陸機と曹植(追記)

こんばんは。

昨日述べたことについて追記です。

陸機「贈馮文羆」詩の「昔与二三子」という句について、
李善注は、曹植「贈丁廙」詩にいう「吾与二三子」との類似性には言及せず、
ただ「已(すで)に上文に見ゆ」と記すのみです。
この場合の「上文」とは、同じ『文選』巻24所収の曹植「贈丁廙」について言います。
李善注の通例として、これは既出の注を再利用する場合の言い方です。

ということは、李善は、曹植詩に注した『論語』述而篇を、陸機詩にも当てはめて見ている、
つまり、曹・陸の二人はそれぞれに『論語』から詩語を引き出してきたのであって、
陸機が曹植の表現を踏まえたとは捉えていないということになります。

同じことは、先にも言及した阮籍「詠懐詩」に見える「磬折」についても言えます。
(『文選』巻23所収十七首の、第四首「昔日繁華子」、第十四首「灼灼西隤日」)
そこでもやはり李善は曹植「箜篌引」には言及せず、
「箜篌引」に対して注したのと同じ『尚書大伝』を注に挙げているだけです。

富永一登氏の所論は、*
李善が、表現の継承関係に対して実に緻密な注を施していることを詳述していますが、
『文選注』全六十巻の中で精粗のばらつきはあって当然かもしれません。
あるいは、彼我の解釈の違いなのかもしれません。

富永氏によるこの先行研究は、
『文選』李善注の中で最も多く引用されている個人の作品は曹植の詩文であることを示し、
また、李善が曹植作品を注する作品の数が多い作者たちを列記しています。

私は、「曹植の言葉の継承」という問題意識は共有しつつも、
文人相互の共感に根差した語句の継承、という視点から考察したいと考えています。
そのあたりのところは、あるいは李善も見落としている可能性があります。

*富永一登「『文選』李善注の活用―注引曹植詩文から見た文学言語の継承と創作―」(『六朝学術学会報』第4集、2003年)。なお、訳注稿「04-12 贈丁儀王粲」の語釈に、この富永論文によって新たに気づかされたことを追記した。

2020年4月22日

陸機と曹植(続き)

こんにちは。

陸機と曹植との表現上のつながりについて、先にも少し言及したことがありますが
それに加えてもう一つ、次の事例をここに書きとめておきます。

陸機「贈馮文羆(馮文羆に贈る)」(『文選』巻24)の冒頭、

昔与二三子  その昔 心を許したそなたたちと、
游息承華南  承華門南の東宮で、ゆったりと過ごしたことがあった。

この表現は、曹植「贈丁廙」の、次に示す句を想起させます。
(詳細はこちらの訳注稿をご参照ください。)

吾与二三子  私は気心知れた二三の友人たちと、
曲宴此城隅  この宮城の片隅で内輪の酒宴を設ける。

両詩には、「与二三子」というフレーズが共通して用いられています。

「二三子」は、『論語』述而篇に出る語ですが、
意外にも、現存する漢魏晋南北朝詩の中で、それほど多くの用例は認められません。
そして、その上に「与」を置く例となると、前掲の両詩のみです。

陸機詩の贈り先である馮文羆は、陸機と同じく呉の人で、
西晋王朝という異郷に出仕してから、いよいよ同郷どうしの仲を深めたと見られます。

一方、曹植が詩を贈った丁廙や、その兄の丁儀らは、
曹植の才能を高く評価し、魏王曹操の後継者として彼を強く推した人々で、
彼らはこのことにより、曹魏政権内でやや特殊な一派を形成することとなりましたが、
そうした側近たちに対して、曹植は常に友として厚遇する姿勢を保ち続けました。

陸機は、特別なきずなで結ばれた同郷の士を思うとき、
曹植を自身に重ねていたのかもしれません。

なお、南朝後期の江淹(444―505)「雑体詩三十首」(『文選』巻31)は、
曹植詩に模した「陳思王」の題下に「贈友(友に贈る)」と記し、
その詩中には「眷我二三子(我が二三子を眷る)」という句を含んでいます。
いかにも曹植らしい表現として、江淹も「二三子」という語に注目していたのでしょう。

2020年4月21日

陸機と曹植

こんばんは。

『文選』巻24、曹植「贈白馬王彪」詩の、
冒頭「謁帝承明廬(帝に謁す 承明の廬)」に対して、
李善注は、陸機の『洛陽記』から、次のような記述を引いています。

承明門、後宮出入之門。
吾常怪「謁帝承明廬」、問張公、
云「魏明帝在建始殿朝会、皆由承明門。」*

承明門は、後宮への出入口の門である。
私は常々、「謁帝承明廬」に関して疑問に思っていたので、張公に問うと、
「魏の明帝が建始殿で朝会を開くとき、参列者はみな承明門を通って入ったのだ」と言われた。

西晋文壇を代表する陸機(261―303)は、三国呉の名門士族の出身。
祖国が西晋に敗れ(280)、故郷で約十年間の研鑽を積んだ後、
三十歳を目前に、かつての敵国に出仕しました。

上文に見える「張公」は、陸機ら呉人に目を掛けた張華(232―300)でしょう。
張華は、西晋王朝の重臣であり、文壇の領袖でもありました。

ここに示された陸機の疑問は、
「承明」という名の建築物について、
曹植詩に詠じられた、皇帝への謁見の場としてのそれと、
一般に言われている、後宮への出入り口としてのそれとが結び付きにくい、ということでしょう。
これに対して、張華は先のように答えたのでしたが、
ただ、建始殿での朝見は、明帝以前から行われていたようです(『三国志』巻17・張遼伝ほか)。

さて、上記の文献で私が強く興味を引かれるのは、
呉人である陸機が、魏の曹植の作品によく親しんでいたということです。
その辞句に関する疑問を張華に問うたのは、それを理解したいからこそでしょう。
つまりそれは愛読していたということにほかなりません。

曹植(192―232)は、陸機の祖父、陸遜(183―245)とほぼ同じ時代を生きた人です。
陸機は、どのような思いで彼の作品を読んでいたのでしょうか。

*「在」字、もと「作」に作る。今、『文選』巻21、応璩「百一詩」の李善注に引く同文献によって改める。

2020年4月20日

未解明の境界線を示す

こんばんは。

今日から「贈白馬王彪」詩の訳注作業に入ったのですが、
解題、及びその序で早くも躓いてしまいました。

たとえば、曹彪が白馬王となったのは、
『三国志』巻20「武文世王公伝(楚王彪)」によれば、黄初七年なのですが、
本作品の序には、この詩が成ったのは黄初四年であることが示され、
その詩題にも「白馬王彪に贈る」と明記してあります。

正直、私はこうした考証があまり得意ではありません。
旧中国の学者の注釈書には史実が非常に詳しく記されているので、
それらを手掛かりに、ひとおりの納得がいくまでは調べはするのですが。
思いがけないところから、興味深い考察の種が拾えたりすることもありますし。

もちろん史実の考証だけではなく、語釈でもしょっちゅう頓挫します。
そうした場合は、仕方がないから両論併記です。
先には、語釈は簡潔なのが最上、などと豪語したばかりなのに、
言行不一致が恥ずかしい。

ただ、分かる分からないの分岐点は明記しておきたいと常々思っています。

たとえば、自分が不分明な点を究明したくて、
その道の大家といわれるような方々の本を紐解いてみたところ、
核心部分に近づくと霧に取り巻かれたようになってしまうようなことが結構あります。
そんな時、ここから先は未解明だと明記してくれていたら、と思うのです。

不分明の境界線を引いておく。
そうすれば、後から来た人の役に立てます。

2020年4月17日

恩師の言葉を記すのは

こんばんは。

本日、「贈丁儀王粲」詩の訳注稿を公開しました。
龜山論文のおかげで、私としては納得のいく通釈にたどり着けたように思います。

こうした地味な作業は、時を忘れさせるものがあります。
ただ、それのみに没頭すると、近視眼的になる傾向がないではありません。

遠くと近くと、両方を見ていないと判断を誤ると思います。
視野の狭い人間には、長い歳月を渡ってきた古人の言葉は受け取れないでしょう。
(これは、現在の自分に対する戒めです。すぐいい気になる小人ですから。)

岡村先生は、速読と熟読と、両方大事なんだとおっしゃっていましたが、
この言葉も同じことを意味しているのだろうと思います。

ところで、恩師の言葉を時折ここに書き記すのは、
自分一人の中にしまっておくのはもったいないと考えるからです。
謦咳に接することができた者の使命(大袈裟ですね)として、
それを必要とする誰かのために、そっと書き置いておきたいと思うのです。

ですから、個人的な思い出に浸っているわけではないし、
まして虎の威を借るつもりでもありません。

学術上、いつまでも師弟関係に縛られているのはよろしくない、
とは、他ならぬ岡村先生ご自身のお考えでした。
雑談の中で、つい先生の論文に引っ張られてしまう、と言うと、
言下に、それではだめだ、と顔色を改めておっしゃったことがあります。

学説に従うのではなく、この姿勢をこそ継承したいです。

2020年4月16日

訳注をめぐる雑感

こんばんは。

昨日から、「贈丁儀王粲」詩の訳注に入りましたが、
これもまた困難なことの多い作業です。

まず、成立年代について諸説紛々たる状態であること。
作品世界と現実とを直結させる必要はない、
とは言い切れないのが、この時代の贈答詩です。
生身の人間どうし、リアルに言葉をやり取りしているわけですから。

そうした点で理解に苦しむのは、
曹植の丁儀・王粲に対するものの言い方がかなりぞんざいなこと。
このことについては、先にも先行研究を紹介しました

曹植の詩については、すでに伊藤正文氏の訳注がありますし、
『文選』所収のものなどについては充実した先行研究が多数あります。
それでも、自分で語釈を付け、通釈をしていると、様々な気づきが生まれます。

ところで、
語釈は、簡潔で、要を得たものが最上、
(だから、何を削り、どう圧縮するかで非常に頭を絞ります。)
通釈は、何も足さない、何も引かないのが理想です。
(といっても、言葉の構造上、どうしても逐語的直訳ができない場合もありますが。)

そんな訳注という仕事には、
その人が日頃どれほど努力を重ねているかが歴然と現れる、
と、岡村先生はおしゃっていました。
肝に銘じます。

2020年4月15日

「贈徐幹」詩の再解釈

こんばんは。

先日来「贈徐幹」詩の解釈がどうにも引っかかって落ち着かず、
もう一度、抜本的に考え直してみました。

先に示した(無理のある)解釈はこちらをご覧ください。
また、本詩の訳注稿もあわせてご参照ください。(すでに修正済み)

さて、引っかかっていたのは次の点です。

まず、「弾冠」という語の俗悪なニュアンスが、
徐幹『中論』の、たとえば爵禄篇に示された主張にそぐわないこと。

そして、仮に曹植が徐幹の仕官を望んでいるとして、
そうしたふるまいが、たとえば彼の「贈丁廙」詩に詠じられた、
「世俗の儒者になろうなどと願ってはくれるな」といった言葉と矛盾すること。

もちろん、「贈王粲」詩では、出世を望む相手の気持ちに寄り添っていた曹植ですが、
王粲に対しても、曹操の恩沢を信じるようにと慰めていただけです。

そこで、19句目から22句目を、以下のように捉え直してみました。

才能ある人が打ち棄てられているのは、
人材を推薦する人間に、適切な人事ができないという過ちがあるからだ。
連中はみな、仲間内で相互に推薦をしあっているばかりだ。

つまり、この部分は、徐幹の政治思想に、曹植が共鳴しているのだと捉えたのです。
詩全体の中にこの部分を置いてみると、次のとおり特段の齟齬は生じません。

1~6句目では、叙景を通して天下の情勢を象徴的に述べます。
7~12句目では、宮殿内の情景を詠じながら、曹魏政権内の人的情況をも描き、
対して、13~18句目では、極貧生活の中で執筆活動に専心する徐幹の姿を描きます。
その上で、19~22句目では、腐敗した人事状況を述べて徐幹に共感を示し、
23~26句目で、優れた主君の下、いずれ徐幹の徳が真っ当に認められようと予見します。
27・28句は、相手に対する変わらない情誼を表明する結びの言葉でしょうか。

最後の二句が、今ひとつ感覚として十分に把握できていないのですが、
その他の部分については、少なくとも前の解釈よりははるかにましになったと思います。

訳注稿の方も、上述の内容に沿って手直しをしました。
逐語的な通釈や語釈は、そちらをご覧になっていただければ幸いです。

2020年4月14日

推薦を求める者と求められる者

こんばんは。

またひとつ、追記したいことが出てまいりました。

前回触れた「贈徐幹」詩の解釈に関しては、
先にも紹介したことがある龜山朗氏の所論をぜひご参照ください。*1

すんなりと解釈されることを拒むような詩ですから、様々な視点からの考察が必要です。
特に「和氏」の「愆」については、私の捉え方とは異なる解釈が為されています。

また、余冠英氏の説が、私の解釈と非常に近いことをここに付記しておきます。*2
龜山氏の所論では、やや無理がある説だとされていますが。

さて、本日、曹植「贈王粲」の訳注稿を公開しました。

この詩を改めて読み直しての感想ですが、
建安期の曹植の贈答詩には、ある共通するものが底に流れているように感じます。
顕著なのは、建安文人たちの現実参加に対する意欲の強さと、
彼らに対する曹植の対応のあり様が、詩中、繰り返し現れるということです。
曹植は場合によって、彼らを後押ししたり、戒めようとしたり、姿勢を変えはしますが、
有力者への推挽を求める者と、その求めを受ける者と、
両者のやり取りが見て取れるということでは通底しているように思います。

曹植は、曹操という有力者の息子である以上、
そうした立場に由来する力の行使を否応なく求められていたでしょう。
そのことに対して、二十代の曹植がどこまで自覚的であったのか、興味深いところです。

なお、こうした人間模様は、宴席文芸である漢代古詩には広く認められるものです。
たとえば、『文選』巻二十九「古詩十九首」其四「今日良宴会」など。
建安文壇の、漢代からの継承部分がここに明らかです。

2020年4月13日

*1 龜山朗「建安年間後期の曹植の〈贈答詩〉について」(『中国文学報』第42冊、1990年10月)。
*2 余冠英『三曹詩選(中国古典文学読本叢書)』(人民文学出版社、1985年)p.82―84を参照。

不遇な者からの慰め

こんにちは。

今日、曹植「贈徐幹」の訳注稿を公開しました。

それから、徐幹の足跡に関する先行研究を、こちらに追記しました。

以前、徐幹の没年の問題をめぐって右往左往したことがありますが、
興膳宏編『六朝詩人伝』(大修館書店、2000年)の、
林香奈氏による「徐幹」の項の注に、非常に詳しく説明が為されていました。

身近にあるのに、これを開いてみることに気づけなかった。
ほんとうに恥ずかしい限りです。(実は、少なからず落ち込みました。)

他にも同じような不備が至るところにあるだろうと思います。
(ものを知らないことでは人後に落ちませんから。)
何かお気づきのことがあれば、お知らせいただけるとありがたいです。

*「連絡先」にフォームを設けました。
  お返事のため、メールアドレスだけは正確にお願いいたします。

さて、「贈徐幹」詩は比喩が難解で、
それだけに解釈の分かれるところが多々ありますが、
なかでも特に先行研究とは少しく異なる考えに至ったのは次の点です。

6句目「小人」、20・22句目「和氏」、21句目「知己」は、すべて曹植を指す。
23・24句目「良田」「膏沢」は、主君(曹操)の徳ある恩恵をいう。

つまり、以下のように捉えたのです。

曹植自身も、自身の過失に起因する不遇な状態にある。(第20句)
そのため、徐幹をその才能にふさわしい官職に推薦することができない。(第22句)
だが、主君は豊かな恩沢を施してくれるはずなので、(第23・24句)
その持てる才能を磨き続ければ、いずれは世に認められる時が来るはずだ。(第25・26句)

このように言って、不遇な徐幹を、自身も不遇な曹植が慰めているのだと解釈しました。

この解釈が成り立つためには、
徐幹が官界を離れて執筆に専念していた時期と、
曹植が過失を犯した時期とが重なっていることを示さなくてはなりません。
先に、このことについて考えてみたことはあるのですが、
(他にも「徐幹」でサイト内検索してみていただければ幸いです。)

読み返してみると、今ひとつ根拠薄弱です。
困ったものです。

2020年4月10日

訳注という営為

こんばんは。

授業の開始が二週間遅れとなったのを幸い、
今日も一日、曹植作品(「贈徐幹」詩)の訳注作業に没頭していました。
(たぶん明日には公開できるかと思います。)

この作品は、ここでも何度か取り上げたことがあるのですが、
改めて訳注稿を作成していると、新たに気づかされることも出てきました。

訳注という営為は、自分を無くして、対象に没入するものだと私は思っています。

ところが、この作品については曹植のガードが固くて、なかなか懐を開いてもらえません。
相手に没入して、ほとんど当人になったような状態で訳するということができない。
そうなると、自分の予断等は捨て去った上で、相手と対話することになります。

典故の指摘を旨とする李善でさえ、語句をかみ砕くような解釈を付けているほどです。
それほど分かりにくい作品なのだということでしょう。

でも、面白いことに、こうなっては李善の解釈も、これに柔順に従う必要はなくなります。
典故の指摘については、いつもと同じくありがたく教えていただきますが、
それでも中には疑問を感じる指摘がないではなかったりします。

先行する注釈を介さずに、直に曹植と向き合うのは、
苦しいけれど、ものすごく面白いです。

それではまた。

2020年4月9日

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