何かが無いということの意味

こんばんは。

昨日述べたことは、以前ある学生から、
中国文学では猫はどのように描写されているのですか、と聞かれたことが事の発端です。
(ある授業での自由研究に必要だったようです。)

この質問の根底には、暗黙裡に、
中国文学作品の中にも当然、猫が描かれているはずだという前提があります。

ところが、聞かれて思い当たるところがありません。
そこで、唐代初めに成った類書『藝文類聚』を当たってみましたが、
「猫」の項目そのものがありませんでした。*
清朝の『淵鑑類函』まで下れば、項目として立ってはいましたが、
そこに引かれている文献は、近世のものが圧倒的多数だという傾向が見て取れました。

後日、「寒泉」の『全唐詩』データベースを当たってみましたが、
やはり唐詩には、猫はそれほど登場しないということが確認できました。

それで、猫はなぜ、こんなに言及されることが少ないのだろうと考えてみたのです。

私たちはよく、有るものには目を引かれて分析検討を始めたりしますが、
無いもの、空白については、特に意に留めず、そのまま通り過ぎることが多いように思います。
(そもそも、たしかに無い、ということを明言することは至難の技ですし。)
ですが、無いということ(あるいは乏しいということ)そのものが、
何かを物語っているということはあるように思います。

2020年8月2日

*盛唐に成った『初学記』にも無し。北宋の『太平御覧』巻912・獣部二四、『太平広記』巻440・畜獣七には猫の項目が立てられ、少数ながら文献が引かれています。(2020.08.03追記)

 

中国文学における犬と猫

こんばんは。

中国文学において、犬は比較的早い時期から志怪小説などに登場します。
たとえば、三国呉の李信純が、愛犬黒竜の犠牲により命拾いした故事(『捜神記』巻20)、
また、西晋に出仕した陸機と、彼の郷里の呉の家とを結ぶ、
犬のメッセンジャー黄耳の逸話(『藝文類聚』巻94に引く『述異記』)など。

また、特に中唐の頃から、詩の中でも、犬が生き生きと描かれるようになります。*

ところが、猫は犬に比べて詩文に現れることが非常に少ない。
これはなぜでしょうか。

まず、猫は詩文にあまり描かれてこなかったとはいえ、
他の文明と同様に、古来、人間と非常に近しい間柄であったことは間違いありません。

儒教の経典のひとつ、『礼記』郊特牲に、
旧暦十二月の蜡(農耕により天から受けた恩恵に感謝する祭)において、
様々な物の神や禽獣を迎えて饗応することが述べられ、
続いて次のような記述が見えています。

古之君子、使之必報之。迎猫、為其食田鼠也。迎虎、為其食田豕也。迎而祭之也。
 古代の君子は、あるものを用いれば、必ずそれに返礼した。
 猫を迎えるのは、それが田畑を荒らす鼠を食べてくれるからだ。
 虎を迎えるのは、それが田畑を荒らすいのししを食べてくれるからだ。
 だから、それらを迎えて祭ったのである。

このように、猫はとても身近で有益な動物であったと言えます。
ですが、人々が思い描く猫のイメージは、あまりよいものではありません。
そのことがよくわかる記事として、たとえば『旧唐書』巻82・李義府伝の次のくだりがあります。

李義府は、唐代初めの宰相で、見た目は温厚そうですが、実は心が狭く陰険で、
一旦権力を握ると、少しでも自分の意に沿わない者はすぐに陥れたため、
時の人は「義府は笑中に刀有り」と評したと記されていますが、
この彼の為人は、また次のようにも評されています。

以其柔而害物、亦謂之李猫。
其の柔にして物を害するを以て、亦た之を李猫と謂ふ。

他方、韓愈の「猫相乳」には、次のような心優しい猫の逸話が記されていますが、
興味深いのは、それが猫にもともと仁義が備わっているからではなく、
飼い主の感化によるものだとされていることです。

司徒北平王家猫有生子同日者、其一死焉、有二子飲於死母、母且死、其鳴咿咿。其一方乳其子、若聞之、起而若聴之、走而若救之。銜其一置於其棲、又往加之、反而乳之、若其子然。噫、亦異之大者也。夫猫、人畜也。非性於仁義者也。其感於所畜者乎哉。……

司徒・北平王(馬燧)の家の猫に、同じ日に子を産んだものがいたが、その一方は死んで、二匹の子らは死んだ母から乳を飲むことになり、母猫がまさに死ぬとき、その子らはミーミーと鳴き声を上げた。そのもう一方の母猫は、自身の子に乳をやっていたが、鳴き声を耳にすると、起き上がって耳を傾け、走っていってこれを救った。その一匹を口にくわえて住処に運び入れると、また行って連れてかえってこれに加え、戻ってからこの子らに授乳すること、その実の子に対するのと同様であった。ああ、またなんと奇特な出来事の最たるものであろうか。そもそも猫は人畜であるから、本性が仁義にあるわけではない。それは、これを養う人間に感化されたものであろうか。……

中国古典の世界では、かくも人間中心なのだと思い知らされました。
人間の徳目に合致するかのような習性をたまたま持つ犬と、
そういうものとは無関係なところで自由気ままに生きている猫と、
褒められようが、無視されようが、犬は犬、猫は猫だと私は思いますけれども。

2020年8月1日

*河田聡美「イヌのいる風景―唐詩に描かれたイヌたち―」(『中唐文学の視角』創文社、1998年)を参照。(このことについては、2020年8月3日追記)

元白応酬詩札記(9)

こんばんは。

元白応酬詩をめぐる昨日の感想から、新たな疑問が生じました。

元稹の「種竹并序」を受けて、
即座に応じた白居易の「酬元九対新栽竹有懐見寄」詩でしたが、
それほど元稹の身を案じている詩なのだとして、この詩の結びをどう捉えるべきか、
一般に行われている読みだとしっくりこないのです。*1

四句ずつまとまりを為す全二十句、そのうちの最後の八句を挙げます。
問題となる最後の二句は、解釈が未だ定まらないので、訓み下しのかたちで示します。

憐君別我後  いじらしいことに、君は私と別れて後、
見竹長相憶  竹を目にしては、長く私のことを想い続けてくださって、
常欲在眼前  いつも眼前に竹があるようにしたいと思って、
故栽庭戸側  わざわざ庭の戸口の側らにこれを植えたのだという。
分首今何処  二人は離別して、今どこにいるかといえば、
君南我在北  君は南に、私は北にいる。
吟我贈君詩  我が君に贈る詩(「贈元稹詩」)を吟じ、
対之心惻惻  之に対して心惻惻たり。

最後から2句目、「我が君に贈る詩」を「吟」じているのは誰でしょうか。
従来の読みでは、この「吟」の主語は元稹とされています。
これに伴い、最後の「心惻惻たり」という状態の人も元稹なのだと捉えられています。

ですが、このように解釈すると、白居易の心情が見えなくなるのです。
「君は私から先に送られた詩を吟詠して、さぞ痛み悲しんでいるだろう」では慰めにならず、
すぐさま応答したというその行為から溢れ出る心情との整合性が取れません。

「惻惻」は、杜甫「夢李白二首」の一首目*2に、次のとおり用例が見えています。

死別已呑声  死別はもはや声を呑んでむせび泣くしかないが、
生別常惻惻  生き別れには、いつも切々と痛み悲しむ思いが付きまとう。
江南瘴癘地  江南は瘴気の漂う土地であって、
逐客無消息  放逐された旅人(李白)からの消息は無い。

生き別れの相手は李白、李白は今、放逐されて南方「瘴癘の地」にいます。
この李白が置かれた境遇は、江陵に左遷されている元稹に非常に近いものがあります。
(この詩の下文には、前掲の白詩と共通する「長相憶」という辞句も見えています。)

その「逐客」たる李白を思い浮かべて、
杜甫は「生別は常に惻惻たり」と言っているのですね。
すると、「惻惻」という心情を抱いているのは、
南方に放逐されている人ではなく、その人を心配している人だということになります。

白居易がこの杜甫の詩を意識しているとするならば、
「対之心惻惻」の主語は白居易自身だと見るのが自然でしょう。
そして、それに伴い、「吟我贈君詩」の主語も白居易自身だということになります。
白居易は、かつて元稹に贈った自作の詩を吟詠して、
そこに詠じた元稹の姿と今の彼の様子を想起し、心を痛めているのではないでしょうか。

なお、元稹は杜甫の詩の価値を見出した人であり、
白居易は、元稹を経由して杜甫の詩に開眼したといいます。
白居易が杜甫の詩を踏まえつつ応酬したとは、十分に考え得ることだと思います。

2020年7月31日

*1 新釈漢文大系『白氏文集一』(明治書院、2017年)作品番号0027、佐久節訳注『白楽天全詩集』(続国訳漢文大成、1928年)を参照。
2 『杜甫全詩訳注一』(講談社学術文庫、2016年)作品番号0269を参照。

元白応酬詩の感想

こんばんは。
前期もやっと終わりが見えてきました。

演習科目では、白居易と元稹との応酬詩を読んでいるのですが、
両者間の往還時間の長短が面白く感じられます。

今日は、白居易の「酬元九対新栽竹有懐見寄」詩(『白氏文集』巻1、0027)を読みました。
この作品は、次に示す元稹の「種竹并序」(『元氏長慶集』巻2)に応えたものです。

昔楽天贈予詩云、「無波古井水、有節秋竹竿」。予秋来種竹庁下、因而有懐、聊書十韻。
その昔、楽天が私に贈ってくれた詩に、「波無し古井の水、節有り秋竹の竿」とあった。私は秋よりこのかた、竹を役所の前に植えたが、そこで思うところあって、ちょっと十韻ばかりの詩を書いた。

昔公憐我直  その昔、貴方様は私の真っ直ぐなところをいじらしく思われ、
比之秋竹竿  そんな私を秋の竹の幹になぞらえてくださった。
秋来苦相憶  秋よりこのかた、このことがひどく思い起こされて、
種竹庁前看  竹を役所の前に植えてながめた。
失地顔色改  馴染んだ土地を失って、色つやも変わり、
傷根枝葉残  根を傷つけ、枝葉は無残にも損なわれてしまった。
清風猶淅淅  清らかな風は、それでもさらさらと音を立てて竹の周囲に吹きわたり、
高節空団団  高雅なる節は、むなしく真ん丸な形に結んでいる。
鳴蝉聒暮景  鳴きわめく蝉らは、夕暮れの景色の中でかまびすしく、
跳蛙集幽欄  飛び跳ねる蛙らは、ほの暗い欄干のあたりに群がっている。
塵土復昼夜  塵や土埃にまみれた俗世に、また昼がそして夜が代わるがわる巡りきて、
梢雲良独難  故郷の梢雲*1へは、実にとりわけ辿り着くことが難しい。
丹丘信云遠  昼夜となく光が照らす丹丘*2は、本当に遠いところにあって、
安得臨仙壇  どうしてそんな仙人たちの住処に臨むことができようか。
瘴江冬草緑  毒気ただよう長江では、冬も高温であるために草木が緑に茂り、
何人驚歳寒  そんな中で、冬の厳しさに打ち勝つ節義*3に誰が驚いたりするものか。
可憐亭亭幹  ああなんとも美しい、高々と伸びる竹の幹、
一一青琅玕  一本一本の青くきらめく琅玕*4。
孤鳳竟不至  つれあいを失った鳳*5は、とうとうここへやってくることはなく、
坐傷時節闌  私はなすすべもなく時節の盛りが過ぎてゆくのを傷むばかりだ。

元稹のこの作品は、元和五年(810)、江陵での作と推定されています。*6
その前年、元稹は非常に理不尽な理由で江陵府士曹参軍に左遷されました。
そういう状況下で、彼はかつて白居易が自分を竹になぞらえてくれたことを思い出します。
序文に示されたそれは、「贈元稹詩」(『白氏文集』巻1、0015)という作品で、
元和元年(806)の作と推定されています。*7

この「贈元稹詩」から元稹の「種竹并序」が成るまでの五年間、
元稹はずっと白居易のこの詩の言葉を胸中に抱き続けていたのでしょう。
そして、苦境に陥っては、日々自身の心の支えとしてきたのに違いありません。
それゆえ、身近なところに竹を植え、自身と竹とを重ね合わせつつ前掲の詩を詠じたのです。

ただ、気になるのは末尾の「孤鳳竟不至(孤鳳は竟に至らず)」です。
鳳凰は一対が基本、それなのにここは片方のみです。

鳳凰は、いつも心を一に、行動を共にしてきた元稹と白居易になぞらえられるでしょう。
では、その片方とはいずれを指すのか。

鳳凰は竹の実のみを食べます。
そして、本詩において竹は元稹に重ねられています。
すると、青き琅玕のごとき竹のもとへ竟に飛んでくることがなかった孤鳳とは、
白居易(の書簡や詩)を指すということになるでしょう。

元稹の「種竹并序」は、
心を許した親友の白居易に向かって、
自身の苦境を訴え、寂しい思いを吐露している詩であるように感じられます。

だからこそ、白居易は間髪を入れず、これに応酬したのでしょう。
冒頭にその詩題を挙げた白居易の応酬詩は、前掲の元稹詩と同年の作と推定されています。*8

2020年7月30日

*1 「梢雲」とは、竹を産する山の名。『文選』巻5、左思「呉都賦」に、「梢雲無以踰、嶰谷弗能連。鸑鷟食其実、鵷鶵擾其間(梢雲も以て踰ゆる無く、嶰谷も連なる能はず。鸑鷟は其の実を食べ、鵷鶵は其の間に擾(やす)んず)」、劉逵の注に「鸑鷟、鳳鶵。鵷鶵、『周本紀』曰、鳳類也。非梧桐不棲、非竹実不食。黄帝時鳳集東園、食帝竹実、終身不去(鸑鷟とは、鳳鶵なり。鵷鶵とは、『周本紀』に曰く、鳳の類なり。梧桐の非ずんば棲まず、竹の実に非ずんば食せず。黄帝の時 鳳 東園に集まり、帝の竹の実を食べ、終身去らず、と)」。李善注に「梢雲、山名。出竹(梢雲とは、山の名なり。竹を出だす)」と。
*2 「丹丘」とは、仙人が棲むという伝説上の場所。『楚辞』遠遊に、「仍羽人於丹丘兮、留不死之旧郷(羽人に丹丘に仍(したが)ひ、不死の旧郷に留まらん)」、王逸の注に「丹丘、昼夜常明也(丹丘は、昼夜 常に明るきなり)」と。
*3 「歳寒」とは、冬の寒さに屈しない強さをいう。『論語』子罕に「歳寒、然後知松柏之後彫也(歳寒くして、然る後に松柏の後れて彫(しぼ)むを知るなり)」に出る語。
*4 「琅玕」とは、玉に似た美しい石。竹の美称でもある。
*5 鳳凰は、伝説上の一対の鳥。竹の実のみを食べる。『詩経』大雅「巻阿」に「鳳皇鳴矣、于彼高岡。梧桐生矣、于彼朝陽(鳳皇は鳴く、彼の高岡に。梧桐は生ず、彼の朝陽に)」、鄭玄の注に「鳳皇之性、非梧桐不棲、非竹実不食(鳳皇の性、梧桐に非ずんば棲まず、竹実に非ずんば食せず)」と。前掲注*1も併せて参照されたい。
*6 花房英樹『元稹研究』(彙文堂書店、1977年)p.213、p.282を参照。
*7 花房英樹『白氏文集の批判的研究』(彙文堂書店、1960年)の「綜合作品表」、及び前掲注*6を参照。
*8 前掲注*7を参照。

再び「怨歌行」の作者について

おはようございます。

一説に曹植作とされる「怨歌行」は、
かつて検討したとおり、また一説に詠み人知らずとも伝えられているのでした。

この楽府詩を読み返していて、ふと気づいたことがあります。

本作品の冒頭「為君既不易、為臣良独難」は、
『論語』子路篇にいう「人之言曰、為君難、為臣不易」を踏まえていますが、
こうした君臣関係は、中国史上いくらでもその事例を挙げることができるでしょう。
よく知られているところでは、『楚辞』のヒーロー屈原がその代表格ですし、
曹操「薤露」の末尾に見える、殷の微子(『史記』殷本紀)も同様な逸話を持つ人物です。

ところが、この「怨歌行」は、前掲のような導入を受けて、
忠信の気持ちが表に現れず、そのために疑念を持たれた人物として、周公旦を挙げています。
屈原のような人物には目もくれず、
臣下たることの困難を、まっすぐに周公旦に結びつけて詠じているのです。
もちろん、第一には、屈原のような悲劇的最期を回避し、
ハッピーエンドで締めくくりたい意図がそうさせたのでしょうが。*
いずれにせよ、ここに、本詩の作者が持つ関心のベクトルが見て取れます。

「怨歌行」は両晋時代に歌われていました
そして、その歌辞が作られた時期、
周公旦に対して上述のような傾倒を示す人物といえば、
皇帝の叔父として、魏の明帝曹叡を補佐すべく上表を重ねながら、
ついにそれが日の目を見ることはなかった曹植が真っ先に想起されるでしょう。

このように見てくると、楽府詩「怨歌行」が曹植の作であった蓋然性は高いと言えます。

これとは異なる説を示す文献として、
南朝宋の王僧虔「大明三年宴楽技録」(『楽府詩集』巻41「怨詩行」に引く『古今楽録』に引用)に、
「荀録所載古「為君」一篇、今不伝(荀録の載する所の古「為君」一篇、今は伝はらず)」とあり、
西晋の荀勗(?―288)の音楽目録(「荀氏録」)に、
「為君」という句に始まる、詠み人知らずの古楽府が記されていたこと、
それが、王僧虔「技録」が成った時(459)には既に伝承を断っていたことが知られます。

曹植作とされる「怨歌行」が東晋時代に歌われていたことは、
謝安(320―385)や孝武帝司馬曜(362―396)にまつわる逸話から明らかです。
そこから「大明三年宴楽技録」まで、それほど長い時間が経過しているわけでもありません。
「荀氏録」に古「為君」と記され、大明三年には既に伝わらなくなっていた古楽府は、
もしかしたら、曹植作「怨歌行」のもととなった本辞である可能性もあるように思います。

2020年7月29日

*矢田博士「境遇類似による希望と絶望―曹植における周公旦及び屈原の意味」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』別冊文学・芸術学編19、1993年)を参照。

曹植の中の周公旦

こんばんは。

曹植作品における周公旦は、
その時々によって異なる面に光が当たっているのかもしれません。

昨日言及した「娯賓賦」は、
父曹操の「短歌行・対酒」と同じく、
人を大切にする周公旦を引き合いに出していました。
このことは、建安年間における曹植の贈答詩と通じ合います。
この時期の彼は、周囲の文人たちを友人と呼び、手厚く誠実に応対しています。

他方、明帝期の作と推定された「惟漢行」は、
直接的な言及ではなく、婉曲なかたちで周公旦を自身に重ねていました
これは、先に検討したように、明帝を補佐する者としての覚悟から出るものでしょう。

自身を周公旦になぞらえる発想は、
もしかしたら、父曹操が亡くなった頃にすでに萌していたのかもしれません。
その父を追悼する「武帝誄」(『曹集詮評』巻10)に、
「虔奉本朝、徳美周文(虔にして本朝を奉じ、徳の美なること周文のごとし)」とあって、
父を周文王と位置付ける以上、自身は周公旦に位置付けられることになるからです。
はっきりそれと自覚したのがその時ではないにしろ。

また、「怨歌行」がもし本当に曹植の作品だとして
この楽府詩は、君主にその忠信が理解されない周公旦の不遇を詠じています。
このような周公旦は、明帝期の曹植を彷彿とさせるものです。

ひとりの歴史上の人物が、
自身の経験の堆積に伴って様々な姿を見せるようになる。
こうしたことは、そういえば私にもあります。
いえ、誰にでもあるのでしょう。
だから歴史上の人物たちは生き続けるのでしょう。

2020年7月28日

周公旦と宴

こんばんは。

曹植における周公旦への意識は、
甥の曹叡が明帝として即位した頃から浮上してきたかと思っていましたが、
調べてみるとそうでもなさそうだということがわかりました。

周公旦は歴史上の大有名人ですから、それは当然です。
たとえば、曹植は歴史上の大人物たちを取り上げて賛を作っていますが、
その中に、三皇五帝らに並んで、周の文王、武王、周公旦、成王の賛が見えています。
(丁晏『曹集詮評』巻6)

また、宴の楽しみを詠じた「娯賓賦」(『曹集詮評』巻1)に、次のような句が見えています。

文人騁其妙説兮 文人は其の妙説を騁(は)せ、
飛軽翰而成章  軽翰を飛ばして章を成す。
談在昔之清風兮 談は昔の清風に在り、
総賢聖之紀綱  賢聖の紀綱を総(す)ぶ。
欣公子之高義兮 公子の高義を欣ぶ、
徳芬芳其若蘭  徳は芬芳として其れ蘭の若し。
揚仁恩於白屋兮 仁恩を白屋に揚ぐること、
踰周公之棄餐  周公の餐を棄つるを踰ゆ。
聴仁風以忘憂兮 仁風を聴きて以て憂を忘れ、
美酒清而肴甘  美酒は清くして肴は甘し。

「白屋」とは、貧者の住まう粗末な家で、
一句は、周公旦がそうしたところからすぐれた人物を推挙したことを言います。
「周公之棄餐」とは、周公旦が食事も中断してすぐれた来客を迎えたことを言います。
いずれも、『韓詩外伝』巻三に見えている語句や故事です。

ところで、この典故は、曹操の「短歌行・対酒」(『宋書』巻21・楽志三、『文選』巻27)にも、
「周公吐哺、天下帰心(周公は哺を吐きて、天下は心を帰す)」と見えています。

曹操の「短歌行」も、宴の歌です。
つまり、曹植「娯賓賦」と同様な情景を詠じています。
もしかしたら、両作品は、何らかのつながりを持っているのかもしれません。

2020年7月27日

考察と論述と

こんばんは。

曹植の「薤露行」「惟漢行」に関する考察をひととおり終えて、
今日は凪のような一日でした。

自身が立てた問いについて、
ここまで調査、読解、考察を重ねてきましたが、
ひととおり、自分なりに納得のいく答えが導き出せたところで、
今度はそれらを俯瞰しつつ再構成していく作業です。

考察することと論述することとは別物で、
自分の考察してきた経過をそのまま再現しただけでは、
人にすんなりと理解してもらえるものにはならないと思っています。

自分のわからない部分を突破していくことの方が楽しいけれど、
わかってもらえた瞬間のうれしさはまた格別ですから、
ここは頭を切り替えて、再出発します。

2020年7月26日

「薤露行」と「惟漢行」

こんばんは。

曹植における「惟漢行」は、
その「薤露行」の続編であるとの仮説を昨日述べました。

ですが、曹植の「惟漢行」と「薤露行」とは句数が異なっています。
「薤露行」は、曹操の「薤露・惟漢二十二世」と同数の句を持っていますが、
(そのことが意味することは、先にこちらで推測しました。)
曹操「薤露」に拠っていることをその楽府題が明示している「惟漢行」は、
曹操「薤露」や曹植「薤露行」よりも四句多いのです。
このことをどう考えるべきでしょうか。

曹植が「惟漢行」歌辞を作ったとき、
曹操「薤露」は、「相和」の一曲として魏の宮中で歌われていました。
ですから、そのメロディは当然生きています。
だからこそ、葬送歌であるというその本来の意味を離れて、
先行作品とは異なる内容の歌辞をそれに乗せることもできたのだと言えます。
(新歌辞が楽府題の意味に沿って作られるのは、そのメロディが滅びてからです。)

それなのに、曹植の「惟漢行」は、曹操「薤露」と句数が同じではない。
このことは、両者の拠ったメロディが果たして同じなのか、私たちに疑念を抱かせます。

さらに、西晋の傅玄には、曹植「惟漢行」と同じ楽府題を持つ作品がありますが、
傅玄「惟漢行」の句数は、曹植のそれとも、曹操「薤露・惟漢二十二世」とも異なっています。
傅玄は、魏から西晋時代を生きた人なので、彼もまた当然、
「相和」の一曲として歌われる曹操「薤露」を聞き知っていたはずなのですが。

曹操「薤露」は16句、曹植「惟漢行」は20句、傅玄「惟漢行」は26句、
三者はいずれも五言ではありますが、句数においてこれを貫く法則性は見出せません。
他方、曹操「薤露」の本辞である「薤露」古辞は、
崔豹『古今注』(『文選』巻28、陸機「挽歌詩三首」李善注引)に記すところでは七言3句、
いよいよ魏楽所奏「相和」の「薤露」とは乖離しています。

「薤露」の楽曲が現存していない以上、これより先には遡れませんが、
少なくとも、曹植「惟漢行」と曹操「薤露」や曹植「薤露行」の句数が一致しないということが、
すなわち双方の無関係性を意味するわけでもない、ということは言えるかと思います。
あるいは曲全体やその一節を繰り返したり、
あるいはまた、歌辞の一部をメロディの枠からあふれさせてみたり、
言葉と音楽との関係が、想像する以上にゆるやかであった可能性が考えられます。

2020年7月25日

妄想改め仮説として

おはようございます。

先日来の検討を通して、
曹植の「惟漢行」は、明帝を戒める趣旨で作られたという見通しが立ちました。

では、なぜそのような内容を、「薤露」という楽曲に乗せる必要があったのでしょうか。

曹操「薤露・惟漢二十二世」が保持する葬送歌としての要素を、
曹植「惟漢行」は持っていません。
「薤露」が本来的に持つこの要素を加えて深読みすればするほど、
曹植「惟漢行」の読みは破綻してしまう、そのことは先にも述べたとおりです

前述のような内容を歌に乗せて表現しようとするならば、
別に「薤露」でなくても、様々にある歌曲のひとつを選べばよかったはずです。

そこで想起されるのが、
曹植には、「薤露」に基づく楽府詩が二篇あったということです。
もう一篇の「薤露行」は、曹操の「薤露」と同じ句数を持ち、
そこに開陳されているのは、これもまた葬送歌とは関わりのない、現実参加への意欲です。

「薤露行」は、古直が指摘する「与楊徳祖書」との近似性により、
楊修(175―219)が存命中の、後漢建安年間の作だと見るのが妥当でしょう。
もしかしたら、宴の席で、曹操の「薤露」と同じ機会に披露された可能性もあります。
当時において、「薤露」という楽曲は宴席を彩る芸能のひとつとして行われていましたから。

曹植「薤露行」は、彼が非常に幸福であった時にわが志を詠じたものです。
それを思い起こし、再び自らの志を表明しようとしたのが「惟漢行」ではなかったでしょうか。
だから、同じ楽曲でなければならなかったのだと思うのです。
曹植にとって、「惟漢行」は、若き時代の作「薤露行」の続編であったということです。
亡き父曹操に向けて、現時点における自らの志を言明するという意味もあったかもしれません。

明帝が即位して、新しい時代が到来した。
これからは、自らの立場にふさわしく、新皇帝を補佐する役割を果たしていこう。
そう彼は思い立って「惟漢行」を作ったのではないでしょうか。
ですが、それが王朝の不興を買ったであろうことは昨日述べたところです。

2020年7月24日

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