十二年後の再会

今日も『曹集詮評』の後半から。
巻七に、「謝明帝賜食表」と題する文章が収められています。
これは、『太平御覧』巻378・人事部(痩)に、明帝の詔とともに収録されているものです。

魏明帝手詔曹植曰、     魏の明帝は手ずから曹植に詔を下して言った。
王顔色痩弱、何意耶。    王は痩せ衰えた様子だが、どうしたのか。
腹中調和不。        腹の具合が悪いのか。
今者食幾許米、又啖肉多少。 さあ、いくらか米を食べよ。また肉にも少し食らいつけ。
見王痩、吾甚驚。      王が痩せているのを見て、自分は非常に驚いた。
宜当節水加餐。       水は控えて、もっと食べるがよい。

これに続けて、『御覧』は次のとおり、曹植が明帝の詔に答えた上表文を載せています。

近得賜御食、        近ごろ立派な食事を賜ることができまして、
拝表謝恩。         謹んでご恩に感謝を申し上げます。
尋奉手詔、         次いで、手ずからしたためられた詔を賜り、
愍臣痩弱。         臣が痩せ衰えていることを憐れんでくださいました。
奉詔之日、         詔を押し頂いた日、
涕泣横流。         涙がほとばしり流れました。
雖文武二帝所以愍憐於臣下、 文帝武帝のお二人が臣下を憐れんでくださったのでさえ、
不復過於明詔。       陛下の英明なる詔を超えるものではございません。

このような直接対面でのやり取りは、曹植の最晩年、
昨日も言及した太和六年(232)の正月(の前後)のことと見て間違いありません。
というのは、その前年の八月に出された明帝の詔(『三国志』巻3「明帝紀」)に、
次のような言葉が見えているからです。

朕惟不見諸王十有二載、悠悠之懐、能不興思。
朕は思うに諸王に会わないこと十二年、連綿たる思慕の情をどうして起こさずにいられよう。

明帝曹叡が最後に曹植に会ったのは、曹操が亡くなった220年だったのでしょう。
以降、二人はまったく顔を合わせる機会がなかったのです。
ですが、それ以前、十代の曹叡は、曹植のはつらつとした姿を多く目にしていたはずです。
父曹操の愛情をいっぱいに受けて、当代一流の文人たちと対等にわたりあう才気煥発たる叔父さん、
明帝の記憶の中にある曹植は、そのようなイメージであったはずです。
ところが、十二年の時を隔てて対面した叔父は、前述のとおりの様子をしていたのでした。

曹植の「元会」詩も、こうした背景を視野に入れて読み直さなくては、と思います。

それではまた。

2019年12月25日

鮮明な思い出

かつても取り上げたことがある曹植「元会」詩
その成立は、彼の最晩年に当たる、明帝の太和六年(232)でした。

魏王朝は、元旦の会に諸王を呼ばず、
明帝による招待は、特別な恩義によるものであったことも先に述べましたが、
この明帝のはからいを引き出したと思われる曹植の文章が、
次に示す「請赴元正表(元正に赴かんことを請ふの表)」(『曹集詮評』巻七)です。

欣豫百官之美  百官が居並ぶ美しさをうれしく思い起こし、
想見朝覲之礼  臣下たちが君主にお目通りする礼議の有様に思いを馳せる。
耳存九成    耳には雅やかな舜の音楽の余韻がありありと残っており、
目想率舞    目にはその音楽に合わせて百獣が連れ立って舞った様子を思い浮べる。

「九成」「率舞」は、『書経』益稷に出る語で、*
その古典籍の文脈を踏まえて、上記のように意訳しました。
かつて父曹操のもとで目の当たりにした、元旦の会での歌舞を指していると見られます。

それを鮮明なイメージとともに想起し、言葉に表現することによって、
そうした場に加わることへの強い願いを述べたのが、前掲の上表文なのでしょう。
この文章は断片でしか残っていないのですが、
その伝存部分は、このように、ありありと思い浮かべられた思い出の描写です。
それと題目とを結んだところに、本上表文の趣旨をこのように読み取ることができそうです。

それではまた。

2019年12月24日

*『書経』益稷に、「簫韶九成、鳳皇来儀」、「予撃石拊石、百獸率舞、庶尹允諧」と。

外部の視点

曹植作品の全体像を把握したくて、
毎日少しずつ、丁晏『曹集詮評』のテキスト入力を続けています。
今更の作業のように感じられるかもしれませんが、
(索引もあるし、ネット上には様々なテキストデータがありますから。)

特有の緩やかなスピード感があって、思いがけない拾い物をすることもあります。
それはまた、ノートに書き写して熟読することとも異なるリズムです。

その中には、拾って憮然としてしまう言葉ももちろんあります。
巻八所収「黄初五年令」にこうありました。

諺曰、人心不同、若其面焉。*
唯女子与小人為難養也。近之則不遜、遠之則有怨。
ことわざに、人の心は同じではない、その顔が同じでないのと同様だ、とある。
ただ、女子と小人とは養い難いものだ。近づければ無遠慮となり、遠ざければ怨みを持つ。

「諺」はともかくも、これに続くフレーズは何でしょうか。
曹植自身がこんなことを言ったのかと驚き、調べてみるとそうではありませんでした。

『論語』陽貨篇に、ほぼそのまま次のようにあります。

子曰、唯女子与小人為難養也。近之則不孫、遠之則怨。
子曰く、唯だ女子と小人とは養ひ難しと為す。之を近づくれば則ち不孫、之を遠ざくれば則ち怨む。

曹植の言に驚き、遡って孔子にたどり着いて、更にしょんぼりの度を増しました。

男子には、小人もいれば聖人も、大人も、中人もいるのに、
「女子」は一括りにして「小人」と同じ扱いです。

儒教社会には、一方で、女性の立場がめっぽう強いという実情もありますが、
それだって、男性を立てるということにおける立派さであって、
自由にのびのびと振る舞っていいという意味ではない。
(そういう点では男性も同じですが、それでも自由度は大きいでしょう。)

かつてはこんな時代があったと理解するほかないのですが、
このような言葉に遭遇するたびに、また門前払いされてしまったと感じます。

ですが、外部の人間だからこそよく見えるということがあります。
現代人には、前近代の文化の特徴を捉えることができる、
庶民出身であるからこそ、上流社会に特有の文化的構造が見える、
ある文明の特異性は、その周辺、あるいはその外にいる人間にこそ鮮明に映る、
だったら、男性優位の前近代中国の特異性は、現代の女性にこそよく見えるでしょう。

そう思うことは自由です。

それではまた。

2019年12月23日

*『春秋左氏伝』襄公三十一年に「子産曰、人心之不同、如其面焉(子産曰く、人心の同じからざるは、其の面の如し)」と。

周の文王と魏の武帝

曹植の「惟漢行」における周文王への言及は、
曹操を念頭において為されたものではないかと昨日述べました。

実は曹操自身も、周文王(西伯昌)のことは意識していたようです。
たとえば、西伯昌から歌い起される自作の「短歌行・周西」(『宋書』楽志三)。
また、建安15年(210)12月の己亥令(『三国志』武帝紀裴松之注に引く『魏武故事』)では、
『論語』泰伯篇にいう「天下を三分して其の二を有す」を引きながら、
西伯昌が大きな勢力を持ちつつも、なお殷王朝を奉戴する立場を取ったことに言及していますし、
最晩年の建安24年(219)には、天の意に従って天下掌握を勧める夏侯惇に対して、
もし天命が自分にあるのなら、それは周文王だと答えています(同武帝紀裴注引『魏氏春秋』)。

その裏側には、もちろん彼ならではの打算があるでしょう。
現在の王朝を擁しつつ、実質的な力を行使する方が統治上有効であるし、
後漢王朝からの禅譲は、我が子の世代にまで繰り下げた方が世論の抵抗が少ないだろう、
といった読みが働いて、曹操は自身を周文王になぞらえたのでしょう。

ただ、そうした曹操の深謀は、息子の曹植にどこまで感受されていたのでしょうか。
曹植が詠ずる父曹操は、かなり理想像に近い君主であるように思われます。
もしかしたらそれは、現在の君主との対比から引き出されたものであったのかもしれません。

それではまた。

2019年12月20日

 

魏王朝と周王朝

過日も言及した、曹操の「薤露」に由来する曹植「惟漢行」は、
その末尾に次のような句を連ねています

17 在昔懐帝京  在昔 帝京を懐ひ、
18 日昃不敢寧  日の昃(かたむ)くまで敢て寧(やす)まず。
19 済済在公朝  済済たる 公朝に在りて、
20 万載馳其名   万載 其の名を馳す。

18句目は、『書経』無逸に見える次の句を踏まえています。

自朝至于日中昃、不遑暇食、用咸和万民。
朝から日没まで、食事をする暇もなく働いて、それで万民を和らげた。

これは、周の文王(西伯昌)のことを記したものです。

19句目は、『詩経』大雅「文王」にいう次の句を踏まえています。
これも、その詩題が示すとおり、周文王にまつわるものです。

済済多士、文王以寧。
厳かに居並んだ臣下たち、文王の御霊もこれで安心だ。

このように、曹植「惟漢行」は、周文王を想起させる辞句で一篇を結んでいます。

そこで改めて思うのが、魏王朝と周王朝との重なりです。

周文王(西伯昌)は、自身は大きな勢力を持ちながらも殷王朝に仕え、
その子の発(周武王)が、殷の紂を討って周を立てました。

魏の武帝曹操も、後漢王朝の臣下としての立場を全うし、
子の曹丕が、後漢から禅譲を受けて、魏の文帝として即位しました。

すると、曹植が父曹操を想いつつこの楽府詩を詠じていることは確実でしょう。
そもそもその楽府題が曹操「薤露」から取ったものでした。

他方、魏王朝と周王朝とは異なっている部分もあります。

周は、初代の武王が亡くなった後、その子が成王として即位すると、
武王の弟である周公旦が、幼い成王を補佐しました。

魏の明帝曹叡と曹植とは、この成王と周公旦との関係に等しい。
けれども、曹植は生涯、皇室の一員として王朝のために働くことはできませんでした。

それではまた。

2019年12月19日

魏の宮廷音楽「相和」再考

先日来取り上げてきた「薤露」や「平陵東」は、
このところ頻繁に言及している、魏王朝の宮廷歌曲「相和」に含まれるものです。
「相和」と総称される歌曲の歌辞は、『宋書』巻21・楽志三に採録されています。
今、そこに列記された順に、楽府題・歌辞名(第一句)、作者名を示せば次のとおりです。

01 「気出倡・駕六龍」 曹操
02 「精列・厥初生」 曹操
03 「江南・江南可採蓮」 古辞
04 「度関山・天地間」 曹操
05 「東光乎・東光乎」 古辞
06 「十五・登山有遠望」 曹丕
07 「薤露・惟漢二十二世」 曹操
08 「蒿里行・関東有義士」 曹操
09 「対酒・対酒歌太平時」 曹操
10 「鶏鳴・鶏鳴高樹顛」 古辞
11 「烏生・烏生八九子」 古辞
12 「平陵・平陵東」 古辞
13 「陌上桑・棄故郷」 曹丕
14 「陌上桑・今有人」 『楚辞』九歌・山鬼
15 「陌上桑・駕虹蜺」 曹操

作者は、魏の創始者である武帝曹操、初代皇帝である文帝曹丕、
及び漢代詠み人知らずを意味する「古辞」によって占められています。
ここから、「相和」が魏王朝にとって特別なものであったと推察することができます。

とはいえ、その歌辞の内容は、実に統一感のないものであって、
誰かがある意図をもって諸歌曲の中から選び抜き、編集したとはとても思えません。

では、この無秩序とその尊重のされ方とを、合わせてどう捉えればよいのでしょうか。

これらの歌曲は、魏王朝の宮廷歌曲となる以前から、
すでにまとまったかたちで演奏されていたのではないかと私は見ています。

というのは、後漢中期の馬融(79―166)「長笛賦」(『文選』巻18)の序文に、
次のような記述があるからです。*1

有雒客舎逆旅、吹笛為気出精列相和。融去京師踰年、蹔聞、甚悲而楽之。
ある洛陽からの旅人が宿に泊まり、笛を吹いて「気出」「精列」の「相和」を演奏した。
都を離れて一年以上になる私は、しばしこれを耳にして、すっかり感傷的な気分に浸りきった。

ここにいう「気出」「精列」は、前掲の『宋書』楽志三に記す諸歌辞の冒頭の二篇であり、
それを受けて「相和」と言っているところが注目されます。

もし、「相和」が漢代から歌い継がれてきたものであり、
魏国はそれをそのまま取り上げた、

それが、魏王朝成立後、宮廷音楽として演奏されるようになった、
と考えればどうでしょう。

各曲の内容に一貫性がない、にもかかわらず重要視されている、
このことの理由が見えてきます。

以前、魏王朝は、自らの箔付けのために「相和」を利用したと考えていたのですが、*2
(ちょっと皮肉っぽい、魏王朝に対して厳しい見方ですね。)
前掲の馬融「長笛賦」に述べるように、「相和」は洗練された歌曲群であったらしい、
このことを踏まえると、また違った見方ができるかもしれません。

後漢王朝の内に封土を与えられた魏国の君主たる曹操は、
都ぶりの優美な楽曲群である「相和」諸曲を大切に取り上げて演奏させ、
あるものについては、その曲に合わせて独自の歌辞まで作った、

魏の宮廷歌曲「相和」は、それをそっくり引き継いだものだ、
と捉えることもできます。

それではまた。

2019年12月18日

*1 詳しくは、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(著書№4)p.333~335をご参照いただければ幸いです。
*2 こちらの学術論文№19、及び柳川前掲書のp.316~341に詳述しています。

三三七のリズム

曹植「平陵東」は、古辞「平陵東」と句数が違っているが、
同じメロディに載せられる歌辞であったかもしれないと昨日述べました。

これは、次に示すように、句の構成という観点からの推測です。

まず、曹植の歌辞の、本文のみを再掲します。

閶闔開、天衢通、被我羽衣乗飛龍。
乗飛龍、与仙期、東上蓬莱采霊芝。
霊芝採之可服食、年若王父無終極。

次に、本辞である古辞「平陵東」です。

平陵東、松柏桐、不知何人劫義公。
劫義公在高堂下、交銭百万両走馬。
両走馬、亦誠難、顧見追吏心中惻。
心中惻、血出漉、帰告我家売黄犢。

両方とも、中核を為しているリズムは三・三・七、
これは、漢魏晋の民間歌謡には割合多く認められるものです。*1

そして、その基層に流れているのは八拍、*2
いわゆる三々七拍子と同じ調子で空白の一拍が入る、と考えてみる。
すると、このリズムは漢語として非常に安定的なリズムを刻むことが感知されます。

さて、三・三・七を1サイクルと見るならば、
曹植の歌辞はこれを3回、古辞は4回繰り返したかたちだということです。
すると、この歌辞の両方を載せるメロディの外枠は、それほど無理なく導き出せるでしょう。
1サイクルがひとつのまとまりを持つメロディだったのであれば、
両者の隔たりは、同じメロディを何度繰り返すかという違いだけになります。
そうでなければ、たとえば、曹植の歌辞の最後の二句を反復して歌い、
本辞のメロディ全体に沿わせたという可能性もあるでしょう。

以上のように考えて、
曹植「平陵東」は、本辞のメロディのみを踏襲する、
その本辞が本来持っていた挽歌としての内容には踏み込まない歌辞であった、
という推論は成り立ち得ると判断しました。

大前提として、曹植の「平陵東」を平静に読んで、特に屈託を感じ取れなかったこともあります。
神仙を詠ずることが、現実世界への批判やそこからの遁走を意味するようになるのは、
いつ頃、どのようなことを契機とするのか、丁寧に考えていきたいです。

それではまた。

2019年12月17日

*1 たとえば、杜文瀾『古謡諺』(中華書局、1958年)p.65、66、69、77、86、95、98、99、100、106、108、109、111、115、116、120、135に採録されている歌謡を挙げることができる。

*2 古川末喜『初唐の文学思想と韻律論』(知泉書館、2003年)第Ⅲ編第四章「中国の五言詩・七言詩と八音リズム」(初出は『佐賀大学教養部研究紀要』第26巻、1994年)を参照。

若き貴公子の歌なのか

曹植の「薤露行」「惟漢行」は、曹操「薤露」を踏まえるものでした。
曹操「薤露」は、魏王朝の宮廷歌曲「相和」の中の一曲です。

では、曹植は他の「相和」にも独自の歌辞を作っているのかといえば、
上記の2篇以外では、次にあげる「平陵東」のみです。

閶闔開      天門が開き、
天衢通      天上界の大通りが眼前にひらけ、
被我羽衣乗飛龍  羽衣を着せ掛けられた私は、飛ぶ龍に乗る。
乗飛龍      飛ぶ龍に乗って、
与仙期      私は仙人と約束をしているのだ、
東上蓬莱采霊芝  東のかた蓬莱山に上って霊芝を取ろうと。
霊芝採之可服食  霊芝はこれを取って服食するがよい、
年若王父無終極  すると、東王公のように無限の長寿となるのだ。

魏朝で歌われた古辞「平陵東」は、
前漢末、王莽に抵抗して挙兵し、殺害された翟義(『漢書』巻84・翟方進伝附翟義伝)を悼み、
その門人が作ったと伝えられています(『楽府詩集』巻28に引く西晋・崔豹『古今注』)。

ところが、曹植のこの楽府詩には、そうした内容は継承されていません。
ご覧のとおり、曹植は「平陵東」という楽府題を掲げながら、
その内容は、もっぱら神仙世界を詠ずるものです。

この点では、彼の「薤露行」と同じスタンスを取ると言えるかもしれません。
それは、挽歌としての内容を消し去り、もっぱら輔政や著作への抱負を詠じていたのでした。
曹操の「薤露」と句数を同じくしていること、そこから推測されることについても、
すでに先に述べたとおりです。

曹植の「平陵東」は、
「相和」の一曲として宮中で歌われた古辞とは句の数が異なっていますが、
もし、長短を調整することができる構成の歌曲であったのならば、
「相和・平陵東」と同じメロディに載せるべく作られた歌辞なのかもしれません。

特別な宮廷歌曲「相和」の一曲にこうした歌辞を載せたということに、
魏王国の中で、自由気ままに振る舞う若き貴公子の姿を垣間見るようです。

もっともこれは私見であって、本詩の成立年代は不明です。
趙幼文『曹植集校注』は、魏の明帝の太和年間に繋年していますし、
曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)は、本詩の背後に鬱屈した気を読み取ろうとしています。

それではまた。

2019年12月16日

曹植の二篇の「薤露」ふたたび

昨日に続き、これも以前に言及したことがあるのですが
「相和」曲中の「薤露」に対して、曹植はふたつの歌辞を作成しています。

ひとつは「薤露行」、
もうひとつは、曹操「薤露」の第一句から楽府題を取った「惟漢行」。

「薤露行」の成立年代について、

趙幼文『曹植集校注』(人民出版社、1984年)は、明帝の太和年間の作と推定しています。
治世の才能を発揮する機会に恵まれない曹植が、文筆活動に注力しようと詠じている、
それは、文学創作を軽視していた青年期の彼から一転している(意訳)、というのがその根拠です。

古直(1885―1959)『曹子建詩箋』は、曹操在世中の建安年間と推定しています。
輔政への抱負、そして、それが叶えられない場合は著述で身を立てたいと詠ずる本詩の内容は、
彼の「与楊徳祖書」(『文選』巻42)と重なり合う、というのがその根拠です。
楊修(字は徳祖)は、曹植の腹心の友でしたが、建安24年(219)、曹操に殺されました。

これについて、私見としては建安年間と見る方に賛成です。
古直の論に付け加えるには根拠薄弱ですが、この詩はなにか明るいのです。

人居一世間   人が一世の間に身を置いて、
忽若風吹塵   あっという間に終わりを迎えることは、風に吹かれる塵のようだ。

という厭世的な内容の辞句にしても、表現としては漢魏の詩歌には常套的なものであって、
この時代の宴席に通奏低音として流れていた情感だと言えます。

句数が曹操の「薤露」と同じ16句で、同じメロディに合わせて作られた可能性もあります。
「薤露」の歌が宴席で歌われていたことは先にも述べたとおりです。

他方、「惟漢行」の成立年代については、
趙幼文、黄節(1873―1935)『曹子建詩註』は明帝期と推定しています。
(古直には特に言及がないようです。)
建安年間と見る評者もいますが、黄節がそれを非としていて、妥当だと私も思います。

というのは、「惟漢行」は、魏王朝に入ってから作られたことが明らかな曹植の作品と、
類似する表現を少なからず共有しているのです。

もし、「惟漢行」が「薤露行」の後に作られたのだとするならば、
曹植はなぜ、曹操の「薤露」に依拠する「惟漢行」を重ねて作ったのでしょうか。

このことについて、もう少し考察を続けたいと思います。

それではまた。

2019年12月13日

再考の種をもらった

以前にも述べたことがありますが、
西晋の傅玄に「惟漢行」という楽府詩があります。

魏王朝の「相和」十七曲の一つ「薤露」に、武帝曹操が歌辞を寄せた「惟漢二十二世」、
これに基づいたことを楽府題に明示する傅玄「惟漢行」ですが、
その内容は、かの鴻門の会のドラマティックな場面を詠ずるものでした。
これは、西晋時代、曹操の「薤露」が宮中で歌われなかったからこそ許されたことでしょう。

こうした内容を、昨日の授業で交換留学生に話していたところ、
傅玄が魏の時代にこの楽府詩を作ったという可能性はないか、との質問を受けました。

傅玄(217―278)は西晋の人とされていますが、
たしかに、司馬炎が魏から受禅した265年12月の時点で彼はすでに49歳、
司馬懿が曹爽を殺して魏王朝における実権を掌握した249年時点で33歳ですから、
傅玄は青壮年期を、司馬氏が魏王朝を骨抜きにしていく時間の中で過ごしたことになります。

傅玄は、西晋王朝の雅楽の歌辞を多数制作している一方、
後世にいわゆる「清商三調」の歌辞、また宮廷音楽とは無関係の雑曲歌辞も作っています。
こちらの「漢魏晋楽府詩一覧でデータの並べ替えをしてみていただければ明らかです。)
その中で、魏の宮廷音楽「相和」の、曹操「薤露」に由来する歌辞は異質です。
しかも、そのことを楽府題によって明示している。

傅玄「惟漢行」を、その成立年代も含めて、
彼の魏王朝に対する見方と合わせて考え直したいと思います。

それではまた。

2019年12月12日

1 67 68 69 70 71 72 73 74 75 83