「相和」歌辞制作という不遜
こんばんは。
昨日取り上げた曹植「惟漢行」について、
「相和」の歌辞を作ったということが不遜とされた可能性を指摘しました。
なぜそのように推測し得るのか、少し追記します。
「相和」は、別紙のとおり、魏の宮中で演奏された歌曲群です。
他方、魏晋の時代、「清商三調」と総称される歌曲群が別にありました。
「相和」と「清商三調」とは、北宋末の『楽府詩集』では相和歌辞と総称されていますが、
少なくとも魏晋当時においては、両者は明確に区別されていたと判断されます。
「相和」と「清商三調」との異質性として、
まず、「相和」諸歌曲は、歌辞と楽曲とが基本的に一対一で対応しますが、
「清商三調」は、一つの楽府題(楽曲)に対して複数の歌辞がある、
つまり、誰でもその替え歌を作ることができるようなものであったと思われます。
また、「相和」にはその来歴が非常に古いものが多いのに対して、
「清商三調」は相対的に新しく、古辞であっても遡って後漢時代あたりまでです。
更に、「古詩」との影響関係は、「清商三調」の方にのみ認められます。
総じて、「清商三調」は当時の游宴の場で作られた歌辞であり、
「相和」は、漢王朝以来の、何か特別な来歴を持つ歌曲群であったと推測されます。
それゆえ、「相和」歌辞の作者は、詠み人知らず、武帝曹操、文帝曹丕に限定されるのでしょう。
(以上のことについては、こちらの学術論文№17,19に詳しく論じました。)*
ところが、こちらの「漢魏晋楽府詩一覧」を見てみると、
「相和」諸曲に対して、別の歌辞を付けた者としては以下の数例があり、
うち、魏王朝当時の作者としては曹植のみです。
・曹植「薤露行」 ・張駿(前涼の君主)「薤露」
・曹植「惟漢行」 ・傅玄(西晋王朝の文人)「惟漢行」
・曹植「平陵東」
曹植にしてみれば、
我が父の「薤露・惟漢二十二世」に寄せて新歌辞を作るのに何の問題もなかったでしょう。
ですが、同時代の口さがない連中は、
誰もが敢えて手を触れないものに触れた、とこれを非難したかもしれません。
冒頭に述べたことは、以上のような検討を経ての推測です。
2020年8月8日
*「清商三調」は、『宋書』巻21・楽志三の定義によるならば、西晋王朝の宮廷音楽のために、荀勗が漢魏の旧詞から選び出した歌曲である。ここでは、荀勗に選び取られる以前、魏王朝もしくは後漢末の建安文壇において、「清商三調」の楽曲にのせて作られた歌辞を指すものとして述べた。
曹植の「惟漢行」と「怨歌行」
こんばんは。
先日来、試行錯誤しつつ検討してきた、
曹植の「惟漢行」(たとえばこちら)と「怨歌行」(直近はこちら)は、
ともに明帝期に入ってからの作だと推定されます。
そして、両作品とも周公旦の故事に触れているという共通項を持っています。
では、この二首の楽府詩はどのような関係にあるのでしょうか。
「惟漢行」の「日昃不敢寧」という句は、
周公旦が成王に文王の事蹟を説いて聞かせる『書経』無逸篇を踏まえています。
そのことから、この楽府詩は、作者である曹植が自身を周公旦に重ね、
曹操の逸話をも示しつつ、若き明帝を戒める趣旨で作ったものだと推定されたのでした。
一方の「怨歌行」は、ほぼ全篇、周公旦の逸話を述べるものです。
周王室を補佐しながら、身内の管叔鮮と蔡叔度から讒言されて東国へ流され、
のちに天威によってその赤心が明らかにされ、成王の信頼を回復するという一連の故事が、
もっぱら『書経』金縢篇の記述に基づいて詠じられています。
この両作品は、いずれが先に作られたのでしょうか。
このことについて、次のように見るのが最も妥当ではないかと考えます。
まず、明帝が即位して間もない頃、曹植は上記の意図から「惟漢行」を作ったと思われます。
それは、王朝運営への参画の抱負を詠じた「薤露行」の続編としてであったでしょう。
この楽府詩には、不思議なほどまっすぐにその志が映じられています。
ところが、「惟漢行」に表明された志は、魏王朝には認められなかったようです。
それは、骨肉には王朝運営に関わらせないという、魏王朝草創期からの方針によるものか、
あるいは、曹操「薤露」に基づくということが、王朝の滅亡を連想させたためか、
はたまた、宮廷歌曲「相和」の歌辞を作ったことが不遜と捉えられたか、
その理由は状況から推測するほかないのですが、ともかく、
これは曹植にとって、大きな挫折であったことは間違いありません。
そこで、この「惟漢行」に起因する不遇を打破しようとして、
周公旦の不遇と名誉回復とを詠ずる「怨歌行」を作り、その赤心を示そうとしたのではないか、
つまり、「惟漢行」の後を受けて「怨歌行」が作られたのだと私は推測します。
なお、曹植における「怨歌行」制作の意図は、
明帝期、曹植が盛んに王朝に対して上奏をしていることと機軸を一にするでしょう。
たとえば、「求自試表」「求通親親表」「陳審挙表」は、「怨歌行」の詠ずるテーマに通じます。
(三篇とも『三国志』巻19「陳思王植伝」に引く。前二者は『文選』巻37にも収載。)
その他、「輔臣論」「諫取諸国士息表」「諫伐遼東表」といった作品も同種と見なせるでしょう。
こうした作品は、前の文帝期には認められないものです。
2020年8月7日
対面でない授業
こんばんは。
慣れないオンライン授業も、前期がやっと来週で終了します。
やってみて、学生の顔が見えない授業も悪くないという印象を持ちました。
顔が見えないから、その分、文字によるやり取りをかなり踏み込んで行わざるを得ない、
それが自分には却ってよかったように感じるのです。
文学のような分野だと、物理的距離はあまり問題にはなりません。
むしろ、場合によっては、面と向かって言うのは照れるようなことでも話せます。
それは、真に大切に思っていることを書いて表現するということと近いように感じました。
もちろん、受講生の全員に理解されたとは思っていません。
ですが、質疑応答を重ねながら、一部の学生には届いたと感じる瞬間はありました。
先々週は、阮籍の思想と文学について話しましたが、
彼の「獼猴賦」*に興味を持ってくれた学生たちがいたことはうれしい驚きでした。
また、彼はなぜ、41歳で司馬懿の従事中郎となるまでまともに出仕しなかったのかという質問は、
きちんと話に耳を傾けてくれていたからこそ出てきたものだと思います。
とはいえ、リアルな書物に触れる機会が極端に少ないのが現状ですから、
授業で聞いたことを、自分なりに調べつつ、考察を深めるということはあまりできません。
双方の良さを組み合わせることができれば面白いと思います。
2020年8月6日
*阮籍「獼猴賦」については、よろしければこちらの学術論文№1をご参照ください。
先行研究との付き合い方(続き)
以前複数回にわたって取り上げた(直近は2020.07.29)「怨歌行」の作者について、
まったく同じ問題を真正面から論じている先行研究があります。
矢田博士「「怨歌行」の作者について
―曹植における〈詠史詩〉の手法を手がかりとして―」(『中国詩文論叢』11、1992年)です。
先に自分なりに試行錯誤していた際には言及できていませんでした。
傾聴すべき先行研究として、自分なりにまとめた概要をここに書き留めておきます。
「怨歌行」は、明帝に疎外された曹植が、同様な境遇の周公旦に自らを擬えた作品とされている。
この定説が妥当と考えられる論拠として、次のようなことが指摘できる。
・「怨歌行」は、冒頭で主題を提示し、それに適合する史実を詠ずるという手法を取る。
・このような手法は、曹植に特有のものと認められる。
・「怨歌行」が詠ずる周公旦について、その不遇に注目するのは曹植作品のみである。
・曹植は、周公旦とその境遇が類似するという自己認識を持っていた。
・曹植は、自己の不遇に対する憂憤の情を述べるため、この種の〈詠史詩〉を作った。
特に、周公旦の不遇を詠ずるのは曹植の詩歌のみだ、という指摘には教えられました。
矢田論文は、上記の論証のほか、曹植が〈詠史詩〉の展開に果たした役割にも論及しています。
〈詠史詩〉を、歴史故事を題材とする詩歌全般とみなしている点において、
私のこのジャンルの生成展開に対する把握の仕方とは異なります。
(もしよかったら、こちらの学術論文№42をご覧ください。)
同じようなテーマで、いきおい用いる資料も似通っていると、
既存の説を重ねて言っているように見なされてしまう場合もあるかもしれません。
ですが、論文の肝は資料の解釈にあると思っています。
どこに視点を置けばいちばん鮮やかな像を結ぶか、ということです。
この点、先行研究を先に見てしまうと、自由なピント合わせがしにくくなります。
最も適切な視点の置き所は、第一次資料が教えてくれると思っています。
2020年8月5日
先行研究との付き合い方
おはようございます。
元白応酬詩を中心的に取り上げて論じた先行研究は、
論文目録の類を縦覧する限りでは、それほど多くない印象です。
もっとも私は情報収集があまり得意でないので(怠慢なだけとも言えます)、
自分が知らないだけの論文、読み落とし等が多くあるだろうと思います。
至らぬところをご指摘くださるとありがたいです。
この夏、白居易「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」を中心に、
元稹と白居易との気持ちの往来を論じたいと考えていますが、
本格的に論じるならば、いくら不得手でも先行研究を押さえることは必須です。
そこで、『日本における白居易の研究(白居易研究講座第七巻)』(勉誠社、1998年)を手がかりに、
前川幸雄「「八月十五日夜 禁中に独り直し 月に対して元九を憶ふ」とその和篇」(『国語界』18、1975年)を入手しました。
結論から言えば、この論文は自分の読みとはまるで異なるものでした。
もし同じようなことが指摘されていたらどうしよう、と思っていたのでほっとしました。
こんなリスクを負ってまで、なぜ先行研究の調査を先にしないかというと、
文学作品の読みに一番大切なのはそこではないとどこかで思っているからです。
あるいは、先行研究を先に読むと、どうしてもそれに引きずられてしまうからです。
賛同するにせよ、否定するにせよ、従来の論点から自由な問いが浮かび難くなってしまいます。
本当は、古人と対話すればそれで充分なのかもしれません。
ただ、その作品と対話し、なぜだと問い続けた跡を残すことには意味があり、
それをする以上は、その意義を明確に示すため、先行研究の調査は避けて通れません。
作品そのものを読みこんだ後に先行研究に当たるという方法はリスキーですが、
自分にはこのような方法が一番しっくりきます。
2020年8月5日
曹植「娯賓賦」札記
こんばんは。
先週7月27日、28日に言及した曹植「娯賓賦」について、
その後、ひととおりの通釈を試みました。(訳注稿は未完成です。)
通釈しようとすれば、それまで読めていなかった部分に踏み込まざるを得ません。
そうして新たに浮上してきた幾つかの気づきを記します。
本作品の5句目「辦中廚之豊膳兮(中廚の豊膳を辦(ととの)へ)」は、
曹植の他の作品に、次のような類似句が見えています。
まず、[04-14 贈丁廙]に「豊膳出中厨(豊膳 中厨より出づ)」、
また、[05-01 箜篌引]にも「中厨辦豊膳(中厨 豊膳を辦へ)」とあります。
第11句「欣公子之高義兮(公子の高義を欣ぶ)」の「公子」とは、
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)が指摘するとおり、曹丕を指すでしょう。
それは、曹植の別の作品に見える「公子」、すなわち、
[04-01 公宴]に「公子敬愛客、終宴不知疲(公子 客を敬愛し、宴を終ふるまで疲れを知らず)」、
また、[04-02 侍太子坐]に「翩翩我公子、機巧忽若神(翩翩たる我が公子、機巧 忽として神の若し)」、
これらにいう「公子」が、いずれも曹丕を指すことと照らし合わせてみれば明らかです。
すると、「公子の高義を欣ぶ」の主語は、曹操だと見るのが自然でしょう。
そして、この文脈をたどっていけば、
「揚仁恩於白屋兮、踰周公之棄餐(仁恩を白屋に揚ぐること、周公の餐を棄つるを踰ゆ)」もまた、
曹操のことを指して言っているのだということになります。
曹操「短歌行・対酒」に、この周公旦の逸話が用いられていることは、先にも示しました。
曹植は、宴席における我が父曹操の様子を、同じ故事を用いて描写している、
そのことから、曹植の曹操に対する尊崇ぶりがうかがえます。
また、本作品の描写のリアルさから見て、
この作品の成立年代は、おそらく曹操が存命中の建安年間でしょう。
そのことは、本作品が、建安年間の作であることが明らかな「贈丁廙」詩と、
前述のとおり「豊膳出中厨」という詩句を共有していることからも跡付けられます。
2020年8月3日
何かが無いということの意味
こんばんは。
昨日述べたことは、以前ある学生から、
中国文学では猫はどのように描写されているのですか、と聞かれたことが事の発端です。
(ある授業での自由研究に必要だったようです。)
この質問の根底には、暗黙裡に、
中国文学作品の中にも当然、猫が描かれているはずだという前提があります。
ところが、聞かれて思い当たるところがありません。
そこで、唐代初めに成った類書『藝文類聚』を当たってみましたが、
「猫」の項目そのものがありませんでした。*
清朝の『淵鑑類函』まで下れば、項目として立ってはいましたが、
そこに引かれている文献は、近世のものが圧倒的多数だという傾向が見て取れました。
後日、「寒泉」の『全唐詩』データベースを当たってみましたが、
やはり唐詩には、猫はそれほど登場しないということが確認できました。
それで、猫はなぜ、こんなに言及されることが少ないのだろうと考えてみたのです。
私たちはよく、有るものには目を引かれて分析検討を始めたりしますが、
無いもの、空白については、特に意に留めず、そのまま通り過ぎることが多いように思います。
(そもそも、たしかに無い、ということを明言することは至難の技ですし。)
ですが、無いということ(あるいは乏しいということ)そのものが、
何かを物語っているということはあるように思います。
2020年8月2日
*盛唐に成った『初学記』にも無し。北宋の『太平御覧』巻912・獣部二四、『太平広記』巻440・畜獣七には猫の項目が立てられ、少数ながら文献が引かれています。(2020.08.03追記)
中国文学における犬と猫
こんばんは。
中国文学において、犬は比較的早い時期から志怪小説などに登場します。
たとえば、三国呉の李信純が、愛犬黒竜の犠牲により命拾いした故事(『捜神記』巻20)、
また、西晋に出仕した陸機と、彼の郷里の呉の家とを結ぶ、
犬のメッセンジャー黄耳の逸話(『藝文類聚』巻94に引く『述異記』)など。
また、特に中唐の頃から、詩の中でも、犬が生き生きと描かれるようになります。*
ところが、猫は犬に比べて詩文に現れることが非常に少ない。
これはなぜでしょうか。
まず、猫は詩文にあまり描かれてこなかったとはいえ、
他の文明と同様に、古来、人間と非常に近しい間柄であったことは間違いありません。
儒教の経典のひとつ、『礼記』郊特牲に、
旧暦十二月の蜡(農耕により天から受けた恩恵に感謝する祭)において、
様々な物の神や禽獣を迎えて饗応することが述べられ、
続いて次のような記述が見えています。
古之君子、使之必報之。迎猫、為其食田鼠也。迎虎、為其食田豕也。迎而祭之也。
古代の君子は、あるものを用いれば、必ずそれに返礼した。
猫を迎えるのは、それが田畑を荒らす鼠を食べてくれるからだ。
虎を迎えるのは、それが田畑を荒らすいのししを食べてくれるからだ。
だから、それらを迎えて祭ったのである。
このように、猫はとても身近で有益な動物であったと言えます。
ですが、人々が思い描く猫のイメージは、あまりよいものではありません。
そのことがよくわかる記事として、たとえば『旧唐書』巻82・李義府伝の次のくだりがあります。
李義府は、唐代初めの宰相で、見た目は温厚そうですが、実は心が狭く陰険で、
一旦権力を握ると、少しでも自分の意に沿わない者はすぐに陥れたため、
時の人は「義府は笑中に刀有り」と評したと記されていますが、
この彼の為人は、また次のようにも評されています。
以其柔而害物、亦謂之李猫。
其の柔にして物を害するを以て、亦た之を李猫と謂ふ。
他方、韓愈の「猫相乳」には、次のような心優しい猫の逸話が記されていますが、
興味深いのは、それが猫にもともと仁義が備わっているからではなく、
飼い主の感化によるものだとされていることです。
司徒北平王家猫有生子同日者、其一死焉、有二子飲於死母、母且死、其鳴咿咿。其一方乳其子、若聞之、起而若聴之、走而若救之。銜其一置於其棲、又往加之、反而乳之、若其子然。噫、亦異之大者也。夫猫、人畜也。非性於仁義者也。其感於所畜者乎哉。……
司徒・北平王(馬燧)の家の猫に、同じ日に子を産んだものがいたが、その一方は死んで、二匹の子らは死んだ母から乳を飲むことになり、母猫がまさに死ぬとき、その子らはミーミーと鳴き声を上げた。そのもう一方の母猫は、自身の子に乳をやっていたが、鳴き声を耳にすると、起き上がって耳を傾け、走っていってこれを救った。その一匹を口にくわえて住処に運び入れると、また行って連れてかえってこれに加え、戻ってからこの子らに授乳すること、その実の子に対するのと同様であった。ああ、またなんと奇特な出来事の最たるものであろうか。そもそも猫は人畜であるから、本性が仁義にあるわけではない。それは、これを養う人間に感化されたものであろうか。……
中国古典の世界では、かくも人間中心なのだと思い知らされました。
人間の徳目に合致するかのような習性をたまたま持つ犬と、
そういうものとは無関係なところで自由気ままに生きている猫と、
褒められようが、無視されようが、犬は犬、猫は猫だと私は思いますけれども。
2020年8月1日
*河田聡美「イヌのいる風景―唐詩に描かれたイヌたち―」(『中唐文学の視角』創文社、1998年)を参照。(このことについては、2020年8月3日追記)
元白応酬詩札記(9)
こんばんは。
元白応酬詩をめぐる昨日の感想から、新たな疑問が生じました。
元稹の「種竹并序」を受けて、
即座に応じた白居易の「酬元九対新栽竹有懐見寄」詩でしたが、
それほど元稹の身を案じている詩なのだとして、この詩の結びをどう捉えるべきか、
一般に行われている読みだとしっくりこないのです。*1
四句ずつまとまりを為す全二十句、そのうちの最後の八句を挙げます。
問題となる最後の二句は、解釈が未だ定まらないので、訓み下しのかたちで示します。
憐君別我後 いじらしいことに、君は私と別れて後、
見竹長相憶 竹を目にしては、長く私のことを想い続けてくださって、
常欲在眼前 いつも眼前に竹があるようにしたいと思って、
故栽庭戸側 わざわざ庭の戸口の側らにこれを植えたのだという。
分首今何処 二人は離別して、今どこにいるかといえば、
君南我在北 君は南に、私は北にいる。
吟我贈君詩 我が君に贈る詩(「贈元稹詩」)を吟じ、
対之心惻惻 之に対して心惻惻たり。
最後から2句目、「我が君に贈る詩」を「吟」じているのは誰でしょうか。
従来の読みでは、この「吟」の主語は元稹とされています。
これに伴い、最後の「心惻惻たり」という状態の人も元稹なのだと捉えられています。
ですが、このように解釈すると、白居易の心情が見えなくなるのです。
「君は私から先に送られた詩を吟詠して、さぞ痛み悲しんでいるだろう」では慰めにならず、
すぐさま応答したというその行為から溢れ出る心情との整合性が取れません。
「惻惻」は、杜甫「夢李白二首」の一首目*2に、次のとおり用例が見えています。
死別已呑声 死別はもはや声を呑んでむせび泣くしかないが、
生別常惻惻 生き別れには、いつも切々と痛み悲しむ思いが付きまとう。
江南瘴癘地 江南は瘴気の漂う土地であって、
逐客無消息 放逐された旅人(李白)からの消息は無い。
生き別れの相手は李白、李白は今、放逐されて南方「瘴癘の地」にいます。
この李白が置かれた境遇は、江陵に左遷されている元稹に非常に近いものがあります。
(この詩の下文には、前掲の白詩と共通する「長相憶」という辞句も見えています。)
その「逐客」たる李白を思い浮かべて、
杜甫は「生別は常に惻惻たり」と言っているのですね。
すると、「惻惻」という心情を抱いているのは、
南方に放逐されている人ではなく、その人を心配している人だということになります。
白居易がこの杜甫の詩を意識しているとするならば、
「対之心惻惻」の主語は白居易自身だと見るのが自然でしょう。
そして、それに伴い、「吟我贈君詩」の主語も白居易自身だということになります。
白居易は、かつて元稹に贈った自作の詩を吟詠して、
そこに詠じた元稹の姿と今の彼の様子を想起し、心を痛めているのではないでしょうか。
なお、元稹は杜甫の詩の価値を見出した人であり、
白居易は、元稹を経由して杜甫の詩に開眼したといいます。
白居易が杜甫の詩を踏まえつつ応酬したとは、十分に考え得ることだと思います。
2020年7月31日
*1 新釈漢文大系『白氏文集一』(明治書院、2017年)作品番号0027、佐久節訳注『白楽天全詩集』(続国訳漢文大成、1928年)を参照。
2 『杜甫全詩訳注一』(講談社学術文庫、2016年)作品番号0269を参照。
元白応酬詩の感想
こんばんは。
前期もやっと終わりが見えてきました。
演習科目では、白居易と元稹との応酬詩を読んでいるのですが、
両者間の往還時間の長短が面白く感じられます。
今日は、白居易の「酬元九対新栽竹有懐見寄」詩(『白氏文集』巻1、0027)を読みました。
この作品は、次に示す元稹の「種竹并序」(『元氏長慶集』巻2)に応えたものです。
昔楽天贈予詩云、「無波古井水、有節秋竹竿」。予秋来種竹庁下、因而有懐、聊書十韻。
その昔、楽天が私に贈ってくれた詩に、「波無し古井の水、節有り秋竹の竿」とあった。私は秋よりこのかた、竹を役所の前に植えたが、そこで思うところあって、ちょっと十韻ばかりの詩を書いた。
昔公憐我直 その昔、貴方様は私の真っ直ぐなところをいじらしく思われ、
比之秋竹竿 そんな私を秋の竹の幹になぞらえてくださった。
秋来苦相憶 秋よりこのかた、このことがひどく思い起こされて、
種竹庁前看 竹を役所の前に植えてながめた。
失地顔色改 馴染んだ土地を失って、色つやも変わり、
傷根枝葉残 根を傷つけ、枝葉は無残にも損なわれてしまった。
清風猶淅淅 清らかな風は、それでもさらさらと音を立てて竹の周囲に吹きわたり、
高節空団団 高雅なる節は、むなしく真ん丸な形に結んでいる。
鳴蝉聒暮景 鳴きわめく蝉らは、夕暮れの景色の中でかまびすしく、
跳蛙集幽欄 飛び跳ねる蛙らは、ほの暗い欄干のあたりに群がっている。
塵土復昼夜 塵や土埃にまみれた俗世に、また昼がそして夜が代わるがわる巡りきて、
梢雲良独難 故郷の梢雲*1へは、実にとりわけ辿り着くことが難しい。
丹丘信云遠 昼夜となく光が照らす丹丘*2は、本当に遠いところにあって、
安得臨仙壇 どうしてそんな仙人たちの住処に臨むことができようか。
瘴江冬草緑 毒気ただよう長江では、冬も高温であるために草木が緑に茂り、
何人驚歳寒 そんな中で、冬の厳しさに打ち勝つ節義*3に誰が驚いたりするものか。
可憐亭亭幹 ああなんとも美しい、高々と伸びる竹の幹、
一一青琅玕 一本一本の青くきらめく琅玕*4。
孤鳳竟不至 つれあいを失った鳳*5は、とうとうここへやってくることはなく、
坐傷時節闌 私はなすすべもなく時節の盛りが過ぎてゆくのを傷むばかりだ。
元稹のこの作品は、元和五年(810)、江陵での作と推定されています。*6
その前年、元稹は非常に理不尽な理由で江陵府士曹参軍に左遷されました。
そういう状況下で、彼はかつて白居易が自分を竹になぞらえてくれたことを思い出します。
序文に示されたそれは、「贈元稹詩」(『白氏文集』巻1、0015)という作品で、
元和元年(806)の作と推定されています。*7
この「贈元稹詩」から元稹の「種竹并序」が成るまでの五年間、
元稹はずっと白居易のこの詩の言葉を胸中に抱き続けていたのでしょう。
そして、苦境に陥っては、日々自身の心の支えとしてきたのに違いありません。
それゆえ、身近なところに竹を植え、自身と竹とを重ね合わせつつ前掲の詩を詠じたのです。
ただ、気になるのは末尾の「孤鳳竟不至(孤鳳は竟に至らず)」です。
鳳凰は一対が基本、それなのにここは片方のみです。
鳳凰は、いつも心を一に、行動を共にしてきた元稹と白居易になぞらえられるでしょう。
では、その片方とはいずれを指すのか。
鳳凰は竹の実のみを食べます。
そして、本詩において竹は元稹に重ねられています。
すると、青き琅玕のごとき竹のもとへ竟に飛んでくることがなかった孤鳳とは、
白居易(の書簡や詩)を指すということになるでしょう。
元稹の「種竹并序」は、
心を許した親友の白居易に向かって、
自身の苦境を訴え、寂しい思いを吐露している詩であるように感じられます。
だからこそ、白居易は間髪を入れず、これに応酬したのでしょう。
冒頭にその詩題を挙げた白居易の応酬詩は、前掲の元稹詩と同年の作と推定されています。*8
2020年7月30日
*1 「梢雲」とは、竹を産する山の名。『文選』巻5、左思「呉都賦」に、「梢雲無以踰、嶰谷弗能連。鸑鷟食其実、鵷鶵擾其間(梢雲も以て踰ゆる無く、嶰谷も連なる能はず。鸑鷟は其の実を食べ、鵷鶵は其の間に擾(やす)んず)」、劉逵の注に「鸑鷟、鳳鶵。鵷鶵、『周本紀』曰、鳳類也。非梧桐不棲、非竹実不食。黄帝時鳳集東園、食帝竹実、終身不去(鸑鷟とは、鳳鶵なり。鵷鶵とは、『周本紀』に曰く、鳳の類なり。梧桐の非ずんば棲まず、竹の実に非ずんば食せず。黄帝の時 鳳 東園に集まり、帝の竹の実を食べ、終身去らず、と)」。李善注に「梢雲、山名。出竹(梢雲とは、山の名なり。竹を出だす)」と。
*2 「丹丘」とは、仙人が棲むという伝説上の場所。『楚辞』遠遊に、「仍羽人於丹丘兮、留不死之旧郷(羽人に丹丘に仍(したが)ひ、不死の旧郷に留まらん)」、王逸の注に「丹丘、昼夜常明也(丹丘は、昼夜 常に明るきなり)」と。
*3 「歳寒」とは、冬の寒さに屈しない強さをいう。『論語』子罕に「歳寒、然後知松柏之後彫也(歳寒くして、然る後に松柏の後れて彫(しぼ)むを知るなり)」に出る語。
*4 「琅玕」とは、玉に似た美しい石。竹の美称でもある。
*5 鳳凰は、伝説上の一対の鳥。竹の実のみを食べる。『詩経』大雅「巻阿」に「鳳皇鳴矣、于彼高岡。梧桐生矣、于彼朝陽(鳳皇は鳴く、彼の高岡に。梧桐は生ず、彼の朝陽に)」、鄭玄の注に「鳳皇之性、非梧桐不棲、非竹実不食(鳳皇の性、梧桐に非ずんば棲まず、竹実に非ずんば食せず)」と。前掲注*1も併せて参照されたい。
*6 花房英樹『元稹研究』(彙文堂書店、1977年)p.213、p.282を参照。
*7 花房英樹『白氏文集の批判的研究』(彙文堂書店、1960年)の「綜合作品表」、及び前掲注*6を参照。
*8 前掲注*7を参照。