拙論への追補(1)
曹植の「鼙舞歌」五篇(『宋書』楽志四)の、特に「聖皇篇」に注目して、
それが、失われた漢代鼙舞歌辞を復元する手がかりとなり得ることをかつて論じました。
(こちらの学術論文№39)
その論拠となったのは、以下のようなことです。
曹植の「聖皇篇」は、漢代の鼙舞歌辞「章和二年中」に相当する。
「章和二年中」は、楽府詩の通例から言って、その歌辞の第一句であろう。
すると、この漢代の鼙舞歌辞は、章和二年中に起こった出来事を歌うものだと推測される。
『後漢書』や『資治通鑑』等の歴史書に拠って調べてみると、
章和二年、まさしく曹植「聖皇篇」の内容と重なり合う出来事が起こっている。
すなわち、和帝(10歳)の即位に伴い、章帝の兄弟たちが封国に赴くこととなったのである。
曹植の「聖皇篇」は、漢代の鼙舞歌辞「章和二年中」を忠実に襲ったものだろう。
このことは、文帝治世下における曹植の、軟禁同然の境遇からも首肯されるものである。
さて、曹植の散文に目を通していると、この推論を裏付けるような記述によく遭遇します。
次に示す「写灌均上事令」(『太平御覧』巻593)*は、その中でも顕著な例です。
孤前令写灌均所上孤章、三台九府所奏事、及詔書一通、置之座隅。
孤欲朝夕諷詠、以自警誡也。
わたしは先ごろ、灌均が朝廷に奏上したわたしの詩文、朝廷の各省庁が奏上した事、
及び詔書一通を書き写させて、これを座右に置いた。
わたしは朝夕にこれを諷詠し、もって自らの戒めとする所存だ。
灌均は、監国謁者。文帝曹丕におもねって、曹植の過失を逐一あげつらいました。
そんな人間が奏上した曹植の作品は、読み方次第でいくらでも処罰の対象となったでしょう。
「三台九府」からの奏上は、曹植の言動に対する検討結果を述べるものでしょう。
そして、これらを受けての「詔書」は、曹植に対する処分内容を記したものなのでしょう。
ところで、前掲の曹植の文章は、それが公にされることを前提とした「令」です。
罪(ほぼ無実)を反省し、文帝への忠誠心を公に言明するよう強要されたようなものです。
曹植の「鼙舞歌」は、このような境遇の中で作られたのでした。
そして、その序にいうように、これら五篇の歌辞は彼の封国で実際に演奏されました。
ですから、曹植はこの作品の中で、その心中を生の言葉で表現することは決してなかったと言えます。
曹植の「鼙舞歌」五篇の冒頭に置かれた「聖皇篇」。
聖なる皇帝とは、文帝曹丕を指します。
しかも、「聖皇」なる語は、その五篇の歌辞すべてに見えています。
文帝万歳、ですね。
にもかかわらず、これを精読すれば、その小さな綻びから曹植の本心がにじみ出てきます。
密告者の灌均には、その微妙な部分は読み取れなかったのでしょう。
それではまた。
2020年1月7日
*「写」の字、『太平御覧』は「説」に作る。今、厳可均『全三国文』巻14に従って改める。
時代の変わり目を生きた人
魏王朝(厳密にいえば文帝曹丕*1)の諸王に対する冷酷な処遇を批判した袁準、
彼はその「自序」の中で、自らの立ち位置を次のように述べています。
以世事多険、故常恬退而不敢求進。
世の出来事に険阻なことが多かったため、常に栄利とは距離を置き、敢えて出世を求めなかった。
(『三国志』巻11「袁渙伝」裴松之注に引く『袁氏世紀』)
袁準が阮籍や嵆康と付き合いがあった、もしくは関わりを持とうとしたのは、
彼のこのような現実認識と、その中で自らの生き方を模索したことに由来するのでしょう。
彼は、嵆康に対しては、琴曲「広陵散」を学びたいと願い出て拒絶されました。
(『世説新語』雅量篇、『晋書』巻49「嵆康伝」)
また、阮籍との間には、次のようなエピソードが残っています。
司空の鄭沖が、司馬昭に晋公受諾を勧める文章*2を阮籍に求めに行ったとき、
阮籍は袁準の家にいて、二日酔いの状態であった、と。
(『世説新語』文学篇)
嵆康は、魏の元帝の景元四年(263)*3、呂安事件に連座して司馬昭に殺されました。
鄭沖に上記の文章を書かされた阮籍も、嵆康と同じ年に没しています。
他方、袁準は、西晋王朝の初代皇帝である武帝司馬炎の泰始年間(265―274)、
その俊才が買われて給事中(皇帝の顧問)となりました。
(前掲『世説新語』文学篇の劉孝標注に引く荀綽『兗准州記』)
この閲歴は、前掲の「自序」にいうところとは少し食い違っていますね。
魏王朝から西晋王朝に移行していく時期、
人はそれぞれに思うところあって生きる道を選択していったのでしょう。
以前にも触れた、荀彧や荀攸を輩出した荀氏一族も同じです。
阮籍を読んでいた学生時代、曹魏が司馬晋に簒奪されるという側面ばかりを見ていましたが、
現実はもっと複雑だったのだろうと今は考えています。
それではまた。
2020年1月6日
*1 先にも取り上げた、魏の明帝の太和五年(231)八月の詔(『三国志』巻3「明帝紀」)から明らかである。
*2 阮籍「為鄭沖勧晋王牋(鄭沖の為に晋王に勧むるの牋)」は『文選』巻40所収。
*3 嵆康の没年については、景元三年(262)とする説もある。今、曹道衡・沈玉成編『中国文学家大辞典・先秦漢魏晋南北朝巻』(中華書局、1996年)、興膳宏編『六朝詩人伝』(大修館書店、2000年)に従っておく。
※「阮籍関係年表」を一部訂正しました。間違いをご指摘くださった方、ありがとうございます。訂正がこんなに遅れてしまって恥ずかしい限りです。
魏王朝に向けられた目
魏王朝が諸王親族に対して冷酷であったことについて、
『三国志』巻20「武文世王公伝」裴松之注に引く『袁子』にも次のような記述が見えます。
(前略)県隔千里之外、無朝聘之儀、隣国無会同之制。
諸侯游猟不得過三十里、又為設防輔監国之官、以伺察之。
王侯皆思為布衣而不能得。
既違宗国藩屏之義、又虧親戚骨肉之恩。
……諸侯王は千里の外に隔てられ、朝廷からの招聘の沙汰もなく、隣国どうし会合する制度もなかった。
諸侯は出遊に三十里を超えてはならず、加えて防輔・監国の官が設けられ、彼らの動向を見張った。
王侯たちは皆平民になりたいと思ったけれども叶わなかった。
これは、諸侯が朝廷の守りとなるという大義に違うばかりか、親戚骨肉の恩情にも欠ける仕打ちだ。
『袁子』は、『隋書』経籍志・子部・儒家類に著録されている『袁子正書』で、
その著者である袁準は、先にも言及したことのある袁渙の子です。
袁渙は、曹操と対等の立場で意見を述べた人物である一方、
建安18年(213)、曹操に魏公となるべく九錫の受理を勧めた人物の一人です。
(『三国志』巻1「武帝紀」裴注引『魏書』)
このような家系に連なる人物が、魏王朝に対して厳しい目を向けている。
しかもこの袁準は、阮籍や嵆康ともかかわりを持つ人物です。
それではまた。
2019年12月27日
叔父への尊崇
先日来述べてきたように、
曹植ら諸王が始めて元旦の朝会に招かれたのは太和六年、
その前年の八月、明帝は次のような詔を出しています(『三国志』巻3「明帝紀」)。
昔者諸侯朝聘、所以敦睦親親協和万国也。
先帝著令、不欲使諸王在京都者、謂幼主在位、母后摂政、防微以漸、関諸盛衰也。*
朕惟不見諸王十有二載、悠悠之懐、能不興思。
其令諸王及宗室公侯各将適子一人朝。
後有少主、母后在宮者、自如先帝令、申明著于令。
昔、諸侯の朝聘せらるるは、親親を敦睦せしめ万国を協和せしむる所以なり。
先帝は令を著し、諸王をして京都に在らしむるを欲せざるは、謂ふに幼主の位に在り、母后の摂政せるとき、微以て漸(すす)むを防ぎ、これを盛衰に関らしむればなり。
朕惟(おも)ふに諸王に見えざること十有二載、悠悠たるの懐ひありて、能く思ひを興さざらんや。
其れ諸王及び宗室公侯をして各(おのおの)適子一人を将(ひき)ひて朝せしめよ。
後に少(わか)き主有り、母后宮に在るときは、自ら先帝の令の如くすること、申明して令に著す。
他方、同年、曹植は「求通親親表」(『三国志』巻19「陳思王植伝」、『文選』巻37)を奉り、
これに対して明帝は、その返答の詔の結びで次のように述べています。
已勅有司、如王所訴。
已に有司に勅して、王の訴ふる所の如くす。(同「陳思王植伝」)
さて、冒頭に示した明帝の詔と曹植の上表とは、いずれが先行していたのでしょうか。
ほぼ同時にそれぞれが著した、つまり行き違いになってしまったため、
明帝は曹植に、「訴えの件はすでに所管の役人に命じて対応させている」と伝えたのか、
それとも、曹植の上表を受けて冒頭の詔が下され、明帝は重ねて曹植にそのことを伝えたのか。
私にはどうも、後者のように思えてなりません。
何らかの契機がなければ、明帝は諸王を呼び寄せようとは思い至らなかったのではないか、
そして、その契機こそが、曹植の上表だったのではないかとの仮説です。
更に言えば、太和六年の元旦の会に諸王が招かれた前年のこととして、
「其の年の冬、諸王に詔して六年正月に朝せしむ」と「陳思王植伝」に見えていますが、
これも、曹植の「請赴元正表」を受けての詔であった可能性があると考えます。
以上を要するに、
曹植の「求通親親表」を受けて、明帝の太和五年八月の詔が下され、
この詔を受けて、曹植は更に「請赴元正表」を奉り、
この上表を受けて、同年冬の詔が下され、かくして太和六年元旦の朝会が実現した、
このように見ることができるのではないかと思うのです。
曹植と明帝との関係は、曹植と兄文帝との関係とは当然のことながら異なっています。
曹植の「求通親親表」に対する明帝の丁重な返答は、その現れの一斑でしょう。
それではまた。
2019年12月26日
*冒頭に示した明帝の詔にいう「先帝」「幼主」「母后」とは誰を指すのだろうか。「先帝」は文帝曹丕。「母后」が卞皇太后だとすると、「幼主」は後の明帝曹叡か。だが、文帝が即位した220年、曹叡はすでに16歳、幼いとは言えない年齢である。しかも、彼が太子に立てられたのは、文帝最晩年の226年であった。「幼主」とは、特定されない未来の君主か。それとも一般論なのか。
十二年後の再会
今日も『曹集詮評』の後半から。
巻七に、「謝明帝賜食表」と題する文章が収められています。
これは、『太平御覧』巻378・人事部(痩)に、明帝の詔とともに収録されているものです。
魏明帝手詔曹植曰、 魏の明帝は手ずから曹植に詔を下して言った。
王顔色痩弱、何意耶。 王は痩せ衰えた様子だが、どうしたのか。
腹中調和不。 腹の具合が悪いのか。
今者食幾許米、又啖肉多少。 さあ、いくらか米を食べよ。また肉にも少し食らいつけ。
見王痩、吾甚驚。 王が痩せているのを見て、自分は非常に驚いた。
宜当節水加餐。 水は控えて、もっと食べるがよい。
これに続けて、『御覧』は次のとおり、曹植が明帝の詔に答えた上表文を載せています。
近得賜御食、 近ごろ立派な食事を賜ることができまして、
拝表謝恩。 謹んでご恩に感謝を申し上げます。
尋奉手詔、 次いで、手ずからしたためられた詔を賜り、
愍臣痩弱。 臣が痩せ衰えていることを憐れんでくださいました。
奉詔之日、 詔を押し頂いた日、
涕泣横流。 涙がほとばしり流れました。
雖文武二帝所以愍憐於臣下、 文帝武帝のお二人が臣下を憐れんでくださったのでさえ、
不復過於明詔。 陛下の英明なる詔を超えるものではございません。
このような直接対面でのやり取りは、曹植の最晩年、
昨日も言及した太和六年(232)の正月(の前後)のことと見て間違いありません。
というのは、その前年の八月に出された明帝の詔(『三国志』巻3「明帝紀」)に、
次のような言葉が見えているからです。
朕惟不見諸王十有二載、悠悠之懐、能不興思。
朕は思うに諸王に会わないこと十二年、連綿たる思慕の情をどうして起こさずにいられよう。
明帝曹叡が最後に曹植に会ったのは、曹操が亡くなった220年だったのでしょう。
以降、二人はまったく顔を合わせる機会がなかったのです。
ですが、それ以前、十代の曹叡は、曹植のはつらつとした姿を多く目にしていたはずです。
父曹操の愛情をいっぱいに受けて、当代一流の文人たちと対等にわたりあう才気煥発たる叔父さん、
明帝の記憶の中にある曹植は、そのようなイメージであったはずです。
ところが、十二年の時を隔てて対面した叔父は、前述のとおりの様子をしていたのでした。
曹植の「元会」詩も、こうした背景を視野に入れて読み直さなくては、と思います。
それではまた。
2019年12月25日
鮮明な思い出
かつても取り上げたことがある、曹植「元会」詩、
その成立は、彼の最晩年に当たる、明帝の太和六年(232)でした。
魏王朝は、元旦の会に諸王を呼ばず、
明帝による招待は、特別な恩義によるものであったことも先に述べましたが、
この明帝のはからいを引き出したと思われる曹植の文章が、
次に示す「請赴元正表(元正に赴かんことを請ふの表)」(『曹集詮評』巻七)です。
欣豫百官之美 百官が居並ぶ美しさをうれしく思い起こし、
想見朝覲之礼 臣下たちが君主にお目通りする礼議の有様に思いを馳せる。
耳存九成 耳には雅やかな舜の音楽の余韻がありありと残っており、
目想率舞 目にはその音楽に合わせて百獣が連れ立って舞った様子を思い浮べる。
「九成」「率舞」は、『書経』益稷に出る語で、*
その古典籍の文脈を踏まえて、上記のように意訳しました。
かつて父曹操のもとで目の当たりにした、元旦の会での歌舞を指していると見られます。
それを鮮明なイメージとともに想起し、言葉に表現することによって、
そうした場に加わることへの強い願いを述べたのが、前掲の上表文なのでしょう。
この文章は断片でしか残っていないのですが、
その伝存部分は、このように、ありありと思い浮かべられた思い出の描写です。
それと題目とを結んだところに、本上表文の趣旨をこのように読み取ることができそうです。
それではまた。
2019年12月24日
*『書経』益稷に、「簫韶九成、鳳皇来儀」、「予撃石拊石、百獸率舞、庶尹允諧」と。
外部の視点
曹植作品の全体像を把握したくて、
毎日少しずつ、丁晏『曹集詮評』のテキスト入力を続けています。
今更の作業のように感じられるかもしれませんが、
(索引もあるし、ネット上には様々なテキストデータがありますから。)
特有の緩やかなスピード感があって、思いがけない拾い物をすることもあります。
それはまた、ノートに書き写して熟読することとも異なるリズムです。
その中には、拾って憮然としてしまう言葉ももちろんあります。
巻八所収「黄初五年令」にこうありました。
諺曰、人心不同、若其面焉。*
唯女子与小人為難養也。近之則不遜、遠之則有怨。
ことわざに、人の心は同じではない、その顔が同じでないのと同様だ、とある。
ただ、女子と小人とは養い難いものだ。近づければ無遠慮となり、遠ざければ怨みを持つ。
「諺」はともかくも、これに続くフレーズは何でしょうか。
曹植自身がこんなことを言ったのかと驚き、調べてみるとそうではありませんでした。
『論語』陽貨篇に、ほぼそのまま次のようにあります。
子曰、唯女子与小人為難養也。近之則不孫、遠之則怨。
子曰く、唯だ女子と小人とは養ひ難しと為す。之を近づくれば則ち不孫、之を遠ざくれば則ち怨む。
曹植の言に驚き、遡って孔子にたどり着いて、更にしょんぼりの度を増しました。
男子には、小人もいれば聖人も、大人も、中人もいるのに、
「女子」は一括りにして「小人」と同じ扱いです。
儒教社会には、一方で、女性の立場がめっぽう強いという実情もありますが、
それだって、男性を立てるということにおける立派さであって、
自由にのびのびと振る舞っていいという意味ではない。
(そういう点では男性も同じですが、それでも自由度は大きいでしょう。)
かつてはこんな時代があったと理解するほかないのですが、
このような言葉に遭遇するたびに、また門前払いされてしまったと感じます。
ですが、外部の人間だからこそよく見えるということがあります。
現代人には、前近代の文化の特徴を捉えることができる、
庶民出身であるからこそ、上流社会に特有の文化的構造が見える、
ある文明の特異性は、その周辺、あるいはその外にいる人間にこそ鮮明に映る、
だったら、男性優位の前近代中国の特異性は、現代の女性にこそよく見えるでしょう。
そう思うことは自由です。
それではまた。
2019年12月23日
*『春秋左氏伝』襄公三十一年に「子産曰、人心之不同、如其面焉(子産曰く、人心の同じからざるは、其の面の如し)」と。
周の文王と魏の武帝
曹植の「惟漢行」における周文王への言及は、
曹操を念頭において為されたものではないかと昨日述べました。
実は曹操自身も、周文王(西伯昌)のことは意識していたようです。
たとえば、西伯昌から歌い起される自作の「短歌行・周西」(『宋書』楽志三)。
また、建安15年(210)12月の己亥令(『三国志』武帝紀裴松之注に引く『魏武故事』)では、
『論語』泰伯篇にいう「天下を三分して其の二を有す」を引きながら、
西伯昌が大きな勢力を持ちつつも、なお殷王朝を奉戴する立場を取ったことに言及していますし、
最晩年の建安24年(219)には、天の意に従って天下掌握を勧める夏侯惇に対して、
もし天命が自分にあるのなら、それは周文王だと答えています(同武帝紀裴注引『魏氏春秋』)。
その裏側には、もちろん彼ならではの打算があるでしょう。
現在の王朝を擁しつつ、実質的な力を行使する方が統治上有効であるし、
後漢王朝からの禅譲は、我が子の世代にまで繰り下げた方が世論の抵抗が少ないだろう、
といった読みが働いて、曹操は自身を周文王になぞらえたのでしょう。
ただ、そうした曹操の深謀は、息子の曹植にどこまで感受されていたのでしょうか。
曹植が詠ずる父曹操は、かなり理想像に近い君主であるように思われます。
もしかしたらそれは、現在の君主との対比から引き出されたものであったのかもしれません。
それではまた。
2019年12月20日
魏王朝と周王朝
過日も言及した、曹操の「薤露」に由来する曹植「惟漢行」は、
その末尾に次のような句を連ねています。
17 在昔懐帝京 在昔 帝京を懐ひ、
18 日昃不敢寧 日の昃(かたむ)くまで敢て寧(やす)まず。
19 済済在公朝 済済たる 公朝に在りて、
20 万載馳其名 万載 其の名を馳す。
18句目は、『書経』無逸に見える次の句を踏まえています。
自朝至于日中昃、不遑暇食、用咸和万民。
朝から日没まで、食事をする暇もなく働いて、それで万民を和らげた。
これは、周の文王(西伯昌)のことを記したものです。
19句目は、『詩経』大雅「文王」にいう次の句を踏まえています。
これも、その詩題が示すとおり、周文王にまつわるものです。
済済多士、文王以寧。
厳かに居並んだ臣下たち、文王の御霊もこれで安心だ。
このように、曹植「惟漢行」は、周文王を想起させる辞句で一篇を結んでいます。
そこで改めて思うのが、魏王朝と周王朝との重なりです。
周文王(西伯昌)は、自身は大きな勢力を持ちながらも殷王朝に仕え、
その子の発(周武王)が、殷の紂を討って周を立てました。
魏の武帝曹操も、後漢王朝の臣下としての立場を全うし、
子の曹丕が、後漢から禅譲を受けて、魏の文帝として即位しました。
すると、曹植が父曹操を想いつつこの楽府詩を詠じていることは確実でしょう。
そもそもその楽府題が曹操「薤露」から取ったものでした。
他方、魏王朝と周王朝とは異なっている部分もあります。
周は、初代の武王が亡くなった後、その子が成王として即位すると、
武王の弟である周公旦が、幼い成王を補佐しました。
魏の明帝曹叡と曹植とは、この成王と周公旦との関係に等しい。
けれども、曹植は生涯、皇室の一員として王朝のために働くことはできませんでした。
それではまた。
2019年12月19日
魏の宮廷音楽「相和」再考
先日来取り上げてきた「薤露」や「平陵東」は、
このところ頻繁に言及している、魏王朝の宮廷歌曲「相和」に含まれるものです。
「相和」と総称される歌曲の歌辞は、『宋書』巻21・楽志三に採録されています。
今、そこに列記された順に、楽府題・歌辞名(第一句)、作者名を示せば次のとおりです。
01 「気出倡・駕六龍」 曹操
02 「精列・厥初生」 曹操
03 「江南・江南可採蓮」 古辞
04 「度関山・天地間」 曹操
05 「東光乎・東光乎」 古辞
06 「十五・登山有遠望」 曹丕
07 「薤露・惟漢二十二世」 曹操
08 「蒿里行・関東有義士」 曹操
09 「対酒・対酒歌太平時」 曹操
10 「鶏鳴・鶏鳴高樹顛」 古辞
11 「烏生・烏生八九子」 古辞
12 「平陵・平陵東」 古辞
13 「陌上桑・棄故郷」 曹丕
14 「陌上桑・今有人」 『楚辞』九歌・山鬼
15 「陌上桑・駕虹蜺」 曹操
作者は、魏の創始者である武帝曹操、初代皇帝である文帝曹丕、
及び漢代詠み人知らずを意味する「古辞」によって占められています。
ここから、「相和」が魏王朝にとって特別なものであったと推察することができます。
とはいえ、その歌辞の内容は、実に統一感のないものであって、
誰かがある意図をもって諸歌曲の中から選び抜き、編集したとはとても思えません。
では、この無秩序とその尊重のされ方とを、合わせてどう捉えればよいのでしょうか。
これらの歌曲は、魏王朝の宮廷歌曲となる以前から、
すでにまとまったかたちで演奏されていたのではないかと私は見ています。
というのは、後漢中期の馬融(79―166)「長笛賦」(『文選』巻18)の序文に、
次のような記述があるからです。*1
有雒客舎逆旅、吹笛為気出精列相和。融去京師踰年、蹔聞、甚悲而楽之。
ある洛陽からの旅人が宿に泊まり、笛を吹いて「気出」「精列」の「相和」を演奏した。
都を離れて一年以上になる私は、しばしこれを耳にして、すっかり感傷的な気分に浸りきった。
ここにいう「気出」「精列」は、前掲の『宋書』楽志三に記す諸歌辞の冒頭の二篇であり、
それを受けて「相和」と言っているところが注目されます。
もし、「相和」が漢代から歌い継がれてきたものであり、
魏国はそれをそのまま取り上げた、
それが、魏王朝成立後、宮廷音楽として演奏されるようになった、
と考えればどうでしょう。
各曲の内容に一貫性がない、にもかかわらず重要視されている、
このことの理由が見えてきます。
以前、魏王朝は、自らの箔付けのために「相和」を利用したと考えていたのですが、*2
(ちょっと皮肉っぽい、魏王朝に対して厳しい見方ですね。)
前掲の馬融「長笛賦」に述べるように、「相和」は洗練された歌曲群であったらしい、
このことを踏まえると、また違った見方ができるかもしれません。
後漢王朝の内に封土を与えられた魏国の君主たる曹操は、
都ぶりの優美な楽曲群である「相和」諸曲を大切に取り上げて演奏させ、
あるものについては、その曲に合わせて独自の歌辞まで作った、
魏の宮廷歌曲「相和」は、それをそっくり引き継いだものだ、
と捉えることもできます。
それではまた。
2019年12月18日
*1 詳しくは、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(著書№4)p.333~335をご参照いただければ幸いです。
*2 こちらの学術論文№19、及び柳川前掲書のp.316~341に詳述しています。