言語表現の質的転換
こんばんは。
曹植の「薤露行」にいう「人居一世間、忽若風吹塵」は、
「古詩十九首」其四(『文選』巻29)にいう「人生寄一世、奄忽若飆塵」を踏まえています。
また、その第一句「天地無窮極」は、
同じ曹植の「送応氏詩二首」其二(『文選』巻20)にいう
「天地無終極、人命若朝霜」の上の句とほとんど一致しています。
(本詩全体の通釈や、各句の訓み下しについては、こちらの訳注稿をご覧ください。)
「古詩」は、漢代の宴席で生成展開してきたジャンルです。
また、如上の別れの詩は、旅立つ人を見送る宴席で作られました。
この両者に共通するのは、その作品生成の場が宴席であったということです。
ならば、これらの作品と濃厚な影響関係を持つ曹植「薤露行」もまた、
同質の場で作られたものだと推測できるでしょう。
と考えていたのですが、
この論法は、曹植作品のすべてに対して適用できるわけではないと思い至りました。
たとえば、「贈白馬王彪詩」にいう「人生処一世、去若朝露晞」は、
かの李陵が蘇武を説得する科白「人生如朝露、何久自苦如此」(『漢書』蘇武伝)、
古歌辞「薤露」の「薤上朝露何易晞、露晞明朝更復落、人落一去何時帰」を彷彿とさせます。
(本詩全体の通釈や、各句の訓み下しについては、こちらの訳注稿をご覧ください。)
李陵と蘇武の故事は、漢代の宴席で語られ演じられていた可能性が高いものです。
(こちらの学術論文№28で論究しています。)
また、「薤露」が後漢時代の宴席で歌われていたことは、すでにこちらでも述べたとおりです。
さらに言えば、前掲の「送応氏詩二首」其二にいう「人命若朝霜」をも思わせます。
この他、「贈白馬王彪詩」には、「古詩」や「蘇李詩」を踏まえる表現も散見します。
たとえば、前掲「古詩十九首」其一の「棄捐勿復道」を踏まえた「棄置莫復陳」、
「古詩十九首」其十一の「人生非金石」を踏まえた「自顧非金石」、
蘇武「詩四首」其三(『文選』巻29)の「去去従此辞」を思わせる「援筆従此辞」等々。
(「蘇李詩」が「古詩」の一分派であることは、前掲学術論文№28に述べました。)
ですが、「贈白馬王彪詩」は、単なる宴席文芸であるとはとても言い切れません。
では、「薤露行」や「送応氏詩二首」等と何が違っているのでしょうか。
ここに、言語表現の質的転換を見ることができるように思いますが、
それは第三者に証明して見せることはできるのでしょうか。
2020年11月6日
文学評論というよりも
こんばんは。
曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)の語釈が、やっとひととおり終わりました。
まだ本文を訳出していないので、これはあくまでも印象に過ぎませんが、
この書簡は、よく言われるような文学評論というよりも、
肝胆相照らす友人に、文学的雑感を書き送ったもののように感じました。
(身近な文人たちに対する遠慮会釈のない批判を大いに含む)
辞賦は小道であり、自分の本懐は、藩侯としての責務を全うことにあるとする主張も、
楊修に自作の辞賦を送ることへの言い訳めいた謙遜の文脈で出てきます。
楊修は、曹植を曹操の後継者に押した、彼の側近の一人ですが、
曹植は楊修のことを、部下というより、文学的遊びでの親友と見ているように感じられます。
ところで、先に「与楊徳祖書」と曹丕の「典論論文」との関係性について、
集英社・全釈漢文大系『文選(文章編)五』に指摘するところを紹介しましたが、
これに先んじて、この問題を詳細に論ずる先行研究がありました。
岡村繁「曹丕の「典論論文」について」(『支那学研究』第24・25号、1960年)です。
特に、その成立年代の推定については非常に緻密な論が展開されています。
かつて読んだはずなのに、すっかり忘れていました。
恥じ入るばかりです。
2020年11月5日
曹操の自己認識
こんばんは。
曹操は、曹植からのみならず、自身でも自らを周文王や周公旦になぞらえていたのでしたが、
この自己認識は、若い頃から終始一貫していたわけでもなさそうです。
たとえば、初平2年(191)、袁紹のもとを離れた荀彧を配下に迎え入れた曹操は、
大いに喜び、彼を「吾之子房也」と称しています。(『魏志』巻10「荀彧伝」)
子房すなわち張良は、漢の高祖劉邦に仕えて、その天下制覇を支えた智者です。
荀彧を張良だという以上、自身は漢の高祖だということになるでしょう。
また、興平元年(194)、陶謙の没後すぐに徐州を奪取しようとした曹操を、
荀彧は、漢の高祖や後漢の光武帝を引き合いに出して諫めています。(同上「荀彧伝」)
これは、曹操と荀彧との間に、共通認識として、
劉邦にも比すべき覇者への道が見えていたということを物語るでしょう。
更に、建安元年(205)、曹操が袁譚を南皮に破ると、臧覇らが祝賀に集まり、
自身の子弟や将軍たちの父兄家族を鄴に赴かせようとしましたが、
曹操は彼らの忠孝を、劉邦に対する蕭何、光武帝に対する耿純に比しています。
(『魏志』巻18「臧覇伝」)
ということは、王朝を打ち立てた漢の高祖や光武帝に自身をなぞらえているのです。
こうしてみると、比較的若い頃の曹操は覇者たらんとする野心を持っていたが、
自身の力が圧倒的になっていくにつれ、周囲の状況を勘案しつつ、
その自らの立ち位置を修正していったと言えるようです。
建安15年(210)に発布された「述志令(己亥令)」では、
自らの来し方を振り返り、終始一貫して寡欲であった自身をアピールしていますが、
それは多分に、後から意味づけ直され、演出されたものだったでしょう。
2020年11月4日
曹植の中の曹操像
こんばんは。
昨日述べたように、
曹植は「惟漢行」で、自身を周公旦に、曹操を周文王になぞらえていたのでしたが、
曹操も、自らを周公旦になぞらえていました。
曹操「短歌行・対酒」(『宋書』巻二十一・楽志三、『文選』巻二十七)にこうあります。
周公吐哺 周公は食事も中断して客人を手厚く迎えたが、
天下帰心 このようであったからこそ天下の人民は心を彼に寄せるのだ。
ここに詠じられた周公旦は、言うまでもなく曹操自身がかくありたいと願った人物像です。
曹操は、あくまでも後漢王朝の臣下として献帝を補佐する立場を取りました。
そのことを表明する上で、周公旦という人物を持ち出すことは効果的だったでしょう。
さて、この周公旦の逸話は、曹植の「娯賓賦」においても用いられ、
そこに描かれた、人を大切にする君主は曹操だと推定できるのでした(2020年8月3日)。
若き日の曹植は、自身の父を周公旦のような人物だと捉えていたのでしょう。
前掲の「短歌行・対酒」はもちろん実際に聴いていたはずですし。
すると、曹植が「惟漢行」において自身を周公旦になぞらえたということは、
その社会的立場の取り方において、父曹操のあり様を踏襲しようとしたということになります。
曹丕のように、実際的な意味において父の後継者となるのではなく、
君主たる者を支える立場を取るというその姿勢において、
曹植は父の跡を継ごうとしたということです。
ただ、その望みはあえなく潰えて実現しなかったのでしたが。
2020年11月3日
曹植における「惟漢行」制作の動機
こんばんは。
先週末、六朝学術学会報に論文を投稿しました。
「曹植における「惟漢行」制作の動機」というタイトルで、
その内容は、以下のとおりです。
(このところ、ここに考察経過を書いてきた内容を練り直したものです。)
曹植の「惟漢行」は、
自身を周公旦に重ねつつ、即位したばかりの明帝を戒める詩である。
本歌の曹操「薤露・惟漢二十二世」が持つ挽歌としての要素を、この詩は持たない。
それなら、他の楽府題に乗せて詠じてもよかったはずだ。
では、なぜ敢えて曹植は、曹操の「薤露」に基づくことを標榜したのか。
それは、彼自身の若い頃の作「薤露行」の続編であることを示すためである。
「薤露行」は、明君を補佐することへの意欲を高らかに詠じた作品で、
その明君とは、父であり魏国王である曹操である。
曹植は、父の生前、その期待を裏切ってばかりの不肖の息子であったが、
甥の明帝が即位するに至って、
自身が周公旦に相当する立場にあることに改めて思い至った。
そして、周文王に匹敵する我が父曹操の事績を示しつつ、
成王に当たる若き明帝を補佐しようという志を「惟漢行」に詠じたのである。
これは、亡き父から受けた恩愛に報いることであり、
不甲斐ない過去の自分をもう一度生き直そうと宣言することでもあった。
ひとつ、後から書けばよかったと思ったことがあります。
それは、曹操自身も自らを周公旦になぞらえているということです。
このことについてはまた明日に。
2020年11月2日
ひきこもり宣言
こんばんは。
本日から一週間、こちらへは出てこずにひきこもります。
11月2日にはまた戻ってくることを期して、ここに記しておきます。
2020年10月26日
昨日の追記(詩と史実)
こんばんは。
昨日、曹植「野田黄雀行」に関する先人の解釈を紹介しました。
中国の注釈者たちが指摘するのは、
本詩の背景に、曹丕による丁儀丁廙兄弟の処刑があるということで、
特に黄節は、「雀」は丁儀を、「少年」は夏侯尚を喩えると具体的に推論しています。
すなわち、丁儀を救うことができない曹植は、夏侯尚に希望を託したのだ、と。
たしかに、夏侯尚はそれが請け負えそうな位置にありました。
これまでの罪を問われ、自殺を迫られた丁儀は、
曹丕と親しい、中領軍の夏侯尚に叩頭して哀願しています。
ですが、この夏侯尚でさえも、丁儀を救うことはできませんでした。
(『魏志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く『魏略』)
夏侯尚が中領軍であったのは、延康元年(220)の後半と特定でき(『魏志』巻9・夏侯尚伝)、
この時、臨菑侯の曹植は、すでに任地に赴いていて、
丁儀ら兄弟の処刑をめぐる一連の経緯を的確に把握できていたかは不明です。
作品に描かれたことと史実とを結びつける論法。
私たちは、現存する史料から様々な推論をすることが可能なわけですが、
肝心の本人に、果たしてそうした見通しができたどうか、
疑問に感じることが少なくありません。
2020年10月25日
論理と感性(「野田黄雀行」考)
こんばんは。
以前、こちらでも取り上げたことがある曹植「野田黄雀行」について、
余冠英「建安詩人代表曹植」(『漢魏六朝詩論叢』)は、
この詩の背景に丁儀・丁廙兄弟の処刑があるとした上で、こう解釈していました。
自分(曹植)には丁氏兄弟を救うことができないので、
他の人にそれを期待しているということを詠じているのだ、と。
私はこれまで、大上正美氏の説に賛同し、
本詩は、友人を救えなかった曹植の仮構を詠ずるものだと捉えてきました。
([05-02 野田黄雀行]の「抜剣捎羅網」の語釈をご覧ください。)
余冠英氏の説は、これとは異なるものです。
そこで、他の注釈者の説を見直してみたところ、
黄節『曹子建詩註』、趙幼文『曹植集校注』は、余冠英と同じ方向で捉え、
曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)だけは次のように解釈していました。
本詩は、比喩的手法と物語的叙述を通して、
自身に友人を救う手立てがないことへの悲憤を描いている。
少年が窮地に陥った黄雀を救出したのは、実は作者の幻想を詠じたものだ、と。
自身は友人を助けられないから、人にそれを期待するのか、
自身が友人を助けられなかった苦しみから、それができた自身を幻視するのか、
この両者ではまるで捉え方が違っています。
私は断然後者の方がよいと感じますが、このことを証明できるでしょうか。
ある地点までは論理的に詰めることができても、
そこから先は感性でこそ越えられる境界線があるようにも思えます。
2020年10月24日
恒例行事
こんばんは。
今年も卒論ゼミ決定手続きが始まりました。
本日、メール添付で学生たちの希望調査の結果一覧が送られてきて、
今年も第一希望者がゼロでした。(第二希望者がいるのは少しうれしいです。)
自分は特別だめな授業をしているわけでもなく、
学生にいけずをしているわけでもなく(自覚がないだけでしょうか)、
それでもこのような状況がこのところ続いているのを、どうしようもありません。
これが商売だったら、売り上げを伸ばすために対策を考えるところですが、
学生の気に入ってもらえるようにするのは少し違うと感じます。
そうではなくて、中国学のよさを理解してもらえるようにがんばることでしょう。
とはいえ、全力で話せば話すほど、学生が離れていくように感じます。
アクセルとブレーキを同時には踏めません。
そんなわけで、学生たちのことが少しこわいのですが、
気にするといよいよいけないので、自分のやるべきことをやっていきます。
曹植の作品をともかく読み続けること。
つまらないことを書きました。
2020年10月23日
王昭君故事の摂取
こんばんは。
一昨日述べたように、平安朝の『千載佳句』や『和漢朗詠集』『新撰朗詠集』には、
「王昭君」と題する、独立した部立てが設けられているのでしたが、
そこに収録されている中国の詩は、それぞれ一首ずつです。
平安朝の人々は、漢詩を通して王昭君に親しんでいたのではなさそうです。
では、当時の日本人は、
王昭君の故事を、何によって摂取し、
独立した部立てを準備しようとまで考えたのでしょうか。
思うにそれは、絵を介してではなかったかと考えます。
『源氏物語』絵合に、光源氏の言葉としてこのように見えています。
長恨歌・王昭君などやうなる絵は、おもしろく、あはれなれど、
事の忌あるは、こたみはたてまつらじ。(岩波書店・日本古典文学大系による)
変文という、絵と言葉とから成り立っている、紙芝居様の文芸様式があります。
そして、「王昭君変文」は現代にも伝わっています。*1
もしかしたら、この変文が遣唐使たちによって日本にもたらされ、
それが、平安貴族たちに親しまれていたのかもしれません。
なお、日本に渡来した唐代の変文が、
王朝物語文学の誕生の契機となったのではないか、との説もあります。*2
2020年10月22日
*1 黄征・張涌泉『敦煌変文校注』(中華書局、1997年)p.156―173
*2 岡村繁「物語文学の成立と唐宋の説話文学」(『国語の研究(大分大学)』10号、1977年)