中国のオシラサマ
こんばんは。
本日の授業で取り上げた、干宝『捜神記』巻14に、次のような話があります。
少し長くなりますが、原文に翻訳を添えて紹介します。
旧説、太古之時、有大人遠征、家無餘人、唯有一女、牡馬一匹、女親養之。窮居幽処、思念其父、乃戯馬曰「爾能為我迎得父還、吾将嫁汝。」馬既承此言、乃絶韁而去、径至父所。父見馬驚喜、因取而乗之。馬望所自来、悲鳴不已。父曰「此馬無事如此、我家得無有故乎?」亟乗以帰。為畜生有非常之情、故厚加芻養。馬不肯食。毎見女出入、輒喜怒奮撃。如此非一。父怪之、密以問女。女具以告父、「必為是故」。父曰「勿言、恐辱家門。且莫出入。」於是伏弩射殺之、暴皮于庭。父行、女与隣女於皮所戯、以足蹙之曰「汝是畜生、而欲取人為婦耶?招此屠剥、如何自苦?」言未及竟、馬皮蹶然而起、巻女以行。隣女忙怕、不敢救之。走告其父。父還、求索、已出失之。後経数日、得於大樹枝間、女及馬皮、尽化為蠶、而績於樹上。其繭綸理厚大、異於常蠶。隣婦取而養之、其収数倍。因名其樹曰桑。桑者、喪也。由斯百姓競種之、今世所養是也。……
古くからの伝説にいう。大昔、ご主人が遠くへ出征し、家には他に誰もいず、ただむすめが一人、牡馬が一匹いるだけで、むすめは親しく馬の世話をした。閉じこもった生活の中でひたすらその父が思われてならず、そこで馬に戯れにこう言った。「お前が私のためにお父様を迎えに行って連れて帰って来れたなら、私はお前と結婚しよう。」馬はこの言葉を聞くと、絆を断ち切って立ち去り、まっすぐに父親のところにたどり着いた。父は馬を見て驚いて喜び、そこで馬にまたがった。馬はやってきたところを遠く望んで、悲しげに鳴いて止まない。父親は「この馬はこのように無事だが、私の家に何かあったのではあるまいな」と言って、すぐに馬に乗って帰った。畜生でありながら尋常でない情を持っているとして手厚くまぐさを与えられたが、馬は食べようとしないで、むすめが出入りするのを見るたびに、喜んだり怒ったりして暴れ、こういうことが一度や二度ではない。父親はこれを怪しみ、ひそかにむすめに問うたところ、むすめはつぶさに父に告げ、きっとこのためだろうと言った。父親は、「このことを人に言ってはならないぞ。家門を汚すことになりかねないから。しばらく家を出入りしてはならぬ」と言って、仕掛けた石弓で馬を射殺し、皮を庭にさらした。父が出かけて、むすめは隣家のむすめと馬の皮のところで戯れ、足でそれを踏みながら言った。「おまえは畜生なのに、人のことをお嫁さんにしたがるなんて。だから皮を剥がれるようなことになって。なんだってこんな自分を苦しめるようなことをしたの。」むすめがそういい終わらないうちに、馬の皮はさっと立ち上がり、むすめを巻いて飛んで行った。隣家のむすめは慌てふためき、これを救うこともできず、その父のところに走っていって告げた。父親は戻ってきて探したが、もう出ていって行方が知れなかった。それから数日が経過して、大きな樹木の枝の間に見つかったが、むすめと馬の皮はすべて蚕に変化して樹木の上で糸を引いていた。その繭は糸の巻き方が厚く大きく、通常の蚕とは異なっていた。隣家のむすめはこれを取って養い、その収穫は数倍だった。そこでその樹木を桑と名付けた。桑とは、喪である。これにより、人民は競ってそれを植え、今の世で飼っている蚕がこれである。……
これとよく似た話が、柳田國男『遠野物語』に収載されています。
では、『捜神記』と『遠野物語』とは、どのような関係にあるのでしょうか。
多くの場合、中国の文献が日本に流入したものとされますが、
この故事の場合、果たして同じように見てよいのか、ためらいを感じます。
というのは、この種の中国志怪小説によく見る、いかにも歴史書然とした記述の仕方、
―たとえば、固有名詞の名前や地名を明記するというスタイル―
これが、『捜神記』のこの故事を書き留めた部分には認められないからです。
たとえば、養蚕を行う地域に広く分布している話が、
『捜神記』にも収載され、遠い歳月を経て『遠野物語』にも採録された、
そのような可能性もあり得るのではないかと思うのです。
どなたかお詳しい方にご教示いただけたらありがたいです。
2020年7月13日
*先坊幸子「六朝志怪における廟神の前身と誕生」(『中国中世文学研究』第63・64号(森野繁夫博士追悼特集)2014年)に、この物語を記す『捜神記』と『遠野物語』を挙げ、人と動物との関係性について、日中間の違いに論及した部分があります。この論点に関しては、まったく同感です。
再考再開(曹植「惟漢行」)
こんばんは。
しばらく停止していた曹植の「薤露行」「惟漢行」に対する考察を、
再開しようと思って過去の考察を振り返ってみたところ、もはや新鮮に感じるほどでした。
一度歩みを止めると、再び動き出すのに少なからぬエネルギーを要します。
とはいえ、その間、曹植作品を細々と読み継いではきたので、
前掲の二篇の楽府詩を、また別の観点から検討する素地ができたかもしれません。
そういう点から見て、最近読んだ「雑詩」は“役に立つ”ように思います。
文帝曹丕の黄初年間中、曹植がどのような環境に置かれていたかがよくわかるからです。
「雑詩」を読んできた目で「惟漢行」を見直すと、明らかに雰囲気が違っています。
先行研究が指摘しているとおり、この楽府詩は明帝曹叡の時代になってからの作でしょう。
「惟漢行」の中で注目したいのは、その末尾に周文王の故事が踏まえられていることです。
その故事を伝える『書経』無逸篇は、周公旦の作だとされています。
すでに述べたことではありますが、
周文王は曹操、武王は文帝曹丕、成王は明帝曹叡、周公旦は曹植に重なります。
そして、「惟漢行」という楽府題は、明らかに曹操の「薤露・惟漢二十二世」を踏まえています。
すると、この楽府詩を詠じた曹植は、成王を補佐する周公旦に重ねられる、
つまり、明帝曹叡を補佐する立場にある自分を意識した上での楽府詩だと言えないか。
このあたりから、曹植「惟漢行」を再読したいと考えています。
2020年7月12日
曹植「雑詩」という作品群(承前)
こんばんは。
以前(2020.06.23)に述べた考察の続きです。
昨日、現存する曹植「雑詩」九首をひととおり読み終わりました。
すなわち、『玉台新詠』巻2所収「雑詩五首」に、
『文選』巻29所収「雑詩六首」の其一・二・五・六を加えた九首です。
『玉台新詠』の編者徐陵が目睹した一次資料では、
この九首は、「雑詩」として括られる作品群に含まれていたでしょう。
では、「雑詩」という作品群は、曹植自身がそのような括り方をしたのか、
それとも、後世の人がそのように編集したのでしょうか。
これはわかりません。
ですが、これらの作品が同時期の作か、
それとも、様々な機会に作られた無題詩をまとめたものであるのか、
これは、前者の方だと判断できるように思いました。
その根拠は、表現の分析を通して詰めていった、一首一首の詩の成立背景です。
個別具体的なところは訳注稿や最近の雑記を見ていただくとして、
今、その大まかな主題だけを提示します。
①「高台多悲風」……親しい人との途絶の悲しみ
②「転蓬離本根」……故郷を離れて各地を転々とする寄る辺なさ
③「西北有織婦」……遠方へ赴いた人への強い思慕
④「南国有佳人」……才能を発揮できない不遇への嘆き
⑤「僕夫早厳駕」……孫呉への出征に対する強い意欲
⑥「飛観百餘尺」……孫呉出征が叶わないことへの焦燥感
⑦「明月照高楼」……遠方を旅する夫への満たされぬ思慕の情
⑧「微陰翳陽景」……故郷を離れて遠方を旅する者の悲しみ
⑨「攬衣出中閨」……夫との離別を悲しみ、愛の復活を希求する妻の心情
①④は、曹彪(後の白馬王、当時は呉王)への思いを、
③⑦は、兄である文帝曹丕への思いを詠じたものだと見ることができます。
⑤⑥は、呉への出征志願を以て罪を贖いたいと詠ずる「責躬詩」と重なる内容です。
⑧からは、引用された『詩経』の解釈を通して、亡くなった兄曹彰に対する追悼の念が読み取れ、
⑨は、踏まえられた『詩経』『楚辞』の分析により、詩中の夫は曹丕なのだと判断されます。
こうしてみると、曹植の「雑詩」は、黄初四年(223)頃の作だとするのが最も妥当です。
この年の五月、曹植は兄の曹彰や弟の曹彪とともに洛陽に上り、曹彰が急死、
七月、領国に帰還する途中、曹彪との同宿が咎められるという一連のことが起こりました。
(『文選』巻24「贈白馬王彪」李善注に引く『集』所収の曹植自らによる序文)
そのような緊迫した状況の中、
短期間で集中的に作られたのがこの作品群ではないかと考えるのです。
もっとも、②の詩は、曹魏王朝の諸王が恒常的に置かれていた境遇を詠じていますが、
黄初四年もそれに該当しないわけではありません。
「雑詩」は、一見その主題にはばらつきがあります。
ですが、その成立背景には一筋の太い流れを読み取ることができます。
「雑詩」は、ある特殊な状況下で、詩人が敢えて選び取った文体なのだと言えそうです。
『文選』李善注は、「雑詩六首」のすべてを、洛陽から鄄城に帰国して以降の作と見ていました。
この説の当否について、長いこと矯めつ眇めつしていたのでしたが、
今は、やはり李善の指摘は至当であったと思っています。
2020年7月11日
兄への忠誠心
こんばんは。
本日、曹植「雑詩五首」其四(『玉台新詠』巻2)の訳注稿を公開しました。
本詩に詠じられた「佳人」は誰を指しているのか。
昨日触れたこの問題について、かいつまんで説明したいと思います。
閨怨詩のスタイルを取るこの詩の中で、
妻が自らの境遇をたとえていう「寄松為女蘿」、
これは、『詩経』小雅「頍弁」に見える次のフレーズを踏まえたものです。
豈伊異人 兄弟匪他 どうして赤の他人と飲むものか、他でもない、兄弟なのだから。
蔦与女蘿 施于松柏 蔦や女蘿が松柏にまつわるように、弟は兄に身を託す。
(続く一段にも「豈伊異人、兄弟具来。蔦与女蘿、施于松上」とある。)
「女蘿」と言えば、『文選』巻29「古詩十九首」其八に、
与君為新婚 あなたと結婚したばかりの私は、
兎絲附女蘿 まるでネナシカズラがヒカゲノカズラにまつわるようです。
とあることが想起されますが、
曹植の詩では、「女蘿」が「松に寄せて」いますから、
直接的には前掲の『詩経』を踏まえていると見て間違いありません。
その『詩経』に、女蘿と松とが、兄弟の絆の深さを喩えるものとして登場しています。
そして、曹植「雑詩」にいう「佳人」と「妾」とは、言うまでもなく「佳人」の方が上位者です。
そうしてみると、曹植のいう「佳人」は、兄を指すということになるでしょう。
また、本詩中に見える「蘭芝」は、治世の安定に感応して生ずる霊草です。
すると、「佳人」と称される兄は、魏の文帝として即位して後の曹丕と見るのが妥当です。
更に、「君豈若平生(君豈に平生の若くならんや)」とあるので、
本詩の成立は、曹操が存命中で、彼ら兄弟がまだ若かった建安年間とは考えにくいでしょう。
最後の方の「束身奉衿帯」「永副我中情」といった句は、
文帝曹丕への絶対服従を余儀なくされていた黄初年間の曹植を彷彿とさせます。
以上を要するに、
曹植のこの「雑詩」は、文帝曹丕を夫に、自らを妻に見立て、
閨怨詩の枠に借りて、兄文帝への忠誠心を詠じた詩だと判断されます。
その忠誠心なるものは、多分に外圧的な矯正を受けて成ったもののようですが。
2020年7月10日
閨怨詩と『楚辞』
こんばんは。
曹植の「雑詩」には難解なものが多いですが、
『玉台新詠』巻2所収の「雑詩五首」其四(『曹集詮評』巻4では「閨情」)もまた、
語釈をどうしたものか苦慮することの多い作品です。
(一両日中には訳注稿を公開する予定)
何がそんなに難しいかというと、
本詩は一見ありふれた閨怨詩であるような風貌を備えていながら、
その表層を一枚めくれば、『楚辞』にも用いられている語句がちりばめられている、
ただし、それらの語は、一般に用いられている語でもあって、
必ずしも『楚辞』に由来する語だとは言えないため、
曹植自身が『楚辞』をどこまで意識しているのか、判断しづらいのです。
一度、『楚辞』のにおいを感じ取ると、
一篇すべてがそのようにしか思えなくなってしまうので危い。
で、そこは十分に自戒しながら読んだ結果、
やはりこの詩は、閨怨詩と『楚辞』とを重ねている、
孤閨を守る女性の寂しさと、君主に理解されなかった屈原の悲しみとを重ねている、
と見るのが妥当だろうと判断しました。
さらに、屈原が曹植だとして、楚の懐王は誰を指しているのかということも、
(こうした解釈のあり様を無化する見方は、今は措いておきます。)
かなり明確な根拠をもって比定することができそうです。
このことについては、また日を改めて述べます。
2020年7月9日
元白応酬詩札記(6)追記
おはようございます。
昨日紹介した元稹「書楽天紙」詩について、追記します。
詩の本文だけを見るならば、次のような解釈もあるいは可能かもしれません。
金鑾殿裏書残紙 金鑾殿の中で、残りものの紙に手紙を書いて、
乞与荊州元判司 荊州の元判司に与える、と君は宛名を記したのだろう。
不忍拈将等閑用 朝廷から支給された紙の残りを粗末に扱うことははばかられて、
半封京信半題詩 半分には都からの便りをしたため、半分には詩を書きつけたのだろう。
ぎりぎりまで迷った末に、昨日のような捉え方をしましたが、
そう判断した一番の根拠は、本詩の詩題「楽天の紙に書く」でした。
これにより、白居易から元稹に諫紙の残りが贈られたことを詠じたのだろうと見たのです。*
昨日の解釈とは後半2句の主語が大きく異なりますが、
いずれにしても、「残紙」「乞与」といった語句、「判司」と「金鑾殿」との対比など、
そこに心情の屈折が読み取れることは、昨日述べたことと変わりありません。
たとえば「乞与荊州元判司」という語について、
白居易から送られてきた書簡、あるいは紙の束に、本当にこのとおり記されていたかは不明です。
それよりも、元稹がこのように感じ取ってそう表現したということに目を留めて、
そこに元稹のこの当時の心境を読み取ろうとしているのです。
「残紙」という言い方にしても同様です。
事実としては、そこに朝廷から支給された紙の残りがあるだけです。
白居易からすれば、当時としては非常に貴重であったその紙を、
文人としても一流と認める親友に使ってほしい一心で送ったかもしれない、
それを元稹は、残り物の紙を左遷された自分に恵んでくれたと受け取ったのでしょう。
なお、元稹はその時点から四年ほど前の元和元年(806)、
制科にトップで及第してすぐに左拾遺(諫官)に抜擢されていますから、
直近まで左拾遺を務め、今は翰林学士の職を兼任している白居易の職務は熟知しています。
2020年7月8日
*呉偉斌輯佚編年箋注『新編元稹集』(三秦出版社、2015年)第五冊、p.2566も同方向の解釈を取る。
元白応酬詩札記(6)
こんにちは。
昨日の話の続きです。
白居易の「禁中夜作書与元九」(『白氏文集』巻14、0723)に対応する詩として、
次に示す元稹「書楽天紙」詩(『元氏長慶集』巻18)が伝わっています。
金鑾殿裏書残紙 金鑾殿の中で、残りものの紙に書かれた、
乞与荊州元判司 荊州の元判司に与えるという文字。
不忍拈将等閑用 いただいた紙をつまみ上げて、いい加減に用いるのには忍びないから、
半封京信半題詩 半分には都への便りをしたため、半分には詩を書きつけよう。
この詩には、なにかひどく屈折したものを感じます。
まず、1句目の「残紙」は、王朝から諫官に支給された紙のことを指し、
この紙は、たとえば「酔後走筆、酬劉五主簿長句之贈……」(『白氏文集』巻12、0584)に、
「月慙諌紙二百張(月ゞに慙づ 諌紙二百張)」と見えていますが、
それを“残り物の紙”と言っていることに目が留まります。
また、2句目「乞与荊州元判司」について、
「荊州元判司」は、意味としては荊州で士曹参軍を務めている元稹を指し示すだけですが、
「判司」は州郡の属官をいい、1句目の「金鑾殿」との落差が際立っています。
しかも、その上にある「乞与」は、何か上位者の奢りのようなものを感じさせます。
元稹が白居易からの贈り物を、“贈る”ではなく“与える”と表現したのはなぜでしょうか。
3句目「不忍拈将等閑用」にも、かすかな不協和音を感じます。
「拈」は指でつまみあげるの意。それに接尾辞の「将」が付いています。
「等閑」という語ともあわせて、それをすることを「不忍」と言っているのですが、
却って、そうしたぞんざいな行為が、一旦は念頭に上がったのかとさえ思わせられます。
加えて、この詩は白居易の手に渡ったのかも不明です。
本詩の題名は、「楽天の紙に書きつけた」と言っているだけですから。
このように、元稹のこの詩には何か釈然としないものを感じるのですが、
それは、白居易と元稹に対して私たちがある種の先入観を持っているためかもしれません。
彼ら二人は、生涯を通して、ゆるぎない友情で結ばれていたという神話です。
前掲の白詩が作られたのは元和五年(810)、
当時白居易は、京兆府戸曹参軍で天子直属の翰林学士を兼任していました。
一方、元稹は以前にも述べたとおり、この年の春、江陵府士曹参軍に左遷されました。
その理由は、河南尹の房式の違法行為を暴いたのが官界の連中に憎まれたためで、
白居易は、再三元稹を弁護しましたが認められませんでした。*
こうした中、元稹がひどい屈託を抱えていても不思議ではないし、
白居易は、この元稹の気持ちを、まだ本当のところでは理解していなかったかもしれません。
たとえ元稹の行為や人柄に対して全幅の信頼を寄せていたとしてもです。
2020年7月7日
*この間の経緯については、平岡武夫『白居易(中国詩文選17)』(筑摩書房、1977年)が詳しい。
元白応酬詩札記(5)
こんばんは。
先にこちら(2020.06.29)で考察を始めたことについて、少しだけ続きを記します。
白居易は、江州に左遷されて三年目、元稹に宛てて「与微之書」を書きましたが、
その中に、元稹「酬楽天八月十五夜、禁中独直、玩月見寄」詩に見える「瞥然」「塵念」が、
「平生故人、去我万里。瞥然塵念、此際暫生」と用いられていたことは先に述べました。
さて、この「瞥然塵念」云々に続くのは、次のような文面です。
余習所牽、便成三韻、云、
身に染み付いた習慣によって、すぐに三韻から成る次のような詩ができた。
憶昔封書与君夜 思えば昔、書簡に封をして君に送り届けようとした夜、
金鑾殿後欲明天 大明宮中の金鑾殿の背後には夜明けの空が広がりつつあった。
今夜封書在何処 今夜、どこにいて書簡に封をしているかというと、
廬山菴裏暁灯前 廬山の草庵の中、明け方の灯の前である。
籠鳥檻猿倶未死 籠の中の鳥も檻の中の猿も、ともにまだ死んではいない。
人間相見是何年 人間界において再会するのはいつになるであろうか。
この詩の最初の二句は、
次に示す、白居易「禁中夜作書与元九」(『白氏文集』巻14、0723)を指しています。*1
心緒万端書両紙 伝えたい思いは無限にあるのに、書いた手紙は二枚だけだ。
欲封重読意遅遅 封をしようとして、読み返せば言い足りないことばかりが目について、気が進まない。
五声宮漏初鳴後 宮中の水時計が、五更(一夜を五つに分けた最後の時間)を告げて鳴ったばかり。
一点窓灯欲滅時 今、窓辺の一点の灯が燃え尽きようとしている。
この詩は、前掲の元稹詩が応酬した、
白居易「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」詩(0724)と同時期の作とされています。*2
つまり、白居易は「与微之書」の末尾に至って、ある特定の時期を思い浮かべ、
その頃に自分が元稹に宛てた詩や、それに応酬した元稹詩の辞句を引用しているのです。
そして、それは廬山における現在の境遇と対照的に詠じられていたのでした。
「与微之書」は、「微之、微之。此夕我心、君知之乎」という語で結ばれるのですが、
果たして元稹はこの白居易の思いをどのように受け止めたのでしょうか。
白居易が、この書簡の中で「瞥然塵念」という語を引用した理由は何なのか、
まだ今ひとつくっきりとした像を結びません。
2020年7月6日
*1 岡村繁訳注『白氏文集 五(新釈漢文大系)』(明治書院、2004年)p.439を参照。
*2 花房英樹『白氏文集の批判的研究』(彙文堂書店、1960年)所収「綜合作品表」を参照。
曹植の読んだ『詩経』(承前)
こんにちは。
曹植の読んだ『詩経』(2020.07.02)について、追記です。
曹植「情詩」の第9・10句には、『詩経』の王風「黍離」と邶風「式微」が対で用いられています。
そのうちの「黍離」が、韓詩に基づくこと(黄節の指摘)は先に述べました。
では、もう一方の「式微」はいずれの詩に基づくのでしょうか。
黄節は、魯・斉詩に基づくとして次の文献を挙げます。
まず、『列女伝』貞順伝所収の黎荘夫人の逸話です。
彼女は衛侯のむすめで、黎荘公に嫁いだが、大切にはされなかった。
これを不憫に思った傅母が、詩を作って「式微式微、胡不帰」と詠じ、実家に帰ることを勧めたが、
黎荘夫人は「微君之故、胡為乎中路(微は君の故なるも、胡ぞ中路を為さんや)」と、
その勧めを退けて妻としての道を貫徹した。
これは、魯詩に基づくものです。*1
また、『焦氏易林』(「小畜」の「謙」に之く)にいう次の辞句を挙げます。
式微式微、憂禍相絆。隔以巌山、室家分散。
衰えに衰えたことよ、憂いや禍が連なり合って起こり、険しい岩山に隔てられて、一家は離散した。
これは、斉詩に基づくものです。*2
『毛詩』小序では、次のようになっています。
式微、黎侯寓于衛、其臣勧以帰也。
「式微」は、黎侯が衛の国に仮住まいしていたのを、その臣下が帰国するよう勧めたのである。
帰ることを勧めるという点では、魯詩とそれほど違いはないかもしれませんが、
黄節は、黎荘夫人が堅守した婦道と、曹植が臣下として取ろうとした道とを重ね合わせ、
「情詩」にいう「処る者は式微を歌ふ」を解釈しています。
本詩を、曹植の漢王朝への思いを詠じた作品と捉える従前の説よりは、
はるかに説得力がある解釈だと思います。
ところで、もし黄節の解釈が妥当だとすると、
曹植が読んだ『詩経』は一家にはとどまらないということになるでしょう。
また、曹丕が斉詩に拠っているとする指摘もあって(2020.03.02)、
兄弟で詩経学の流派が違うというのは不自然なので、
その時々で様々な詩経解釈を用いたと見るべきなのかもしれません。
このことについては、経学の専門家に教えを乞いたく思います。
2020年7月5日
*1 陳寿祺撰・陳喬樅述『三家詩遺説考』(王先謙編『清経解続編』巻1139所収)を参照。
*2 陳喬樅前掲書(『清経解続編』巻1119)を参照。
なお、2020年7月2日雑記の欄外に追記したことは、すべて 陳喬樅『三家詩遺説考』に夙に指摘されていた。
曹植「情詩」のわからなさ
曹植「情詩」はわかりにくい、とは昨日も書いたところです。
では、この詩はなぜわかりにくいと読者に感じさせるのでしょうか。
話の便宜上、以下に原文と訓み下しのみを再掲します。
語釈など、詳細については訳注稿をご覧いただければ幸いです。
01 微陰翳陽景 微陰 陽景を翳(おほ)ひ、
02 清風飄我衣 清風 我が衣を飄(ひるがへ)す。
03 游魚潜淥水 游魚は淥水に潜み、
04 翔鳥薄天飛 翔鳥は天に薄(せま)りて飛ぶ。
05 眇眇客行士 眇眇たる客行の士、
06 遥役不得帰 遥役して帰るを得ず。
07 始出巌霜結 始めて出でしときは巌霜結び、
08 今来白露晞 今来れば白露晞(かは)く。
09 遊子歎黍離 遊子は「黍離」を歎じ、
10 処者歌式微 処る者は「式微」を歌ふ。
11 慷慨対嘉賓 慷慨して嘉賓に対し、
12 悽愴内傷悲 悽愴して内に傷悲す。
2句目にいう「我」は、この詩を詠じている人です。
詩の末尾で、深い悲しみとともに、賓客を相手に悲憤慷慨するのも同じ人だと見られます。
そして、この人は、5句目の「客行士」とおそらくは重なるでしょう。
前述の「我」は、第1句、第3・4句に挟まれて、この文脈の中にあることは明らかですが、
この第1句、第3・4句の発想は、古詩「行行重行行」を彷彿とさせるものであって、
その古詩の中に、こうした旅人が中心的に詠じられているからです。
この「客行士」は、9句目の「遊子」とも重なるでしょう。
ではなぜこの詩は「我」でもって一篇を貫徹せず、
途中で第三者の様子を描写するかのような視点を取るのでしょうか。
漢代詩歌に常套的な、遊子と孤閨を守る妻というテーマに沿って詠ずるためだけなら、
たとえば「雑詩六首」其三のように、一篇まるごと古詩の世界に則ってもよかったはずです。
それなのに、この詩では「我」と「遊子」とが分裂したかたちで登場します。
更に、この遊子にはある種のニュアンスが賦与されています。
それは、讒言によって祖国を追われた屈原のイメージで、
このことは、『楚辞』作品を踏まえた表現が本詩中に散見することから明らかです。
加えてよくわからないのが、第9・10句で『詩経』そのものが歌われていることです。
典故表現によって、「遊子」や「処者」のふるまいや心情を詠じるのではなく、
直接彼らが『詩経』中のある篇を歌うという設定になっているのです。
『詩経』本文の辞句のみならず、その主題(小序)をも響かせようとして、
このような表現を取ることとなったのでしょうか。
語句の意味はわかっても、なぜそのような表現手法を取ったのかが不分明、
そんなわからなさがこの詩には多いから、なにか釈然としないものが残るだとわかりました。
2020年7月4日