献詩と雑詩

おはようございます。

先日(2020.06.14)、曹植「雑詩」に詠じられた呉への出征に対する意欲は、
同時期の作「責躬詩」と併せ読むことにより、罪を償うためだと見られることを記しました。
ですが、むしろこれは逆なのではないかと今は考えています。

蜀の劉備が亡くなり、呉の版図が西方に向けて拡大していた魏の黄初四年(223)、
曹植の意識が南方の呉楚へ向かっていたことは間違いなく、
それを詩に詠じたのも当然と言えます。

ただ、「責躬詩」は、それを黄初二年にしでかしたことへの罪滅ぼしとして詠じ、
「雑詩六首」其五・其六は、自らの強い意志として詠っています。

その根本にあるのは、魏王朝の一員として働きを為したいという希求でしょう。
では、「責躬詩」という献詩と「雑詩」と、いずれの表現が作者の衷心により近いのか。
それは言うまでもありません。

献詩には、具体的な宛先があります。
それも、権力を持った、社会的に上位に立つ者です。
そうした者に対して、自らを低い位置に置いて贖罪の趣旨を前面に出したのが「責躬詩」。

他方、「雑詩」にはそのような相手はいません。
ただし、それを誰が読んで(聴いて)、どう解釈するかは未知数です。
であるがゆえに、直接的な言葉は避けて、既存の歌辞や詩句に託して表現したのでしょう。

建安文壇は、漢代宴席文芸の延長線上に位置づけられます。
そうした建安の五言詩や楽府詩に、漢代の古詩・古楽府が流れ込むのは自然の趨勢です。
両者は、その生成展開の場が、同じ宴席という社交空間なのですから。

ところが、曹植「雑詩」における漢代詩歌の援用は、上述のようにその理由が違います。
ここに、漢代の古詩・古楽府を用いるということが持つ、意味の変質を認めることができそうです。

2020年6月27日

再び黄初四年の曹植

こんばんは。

このところ行ったり来たりしている黄初四年の間ですが、
五月に鄄城王として上京し、七月に同国へ帰国(「贈白馬王彪」序文)、
その後に雍丘王に移されたと見られます。
訳注稿[04-05-5 雑詩 六首(5)]では根拠を示していませんでした。)

伊藤正文『曹植』や張可礼『三曹年譜』は、*
朱緒曾『曹集考異』(巻5「応詔詩」下の記述)を援用しつつ、夙にこの説を取っています。
「責躬詩」に、王爵が加えられたことは記されているが、
他の国へ移されたことの記述は見えない、
これが朱緒曾説の主な根拠です。

これに加えて、次のような点からも、如上の説の妥当性を後押しできるように思います。

『三国志』巻19「陳思王植伝」に、こう記されています。

四年、徙封雍丘王。其年、朝京都。上疏曰、……​
 黄初四年、雍丘王に移された。その年、都で文帝に謁見した。その上疏に言うところでは、……

そして、その上疏(『文選』巻20には「上責躬応詔詩表」として収載)、
及び「責躬詩」「応詔詩」(『文選』同上にはこの題名で収載)を全文引いた後に、
次のような文章が続きます。

帝嘉其辞義、優詔答勉之。
 文帝はその上疏及び二首の詩の言葉と内容を褒め、優遇の詔で答えて彼を励ました。
六年、帝東征、還過雍丘、幸植宮、増戸五百。
 黄初六年、文帝は東方の呉へ出征し、帰還するとき雍丘に立ち寄り、
 曹植の宮殿に行幸して五百戸を加増した。

このような記述の流れからすると、
陳寿は、黄初四年に曹植が雍丘王に移されたことを示した後、
この出来事のきっかけとなった彼の詩文と、
それが文帝曹丕の心情に及ぼした影響を記したのだと見ることができそうです。

もしそうだとすれば、朱緒曾のいうとおり、
この年の秋から冬、曹植は鄄城から雍丘に移されたということになるでしょう。
上述のとおり、都洛陽から帰国したのは七月でしたから。

更に言えば、雍丘は、呉楚へ向かう上で、鄄城よりも地の利があって、
この地に移されたのは、曹植の思いに応える趣旨のものであったのかもしれません。
「責躬詩」や「雑詩六首」其五、其六に呉討伐への意欲が詠じられていること、
そして、二年後、文帝が東方征伐からの帰りに雍丘へ立ち寄っていることからすれば、
そう推測することも許されるのではないかと思いました。

2020年6月26日

*伊藤正文『曹植(中国詩人選集)』(岩波書店、1958年)、張可礼『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)。

要再考ばかり

こんばんは。

先日、黄初四年の曹植として、
「洛神賦」(『文選』巻19)の序にいう「黄初三年」は、
実は「黄初四年」である可能性が高いことを、李善注を援用しつつ述べました。

ところが、やはり「黄初三年」で正しいのかもしれないと思えてきました。
というのは、「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)の初めに次のような記述が見えているからです。

臣自抱釁帰藩、刻肌刻骨、追思罪戻、昼分而食、夜分而寝。……
臣(わたくし)は罪を抱いて国に帰ってから、
肌に刻み骨に刻んで、自分の犯した罪を思い起こし、
昼も半ばになってから食事をとり、夜も半ばになってから就寝するという有様でした。……

そして、この上表文の終わりの方には、
思いがけず詔が下されて朝廷に参内する機会が与えられたこと、
そして、今はまだ皇帝に謁見することができずにいることが述べられています。

この上表文が黄初四年に作られたことは間違いないので、
先に挙げた冒頭の「釁を抱きて藩に帰る」とは、それ以前のこととなります。
曹植は黄初四年よりも前に、上京して罪状を申し渡されるようなことがあったということでしょう。
それが、「洛神賦」の序に刻まれた時と重なるのかもしれません。

なんだか訂正ばかりしているような気がしますが、
すぐには読めないし、適切な判断ができないのだから仕方がありません。

ともかく、曹植の全作品を読み通したいと思います。
そうすれば、作品相互の連関性から事実が自ずから立ち上がってくるはずです。

2020年6月25日

 

中島敦のこと

こんばんは。

私は中島敦の小説がとても好きです。
ある授業の中で、彼の生涯に触れる必要があって年表を作成したのですが、
あらためて、その小説家としての活動期間があまりにも短いことに愕然としました。

もちろん、それまでにも一部の草稿は書かれているのですが、
小説を書くということに専念したのは、彼が三十三歳で亡くなる最後の一年間だけです。

中島敦は、二十代の半ばを、横浜高等女学校の教諭として過ごしていますが、
その間の仕事ぶりは至って真面目であるように私には見えました。
国語、英語、地理、歴史の授業を1週間に23時間担当し、
修学旅行や課外活動の引率も引き受けています。*

あれほどの小説を書いた人が、なぜもっと早く執筆に専念しなかったのか。

そのわけは、遺稿エッセイ「章魚木の下で」から掬い上げることができるように思います。
彼はこの短い文章の中で、次のようなことを書いています。(改行はこちらで加えた)

国民の一人として忠実に活きて行く中に、
もし自分が文学者なら其の中に何か作品が自然に出来るだろう。
しかし出来なくても一向差支えない。
一人の人間が作家になろうとなるまいと、そんなことは此の際大した問題ではない。

(文学を見縊っているのではなくて、という趣旨の文の後に)
却って文学を高い所に置いているが故に、
此の世界に於ける代用品の存在を許したくないだけのことである。
食料や衣服と違って代用品はいらない。
出来なければ出来ないで、ほんものの出来る迄待つほかは無いと思う。

章魚木の島で暮らしていた時戦争と文学とを可笑しい程截然と区別していたのは、
「自分が何か実際の役に立ちたい願い」と、
「文学をポスター的実用に供したくない気持」とが頑固に素朴に対立していたからである。

戦時中であるだけに、今から見れば偏った表現がなくもないのですが、
エゴイズムの対極に位置するようなこうした考え方を、私はとても美しいと感じます。
(読めばわかるとおり、お国のために滅私奉公をせよ、と主張する文章ではありません。)

そして、こう感じるのは、自分が中国古典に近しい現代人だからだろうと思います。

2020年6月24日

*勝又浩「中島敦年譜」(『中島敦全集3』ちくま文庫、1993年)を参照。

曹植「雑詩」という作品群

こんにちは。

曹植の「雑詩」は、
『文選』巻29所収の六首以外でも、
『玉台新詠』巻2に五首が収録されています。

その編成は両者間でやや出入りがあって、
『玉台新詠』所収作品の内訳を示せば次のとおりです。

其一「明月照高楼」……『文選』巻23に「七哀詩」として収載
其二「西北有織婦」……『文選』巻29に「雑詩六首」其三として収載
其三「微陰翳陽景」……『文選』巻29に「情詩」として収載
其四「攬衣出中閨」……(『藝文類聚』巻32に「魏陳王曹植詩」として収載)
其五「南国有佳人」……『文選』巻29に「雑詩六首」其四として収載

『文選』で「七哀詩」や「情詩」といった題目が付けられている作品が、
『玉台新詠』では「雑詩」という枠に組み入れられています。
これはどういうことでしょうか。

『玉台新詠』は、その序文から読み取れるように、
宮中の蔵書から直接に、いわゆる艶詩に相当する作品のみを抄出したした第一次選集です。
これに対して『文選』は、すでにある選集から更に秀作を抽出したダイジェスト版詞花集です。*

つまり、『文選』と『玉台新詠』とでは、その基づいた原資料が異なっていて、
『玉台新詠』の「雑詩五首」という括りには、それ相当の根拠があったと見ることができるのです。

もちろん、『玉台新詠』はいわゆる艶詩のみを選択的に収載していますから、
そこから漏れた作品の中にも、『玉台新詠』の編者が目睹した「雑詩」があることは確実です。

このように見てくると、
曹植の「雑詩」という作品群は、
おそらく確実に次の詩を含んでいたでしょう。
まず、『玉台新詠』所収の上記の五首、
これに、『文選』所収「雑詩六首」のうちの「艶詩」でない詩、すなわち、
「高台多悲風」「転蓬離本根」「僕夫早厳駕」「飛観百餘尺」を加えた、合計九首。

曹植は、その没後の景初年間(237―239)、
魏王朝において名誉を回復し、作品集が編まれました(『三国志』巻19「陳思王植伝」)。
この時点で、彼の「雑詩」はどのような作品群を為していたのか、
それを跡付ける確かな証拠は残されていないのですが、
『玉台新詠』を手掛かりに、その本来の姿に近づくことはできると考えています。

2020年6月23日

*岡村繁「『文選』編纂の実態と編纂当初の『文選』評価」(『日本中国学会報』第38集、1986年)を参照。『玉台新詠』のソースについてはこちらの拙論で論及している。

詩と史実

こんばんは。

今日、曹植「雑詩六首」其六の訳注稿を公開しました。

詩の主人公は高くそびえる楼閣の上に立ち、四方を眺望しながら、
自身に王朝の危急を救い得るような役割が与えられていないことに鬱憤を重ねています。
内容面でも辞句においても、「雑詩六首」其五との類似性が顕著であることから、
少なくとも、この二首は非常に近い時期に作られたのだろうと思われます。

この二首をはじめ、
「雑詩六首」のすべてを、黄初四年(223)、鄄城での作と見る李善の説は、
かなり説得力があると今では考えています。
その根拠が示されていないため、かつては賛同できなかったのでしたが。

ところが、黄節『曹子建詩註』巻1は別の捉え方をしています。
曹植の「東征賦」(その序に建安19年(214)と明記)との類似性により、
本詩を、曹操の呉への出征に加わりたいと熱望する若き日の曹植の作と見ているのです。

どちらが(あるいはまだ他にも説があるかもしれませんが)、より真実に近いのでしょうか。
詩の内容を史実と結び付けながら、その作品の成立年代を推定するという方法では、
結局、たしかな結論を導き出すことはできないのかもしれません。
内容よりも、表現の連関性の方に目を向けた方がよい、
その際、似ているという指摘にどこまで客観性を持たせることができるか、
それが決め手になるだろうと思っています。

2020年6月22日

元白応酬詩札記(2)追記

こんばんは。

白居易の「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」は、
その前年に成った元稹の「江楼月」と、
それに唱和した白居易の「江楼月」との伏線の上に成ったものである、
との推定を昨日述べました。

このことに関して、ひとつ追記をしておきます。

それは、元稹の「江楼月」を含む連作詩「使東川」三十二首は、
もともと白居易ひとりに宛てて作られたものではないということです。
このことは、題目に白居易に宛てたことを示す言葉が見えないことから明らかですし、
元稹詩の自注の中に次のような人々の名が複数回現れることからも知られます。

李建(字は杓直)、貞元14年の進士。白居易の友人である王起と同期。
白行簡(字は知退)、元和2年の進士。白居易の弟。
李復礼(字は拒非)、貞元19年、書判抜萃科及第。白居易、元稹と同期。
庾敬休(字は順之)、年代は不明ながら、進士、博学宏詞科を経て秘書省校書郎。
(以上、徐松『登科記考』に拠る。)

白行簡によって書写され、「東川巻」と銘打たれた元稹の三十二篇の詩は、
まず上記の人々、更にはその周辺の知識人たちへと享受の輪が広がっていったでしょう。
上には記していませんが、もちろん白居易もその中のひとりです。

白居易はその「東川巻」の中の十二首に唱和し、その冒頭に次のような自注を付しています。

十二篇、皆因新境追憶旧時。不能一一曲叙、但随而和之。唯予与元知之耳。
十二篇は、みな新しい境遇に因んで昔のことを追憶するものである。
ひとつひとつ細かく述べることはできないけれども、ただ気の赴くままに唱和したもので、
私と元稹のふたりのみ、このこと(詩に詠じられた内容)を知っているだけである。

この時期、わずかに白居易の方がより強く相手のことを思っていたのかもしれません。

そして、白居易は元稹と交わした言葉をよく覚えていて、
中秋の名月にめぐりあうと真っ先に、元稹に自分から詩を寄せたのでしょう。

2020年6月21日

元白応酬詩札記(2)

こんばんは。

今年も演習科目で元稹と白居易との応酬詩を読んでいますが、
その中で気づいたことをメモしておきます。
(元白応酬詩札記(2)としたのは、2020.05.07に続けて2回目だから。)
なお、先行研究に指摘があるかどうかは未確認です。

白居易の名作「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」(『白氏文集』巻14、0724)、
この詩がどういう経緯で作られたのか、わかりました。
まず、その本文を挙げておきます。

銀台金闕夕沈沈  銀台門や金鑾殿が夜の底に深々と沈み込んでゆくこの夕べ、
独宿相思在翰林    私は一人、宮中の翰林院に宿直して、君のことを思っている。
三五夜中新月色    八月十五日の夜空に昇ったばかりの満月の色、
二千里外故人心    二千里の彼方にいる旧友の心。
渚宮東面煙波冷    江陵の庁舎の東方では、靄の立ちこめた水面が冷やかに波立っているだろう。
浴殿西頭鐘漏深    ここ浴堂殿の西方では、鐘の音や水時計が深まる時を刻んでゆく。
猶恐清光不同見    ただ、君にはこの清らかな光が同じようには見えていないのではと心配だ。
江陵卑湿足秋陰    江陵は低湿地で、秋の空もいやになるほど曇ってばかりだというから。

謎を解く鍵は、最後から二句目「猶恐清光不同見」にあります。

なぜ「猶」なのか。
これは、君もきっとこの月を見ているに違いない、という確信が前提にある言い方です。
ではなぜ白居易はこんなにも、元稹の自分に対する思いを確信しているのか。

この詩は、元稹が江陵に左遷された元和五年(810)の作です。
その前年、元稹は観察御史として蜀へ赴く途中、連作詩「使東川」三十二首を作り、
その内の十二首に白居易が応酬、その中に「江楼月」があって、その結びにこうあります。

今朝共語方同悔  今日、君と語らって、今になってやっと同じく後悔した、
不解多情先寄詩  あふれる情のままに自分から先に詩を君に送れなかったということを。

次に美しい月を眺めることがあったなら、自分から詩を送ろうと二人は誓っていた、
だから白居易は「猶」の一言で、元稹が月を眺めているのを当然のことと言外に示したのでしょう。

しかも「恐清光不同見」という表現は、元稹の「江楼月」の次の句を想起させます。

誠知遠近皆三五  たしかにいずこも同じ十五夜の月だとはわかっているが、
但恐陰晴有異同  ただ心配なのは、晴れか曇りかに違いがあるのではないかということだ。

白居易は、元稹の詩をさりげなく踏まえつつ「八月十五日夜」詩を詠じているのです。

2020年6月20日

曹氏兄弟の子供時代

こんばんは。

曹氏兄弟の子供時代、と言っても想像ですが、
彼らはとても幸福な幼少年期を過ごしていたのではないかと思います。
(一歩外へ出れば、悲惨な民の姿があったであろうことは措いておきます。)

曹操には二十五人の息子がいました(『三国志』巻20「武文世王公伝」)。
これに娘たちも加えれば、相当な人数の子供がともに暮らしていたことになるでしょう。
幼くして亡くなった者たちも少なくはなかったけれど、
それでも年端もいかない者同士、賑やかな日常生活を送っていただろうと想像されます。

加えて曹操は、一族の子で親を失った者たちを積極的に我が家の一員に迎え入れていました。
十歳余りで父を失い、南方を流浪した末に曹操のもとへやってきた曹休は、
「これは我が家の千里の駒だ」と言われて、曹丕とともに、我が子同然に育てられました。
また、早くに父が殺されて孤児となった曹真も、曹操に引き取られ、
諸子と同様に養育されて、曹丕と起居を共にしています。
(以上、『三国志』巻9「曹休伝」「曹真伝」)

何晏や秦朗のような、曹操の側室たちの子らも実子同然に育てられました。
何晏など、いつも贅沢ななりをしていたために曹丕の不興を買い、
養子呼ばわりされていたといいます。
(三国志』巻9「「曹真伝附曹爽伝」裴松之注に引く『魏略』)

こうした子供たちの成育環境は、
旧中国の大家族制度にあっては普通のことだったかもしれません。
ですが、もしかしたら曹操は、将来への布石として、
家族的関係の協力体制を日常の中で構築しようとしていたとも考えられます。

いずれにせよ、曹丕が即位した後の状況は、不幸としか言いようがありません。

2020年6月19日

 

若き日の曹氏兄弟

こんばんは。

昨日紹介した逸話からのつながりで、
韓宣という人物をめぐる、曹丕・曹植兄弟のエピソードを思い出しました。
これもまた、魚豢の『魏略』によってのみ伝わる出来事です。
(『三国志』巻23「裴潜伝」裴松之注に引く)

ある雨上がりの日、水たまりができた宮城の門の内で、曹植と韓宣が鉢合わせした。
韓宣は、曹植を避けようにも避けられず、扇で顔を隠して道の端へ寄った。
これに腹を立てた曹植は、韓宣をあれこれ論難しようとするが、韓宣も負けてはいない。
曹植は彼を釈放し、弁の立つ者として曹丕に詳しく語って聞かせた。
後に、韓宣が職務上のことで処罰されようとしていたとき、
たまたま通りかかった文帝曹丕は、周囲にその罪人の名を聞いて思い出し、
「これが子建の言っていた韓宣か」と言って、特別に彼を赦した。

ここに記された曹丕は、少なくとも曹植のことを嫌ってはいないようです。
才気煥発たる弟の言うことに興味深く耳を傾け、よく記憶し、それを尊重しています。

一方、この逸話の中に登場する曹植は、
後半生の彼がまとっているような悲劇性は微塵も感じさせません。
若気の至りで放埓な態度に出る、世間知らずの、どこにでもいるような若者です。
(臨菑侯であった曹植は、この頃二十代半ばです。)
手強い相手を称賛しているところに、育ちのよさを感じます。

人を一面的に見てしまわないように。
人知れず小さな出来事を数多く記した魚豢が、そう示唆してくれているようです。

2020年6月18日

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