曹植「惟漢行」に関する疑問点

こんばんは。

曹植「惟漢行」は、即位したばかりの明帝を諫めるのがその趣旨でしょう。

この作品の成立が明帝の太和元年であるということは、曹海東氏の指摘が至当です。

そして、本詩の末尾四句が周文王を念頭に置いていることも諸家の指摘するとおりであり、
そのうちの『書経』無逸は、周公旦が周文王の逸事を成王に伝える文献です。

周文王、周の武王、成王、周公旦の関係が、
曹操、曹丕、曹叡、曹植の血縁関係に重なることはすでに述べました。

以上のように見てくると、
曹植は自身の立場を周公旦に重ね、
新しく即位した明帝を、周の成王に見立てて、
周文王になぞらえられる曹操の仕事ぶりを称揚しつつ、新皇帝を戒めた、
それが彼の「惟漢行」だと言えるでしょう。

ただ、そうすると腑に落ちないことがあります。

「惟漢行」という楽府題は、曹操の「薤露・惟漢二十二世」に由来するものですが、
その曹操の「薤露」が拠ったのは、元来が葬送歌である「薤露」古辞です。
それを踏まえて、曹操は「薤露」で滅びゆく漢王朝を弔ったのです。

それならば、曹植の「惟漢行」は、何を弔っているのでしょうか。
前の王朝を弔うことならば、当時としては当然ですが、
まだ魏王朝は二代目に代わったばかりです。

それとも、別に何を弔うわけでもないのでしょうか。

魏王朝の宮廷歌曲「相和」中の一曲として、
曹操の「薤露・惟漢二十二世」は明帝期も歌われていました。
そのメロディも歌辞もまだ現役です。

それを思うと、新皇帝を諫める歌が葬送歌だというのが腑に落ちないのです。

2020年7月17日

元白応酬詩札記(8)

こんばんは。

先日来検討してきた白居易「与微之書」(『白氏文集』巻28、1489)ですが、
この書簡の中に記された三韻の詩に対して、
元稹「酬楽天書後三韻」(『元氏長慶集』巻20)はこう応えています。

今日廬峰霞遶寺  今日は廬山の峰で霞が寺を取り囲み、
昔時鸞殿鳳迴書  昔日は金鑾殿で鳳凰が書簡の周りを飛翔していた。
両封相去八年後  二通の封書は八年の時を隔てた後でも、
一種倶云五夜初  うち揃って、五更になったばかりの夜明けの時を詠じている。
漸覚此生都是夢  この人生はすべてが夢だと次第にわかってきた私は、
不能将涙滴双魚  涙を封書に滴らせるわけにはいかない。

白居易から送られた二通の封書は、時間も空間も遠く隔たっているのに、
いつも変わらないのは、それが夜通し書かれたということだ、と元稹は詠じています。
彼の眼には、一晩中、自分を思って手紙をしたためてくれる、
いつも自分の一番の理解者でいてくれる白居易の姿が映じていたのでしょう。

最後の二句は、表面上はクールさを装っているように見えますが、
「不能」という語の中に、懸命に涙をこらえている彼の姿を見たように思いました。

2020年7月16日

元白応酬詩札記(7)

こんばんは。

明日の授業で、先に述べた元白応酬詩をめぐる考察を話す予定なのに、
その後、あまり進展がなく、まだ考えがかたちになりません。
今、思いつくままにメモを記しておきます。

「瞥然塵念」という語は、
元稹「酬楽天八月十五夜禁中独直玩月見寄」の中で、
清らかな大明宮中に詰めている白居易から、
塵埃にまみれた江陵の元稹に寄せられた思いを指していました。

その数年後、白居易「与微之書」の中に現れる「瞥然塵念」は、
江州に貶謫されて二年になる白居易が、
通州に出されてほぼ同じ時を経た元稹に寄せる思いを指しています。
この場合の「塵念」は、続く句に見える「余習」が仏教語であることから、*
それと同じく、世俗的な思いを言っているのでしょうか。
それとも、塵埃にまみれた境遇の中で、旧友に馳せる思いを言っているのでしょうか。

いずれにせよ、元稹詩にいう「瞥然塵念」を受けて、
たとえば自分の思い上がりを恥じたといったような様子は感じられません。
とはいえ、長い歳月を経てこの言葉を持ち出しているからには、
きっと何か心に期するところがあったのでしょう。

それを解く鍵は、「籠鳥檻猿倶未死、人間相見是何年」にあるかもしれません。

かつては宮中から馳せた君への思いを、今は貶謫の境遇から君に送る。
今の自分なら、君の気持ちが一層深く理解できる。
籠の鳥や檻の中の猿のように、我らはともに束縛された身だが、まだ死んではいない。
いつか再び人間界で再会しよう。

そんな同志としての意識なのでしょうか。

2020年7月15日

*岡村繁訳注『白氏文集 五』(明治書院、新釈漢文大系)p.439を参照。

因果応報

こんばんは。

昨日の授業の振り返りをしていて気づいたこと。
志怪小説は、学生さんたちの興味を比較的よく引き付けるジャンルですが、
長年定点観測をしていて、小さな変化を今年初めて感じました。
それは、荒唐無稽よりも、因果応報が好きであるらしいということです。

紹介したいくつかの志怪小説のうち、
最も印象に残ったものを選んでその理由を書くということをしてもらったところ、
一番多くの学生が選んだのは、孝行息子で知られる董永の物語(『捜神記』巻1)でした。
自分を身売りして親を葬った董永の借金を、天女が機織りで肩代わりする話です。
選んだ理由の多くは、頑張った人が報われる話だから、でした。

これが私にはけっこうこたえました。
常識的な条理を軽々と超えるところに志怪小説の妙味があると私は思っていたから。
努力の対価をそれほどまでに求めているのかと、少し驚いたのです。

労働の対価だとか、ギブアンドテイクだとか、
そこをないがしろにしてはならない場合はたしかにあります。
そして、そのような発想が生じる時代背景、必然性のようなものも想像できます。
ただ、それとは別の世界もこの世にはたしかに存在していて、
それを味わえるのが小説ではないかと思うのです。

たとえば次の話を美しいと感じた学生に、私はひそかに共感しました。
曹丕『列異伝』(『太平御覧』巻888)所収の物語です。

昔鄱陽郡安楽県有人姓彭、世以捕射為業。児随父入山、父忽蹶然倒地、乃変成白鹿。児悲号追鹿、超然遠逝、遂失所在。児於是終身不捉弓。至孫復学射、忽得一白鹿、乃於鹿角間得道家七星符、并有其祖姓名年月分明、覩之惋悔、乃焼去弧矢。

昔、鄱陽郡安楽県に彭という姓の人がいて、代々狩猟を生業としていた。子が父に従って山に入ったとき、父は突然地面に倒れて、なんと変化して白い鹿となった。子は号泣しながら鹿を追ったが、鹿は軽々と駆けて遠くへ行ってしまい、ついには行方が分からなくなった。子はこれ以降、生涯弓を手にすることはなかった。孫の代になって、再び弓矢を習ったが、あるときたまたま白い鹿を射止めたところ、鹿の角のあたりに道家の七星符と、その祖父の姓名と年月がはっきりと読み取れた。これを見ると悔恨の気持ちに襲われ、とうとう弓矢を焼き捨てた。

2020年7月14日

中国のオシラサマ

こんばんは。

本日の授業で取り上げた、干宝『捜神記』巻14に、次のような話があります。
少し長くなりますが、原文に翻訳を添えて紹介します。

 旧説、太古之時、有大人遠征、家無餘人、唯有一女、牡馬一匹、女親養之。窮居幽処、思念其父、乃戯馬曰「爾能為我迎得父還、吾将嫁汝。」馬既承此言、乃絶韁而去、径至父所。父見馬驚喜、因取而乗之。馬望所自来、悲鳴不已。父曰「此馬無事如此、我家得無有故乎?」亟乗以帰。為畜生有非常之情、故厚加芻養。馬不肯食。毎見女出入、輒喜怒奮撃。如此非一。父怪之、密以問女。女具以告父、「必為是故」。父曰「勿言、恐辱家門。且莫出入。」於是伏弩射殺之、暴皮于庭。父行、女与隣女於皮所戯、以足蹙之曰「汝是畜生、而欲取人為婦耶?招此屠剥、如何自苦?」言未及竟、馬皮蹶然而起、巻女以行。隣女忙怕、不敢救之。走告其父。父還、求索、已出失之。後経数日、得於大樹枝間、女及馬皮、尽化為蠶、而績於樹上。其繭綸理厚大、異於常蠶。隣婦取而養之、其収数倍。因名其樹曰桑。桑者、喪也。由斯百姓競種之、今世所養是也。……

 古くからの伝説にいう。大昔、ご主人が遠くへ出征し、家には他に誰もいず、ただむすめが一人、牡馬が一匹いるだけで、むすめは親しく馬の世話をした。閉じこもった生活の中でひたすらその父が思われてならず、そこで馬に戯れにこう言った。「お前が私のためにお父様を迎えに行って連れて帰って来れたなら、私はお前と結婚しよう。」馬はこの言葉を聞くと、絆を断ち切って立ち去り、まっすぐに父親のところにたどり着いた。父は馬を見て驚いて喜び、そこで馬にまたがった。馬はやってきたところを遠く望んで、悲しげに鳴いて止まない。父親は「この馬はこのように無事だが、私の家に何かあったのではあるまいな」と言って、すぐに馬に乗って帰った。畜生でありながら尋常でない情を持っているとして手厚くまぐさを与えられたが、馬は食べようとしないで、むすめが出入りするのを見るたびに、喜んだり怒ったりして暴れ、こういうことが一度や二度ではない。父親はこれを怪しみ、ひそかにむすめに問うたところ、むすめはつぶさに父に告げ、きっとこのためだろうと言った。父親は、「このことを人に言ってはならないぞ。家門を汚すことになりかねないから。しばらく家を出入りしてはならぬ」と言って、仕掛けた石弓で馬を射殺し、皮を庭にさらした。父が出かけて、むすめは隣家のむすめと馬の皮のところで戯れ、足でそれを踏みながら言った。「おまえは畜生なのに、人のことをお嫁さんにしたがるなんて。だから皮を剥がれるようなことになって。なんだってこんな自分を苦しめるようなことをしたの。」むすめがそういい終わらないうちに、馬の皮はさっと立ち上がり、むすめを巻いて飛んで行った。隣家のむすめは慌てふためき、これを救うこともできず、その父のところに走っていって告げた。父親は戻ってきて探したが、もう出ていって行方が知れなかった。それから数日が経過して、大きな樹木の枝の間に見つかったが、むすめと馬の皮はすべて蚕に変化して樹木の上で糸を引いていた。その繭は糸の巻き方が厚く大きく、通常の蚕とは異なっていた。隣家のむすめはこれを取って養い、その収穫は数倍だった。そこでその樹木を桑と名付けた。桑とは、喪である。これにより、人民は競ってそれを植え、今の世で飼っている蚕がこれである。……

これとよく似た話が、柳田國男『遠野物語』に収載されています。

では、『捜神記』と『遠野物語』とは、どのような関係にあるのでしょうか。

多くの場合、中国の文献が日本に流入したものとされますが、
この故事の場合、果たして同じように見てよいのか、ためらいを感じます。
というのは、この種の中国志怪小説によく見る、いかにも歴史書然とした記述の仕方、
―たとえば、固有名詞の名前や地名を明記するというスタイル―
これが、『捜神記』のこの故事を書き留めた部分には認められないからです。

たとえば、養蚕を行う地域に広く分布している話が、
『捜神記』にも収載され、遠い歳月を経て『遠野物語』にも採録された、
そのような可能性もあり得るのではないかと思うのです。

どなたかお詳しい方にご教示いただけたらありがたいです。

2020年7月13日

*先坊幸子「六朝志怪における廟神の前身と誕生」(『中国中世文学研究』第63・64号(森野繁夫博士追悼特集)2014年)に、この物語を記す『捜神記』と『遠野物語』を挙げ、人と動物との関係性について、日中間の違いに論及した部分があります。この論点に関しては、まったく同感です。

再考再開(曹植「惟漢行」)

こんばんは。

しばらく停止していた曹植の「薤露行」「惟漢行」に対する考察を、
再開しようと思って過去の考察を振り返ってみたところ、もはや新鮮に感じるほどでした。
一度歩みを止めると、再び動き出すのに少なからぬエネルギーを要します。

とはいえ、その間、曹植作品を細々と読み継いではきたので、
前掲の二篇の楽府詩を、また別の観点から検討する素地ができたかもしれません。
そういう点から見て、最近読んだ「雑詩」は“役に立つ”ように思います。
文帝曹丕の黄初年間中、曹植がどのような環境に置かれていたかがよくわかるからです。

「雑詩」を読んできた目で「惟漢行」を見直すと、明らかに雰囲気が違っています。
先行研究が指摘しているとおり、この楽府詩は明帝曹叡の時代になってからの作でしょう。

「惟漢行」の中で注目したいのは、その末尾に周文王の故事が踏まえられていることです。
その故事を伝える『書経』無逸篇は、周公旦の作だとされています。

すでに述べたことではありますが
周文王は曹操、武王は文帝曹丕、成王は明帝曹叡、周公旦は曹植に重なります。
そして、「惟漢行」という楽府題は、明らかに曹操の「薤露・惟漢二十二世」を踏まえています。
すると、この楽府詩を詠じた曹植は、成王を補佐する周公旦に重ねられる、
つまり、明帝曹叡を補佐する立場にある自分を意識した上での楽府詩だと言えないか。

このあたりから、曹植「惟漢行」を再読したいと考えています。

2020年7月12日

曹植「雑詩」という作品群(承前)

こんばんは。

以前(2020.06.23)に述べた考察の続きです。

昨日、現存する曹植「雑詩」九首をひととおり読み終わりました。
すなわち、『玉台新詠』巻2所収「雑詩五首」に、
『文選』巻29所収「雑詩六首」の其一・二・五・六を加えた九首です。

『玉台新詠』の編者徐陵が目睹した一次資料では、
この九首は、「雑詩」として括られる作品群に含まれていたでしょう。

では、「雑詩」という作品群は、曹植自身がそのような括り方をしたのか、
それとも、後世の人がそのように編集したのでしょうか。
これはわかりません。

ですが、これらの作品が同時期の作か、
それとも、様々な機会に作られた無題詩をまとめたものであるのか、
これは、前者の方だと判断できるように思いました。

その根拠は、表現の分析を通して詰めていった、一首一首の詩の成立背景です。
個別具体的なところは訳注稿や最近の雑記を見ていただくとして、
今、その大まかな主題だけを提示します。

「高台多悲風」……親しい人との途絶の悲しみ
「転蓬離本根」……故郷を離れて各地を転々とする寄る辺なさ
「西北有織婦」……遠方へ赴いた人への強い思慕
「南国有佳人」……才能を発揮できない不遇への嘆き
「僕夫早厳駕」……孫呉への出征に対する強い意欲
「飛観百餘尺」……孫呉出征が叶わないことへの焦燥感
「明月照高楼」……遠方を旅する夫への満たされぬ思慕の情
「微陰翳陽景」……故郷を離れて遠方を旅する者の悲しみ
「攬衣出中閨」……夫との離別を悲しみ、愛の復活を希求する妻の心情

①④は、曹彪(後の白馬王、当時は呉王)への思いを、
③⑦は、兄である文帝曹丕への思いを詠じたものだと見ることができます。
⑤⑥は、呉への出征志願を以て罪を贖いたいと詠ずる「責躬詩」と重なる内容です。
⑧からは、引用された『詩経』の解釈を通して、亡くなった兄曹彰に対する追悼の念が読み取れ、
⑨は、踏まえられた『詩経』『楚辞』の分析により、詩中の夫は曹丕なのだと判断されます。

こうしてみると、曹植の「雑詩」は、黄初四年(223)頃の作だとするのが最も妥当です。
この年の五月、曹植は兄の曹彰や弟の曹彪とともに洛陽に上り、曹彰が急死、
七月、領国に帰還する途中、曹彪との同宿が咎められるという一連のことが起こりました。
(『文選』巻24「贈白馬王彪」李善注に引く『集』所収の曹植自らによる序文)

そのような緊迫した状況の中、
短期間で集中的に作られたのがこの作品群ではないかと考えるのです。

もっとも、②の詩は、曹魏王朝の諸王が恒常的に置かれていた境遇を詠じていますが、
黄初四年もそれに該当しないわけではありません。

「雑詩」は、一見その主題にはばらつきがあります。
ですが、その成立背景には一筋の太い流れを読み取ることができます。
「雑詩」は、ある特殊な状況下で、詩人が敢えて選び取った文体なのだと言えそうです。

『文選』李善注は、「雑詩六首」のすべてを、洛陽から鄄城に帰国して以降の作と見ていました。
この説の当否について、長いこと矯めつ眇めつしていたのでしたが、
今は、やはり李善の指摘は至当であったと思っています。

2020年7月11日

兄への忠誠心

こんばんは。

本日、曹植「雑詩五首」其四(『玉台新詠』巻2)の訳注稿を公開しました。

本詩に詠じられた「佳人」は誰を指しているのか。
昨日触れたこの問題について、かいつまんで説明したいと思います。

閨怨詩のスタイルを取るこの詩の中で、
妻が自らの境遇をたとえていう「寄松為女蘿」、
これは、『詩経』小雅「頍弁」に見える次のフレーズを踏まえたものです。

豈伊異人 兄弟匪他  どうして赤の他人と飲むものか、他でもない、兄弟なのだから。
蔦与女蘿 施于松柏  蔦や女蘿が松柏にまつわるように、弟は兄に身を託す。
(続く一段にも「豈伊異人、兄弟具来。蔦与女蘿、施于松上」とある。)

「女蘿」と言えば、『文選』巻29「古詩十九首」其八に、

与君為新婚    あなたと結婚したばかりの私は、
兎絲附女蘿    まるでネナシカズラがヒカゲノカズラにまつわるようです。

とあることが想起されますが、
曹植の詩では、「女蘿」が「松に寄せて」いますから、
直接的には前掲の『詩経』を踏まえていると見て間違いありません。

その『詩経』に、女蘿と松とが、兄弟の絆の深さを喩えるものとして登場しています。
そして、曹植「雑詩」にいう「佳人」と「妾」とは、言うまでもなく「佳人」の方が上位者です。
そうしてみると、曹植のいう「佳人」は、兄を指すということになるでしょう。

また、本詩中に見える「蘭芝」は、治世の安定に感応して生ずる霊草です。
すると、「佳人」と称される兄は、魏の文帝として即位して後の曹丕と見るのが妥当です。

更に、「君豈若平生(君豈に平生の若くならんや)」とあるので、
本詩の成立は、曹操が存命中で、彼ら兄弟がまだ若かった建安年間とは考えにくいでしょう。

最後の方の「束身奉衿帯」「永副我中情」といった句は、
文帝曹丕への絶対服従を余儀なくされていた黄初年間の曹植を彷彿とさせます。

以上を要するに、
曹植のこの「雑詩」は、文帝曹丕を夫に、自らを妻に見立て、

閨怨詩の枠に借りて、兄文帝への忠誠心を詠じた詩だと判断されます。
その忠誠心なるものは、多分に外圧的な矯正を受けて成ったもののようですが。

2020年7月10日

閨怨詩と『楚辞』

こんばんは。

曹植の「雑詩」には難解なものが多いですが、
『玉台新詠』巻2所収の「雑詩五首」其四(『曹集詮評』巻4では「閨情」)もまた、
語釈をどうしたものか苦慮することの多い作品です。
(一両日中には訳注稿を公開する予定)

何がそんなに難しいかというと、
本詩は一見ありふれた閨怨詩であるような風貌を備えていながら、
その表層を一枚めくれば、『楚辞』にも用いられている語句がちりばめられている、
ただし、それらの語は、一般に用いられている語でもあって、
必ずしも『楚辞』に由来する語だとは言えないため、
曹植自身が『楚辞』をどこまで意識しているのか、判断しづらいのです。

一度、『楚辞』のにおいを感じ取ると、
一篇すべてがそのようにしか思えなくなってしまうので危い。
で、そこは十分に自戒しながら読んだ結果、
やはりこの詩は、閨怨詩と『楚辞』とを重ねている、
孤閨を守る女性の寂しさと、君主に理解されなかった屈原の悲しみとを重ねている、
と見るのが妥当だろうと判断しました。
さらに、屈原が曹植だとして、楚の懐王は誰を指しているのかということも、
(こうした解釈のあり様を無化する見方は、今は措いておきます。)
かなり明確な根拠をもって比定することができそうです。
このことについては、また日を改めて述べます。

2020年7月9日

元白応酬詩札記(6)追記

おはようございます。

昨日紹介した元稹「書楽天紙」詩について、追記します。

詩の本文だけを見るならば、次のような解釈もあるいは可能かもしれません。

金鑾殿裏書残紙  金鑾殿の中で、残りものの紙に手紙を書いて、
乞与荊州元判司  荊州の元判司に与える、と君は宛名を記したのだろう。
不忍拈将等閑用  朝廷から支給された紙の残りを粗末に扱うことははばかられて、
半封京信半題詩  半分には都からの便りをしたため、半分には詩を書きつけたのだろう。

ぎりぎりまで迷った末に、昨日のような捉え方をしましたが、
そう判断した一番の根拠は、本詩の詩題「楽天の紙に書く」でした。
これにより、白居易から元稹に諫紙の残りが贈られたことを詠じたのだろうと見たのです。*

昨日の解釈とは後半2句の主語が大きく異なりますが、
いずれにしても、「残紙」「乞与」といった語句、「判司」と「金鑾殿」との対比など、
そこに心情の屈折が読み取れることは、昨日述べたことと変わりありません。

たとえば「乞与荊州元判司」という語について、
白居易から送られてきた書簡、あるいは紙の束に、本当にこのとおり記されていたかは不明です。
それよりも、元稹がこのように感じ取ってそう表現したということに目を留めて、
そこに元稹のこの当時の心境を読み取ろうとしているのです。

「残紙」という言い方にしても同様です。
事実としては、そこに朝廷から支給された紙の残りがあるだけです。
白居易からすれば、当時としては非常に貴重であったその紙を、
文人としても一流と認める親友に使ってほしい一心で送ったかもしれない、
それを元稹は、残り物の紙を左遷された自分に恵んでくれたと受け取ったのでしょう。

なお、元稹はその時点から四年ほど前の元和元年(806)、
制科にトップで及第してすぐに左拾遺(諫官)に抜擢されていますから、
直近まで左拾遺を務め、今は翰林学士の職を兼任している白居易の職務は熟知しています。

2020年7月8日

*呉偉斌輯佚編年箋注『新編元稹集』(三秦出版社、2015年)第五冊、p.2566も同方向の解釈を取る。

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