驚く力
こんばんは。
先ほど、概説的な科目のレポートを採点し終わりました。
成績評価というものがなければ、教員も学生も幸福なのに、といつも思います。
どうしても、このようなことを書けば評価されるのではないかという打算が見えるものがあって、
そうした姿勢になってしまうことに同情はしますが(大学受験の弊害)、
少なくとも私は「そういうのは評価しないの、ごめんね」ということになります。
というか、人を評価するとかしないとか、そういうこと自体が嫌い。
思いもよらなかったことを新たに知って驚く、
そんな体験がひとつでもあれば十分ではないかと思うのです。
(そんなことを言うのは現代日本の大学教員としては落ちこぼれでしょうけど)
だから、「授業を通して中国文学に対する認識が変わったこと」を書いてもらいました。
驚くということにはある種のエネルギーが要る、と気付かされました。
たとえば、中国古典文学といえば、教訓的で硬い儒教のイメージが一般的ですが、
そうではないものもあった、として志怪小説を挙げるのと、
儒教そのものに対する認識が変化したことを述べるのとでは次元が違います。
前者は、儒教というものの本質については保留したまま、別の分野に目を向けている、
後者の場合は、儒教に対する自身の先入観が切り払われて、そこで新しい思想に出会っているのです。
後者のような驚きを感じる人が、ひとりでも多く出てきてくれればと思います。
2020年8月12日
自己満足とは別のもの
こんばんは。
ここに書いていることは、基本、自分の日々の研究上の気づきです(何もない日もある)。
けれども、それは自己満足とは別のものです。
むしろ、自己満足から脱したくて書いていると言ってもよいくらい。
書くということは、否応なく、自身を客体化する知力を鍛えあげてくれます。
ですから、自分個人の考察を書いてはいますが、閉じているわけではなくて、
これはいつかきっと誰かのもとには届くだろうと信じているのです。
ですが、それとは別に、啓蒙というものの必要性を近年とみに感じます。
この分野が絶滅危惧種のような状態にあると自覚しているから。
(中国古典的教養が日本から失われていくことはたいへんな損失です。)
だから、多くの人に中国古典の面白さを伝導できる人はすばらしいと思います。
他方、本当は、皆が協力し合ってそれをやるべきなのではないか、
そういう状態まで来ているのではないか、とも思います。
(もちろん、そうした入門書が皆無というわけではありませんが。)
ただ、自分は定説を過不足なく伝えるということがとても下手です。
だから、せめて、この不器用な有り様を見ていただいて、
こんなに右往左往しながら考えていくのか、
全然計画どおりなんかじゃないんだな、
それでも、なんだか楽しそうだな、
と思ってもらえれば、と思っています。
2020年8月11日
結節点に位置する作品
こんばんは。
曹植は「惟漢行」において、魏王室の一員たらんとする意欲を詠じていました。
この作品は、彼の生涯において重要な位置を占めていると見られます。
というのは、この作品以後とそれ以前とでは、
曹植の王朝に対するスタンスに歴然たる違いが認められるように思うからです。
「惟漢行」以降の曹植は、
王朝運営に参画できない自己不遇感と絶望に塗りつぶされていきます。
このことは、「怨歌行」及び明帝期に書かれた数々の文章が物語っているとおりです。
そして、この時期の曹植は、絶望の淵に身を置きながらも、
自身の能力を発揮する機会を求め続ける姿勢においては一貫しています。
では、「惟漢行」以前、すなわち文帝期の曹植はどうだったのでしょうか。
この時期の作と推定されている文章を縦覧すると、*
魏朝の成立を慶賀する「慶文帝受禅表」「魏徳論」「上九尾狐表」「龍見賀表」などの文章、
あるいは以前にも述べたことがある、兄の文帝曹丕に貢ぎ物を奉る文章、
そして、自身の過ちを詫びる「責躬詩」及びその上表文、自戒の文章「写灌均上事令」、
このような類の、自らを低く置くような作品が目に付く一方、
主体的に王朝運営に携わろうとする意欲を示すものはほとんど認められません。
文帝期の曹植は、厳しい監視下で、我が身を守るのに精いっぱいだったように看取されます。
魏朝成立後の曹植は、たしかにずっと不遇でしたが、
このように見てくると、その鬱屈は一様ではなかったように思われます。
文帝期の不自由な精神的軟禁状態から、
主体的な現実参加を思い立ってすぐに挫折した明帝期初頭、
その挫折を挽回しようとして果たせなかった明帝期の半ばに当たる最晩年。
文帝期から明帝期へ、色が変わる結節点に位置するのが「惟漢行」なのだと考えます。
2020年8月10日
*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)の編年を参照。ただし、「龍見賀表」は、魏朝成立期ではなく、黄初三年の作かと推測されている。同書p.251を参照。(2022.07.19追記)
西晋時代の「相和」
こんばんは。
曹植の「相和」歌辞制作は、
一種の不敬罪に当たった可能性があると考えられる背景を昨日述べました。
では、魏王朝が西晋王朝に移ってからはどうだったのでしょう。
「相和」の替え歌を作るのは、西晋時代でも憚られるようなことだったのでしょうか。
西晋の傅玄(217―278)には、曹植と同じく、
曹操「薤露・惟漢二十二世」に基づく「惟漢行」があります。
もし傅玄の「惟漢行」が西晋時代に入ってから作られたのであれば、*1
当時「相和」はすでに、宮廷音楽としての位置にはなかったと見ることができるかもしれません。
一方、陸機(261―303)には「相和」歌辞が一首もありません。*2
彼は多くの楽府詩を残していますが、それらは「清商三調」か雑曲に属するものです。
このことをどう見るべきでしょうか。
西晋時代、「相和」はやはり宮廷音楽としての威厳を保っていたのか、
それとも、宮廷音楽ではなくなっていたけれども、陸機が新歌辞を作らなかったのか。
もし後者であった場合、たまたま心が惹かれなくて作らなかっただけなのか、
それとも、何らかの理由があって、作ることを敢えて回避したのか。
そのあたりのことを明らかにしたいのですが、
西晋王朝における「相和」演奏の実態はなんとも不明瞭です。
『宋書』巻21・楽志三では、
魏の「相和」諸歌辞の後に続けて、西晋の荀勗が編成した「清商三調」が列記され、
「相和」の宮廷音楽としての命脈については、特に明記されていません。
『楽府詩集』巻26・27・28では、
そこに収載する「相和」諸歌辞のひとつひとつに、
「魏楽所奏」「魏晋楽所奏」「晋楽所奏」といった付記が見えています。
ですが、これも以前に述べたとおり、根拠が不明です。
また同じ行き止まりに来てしまいました。
後で再び逢着したときのために、ここに旗を立てておきます。
2020年8月9日
*1 傅玄「惟漢行」が魏の時代に作られた可能性はゼロではない。その場合は、宮廷音楽の、しかも王朝の創始者が作った歌辞にかぶせて替え歌を作るということも、無名の作者であるがゆえに問題視されなかったという解釈も成り立つ。
*2 陸機の楽府詩のうち、『楽府詩集』に、狭義の「相和」に属するものとして収録されている作品はある。だが、そのいずれもが本来の「相和」ではない。「挽歌」は、『楽府詩集』巻27に、「薤露」「蒿里」に続けて収録されているが、これは内容的なつながりから関連付けられただけであろうか、明確な根拠は示されていない。また、「日出東南隅行」は、同巻28に、「陌上桑(艶歌羅敷行)」に連なるものとして引かれているが、そもそも「艶歌羅敷行・日出東南隅」は、『宋書』楽志三には「大曲」として収載される作品であり、『楽府詩集』同巻に引く陳の釈智匠『古今楽録』は、「「陌上桑」歌瑟調古辞「艶歌羅敷行」日出東南隅篇(「陌上桑」は、瑟調古辞「艶歌羅敷行」日出東南隅篇を歌ふ)」と記す。つまり、もともと「艶歌羅敷行」は瑟調曲であったのが、ある時期からその歌辞が「陌上桑」として(その楽曲に乗せて?)歌われるようになったということである。この古辞「艶歌羅敷行」に基づくことが明白な陸機「日出東南隅行」は、もとより「相和」の「陌上桑」を踏襲したのではない。(2020.08.10追記)
「相和」歌辞制作という不遜
こんばんは。
昨日取り上げた曹植「惟漢行」について、
「相和」の歌辞を作ったということが不遜とされた可能性を指摘しました。
なぜそのように推測し得るのか、少し追記します。
「相和」は、別紙のとおり、魏の宮中で演奏された歌曲群です。
他方、魏晋の時代、「清商三調」と総称される歌曲群が別にありました。
「相和」と「清商三調」とは、北宋末の『楽府詩集』では相和歌辞と総称されていますが、
少なくとも魏晋当時においては、両者は明確に区別されていたと判断されます。
「相和」と「清商三調」との異質性として、
まず、「相和」諸歌曲は、歌辞と楽曲とが基本的に一対一で対応しますが、
「清商三調」は、一つの楽府題(楽曲)に対して複数の歌辞がある、
つまり、誰でもその替え歌を作ることができるようなものであったと思われます。
また、「相和」にはその来歴が非常に古いものが多いのに対して、
「清商三調」は相対的に新しく、古辞であっても遡って後漢時代あたりまでです。
更に、「古詩」との影響関係は、「清商三調」の方にのみ認められます。
総じて、「清商三調」は当時の游宴の場で作られた歌辞であり、
「相和」は、漢王朝以来の、何か特別な来歴を持つ歌曲群であったと推測されます。
それゆえ、「相和」歌辞の作者は、詠み人知らず、武帝曹操、文帝曹丕に限定されるのでしょう。
(以上のことについては、こちらの学術論文№17,19に詳しく論じました。)*
ところが、こちらの「漢魏晋楽府詩一覧」を見てみると、
「相和」諸曲に対して、別の歌辞を付けた者としては以下の数例があり、
うち、魏王朝当時の作者としては曹植のみです。
・曹植「薤露行」 ・張駿(前涼の君主)「薤露」
・曹植「惟漢行」 ・傅玄(西晋王朝の文人)「惟漢行」
・曹植「平陵東」
曹植にしてみれば、
我が父の「薤露・惟漢二十二世」に寄せて新歌辞を作るのに何の問題もなかったでしょう。
ですが、同時代の口さがない連中は、
誰もが敢えて手を触れないものに触れた、とこれを非難したかもしれません。
冒頭に述べたことは、以上のような検討を経ての推測です。
2020年8月8日
*「清商三調」は、『宋書』巻21・楽志三の定義によるならば、西晋王朝の宮廷音楽のために、荀勗が漢魏の旧詞から選び出した歌曲である。ここでは、荀勗に選び取られる以前、魏王朝もしくは後漢末の建安文壇において、「清商三調」の楽曲にのせて作られた歌辞を指すものとして述べた。
曹植の「惟漢行」と「怨歌行」
こんばんは。
先日来、試行錯誤しつつ検討してきた、
曹植の「惟漢行」(たとえばこちら)と「怨歌行」(直近はこちら)は、
ともに明帝期に入ってからの作だと推定されます。
そして、両作品とも周公旦の故事に触れているという共通項を持っています。
では、この二首の楽府詩はどのような関係にあるのでしょうか。
「惟漢行」の「日昃不敢寧」という句は、
周公旦が成王に文王の事蹟を説いて聞かせる『書経』無逸篇を踏まえています。
そのことから、この楽府詩は、作者である曹植が自身を周公旦に重ね、
曹操の逸話をも示しつつ、若き明帝を戒める趣旨で作ったものだと推定されたのでした。
一方の「怨歌行」は、ほぼ全篇、周公旦の逸話を述べるものです。
周王室を補佐しながら、身内の管叔鮮と蔡叔度から讒言されて東国へ流され、
のちに天威によってその赤心が明らかにされ、成王の信頼を回復するという一連の故事が、
もっぱら『書経』金縢篇の記述に基づいて詠じられています。
この両作品は、いずれが先に作られたのでしょうか。
このことについて、次のように見るのが最も妥当ではないかと考えます。
まず、明帝が即位して間もない頃、曹植は上記の意図から「惟漢行」を作ったと思われます。
それは、王朝運営への参画の抱負を詠じた「薤露行」の続編としてであったでしょう。
この楽府詩には、不思議なほどまっすぐにその志が映じられています。
ところが、「惟漢行」に表明された志は、魏王朝には認められなかったようです。
それは、骨肉には王朝運営に関わらせないという、魏王朝草創期からの方針によるものか、
あるいは、曹操「薤露」に基づくということが、王朝の滅亡を連想させたためか、
はたまた、宮廷歌曲「相和」の歌辞を作ったことが不遜と捉えられたか、
その理由は状況から推測するほかないのですが、ともかく、
これは曹植にとって、大きな挫折であったことは間違いありません。
そこで、この「惟漢行」に起因する不遇を打破しようとして、
周公旦の不遇と名誉回復とを詠ずる「怨歌行」を作り、その赤心を示そうとしたのではないか、
つまり、「惟漢行」の後を受けて「怨歌行」が作られたのだと私は推測します。
なお、曹植における「怨歌行」制作の意図は、
明帝期、曹植が盛んに王朝に対して上奏をしていることと機軸を一にするでしょう。
たとえば、「求自試表」「求通親親表」「陳審挙表」は、「怨歌行」の詠ずるテーマに通じます。
(三篇とも『三国志』巻19「陳思王植伝」に引く。前二者は『文選』巻37にも収載。)
その他、「輔臣論」「諫取諸国士息表」「諫伐遼東表」といった作品も同種と見なせるでしょう。
こうした作品は、前の文帝期には認められないものです。
2020年8月7日
対面でない授業
こんばんは。
慣れないオンライン授業も、前期がやっと来週で終了します。
やってみて、学生の顔が見えない授業も悪くないという印象を持ちました。
顔が見えないから、その分、文字によるやり取りをかなり踏み込んで行わざるを得ない、
それが自分には却ってよかったように感じるのです。
文学のような分野だと、物理的距離はあまり問題にはなりません。
むしろ、場合によっては、面と向かって言うのは照れるようなことでも話せます。
それは、真に大切に思っていることを書いて表現するということと近いように感じました。
もちろん、受講生の全員に理解されたとは思っていません。
ですが、質疑応答を重ねながら、一部の学生には届いたと感じる瞬間はありました。
先々週は、阮籍の思想と文学について話しましたが、
彼の「獼猴賦」*に興味を持ってくれた学生たちがいたことはうれしい驚きでした。
また、彼はなぜ、41歳で司馬懿の従事中郎となるまでまともに出仕しなかったのかという質問は、
きちんと話に耳を傾けてくれていたからこそ出てきたものだと思います。
とはいえ、リアルな書物に触れる機会が極端に少ないのが現状ですから、
授業で聞いたことを、自分なりに調べつつ、考察を深めるということはあまりできません。
双方の良さを組み合わせることができれば面白いと思います。
2020年8月6日
*阮籍「獼猴賦」については、よろしければこちらの学術論文№1をご参照ください。
先行研究との付き合い方(続き)
以前複数回にわたって取り上げた(直近は2020.07.29)「怨歌行」の作者について、
まったく同じ問題を真正面から論じている先行研究があります。
矢田博士「「怨歌行」の作者について
―曹植における〈詠史詩〉の手法を手がかりとして―」(『中国詩文論叢』11、1992年)です。
先に自分なりに試行錯誤していた際には言及できていませんでした。
傾聴すべき先行研究として、自分なりにまとめた概要をここに書き留めておきます。
「怨歌行」は、明帝に疎外された曹植が、同様な境遇の周公旦に自らを擬えた作品とされている。
この定説が妥当と考えられる論拠として、次のようなことが指摘できる。
・「怨歌行」は、冒頭で主題を提示し、それに適合する史実を詠ずるという手法を取る。
・このような手法は、曹植に特有のものと認められる。
・「怨歌行」が詠ずる周公旦について、その不遇に注目するのは曹植作品のみである。
・曹植は、周公旦とその境遇が類似するという自己認識を持っていた。
・曹植は、自己の不遇に対する憂憤の情を述べるため、この種の〈詠史詩〉を作った。
特に、周公旦の不遇を詠ずるのは曹植の詩歌のみだ、という指摘には教えられました。
矢田論文は、上記の論証のほか、曹植が〈詠史詩〉の展開に果たした役割にも論及しています。
〈詠史詩〉を、歴史故事を題材とする詩歌全般とみなしている点において、
私のこのジャンルの生成展開に対する把握の仕方とは異なります。
(もしよかったら、こちらの学術論文№42をご覧ください。)
同じようなテーマで、いきおい用いる資料も似通っていると、
既存の説を重ねて言っているように見なされてしまう場合もあるかもしれません。
ですが、論文の肝は資料の解釈にあると思っています。
どこに視点を置けばいちばん鮮やかな像を結ぶか、ということです。
この点、先行研究を先に見てしまうと、自由なピント合わせがしにくくなります。
最も適切な視点の置き所は、第一次資料が教えてくれると思っています。
2020年8月5日
先行研究との付き合い方
おはようございます。
元白応酬詩を中心的に取り上げて論じた先行研究は、
論文目録の類を縦覧する限りでは、それほど多くない印象です。
もっとも私は情報収集があまり得意でないので(怠慢なだけとも言えます)、
自分が知らないだけの論文、読み落とし等が多くあるだろうと思います。
至らぬところをご指摘くださるとありがたいです。
この夏、白居易「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」を中心に、
元稹と白居易との気持ちの往来を論じたいと考えていますが、
本格的に論じるならば、いくら不得手でも先行研究を押さえることは必須です。
そこで、『日本における白居易の研究(白居易研究講座第七巻)』(勉誠社、1998年)を手がかりに、
前川幸雄「「八月十五日夜 禁中に独り直し 月に対して元九を憶ふ」とその和篇」(『国語界』18、1975年)を入手しました。
結論から言えば、この論文は自分の読みとはまるで異なるものでした。
もし同じようなことが指摘されていたらどうしよう、と思っていたのでほっとしました。
こんなリスクを負ってまで、なぜ先行研究の調査を先にしないかというと、
文学作品の読みに一番大切なのはそこではないとどこかで思っているからです。
あるいは、先行研究を先に読むと、どうしてもそれに引きずられてしまうからです。
賛同するにせよ、否定するにせよ、従来の論点から自由な問いが浮かび難くなってしまいます。
本当は、古人と対話すればそれで充分なのかもしれません。
ただ、その作品と対話し、なぜだと問い続けた跡を残すことには意味があり、
それをする以上は、その意義を明確に示すため、先行研究の調査は避けて通れません。
作品そのものを読みこんだ後に先行研究に当たるという方法はリスキーですが、
自分にはこのような方法が一番しっくりきます。
2020年8月5日
曹植「娯賓賦」札記
こんばんは。
先週7月27日、28日に言及した曹植「娯賓賦」について、
その後、ひととおりの通釈を試みました。(訳注稿は未完成です。)
通釈しようとすれば、それまで読めていなかった部分に踏み込まざるを得ません。
そうして新たに浮上してきた幾つかの気づきを記します。
本作品の5句目「辦中廚之豊膳兮(中廚の豊膳を辦(ととの)へ)」は、
曹植の他の作品に、次のような類似句が見えています。
まず、[04-14 贈丁廙]に「豊膳出中厨(豊膳 中厨より出づ)」、
また、[05-01 箜篌引]にも「中厨辦豊膳(中厨 豊膳を辦へ)」とあります。
第11句「欣公子之高義兮(公子の高義を欣ぶ)」の「公子」とは、
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)が指摘するとおり、曹丕を指すでしょう。
それは、曹植の別の作品に見える「公子」、すなわち、
[04-01 公宴]に「公子敬愛客、終宴不知疲(公子 客を敬愛し、宴を終ふるまで疲れを知らず)」、
また、[04-02 侍太子坐]に「翩翩我公子、機巧忽若神(翩翩たる我が公子、機巧 忽として神の若し)」、
これらにいう「公子」が、いずれも曹丕を指すことと照らし合わせてみれば明らかです。
すると、「公子の高義を欣ぶ」の主語は、曹操だと見るのが自然でしょう。
そして、この文脈をたどっていけば、
「揚仁恩於白屋兮、踰周公之棄餐(仁恩を白屋に揚ぐること、周公の餐を棄つるを踰ゆ)」もまた、
曹操のことを指して言っているのだということになります。
曹操「短歌行・対酒」に、この周公旦の逸話が用いられていることは、先にも示しました。
曹植は、宴席における我が父曹操の様子を、同じ故事を用いて描写している、
そのことから、曹植の曹操に対する尊崇ぶりがうかがえます。
また、本作品の描写のリアルさから見て、
この作品の成立年代は、おそらく曹操が存命中の建安年間でしょう。
そのことは、本作品が、建安年間の作であることが明らかな「贈丁廙」詩と、
前述のとおり「豊膳出中厨」という詩句を共有していることからも跡付けられます。
2020年8月3日