意図的な編集か

おはようございます。

昨日訳注を公開した曹植「贈丁儀」詩について、
初唐の李善が、別集では「与都亭侯丁翼」と題されていたことを記しています。
(『文選』巻24所収の本詩に対する李善注)

丁儀・丁翼(廙)兄弟の事蹟については、
『三国志』及びその裴松之注に引く諸文献からも多くを知ることができません。
巻21・王粲伝(文人たちの伝)に簡単な言及が見えるほか、
先にも紹介したとおり、巻19・陳思王植伝、及びその裴注に引く『魏略』『文士伝』に、
また、丁儀の名は、巻21・劉廙伝、巻22・衛臻伝、及びこちらで言及した諸伝に見えるくらいです。
そんなわけで、この史料では、丁廙が都亭侯を務めたことやその時期は確認できません。

ともあれ、この詩の贈り先に“揺れ”があるということは確かです。

他方、『文選』巻24所収詩の排列を見ると、
「贈徐幹」「贈丁儀」「贈王粲」「又贈丁儀王粲」「贈白馬王彪」「贈丁翼」と並んでいて、
「贈丁儀」の置かれた位置はかなり前寄りです。

作者の排列は、年代順だと李善は捉えていますが(『文選』巻20、曹植「公讌詩」の注)、
同種の作品内での排列も、基本的には年代順でしょうか。

あるいは、『文選』がある既存の作品集からまとめて採録する場合、
その作品集における排列がそのまま踏襲されると考えることができるでしょうか。

もしそうだすると、
六朝末の段階で、「贈丁儀」詩はかなり早期の作だと見られていたことになります。

ですが、詩中における天候描写と、当時の常識である天人相関説とを考え合わせると、
どう見ても本詩は、曹操が存命中の建安年間の作とは考えにくいのです。
(昨日も示した拙論や訳注稿に示したとおりです。)

そこで考えてみたのですが(以下は、まったくの想像です)、
もしかしたら「贈丁儀」詩は、

その過激な内容ゆえに、詩の成立した背景が隠蔽された可能性はないでしょうか。
曹植は魏朝のある時期までは罪人扱いで、明帝の末年になって名誉回復が為されました。
その際、曹植がこれ以上の罪を蒙ることがないように、
その別集に意図的な編集の手が加えられたのかもしれないと考えたのですが、どうでしょう。

2020年4月8日

理解に苦しむ曹植詩

こんばんは。

先ほど、「贈丁儀」詩の訳注稿を公開しました。
ふと目を挙げると、窓の外におおきな円い月がのぼっていました。

三五夜中新月の色、二千里外故人の心。*
月を見て思いを馳せるのは、この「故人」(古くからの友人)ばかりか、
「古人」でもあるのだと、ふと強烈に思いました。
同じ月を、凡そ千八百年ほど前の曹植も見ていたはずです。

さて、本詩は以前にも論じたことがありますが(こちらの学術論文№34)、
今もよくわからない部分を残す、非常に難解な作品です。
そのわからなさというのはこういうことです。
(実は前にも言及したことがあるのをすっかり忘れていました。あらためまして。)

この作品は、詩中で手厳しい為政者批判を繰り広げていますが、
その矛先は、後漢末の献帝でも、魏王たる父曹操でもなく、
魏王を継いだ、兄の曹丕に向けられていると判断するほかありません。

ただ、そうすると、
曹丕に殺されることが目前に迫っている丁儀に対して、
「子(そなた)は其れ爾(なんぢ)が心を寧(やす)んぜよ、親交 義 薄からず」などと、
悠長なことを言って慰めている曹植のことが理解できないのです。

曹植は、丁儀が置かれた状況を把握できていなかったのでしょうか。
兄曹丕との関係を、骨肉の信頼関係で結ばれていると安心しきっていたのでしょうか。
そうすると、あの辛辣な為政者批判は何だったのか、わからなくなります。
あれだけ非難しても許される間柄だと甘えていたのでしょうか。

拙論や訳注稿とともに、ご一考いただければと思います。

それではまた。

*白居易「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」(『白氏文集』巻十四、〇七二四)

2020年4月7日

論の競作

こんばんは。

これまでに何度か言及してきたように、
たとえばこちらなど。よろしければサイト内検索もどうぞ。)
周公旦という人物は、曹植にとって生きる上での指針、理想的古人でした。

この周公旦に多く言及する文章として、
「成王漢昭論」(丁晏編『曹集詮評』巻9)があります。

趙幼文『曹植集校注』巻1は、
この題目を「周成漢昭論」と訂正すべきであると指摘します。
いずれも幼くして即位した、周の成王と漢の昭帝とを合わせ論じた評論、の意です。
(たしかに、こちらの方がバランスがよいです。)
趙幼文氏は、この判断の根拠として、
曹丕・丁儀に「周成漢昭論」と題する文章があって(『藝文類聚』巻12、『太平御覧』巻89)、
これらと、先に挙げた曹植の「論」との関連性を挙げています。

この時代の宴席では、実に様々な文芸活動が行われていましたが、
そうした活動のひとつとして、この論題のような歴史談義も行われていたでしょう。

以前、五言詠史詩の生成過程を論じて、
宴席で行われていた歴史故事の語り物(もしくは演劇)に加えて、
『文選』巻21所収の、「三良」を詠じた詠史詩のように、
歴史に材を取る談論も、その素材となっていったであろうことを述べましたが、
(こちらの学術論文№42をご覧いただければ幸いです。)
彼らの「周成漢昭論」も、それと同様な生成経緯をたどって誕生したのかもしれません。
片や論、片や五言詩ですが、生成の場が同じではないかということです。

この三篇の「論」は、もしかしたら同じ機会に作られたのではないか。
もしそうだとすると、作者たちの居合わせた場というものに、
なかなか興味深いものを感じます。

『三国志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く『魏略』によると、
曹丕は、父曹操がその娘(曹丕の妹)を丁儀に嫁がせることに異議を唱え、
丁儀は、このことで曹丕に恨みを持っていたといいます。
丁儀は、親密な間柄である曹植を、曹操の後継者として強く推しましたが、
それには、上述のような経緯も深く絡んでいたと思われます。

そんな三人が一堂に会して談論を繰り広げるようなことがあったとするならば。
建安文壇のスリリングな一断面を想像して慄きますが、
ともあれ、まずその本文を読んでから改めて考えたいと思います。

それではまた。

2020年4月6日

 

 

特定の宛先の有無により

本日、曹植「贈丁廙」詩の訳注を公開しました。

先にも述べたとおり、この詩は「箜篌引」との間にいくつかの類似句を持っています。

このたび、サイト内検索ができるようになりました。
(アプライドの濱田様、ありがとうございます。)
パソコンなら画面の右上に、iPad等なら上の方に、検索の窓が開いています。
もしよかったら「丁廙」「箜篌引」といったキーワードで検索してみてください。

両作品は、非常に近い時期、もしかしたら同じ機会に作られたのかもしれません。

ただ、双方を比較してみると、
不特定多数の人々に受容されることを想定した楽府詩と、
ある特定の人物に向けて贈られた徒詩との違いが見えてくるようです。

両作品とも、側近に対する曹植の苦言めいた言葉を織り込んでいるのですが、
「箜篌引」の方は、古典をひねって諧謔を交えたような言い方で、
「贈丁廙」の方は、真摯に相手に語りかける口調です。

なお、曹植は、誠実さと冗談好きとをあわせ持つ人であったようで、
たとえば、丁廙(字は敬礼)に宛てた書簡「与丁敬礼書」(『曹集詮評』巻8)の中には、
「大笑いしながら言辞を吐く」といった表現が見えています。

それではまた。

2020年4月3日

昨日の続き

曹植の宴の楽府詩「箜篌引」は、
西晋王朝においては「野田黄雀行」のメロディで歌われました。

この「野田黄雀行」という楽曲は、
王僧虔「技録」(『楽府詩集』巻36に引く)には「瑟調」として記録されていますが、
『宋書』楽志三には、「大曲」として収録されています。
こちらの「楽府関係年表」をご参照ください。)

「大曲」は、広義の「清商三調(平調・清調・瑟調)」に含まれると見てよく、
「清商三調」は、西晋の荀勗が、漢魏の旧歌辞から選定したものである、
よって、「大曲」に属する歌辞の選定やアレンジは、荀勗の手になるものである、
とこれまで考えてきましたが、本当にそう言えるでしょうか。

こちらの「漢魏晋楽府詩一覧」をご覧ください。

『宋書』楽志三に「大曲」として収録された歌辞十五篇は、
『楽府詩集』などに引用されて伝わる「荀氏録」には全く言及が見えません。

他方、同じ『宋書』楽志三に「平調」「清調」「瑟調」として収録される歌辞は、
「荀氏録」に記されたところと多く重なり合っています。
(「荀氏録」所収歌辞の方が、集合体としては大きいですが。)

このことを改めて確認して、少し青ざめました。

ですが、後から考えるに、
『宋書』楽志にいう「大曲」が、現存する「荀氏録」と一篇も重ならないということは、

荀勗が「大曲」の選定をしたのではないということの証明にはなりません。
そのことを記した部分がまるごと、今に伝わっていない可能性も考えられるでしょう。

それではまた。(迷走中)

※「大曲」については、鈴木修次『漢魏詩の研究』(大修館、1967年)p.160,165,211,223,224など、増田清秀『楽府の歴史的研究』(創文社、1975年)p.89―96に詳しい論及がある。

2020年4月2日

鎮魂歌となった宴の歌

本日、「野田黄雀行」の訳注を公開しました。
その第3・4句「利剣不在掌、結友何須多」は論者によって解釈が分かれますが、
私は、大上正美『思索と詠懐(中国古典詩聚花)』(小学館、1985年)に多く拠りました。
伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)とは異なる捉え方です。

さて、過日訳注を公開した「箜篌引」は、
西晋王朝の宮中で、この「野田黄雀行」の曲でも歌われました。
『宋書』巻21・楽志三に収録する「野田黄雀行・置酒」の楽府題の下に、
「箜篌引亦用此曲(「箜篌引」は亦た此の曲を用ゐる)」と記されているとおりです。

では、「箜篌引」はなぜ、「野田黄雀行」のメロディで歌われたのでしょうか。

これは、もともとこのように多彩な演奏様態が取られていたのではなく、
西晋の荀勗によって、このようなアレンジが加えられたと見るのが妥当だと考えます。

以前にも触れたとおり、『宋書』楽志三にはこうあります。

清商三調歌詩  荀勗撰旧詞施用者(荀勗の旧詞を撰して施用する者なり)。

そして、「箜篌引」すなわち『宋書』楽志三所収の大曲「野田黄雀行・置酒」は、
ここにいう「清商三調歌詩」の中に含まれるものと見られます。

明確な論拠を示すことができるかわかりませんが、
もしかしたら荀勗は、宴席の情景を詠じた「箜篌引・置酒高殿上」を、
「野田黄雀行・高樹多悲風」の文脈で捉えなおそうと企図したのかもしれません。

西晋の荀勗の時点からは、曹植の宴席に集った人々の末路はすでに見えています。
その宴席風景を「野田黄雀行」のメロディで歌うとはどういうことか。

詩中の人々、そしてその詩の作者も未だ感知していない悲劇的な未来。
「箜篌引」の歌辞が「野田黄雀行」のメロディで歌われるのを聴く西晋王朝の人々は、
このことを悲痛とともに思い起こさずにはいられなかったはずです。

荀勗のこのアレンジは、曹植に対する鎮魂の意味を帯びていたかもしれません。
曹植「七哀詩」をアレンジした楚調「怨詩行」と同様に。)

「箜篌引」や「野田黄雀行」の具体的な内容は、訳注稿の方をご覧ください。

それではまた。

2020年4月1日

 

ひそやかな親近感

曹植「箜篌引」に見える「磬折」という語は、
有力者に腰を折り曲げて従うという意味を帯びていると先に述べました

この「磬折」は、現存する詩歌作品を縦覧する限り、あまり用例を見ない詩語です。*
曹植以前には確認できませんし、
曹植以後では、阮籍「詠懐詩」の中に3例を確認することができるだけです。
(厳密に言えば、曹植「箜篌引」と同じ文脈での用例に限りますが。)

このように用例が少ない中で、
阮籍が「詠懐詩」の複数個所で「磬折」を用いていることは注目に値すると思います。
彼はなぜこの詩語を一再ならず用いたのでしょうか。

今、その一例として、『文選』巻23所収「詠懐詩十七首」其十四を挙げれば次のとおりです。

灼灼西隤日 餘光照我衣
 赤々と光を放ちながら西に落ちてゆく夕日、その名残の光が私の衣を照らす。
迴風吹四壁 寒鳥相因依
 つむじ風が四方の壁に吹き付けて、寒風に凍える鳥たちは身を寄せ合っている。
周周尚銜羽 蛩蛩亦念飢
 こんなときは、周周が羽をくわえ、蛩蛩が飢えを恐れるように、鳥獣でさえ助け合うものだ。
如何当路子 磬折忘所帰
 それなのに、なんだって要職にある連中は、腰を折り曲げて帰着すべき本源を忘れているのだ。
豈為夸誉名 憔悴使心悲
 どうして虚しい名誉のために、神経をすり減らして悲痛で五臓六腑を傷めつけたりするものか。
寧与燕雀翔 不随黄鵠飛
 むしろ卑近な燕雀とともに翔り、大きな鴻鵠になんぞ付き従って飛ぶのはよそう。
黄鵠遊四海 中路将安帰
 鴻鵠は四方の大海原に遊ぶが、道の途中で行く手を見失えば、さてどこに帰れようか。

本詩に特に顕著ですが、阮籍「詠懐詩」における「磬折」は、
権力者に媚びへつらい、自身の保身だけに腐心する人間たちの有り様を形容します。

「磬折」という語そのものには本来、負のイメージはなかったはずですが、
(礼儀作法をリアルに書き記す『礼記』での用例が端的に物語っているとおりです。)

それが、曹植「箜篌引」によって屈折を帯びることとなりました。
(これは、『尚書大伝』という出典を指摘した李善注によって示唆されたところです。)

阮籍は、曹植が「磬折」という語に付与したニュアンスを敏感に受け止め、
これを更にデフォルメして用いているように感じられます。

阮籍は、曹植と同様に、
ですが彼とはまた少し違った視角から、
この種の人間をことのほか冷酷に観察していたのでしょう。

ここに、阮籍の曹植に対する敬意とひそやかな親近感とを感じないではいられません。

それではまた。

2020年3月23日

*逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』の電子資料(凱希メディアサービス、雕龍古籍全文検索叢書)によって確認した。

典故の指摘という解釈

曹植「箜篌引」の訳注稿を公開しました。
この作品の中に、「磬折」という語が出てきます。

この語は、たとえば経書の中では、『礼記』曲礼下に、
「立則磬折垂佩(立てば則ち磬折して佩を垂る)」と見えています。
君臣間で物を受け渡しする際の礼儀作法を説いたものです。

語句の説明としては、ここを出典として示すので十分妥当でしょう。
ところが、本詩を収録する『文選』巻27の李善注は、次に示す『尚書大伝』を挙げます。

諸侯来、受命周公、莫不磬折。
天下の諸侯たちがやってきて、周公から命を受け、誰もが腰を折り曲げた。

これを踏まえるとなると、
「磬折」という語は、有力者に対して恭順の姿勢を取るという意味を強く帯び、
それを織り込んだ「磬折欲何求」は、人々のそうした姿勢を軽くいなすニュアンスを帯びてきます。

そして、李善のこの語釈は、彼が本詩の冒頭「置酒高殿上、親友従我遊」に対して、
漢の高祖劉邦をめぐる『漢書』高帝紀下の記述を指摘していることとも響きあっています。

つまり、李善注は曹植「箜篌引」の背景に、
有力者とそのもとに集まる人々という人間模様を浮かび上がらせようとしているのです。
(当時の酒宴には、そうした人間関係はつきものではありましたが。)

李善は、古今の知識には通じているが、自身は文章が作れないため、
世間の人々に「書簏」と呼ばれていたそうです(『新唐書』巻202・文芸伝中・李邕伝)。
「書簏(本箱)」とは、よく文学的感性に乏しい人を揶揄して用いられますが、
はたして李善にこのあだ名はふさわしいものであったかどうか。

文人としても知られる呂向(『文選』五臣注の五人の注釈者の一人)は、
この部分に対して次のような注を付けています。

磬折、曲躬也。言君子以謙徳曲躬於人、固無所求。
磬折とは、曲躬なり。言ふこころは君子は謙徳を以て人に曲躬し、固より求むる所無きなり。

君子は謙譲の美徳で人にへりくだり、もとより何も求めないのだ、という解釈です。
この読みによるならば、本詩中で腰を折り曲げている人々は、無欲で立派な君子たちです。

李善注は、典故を指摘するのみにとどめられる場合が多い。
ですが、彼の感受性は、詳しく解釈を施す五臣に比べてどうでしょう。

少なくともこの詩に関しては、
李善の方が、はるかに深い解釈に踏み込んでいたように私には感じられます。

それではまた。

2020年3月21日

 

即興と自家類似

曹植作品は、彼の他の作品との間でその辞句を少なからず共有しています。
本日訳注を施した「箜篌引」にも、幾つかの事例が見出せました。

「贈丁廙」や「贈徐幹」といった作品との間に同一句や類似句が見出せたりすると、
そこから「箜篌引」の成立年代が推し測れるのではないかと思ったりもします。
丁廙は曹丕が魏王となった年(220)に、徐幹は建安22年(217)に亡くなっているので、
それと近い時期に本詩も作られたのではないかという見通しです。

他方、文帝期(黄初年間)の作である「大魏篇(鼙舞歌)」との間にも、
本詩は同一句を共有しています。

すると、建安年間の最末期頃の成立という仮説が立つかもしれません。

そもそも、同じような辞句が随所に現れるとはどのような場合なのでしょうか。

曹植は沈思黙考型の文人ではなく、
即興で言葉が次々にあふれ出てくるようなタイプの詩人であったようです。

そうした人の場合、
比較的最近生まれた表現が、
まだ彼の記憶の中に残っている間に、
別の作品にも顔を出すということがあるかもしれません。

自身の表現をなぞるというよりも、
また、何かを意図して過去の自分の表現を踏まえるというのでもなくて。

どうでしょうか。*

それではまた。

2020年3月19日

*趙幼文『曹植集校注』(人民出版社、1984年)は、本詩を明帝期の作と推定しています。

注釈が持つ時代性

昨日、古典の原典と、現代日本語による訳注とについて、
最近、前者のみならず、後者をも参照するようになったことを書きました。

ですが、日本語による訳注を参照しては誤る場合もあります。
それはこういうことです。

たとえば『文選』所収の作品を読むとしましょう。
初唐の李善による『文選』注は、作者が意識したであろう古典を指摘しているので、
李善注に従って本文を読解してゆけば、近いところまでたどりつけます。

ところが、李善が指摘する古典が難解すぎてよく読めない、
そこで、現代日本語による訳注を手掛かりに、李善注に示された古典を読解するとしましょう。

その場合、その現代の訳注が何に依拠しているかが問題となるのです。
たとえば儒教の経典のような古典中の古典には、歴代の学者が注釈を施しています。
そして、現代人による訳注が、そのいずれの時代の注釈に拠っているのか、
このことに注意する必要があると思うのです。

そうでなければ、その古典を踏まえた作品は、作者が思い描いた本来の姿を見せてはくれません。
たとえば、近世宋代の注釈に拠って古典を解釈し、
それに基づいて、その古典を踏まえた中世六朝期の作品を読み解くことは不可でしょう。

以上のことは、とても当たり前のことのように思われるかもしれません。
けれども、同質の誤りを無意識のうちに犯している場合もないではないと思います。

たとえば、李善注の少し後に出た『文選』五臣注。
その中には、もしかしたら唐人ならではの解釈かと思われるものも含まれています。
ですが、私たちはあまり深く考えず、それを参照して難解な本文を理解したりもしています。
(李善注に比べて、五臣注はわかりやすくかみ砕いて解釈してくれますから。)

本文に収斂していくことを旨とするはずの注釈でさえ、
その注釈者が生きた時代固有の価値観を帯びているものだと思います。
そのことに意識的でないと、作者自身が思い描いた表現世界から乖離してしまうでしょう。

もっとも、作品の解釈は読者の側にゆだねられているという考え方もあります。
私は、こと古典文学に関しては、まず対象に寄り添ってこそ面白くなるという考えです。

それではまた。

2020年3月18日

1 60 61 62 63 64 65 66 67 68 82