四種類の『詩経』
中国最古の詩集であり、儒教の経典でもある『詩経』は、
かつて四種類のテキストが行われていました。
魯詩、斉詩、韓詩(一昨日の注で触れた三家詩)に加えて、
現在唯一伝存している毛詩です。*1
テキストにより、解釈を異にしている部分もあります。
(王先謙『詩三家義集疏』に詳しい。)
漢代詠み人知らずの五言詩、古詩の原初的作品群の作者たちが学んだのは韓詩、*2
以前触れた、後漢順帝の皇后となった梁妠が学んだのも韓詩、
一昨日紹介した陳喬樅の説によると、曹丕「又清河作」詩が拠ったのは斉詩、
また、陸機「擬行行重行行」が踏まえたのは毛詩であろうことも先に述べたとおりです。
他方、伊藤正文氏は、曹植が学んだのは韓詩だと推定しています。*3
『毛詩正義』の登場により、毛伝・鄭箋の流れが『詩経』解釈の決定版となるまでは、
漢魏晋南北朝時代、斉・魯・韓・毛の四家が並び行われていました。
曹植たちの作品を読む場合、『毛詩』に拠ると意味が通じないこともあり得ます。
このことに注意しておきたく思います。
それではまた。
2020年3月4日
*1 狩野直喜『漢文研究法』(みすず書房、1979年)p.105―115に、詳しくかつわかりやすい解説がある。
*2 こちらの学術論文№21、及び著書№4の第二章第二節を参照されたい。
*3 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)の解説(p.22)を参照。
プロ意識
先日来、研究室の端末の具合が悪く、
これまで普通に使ってきたChinese writerが、
ある日突然、Microsoftの中文入力システムに切り替わっていた。
だから、端末の中に残っているChinese writerをアンインストールして、
言語のオプションとしてMicrosoft Pinyinを正式にダウンロードしようとしたら、
「基本の入力」からして「インストールで問題が発生」と示される、という状態。
現状でもちょっとした入力はできるのですが、
Chinese writerとMicrosoft Pinyinでは入力の操作がかなり違うこともあって、
今とりあえず動いているシステムだが、実は重大な不具合を抱えているのではないか、
それに「問題が発生」を放置しておくのは気持ちが悪い、ということで、
先週末、そして昨日と、学内の専門の方に見ていただきました。
結論としては、「インストールで問題が発生」は解消されなかったのですが、
私としてはとてもありがたく、また、心底打たれました。
なぜこのようなことが発生したのか、
どのような検討が為され、どのような作業が試みられたのか、
詳しく、丁寧に説明してくださったからです。
私にはその内容のすべてを正確に理解することはできなかった。
けれど、そのお話しぶりから、内容の輪郭はおぼろげながら把握できました。
プロフェッショナルを目の当たりにしたと思いました。
振り返って自分はどうなのか。
たとえば、学生たちを相手に授業をするとき、
私は時々、こんな込み入った話をして申し訳ない、と思ってしまいます。
また、学会や研究会などで発言するとき、余計なところに気を使ったりすることもあります。
礼節さえわきまえていれば、本当はプロ意識を全開にしてもよいはずだし、
そうすることは、相手に対する敬意でもあるはずです。
のびのびとそれが全開にできるよう、自分はもっと研鑽をつみたいと思いました。
それではまた。
2020年3月3日
前回の訂正
先に検討した出自未詳の李陵詩について、以下のとおり追記訂正します。
「晨風鳴北林」と詠ずる主体は男性であろう、と、
この句が踏まえる『詩経』秦風「晨風」に依拠して先には推定しました。
それは、この句を見たとき、陸機の「擬行行重行行」(『文選』巻三十)にいう、
王鮪懐河岫 王鮪は河岫を懐ひ、
晨風思北林 晨風は北林を思ふ。
をまず想起したからです。(詳細はこちらをごらんください。)
この対句の下の句は、『詩経』解釈の一派、前漢の毛萇の伝にいう、
先君招賢人、賢人往之、駃疾如晨風之飛入北林。
先君は賢人を招き、賢人は之に往き、駃疾なること晨風の北林に飛び入るが如し。
を踏まえると解釈できます。
そして、前掲の李陵詩にいう「晨風鳴北林」は、この陸機詩の句によく似ています。
だから、先の李陵詩の句について、これを詠じているのは男性知識人だろうと考えたのです。
ですが、『詩経』の「晨風」を踏まえるのはこの詩ばかりではありません。
たとえば、曹丕の「又清河作」詩(『玉台新詠』巻2)には、次のような対句が見えています。
願為晨風鳥 願はくは晨風の鳥と為りて、
双飛翔北林 双つながら飛びて北林に翔らんことを。*
これは、かの「晨風」に出る詩語に加えて、
古詩「西北有高楼」(『文選』巻29「古詩十九首」其五)の結び、
願為双鳴鶴 願はくは双鳴鶴と為りて、
奮翅起高飛 翅を奮ひて起ちて高く飛ばんことを。
という対句の発想を織り交ぜて、
女性の立場から、思いを寄せる相手への思慕の情を詠ずるものです。
こうしてみると、『詩経』秦風「晨風」を踏まえると理由だけで、
李陵詩の「晨風鳴北林」は男性の言葉だ、と言い切ることはできなくなります。
そもそも、古詩の流れを汲む魏晋の五言詩歌では、
男性が女性に成り代わって遊戯的に詠ずる閨怨詩は非常に多いですし、
その枠を借りて、男性知識人が君主に向けて自らの思いを表出する作品も少なくありません。
そして、詠ずる主体の不明瞭さは、元来この系統の作品にはよくあることです。
先に述べた李陵詩の分かり難さは、視点の揺らぎにのみ由来するのではない、と考え直しました。
それではまた。
2020年3月2日
*王先謙『詩三家義集疏』巻9には、曹丕のこの詩を『斉詩』(『詩経』テキストの一派。魯詩、韓詩をあわせて三家詩と称する)に依拠するものと指摘する、清朝の陳喬樅の説(王先謙編『清経解続編』巻1141所収『三家詩遺説考』四)を紹介している。この点、拙著p.482の注(31)は追記修正する必要がある。
出自未詳の李陵詩(承前)
“あやしい”改め“出自未詳”の李陵詩について、昨日の続きです。
先に訓み下しのみを提示したその詩を、自分なりに訳出すれば次のとおりです。
01 晨風鳴北林 ハヤブサが北林に鳴き、
02 熠燿東南飛 羽を鮮やかに輝かせて東南に飛んでゆく。
03 願言所相思 思いを寄せるあの人のことを強く思うあまり、
04 日暮不垂帷 日が暮れたというのに帷を降ろすこともしていない。
05 明月照高楼 明月が高楼を照らしているのを眺めつつ、
06 想見餘光輝 あの方の光あふれんばかりのお姿を思い浮かべる。
07 玄鳥夜過庭 玄(くろ)き鳥が夜に庭を訪れて、
08 髣髴能復飛 あたかも再び飛び立つことができそうな様子だ。
09 褰裳路踟蹰 私は裳をかかげて路上で足踏みし、
10 彷徨不能帰 行きつ戻りつ、帰ることができないでいる。
11 浮雲日千里 浮雲は日に千里を飛ぶという、
12 安知我心悲 私の心が痛み悲しむことなど知りもしないで。
13 思得瓊樹枝 なんとか美しい玉の樹の枝を手に入れて、
14 以解長渇飢 それで久しく続いた飢渇の思いを解き放ちたいものだ。
この詩は訳しにくいです。その理由として、
この詩を詠じているのが誰なのか、はっきりしないということがまずあります。
たとえば、次の古典が踏まえられていることからは、詠ずる主体は男性だと判断されます。
01 『詩経』秦風「晨風」;鴪彼晨風、鬱彼北林。
(鴪たる彼の晨風、鬱たる彼の北林。)
13 『詩経』衛風「木瓜」;投我以木桃、報之以瓊瑶。*1
(我に投ずるに木桃を以てす、之に報ずるに瓊瑶を以てせん。)
ところが、次のような典故からは、その主体が孤閨を守る女性かと思わせられます。*2
03 『詩経』衛風「伯兮」;願言思伯、甘心首疾。
06 『文選』巻29「古詩十九首」其十六;独宿累長夜、夢想見容輝。
このように、詠み手の立脚点が浮遊するのは、
この詩のテーマが、詩人の内発的な強い動機に出るものではなく、
たとえば、遊戯的に作られた閨怨詩など、外発的な作品であることを物語っていそうです。
この詩は比較的新しいのではないかと感じたわけは、また改めて考えてみます。
それではまた。
2020年2月28日
*1 李陵詩との前後関係は不明だが、後漢の秦嘉「贈婦詩三首」其三(『玉台新詠』巻一)にも、『詩経』のこの句を踏まえた「詩人感木瓜、乃欲答瑶瓊」という表現が認められる。
*2 同じく李陵詩との前後関係は不明だが、西晋の陸機「為顧彦先贈婦二首」其二に「願保金石躯、慰妾長飢渇」という類似句が認められ、これと同じ文脈で考えるならば、その詠じる主体は女性だと見るのが妥当である。
あやしい李陵詩
その一句目「明月照高楼」に関連して、
明の胡応麟『詩藪』が次のような指摘をしています(内篇巻2・古体中・五言)。*
「明月照高楼、想見餘光輝」、李陵逸詩也。
子建「明月照高楼、流光正徘徊」、全用此句而不用其意、遂為建安絶唱。
「明月 高楼を照らし、餘りある光輝を想見す」は、李陵の逸詩である。
曹植の「明月 高楼を照らし、流光 正に徘徊す」は、
全面的にこの李陵詩の句を用いながらその意趣は用いず、かくして建安詩の絶唱となった。
胡応麟が紹介しているこの李陵詩は、
『藝文類聚』巻29に「漢李陵贈蘇武別詩」としてその全文が採られ、
『文選』巻24、陸機「為顧彦先贈婦二首」其二の李善注には、末尾の二句が引かれています。
ですから、六朝末までにはすでに成立していたこと確実なのですが、
ただ、それ以上に遡って成立時期を推定するとなると、手掛かりがありません。
とはいえ、この李陵詩を見たとき、これは比較的遅い時代の作品ではないかと感じました。
その根拠はと問われると答えにくいのですが。
今、『藝文類聚』所収の全文を示せば次のとおりです。
01 晨風鳴北林 晨風 北林に鳴き、
02 熠燿東南飛 熠燿として東南に飛ぶ。
03 願言所相思 言(ここ)に相思ふ所を願ひ、
04 日暮不垂帷 日暮るるも帷を垂れず。
05 明月照高楼 明月 高楼を照らし、
06 想見餘光輝 餘りある光輝を見んことを想ふ。
07 玄鳥夜過庭 玄鳥 夜に庭を過(よ)ぎり、
08 髣髴能復飛 髣髴として能く復た飛ぶ。
09 褰裳路踟蹰 裳を褰(かか)げて路に踟蹰し、
10 彷徨不能帰 彷徨して帰ること能はず。
11 浮雲日千里 浮雲は日に千里ゆく、
12 安知我心悲 安くんぞ我が心の悲しむを知らんや。
13 思得瓊樹枝 思ふらくは 瓊樹の枝を得て、
14 以解長渇飢 以て長き渇飢を解かんことを。
よく読めないところも多々あるので、
もう少し継続してこの李陵詩に取り組んでみます。
なぜ、自分はこれを後続作品だと感じたのか、その直感は妥当なのか、
もし後出だとすれば、その成立はいつ頃、どのような環境においてであったのか等々、
すぐには解明できそうにない、解明できるかもわからない問題ばかりですが。
それではまた。
2020年2月27日
*黄節『曹子建詩註』巻1の導きによる。
「惟漢行」訳注稿の修正
研究発表を予定していた六朝学術学会例会は、中止になりました。
これにより、検討を重ねる時間が与えられたと思っています。
発表で取り上げる予定だった曹植の「惟漢行」、
先に訳注を公開しましたが、本日、その一部を修正しました。
修正したのは、最後から2句目「済済在公朝」の読みです。
先にはこれを「済済たる(多士)が、公朝に在る」と捉えていたのですが、
これではどうにも上の二字の読みが落ち着きません。
「済済」は、この配列だと普通、「在」にかかる連用修飾語と捉えられますから。
だから、「済済」の下に「多士」を補って読んでいたのですね。
そうしたところが、「済済として公朝に在り」とすんなり読めて、
しかも、続く句「万載 其の名を馳す」の「其」が指すものも特定の一人に絞られる、
そんな「済済」の典拠が『詩経』大雅の中にありました。
とはいえ、前に記した解釈にもまだ捨てきれない部分があります。
そのようなわけで、新しい解釈は赤字で、以前のものは薄いグレーで示しました。
(なお、追記部分はブルーで示すこととします。過日言及した「送応氏二首」其二など)
この「惟漢行」という作品、特に最後の四句が読みづらいです。
ストレートな「薤露行」とは違って、言葉に表せていない部分がありそうです。
それではまた。
2020年2月26日
雑駁な李陵・蘇武の詩 附:特別な古詩群
昨日、かなり強気に押した拙著『漢代五言詩歌史の研究』ですが、
今日も少しばかり宣伝したいと思います。
(こちらに、その目次部分のみの原稿を挙げておきます。)
この本の一番の眼目は、
古詩と総称される漢代詠み人知らずの五言詩群について、
従来不明であった、その生成と展開の経緯を明らかにしたところにあります。
古詩の中には、早期から別格視されてきた一群があることを指摘し、
この特別な一群(第一古詩群と仮称)の内部を腑分けして、
原初的な古詩群、最も遅れて登場した古詩群を抽出、
更に、これら別格の古詩諸篇が成立した年代の下限を推定しました。
こうした検討の結果、
原初的な古詩群の成立は前漢後期、
第一古詩群で最も遅れて登場した作品は、後漢初期の作であることが明らかとなりました。
この特別な古詩群は、いわゆる「古詩十九首」とは完全には重なりません。
(「古詩十九首」とは、『文選』巻二十九所収の古詩が十九首だというに過ぎません。)
本書の中で、古詩の誕生した場を推定し、古詩と古楽府との関係性を明らかにし、
建安の五言詩を、こうした漢代詩歌との連続性の中で捉えたのも、
上述のような論究がその土台となっています。
だから、本書の眼目はここにある、と申したのですね。
さて、李陵・蘇武の詩について、昨日言及した顔延之「庭誥」はこう言います。*
逮李陵衆作、摠雑不類。是仮託、非尽陵制。
(李陵の衆作に逮びては、摠雑にして類せず。是れ仮託にして、尽くは陵の制に非ざらん。)
李陵の諸作品になると、雑駁で一様であるとは言えない。
これは彼の名に仮託されたものであって、全て彼の作だとは言えないだろう。
顔延之の言うとおりだと思います。
このいわゆる「蘇李詩」に対しては、古詩を腑分けした上述の方法は適用できません。
建安詩との関係が深い「蘇李詩」であるだけに、非常にもどかしく思います。
それではまた。
2020年2月25日
*拙著のp.130―131に、『太平御覧』巻586に引くところを全文(上に引用したのはその一部です)紹介し、訓読、通釈を施していますが、読み間違いもありますし、よくわからない部分も多く残しております。御批正いただければ幸甚に存じます。
李陵・蘇武の詩と建安詩
先日、訳注を公開した「送応氏二首」其二の詩には、
前漢の李陵と蘇武の名に仮託された五言詩が明らかに踏まえられています。
(2月18日にも言及した作品群、いわゆる「蘇李詩」です。)
このことについては、かつて拙著(著書№4)で詳しく論じたことがあるのですが、
これを読み返していて、末尾の表現にも蘇武の詩が意識されていることを思い出したので、
本日、該当ページに追記しました。
「蘇李詩」の真偽、及び成立時期の問題については、
曹道衡氏が、確かな結論を出すためには新史料の出現を待つほかないとしています。*1
また、「蘇李詩」は、劉宋の顔延之「庭誥」(『太平御覧』巻586)によって発見され、
以降、本作品に対する言及が増えてくる、と指摘する先行研究もあります。*2。
ですが、建安詩の中には「蘇李詩」を経てこそ成った表現が複数たしかに認められ、
これにより、「蘇李詩」の成立は、少なくとも建安文壇に先んずることは確実だと判断できます。
ところで、率直に言えば、拙著はあまり読まれていないと思うのですね。
ですが、少なくとも漢代の五言詩や楽府詩に論及する場合にはぜひご一読ください。
その上で、批判するなり、通り過ぎるなりしていただければと思う。
それに、自分で言うのもなんですが、かなり面白いですよ。勉強になるというよりも。
そこで、本の宣伝をかねて、上記の部分(ほんの3ページほど)を公開します。
出版は2013年3月ですが、まだ入手できると思います。
興味のある方は、今からでもぜひどうぞ。
ところで、昔の自分の論文を読み返し、正直、今の自分は負けていると思いました。
でも、今だからこそ読み取れるもの、論じられることもあるはずです。
(「送応氏」詩の読みが、前掲論著では間違っていますし。)
そう思って、歩き続けることにします。
それではまた。
2020年2月24日
*1 曹道衡「“蘇李詩”和五言文人詩的起源」(『文史知識』1988年第2期)。
*2 松原朗「蘇武李陵詩考―離別詩の一つの源泉―」(『中国離別詩の成立』研文出版、2003年。初出は『中国詩文論叢』第21集、2002年)。
長いスパンで考える
毎年、高校への出前授業にエントリーします。
それが大学教員としての仕事であるから、というよりは、
高校生に、少しでも中国古典の世界に触れて、面白いと思ってもらいたいから。
とはいえ、高校の方からのオファーはほとんどありません。
以前はそれなりに呼んでいただけましたが、このところはさっぱりです。
本年度は、「異文化体験としての古典学修」と題して次の概要を登録していました。
中国古典『孟子』に由来する日本語「独善」を取り上げて,今と昔,中国と日本との間にある意味の違いや,そのような変質が生じた背景について考察します。古典を学ぶということを,一種の異文化体験と捉え直してみましょう。
自分としては、なかなか面白いテーマだと思うのですが、つまらないでしょうか。
自分が面白いと思うことを話す、というのが基本だと思っているので、仕方がないです。
このたびは、「嚴島に伝わる舞楽の来源」と題して、次の概要を登録しました。
嚴島神社に伝わる舞楽はどこからやって来たのでしょうか。この問題を究明しながら,私たちは,日本列島という東アジアの一隅が,広大な世界とつながっているという事実を知ることになるでしょう。
来年度(今年の4月)、大学全体が再編され、
現在所属している「人間文化学部・国際文化学科」が、
「地域創生学部・地域創生学科・地域文化コース」となりますが、
このことを意識して、出前授業のエントリー内容を考え直したわけでは必ずしもありません。
話の土台となるのは前に行った研究ですし*、授業でも取り上げてきた内容です。
また、大学教育の中での自分の分野の位置づけや役割についても、
もう長いこと試行錯誤を重ねながら考えてきています。
心ある教員は皆そうなのではないでしょうか。
長いスパンで物事をとらえ、若い人にとって根幹となるものをじっくりと育てていく、
それが、社会の中で大学が果たすべき役割なのだと私は思っています。
それではまた。
2020年2月21日
*こちらの[学術論文]№26、№36、及び[報告・翻訳・書評等]№12をご参照いただければ幸いです。
苦境の只中にある天才
本日、[曹植作品訳注稿]に「当牆欲高行」を公開しました。
これまでに[日々雑記]で触れたことのある作品から順次公開しようと思っておりますが、
改めて訳注というかたちに整えるには、かなりの手直しが必要だと痛感します。
(雑記では気楽に書いていられたのですが。)
この楽府詩「当牆欲高行」には、
『楚辞』という古典に由来する表現も、俗諺も、混然一体となって注ぎ込まれています。
また、『楚辞』とともにかなり強く意識しているように思われたのが、
前漢の辞賦作家、鄒陽の「獄中上書自明(獄中にて上書し自ら明らむ)」(『文選』巻39)です。*
表現のみではなく、この上書が持つ文脈をも踏まえていると感じました。
『三国志』巻19「陳思王植伝」によると、
彼は十歳あまりで『詩経』『論語』『楚辞』及び漢代の辞賦作品、数十万言を諳んじ、
かつて、父曹操に「代作してもらったのか」と問われると、
「言葉が出れば「論」となり、筆を下せば「章」となります」云々と答えたといいます。
当時の議論は、対句的均衡のとれた美しい言語の応酬といった様相でしたし、
「章」は、文(あや)なす言語芸術作品の意であって、今の「文章(散文)」とは異なります。
このように、美しい言葉が即興で次々にあふれ出てくる、
そこには雅俗の区別はなく、正統的な古典も民間に流布する俗諺も同列に用いられる、
これが、恵まれた環境の中で培われた、曹植の言語表現のあり様でしょう。
「当牆欲高行」は、そんな曹植が苦境の只中で詠じた作品です。
それではまた。
2020年2月20日
*古直『曹子建詩箋』巻4に指摘されている。