アカデミズム雑感

こんにちは。

中国の論文データベース(CNKI)では、
論文タイトル、著者名、出典(雑誌名など)、出版年のほか、
他の論文に引用された数や、ダウンロードされた数までもが表示されています。
しかも、検索結果一覧の末尾には有名な著者がピックアップされていて、
そうした著者については詳しい情報が得られるようになっています。
そして、そこでもまた、引用件数、ダウンロード件数の多い論文が列記されています。

これは、ひとつには論文の数が非常に多いためかもしれません。
あらかじめ利用者に論文の価値を数値化して示せば便利だということなのでしょう。

いかがなものかとは思いますが、自分だってわりとそれを参考にします。
中国の学界にそれほど詳しくないため、論者を見て読むべき論文か判断することが難しいので。

ただ、こうした趨勢下では、まったく新しい見方がここから生まれることは少なくなるでしょう。
新しい知性が、アカデミズムでない場所から生まれていることはすでに実感していますが、
古典研究の場合は、一定の基礎的な訓練のようなものがどうしても必要で、
そうしたものを育むのは、やはりアカデミックな場所ではないだろうかと思うのです。
(アカデミズムは本来、非常に自由闊達なもので、大学という機関には限定されないけれど。)

そのアカデミズムが崩壊しつつあるのが今の日本でしょう。
そして、そのような現状を招いたのは、大学の内部にも原因があると私は思います。

なお、自分は、投稿先が全国的な学会誌だろうが、紀要だろうが、同じ姿勢で臨みます。
(一旦書くモードに入ったら、何に投稿するのであろうが同じです。)
若い人々は、業績が点数化されますから、そんなことも言っておれないかもしれません。
私がこんなことを言えるのも、定年も近い気楽な身分だからかもしれません。
せめて、アカデミズムのヒエラルキーからは自由な立場から、
若い研究者の方々を励ますことを心掛けたいです。

2020年5月6日

先行研究がないなら

こんばんは。

本日ようやく「贈白馬王彪」詩の訳注稿を公開しました。
かつて読んだことがあって、調べたことを記したノートがあるにもかかわらず、
ひどく時間がかかってしまいました。(その理由は措いておいて。)

この詩は、異母弟の曹彪に向けて贈られたものではありますが、
弟との別れを惜しむばかりでなく、
都で急死した兄曹彰への追悼の念も詠じられ、
更には、都にいる兄の曹丕(文帝)への言及も認められ、
詩想の向かうところがやや拡散しているように感じられました。
別の見方をすれば、何か非常に屈折したものを蔵しているように思えます。

それで、先行研究ではどう論じられているか、
中国の論文データベース(CNKI)で検索してみました。
(日本の論文は措いておきます。)

したところが、[主題]を[曹植]とすると、3876件もヒットするのに、
[贈白馬王彪]を[主題]に論じるものはわずかに12件でした。

そして、それらの題目を見る限りでは、作品の内部に入って論じるものより、
後世の詩人や『文選』『三国志』との関係など、作品の外へ向かうものが圧倒的に多く、
作品を論じる場合も、精読というよりは、評価に傾く傾向が顕著です。

中国の研究がこうした傾向を持つことは常々感じていますが、
本作品を中心的に論じたものがこんなに少ないとは、非常に意外に思いました。
(付随的に言及する論文であれば、もっと多数になるでしょうが。)

人がやっていないのなら、自分がやるしかないなと思います。
論となり得る問いが立つかどうかはともかく。

2020年5月5日

何を以て認められたいか?

こんにちは。

『春秋左氏伝』襄公二十四年の記事に、
「死而不朽(死しても朽ちず)」という古人の言葉について問われた人が、
このように答えたということが記されています。

大上有立徳、 最上は徳を立てること、
其次有立功、 その次は功を立てること、
其次有立言。 その次は言を立てることである。

この言葉のうち、特に「立功」は学生たちには少し遠く感じられるようです。
だから、しっかり働いて人に喜ばれることだ、というふうに言い換えたりもしてきました。

ですが、色々と現代風に言い換えなくてもいいのではないか、とふと思いました。

現代人と、『春秋左氏伝』に記された古人の考えと、
人から承認されたいという欲求がある点では共通していると思い至ったのです。
これは、人が人々の間に生きるものである以上、古今東西、普遍的なのではないでしょうか。
(人知れず善を為すということだって、その姿勢そのものが承認されるわけです。)

ただ、何を以て人々から認められたいのか、
そこが、時代や文化圏によって、さらには個々人によって違うのでしょう。

昔の人々はこうだった、ということを“異文化”理解してもらった上で、
では、あなたは何を以て人から認められたいのか、と問えばよいのだと思いなおしました。

2020年5月4日

『世説新語』と曹植

こんにちは。

『世説新語』には、曹植への言及があまりありません。

ひとつは、昨日言及した、曹丕に殺害されそうになったのを、母の卞太后に救われた故事。
もうひとつは、文学篇所収の次の有名な故事、
曹丕が曹植に、七歩歩くうちに詩を作れなければ大罪に処するとしたところ、
曹植は声に応じて、スープの豆とこれを煮る豆がらの詩を作り、曹丕を恥じ入らせた、と。
この二件のみ。
しかも、両方とも、兄の曹丕からひどい仕打ちを受けるという話です。

当代第一級の文人であり、
興味深いエピソードがないわけではない人物であるにも関わらず、
なぜ曹植は『世説新語』で等閑視されているのでしょう。

また、父曹操や、兄曹丕、甥に当たる明帝曹叡は、それなりの数の故事が同書に記されています。
(亡くなった王粲を、ロバの鳴きまねで見送ろうという曹丕の故事は好きです。)

編集がやや不均衡な感じがして、不思議に思いました。
その理由は、曹植本人の側ではなく、編纂者の方にあるのでしょう。
『世説新語』には先行研究がたくさんあるので、誰かが論じているかもしれません。

2020年5月1日

常識ですが。

こんばんは。

曹植「贈白馬王彪」詩が成る発端となった出来事として、
曹植の兄曹彰が、朝見のために上った洛陽で急死したという事件があります。

この事件に関して、『世説新語』尤悔篇は、次のような内容の逸話を記しています。

文帝曹丕は、同母弟である曹彰の勇猛さを妬み、
卞太后(曹丕らの母)の部屋で囲碁に興じつつ、巧妙に毒を仕込んだ棗の実で彼を殺した。
曹丕は次に曹植を殺害しようとしたが、卞太后がこれを阻止した。

ここにいう、曹丕が曹彰を毒殺したとは事実なのでしょうか。

『世説新語』の劉孝標注には、そうしたことを記す文献は引かれていません。
引かれているのは、まず曹彰の武勇を記す『魏略』、
次に引く『魏氏春秋』は、曹彰が亡くなった経緯について次のように記しています。
曹彰は、曹操が崩御した際、璽綬(天子の印と組紐)のありかを尋ね、異心ありとされた。
そのため、洛陽ですぐには朝見が認められず、その憤懣と憂悶のために急死した、と。
そして、三件目の引用文献は、『魏志』(『三国志』巻29)方技伝から、
曹植を処刑しようとした曹丕が、卞太后に阻止される、
と予言した夢占い師、周宣の逸話です。

『世説新語』が成ったのは、曹氏兄弟の生きていた頃から二百年余り後の劉宋の時代で、
劉孝標注の成立は、その本文の成立から更に数十年ほど後のことです。

すると、曹丕の同母弟毒殺は、本人の死後二百年ほどの間に作られた風説でしょうか。
いかにも曹丕がやりそうなこととして話に尾ひれがついて。

『世説新語』本文からそれほど隔たっていない時代に成った劉孝標注が引く文献は、
いずれも『三国志』本文、及びその裴松之注に引くところと一致します。
そして、先述の毒殺の一件はそのどこにも見えていないのです。

弟たちに対する曹丕の仕打ちがいくら酷かったとはいえ、
人物像の悪いイメージを、根拠なく増幅させることは自戒しなければなりません。
(歴史書には記せない事実が、文字の世界から葬り去られた可能性が無ではないにしろ)

うわさ話を鵜呑みにして誰かを決めつけてはならない。常識ですが。

2020年4月30日

考察の行き止まり

こんばんは。

曹植「贈白馬王彪」詩(『文選』巻24)第四章の末尾にいう、

感物傷我懐  生き物(ねぐらに帰る鳥、群れからはぐれた獣)に感じて我が心を痛め、
撫心長太息  胸をなでて長くため息をつく。

この上の句について、李善は「古詩曰、感物懐所思。」と注していますが、
この注が妥当かどうか、判断に困っています。

というのは、李善のいう古詩の句は、
『文選』巻27所収の古楽府「傷歌行」に次のとおり見えているからです。

感物懐所思  生き物(つれあいを呼ぶ春の鳥)に感じて恋しい人を思い、
泣涕忽霑裳  流れる涙がたちまち裳裾を濡らす。

ただ、このように古詩と古楽府とが混同される例は珍しくありません。
また、『藝文類聚』巻42には、本作品の一部を「古長歌行」と題して引く例もあります。
(『文選』巻22、謝霊運「遊南亭」の李善注にも「古長歌行」としてこれを引く。)
ですから、いずれにせよ、これが漢代詠み人知らずの詩歌であるなら問題はないと言えます。

ところが、『玉台新詠』巻2は、これを魏の明帝曹叡の「楽府詩」として収録しています。
そうなると、曹植詩が踏まえた作品として、李善がこれを指摘したのは不適当となるでしょう。
曹叡の楽府詩は、曹植の詩よりも新しいと思われますから。
曹植詩と曹叡「傷歌行」との双方が基づいた、幻の詠み人知らずの詩歌があったのか、
それとも、実は逆に曹植詩が曹叡の「傷歌行」に影響を与えたのか等々、
両者の関係性について、李善注とは異なる指摘が必要でしょう。

ところで、魏の阮籍「詠懐詩」其十四(『文選』巻23所収十七首の其七)にも、
次のような類似句が見えています。

感物懐殷憂  生き物(秋のコオロギ)に感じて愁いを抱き、
悄悄令心悲  しょんぼりとして心は悲しみに暮れる。

この上の句に対する李善注もまた、曹植詩に対するのと同様に、
上記の「古詩」すなわち『文選』所収「傷歌行」の句を引いて説明していますが、
それ以外の部分でも、阮籍の詩は「傷歌行」との間に、
「明月」「微風」「羅」「牀」「帷」といった詩語を共有しています。

他方、阮籍詩は、曹植「贈白馬王彪」との間にも、
「秋」「涼」「風」「鳴」く虫、“帰る”という発想を共有しています。

ということは、阮籍詩は、「傷歌行」から得た基本的詩想の上に、
曹植「贈白馬王彪」詩から得た新たな着想を加味して成った作品なのでしょうか。
おそらく、この三作品だけを見ていたのではだめなのだろうと思います。

2020年4月29日

建安文学と民間文芸

曹道衡「論『文選』中楽府詩的幾個問題」(『国学研究』第3巻、1995年)の中に、
次のような内容の推定・指摘がありました。

左延年の「従軍行」(『楽府詩集』巻32に引く『楽府広題』)は、*
次のような句で始まる。

苦哉辺地人  苦しいことだ、辺境の人は。
一歳三従軍  一年の間に、三度も従軍するのだ。

彼にはまた別に、同じく「従軍詩(行)」と題する、
次のような句を持つ楽府詩(『初学記』巻22、『太平御覧』358)がある。
(次に示すのはおそらくその冒頭でしょう。)

従軍何等楽  従軍はなんと楽しいことだろう。
一駆乗双駁  ひとっ走り、(我らは)一対のまだら馬に乗って。

このように、左延年「従軍行」は、一首が「苦」を、一首が「楽」を歌っている。

これは、比較的早期からあった民歌を左延年が歌曲に加工したものであろう。

さて、王粲「従軍詩」(『文選』巻27)の冒頭に、
「従軍有苦楽(従軍には苦と楽と有り)」という句が見えているが、
これは、左延年の「従軍行」に取り込まれた民歌を踏まえているのではないか。

非常に説得力のある、鮮やかな指摘だと思います。
王粲をはじめとする建安文人たちの文学的環境をよく示す事例です。

建安文学における民間文芸の影響は、
すでに多くの先人たちが指摘しているとおりです。
私も、曹植という大きな存在が残した作品に取り組みつつ、
先人の残した成果に、更なる事例を付け加えることができればと考えています。

ただ、柳川の研究は、従前の研究と次の点で異なっています。
それは、民間文芸と建安文学との間に、漢代の宴席芸能という新たな視点を設けたことです。
これについては、「現在の研究内容」をご覧いただければ幸いです。
(少し異なる角度から、同じようなことを述べております。)

*本作品は、『楽府詩集』巻32の本文ではなく、そこに引く『楽府広題』に引かれている。2020/04/24の記事〈歌辞の継承〉では不正確な表記をしていたので改めた。

2020年4月28日

延年という名前

こんにちは。

先日、魏の左延年という楽人に触れました。
この名前は、前漢王朝の協律都尉(楽官)李延年を想起させます。
また、「羽林郎」(『楽府詩集』巻63)という詩歌の作者、後漢の辛延年の名も思い浮かびます。

もしかしたら、「延年」は、楽人・楽府に関わりが深い名前なのでしょうか。

そもそも楽府という役所は、
前漢の武帝が、(不老長生を願って)天の神を祭る制度を作る際、
不老長生を祈願する民間祭祀に音楽が伴うことを耳にして、
モデルとなり得るそうした民間歌謡を収集するために創設したとされています。*1

ですから、そうした場所で働く人の名前に多く「延年」が用いられるのかと思ったのです。
ところが、この名前は楽人の占有ではありませんでした。

前漢時代には、『漢書』に姓名が記載されている人に限っても、
先の李延年以外にも、張、杜、田、厳、姫、劉、雕、韓、解、乗馬、孔といった姓で、
延年の名を持つ人がいました。
このうち、劉延年は漢王室の人々で、複数(8名)います。*2
(皇族と同じ名前を一般人が名乗ってもかまわなかったのでしょうか。)

興味深いのは、この延年という名前は、武帝期以降の人にしか見えないこと、
そして、後漢以降は、これほど多くは見えなくなるということです。
世の人々が、あまりそうした名前を子につけなくなったのか、
あるいはまた、歴史書に記載されるような人物の層が移ろったのでしょうか。

長寿を願う習俗と、人々の名前と、楽府の創設と、楽人の名称とは、
どこかで一脈つながっているように思えてなりません。

*1 釜谷武志「漢武帝楽府創設の目的」(『東方学』第84輯、1992年7月)を参照。
*2 魏連科編『漢書人名索引』(中華書局、1979年)を参照。

2020年4月27日

歌辞の継承

こんにちは。

先だって触れた西晋の陸機に、「従軍行」(『文選』巻28)と題する楽府詩があります。

苦哉遠征人  苦しきかな、遠征の人は、
飄飄窮四遐  飄々とあてどなく、世界の果てまでも行かねばならぬ。

という句に始まり、結びでも再び次のように歌います。

苦哉遠征人  苦しきかな、遠征の人は、
撫心悲如何  胸をなでても、この悲しみは如何ともしがたい。

ここに繰り返されているフレーズ「苦哉遠征人」は、
魏の左延年による「従軍行」(『楽府詩集』巻32に引く『楽府広題』)の冒頭、
「苦哉辺地人(苦しき哉 辺地の人は)」を明らかに踏襲しています。

従軍を題材とした詩歌であれば、
魏を代表する文人、王粲に「従軍詩」(『文選』巻27、『楽府詩集』巻32)があります。
それなのに陸機はなぜ、王粲ではなく、左延年という楽人の作った歌辞を継承したのでしょうか。*

西晋の宮廷音楽を司った荀勗による記録「荀氏録」には、
左延年のこの楽府詩が著録されています。(『楽府詩集』巻32に引く王僧虔「技録」)

すると、左延年の「従軍行」は西晋王朝の宮中で歌われていたということでしょう。
陸機は、西晋に出仕してから必ずやこの歌曲を耳にしていたはずです。
左延年の第一句を踏襲する陸機「従軍行」は、こうした経緯で誕生したのではないでしょうか。
この場合は、演奏されていた歌曲を仲立ちとしての継承だと考えられます。

一方、南朝宋の顔延之(384―456)にも「従軍行」があり、
その第一句は、先に見た陸機の歌辞「苦哉遠征人」とまったく同じです。

このことについて、顔延之は陸機の楽府詩を踏まえたのだと私は考えます。
(左延年が、西晋の陸機と南朝宋の顔延之の双方に影響を与えたと見るのではなくて)

というのは、前掲の王僧虔「技録」に、
左延年の「従軍行・苦哉」は、今は伝わらない、と記しているからです。
王僧虔「技録」は大明三年(459)の記録で、その内容は顔延之も共有していたでしょう。

南朝の文人たちにおける陸機の強い影響力がうかがえます。

*曹道衡「論『文選』中楽府詩的幾個問題」(『国学研究』第3巻、1995年)の提起した問題意識。氏の所論は、王粲の作品は、徒詩であって、楽府詩ではなかったというところに収斂していくが、上述の私見は、これに触発されて別方向へ展開させたものである。

2020年4月24日

今年の授業では

こんばんは。

連休明けにようやく授業が始まりますが、
今年はこれまでやったことのないオンラインでの授業、
しかも例年になく受講生が多いので、どう進めるか思案中です。

中国古典文学を教えていて、いつも説明が難しいと感じるのは、
たとえば、(吉川幸次郎の)現実参加の志といった言葉で表現される、
あるいは、西洋のノブレス・オブリージュといった概念に置き換えて語られる、
日本文学には比較的希薄な、中国文学が持つ社会性です。

芸術作品(文学を含む)が社会的な運動に利用されること、
あるいは、表現活動には社会的メッセージが必須だという声高な主張に対して、
自分自身がずっと心理的な抵抗感を感じ続けてきたものですから。

かなり長い時間を考え続けて、
今は、たとえばこういうことなのだろうと思っています。

笑いに風刺が必須なのではなく、風刺には笑い(遊び)が必要なのだということ。

文学に、現実参加の志が必須なのではなくて、
人が社会の中で生きる上では、文(あや、すなわち美)あるものが必要だということ。

もちろん、人は人間(じんかん、つまり社会)の中に生きています。
本人が意識しているといないとにかかわらず。
そして文学は、そうした人間(にんげん)が作り出すものです。
これは大前提としてあると思います。

今年こそは、分かってもらえるように話せるだろうか。

2020年4月23日

1 58 59 60 61 62 63 64 65 66 82