文学的個性とは

こんばんは。

今日は、曹植「惟漢行」に関する考察を短文にまとめる一方、
西晋王朝の宴席で演奏されていた楽曲の歌辞に訳注を施す作業を進めました。

後者は、当時としては無くてはならない有用の言語芸術だったはずですが、
今は、これを積極的に読もうとするのは、よほど奇特な人(研究者)だろうと思います。
一方、曹植の作品は、もう少し読者の幅が広いかもしれません。

ほぼ同じ歳月を渡って今に至る双方の、かくも異なる生き残りのあり様、
それを分けるのは何なのだろうかと考えを巡らせました。

宮廷儀式を彩る歌曲には、その歌辞を作った人の顔が見えません。
他方、曹植作品にはかなり濃厚にそれが感じられます。

では、私は作品に表れた作者の人間性に引かれているのだろうか。
けれども、曹植は自己表現を目指して詩を作っているわけではありません。
そもそもそうした概念は、当時の人々の文学的価値観の中には存在しなかったものです。

曹植の詩は、たとえ楽府詩のような既存の枠を持つものであっても、
何か、その枠の中に収まり切れない、過剰なものを抱えているように感じます。
それが、彼独特の言語表現となって現れ出ているのです。

文学的個性とは、従来にない表現を志向して作り出すものではなく、
ある規範に沿おうとしても、どうしてもそこからあふれ出てきてしまうものではないか。
もちろん、作者の対外的な制作意図といったものとも関わりなく。
その、その人にしかない一種のいびつさが、人を惹きつける魅力の正体のように思えてなりません。
人は、(自分をも含めて)他にはない、それ固有のものに否応なく惹きつけられ、
そこに自分と通じ合うものを感じ取ったとき魅了されるのだと私は思います。

2020年8月18日

新しい表現が生まれるとき

こんばんは。

教免更新講習の教材のひとつとして、
今年は柳宗元の「南礀中題」という詩(『唐詩選』巻1)を取り上げます。
次のような詩です。

秋気集南礀  秋の気が南の谷川に集まるところに、
独遊亭午時  太陽が空の真ん中に昇る頃、私はひとり散策した。
廻風一蕭瑟  ふいに巻き起こった風のなんともの寂しげであることか、
林景久参差  風に吹かれた林は、いつまでもざわざわとその姿を揺さぶっている。
始至若有得  やってきたばかりの時、何かを感得したような心地がして、
稍深遂忘疲  段々と奥深くまで分け入ってくる頃には、すっかり疲れも忘れていた。
羈禽響幽谷  他郷に身を寄せる禽鳥が、友を求めて奥深い谷に鳴き声を響かせ、
寒藻舞淪漪  寒々しい水草が、さざ波の立つ水面に舞っている。
去国魂已遠  国都を去って、魂はすでに遠く異郷を浮遊し、
懐人涙空垂  なつかしい人のことを想えば、涙がむなしく流れ落ちる。
孤生易為感  ひとりぼっちの人間はものごとに感じやすく、
失路少所宜  道を見失った者は幸運に巡り合うことなど稀である。
索莫竟何事  うらぶれたわびしさの中で、いったい何を務めとすればよいのか。
徘徊祇自知  ぐるぐると歩き回る、この心はただ自分だけが知っている。
誰為後来者  誰か、後からやって来る者となるだろうか。
当与此心期  その未来の人は、きっとこの私の心と出会ってくれることだろう。

第7・8句の「羈禽」「寒藻」について、
『漢語大詞典』では、両方とも柳宗元のこの詩を挙げて解釈していました。
ということは、珍しい詩語だと言ってよいかと思います。

興味深いのは、「禽」に「羈」、「藻」に「寒」という形容詞が付いていることです。
元来は人の心を持たない鳥や植物を見て、
「故郷を遠く離れた」「寒々しい」と感じ取ったのは他ならぬ柳宗元です。*1

彼は当時、都を追われ、南方の永州(湖南省)に流されていました。
左遷の理由は、失敗に終わった政治改革に関わったためです。

そして、そんな新鮮な言葉が、『詩経』に由来する古典語に直結しています。
「幽谷」は、小雅「伐木」にいう「出自幽谷、遷于喬木(幽谷より出で、喬木に遷る)」、
「淪漪」は、魏風「伐檀」にいう「河水清且淪猗(河水は清く且つ淪猗あり」に基づきます。*2
もちろん、柳宗元の中でその『詩経』の文脈は十分に意識されています。

「感を為し易き」「孤生」の詩人が、貶謫という逆境の中で、新たな言葉を紡ぎだした、
その瞬間にまるで立ち会ったかのように感じる読みの体験でした。

また、結びに見える「後来者」は、
『論語』子罕篇にいう「後生可畏也。焉知来者之不如今也」
(後生畏る可きなり。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや)を踏まえると捉え、
自身の理解者(今はいない)を、未来に求めているのだと解釈しました。
ただ、本当に『論語』を踏まえているのか、まだ今ひとつ釈然としないところがあります。

2020年8月17日

*1 下定雅弘『柳宗元詩選』(岩波文庫、2011年)p.69に、「「羈禽」は群れを失い漂泊している鳥。「羈禽」「寒藻」は、貶謫の身である宗元を寓している」との指摘がある。(2020.08.20追記)

*2 この二つの典故については、王国安『柳宗元詩箋釈』(上海古籍出版社、1993年)が既に指摘する。

根源的な渇望

こんばんは。

今学期は、すべてオンラインの、顔が見えない状態での授業でした。
先には、案外これも悪くないと書きましたが、(それは嘘ではないのですが)
やはり直接言葉を交わすということがどれほど人を元気にするかも身に沁みました。
私のような人間でさえ、人とのちょっとした会話に眼の前が明るくなったりするのです。

まして、曹植のような人が、後半生、兄弟と連絡を取り合うことも禁じられ、
周りに話し相手もいないような環境に捨て置かれていたのですから、
その鬱屈には想像を絶するものがあっただろうと思います。

その前半生、建安年間の彼の作品には、多くの文人たちが登場し、
曹植は彼らと、誠実で自由闊達な交わりを結んでいこうとしていたことがうかがわれます。
そんな彼が、理不尽な孤絶状態に投げ込まれたのですから。

明帝期の曹植が幾度となく朝廷に上奏したのは、
彼が王朝運営への参画に強い意欲を持っていたというよりは、
人間としてもっと根源的な渇望に根差した望みだったのではないかと思います。

2020年8月16日

他者を理解したい

こんばんは。

先日から断続的に考察している「惟漢行」ですが、
曹植はこの楽府詩を作ったことによって魏王朝の不興を買ったらしい。
そのことは、ほぼ同時期に作られた「求自試表」(『文選』巻37)から推し測れます。

では、なぜ「惟漢行」は曹植の境遇を悪化させたのでしょうか。
その頃(太和元年)、明帝曹叡はまだ即位したばかりです。
その時点で、明帝は皇帝として直接曹植と面会したことはありません。
(明帝が曹植ら諸王と再会したのは、太和六年(232)正月前後のことでした。)

先代の文帝には、兄弟たちを冷遇する理由が、彼なりにあったのだろうと思われますが、
(皇帝として適切さに欠ける、多分に私情の介入した理由ではあっても)
明帝に曹植を冷遇しなければならない動機はあったでしょうか。
もしかしたら、明帝その人の判断によるのではなく、
明帝を取り巻く臣下たちが、曹植に対する待遇を決めたのかもしれません。
それを明らかにしたいと思い立ちました。

「惟漢行」には、「求自試表」と照らし合わせて始めて見えてくるものがあります。
「薤露行」と「与楊徳祖書」(『文選』巻42)、
「雑詩」の特に其五と、「責躬詩」及びその上表文(『文選』巻20)との関係も同じです。
詩が、現実に働きかける文章と深く関わりあっていて、
その文章の外側には、それを曹植に書かせるに至った具体的な状況があったはずです。
その具体的背景を押さえなくては、曹植その人の思いには近づけません。

別に作者の人生や思いを明らかにする必要はない、
作者と作品とを切り離して、表現そのものを分析すべきだとする考えもあるでしょう。
ですが、私はそちらの方向ではなく、作者の思いを明らかにする方向を取ります。
自分は元来が狭い人間なので、もっと多くの他者と出会いたいからです。

自身を中心とした同心円を描くのではなくて、
遠く離れた人の思いを核として、あちらとこちらの双方に中心点を持つ曲線を描いていく、
そうすれば、自分の狭い思い込みを打破することができると思っています。

2020年8月15日

知の小人

こんにちは。

交換留学生(ずっと海を隔ててオンライン授業)からの質問を受けて、
筑摩書房『吉川幸次郎全集』の、特に第一巻を縦覧しました。

中国文学の特質は「現実参加の志」にあるということを、
吉川幸次郎という日本の学者が言っていると先の授業で述べたところ、
それについて詳しく知りたいという要望が寄せられたのです。

私の記憶違いであったか、この言葉そのものは見当たりませんでした。
そうした趣旨のことは、本書の随所に記されてはいるのですが。
(どなたか教えていただければありがたいです。)

それはともかく、吉川幸次郎という知の巨人の言葉に触れ、
中国文学の本質について、非常に納得させられるところがありました。

立派すぎる人の言葉に圧倒されると、
若い頃はそれだけで自分の存在意義を見失うのが常でした。
しかし今は違います。
自分は知の小人、これでいくのだと思っています。

今日もひとつ、新たに分かったことがあってよかった。

2020年8月14日

疑問氷解(曹植「惟漢行」)

こんばんは。

曹植「惟漢行」の読みで、ずっと不明瞭だったところが、本日ぱっと見通せました。
それは、以前にも触れたことのある本詩の結び、以下に示す部分です。

在昔懐帝京  在昔 帝京を懐ふに、
日昃不敢寧  日の昃(かたむ)くまで敢へて寧(やすん)ぜず。
済済在公朝  済済たるは公朝に在り、
万載馳其名   万載 其の名を馳す。

まず、3行目の「済済」は、『詩経』大雅「文王」にいう、

済済多士  威厳をもって居並ぶ人士たち、
文王以寧  
これでこそ文王の御霊も安寧だ。

を踏まえると見るのがやはり妥当です。

先には、「済済」が文王のあり様を形容する、『詩経』大雅「棫樸」を踏まえるかと考えましたが、
今これを取り下げ、再び「文王」を活かします。

というのは、その前の句「日昃不敢寧」の「寧」にも、
前掲『詩経』大雅「文王」が影響を及ぼしていると見られるからです。
ただし、『詩経』では「文王は以て寧(やす)らかなり」と詠じているところが、
曹植詩はこれを反転させ、「敢へて寧んぜず」としています。
これはいったいどういうことでしょうか。

そこで、「日昃不敢寧」の語釈として新たに追補したいのが、
『史記』巻四・周本紀に、同じ周文王の仕事ぶりについて記す次の記述です。

礼下賢者、日中不暇食以待士。士以此多帰之。
 (周文王は)礼儀正しい態度で賢者にへりくだり、
 日が高く昇るまで食事をする時間も惜しんで優れた人士をもてなした。
 人士たちは、これによって多く周文王に帰順することとなった。

『書経』無逸篇にいう「自朝至于日中昃、不遑暇食」だけでは、
周文王が、どのような仕事に対して、寸暇を惜しんで励んでいたのかが不明瞭ですが、
この『史記』周本紀の記述と併せて読むならば、それが明らかとなります。

周文王は、人材登用という仕事に対して「敢へて寧んぜず」であった、
つまり、現状に満足することなく、優れた人士の招聘に努め続けたということです。

以上を踏まえて、先の四句を次のように通釈し直します。

その昔、帝都の有り様を懐かしく思い起こせば、
今は亡き先代は、日の傾くまで休息もせず、人材登用に努めたものだ。
その結果、大勢集まった人士たちが、威厳をもって朝廷に居並び、
永遠にその名声を馳せることとなったのだ。

ここにいう「今は亡き先代」とは、
『書経』無逸篇を記した周公旦から見ての先代、すなわち周文王であり、
同時に、今、周公旦に自らを重ねている曹植から見ての先代、すなわち曹操を指します。

2020年8月13日

驚く力

こんばんは。

先ほど、概説的な科目のレポートを採点し終わりました。

成績評価というものがなければ、教員も学生も幸福なのに、といつも思います。
どうしても、このようなことを書けば評価されるのではないかという打算が見えるものがあって、
そうした姿勢になってしまうことに同情はしますが(大学受験の弊害)、
少なくとも私は「そういうのは評価しないの、ごめんね」ということになります。
というか、人を評価するとかしないとか、そういうこと自体が嫌い。

思いもよらなかったことを新たに知って驚く、
そんな体験がひとつでもあれば十分ではないかと思うのです。
(そんなことを言うのは現代日本の大学教員としては落ちこぼれでしょうけど)
だから、「授業を通して中国文学に対する認識が変わったこと」を書いてもらいました。

驚くということにはある種のエネルギーが要る、と気付かされました。

たとえば、中国古典文学といえば、教訓的で硬い儒教のイメージが一般的ですが、
そうではないものもあった、として志怪小説を挙げるのと、
儒教そのものに対する認識が変化したことを述べるのとでは次元が違います。
前者は、儒教というものの本質については保留したまま、別の分野に目を向けている、
後者の場合は、儒教に対する自身の先入観が切り払われて、そこで新しい思想に出会っているのです。

後者のような驚きを感じる人が、ひとりでも多く出てきてくれればと思います。

2020年8月12日

自己満足とは別のもの

こんばんは。

ここに書いていることは、基本、自分の日々の研究上の気づきです(何もない日もある)。

けれども、それは自己満足とは別のものです。
むしろ、自己満足から脱したくて書いていると言ってもよいくらい。
書くということは、否応なく、自身を客体化する知力を鍛えあげてくれます。

ですから、自分個人の考察を書いてはいますが、閉じているわけではなくて、
これはいつかきっと誰かのもとには届くだろうと信じているのです。

ですが、それとは別に、啓蒙というものの必要性を近年とみに感じます。
この分野が絶滅危惧種のような状態にあると自覚しているから。
(中国古典的教養が日本から失われていくことはたいへんな損失です。)
だから、多くの人に中国古典の面白さを伝導できる人はすばらしいと思います。
他方、本当は、皆が協力し合ってそれをやるべきなのではないか、
そういう状態まで来ているのではないか、とも思います。
(もちろん、そうした入門書が皆無というわけではありませんが。)

ただ、自分は定説を過不足なく伝えるということがとても下手です。
だから、せめて、この不器用な有り様を見ていただいて、
こんなに右往左往しながら考えていくのか、
全然計画どおりなんかじゃないんだな、
それでも、なんだか楽しそうだな、
と思ってもらえれば、と思っています。

2020年8月11日

結節点に位置する作品

こんばんは。

曹植は「惟漢行」において、魏王室の一員たらんとする意欲を詠じていました。
この作品は、彼の生涯において重要な位置を占めていると見られます。
というのは、この作品以後とそれ以前とでは、
曹植の王朝に対するスタンスに歴然たる違いが認められるように思うからです。

「惟漢行」以降の曹植は、
王朝運営に参画できない自己不遇感と絶望に塗りつぶされていきます。
このことは、「怨歌行」及び明帝期に書かれた数々の文章が物語っているとおりです。
そして、この時期の曹植は、絶望の淵に身を置きながらも、
自身の能力を発揮する機会を求め続ける姿勢においては一貫しています。

では、「惟漢行」以前、すなわち文帝期の曹植はどうだったのでしょうか。
この時期の作と推定されている文章を縦覧すると、*
魏朝の成立を慶賀する「慶文帝受禅表」「魏徳論」「上九尾狐表」「龍見賀表」などの文章、
あるいは以前にも述べたことがある、兄の文帝曹丕に貢ぎ物を奉る文章、
そして、自身の過ちを詫びる「責躬詩」及びその上表文、自戒の文章「写灌均上事令」
このような類の、自らを低く置くような作品が目に付く一方、
主体的に王朝運営に携わろうとする意欲を示すものはほとんど認められません。
文帝期の曹植は、厳しい監視下で、我が身を守るのに精いっぱいだったように看取されます。

魏朝成立後の曹植は、たしかにずっと不遇でしたが、
このように見てくると、その鬱屈は一様ではなかったように思われます。
文帝期の不自由な精神的軟禁状態から、
主体的な現実参加を思い立ってすぐに挫折した明帝期初頭、
その挫折を挽回しようとして果たせなかった明帝期の半ばに当たる最晩年。
文帝期から明帝期へ、色が変わる結節点に位置するのが「惟漢行」なのだと考えます。

2020年8月10日

*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)の編年を参照。ただし、「龍見賀表」は、魏朝成立期ではなく、黄初三年の作かと推測されている。同書p.251を参照。(2022.07.19追記)

西晋時代の「相和」

こんばんは。

曹植の「相和」歌辞制作は、
一種の不敬罪に当たった可能性があると考えられる背景を昨日述べました。

では、魏王朝が西晋王朝に移ってからはどうだったのでしょう。
「相和」の替え歌を作るのは、西晋時代でも憚られるようなことだったのでしょうか。

西晋の傅玄(217―278)には、曹植と同じく、
曹操「薤露・惟漢二十二世」に基づく「惟漢行」があります。
もし傅玄の「惟漢行」が西晋時代に入ってから作られたのであれば、*1
当時「相和」はすでに、宮廷音楽としての位置にはなかったと見ることができるかもしれません。

一方、陸機(261―303)には「相和」歌辞が一首もありません。*2
彼は多くの楽府詩を残していますが、それらは「清商三調」か雑曲に属するものです。
このことをどう見るべきでしょうか。

西晋時代、「相和」はやはり宮廷音楽としての威厳を保っていたのか、
それとも、宮廷音楽ではなくなっていたけれども、陸機が新歌辞を作らなかったのか。
もし後者であった場合、たまたま心が惹かれなくて作らなかっただけなのか、
それとも、何らかの理由があって、作ることを敢えて回避したのか。
そのあたりのことを明らかにしたいのですが、
西晋王朝における「相和」演奏の実態はなんとも不明瞭です。

『宋書』巻21・楽志三では、
魏の「相和」諸歌辞の後に続けて、西晋の荀勗が編成した「清商三調」が列記され、
「相和」の宮廷音楽としての命脈については、特に明記されていません。

『楽府詩集』巻26・27・28では、
そこに収載する「相和」諸歌辞のひとつひとつに、
「魏楽所奏」「魏晋楽所奏」「晋楽所奏」といった付記が見えています。
ですが、これも以前に述べたとおり、根拠が不明です。

また同じ行き止まりに来てしまいました。
後で再び逢着したときのために、ここに旗を立てておきます。

2020年8月9日

*1 傅玄「惟漢行」が魏の時代に作られた可能性はゼロではない。その場合は、宮廷音楽の、しかも王朝の創始者が作った歌辞にかぶせて替え歌を作るということも、無名の作者であるがゆえに問題視されなかったという解釈も成り立つ。
*2 陸機の楽府詩のうち、『楽府詩集』に、狭義の「相和」に属するものとして収録されている作品はある。だが、そのいずれもが本来の「相和」ではない。「挽歌」は、『楽府詩集』巻27に、「薤露」「蒿里」に続けて収録されているが、これは内容的なつながりから関連付けられただけであろうか、明確な根拠は示されていない。また、「日出東南隅行」は、同巻28に、「陌上桑(艶歌羅敷行)」に連なるものとして引かれているが、そもそも「艶歌羅敷行・日出東南隅」は、『宋書』楽志三には「大曲」として収載される作品であり、『楽府詩集』同巻に引く陳の釈智匠『古今楽録』は、「「陌上桑」歌瑟調古辞「艶歌羅敷行」日出東南隅篇(「陌上桑」は、瑟調古辞「艶歌羅敷行」日出東南隅篇を歌ふ)」と記す。つまり、もともと「艶歌羅敷行」は瑟調曲であったのが、ある時期からその歌辞が「陌上桑」として(その楽曲に乗せて?)歌われるようになったということである。この古辞「艶歌羅敷行」に基づくことが明白な陸機「日出東南隅行」は、もとより「相和」の「陌上桑」を踏襲したのではない。(2020.08.10追記)

1 51 52 53 54 55 56 57 58 59 83