小さな存在、大きな自由

「曹植作品訳注稿」の公開を始めました。
巻4「公宴」「侍太子坐」「元会」、巻5「薤露行」「平陵東」「惟漢行」を上げています。
少し時間がかかりそうですが、倦まず弛まず作業を進めていきたいと思います。

今日は「平陵東」の訳注を整えて公開したのですが、
これまで「平陵」とは何で、どこにあるのか、知らないままだったことに気づきました。
公開するとなると、わかったつもりで流すことができなくなります。

とはいえ、こうした情報は、ネットで調べればすぐに出てきます。
それを手掛かりに、提示すべき文献にも比較的容易にたどり着くことができます。

ですが、問題はそこから先であって、
長安近郊に位置する、前漢の昭帝の陵墓(平陵)が、
なぜ、王莽に抵抗して非業の死を遂げた翟義を追悼する歌の題と結びつくのか、
そのことに意味があるのかないのか、さっぱりわかりませんでした。

知識は簡単に手に入っても、
それを血肉化し、そこから考察を広げていくにはそれ相当の時間がかかります。

でも、そうしたことに打ちひしがれるのではなくて、
自分の小ささを自覚し、そこからスタートすればよいのだと思います。
私はそこに大きな自由を感じます。

それではまた。

2020年2月13日

曹植の希望の星

文献複写の依頼をしていた矢田論文が届きました。*
拝読してとても面白かったので、その概要を私なりに記してみます。

曹植の詩には、表現上、屈原作とされる「離騒」「九章」等の影響が少なからず認められる。
だが、曹植はその作品の中で屈原その人に言及することは稀である。
これはなぜか。

屈原は、楚王の同族として忠義を尽くしたが、讒言のために自殺に追い込まれた人物である。
曹植も、魏王室の一員として現実参画を強く希求しながら、その望みは叶えられなかった。
この点において、曹植は屈原と境遇が非常によく似ている。

他方、曹植の詩によく言及される周公旦は、
一時的に讒言されて周王朝から退けられることはあったものの、
最終的には、実の叔父として周の成王をよく輔佐し、周の基礎を築いた人物である。
周公旦と曹植も、その王室との血縁関係において多く重なり合う。

曹植は、その境遇において、屈原にも、周公旦にも類似する部分を持っている。
にもかかわらず、屈原には無関心を装い、周公旦の不遇には多く言及している。なぜか。

現実参画への望みを最後まであきらめなかった曹植にとって、周公旦は希望の星であった。
他方、悲劇的な最期を遂げた屈原のような人生は、彼にとって絶望を意味している。
曹植が屈原に背を向けたのは、こうした彼自身の内面的事情によるだろう。

曹植が、自身を周公旦と重ね合わせ、そこに希望をつないでいたという指摘、
全面的に賛成です。

2020年2月12日

*矢田博士「境遇類似による希望と絶望―曹植における周公旦及び屈原の意味」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』別冊文学・芸術学編19、1993年)

言葉のリレー

昨日、思わず引用した「絶望の虚妄なること、まさに希望と相同じ」は、
魯迅の散文詩集『野草』に収録された「希望」(1925年1月1日)からの言葉です。

絶望之為虚妄、正与希望相同。

この語が、ハンガリーの詩人Petofi Sandor(ペテーフィ・シャーンドル) に由来することは、
詩の本文においても作者自らが記しているところですが、

『魯迅全集』第2巻(人民文学出版社、1981年)p.179の注釈により、※
彼が友人(凱雷尼・弗里傑什)に宛てた書簡の中に、この趣旨の言葉が見えることを知りました。

この東欧の詩人であり革命家であるペテーフィ(1823―1849)の言葉に、
中国が近代に突入する時代を、戦いつつ切り開いた魯迅(1881―1936)が深く共鳴した、
だからこそ、魯迅はその散文詩の一隅にペテーフィの言葉を引用したのでしょう。

そして、現代の私たちは、ペテーフィや魯迅をそれほど深く知らなくても、
各自の境遇の中で、この言葉はまさしく自分に向けられたものだ、とばかりに受け留めています。

このような言葉のリレーはもちろん古い時代にもあって、
(というより、魯迅はこうした中国文学の大きな流れの上に登場したとも言えます。)
人から人へ、言葉が手渡され、広がっていく筋道を丁寧にたどることこそが、
真の文学史研究なのだと私は考えています。

それではまた。

2020年2月11日

※魯迅や近代文学の研究分野では、この後も陸続と研究書等が出ているかと思います。

 

深さと普遍

先週末には、自分に呪いをかけるようなことを書いてしまいました。
私は中国古典文学の存続に危機意識を持ってはいますが、絶望はしておりません。
絶望の虚妄なること、まさに希望と相同じ、です。

自分が触れたことのない仕事に携わっている人の奥義を聞くのが大好きです。
世の中にこんな仕事があったのか、と驚くばかりでなくて、
ある世界を真摯に生きている人だからこそ感得することができる境地、
それを語る言葉は例外なく面白く、またそれはすべての分野に通じるものがあると感じます。

自分も、そのような面白さに自身の手で触れたい。

それを、身近な学生たちがどう思うかはまた別問題です。
わかってもらわなくて結構、などと高飛車、あるいは拗ねているのではなく、
ぎりぎりまで言葉を尽くして説明したら、あとはもう相手にゆだねるしかないということです。

さて、3月19日、六朝学術学会の例会で研究発表をすることになりました。
詳細はこちらをご覧ください。概要もこちらにございます。

それではまた。

2020年2月10日

 

中国古典文学は生き残れるのか

昨日は、卒業論文の口頭試問で、8名の副査を務めました。
(今年は、主査つまり卒論の指導をした学生はいなかったので、すべて副査です。)

社会科学的研究が古典文学研究とは異質であることはもとより承知していますが、
今年は特に、日本の現代文学と自身との乖離の大きさに驚き、足元がぐらつくようでした。
近い時代でも、昭和文学なら一読者として好きな作家も何人かいるのですが、
ごく最近の若い作家たちの作品となるとどうにも入っていけません。

こちらが、相手を理解したと言えるところまで辿り着けないということは、
先方もこちらのことを、わけがわからないと感じているでしょう。

道理で、学生たちに、白居易と元稹との応酬詩にあまり興味を持ってもらえないはずです。
他方、志怪小説にはかなりの吸引力があると感じる、そのわけも腑に落ちました。

中国の古典文学は、これから先、日本の人々の中で生き残っていけるのでしょうか。

自分が身を置いているのは、様々な分野と地域が同居する国際文化学科です。
現代社会の縮図のようなこの学科で、自分なりにがんばってきたつもりではあるけれど、
卒論で学生さんたちに選んでもらえない現実は非常にこたえます。

とはいえ、授業をしている中での手ごたえは、それほど悪くはないのです。
絶滅が危惧される珍種の動物を見ているような感じでしょうか。

考察の最先端をライブで示していくことは、
たとえ研究者を養成するのではない本学科のようなところでも、あってよいと感じています。
(もちろん学会発表のようなものを生のかたちで出すことはしませんが。)
そのわくわく感を水で薄めることなく、もともと無関心だった人々をも振り向かせる、

そんな大それた野心をもってやってきましたが、いつまで気力が続くか。

それではまた。

2020年2月7日

東晋時代の「清商三調」

西晋の宮廷歌曲群「清商三調」は、
永嘉の乱(311)で王朝が瓦解し、宮廷楽団が離散して以降、
417年、劉裕(劉宋の武帝)が後秦を滅ぼして魏晋の音楽を奪還するまで、
その楽曲を演奏する楽人たちの多くは、北方の異民族王朝に身を置いていました。*

とはいえ、魏晋の楽をよくする人々の全員が、こうした閲歴をたどったわけではありません。
楽人ではありませんが、「清商三調」を達者に演奏する人は、
東晋時代、北来の貴族(西晋王朝が滅亡して南下してきた)の中にもいました。

たとえば、先日来話題にしている「怨歌行・為君」は、
孝武帝(司馬曜)と謝安の面前で、桓伊が笛を伴い筝を奏でつつ歌っています。
(『世説新語』任誕篇劉孝標注に引く『続晋陽秋』、『晋書』巻81「桓宣伝付桓伊伝」)

そして、前掲『世説新語』の本文、及び前掲『晋書』本伝の前には、
王徽之に呼び止められた桓伊が、笛で「三調」を演奏したという記事が見えています。

考えてみれば当たり前のことなのかもしれませんが、
『隋書』音楽志、『魏書』楽志、『通典』楽典、『旧唐書』音楽志などを見ていただけでは、
自分にはこうした小さな事実を知ることはできなかったと思いました。

桓伊の歌った「怨歌行」の歌辞が上記の『晋書』本伝に記されていることを、
私は『北堂書鈔』巻29の孔広陶の校註によって知り得ました。

それではまた。

2020年2月6日

*拙著『漢代五言詩歌史の研究』(著書4)p.299~300、315を参照されたい。

重ねて昨日への追補

作者が曹植か古辞かで揺れている楽府詩として昨日挙げた「怨歌行」と「君子行」。
両詩歌には、周公旦への言及が認められるという共通点があります。

周の文王の息子、武王の弟であり、武王の跡を継いだ成王を補佐した周公旦は、
魏の武帝曹操の息子、文帝曹丕の弟であり、曹丕の跡を継いだ明帝の代まで生きた曹植と、
その王朝との血縁関係において強い共通性を持っていることは一昨日にも述べました。

実際、曹植の作品の中には、周公旦の事蹟に触れるものが少なくありません。
たとえば、「豫章行」二首(『藝文類聚』巻41、『楽府詩集』巻34)、
また、「求通親親表(親親を通ぜんことを求むる表)」(『文選』巻37)など。
このことは、彼自身がこの古人に対して強い関心を寄せていたことを物語っています。

とすると、逆に、元来が詠み人知らずの歌辞であっても、
周公旦への言及があるということから、曹植に結び付けられたケースもあったと想像されます。

ところで、西晋王朝の宮廷歌曲「清商三調」(『宋書』巻21・楽志三)の中に、
曹植の「七哀詩」(『文選』巻23)に基づく、楚調「怨詩行・明月」がありますが、
その末尾の第七解は、先日来話題にしている「怨歌行」の結び四句をそっくり取り込んだものです。

取り込まれた部分は、宴会歌謡に常套的な言葉を並べたに過ぎないものと見えます。
ですが、「怨歌行」の中核を占めるのは、周公旦の成王輔佐をめぐる出来事を詠ずるものです。
それならば、楚調「怨詩行・明月」には、「怨歌行・為君」の主題も重ねられている、
と見ることもできるかもしれません。

「清商三調」は、西晋の荀勗が旧歌辞から選んで宮廷歌曲に適用したものだ、
と『宋書』楽志には記されています。
楚調「怨詩行・明月」も、荀勗によってアレンジされた作品である可能性が高いでしょう。

他方、同じ荀勗が「怨歌行・為君」を古辞としていたことは昨日述べたとおりです。

こうしてみると、荀勗は古辞「怨歌行」を、曹植の境遇をよく象徴する内容の歌辞と見て、
曹植を追悼する「怨詩行・明月」*に取り込んだと考えることが許されるでしょう。

それではまた。

2020年2月5日

こちらの学術論文43をご参照いただければ幸いです。

昨日の追補

昨日、「怨歌行」は曹植の作と見るのが最も妥当と述べましたが、
詩の全文を収録する文献がいずれも曹植作としているから、では論証になっていませんね。

曹植に近い時代、西晋の荀勗が「古為君(古辞の“為君”の歌)」としていることには、
一定の注意を払う必要があると思いなおしました。

また、昨日紹介した『楽府詩集』巻41に引く『楽府解題』を改めて示せば次のとおりです。

古詞云「為君既不易、為臣良独難。」
言周公推心輔政、二叔流言、致有雷雨伐木之変。
(以下は、梁の簡文帝の作品などに話題が移るので省略する。)

「怨歌行」の古辞に「君たるは既に易からず、臣たるは良(まこと)に独り難し。」とあるが、
これは、周公旦が誠心誠意、成王を輔政したのに、管叔・蔡叔が根も葉もないうわさを流し、
ついに雷雨が樹木をなぎ倒すという天変が起こった、という趣旨である。

ここに紹介されている「古詞」は、その概要から見て、
『藝文類聚』や『楽府詩集』が曹植作として採録する「怨歌行」に同じと判断されます。
つまり、『楽府解題』は「怨歌行」の全文をとらえて古辞としているのであって、
この点、初めに述べた昨日の推定結論とは相容れないのです。

ただし、『楽府解題』という書物の信憑性については疑問符が付きます。
このことは、かつて中津濱渉氏の論著*を手引きとして調べ、指摘したところです。
(こちらの学術論文17、及び著書4の特にp.299~304をご参照ください。)

さて、仮にもしこの「怨歌行」が曹植の作だとして、
それを、近い時代の人々からして既に古辞と見ていたのはどういうわけでしょうか。

ひとつには、曹植の楽府詩の中には、
世間に流布する諺語をそのまま取り込んだものが少なくないことが挙げられるでしょう。
たとえば、以前取り上げた「当牆欲高行」にいう「衆口可以鑠金」など、
その顕著な例だと言えます。

また、「怨歌行」と同じく、作者が曹植と古辞との間で揺れているものとして、
「君子行」(『楽府詩集』巻32では古辞、『藝文類聚』巻41では曹植の作)も挙げられます。

結局、よくわかりませんでした。
「怨歌行」は曹植の作である可能性が高い、と言うところまでがやっとです。
(表現の特徴から推定することもできるかもしれませんが、今は措いておきます。)

言った先からもう追補。しかも結論は相変わらず見えないまま。
とはいえ、言葉にすれば、ほころびが見え、更にそこから先へころがっていけますから。

それではまた。

2020年2月4日

*中津濱渉『楽府詩集の研究』(汲古書院、1970年)の「引用書考」p.583~585。

楽府詩「怨歌行」の作者

為君既不易  君主であることはもちろん容易くないが、
為臣良独難  臣下であることは実にひとえに困難なことである。

このように歌い起こす曹植の「怨歌行」は、
周公旦の成王輔佐を例に、臣下として誠意を通すことの困難を詠じています。

周公旦については、以前こちらでも触れましたが
この人物と曹植との間には、その境遇に似通ったところがあります。*1
ですから、この作品を通して、曹植その人に一歩近づけるのではないかと期待できます。

ところが、この楽府詩の作者については、古来さまざまな説があって、
この問題を抜きにしては先へ進むことができません。*2
そこで、いずれの説がより妥当なのか、改めて検討してみました。

この「怨歌行」を曹植の作とするのは、『藝文類聚』巻41、『楽府詩集』巻42です。
(これらの資料の信憑性については過日触れたところです。)
両文献とも、その全22句を採録しています。

これを「魏文帝詩」とするのは『北堂書鈔』巻29で、引用は冒頭の2句のみです。
また、『太平御覧』巻621は「古詩」として同じ2句を引いています。

他方、『楽府詩集』巻41「怨詩行」に引かれた諸文献では、
『古今楽録』に引く王僧虔「技録」に「荀録に載せる所の古「為君」一篇、今は伝わらず」、
『楽府解題』に「古詞に云ふ「為君既不易、為臣良独難」は、周公は推心輔政するも、二叔は流言し、雷雨伐木の変有るを致すを言ふ……」といい、
これらの文献では作者不明の古辞となっています。*3

前掲の「怨歌行」冒頭の二句は、『論語』子路篇に引かれた「人の言」、
「為君難、為臣不易(君為ること難く、臣為ること易からず)」を踏まえていますから、
もしかしたら、この部分のみ、諺的フレーズとして流布していた可能性もあります。

こうしてみると、「怨歌行」の全文を引く古い文献は曹植の作とし、
冒頭の二句のみを引く文献は、曹植以外の作者としている。
以上から、「怨歌行」の作者は、曹植と見ることが最も妥当だと言ってよいでしょう。

なお、明代の『古詩紀』が、上記の「技録」等に従って古辞とすることは措いておきます。

それではまた。

2020年2月3日

*1 矢田博士「境遇類似による希望と絶望―曹植における周公旦及び屈原の意味」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』別冊文学・芸術学編19、1993)を複写依頼中。
*2 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.172~173に論及があるが、決定的な論拠が示されているわけではない。
*3 楽府詩に関する諸文献の成立年代などについては、こちらの資料「楽府関係年表」を参照されたい。

※「怨歌行・為君」の作者については、曹道衡「論『文選』中楽府詩的幾個問題」(『国学研究』第3巻、1995年)に論及がありました。曹道衡氏の所論では、この楽府詩を曹植の作とすることに懐疑的です。(2020.04.03追記)

昨日の訂正

昨日、曹植作品の現存率は意外に高いのではないかと述べたばかりなのに、
もう翌日の今日、訂正です。情けない限りです。

『曹集詮評』巻8「前録自序」(『藝文類聚』巻55では「文章序」に作る)に、こうあります。

……余少而好賦、其所尚也、雅好慷慨、所著繁多。
雖触類而作、然蕪穢者衆。故刪定別撰、為前録七十八篇。

……わたしは少年の頃から賦を好み、その尊ぶものについては、平素から好んで口にしつつ感激し、自身が著したものも大量にある。
同類の事物に触れて作ったとはいえ、雑然と乱れているものが多い。だから、余計なものを削って本文を定め、分類して編集し、前録七十八篇とした。

ここに曹植自身が記している「七十八篇」とは、現存する賦作品の二倍近い数です。
また、趙幼文『曹植集校注』(人民出版社、1984年)にも指摘するとおり、
ここに「前録」という以上、必ずや「後録」があったはずです。

趙幼文が批判的に引いていた清朝の姚振宗『隋書経籍志攷証』*では、
「魏陳思王曹植集三十巻」に対して、非常に詳細な考証が為されていました。
よく読んで、顔を洗って出直したいと思います。

それではまた。

2020年1月31日

*『二十五史補編』(中華書局、1955年)第四冊、p.5709~5710に収載。

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