曹植作品と漢代画像石
曹植の作品の中には、
漢代画像石との関わりを視野に入れてこそ理解が進むと思われるものが、
先週取り上げた諸々の画賛以外にもいくつかあります。
そのひとつが、楽府詩「当牆欲高行」(『楽府詩集』巻61)です。
龍欲升天須浮雲 龍が天に上ろうとするならば浮揚する雲が必要だし、
人之仕進待中人 人が官職を得ようとするならば有力な仲介者が必要だ。
衆口可以鑠金 衆人の口は金をも融かすと言うとおり、
讒言三至、慈母不親 讒言が三たびやってくれば、慈母も子から遠ざかる。
憤憤俗間、不辯偽真 紛々と乱れた俗世間の人々には、真偽を見分けることができない。
願欲披心自説陳 なんとか心の中を打ち明けて、自ら釈明したいと願っているが、
君門以九重 君主のいます宮殿の門は幾重にも閉ざされていて、
道遠河無津 道は遠く、河には渡し場がないという有様だ。
この楽府詩には、『楚辞』を踏まえた痕跡が随所に認められます。
(具体的には、こちらの学会発表№17の発表原稿p.5―6をご覧ください。)
そうした中で異彩を放っているのが、
第四・五句の「讒言三至、慈母不親」という表現です。
これは、孝行息子で知られる曾参とその母の故事を踏まえるもので、
文献資料としてしばしば挙げられるのは、次に示す『戦国策』秦策二の記事です。*1
昔者曾子処費、費人有与曾子同名族者而殺人、人告曾子之母、曾子之母曰、吾子不殺人。織自若。有頃、人又曰、曾参殺人。其母尚織自若也。頃之、一人又告之曰、曾参殺人。其母懼、投杼踰牆而走。夫以曾参之賢与母之信也、而三人疑之、則慈母不能信也。
昔、曾子が費にいたとき、費の人で曾子と族名が同じ者が人を殺した。人々は曾子の母にこのことを告げた。曾子の母は、「我が子は人殺しなどしません」と言って、それまでと変わりなく機織りを続けた。しばらくして、人がまた「曾参が人を殺した」と言った。その母はなおも平然と機織りをしていた。しばらくして、ある人がまた「曾参が人を殺した」と告げた。その母は恐れおののき、杼(ひ)を投げ出し、垣根を飛び越えて逃げた。そもそも曾参の賢明さとその母の深い信頼があっても、三人がこれを疑わせると、慈母でさえ信じることができなかったのだ。
ただ、ここには、曹植の詩にあった「讒言三至、慈母云々」という表現が見当たりません。
しかも、ここに見える曾参の母の故事は、実はそれ自体を中心的に取り上げて記すものではなく、
将軍甘茂が、秦の武王から信頼を勝ち取るために、たとえ話として持ち出したに過ぎません。
ところが、これとほとんど一致する辞句が、
山東嘉祥県武梁祠西壁の「曾母投杼」の図像の下に、「讒言三至、慈母投杼」と見えています。*2
以上のことは、どう解釈するのが妥当でしょうか。
まず、曾参母子の信頼関係をテーマに語られていた故事が古くからあったとして、
『戦国策』に記された甘茂のたとえ話はそれを用いたのでしょう。
このことは、この故事がよほど広く人々の間に知れ渡っていたのでなければ不可能です。
にも拘わらず、この故事そのものを中心に据えて記す文献は現存しないようです。
口承文芸は、一部の例外を除いては、基本こうしたものなのでしょう。
画像石の隅に刻まれた「讒言三至、慈母投杼」と、
曹植の楽府詩に見える「讒言三至、慈母不親」との近似性は、
語られていた同一の物語の断片が、それぞれに掬い上げられた結果ではないかと考えます。
(このことは前掲の学会発表で述べましたが、諸注釈書に指摘がないので、ここに示しました。)
それではまた。
2019年12月11日
*1 張道一『漢画故事』(重慶大学出版社、2006年)p.70―71を参照。
*2 張道一前掲書、及び長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)p.74を参照。
書き続けること
昨日は、書けませんでした。
先週末、嚴島神社宝物名品展で、横山大観「屈原図」を見たので、
(思ったよりも大きく〈132.7×289.7㎝〉、灰色を帯びた緑が瑞々しい絵でした。)
この絵が東京美術学校を追われた岡倉天心を表徴したものとされていることをめぐって、
思うところを書きたいと考えていたのです。
明治時代、不遇失意の人に屈原を重ね合わせて表現するという発想があったこと、
屈原という中国古典の英雄は、つい最近まで日本人の心の中にも普通に生きていたのだということ。
また、師の後を追い、自らも辞職するという行動に出る人々がいたことへの感嘆も。
ですが、岡倉天心が職を追われることになった経緯を知ると、その気持ちが萎えました。
横山大観『大観画談』(日本図書センター、1999年)に、「美術学校紛擾事件の真相」の条があり、
菱田春草の絵の評価をめぐる教官相互の対立に、ことの発端があったことが記されています。
そして、これに続けて述べられているのが「日本美術院の誕生と私の「屈原」」です。
明治の人々の精神は、世間に流布するゴシップとは別次元に高く飛翔してしていたのでしょう。
ですが、さる内実を知らされると、なんだか門前で追い払われたように感じました。
自分ごときが感想を書くことなど笑止千万と思わされてしまいました。
「屈原図」の背後に上記の事件があることは、わかる人にはわかったでしょう。
ただ、公開の場でそのことが長らく明らかにされてこなかったのは、
この事件が内包する灰汁が抜けきるまで、それなりの時間が必要だったからではないでしょうか。
***
日々書き続けたいのは、これが自分にとっての自主トレーニングだから。
ある水準に達していないと公開できない、と考えると、ほとんどが没になりますし、
その判断にもまたエネルギーを使うことになってしまいますから。
それではまた。
2019年12月10日
描かれた列女伝
漢代、列女伝・孝子伝・列士伝・列仙伝の類は、
図画とともに伝えられていた可能性が極めて高いことを昨日述べました。
こうした図画入りの伝を、
多くの論者は、儒教的規範を広めるためのものと捉えています。
儒教が国家の教えとしてすでに定着していたこの時代、これは順当な解釈でしょう。
ただし、目を留めたく思うのは、そうした文物が持つニュアンスです。
後漢の順帝の皇后となった、梁商のむすめ梁妠について、
『後漢書』巻10下・皇后紀下には次のような記録が見えています。
少善女工、好史書、九歳能誦『論語』、治『韓詩』、大義略挙。
常以列女図画置於左右、以自監戒。
幼少の頃から女性としての仕事をよくこなし、歴史書を好み、九歳にして『論語』が暗誦し、『韓詩』(『詩経』解釈の一派)を学び、それらの概略を理解していた。
常に列女の図画を身近に置いて、自らを戒めるよすがとしていた。
この後に、彼女が十三歳で後宮に入ったという記述が続いていることから、
先に示した記事は、それ以前のことを述べるものだと知られます。
つまり、「列女図画」は、少女にも親しみやすい文物であったということですね。
また、後漢の光武帝について、
『後漢書』巻26・宋弘伝には次のような逸話が記されています。
弘当讌見、御坐新施屏風、図画列女、帝数顧視之。*1
弘正容言曰、「未見好徳若好色者。」帝即為徹之、笑謂弘曰、「聞義則服、可乎。」*2
宋弘が光武帝に宴見(くつろいだ場での謁見)したとき、そこに新たに屏風が設けられ、列女の図画が描かれていて、皇帝は何度も振り返ってそれらの絵に見入っていた。
弘が顔つきを正して、「未だ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ず」と言うと、皇帝は即座にこれを撤収して、笑って弘にこう言った。「義を聞きて則ち服す、これでよろしいか。」
光武帝は、列女伝が記す教訓的な故事の内容よりも、
絵が描き出す彼女たちの凛々しく麗しい姿に魅了されたのですね。
絵図を伴う列女伝は、こうした享楽的な雰囲気の中でも受容されていたのでしょう。
更に、こうした女性たちは、曹植の「鼙舞歌・精微篇」(『宋書』巻22・楽志四)にも詠じられ、
今は伝わらない漢代の「鼙舞歌・関東有賢女」も、同様の内容を持っていたと推測されます。
(詳しくは、こちらの学術論文№39をご参照ください。)
鼙舞は、漢代の宴席で演じられていた舞踊です(『宋書』巻19・楽志一)。
すると、図画を伴う列女伝の内容は、そうした場にもよく馴染むものであったと言えるし、
その中には、語り物として上演されていた故事もあるかもしれない。
ここまでが、現時点で明言できることです。
それではまた。
2019年12月7日
*1 「施」字は、『藝文類聚』巻69に引く『東観漢記』に拠って補った。
*2 「未見好徳若好色者」は、『論語』子罕篇にいう「子曰、吾未見好徳如好色者也」を踏まえ、「聞義則服」は、『論語』述而篇にいう「……聞義不能徙也、……是吾憂也」をもじったもの。『論語』を援用しながらの戯れの応酬である。
漢代画像石に描かれた歴史故事
漢代画像石には、現世での宴席風景を描くものが多く、
「二桃殺三士」や「荊軻刺秦王」などの歴史故事は、しばしばその一角に見えています。
これは、宴席で上演されていた様子をそのまま写し取ったものだろう、
とかつて推定したことはこちらでも述べました。
ですが、画像石の中には、昨日も言及した武梁祠のように、
歴史的人物の図像をびっしりと並べるタイプのものが一方にあり、
これは、現実の建造物に描かれた絵画を写し取ったものであろうと推定されています。*
(曹植の画賛も、こうした図像群に対して寄せられたものだと見られます。)
漢代画像石に描かれた歴史故事、と一口に言っても、
実は、前掲のタイプと、後者のタイプとがあったのではないでしょうか。
武梁祠に描かれた人物たちの故事がすべて、宴席芸能として上演されていたかは疑問です。
では、祠堂の内壁をうずめる人物たちは、当時どのようなかたちで伝えられていたのでしょうか。
この問題について、
変文のような絵物語として行われていたと推論したことがあるのですが(学術論文42)、
これも、一部にそうした例があるにせよ、すべてがそうだとは言い切れませんね。
ただ、漢代当時、歴史的人物が図像とともに伝えられていたことは確実です。
『漢書』藝文志・諸子略・儒家類には、『列女伝頌図』という書名が見えていますし、
『太平御覧』巻411には、かの董永の故事を記す文献が、『孝子図』として引かれています。
また、『隋書』経籍志・史部・雑伝類には、漢代、阮倉なる人物が列仙図を作り、
これを契機に、劉向が列仙・列士・列女の伝を作ったと記されています。
かつて論じたことに但し書きを付したいのは、
そうした図像に、もれなく語りの芸能が付いていたとは断言できないということです。
それではまた。
2019年12月6日
*このことは、清朝の瞿中溶が、その『漢武梁祠画像考』序において夙に指摘しています。
曹植が見ていた絵画(再び)
曹植の画賛に取り上げられた様々な人物の図像のうち、
「二桃殺三士」の故事を描くものに焦点を絞り、
それが宴席芸能であった可能性を、このところ論じてきました。
ここで再び、曹植の画賛に立ち返ってみます。
「二桃殺三士」は、なるほど宴席で演じられていたかもしれません。
ですが、曹植が賛を寄せた図像のすべてにそれは言えることなのでしょうか。
曹植の画賛に謳われた一連の人物たちは、
たとえば、過日も触れた武梁祠にずらりと描かれた人物の画像石や、
後漢の王延寿「霊光殿賦」(『文選』巻11)に描写された宮殿内の絵画の有様と重なります。
また、曹植が宴席で、一世の文化人邯鄲淳に披露して見せたことのひとつに、
「羲皇以来賢聖名臣烈士の優劣の差を論ず」ということがありましたが、
(『三国志』巻21「王粲伝」裴松之注に引く『魏略』)
この史料における記述の有様とも似ています。
そして、この『魏略』では、
上述の人物評論は、哲学談義と文学批評との間に並び、
「俳優の小説数千言を誦す」とは区分されたかたちで記されています。
こうしてみると、当時の図像に描かれている歴史的人物の故事は、
そのすべてが宴席で上演されていたわけではないと見なければなりません。
(このことが、かつての拙論(学術論文38・42)では不分明でした。)
建造物の内部を飾り、
死者の世界に連なる祠堂の内部に再現された人物たちの図像のうち、
その一部が、芸能として語られ、演じられていたということなのかもしれません。
単線として捉えるよりも、
共存する複線をイメージする方が、実態に近いのかもしれません。
それではまた。
2019年12月5日
歴史故事を歌う葬送歌(承前)
楽府詩「梁甫吟」の成立は、宴席においてであっただろうと昨日述べました。
この推定は妥当でしょうか。
「梁甫吟」は、三国蜀の諸葛亮が愛唱したことで知られています。
(『藝文類聚』巻19では、彼の作であるかのような記し方をしています。)
世話になった従父を亡くし、自ら農耕に従事していた彼が、この歌を好んで吟じていたと、
『三国志』巻35・諸葛亮伝には記されています。
そうした歌辞が宴席文芸であったとは、何かしっくりこない印象を持たれるかもしれません。
それでもやはり、この古楽府(詠み人知らずの楽府詩)は宴席で誕生したと見るのが最も妥当です。
そう考え得る根拠を以下に述べます。
まず、便宜上、この楽府詩の本文のみを再掲しておきましょう。
歩出斉城門、遥望蕩陰里。里中有三墳、累累正相似。問是誰家冢、田疆古冶子。
力能排南山、文能絶地理。一朝被讒言、二桃殺三士。誰能為此謀、国相斉晏子。
この1・2句目、及び結びの2句は、次にあげる古詩を明らかに踏まえています。
古詩とは、漢代詠み人知らずの古典的五言詩で、
ここでは、最も閲覧しやすい『文選』巻29所収の「古詩十九首」で示すこととしましょう。
まず、「梁甫吟」の冒頭2句は、次に示す其十三の冒頭2句とよく似ています。
駆車上東門 車を上東門(後漢の都洛陽に実在した城門)に駆り、
遥望郭北墓 遥かかなたに城郭の北に横たわる陵墓群を望む。
また結句は、其五に見える次の2句と同じ措辞を取っています。
誰能為此曲 誰がこの曲を奏でて歌うことができるかといえば、
無乃杞梁妻 それはかの杞梁の妻ではないだろうか。
ここに挙げた古詩はいずれも、
数ある古詩の中でも、特に別格視されてきた一群に含まれるもので、
後漢時代の初めごろには成立していたと推定できます。
(こちらの著書4『漢代五言詩歌史の研究』の第1~3章をご参照いただければ幸いです。)
そうした古詩が、複数、「梁甫吟」という古楽府に流入しているのですね。
このことをどう見るか。
まず、「梁甫吟」から、複数の古詩が派生したとは考えにくいです。
これは、先に述べた、かの特別な一群の古詩が持つ普遍性から見ての判断です。
それよりも、特別な古典的古詩の一群が出そろった段階で、
それらの中から選び取った表現を複数組み合わせて「梁甫吟」が成ったと見る方が自然です。
だとすると、古楽府「梁甫吟」の成立は、後漢時代だと推定できます。
後漢時代、宴席という場では、古詩と古楽府とが出会い、
古詩に似た古楽府、古楽府の歌辞を取り込んだ古詩が陸続と誕生していました。
(詳細は、学術論文30(前掲拙著第5章にも収載)をご参照いただければ幸いです。)
古楽府「梁甫吟」も、こうした文芸的新動向の中で、
「梁甫吟」のメロディと、複数の古詩と、そして歴史故事に基づく語り物文芸という、
宴席という場を共有する、三種の文芸が出会って生まれたものだと推し測ることができます。
なお、以上のことはこちらの学会発表17で概略を述べました。
ですが、中国の研究者の方々にはほぼスルーされてしまいました。
古詩や古楽府の歴史的位置に対する捉え方が異なるので、当然と言えば当然ですが。
それではまた。
2019年12月4日
歴史故事を歌う葬送歌
曹植がその画賛で取り上げた「二桃殺三士」の故事は、
語り物もしくは歌舞劇として、宴席でも上演されていたと推測されるものでした。
(こちらを再度ご参照ください。)
漢代画像石には、凡そそのクライマックスシーンが描かれています。
曹植が目睹して賛を寄せた図像にも、これと同じ場面が示されていたでしょう。
さて、先日も触れたとおり、
楽府詩「梁甫吟」にも、同じ故事が次のように詠じられています。
歩出斉城門 斉の城門を歩み出て、
遥望蕩陰里 遥かかなたに蕩陰里を望む。
里中有三墳 里の中には三つの墳墓があって、
累累正相似 重なり合うそれらは実によく似た様子をしている。
問是誰家冢 これらはどちら様の墳墓でしょうか、とたずねてみれば、
田疆古冶子 田開疆や古冶子ら(公孫接も言外に含めて)の墓だという。
力能排南山 彼らの力は、斉の南山をも押しやるほど強く、
文能絶地理 その文徳は、地表を文様づける山川をも凌いで卓絶していた。
一朝被讒言 それなのに、ある日讒言を被って、
二桃殺三士 二つの桃が三人の勇士を殺すという結末となった。
誰能為此謀 いったい誰がこのような謀略を構えることができたかというと、
国相斉晏子 それは斉国の宰相、晏子である。
「梁甫」とは、泰山のふもとにある山の名で、死者がこの山に葬られることから、
「梁甫吟」は送葬歌だと言えます。(『楽府詩集』巻41)
すると、前掲の「梁甫吟」は、葬送曲のメロディに載せて、
故事「二桃殺三士」の後日談を詠じた楽府詩だということになるでしょう。
葬送歌は、当時の宴席で広く行われていました。
たとえば、応劭『風俗通義』(『続漢書』五行志一に引く)には、
後漢の霊帝期(167―189)頃のこととして、次のような記述が見えています。
時京師賓婚嘉会、皆作魁儡、酒酣之後、續以挽歌。
当時、都のおめでたい宴では、どこでも人形劇が上演され、
酒たけなわとなると、続いて挽歌が歌われた。
こうしてみると、楽府詩「梁甫吟」成立の場は、宴席であったと推測できます。
故事「二桃殺三士」も、「梁甫吟」のメロディも、そうした場で行われていましたから、
両者が出会って何かを生み出すとすれば、それは宴席においてであったと見るのが最も妥当です。
曹植が賛を寄せた図像は、
「二桃殺三士」のクライマックスシーンを描くものであり、
こうした歴史故事は、当時の宴席で盛んに上演されていたと推測されるのでしたが、
「梁甫吟」歌辞の作者が眼前にしていたのもまた、同様な芸能であったのだろうと推測できます。
それではまた。
2019年12月3日
文字資料の向こう側
少し間が空きましたが、
先に示した曹植の「古冶子等賛」の中に、次のような句がありました(再掲)。
虎門之博 王宮の正殿の門で博奕(ばくち)に打ち興じていて、
忽晏置釁 晏子をないがしろにしたため、彼に仲たがいの謀略を設けられた。
この上の句の「博」字について、
趙幼文は、「搏」に作るべきではないかと疑義を呈し、
『春秋左氏伝』昭公十年に記す、次のような斉の内部紛争に結び付けて解釈しています。*1
斉の景公のとき、欒・高両氏の勢力が、陳・鮑両氏の勢力と対立、
陳・鮑両氏に攻められた高氏が、景公を抱き込もうと虎門(正殿)にやってきたところ、
晏子は虎門の外に立ち、両派のいずれにも加担しなかった。
後に、晏子は勝利した陳桓子に、戦利品を景公に差し出すように勧め、桓子はこれに従った。
つまり、「虎門での戦いにおいて」と上句を解釈するのが趙幼文の説です。
(ただし、『左伝』には、三勇士の名も、晏子による桃を用いた謀略も見えていません。)
他方、曹植の前掲の賛を引くのは『太平御覧』巻754の「工芸部(博)」でした。
『太平御覧』は、北宋の成立ではありますが、その時期に一から編纂されたのではなくて、
実は、六朝期及び初唐に成った複数の類書を切り貼りして出来上がったものです。*2
ということは、六朝末頃までは、曹植の賛は「博」に作っていたと判断せざるを得ません。
でないと、工芸部の博の条に採録されるはずがありませんから。
また他方、『晏子春秋』諫下には次のように記されています。
公孫接・田開疆・古冶子事景公、以勇力搏虎聞。晏子過而趨、三子者不起。
つまり、三勇士は、虎を打ち負かすほどの勇気と腕力で知られていたが、
晏子が彼らの前を通り過ぎる際、小走りして敬意を表したのに、三人は起き上がらなかった、と。
そして、この後、晏子は景公に、彼らを消し去るよう進言した、という記事が続きます。
こうしてみると、
曹植が聞き知っていた「二桃殺三士」の故事は、『晏子春秋』とも一致しません。
『晏子春秋』には、彼らが「虎門のところで博奕に打ち興じていた」との記述は見えません。
先にも書いたように、
『晏子春秋』のこの部分には、語り物的な要素が認められるとかつて論じたことがありますが、
それは、当時語られていた言葉をもれなく記述するものではなかったのでしょう。
あるいは、語られている故事には、複数のバージョンがあって、
そのうちの一つでは、三人が虎門の前で博奕をしていたことになっていたのかもしれません。
曹植の賛の読みには、自分でもまだ釈然としないところを残しているのですが、
少なくとも、文字資料がすべてを今に伝えているわけではないとは確実に言えるでしょう。
その向こう側には、おびただしい数の語られる言葉が躍っていたのだろうと想像します。
それではまた。
2019年12月2日
*1 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)巻1、p.90を参照。
*2 勝村哲也「修文殿御覧の復元」(山田慶児編『中国の科学と科学者』京大人文研、1978年)を始めとする一連の論考を参照。
曹植が見ていた絵画(承前)
曹植の「画賛序」(あるいは「説画」)に関連付けられると思われる「賛」。
『曹集詮評』巻6に収録されるそれらの「賛」は、皇帝を称えた作品が圧倒的多数を占めています。
これは、そうした作品が残りやすかったためと見るのが妥当でしょう。
唐代初めの類書『藝文類聚』巻11・12「帝王部」に、そのほとんどが収録されています。
そのような作品群を縦覧する中で、「古冶子等賛」に思わず目を留めました。
『太平御覧』巻754「工芸部(博)」に引く次のテキストです。
斉卿接子 斉の田開疆や公孫接らは、
勇節侚名 節義を守り通す勇敢さを持ち、名誉のためには死をも辞さない烈士である。
虎門之博 王宮の正殿の門で博奕(ばくち)に打ち興じていて、
忽晏置釁 晏子をないがしろにしたため、彼に仲たがいの謀略を設けられた。
矜而自伐 三人は高いプライドによって自らを罰し、
軽死重分 死を軽んじて、人として守るべき道義を重んじた。
古冶子・田開疆・公孫接の三人は、斉の景王に仕えた勇士です。
彼らの態度を無礼と感じた晏子は、自ら手を下すことなく、二つの桃を送り込み、
彼らの自尊心をうまく利用して、互いに節義を張り合って自らを死に追い込むよう仕向けました。
これは、いわゆる「二桃殺三士」と呼ばれる説話で、
『晏子春秋』巻2・諫下に「景公養勇士三人無君臣之義晏子諫」第二十四として記されています。
楽府詩「梁甫吟」(『藝文類聚』巻19、『楽府詩集』巻41)にも歌われ、
更に、漢代画像石(墓壁などを飾る線描図像)の題材としても非常にポピュラーなものです。
そして、この故事を記す『晏子春秋』の文体や、それを描く画像石の配置状況を考え合わせると、
それは、目よりも耳で愉しむ、宴席文芸として行われていたと推測されます。
(このことは、かつて学術論文38で論じました。詳しくはこちらをご覧いただければ幸いです。)
だからこそ、宴席との親和性が高い楽府詩にも取り込まれたのでしょう。
(このことは、学会発表17で論及しました。)
曹植は、そうした故事「二桃殺三士」に取材する賛を作っている、
そして、昨日言及した「画賛序」(あるいは「説画」)の存在が示す通り、
この賛もまた、他の賛と同じく、図像に寄せられたものであったと見るのが妥当でしょう。
こうしてみると、曹植が目にしていた図像は、
一方に立派な古代の君主を描く一方、一方には通俗的な故事をも描いていたということになります。
これは、たとえば武梁祠(山東省嘉祥県)の画像石と極めて近しいものがあります。*
それではまた。
2019年11月26日
*長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)に詳しい。
曹植が見ていた絵図
丁晏『曹集詮評』巻9に、「画説」と題する次のような文章が収録されています。
観画者、見三皇五帝、莫不仰戴。見三季暴主、莫不悲惋。見簒臣賊嗣、莫不切歯。見高節妙士、莫不忘食。見忠節死難、莫不抗首。見放臣斥子*1、莫不歎息。見淫夫妬婦、莫不側目。見令妃順后、莫不嘉貴。是知存乎鑑者図画*2也。
絵を観覧する者は、三皇五帝(伏羲・神農・女媧、黄帝・顓頊・帝嚳・堯・舜)を目にすれば、誰もが敬愛して仰ぎ見る。三代の末世の暴君(夏の桀・殷の紂・周の幽王)を目にすれば、誰もが悲嘆に暮れる。君主の地位を奪い、父を殺して即位した者たちを目にすれば、誰もが激しい怒りを覚える。高い節操を持つ素晴らしい人士たちを目にすれば、食事も忘れて感嘆する。忠義の心で国難に身を捧げた者たちを目にすれば、誰もが気持ちを高ぶらせて面を上げる。国から放逐された忠臣や孝子を目にすれば、誰もが落胆のため息をつく。淫乱な夫や嫉妬深い妻を目にすれば、誰もが軽蔑して横目でにらむ。立派で柔順な后妃を目にすれば誰もが褒め称えて尊崇する。ここから、戒めの鏡としての役割を存するのは絵画であると知られるのである。
他方、同書の巻6には次のような作品が並んでいます。
「庖犧賛」「女媧賛」「神農賛」「黄帝賛」「少昊賛」「顓頊賛」「帝嚳賛」「帝堯賛」「帝舜賛」「夏禹賛」「殷湯賛」「湯祷桑林賛」「周文王賛」「周武王賛」「周公賛」「周成王賛」「漢高帝賛」「漢文帝賛」「漢景帝賛」「漢武帝賛」「羌嫄簡狄賛」「禹妻賛」「班婕妤賛」「吹雲賛」「赤雀賛」「許由巣父池主賛」「卞随賛」「商山四皓賛」「三鼎賛」「禹治水賛」「禹渡河賛」「楽観画賛」「古冶子等賛」
前掲の「画説」は、これらの画賛に関連付けられていたものではないでしょうか。
ここには、古代から漢代に至るまでの帝王や后妃、高い節操を持つ隠士たちの名が見えています。
と思ったら、清朝の厳可均が夙にこのことを指摘していました(『全三国文』巻17)。
前掲の曹植の文章は、
唐の張彦遠『歴代名画記』巻1に「曹植有言曰」として記され、
北宋の『太平御覧』巻751は、『歴代名画記』からの引用としてこれを収載しますが、
明の張溥『漢魏六朝百三家集』所収『陳思王集』巻1は、「画説」としてこれを収録しています。
(清朝末の丁晏は、この張溥本に拠って、明の万暦年間刊行の程氏本を補ったのですね。)
厳可均は、張溥本にいう「画説」という題目を非とし、
別に『太平御覧』巻750に「画賛序」として引く文章と同じく、
これ(前掲のいわゆる「画説」)もまた「画賛序」であろうと推定しています。
すると、曹植は前掲の文章に記されたような歴史的人物を描く多くの絵図をながめ、
これに賛を寄せたということでしょう。
こうした絵図については、曹植の前掲の文章とともに、
かつて拙論(学術論文42)で言及したことがありますが(原稿はこちら)、
もう少し踏み込んで検討し、修正したいことも出てきました。
それではまた。
2019年11月25日
*1 「放臣斥子」、『曹集詮評』は「忠臣孝子」に作る。『漢魏六朝百三家集』も同じ。今、『太平御覧』に拠って改める。
*2 「図画」、『曹集詮評』は「何如」に作る。『漢魏六朝百三家集』も同じ。今、『太平御覧』に拠って改める。