遠くの人と未来の自分に

こんにちは。

またしばらく間が空きました。
このところ、息継ぎもしないで向こう岸まで泳ぎ切るような日々で、
(これはひとえに自分の時間配分の甘さから来たものです。)
授業(通常の授業に加えてのもの)のひとつひとつを終えることで精一杯でした。

そのいずれもが、かつて考え、論文にもしたことがあるテーマなのに、
準備をしていると、細かいところが蘇ってきて新鮮で、二度楽しむことができました。

今日は、そうしたテーマの中から、
厳島神社に一子相伝で伝わる舞楽「抜頭」の渡来経路について、一部を簡単に紹介します。

「抜頭」は、もとをたどれば西域に出自を持つ唐王朝の散楽で、
それを日本にもたらしたのは、林邑国(チャンパ)の仏哲という人物です。

仏哲は衆生を救おうと、如意珠を求めて海に船出し、難破します。
そこへ通りかかったのが、文殊菩薩に会うため中国五台山を目指していた南インドの釈菩提でした。
菩提は仏哲を伴って中国入りしましたが、文殊菩薩は五台山ではなく日本にいると聞きます。
落胆していたところに通りかかったのが、帰国する日本の遣唐使たちでした。
かくして、菩提と仏哲の二人は、遣唐使一行とともに、天平八年、日本にやってきたのです。

さて、仏哲が「抜頭」を伝えたことについて、『元亨釈書』巻15にはこうあります。

本朝楽部中有菩薩・抜頭等舞、及林邑楽者、哲之所伝也。
本朝の楽部の中に、「菩薩」「抜頭」等の舞、及び林邑楽があるのは、仏哲が伝えたものである。

つまり、「抜頭」は、仏哲の祖国林邑の音楽とは別物として記されています。
そして、「抜頭」は『通典』巻146その他、中国側の資料に、散楽として記されています。

では、仏哲は、この唐代の散楽「抜頭」に、どこで出会ったのでしょうか。

唐代の仏教寺院では、「抜頭」等の戯が盛んに行われていました。
また、民間の各地には、諸州から献上され、王朝の音楽機関から溢れた芸人たちが大勢いました。

すると、菩提に伴われて、中国大陸のかなりの距離を移動した仏哲は、
その旅の途上で、この「抜頭」を目にし、習い覚えたのではないかと考えられます。

なお、彼の祖国林邑でも、「抜頭」の原型である舞が行われていた可能性はあります。
西域と地続きのインド、そのインドと林邑とは海路でつながっているので。
ですから、中国で「抜頭」を目にした仏哲は、これを懐かしいと感じ、
とても自然にその所作を身につけたかもしれません。

「抜頭」が日本に伝わったのは、実にいくつもの偶然が重なった結果だと言えます。
この貴重な舞を、厳島神社では今に至るまで大切に継承してきました。

もしよろしかったら、詳しくはこちら(学術論文№26)をご覧ください。

2020年6月4日

仮託の検討(再び)

こんばんは。

曹植「雑詩六首」其三に歌われた遠征中の夫について、
先日は、呉に出兵した曹丕を暗に指すとする黄節の説を紹介しつつ、
別に、呉に出征した曹操を夫に仮託したと見ることも可能ではないかと述べました。

その後あれこれと考えた挙句、やはり曹操ではないだろうと思い始めています。
その理由は次のとおりです。

まず、兄弟を夫婦に喩えることはあり得ます。
たとえば、曹植「七哀詩」にいう「君若清路塵、妾若濁水泥」について、
「君」は曹丕を、「妾」は曹植を指すとする解釈が大方の賛同を集めていますし、
西晋の宮廷歌曲「怨詩行」は、この詩をそう解釈してアレンジした楽府詩だと見て取れます。*

他方、父子関係を夫婦に喩えるのはどうなのでしょうか。
圧倒的な上下関係にある父子が、夫婦という一対になぞらえられるものなのか、
このあたりのところがよくわかりません。

また、夫を曹操の仮託と見る仮説の一根拠として、
この詩に詠われた、樹木の周りをぐるぐると飛翔する鳥の姿が、
曹操の「短歌行」に見えるフレーズを想起させるということも挙げたのでしたが、
ほぼ同じ辞句が、明帝曹叡の「歩出夏門行」(『宋書』巻21・楽志三)にも見えています。
この「歩出夏門行」の歌辞は、すべて明帝曹叡の手に出るのか、
西晋の宮廷歌曲に採られた際に、曹操「短歌行」の句がその中に取り込まれたのか、
あるいは、曹叡や曹操といった個人のみには属さない、広く愛唱された歌辞であったのか、
いずれにせよ、樹木の周りを飛ぶ鳥のイメージは、曹操にのみ結び付けられるべきものではない、
となると、先に試みた仮説は根拠薄弱なものとなってしまいます。

やっぱり黄節のいうように、南方にいる君とは曹丕のことを詠じているのでしょうか。
それならば、曹植の中で、曹丕に対する気持ちのあり様が変化したということかもしれません。
曹植の他の作品をもっと読み進めながら、もうしばらく考察を続けます。

なお、人は本質的に変わらない、とも言いますが、変わり得ると私は思っています。

2020年5月29日

*拙論「晋楽所奏「怨詩行」考 ―曹植に捧げられた鎮魂歌―」(『狩野直禎先生追悼三国志論集』汲古書院、2019年9月)を参照されたい。(こちらの学術論文№43

仮託の有無

こんばんは。

昨日、曹植「雑詩六首」其三には仮託するところがあるだろうと述べました。

しかしながら、この詩は古詩への接近度が非常に高く、
ひとつの遊びとして擬古的に作ってみせたものである可能性も否定できません。

それでは、自分はなぜこの詩を前述のように捉えたのか。
その感じ方の出所を探ってみたところ、かなり明瞭な根拠が浮かび上がってきました。

それは末尾の次の二句です。
「願はくは南流の景(ひかり)と為りて、光を馳せて我が君に見えんことを。」

ここに詠じられた君は、なぜ南方にいるのでしょうか。
この要素は、古詩の中には見当たりません。

また、「願為……」という措辞は、
多くの古詩では、鳥になりたいと詠うのであって、
自らが太陽の光になりたいと詠う本詩の詩想は突出しています。

なぜ南方の君なのか、なぜ光になりたいのか。

本詩が放つこの独特の輝きは、
本詩を戯作的な擬古詩と捉えている限り、
その由来するところを明らかにすることはできません。

だから、この詩の背後には何か隠された主題がある、と感じたのだとわかりました。

2020年5月28日

南方の君とは

こんばんは。

本日、曹植「雑詩六首」其三の訳注稿を公開しました。

生き別れになった夫を思う女性の心情を詠じる、漢代の古詩には常套的な内容に加えて、
古詩に頻見する特徴的な表現を散りばめた、擬古詩的な作品です。

黄節は、南方の呉へ遠征している曹丕を思って作られた詩だと解釈しています。*1
この推測は、次の2点を根拠とするものでしょう。
まず、本詩の内容が、南方にいる人への強い思慕を詠じているということ、

そして、曹丕が南方の呉に出征したという歴史事実があるということです。

もし、同様な論法でいくならば、
南方の呉へ出征した曹操を思って作った詩と解釈することも可能です。
というのは、曹植が父曹操を非常に敬愛していたことに加え、
次のような歴史的事実があるからです。

建安19年(214)7月、曹操は呉へ出兵するに当たって、曹植を鄴に留め置き、
自身が23歳だったときのことを話して聞かせ、激励しています。(『三国志』巻19「陳思王植伝」)
また、建安21年10月の孫権討伐に当たって、
曹操は曹丕を従軍させていますが、曹植はそれに加わっていないようです。*2

本詩が特定の誰かを念頭において作られたものだとして、
南国にいる君を曹操と比定することは、曹丕とするのと同等の可能性を持つと言えるでしょう。

また、南方の君を曹操と推測した理由のひとつに、
本詩の「飛鳥繞樹翔、噭噭鳴索群」が、
曹操「短歌行」の「月明星稀、烏鵲南飛。繞樹三匝、何枝可依」を想起させることもあります。
訓み下しなどについては訳注稿をご覧ください。

2020年5月27日

*1 黄節『曹子建詩註』巻1を参照。
*2 張可礼『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)p.134、p.145を参照。

現代学生気質

こんばんは。

今日は一日中、授業の準備と事後処理、その他に追われていて、
曹植の作品に一度も触れないまま一日を終えることになってしまいました。
仕事に振り回されるだけの生活になるのは嫌なので、なんとか工夫したいと思います。

さて、学生さんたちのレポートで、ここ何年か非常に目につくようになったフレーズがあります。
「わかりやすい」「伝わる」「見せる」といった、読者を強く意識した言い方です。
(研究論文でも、そうしたアプローチが増えてきている印象があります。)

昨日の授業で取り上げた『史記』についても同様の感想を多く目にしましたが、
出来た当初のそれは正副二部のみ、しかも「後世の聖人君子を俟つ」と記されています。
(『史記』巻130・太史公自序)
来週、このことを追補で述べて、少し驚いてもらおうかと思案中です。

人から評価されることばかりを気にする人生はどうなんだろうと、
振り返るきっかけを古典から得る学生が、一人でも出てくるとうれしいです。

2020年5月26日

 

「雑詩」とは

こんばんは。

曹植「雑詩六首」(『文選』巻29)を読んでいます。
そもそも「雑詩」とは、どのような性格のジャンルなのでしょうか。

他の建安詩人たちの「雑詩」は、
当時においては一般的であった宴席での競作でもなく、
特定の誰かに宛てた贈答詩でもなく、
詩人が集団の場を離れ、一個人としてその心情を詠じたものであって、
その対自性ゆえに、未知の読者にも届き得るものとなったと私は考えています。
(何を言おうとしているのか不分明かもしれません。こちらをご覧いただければ幸いです。)

曹植の「雑詩」の場合はどうなのでしょうか。
目に留まるのは、そこに漢代詠み人知らずの五言詩がよく踏まえられていることです。

其二「転蓬離本根」は、その末尾が『文選』巻29「古詩十九首」其一を彷彿とさせます。
また、其三「西北有織婦」は、「古詩十九首」の其十、其二を強く想起させます。

この時代の文人たちは一般に、詩作において古詩や古楽府をよく用いるのですが、
このことについて、かつて次のように論じたことがあります。*

古詩・古楽府は、漢代の宴席で生成展開してきた文芸である。
建安文人たちの詩作もまた、基本的には宴席を舞台に行われていた。
つまり、創作活動の場という観点からして、建安詩は漢代宴席文芸の直系だと言える。
それゆえ、建安詩に古詩・古楽府が多く踏まえられているのは当然である。

ただ、「雑詩」が古詩的表現を多用するのは、
どうも上述とは異なる文脈から捉える必要があるように感じられます。
同じ漢代詩歌という素材ではあっても、それを用いる理由が違うように思うのです。
更に読み進めながら考えます。

2020年5月25日

拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)第六章第二節「貴族制の萌芽と建安文壇」、初出は、『魏晋南北朝における貴族制の形成と三教・文学(第二回日中学者中国古代史論壇論文集)』汲古書院、2011年)。

曹植から見た魏王朝

こんばんは。

曹植「雑詩六首」其一(『文選』巻29)について、
過日は、詩中になぜ南方にいる人が詠じられているのかという点に着目し、
この詩が「贈白馬王彪」詩とその成立背景を共有している可能性を指摘しました。
今回は、本詩の冒頭「高台多悲風、朝日照北林」について、気づいたことを記します。

「高台に悲風多し、朝日は北林を照らす」とは、何を象徴しているのでしょうか。
この時代の詩ですから、まず純然たる叙景とは考えられません。

『文選』李善注は、次のような解釈をしています。
「高台」については、陸賈『新語』を援用しながら、それを京師(都)の喩えだとし、
「悲風」は教令、「朝日」は君主の聡明さ、「北林」は狭い所に集う小人を象徴するとしています。
どうもしっくりきません。

そこで調べてみると、
「高台」「朝日」「北林」はいずれも、曹丕の楽府詩に見えるものでした。

まず、曹丕「善哉行」(『宋書』巻21・楽志三)の第一解は、
「朝游高台観、夕宴華池陰(朝に高台観に游び、夕べに華池の陰に宴す)」に始まり、
第四解には「飛鳥翻翔舞、悲鳴集北林(飛鳥は翻翔して舞ひ、悲鳴して北林に集ふ)」とあります。
(「北林」に関しては、「又清河作」(『玉台新詠』巻2)にも見えていました。)

また、別の「善哉行」(『宋書』巻21・楽志三)の第一解にはこう見えています。
朝日楽相楽、酣飲不知酔。悲絃激新声、長笛吐清気。
(朝日楽しみて相楽しみ、酣飲して酔ひを知らず。悲絃は新声を激しくし、長笛は清気を吐く。)

曹丕のこの二首の「善哉行」は、いずれも見てのとおり宴の詩です。
曹植はそれまでに、曹丕のこれらの歌辞が歌われるのを耳にしたことがあったでしょう。
曹植「雑詩」の冒頭句は、これを踏まえて成ったものではないでしょうか。
ならば、それは君臣が相集う朝宴を想起させるものとなります。

そして、曹植は、そうした場を「悲風多し」と描写しているのでした。

この「高台多悲風」という冒頭句は、
彼の「野田黄雀行」(『楽府詩集』巻39)の第一句「高樹多悲風」と瓜二つで、
この楽府詩は、魏王曹丕による丁儀丁廙兄弟の処刑を背景とする、とみる説が有力です。
「雑詩」其一もまた、魏王朝の犠牲者(曹植自身を含む)に心を傷める詩だと読めるように思います。

2020年5月23日

出門の詩の原型

こんばんは。

先日来見てきた城門を出ることを詠う詩、
その原型は、古詩「駆車上東門」が顕著に示しているように、
城郭に囲まれた街を出て、郊外の墳墓を眺めやるという型だったのではないでしょうか。

以前に取り上げたことのある古楽府「梁甫吟」も同じ構造を取っていました。

『文選』巻29「古詩十九首」其十四「去者日以疎」にも、次のような句が見えています。

出郭門直視  城郭の門を出てまっすぐに前方を見つめると、
但見丘与墳  そこにはただ墳墓が見えているだけだ。
古墓犂為田  古い陵墓は鋤かれて田畑となり、
松柏摧為薪  陵墓に植わっていた松柏は砕かれて薪となってしまった。……

また、古楽府「古歩出夏門行」は、
伝存する断片のいずれもが、死の影を色濃くまとっています。
『文選』李善注に引くところから挙げるならば、
「市朝人易、千載墓平(市朝に人は易はり、千載墓は平らかとなる)」(巻28、陸機「門有車馬客行」注)、
「白骨不覆、疫癘淫行(白骨は覆はれず、疫癘は淫行す)」(巻20、潘岳「関中詩」注)のように。

その一方、門を出て、人々の集う場所を見やることを詠う詩歌があります。

古楽府「長歌行」(『楽府詩集』巻30)にいう、
「駆車出北門、遥観洛陽城(車を駆りて北門を出で、遥かに洛陽城を観る)」がそれです。

建安詩の中にも、たとえば、劉楨の「贈徐幹」詩(『文選』巻23)に、
「歩出北寺門、遥望西苑園(歩みて北寺の門を出で、遥かに西苑の園を望む)」、
曹丕「於明津作詩」(『藝文類聚』巻27)に、
「駆車出北門、遥望河陽城(車を駆りて北門を出で、遥かに河陽城を望む)」と見えています。

こうした詩想は、先に挙げたものよりも後に出現したのではないか、と私は考えます。

門を出て望む対象が、生きた現実世界であるこれらの辞句は、
いずれも詩歌の途中に出てくるのであって、作品世界の基調を為す冒頭句ではありません。
人口に膾炙したフレーズを、詩想の流れに組み入れただけのように感じるのです。

ところで、阮籍の出門の詩に、この後者のタイプはあっただろうか。
彼における詩作の動機は、多くの場合、現世からの脱出であったように思います。
そうしたモチーフが繰り返し現れるということは、
彼が繰り返し世俗に引き戻されていたということに他ならないのですが、*
その、現実世界に回帰するベクトルは、詩に詠じられることはなかったということでしょうか。

2020年5月21日

*大上正美「阮籍詠懐詩試論―表現構造にみる詩人の敗北性について―」(『漢文学会会報(東京教育大学漢文学会)』第36号、1977年。創文社、2000年刊『阮籍・嵆康の文学』に収載)は、これを「圧倒的優位の現実を前に表現が宿命として持つ構造的な敗北性」と論じている。

 

門を出てから(補記)

こんばんは。

車を駆って上東門を飛び出し、
城北に横たわる陵墓群を眺めやると詠ずる古詩「駆車上東門」、

これを明らかに踏まえると見られる阮籍の「詠懐詩」其九・其六十四について、
昨日、そこに詠われた「首陽」は、魏の文帝が眠る首陽陵を想起させる、と述べました。

ですが、これはちょっと言いすぎました。
といのは、少なくとも其九は、首陽山が喚起するもう一つの強いイメージ、
周の武王に抵抗してこの山に隠棲し、餓死した伯夷叔斉の姿を情景の一部に描きこんでいるからです。
周の武王が魏の文帝に重なるとはいえ、直接的に首陽陵を詠じているわけではありません。

他方、其六十四の「詠懐詩」は、
「首陽の基」を「松柏は鬱として森沈たり」と描写し、
松柏といえば陵墓に植える常緑樹なので、これは明らかに首陽陵を指すでしょう。

魏の文帝曹丕が崩御したのは、阮籍が17歳の時、
後漢王朝の禅譲を受けて、曹丕が魏の文帝として即位したのは、阮籍が11歳の時、

そして、曹植が亡くなったときは23歳、明帝曹叡が亡くなったときは30歳。
こちらの「阮籍関係年表」をご参照ください。)

つまり阮籍はその青少年期、魏王朝が内部から崩壊していく様を目の当たりにしていたわけです。

阮籍と同世代で、交友関係もあったらしい袁準は、
その著書『袁子』の中で、曹丕の弟たちに対する仕打ちを批判していますが、
王朝衰退の原因をこうした視覚から鋭く切り込む見方は、
あるいは阮籍も共通して持っていたものであるかもしれません。

2020年5月20日

 

門を出てから

こんばんは。

門を出て遠くを望むというフレーズは、漢魏の詩歌には散見するもので、
魏末を生きた阮籍の五言「詠懐詩」の中にも、たとえば次のような句が見えています。

歩出上東門 北望首陽岑  歩みて上東門を出で、北のかた首陽の岑(みね)を望む。(其九)*1
朝出上東門 遥望首陽基  朝に上東門を出で、遥かに首陽の基を望む。(其六十四)

「上東門」は後漢の都洛陽に実在した門の名で、
『文選』巻二十九「古詩十九首」其十三にもこう詠われています。*2

駆車上東門  車を駆って上東門から街を出て、
遥望郭北墓  はるかに遠く、城郭の北に横たわる陵墓群を眺めやる。

また、阮籍詩にいう「首陽」は、この古詩にいう「郭北墓」に重なると見ることができます。
というのは、首陽山の南麓には、魏の文帝曹丕の陵墓がありましたから。

こうしてみると、阮籍の詩が古詩「駆車上東門」を踏まえていることは間違いないでしょう。
上東門という固有名詞の共有や、
門を出た先に望み見るものが死者のすむ陵墓であるということ、
更に、この特徴的な措辞が、詩の冒頭に置かれているという点でも一致しています。*3

ところが、同じ阮籍の「詠懐詩」其三十は、
詩の冒頭で門を出たあと、何ものをも眺めやるということがありません。

駆車出門去  車を駆って門を出てゆき、
意欲遠征行  遠いところへ旅に出ようと思った。
征行安所如  遠く旅に出て、どこへたどり着こうというのか、
背棄夸与名  虚ろな名誉など後ろへ投げ捨てるのだ。
……

「駆車」して門を出ているところから、
この詩もまた、古詩「駆車上東門」を念頭に置いていたかと思われます。

ですが、門を出た後に見えてくるはずの風景は見えず、
代わって詠じられるのは、捨て去ってしまいたい現実ばかりです。
原型をほとんど留めていない、いや原型など最初からなかったかのような生々しさです。

2020年5月19日

*1 作品番号は、黄節『阮歩兵咏懐詩注』(中華書局、2008年)に拠った。
*2 古詩「駆車上東門」は、後漢初期の作と推定できる。古詩の成立年代については、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)の第一章から第三章を参照されたい。
*3 阮籍「詠懐詩」其九と古詩との関係については、前掲『漢代五言詩歌史の研究』の終章で論じたことがある。→こちらにその一部を挙げておくのでよろしかったらどうぞ。

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