元白応酬詩札記(6)
こんにちは。
昨日の話の続きです。
白居易の「禁中夜作書与元九」(『白氏文集』巻14、0723)に対応する詩として、
次に示す元稹「書楽天紙」詩(『元氏長慶集』巻18)が伝わっています。
金鑾殿裏書残紙 金鑾殿の中で、残りものの紙に書かれた、
乞与荊州元判司 荊州の元判司に与えるという文字。
不忍拈将等閑用 いただいた紙をつまみ上げて、いい加減に用いるのには忍びないから、
半封京信半題詩 半分には都への便りをしたため、半分には詩を書きつけよう。
この詩には、なにかひどく屈折したものを感じます。
まず、1句目の「残紙」は、王朝から諫官に支給された紙のことを指し、
この紙は、たとえば「酔後走筆、酬劉五主簿長句之贈……」(『白氏文集』巻12、0584)に、
「月慙諌紙二百張(月ゞに慙づ 諌紙二百張)」と見えていますが、
それを“残り物の紙”と言っていることに目が留まります。
また、2句目「乞与荊州元判司」について、
「荊州元判司」は、意味としては荊州で士曹参軍を務めている元稹を指し示すだけですが、
「判司」は州郡の属官をいい、1句目の「金鑾殿」との落差が際立っています。
しかも、その上にある「乞与」は、何か上位者の奢りのようなものを感じさせます。
元稹が白居易からの贈り物を、“贈る”ではなく“与える”と表現したのはなぜでしょうか。
3句目「不忍拈将等閑用」にも、かすかな不協和音を感じます。
「拈」は指でつまみあげるの意。それに接尾辞の「将」が付いています。
「等閑」という語ともあわせて、それをすることを「不忍」と言っているのですが、
却って、そうしたぞんざいな行為が、一旦は念頭に上がったのかとさえ思わせられます。
加えて、この詩は白居易の手に渡ったのかも不明です。
本詩の題名は、「楽天の紙に書きつけた」と言っているだけですから。
このように、元稹のこの詩には何か釈然としないものを感じるのですが、
それは、白居易と元稹に対して私たちがある種の先入観を持っているためかもしれません。
彼ら二人は、生涯を通して、ゆるぎない友情で結ばれていたという神話です。
前掲の白詩が作られたのは元和五年(810)、
当時白居易は、京兆府戸曹参軍で天子直属の翰林学士を兼任していました。
一方、元稹は以前にも述べたとおり、この年の春、江陵府士曹参軍に左遷されました。
その理由は、河南尹の房式の違法行為を暴いたのが官界の連中に憎まれたためで、
白居易は、再三元稹を弁護しましたが認められませんでした。*
こうした中、元稹がひどい屈託を抱えていても不思議ではないし、
白居易は、この元稹の気持ちを、まだ本当のところでは理解していなかったかもしれません。
たとえ元稹の行為や人柄に対して全幅の信頼を寄せていたとしてもです。
2020年7月7日
*この間の経緯については、平岡武夫『白居易(中国詩文選17)』(筑摩書房、1977年)が詳しい。
元白応酬詩札記(5)
こんばんは。
先にこちら(2020.06.29)で考察を始めたことについて、少しだけ続きを記します。
白居易は、江州に左遷されて三年目、元稹に宛てて「与微之書」を書きましたが、
その中に、元稹「酬楽天八月十五夜、禁中独直、玩月見寄」詩に見える「瞥然」「塵念」が、
「平生故人、去我万里。瞥然塵念、此際暫生」と用いられていたことは先に述べました。
さて、この「瞥然塵念」云々に続くのは、次のような文面です。
余習所牽、便成三韻、云、
身に染み付いた習慣によって、すぐに三韻から成る次のような詩ができた。
憶昔封書与君夜 思えば昔、書簡に封をして君に送り届けようとした夜、
金鑾殿後欲明天 大明宮中の金鑾殿の背後には夜明けの空が広がりつつあった。
今夜封書在何処 今夜、どこにいて書簡に封をしているかというと、
廬山菴裏暁灯前 廬山の草庵の中、明け方の灯の前である。
籠鳥檻猿倶未死 籠の中の鳥も檻の中の猿も、ともにまだ死んではいない。
人間相見是何年 人間界において再会するのはいつになるであろうか。
この詩の最初の二句は、
次に示す、白居易「禁中夜作書与元九」(『白氏文集』巻14、0723)を指しています。*1
心緒万端書両紙 伝えたい思いは無限にあるのに、書いた手紙は二枚だけだ。
欲封重読意遅遅 封をしようとして、読み返せば言い足りないことばかりが目について、気が進まない。
五声宮漏初鳴後 宮中の水時計が、五更(一夜を五つに分けた最後の時間)を告げて鳴ったばかり。
一点窓灯欲滅時 今、窓辺の一点の灯が燃え尽きようとしている。
この詩は、前掲の元稹詩が応酬した、
白居易「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」詩(0724)と同時期の作とされています。*2
つまり、白居易は「与微之書」の末尾に至って、ある特定の時期を思い浮かべ、
その頃に自分が元稹に宛てた詩や、それに応酬した元稹詩の辞句を引用しているのです。
そして、それは廬山における現在の境遇と対照的に詠じられていたのでした。
「与微之書」は、「微之、微之。此夕我心、君知之乎」という語で結ばれるのですが、
果たして元稹はこの白居易の思いをどのように受け止めたのでしょうか。
白居易が、この書簡の中で「瞥然塵念」という語を引用した理由は何なのか、
まだ今ひとつくっきりとした像を結びません。
2020年7月6日
*1 岡村繁訳注『白氏文集 五(新釈漢文大系)』(明治書院、2004年)p.439を参照。
*2 花房英樹『白氏文集の批判的研究』(彙文堂書店、1960年)所収「綜合作品表」を参照。
曹植の読んだ『詩経』(承前)
こんにちは。
曹植の読んだ『詩経』(2020.07.02)について、追記です。
曹植「情詩」の第9・10句には、『詩経』の王風「黍離」と邶風「式微」が対で用いられています。
そのうちの「黍離」が、韓詩に基づくこと(黄節の指摘)は先に述べました。
では、もう一方の「式微」はいずれの詩に基づくのでしょうか。
黄節は、魯・斉詩に基づくとして次の文献を挙げます。
まず、『列女伝』貞順伝所収の黎荘夫人の逸話です。
彼女は衛侯のむすめで、黎荘公に嫁いだが、大切にはされなかった。
これを不憫に思った傅母が、詩を作って「式微式微、胡不帰」と詠じ、実家に帰ることを勧めたが、
黎荘夫人は「微君之故、胡為乎中路(微は君の故なるも、胡ぞ中路を為さんや)」と、
その勧めを退けて妻としての道を貫徹した。
これは、魯詩に基づくものです。*1
また、『焦氏易林』(「小畜」の「謙」に之く)にいう次の辞句を挙げます。
式微式微、憂禍相絆。隔以巌山、室家分散。
衰えに衰えたことよ、憂いや禍が連なり合って起こり、険しい岩山に隔てられて、一家は離散した。
これは、斉詩に基づくものです。*2
『毛詩』小序では、次のようになっています。
式微、黎侯寓于衛、其臣勧以帰也。
「式微」は、黎侯が衛の国に仮住まいしていたのを、その臣下が帰国するよう勧めたのである。
帰ることを勧めるという点では、魯詩とそれほど違いはないかもしれませんが、
黄節は、黎荘夫人が堅守した婦道と、曹植が臣下として取ろうとした道とを重ね合わせ、
「情詩」にいう「処る者は式微を歌ふ」を解釈しています。
本詩を、曹植の漢王朝への思いを詠じた作品と捉える従前の説よりは、
はるかに説得力がある解釈だと思います。
ところで、もし黄節の解釈が妥当だとすると、
曹植が読んだ『詩経』は一家にはとどまらないということになるでしょう。
また、曹丕が斉詩に拠っているとする指摘もあって(2020.03.02)、
兄弟で詩経学の流派が違うというのは不自然なので、
その時々で様々な詩経解釈を用いたと見るべきなのかもしれません。
このことについては、経学の専門家に教えを乞いたく思います。
2020年7月5日
*1 陳寿祺撰・陳喬樅述『三家詩遺説考』(王先謙編『清経解続編』巻1139所収)を参照。
*2 陳喬樅前掲書(『清経解続編』巻1119)を参照。
なお、2020年7月2日雑記の欄外に追記したことは、すべて 陳喬樅『三家詩遺説考』に夙に指摘されていた。
曹植「情詩」のわからなさ
曹植「情詩」はわかりにくい、とは昨日も書いたところです。
では、この詩はなぜわかりにくいと読者に感じさせるのでしょうか。
話の便宜上、以下に原文と訓み下しのみを再掲します。
語釈など、詳細については訳注稿をご覧いただければ幸いです。
01 微陰翳陽景 微陰 陽景を翳(おほ)ひ、
02 清風飄我衣 清風 我が衣を飄(ひるがへ)す。
03 游魚潜淥水 游魚は淥水に潜み、
04 翔鳥薄天飛 翔鳥は天に薄(せま)りて飛ぶ。
05 眇眇客行士 眇眇たる客行の士、
06 遥役不得帰 遥役して帰るを得ず。
07 始出巌霜結 始めて出でしときは巌霜結び、
08 今来白露晞 今来れば白露晞(かは)く。
09 遊子歎黍離 遊子は「黍離」を歎じ、
10 処者歌式微 処る者は「式微」を歌ふ。
11 慷慨対嘉賓 慷慨して嘉賓に対し、
12 悽愴内傷悲 悽愴して内に傷悲す。
2句目にいう「我」は、この詩を詠じている人です。
詩の末尾で、深い悲しみとともに、賓客を相手に悲憤慷慨するのも同じ人だと見られます。
そして、この人は、5句目の「客行士」とおそらくは重なるでしょう。
前述の「我」は、第1句、第3・4句に挟まれて、この文脈の中にあることは明らかですが、
この第1句、第3・4句の発想は、古詩「行行重行行」を彷彿とさせるものであって、
その古詩の中に、こうした旅人が中心的に詠じられているからです。
この「客行士」は、9句目の「遊子」とも重なるでしょう。
ではなぜこの詩は「我」でもって一篇を貫徹せず、
途中で第三者の様子を描写するかのような視点を取るのでしょうか。
漢代詩歌に常套的な、遊子と孤閨を守る妻というテーマに沿って詠ずるためだけなら、
たとえば「雑詩六首」其三のように、一篇まるごと古詩の世界に則ってもよかったはずです。
それなのに、この詩では「我」と「遊子」とが分裂したかたちで登場します。
更に、この遊子にはある種のニュアンスが賦与されています。
それは、讒言によって祖国を追われた屈原のイメージで、
このことは、『楚辞』作品を踏まえた表現が本詩中に散見することから明らかです。
加えてよくわからないのが、第9・10句で『詩経』そのものが歌われていることです。
典故表現によって、「遊子」や「処者」のふるまいや心情を詠じるのではなく、
直接彼らが『詩経』中のある篇を歌うという設定になっているのです。
『詩経』本文の辞句のみならず、その主題(小序)をも響かせようとして、
このような表現を取ることとなったのでしょうか。
語句の意味はわかっても、なぜそのような表現手法を取ったのかが不分明、
そんなわからなさがこの詩には多いから、なにか釈然としないものが残るだとわかりました。
2020年7月4日
独り言のような
こんばんは。
本日、曹植「情詩」の訳注稿を公開しました。
ご覧のとおり、読んでも釈然としない感じの残る詩です。
また、昨日の雑記の末尾に、
曹植の『詩経』解釈が韓詩に拠っていたことを明示する資料を付記しました。
こちらは、このことを突き止めることができてすっきりしました。
一日にできることは限られていて、そのあまりの少なさに驚くほどですが、
全力を尽くしていればそれでよしとすることにします。
むしろ全力を尽くせるように心身を整えます。
共同研究の意義深さも楽しさも知っているつもりですが、
今は自分で考察を掘り下げる時期だと思っています。
それがないと、人と協力することもできないはずだと信じて、
よそ見をしないで自分の研究に取り組みます。
2020年7月3日
曹植の読んだ『詩経』
こんばんは。
以前、こちらで言及したことのある四種類の『詩経』、
曹植はこのうちの韓詩に拠ったとされていることは先にも述べましたが、
本日、その明らかな事例に行き当たったのでメモをしておきます。
(なお、このことは黄節『曹子建詩註』巻1がすでに指摘しています。)
それは、「令禽悪鳥論」(丁晏『曹集詮評』巻9)という作品で、
この中に、『詩経』王風「黍離」について、次のような言及が見えています。
昔尹吉甫用後妻之讒、而殺孝子伯奇。
其弟伯封求而不得、作黍離之詩。
その昔、尹吉甫が後妻の讒言を取り上げて、孝子の伯奇を殺した。
その弟の伯封は求めて得られず、黍離の詩を作った。*
この1行目のエピソードの方はよく知られていて、
たとえば『琴操』巻上「履霜操」などにその詳細を見ることができます。
ですが、肝心の2行目、伯封の事績についてはよくわかりません。
彼は尹吉甫の後妻の子とされていて、兄思いの人という人物像ではなさそうですが。
ともかくも、曹植はこのように記していて、
「黍離」という詩に対するこのような捉え方は、
前述の三家詩のうちの、韓詩の説なのだということです。*
(王先謙『詩三家義集疏』巻4を参照。)
さて、曹植「情詩」は、この『詩経』王風「黍離」を次のように引用します。
遊子歎黍離 旅ゆく者は嘆きつつ「黍離」の詩を詠じ、
処者歌式微 家で待つ者は「式微」(『詩経』邶風)の詩を歌う。
前述のことを指摘する黄節は、それに依拠して更に説を展開し、
曹植のこの詩は、兄の曹彰が亡くなったことを悼む趣旨で作られたものであり、
その成立は、「贈白馬王彪」詩とほぼ同時期だと推定しています。
もしそうであるならば面白いですが、本当にそう見ることができるか。
「情詩」を構成する他の部分との関わりの中で、前掲の対句も捉えなければと思います。
2020年7月2日
* 曹植の記述が韓詩に基づくことは、趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)、清・馬国翰『玉函山房輯佚書』の手引きにより、以下の文献から確認できた。『太平御覧』巻469に引く『韓詩』に「黍離、伯封作也。彼黍離離、彼稷之苗。離離黍貌也。詩人求亡不得、憂懣不識於物、視黍離離然、憂甚之時、反以為稷之苗、乃自知憂之甚也(黍離は、伯封の作なり。彼の黍離離たり、彼の稷之れ苗なり、と。離離とは黍の貌なり。詩人は亡を求めて得ず、憂懣もて物を識せず、黍の離離然たるを視て、憂ひの甚しきの時、反って以て稷の苗と為し、乃ち自ら憂ひの甚しきを知るなり)」、また、『太平御覧』巻842に引く『韓詩外伝』薛君注に「詩人求己兄不得、憂不識物、視彼黍乃以為稷(詩人は己が兄を求めて得られず、憂ひもて物を識せず、彼の黍を視て乃ち以て稷と為す)」と。(2020.07.03、2020.07.05)
「人虎伝」の読みを巡って
こんばんは。
ある授業で取り上げた中島敦「山月記」に関して、
そのもととなった李景亮「人虎伝」*1を読んでいてふと立ち止まりました。
それは、李徴が虎になった理由を示しているとされている部分です。
李徴には、かつてひそかに通じていた寡婦がいた。
そのことを彼女の家族に知られ、二人の間を邪魔されたので、
彼は風に乗じて火を放ち、一家数人、一網打尽に焼き殺して立ち去った。
これが原因で、つまり因果応報により李徴は虎と化した、
という捉え方が一般になされています。*2
ですが、この解釈は果たして妥当でしょうか。
というのは、上述のくだりは次のような文脈の中に置かれているからです。
まず、袁傪が吏員に書き取らせた李徴の詩が次のように示されます。
偶因狂疾成殊類 たまたま狂疾によって異類のものとなった
災患相仍不可逃 災患が次々に押し寄せて逃れることができなかったのだ
今日爪牙誰敢敵 今日 この爪牙に誰が敢えて歯向かうだろう
当時声跡共相高 あの頃 名声も足跡も 二人ともに高かったというのに
我為異物蓬茅下 我は 蓬茅の茂る草原に異類のものと為り果てて
君已乗軺気勢豪 君は 立派な車に乗る高官となって威風堂々たる勢いだ
此夕渓山対明月 この夕べ 山中の渓谷で明るく輝く月と向き合う
不成長嘯但成嘷 長く嘯(うそぶ)く声にはならず ただ咆哮の声となるばかりだ
この後に、次のような記述が続きます。
傪覧之驚曰、君之才行、我知之矣、而君至於此者、君平生得無有自恨乎。
袁傪はこの詩を読んで驚いて言った。
「君の才能と徳行は、私がよく知っている。
そんな君がここまで切迫した言葉を連ねようとは、
君はその昔、きっと自らへの痛恨を抱え込むようなことがあったのではないか。」
これに対する李徴(虎)の答えの中に、
自分には陰陽二気の万物生成の仕組みはわからないが、
もし「自恨」を自身の中に探ってみるならば、この出来事であろうか、
として告白されるのが、先に述べた、寡婦との私通と、その家族の焼殺です。
ということは、件の出来事は、李徴が虎になった理由ではなく、
直接的には、彼の作った詩が異様なまでの緊迫感を持っていた理由である、
ということになると思うのですが、いかがでしょうか。
いや、やっぱり違いますね。
「至於此」は、虎と化すような境遇にまで至ったのは、と読むべきなのでしょう。
ただ、袁傪はとっくに李徴が虎となったことを了解しているのに、
今更なぜここで驚愕しているのか、不可解です。
この点、中島敦の「山月記」はしっくりと腑に落ちます。
2020年7月1日
*1『国訳漢文大成(文学部第十二巻)晋唐小説』所収のものに依った。
*2 坂口三樹「「李徴」の転生:「人虎伝」との比較から見た「山月記」の近代性」(『中国文化』65、2007)に、従来の先行研究を概括してこう記す。
素人教員の困惑
こんばんは。
今日から第2クォーターの大学基礎セミナーⅡが始まりました。
再編統合により設けられた地域創生学部ならではの内容で、
地域課題を解決できる力の育成を目標とするものです。
学生たちは、グループワークにはわりと慣れているようで、
さっそく活発にチャットで話し合いを始めていました。
ただ、少々心配になった点があります。
それは、問題をすぐに解決できる、と思っているふしがあることです。
(若者らしい万能感ですね。それ自体はいつの時代にもあったことでしょう。)
昨今、ニュースなどでもよく、学生のアイデアで地域課題を解決、などと目にしますが、
それには、報道はされない、相当な準備や試行錯誤があったはずです。
座学ならば、私はしばらくそのまま見ています。
いずれ、問題意識には適切なサイズというものがあるとわかるので。
自分でわからない限り、人に言われて修正しても自身の血肉にはなりませんから。
困ったなと思っているのは、
地域課題解決を掲げた学修だと、直に地域の方々に関わる可能性も出てくることです。
基礎セミナーの段階でも、いきなり行動に移す学生がいないとも限りません。
以前、こうした分野を専門とする同僚から、
事前にそのあたりの教育は十分にするのだとお聞きしたことがあります。
そのような素養を持たない学生が、地域の課題を解決することは不可能でしょう。
まず、出向いた先の方々と信頼関係を築くことが大前提としてあるはずです。
来週の授業では、このことをきちんと言っておこうと思います。
古典を学べば、自分を超えるスケールのものに向き合うことになりますので、
自分の思い上がりや視野の狭さが自ずから見えてくるのですが。
昨今の趨勢では、そうした学びは敬遠されがちです。
2020年6月30日
元白応酬詩札記(4)
こんにちは。
元稹「酬楽天八月十五夜禁中独直玩月見寄」に、
白居易から贈られた詩が、「瞥然」として寄せられた「塵念」と表現されていました。
(昨日2020.06.28の雑記)
何意枚皋正承詔、瞥然塵念到江陰。
何ぞ意(おも)はんや 枚皋 正に詔を承りしとき、瞥然たる塵念 江陰に到らんとは。
このような句を含む元稹からの応酬詩を、白居易はどう受け止めたのでしょうか。
二人の間でこのような詩の応酬が為されたのは、元稹が江陵に左遷された元和五年(810)、
その七年後、白居易が江州に左遷されてから二年後に当たる元和十二年(817)、
この語がほとんどそのままのかたちで、
今度は、白居易から元稹に寄せられた書簡の中に現れます。
「与微之書」(『白氏文集』巻28、1489)に、こう見えているのがそれです。
平生故人、去我万里。瞥然塵念、此際暫生。*
往年からの友人は、私から万里も離れたところにいる。
ちらりとひらめいた世俗的な思いが、このときしばし私の中に生じた。
この書簡は、次のように書き始められます(冒頭の日付などは省略)。
微之、微之、不見足下面、已三年矣。不得足下書、欲二年矣。
微之(元稹の字)よ、微之よ、君の顔が見えなくなってもう三年、
君から書簡が貰えなくなってから、まもなく二年になろうとしている。
どんなに相手を思慕しているかがしのばれます。
続けて、白居易は自身の江州での安らかな暮らしぶりを綴ります。
便りがないのを、君が心配しているだろうから、と。
そして、書簡に封をするときの情景を記した後で、
前掲の句が現れ、さらに続けて三韻六句から成る詩が綴られています。
白居易のこの書簡に引かれた「瞥然塵念」は、明らかに元稹の詩を意識しています。
では、白居易はどのような思いから、かの辞句を引用したのでしょうか。
このことについて、少し丁寧に考えてみたいと思います。
2020年6月29日
*岡村繁訳注『白氏文集 五(新釈漢文大系)』(明治書院、2004年)p.439に、「塵念」の用例として前掲の元稹詩を引く。ただ、その語句が共有されていることの意味については言及されていない。
元白応酬詩札記(3)
こんにちは。
元白応酬詩札記(2)で取り上げたことの続きです。
「江楼月」をめぐる元稹との約束を覚えていて、
左遷された彼にいち早く自分から詩を送った白居易でしたが、
この白居易詩に対する元稹の反応は、かなり屈折を感じさせるものでした。
その「酬楽天八月十五夜禁中独直玩月見寄」(『元氏長慶集』巻17)にこう詠じています。
一年秋半月偏深 一年の中でも秋の半ばとなると、月はとりわけ空の奥まったところに懸かる。
況就煙霄極賞心 まして靄にかすむ空に月を愛でようとすれば、その見えにくさときたら…。
金鳳台前波漾漾 金の鳳凰のごとき高楼の前には、波立つ水面がゆらゆらと揺れ動き、
玉鉤簾下影沈沈 玉の鉤で巻き上げた簾の下には、月影が靄の向こうに深々と沈んで見える。
宴移明処清蘭路 (大明宮では)宴席が明るい場所に移されて、香しい蘭の道は清められ、
歌待新詞促翰林 翰林院に詰める文人たちに、新しい歌詩を求める仰せが下っているのだろう。
何意枚皋正承詔 まったく思いがけなくも、枚皋殿はちょうどその仰せを承ったとき、
瞥然塵念到江陰 ちらりと俗念を生じて、長江のほとりにいる者にまで思いを馳せてくださった。
1・2句目は、白居易詩の結び「猶恐清光不同見、江陵卑湿足秋陰」に対する答えでしょう。
この句の中に、元稹の強がりを読み取った学生もいました。
3句目の「金鳳台」は未詳です。
先行研究は、宮中の鳳凰池(中書省をも意味する)の傍に立つ高楼と注していますが、*
これに従って、この句を白居易のいる宮中の情景だと捉えると、
前の句とのつながりが薄れ、詩全体の重心が大きく宮中の情景の方へ傾きます。
そこで、ここは元稹のいる側の風景ではないかと考えたのですが、いかがでしょうか。
後半の4句は、一転して白居易のいる大明宮の様子を思い描きます。
「清蘭路」という辞句は、『文選』巻13、謝荘「月賦」にそのまま見え、
これを踏まえて、白居易が勤務する大明宮中で、宴席が準備されることと解釈されます。
奇妙に感じられるのは、結びの部分です。
「枚皋」は、この文脈からすれば当然白居易を指すでしょう。
ところが、この枚皋という文人は、それほど褒められた人物だとは言えません。
自ら枚乗(前漢初期の代表的文人)の子だと名乗って宮中に召され、
その作風は軽薄かつ拙速であったといいます(『漢書』巻51)。
元稹はなぜそんな人物に白居易をなぞらえたのでしょう。
「清蘭路」を踏まえた流れからすると、たとえば王粲でもよかったのに。
皇帝に仕える者でなければならなかったからだとしても、枚皋とは解せません。
また、「塵念」とは、白居易から元稹に向けられた思いを指すはずですが、
それがなぜ、俗塵にまみれた想念と表現されたのでしょうか。
しかも、その自分に向けられた想念は「瞥然」、つまりちらりと生じたものです。
ひたすら自分だけに向けられた思いではない、とでも言いたげです。
宮中での華やかな宴のなかで、ついでのように自分を思い出してくれた。
清らかな宮中とは別世界にいる自分に向けられたその思いは、
俗塵にまみれた自分に向けられたものである以上、俗念と言わざるを得ない。
白居易の詩を受け取った元稹は、白居易の思いとは裏腹に、このように感じたようです。
2020年6月28日
*楊軍『元稹集編年箋注(詩歌巻)』(三秦出版社、2002年)p.336、周相録『元稹集校注』(上海古籍出版社、2011年)p.547、呉偉斌輯佚編年箋注『新編元稹集』(三秦出版社、2015年)p.2381を参照(2020.06.29確認)。