起させるでしょう。
他方、「野田黄雀行」は、友人を救えなかった自身の不甲斐なさを深く内に刻み込みながら、
危機に瀕した黄雀を助け出せた少年を、つかの間幻視して詠じたと見られます。(2020.10.24)
ところで、曹植「箜篌引」の歌辞を「野田黄雀行」の曲に乗せた歌曲は、
晋楽所奏の「大曲」に分類されるものです。
「大曲」は、荀勗が晋楽を記した「荀氏録」に記録された形跡が残っていません。
「荀氏録」が「清商三調」を収録するものだとすると、
「大曲」は「清商三調」とは別の歌曲群だということになります。(2020.04.02)
思えば、西晋王朝の宮廷音楽の歌辞制作者には、荀勗以外にも張華がいます。
この張華が「大曲」の編集に関わったという可能性はないだろうかと、ふと思いました。
張華作の宮廷歌曲の歌辞に、曹植とのつながりを微かに示唆する表現が認められたからです。(2020.12.21)
また、曹植「七哀詩」に基づく晋楽所奏「怨詩行」は、『宋書』楽志三に楚調とされていますが、
これも「荀氏録」には記録されていません。
(こちらの「漢魏晋楽府詩一覧」を並べ替えてご覧いただければ幸いです。)
ここからは単なる妄想ですが、
曹植「七哀詩」を晋楽所奏の楚調「怨詩行」に作り直したのも、
もしかしたら張華かもしれないと思いました。
同じ推論ならば、少なくとも、荀勗よりははるかに可能性が高いと言えます。
以前、「怨詩行」が荀勗のアレンジによるものだろうとの推論(こちらの学術論文№43)を、
彼の所業とどうしても齟齬を来してしまうことに困惑しつつ論じたことがあります。
ですが、張華であればすんなりと納得できます。
ちなみに、寒門ながら名望ある張華を、荀勗は疎んじていたといいます(『晋書』巻36・張華伝等)。
それではまた。
2021年1月4日
読む速度と気づき
こんばんは。
一年前の雑記を読み返してみたら、
ほとんど書いたことを忘れてしまっているようなものばかりでした。
顧みられないまま、放り出されているメモ書きの散乱。
思いついたことを書き留めるだけではなくて、
それらを時々読み返し、そこから更に気づいたことを調べていけば、
別の機会に書いたことと結びついて、育っていくのではないかと思いました。
それはともかく、一年前はまだ丁晏『曹集詮評』を毎日入力していたのでした。
(校勘記を入れた上で、その成果はいずれ公開したいと考えています。)
今のような便利な時代に、今更ながらの作業をやっていたのですが、
それはそれで、何かしらの拾い物をしていました。
ところが、最近はさっぱりです。
たぶん、曹植作品の訳注作業ばかりになっているからでしょう。
これが、なかなか進まない、地を這うような作業で、
こうした地味な仕事が必要不可欠なものであることは当然としても、
この速度、この至近距離から見えるものは、
たとえば、作品本文を入力するスピードで感じるものとは当然違ってきます。
ひとつの速度、ひとつの距離感では、頭が膠着してしまう。
といって、授業がある間は、訳注作業を継続するだけで手一杯です。
せめて、一点注視にならないように、ということを心にとめておこうと思います。
2020年12月24日
枯木の蘇生(承前)
こんばんは。
一昨日来の問題意識に関する資料やヒントが得られないかと、
興膳宏「枯木にさく詩―詩的イメージの一系譜―」(『中国文学報』41、1990.4)を読みました。
前漢の枚乗「七発」は、
龍門山の半死半生の桐の巨木と、
それを素材として作られた琴が奏でる哀切なメロディーを詠じ、
六朝末の庾信「枯樹賦」は、
殷仲文の故事(『世説新語』黜免)を引きつつ、
見たところは茂っているが、生気のない槐の木を描き、
初唐の盧照鄰「病梨樹賦」は、
見るからに貧相で弱々しい病木を描写して、
それは詩人の自画像でもあった、
と一連の詩的イメージの系譜が論じられています。
そこに論及されている作品の中には、
しかし、蘇って花を咲かせ、葉を茂らせる枯木は見当たりませんでした。
枯木に花を咲かせる爺爺の昔話を持つ日本人からすれば、これは少し意外な感じがします。
更に広く探せば、枯木の蘇生を描く作品や故事等が見つかるのかもしれません。
ところで、曹植「七啓」に見える「窮沢」「枯木」の対句は、
陸機「文賦」(『文選』巻17)に見える次の句と、対句を構成する要素が同じです。
兀若枯木 枯木のようにぼんやりと、
豁若涸流 涸れた水流のように渇ききる。
「文賦」のこの部分は、創作意欲が枯渇した状態を表現しているので、
もちろん「七啓」とは文脈が異なっています。
ただ、「七啓」の当該部分は、美しい言語表現が持つエネルギーを言っていたので、
この点において、「文賦」とテーマを共有しているとは言えます。
もしかしたら陸機は、曹植の先行表現をどこかで意識していたかもしれません。
あるいは、意識に昇らないほど自身の内に血肉化されていたか。
2020年12月23日
枯れ木の蘇生
こんばんは。
昨日言及した、曹植「七啓」に見える、枯れ木や涸れ沢が蘇るという表象は、
はたして本当に彼オリジナルのものなのでしょうか。
曹植の他の作品に類似表現が現れるか調べてみたところ、
片方の枯れ木についてのみ、次のような事例を認めることができました。
まず、文帝期の黄初3年(222)、31歳の時の作、
「封鄄城王謝表(鄄城王に封ぜられて謝するの表)」に、
枯木生葉、白骨更肉、非臣罪戻所当宜蒙。
枯れ木が葉を生じ、白骨に再び肉が蘇るような恩恵は、
私のような罪過あるものがかたじけなくすべきものではございません。
また、明帝期の太和3年(229)、38歳の時の作、
「転封東阿王謝表(東阿王に転封せられて謝するの表)」にも同様に、
此枯木生華、白骨更肉、非臣之敢望也。
これは、枯れ木に花が生じ、白骨に再び肉が蘇るようなことで、
私が身の程知らずにも敢えて望むものではございません。
更に、明帝期の太和5年(231)、亡くなる前年の40歳の時に奉った、
「諫取諸国士息表(諸国の士息を取るを諫むるの表)」にも、
「潤白骨而栄枯木者(白骨を潤し、枯れ木に花を咲かせる者)」という表現が見えます。
これらの事例の中では、「枯木」はいつも「白骨」と対を為しています。
先に見た「七啓」では、それが「窮沢」と並んでいました。
「七啓」は、その序に「并命王粲作焉(并びに王粲に命じて作らしむ)」とあって、
王粲は、建安22年(217)に流行り病で亡くなっていますから、
少なくともそれ以前の作であることはたしかです。
枯れ木と対を為す言葉が、「窮沢」から「白骨」に切り替わったのは、
彼の境遇の激変に因るものだったのかもしれません。
枯れ木と涸れ沢の表象が、曹植独自のものかどうかは未詳ですが、
少なくとも、彼における枯れ木の蘇生というイメージが、
生涯を通して、繰り返し思い起こされるものであったらしいことはうかがえます。
2020年12月22日
曹植と張華とを結ぶ糸
こんばんは。
週末に『宋書』楽志を読む研究会に参加していて、
張華の「晋四廂楽歌(朝会用の音楽)十六篇」其五で興味深い表現に出会いました。
(担当された狩野雄氏のご指摘あればこその気づきです。)
それは、西晋王朝の徳政に応ずる瑞祥として詠われた次の対句です。
枯蠹栄 枯れて虫に食われた木に花が咲き、
竭泉流 枯渇した泉から水が流れ出す。
この対句が、セットで出てくる先行表現として、
曹植「七啓」(『文選』巻34)に、次のように見えています。
鏡機子曰、夫辯言之艶、能使窮沢生流、枯木発栄。
鏡機子が言った。言葉の艶麗さは、涸れ沢に流れを生じ、枯れ木に花を咲かせる、と。
『文選』李善注にも、この対句に対する注釈は見えていません。
また、趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.15にも特に指摘はありません。
ならば、この二つを並べる発想は、曹植オリジナルのものなのかもしれません。
(当時のすべての作品が伝存しているのでない以上、断定はできませんが。)
もちろん、曹植「七啓」と張華の楽府詩とでは、用いられた文脈が異なるのですが、
他の部分にも、曹植作品から取り込まれたと見られる事例が認められることを踏まえると、*
西晋の張華が、朝会で奏でられる音楽の歌辞を作る際、
ひとつ前の王朝の悲劇的な皇族であり、第一級の文人である曹植という人の言葉を、
その文脈とは関わりなく、意識的に多く織り込もうとした可能性も無ではないように思います。
2020年12月21日
*たとえば、曹植「鼙舞歌・大魏篇」(『宋書』巻22・楽志四)に発し、陸機「弔魏武帝文」(『文選』巻60)に用いられた「霊符」という語辞など。
はやる気持ちで書いた文章
こんばんは。
少しずつ曹植「求自試表」を読み進める中で、
ふと、この作品は、短期間で一気に書き上げられたのかもしれないと思いました。
本作品は、『魏志』巻19・陳思王植伝、太和2年(228)の条に引かれており、
ということは、この年に書かれたと見てよいでしょうが、
その中に、同年9月、曹休が呉の陸議と戦って敗れたことへの言及が見えているのです。
そうすると、その制作時期はごく短い期間に絞られることになります。
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.379は、
この「求自試表」の成立背景について、次のように推論しています。
前述の呉との戦いの後、曹休が亡くなって、
同年10月、公卿近臣に、優秀な将軍各一人の推挙を求める詔が出されたが、
曹植のこの上表文は、この求めに対して、自ら応じる趣旨で作られたのではないか、と。
そうなのかもしれません。
それは、本作品が主張する内容ともよく合致します。
曹植はこの文章を、焦燥感に駆り立てられつつ書いたのかもしれません。
時に、文章に小さい綻びのような乱調が感じられるのも、
あながち気のせいとも言えないかもしれません。
まだ全文を読み通したわけではないので、あくまでも感触ですが。
2020年12月18日