民国時代の日本観
こんばんは。
昨日、知不足斎叢書に日本の学術書が収められていることを述べましたが、
これをもって、その編者が中華思想からは自由な考え方を持っていたとは言えません。
鮑廷博は中国古典の持つ価値を信じ、
これを大切にする人なら、分け隔てなく評価したということでしょう。
中国の人が、日本にも独自の文化があることに目を留めたのは、
二十世紀前半、民国時代のことなのだろうと思います。
というのは、このような資料があるからです。
1929年10月28日出版の『語絲』第5巻第33期に広告が載っている、
謝六逸という人物による『日本文学史』という書物が、
中国人による日本文学史の嚆矢のようです。
この記事は、20年ほど前、北京大学の図書館で、民国時代の雑誌を縦覧しながら、
五言詩の成立年代をめぐる論争を追っていた時、たまたま見つけたものです。
(私にとって「見つけた」でも、この時代の専門家には周知の資料かもしれません。)
この学術的な論争が、上記の記事と同じ時代の出来事だと思えば、
鈴木虎雄の学説がかの国で受けた強い反発はとてもよく理解できました。
もしよかったらこちら(学術論文№16、著書№4)をご覧いただければ幸いです。
日中比較文学論の授業で、日本人学生からはこういうコメントがよく出ます。
「日本の文学が中国の文学に影響を与えた例はないのか気になる」
(「気になる」と言わず、質問というかたちで言ってくれたらいいのですが。)
他方、秋吉收『魯迅 野草と雑草』(九州大学出版会、2016年)により、
魯迅が、日本の与謝野晶子や芥川龍之介から影響を受けていることを指摘すると、
交換留学生たちから、「そういうのだったら昔から中国にあります」などとよく言われます。
なかなか難しいものです。
2020年9月5日
至道を学べば
こんばんは。
昔のノートに、『礼記』学記篇に出る次のようなくだりを記していました。
雖有嘉肴弗食、不知其旨也。 ごちそうがあっても食べないのは、その旨さを知らないからだ。
雖有至道弗学、不知其善也。 すばらしき道があっても学ばないのは、その善さを知らないからだ。
是故学然後知不足、 だから、学んではじめて自身の不足がわかり、
教然後知困、 教えてはじめて自身の至らなさがわかり、
知不足、然後能自反也。 不足がわかってはじめて自分を顧みることができ、
知困、 然後能自強也。 至らなさがわかってはじめて自分を補強することができる。
この中の一句を取ってその名に冠する、清朝の鮑廷博「知不足斎叢書」は、
日本の学術書、市河寛斎『全唐詩逸』や、太宰春台『古文孝経孔氏伝』等も収載している、
ということから興味を引かれ、その叢書名の出典を調べたようです。
(過去の自分はもはや別人です。ほとんど忘れていました。)
つい先日、中国古典の世界が持つ中華思想に辟易したところでしたが、
本当に真摯に学ぶ者は、そこを突破して広やかな知性に至ることができるのですね。
この叢書を編んだ鮑廷博は豪商で、私財をなげうって書物を収集したのだといいます。
学問は仕官のため、という中国知識人の類型からは外れていたのでしょうか。
もしそうなのだとしたら、そのことにも惹かれます。
2020年9月4日
古典ではなくて
こんばんは。
今日も昨日と同じく、西晋王朝の宮廷儀式で用いられた歌辞を読みながら、
ふとこのような考えが浮かんできました。
文化人類学者が、現代文明の入っていない地域に分け入って調査するように、
こうした文献は読まれるべきではないだろうか。
これを古典と思うのではなくて。
古典とは、時間のやすりに耐え抜いて生き残った、人類共通の知的遺産でしょう。
そう思うから、落胆したり、妙な反発心を抱いたりするのだと思います。
そうではなくて、これは未知の文明なんだと思えばいい。
未知ではあるが、幸い、自分たちにもなんとか理解できる言葉によって記録されている、
それを読み解けば、彼らが持つ独特の世界観が見えてくるだろう、
そう思って取り組めばよいのではないかと思ったのです。
文化人類学という方法は、
たとえば、現代日本企業の特異性を明らかにし、
その問題を解決するためのヒントを提供したりすることもあると聞きます。
それならば、過去の文明を考察対象とすることもありえないことではないでしょう。
問題解決といったような部分は除くとしても。
難しいのは、中国古代文明が完全に過去の遺物とはなり切っていないことです。
一部は、現代の東アジア社会に屈折を経た形のものが残存している。
それを嫌悪するにしても、反対に美化してこれを利用しようとするにしても、
本来の姿をまっすぐに見ることを阻害する点では同じです。
もし、そのどちらでもない中立の立場を取ることができたならば、
私たちはそこに興味深いものを見るに違いありません。
同じ人間の考えることですから、崇高さも卑しさも、美しさも醜さも、
私たちとは同じ地下水脈で通じているはずです。
2020年9月3日
インとアウト
こんばんは。
先日触れた、荀勗の作と伝えられている儀式的歌辞を今日も読みました。
ザ・中華思想とでもいうべき、異民族政策の勝利を歌い上げる内容の歌辞です。
3世紀くらいの東アジアでは、唯一の文明圏は中国大陸だと言えることはたしかなので、
四方の異民族国家が自分たちに帰順してくることを誇らしげに歌うのは当然かもしれません。
でも、同じことをもし現代人が言ったならば、正気かどうかを疑います。
思えば、かつてはこのような考え方が常識だったわけで、
当時の詩人たちの誰もが、こうした中華思想をベースに発想していたはずです。
(それが永遠不滅の絶対的思想でないことは、その渦中にいる限りはほとんど感知できません。)
でも、その中で、生き残っている作品と、そうでないものとがある。
その生死を分けるものは何なのでしょうか。
その当時、完全にインであったものは、
少し時代が移ろうと、すぐにアウトになるものだと思います。
では、その渦中にありながら、そこから外れた視点を持つことは可能でしょうか。
それが可能であることを、今も生き残っている作品が示唆してくれていると思います。
なんだか繰り返し同じようなことを考えているようですが、
それは、自身が携わっている分野の存続に、絶対的な確信が持てないからです。
完全にインであるような論文ばかりを書いていたのではだめだと思う。
2020年9月2日
上陽宮の月
こんばんは。
昨晩の続きです。
月に時の経過を重ねて表現する例は、
そういえば、白居易の新楽府「上陽白髪人」(『白氏文集』巻3、0131)にもありました。
後宮に入れられた美しい少女が、楊貴妃の嫉妬を受けて、
洛陽の上陽宮に閉じ込められたまま長い歳月を過ごして年老いたという歌物語です。
その中に、次のようなくだりが見えています。
秋夜長 秋の夜は長く、
夜長無睡天不明 長い夜を一睡もせずに過ごしても、夜は明けない。
耿耿残灯背壁影 耿耿と照らす残灯の、壁にゆらめく光、
蕭蕭暗雨打窓声 蕭蕭としめやかに降る雨の、窓を打つ音。
春日遅 春の日はゆっくりと過ぎ、
日遅独坐天難暮 ゆっくり過ぎる午後に一人でいると、日はなかなか暮れてくれない。
宮鴬百囀愁厭聞 宮殿の鴬が盛んに囀っても、憂いの中ではこれを聞くのも鬱陶しく、
梁燕双栖老休妬 梁上の燕がつがいで巣を作っても、年老いた私は妬む気にもならない。
鴬帰燕去情悄然 鴬や燕が去っていって、気持ちはしょんぼりと沈み、
春往秋来不記年 春が去り秋が来て、もう何年が過ぎたかも覚えていない。
唯向深宮望明月 ただ奥まった宮殿の中で明月を仰ぎ見ていたが、
東西四五百廻円 東から西へと渡ってゆく月が、四五百回は丸くなっただろうか。
たしかに、繰り返される月の運行に、時の移ろいを重ねて詠じてはいますが、
この女性の心に刻印されるのは、満月だけのようです。
それを目印に、過ぎ去った歳月の堆積を実感しているのです。
そこが、私たち日本人の感性とは違っているかもしれないと思いました。
満ち欠けする月のひとつひとつに目を留めて、
寝待月とか、いざよひ月とか、情感豊かな名で呼んでいる細やかさが、
中国文学にはあっただろうかとふと立ち止まりました。
(私が知らないだけなのかもしれませんが。)
2020年9月1日
時を刻む月
こんばんは。
一昨日ほど前から、夜空の月が明々ときれいです。
今年は冬から春を経て夏へと、ほとんど季節感のない日々を送りながら、
満ち欠けを幾度も繰り返す月に時の移ろいを実感していました。
先日、新月の闇から出発したと思っていたのに、
もう満月が明後日に迫っています。
唐の詩人たちは、満月を眺めては遠くにいる人に思いを馳せますが、
それだけでなく、月に時の経過をも感じていたのではないかとふと思いました。
元稹に「江楼月」という詩があります。
この詩は、先に白居易詩との関係で触れたことがありますが、
彼が江陵に左遷される前の年、東川(四川省)への旅の途上で作った詩です。
嘉陵江岸駅楼中 嘉陵江の岸辺、駅舎の高楼の中、
江在楼前月在空 江水は高楼の前を流れ、月は空に懸かっている。
月色満牀兼満地 月光の色はベッドに満ち溢れ、そして地上にもあまねく満ちていて、
江声如鼓復如風 江の水音は、打ち鳴らす太鼓のようであり、また吹きすさぶ風のようでもある。
誠知遠近皆三五 たしかに、遠い都もここも、いずこも同じ十五夜であることはわかってはいるが、
但恐陰晴有異同 ただ、晴れているかどうか、天気に違いがあるのではないかと心配だ。
万一帝郷還潔白 もし都がまた白々と輝く清らかな光に照らされているならば、
幾人潜傍杏園東 何人か、こっそりと杏園の東に近づいて月を愛でているだろうか。
元稹は、都を離れてから毎夜、形を変えていく月を眺めてきたのでしょう。
あるいは蜀への出張を前に、都の友人たちと満月を愛でつつ宴を楽しんだのかもしれません。
そう想像するならば、最後から二句目、「還」と言っているわけが納得できます。
月は、広大な空間を超えて人と人とを結びつけるだけでなく、
その満ち欠けが、積み重なってゆく時の経過を刻むものでもあると実感しました。
2020年8月31日
区切られた時間の共有
こんばんは。
本日、やっと動画作成の作業が終わりました。
完璧さを目指すより、予想外のことが生じる面白さに賭ける、
とか昨日は豪語していましたが、
結局、そんなミラクルは起こることもなく、
あちらこちらに小さな綻びがあるといった風なものになりました。
話している最中に、スライドの中にある衍字に気づいて急遽訂正する、
といった大破綻さえもありましたが、もうそれはそのまま残すことにしました。
で、オンライン授業と何が違っていたのだろう、と考えてみました。
授業では、自分としては例年になく、“ミラクル”が多かったものですから。
(聞いている学生さんたちからしたら、“?”だったかもしれませんが。)
使っているのは、同じパワーポイント、PCももちろん同じです。
それで、違っているのは、聞いている人たちとの時間の共有の有無だと思い至りました。
リアルに目の前に学生さんたちがいなくても、
授業の時間が来ると、[会議室]にひとりまたひとりと受講生が入って来ます。
そして、その学生さんたちと、限られた時間を共有しながら、何事かを進めていくのです。
その時間は二度と後戻りできないものです。
この固有の一回性が、ある種の圧になっていたのかと思い至りました。
いつでも視聴できるものとして提供する動画には、それがない、
だから、完成度も高くなく(これは私に限ってのことです)、
かといってライブ感覚にも乏しいものになったのだなとわかりました。
とはいえ、期限までに提出するという限定的時間の中では精いっぱいやりました。
ひとりでも受講希望者がいる限りは全力を尽くします。
2020年8月30日
原稿と思考
こんばんは。
今日は一日、教免更新講習の動画を作成していました。
パワーポイントのスライドに音声を重ねていくという方法なので、
それなら慣れている、すぐにできるだろう、と甘く見ていたらとんでもなかった。
リアルタイムで即興的にコメントを入れながらスライドを提示していくのと、
スライドと音声をきちんと録画するのとではまるで違っていました。
少しやってみて、これは即興では太刀打ちできないと思ったので、
話す内容をすべて書き出した原稿を作ってやってみたら、
なぜか、反対にいよいよ狭い路地に迷い込んでしまったような感じになりました。
原稿があると、それを読み上げればいいと安心するからか、
頭の中が停止して、なにかすべてを人任せにしてしまったように心もとなくなります。
やっぱり、大まかなメモ(スライドで十分)を持つくらいで、
あとは大筋それに乗り、考察内容を追体験しながらしゃべる方が好みです。
言い間違ったり、不用意な沈黙が生じたりしても、そちらの方がずっと面白く感じます。
(受講される方々も、少しの聞き苦しさは許してくださるでしょう。)
原稿を準備すると、その原稿以上のことは脳裏に浮かびませんが、
それが無いと、ふわっと離陸するように、予想外のことを話し始めることがあります。
その楽しさの方に賭けて、完璧さを目指す心は捨てようと思います。
それにしても、即興的ミュージシャンの人たちはすごい。
それを心底実感しました。
2020年8月29日
傅玄「惟漢行」の通釈
こんばんは。
今年の教免更新講習の教材のひとつに、
傅玄「惟漢行」(『楽府詩集』巻27)を加えました。
この楽府詩は、漢文の教科書によく採録されている「鴻門の会」を詠じていて、
歴史故事「鴻門の会」が、宴席で上演されていたことを示す格好の資料であるからです。
(こちらの学会発表№17の概要をご参照いただければ幸いです。)
以下、本詩の通釈を載せておきます。
危哉鴻門会 切迫した場面だ、鴻門の会は。
沛公幾不還 沛公(劉邦)はほとんど戻れないところだった。
軽装入人軍 軽装で相手方の軍に入り、
投身湯火間 身を湯火の中に投げ入れた。
両雄不倶立 両雄は並び立つことはできないと、
亜父見此権 亜父(范増)はこの沛公の威勢を見て思った。
項荘奮剣起 項荘は剣を奮って立ち上がる、
白刃何翩翩 その白刃のなんと軽やかであることか。
伯身雖為蔽 項伯は身を挺して沛公を庇ったけれども、
事促不及旋 事態は切迫して危険から連れ戻すまでには至らない。
張良慴坐側 張良は恐れおののいて傍らに坐り、
高祖変龍顔 高祖(劉邦)は顔色を変える。
頼得樊将軍 そこへ、幸いにも樊将軍(樊噲)が現れて、
虎叱項王前 虎のように項王(項羽)を叱り飛ばして進み出た。
嗔目駭三軍 目を怒らせて全軍を震え上がらせ、
磨牙咀豚肩 歯牙を磨き上げて豚の肩の肉に食らいつく。
空巵譲覇主 一斗の大杯を飲み干して覇主(項羽)に譲の拝礼をし、
臨急吐奇言 急場に臨んで凄みのある啖呵を切った。
威凌万乗主 その威勢は一国の主をも凌駕し、
指顧回泰山 あっという間に状況を大きく一転させた。
神龍困鼎鑊 神龍(劉邦)が釜茹でにされそうな窮地に陥っていたのを、
非噲豈得全 樊噲でなければ誰が救い出すことができただろう。
狗屠登上将 卑しい犬の屠殺者(樊噲)は、上将の地位にまで登って、
功業信不原 手柄を上げることに対して、本当に謙遜してみせたりはしないのだ。
健児実可慕 勇ましい兵士こそ、真に心を寄せるべき者たちである。
腐儒安足歎 腐りきった学者など、どうして感嘆に値しよう。
最後から三句目「功業信不原」の「原」の意味は待考。
「郷愿」の「愿(=原)」と捉えましたが、まだすっきりと解釈できません。
2020年8月28日
文学研究にできること
こんばんは。
津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38、2005年)
が届きました。以下、その概略を記しておきます。
『魏志』陳思王植伝の記述内容には、
『陳思王曹植集』に収録されていたと見られる佚文等と食い違う点が少なくない。
本伝は、「不遇」を訴える曹植自身の文章を巧みに取り入れながら作り上げられたものであり、
事実としては、彼の処遇には後漢時代の諸王と比べてそれほどの落差はない。
このように、陳寿が事実を歪めてまで曹植の不遇を強調しようとしたのは、
西晋当時の、武帝司馬炎による、同母弟・斉王攸に対する冷遇という問題に対して、
これを批判する立場を陳寿が取っていたためである。
他方、曹植らが王朝運営への関与を強く望んだことの思想的背景として、
積極的に至親輔政を主張する『周礼』国家観の高まりがあった。
これも斉王攸の輔政を望む世論と重なっている。
司馬炎と斉王攸との関係が、曹丕と曹植との関係に重なるということには、私も同感です。
(西晋王朝で、曹植「七哀詩」が「怨詩行」に改変されて歌われたのも同源だと考えます。)
他方、陳寿の『三国志』執筆に、そこまでバイアスがかかっているとは思い至りませんでした。
たしかに、曹植の事績が史料によって食い違い、事実を突き止め難いことは多いです。
今後は、正史の本文だからといって鵜呑みにしないように注意したいと思います。
今回も、非常に多くの史料や先行研究を教えられました。
その一方で、では、文学研究の立場としてできることは何だろうとも思いました。
曹植の訴えを主観的な自己申告とみなし、その信憑性を検討することが本当に必要なのか。
そもそも文学に、客観というものがあるのかどうか。
その言葉を残した人にとっての内的真実があるだけなのではないか。
そこを全力で掘り下げることによって、はじめて歴史学と対等の立場に立てるのだと思います。
2020年8月27日