「贈徐幹」詩の再解釈

こんばんは。

先日来「贈徐幹」詩の解釈がどうにも引っかかって落ち着かず、
もう一度、抜本的に考え直してみました。

先に示した(無理のある)解釈はこちらをご覧ください。
また、本詩の訳注稿もあわせてご参照ください。(すでに修正済み)

さて、引っかかっていたのは次の点です。

まず、「弾冠」という語の俗悪なニュアンスが、
徐幹『中論』の、たとえば爵禄篇に示された主張にそぐわないこと。

そして、仮に曹植が徐幹の仕官を望んでいるとして、
そうしたふるまいが、たとえば彼の「贈丁廙」詩に詠じられた、
「世俗の儒者になろうなどと願ってはくれるな」といった言葉と矛盾すること。

もちろん、「贈王粲」詩では、出世を望む相手の気持ちに寄り添っていた曹植ですが、
王粲に対しても、曹操の恩沢を信じるようにと慰めていただけです。

そこで、19句目から22句目を、以下のように捉え直してみました。

才能ある人が打ち棄てられているのは、
人材を推薦する人間に、適切な人事ができないという過ちがあるからだ。
連中はみな、仲間内で相互に推薦をしあっているばかりだ。

つまり、この部分は、徐幹の政治思想に、曹植が共鳴しているのだと捉えたのです。
詩全体の中にこの部分を置いてみると、次のとおり特段の齟齬は生じません。

1~6句目では、叙景を通して天下の情勢を象徴的に述べます。
7~12句目では、宮殿内の情景を詠じながら、曹魏政権内の人的情況をも描き、
対して、13~18句目では、極貧生活の中で執筆活動に専心する徐幹の姿を描きます。
その上で、19~22句目では、腐敗した人事状況を述べて徐幹に共感を示し、
23~26句目で、優れた主君の下、いずれ徐幹の徳が真っ当に認められようと予見します。
27・28句は、相手に対する変わらない情誼を表明する結びの言葉でしょうか。

最後の二句が、今ひとつ感覚として十分に把握できていないのですが、
その他の部分については、少なくとも前の解釈よりははるかにましになったと思います。

訳注稿の方も、上述の内容に沿って手直しをしました。
逐語的な通釈や語釈は、そちらをご覧になっていただければ幸いです。

2020年4月14日

推薦を求める者と求められる者

こんばんは。

またひとつ、追記したいことが出てまいりました。

前回触れた「贈徐幹」詩の解釈に関しては、
先にも紹介したことがある龜山朗氏の所論をぜひご参照ください。*1

すんなりと解釈されることを拒むような詩ですから、様々な視点からの考察が必要です。
特に「和氏」の「愆」については、私の捉え方とは異なる解釈が為されています。

また、余冠英氏の説が、私の解釈と非常に近いことをここに付記しておきます。*2
龜山氏の所論では、やや無理がある説だとされていますが。

さて、本日、曹植「贈王粲」の訳注稿を公開しました。

この詩を改めて読み直しての感想ですが、
建安期の曹植の贈答詩には、ある共通するものが底に流れているように感じます。
顕著なのは、建安文人たちの現実参加に対する意欲の強さと、
彼らに対する曹植の対応のあり様が、詩中、繰り返し現れるということです。
曹植は場合によって、彼らを後押ししたり、戒めようとしたり、姿勢を変えはしますが、
有力者への推挽を求める者と、その求めを受ける者と、
両者のやり取りが見て取れるということでは通底しているように思います。

曹植は、曹操という有力者の息子である以上、
そうした立場に由来する力の行使を否応なく求められていたでしょう。
そのことに対して、二十代の曹植がどこまで自覚的であったのか、興味深いところです。

なお、こうした人間模様は、宴席文芸である漢代古詩には広く認められるものです。
たとえば、『文選』巻二十九「古詩十九首」其四「今日良宴会」など。
建安文壇の、漢代からの継承部分がここに明らかです。

2020年4月13日

*1 龜山朗「建安年間後期の曹植の〈贈答詩〉について」(『中国文学報』第42冊、1990年10月)。
*2 余冠英『三曹詩選(中国古典文学読本叢書)』(人民文学出版社、1985年)p.82―84を参照。

不遇な者からの慰め

こんにちは。

今日、曹植「贈徐幹」の訳注稿を公開しました。

それから、徐幹の足跡に関する先行研究を、こちらに追記しました。

以前、徐幹の没年の問題をめぐって右往左往したことがありますが、
興膳宏編『六朝詩人伝』(大修館書店、2000年)の、
林香奈氏による「徐幹」の項の注に、非常に詳しく説明が為されていました。

身近にあるのに、これを開いてみることに気づけなかった。
ほんとうに恥ずかしい限りです。(実は、少なからず落ち込みました。)

他にも同じような不備が至るところにあるだろうと思います。
(ものを知らないことでは人後に落ちませんから。)
何かお気づきのことがあれば、お知らせいただけるとありがたいです。

*「連絡先」にフォームを設けました。
  お返事のため、メールアドレスだけは正確にお願いいたします。

さて、「贈徐幹」詩は比喩が難解で、
それだけに解釈の分かれるところが多々ありますが、
なかでも特に先行研究とは少しく異なる考えに至ったのは次の点です。

6句目「小人」、20・22句目「和氏」、21句目「知己」は、すべて曹植を指す。
23・24句目「良田」「膏沢」は、主君(曹操)の徳ある恩恵をいう。

つまり、以下のように捉えたのです。

曹植自身も、自身の過失に起因する不遇な状態にある。(第20句)
そのため、徐幹をその才能にふさわしい官職に推薦することができない。(第22句)
だが、主君は豊かな恩沢を施してくれるはずなので、(第23・24句)
その持てる才能を磨き続ければ、いずれは世に認められる時が来るはずだ。(第25・26句)

このように言って、不遇な徐幹を、自身も不遇な曹植が慰めているのだと解釈しました。

この解釈が成り立つためには、
徐幹が官界を離れて執筆に専念していた時期と、
曹植が過失を犯した時期とが重なっていることを示さなくてはなりません。
先に、このことについて考えてみたことはあるのですが、
(他にも「徐幹」でサイト内検索してみていただければ幸いです。)

読み返してみると、今ひとつ根拠薄弱です。
困ったものです。

2020年4月10日

訳注という営為

こんばんは。

授業の開始が二週間遅れとなったのを幸い、
今日も一日、曹植作品(「贈徐幹」詩)の訳注作業に没頭していました。
(たぶん明日には公開できるかと思います。)

この作品は、ここでも何度か取り上げたことがあるのですが、
改めて訳注稿を作成していると、新たに気づかされることも出てきました。

訳注という営為は、自分を無くして、対象に没入するものだと私は思っています。

ところが、この作品については曹植のガードが固くて、なかなか懐を開いてもらえません。
相手に没入して、ほとんど当人になったような状態で訳するということができない。
そうなると、自分の予断等は捨て去った上で、相手と対話することになります。

典故の指摘を旨とする李善でさえ、語句をかみ砕くような解釈を付けているほどです。
それほど分かりにくい作品なのだということでしょう。

でも、面白いことに、こうなっては李善の解釈も、これに柔順に従う必要はなくなります。
典故の指摘については、いつもと同じくありがたく教えていただきますが、
それでも中には疑問を感じる指摘がないではなかったりします。

先行する注釈を介さずに、直に曹植と向き合うのは、
苦しいけれど、ものすごく面白いです。

それではまた。

2020年4月9日

意図的な編集か

おはようございます。

昨日訳注を公開した曹植「贈丁儀」詩について、
初唐の李善が、別集では「与都亭侯丁翼」と題されていたことを記しています。
(『文選』巻24所収の本詩に対する李善注)

丁儀・丁翼(廙)兄弟の事蹟については、
『三国志』及びその裴松之注に引く諸文献からも多くを知ることができません。
巻21・王粲伝(文人たちの伝)に簡単な言及が見えるほか、
先にも紹介したとおり、巻19・陳思王植伝、及びその裴注に引く『魏略』『文士伝』に、
また、丁儀の名は、巻21・劉廙伝、巻22・衛臻伝、及びこちらで言及した諸伝に見えるくらいです。
そんなわけで、この史料では、丁廙が都亭侯を務めたことやその時期は確認できません。

ともあれ、この詩の贈り先に“揺れ”があるということは確かです。

他方、『文選』巻24所収詩の排列を見ると、
「贈徐幹」「贈丁儀」「贈王粲」「又贈丁儀王粲」「贈白馬王彪」「贈丁翼」と並んでいて、
「贈丁儀」の置かれた位置はかなり前寄りです。

作者の排列は、年代順だと李善は捉えていますが(『文選』巻20、曹植「公讌詩」の注)、
同種の作品内での排列も、基本的には年代順でしょうか。

あるいは、『文選』がある既存の作品集からまとめて採録する場合、
その作品集における排列がそのまま踏襲されると考えることができるでしょうか。

もしそうだすると、
六朝末の段階で、「贈丁儀」詩はかなり早期の作だと見られていたことになります。

ですが、詩中における天候描写と、当時の常識である天人相関説とを考え合わせると、
どう見ても本詩は、曹操が存命中の建安年間の作とは考えにくいのです。
(昨日も示した拙論や訳注稿に示したとおりです。)

そこで考えてみたのですが(以下は、まったくの想像です)、
もしかしたら「贈丁儀」詩は、

その過激な内容ゆえに、詩の成立した背景が隠蔽された可能性はないでしょうか。
曹植は魏朝のある時期までは罪人扱いで、明帝の末年になって名誉回復が為されました。
その際、曹植がこれ以上の罪を蒙ることがないように、
その別集に意図的な編集の手が加えられたのかもしれないと考えたのですが、どうでしょう。

2020年4月8日

理解に苦しむ曹植詩

こんばんは。

先ほど、「贈丁儀」詩の訳注稿を公開しました。
ふと目を挙げると、窓の外におおきな円い月がのぼっていました。

三五夜中新月の色、二千里外故人の心。*
月を見て思いを馳せるのは、この「故人」(古くからの友人)ばかりか、
「古人」でもあるのだと、ふと強烈に思いました。
同じ月を、凡そ千八百年ほど前の曹植も見ていたはずです。

さて、本詩は以前にも論じたことがありますが(こちらの学術論文№34)、
今もよくわからない部分を残す、非常に難解な作品です。
そのわからなさというのはこういうことです。
(実は前にも言及したことがあるのをすっかり忘れていました。あらためまして。)

この作品は、詩中で手厳しい為政者批判を繰り広げていますが、
その矛先は、後漢末の献帝でも、魏王たる父曹操でもなく、
魏王を継いだ、兄の曹丕に向けられていると判断するほかありません。

ただ、そうすると、
曹丕に殺されることが目前に迫っている丁儀に対して、
「子(そなた)は其れ爾(なんぢ)が心を寧(やす)んぜよ、親交 義 薄からず」などと、
悠長なことを言って慰めている曹植のことが理解できないのです。

曹植は、丁儀が置かれた状況を把握できていなかったのでしょうか。
兄曹丕との関係を、骨肉の信頼関係で結ばれていると安心しきっていたのでしょうか。
そうすると、あの辛辣な為政者批判は何だったのか、わからなくなります。
あれだけ非難しても許される間柄だと甘えていたのでしょうか。

拙論や訳注稿とともに、ご一考いただければと思います。

それではまた。

*白居易「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」(『白氏文集』巻十四、〇七二四)

2020年4月7日

論の競作

こんばんは。

これまでに何度か言及してきたように、
たとえばこちらなど。よろしければサイト内検索もどうぞ。)
周公旦という人物は、曹植にとって生きる上での指針、理想的古人でした。

この周公旦に多く言及する文章として、
「成王漢昭論」(丁晏編『曹集詮評』巻9)があります。

趙幼文『曹植集校注』巻1は、
この題目を「周成漢昭論」と訂正すべきであると指摘します。
いずれも幼くして即位した、周の成王と漢の昭帝とを合わせ論じた評論、の意です。
(たしかに、こちらの方がバランスがよいです。)
趙幼文氏は、この判断の根拠として、
曹丕・丁儀に「周成漢昭論」と題する文章があって(『藝文類聚』巻12、『太平御覧』巻89)、
これらと、先に挙げた曹植の「論」との関連性を挙げています。

この時代の宴席では、実に様々な文芸活動が行われていましたが、
そうした活動のひとつとして、この論題のような歴史談義も行われていたでしょう。

以前、五言詠史詩の生成過程を論じて、
宴席で行われていた歴史故事の語り物(もしくは演劇)に加えて、
『文選』巻21所収の、「三良」を詠じた詠史詩のように、
歴史に材を取る談論も、その素材となっていったであろうことを述べましたが、
(こちらの学術論文№42をご覧いただければ幸いです。)
彼らの「周成漢昭論」も、それと同様な生成経緯をたどって誕生したのかもしれません。
片や論、片や五言詩ですが、生成の場が同じではないかということです。

この三篇の「論」は、もしかしたら同じ機会に作られたのではないか。
もしそうだとすると、作者たちの居合わせた場というものに、
なかなか興味深いものを感じます。

『三国志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く『魏略』によると、
曹丕は、父曹操がその娘(曹丕の妹)を丁儀に嫁がせることに異議を唱え、
丁儀は、このことで曹丕に恨みを持っていたといいます。
丁儀は、親密な間柄である曹植を、曹操の後継者として強く推しましたが、
それには、上述のような経緯も深く絡んでいたと思われます。

そんな三人が一堂に会して談論を繰り広げるようなことがあったとするならば。
建安文壇のスリリングな一断面を想像して慄きますが、
ともあれ、まずその本文を読んでから改めて考えたいと思います。

それではまた。

2020年4月6日

 

 

特定の宛先の有無により

本日、曹植「贈丁廙」詩の訳注を公開しました。

先にも述べたとおり、この詩は「箜篌引」との間にいくつかの類似句を持っています。

このたび、サイト内検索ができるようになりました。
(アプライドの濱田様、ありがとうございます。)
パソコンなら画面の右上に、iPad等なら上の方に、検索の窓が開いています。
もしよかったら「丁廙」「箜篌引」といったキーワードで検索してみてください。

両作品は、非常に近い時期、もしかしたら同じ機会に作られたのかもしれません。

ただ、双方を比較してみると、
不特定多数の人々に受容されることを想定した楽府詩と、
ある特定の人物に向けて贈られた徒詩との違いが見えてくるようです。

両作品とも、側近に対する曹植の苦言めいた言葉を織り込んでいるのですが、
「箜篌引」の方は、古典をひねって諧謔を交えたような言い方で、
「贈丁廙」の方は、真摯に相手に語りかける口調です。

なお、曹植は、誠実さと冗談好きとをあわせ持つ人であったようで、
たとえば、丁廙(字は敬礼)に宛てた書簡「与丁敬礼書」(『曹集詮評』巻8)の中には、
「大笑いしながら言辞を吐く」といった表現が見えています。

それではまた。

2020年4月3日

昨日の続き

曹植の宴の楽府詩「箜篌引」は、
西晋王朝においては「野田黄雀行」のメロディで歌われました。

この「野田黄雀行」という楽曲は、
王僧虔「技録」(『楽府詩集』巻36に引く)には「瑟調」として記録されていますが、
『宋書』楽志三には、「大曲」として収録されています。
こちらの「楽府関係年表」をご参照ください。)

「大曲」は、広義の「清商三調(平調・清調・瑟調)」に含まれると見てよく、
「清商三調」は、西晋の荀勗が、漢魏の旧歌辞から選定したものである、
よって、「大曲」に属する歌辞の選定やアレンジは、荀勗の手になるものである、
とこれまで考えてきましたが、本当にそう言えるでしょうか。

こちらの「漢魏晋楽府詩一覧」をご覧ください。

『宋書』楽志三に「大曲」として収録された歌辞十五篇は、
『楽府詩集』などに引用されて伝わる「荀氏録」には全く言及が見えません。

他方、同じ『宋書』楽志三に「平調」「清調」「瑟調」として収録される歌辞は、
「荀氏録」に記されたところと多く重なり合っています。
(「荀氏録」所収歌辞の方が、集合体としては大きいですが。)

このことを改めて確認して、少し青ざめました。

ですが、後から考えるに、
『宋書』楽志にいう「大曲」が、現存する「荀氏録」と一篇も重ならないということは、

荀勗が「大曲」の選定をしたのではないということの証明にはなりません。
そのことを記した部分がまるごと、今に伝わっていない可能性も考えられるでしょう。

それではまた。(迷走中)

※「大曲」については、鈴木修次『漢魏詩の研究』(大修館、1967年)p.160,165,211,223,224など、増田清秀『楽府の歴史的研究』(創文社、1975年)p.89―96に詳しい論及がある。

2020年4月2日

鎮魂歌となった宴の歌

本日、「野田黄雀行」の訳注を公開しました。
その第3・4句「利剣不在掌、結友何須多」は論者によって解釈が分かれますが、
私は、大上正美『思索と詠懐(中国古典詩聚花)』(小学館、1985年)に多く拠りました。
伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)とは異なる捉え方です。

さて、過日訳注を公開した「箜篌引」は、
西晋王朝の宮中で、この「野田黄雀行」の曲でも歌われました。
『宋書』巻21・楽志三に収録する「野田黄雀行・置酒」の楽府題の下に、
「箜篌引亦用此曲(「箜篌引」は亦た此の曲を用ゐる)」と記されているとおりです。

では、「箜篌引」はなぜ、「野田黄雀行」のメロディで歌われたのでしょうか。

これは、もともとこのように多彩な演奏様態が取られていたのではなく、
西晋の荀勗によって、このようなアレンジが加えられたと見るのが妥当だと考えます。

以前にも触れたとおり、『宋書』楽志三にはこうあります。

清商三調歌詩  荀勗撰旧詞施用者(荀勗の旧詞を撰して施用する者なり)。

そして、「箜篌引」すなわち『宋書』楽志三所収の大曲「野田黄雀行・置酒」は、
ここにいう「清商三調歌詩」の中に含まれるものと見られます。

明確な論拠を示すことができるかわかりませんが、
もしかしたら荀勗は、宴席の情景を詠じた「箜篌引・置酒高殿上」を、
「野田黄雀行・高樹多悲風」の文脈で捉えなおそうと企図したのかもしれません。

西晋の荀勗の時点からは、曹植の宴席に集った人々の末路はすでに見えています。
その宴席風景を「野田黄雀行」のメロディで歌うとはどういうことか。

詩中の人々、そしてその詩の作者も未だ感知していない悲劇的な未来。
「箜篌引」の歌辞が「野田黄雀行」のメロディで歌われるのを聴く西晋王朝の人々は、
このことを悲痛とともに思い起こさずにはいられなかったはずです。

荀勗のこのアレンジは、曹植に対する鎮魂の意味を帯びていたかもしれません。
曹植「七哀詩」をアレンジした楚調「怨詩行」と同様に。)

「箜篌引」や「野田黄雀行」の具体的な内容は、訳注稿の方をご覧ください。

それではまた。

2020年4月1日

 

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