徐幹の没年をめぐって

先日の「徐幹の足跡」に関連しての追記です。

彼の没年について、
無名氏による「徐幹『中論』序」は、次のように記しています。

年四十八、建安二十三年春二月、遭厲疾大命殞頽、豈不痛哉。
(四十八歳、建安二十三年(218)春二月、ひどい疾病に襲われて亡くなった。実に痛ましいことだ。)

この序文の著者は、続く次の記載内容から、徐幹に極めて近しい人物だと知られます。*1

余数侍坐、観君之言、常怖篤意自勉、而心自薄也。何則自顧才志、不如之遠矣耳。
(余はしばしば側に侍り、そなたの言葉を観ずるに、常に畏敬し、篤い意思を持って自ら励みつつ、心の中では自分に劣等感を抱いていた。なぜならば、自ら才能や志を顧みるに、そなたには遠く及ばないからである。)

このような人物がその執筆者であるならば、
徐幹の没年に関する前掲の記述には信憑性があると言えるでしょう。

他方、同じ時代の曹丕「与呉質書」(『文選』巻42)にはこうあります。

昔年疾疫、親故多離其災。徐・陳・応・劉、一時倶逝。
(その昔、疫病によって親類や古馴染みが多くその災禍に罹った。徐幹・陳琳・応瑒・劉楨はいっぺんに連れだって逝去してしまった。)

『三国志』巻21「王粲伝」は、彼らの没年を建安22年と記し、続けて曹丕のこの文章を引いています。

では、彼らが一斉に亡くなった建安22年とはどのような年だったのでしょうか。
前年(216)の10月、曹操は呉の孫権討伐に出発、
翌年の建安22年正月、居巣に陣取り、同年3月には引き上げています。

王粲は、建安22年の春、曹操の呉への出征に従う途上に没した、と本伝に記されています。
陳琳が同じく呉への出征に従軍したことは、その「檄呉将校部曲文」から推測できます。*2

また、『三国志』巻15「司馬朗伝」に、次のような記載があります。

司馬朗(司馬懿の兄)は建安22年、呉へ出征し、
居巣まで来たところで、軍士の間に疫病が大流行した。
司馬朗は自ら巡回視察して医薬を施したが、急病のために卒した。

こうしてみると、この年に文人たちが一斉に逝去したのは、従軍先でのことだったようです。
すると、徐幹は同時期には亡くなっていなかった可能性が高いでしょう。
彼はこの時すでに曹操幕下から退いて、『中論』執筆に専念していたのですから。

ただ、「建安二十三年」の「三」は、実は「二」であったかもしれません。
後世、伝写の過程で誤ったとは大いにあり得ることでしょう。
それに、疫病というものはあっという間に伝染するのでしょうから、
多くの人々が亡くなった従軍先の居巣から離れた場所にいたはずの徐幹であっても、
押し寄せる疫病の災厄を免れることは難しかったのではないでしょうか。
約1年間のタイムラグは、少し大きすぎるような気がします。

徐幹の没年はいずれの年か、結局わかりませんでした。

それではまた。

2019年11月5日

*1 厳可均『全三国文』巻55は、この無名氏を、同時代の儒者、任嘏ではないかと推測しています。孫啓治『中論解詁』(中華書局、2014年)p.395は、厳可均の説を紹介しながら、これを非としています。
 もし『中論』序文の著者が任嘏であるならば、彼はかつて臨菑侯庶子を務めたことがある(『三国志』巻27「王昶伝」裴松之注引『任嘏別伝』)人物ですから、徐幹とは曹植のもとで親密な交流を持つに至った可能性もあります。(2019.11.20追記)

*2 杜志勇校注『孔融陳琳合集校注(建安文学全書)』(河北教育出版社、2013年)p.179を参照。

※ 徐幹の事蹟、特にその没年については、興膳宏編『六朝詩人伝』(大修館書店、2000年)p.60~61、林香奈氏による「徐幹」注三に、先行研究に関する詳細な紹介があります。(2020.04.10追記)

晋楽所奏「怨詩行」に関する付記

ずいぶん前に取り上げた晋楽所奏「怨詩行」について、ひとつ付記しておきます。

この楽府詩が曹植「七哀詩」をベースにしていることはすでに述べたとおりですが
このように、徒詩を楽府詩にアレンジして宮廷歌謡としたケースは、
『宋書』楽志三を見る限りでは、他に見当たりません。
ここに収録されているのは、もともと楽府詩であったものです。

曹植の作品は、「野田黄雀行・置酒」が「大曲」に取られていますが、
これは、曹植の楽府詩(『文選』巻27では「箜篌引」と題す)の歌辞をほぼ踏襲しています。
他方、「怨詩行」の場合は「七哀詩」の辞句の一部を大きく変えていました。

また、楚調「怨詩行」は『宋書』楽志の中で、平調、清調、瑟調、大曲と続く末尾に付記されており、
しかも、楚調はこの歌辞一篇のみです。

以前、この楽府詩は、曹植に捧げられた鎮魂歌であると同時に、
司馬炎に排斥された司馬攸への追悼歌でもあったのではないかとの考えを述べました。

この推論は、上述のような本歌辞の特殊性から見ても、一定の妥当性を持つように思います。
西晋王朝の他の宮廷歌謡(いわゆる「清商三調」)とは別に、
ある強い思いから新たに作られ(アレンジ)、後からそっと添えられたような印象です。

それではまた。

2019年11月4日

わからなくなってきました。

先日来読んでいる曹植「贈徐幹」は、やっぱりわかりにくい詩です。
中でも特にわかりにくいのは詩の構成です。
昨日書いたことで、もうさっそく、それは少し違うと思うことが出てきました。
(書けば自分の考えの不備が現れてきます。書くことが考察を前に進めてくれます。)

たとえば、「第7~12句は宮殿の有り様、13~18句は貧困の中で著述に励む人の描写」は、
厳密にいえば、第7・8句と第9~12句、第13~16句と第17・18句となるでしょう。
そして、それがそれぞれ第6句「小人」と第5句「志士」とにつながっている、
つまり、「志士」をa、「小人」をbとするならば、
a⇔b、〔b’+B〕⇔〔A+a’〕という構成を取るのではないかという考えです。

4句ひとまとまりと、2句ひとまとまり、それらがどう構成されているのか、
練り上げられた結果であるのか、それとも即興でこうなったのか。

また、「志士」と「小人」との対句の前に置かれた風景描写は、
やはり純然たる叙景であるとは言い難く、
風景を写実的に描く作風が生まれていないこの時代の表現である以上、
叙景であると同時に、人的世界の何らかの状況を比喩しているのだろうと思わざるを得ません。

別に、先人の注釈に、次のような興味深い指摘がありました。
古直『曹子建詩箋』巻1にいう、

「慷慨有悲心、興文自成篇」「良田無晩歳、膏沢多豊年。亮懐璵璠美、積久徳愈宣」等の句を吟味するに、この詩は、おそらく徐幹の『中論』に因って発せられているのではないか、

との指摘で、
古直はこう述べた上で、『中論』の中のいくつかの記述を列挙しています。

徐幹という詩人を、思想家としての側面から捉え直し、
その上で、曹植のこの詩をあらためて読んでみたいと思いました。

それではまた。

2019年11月2日

「志士」と「小人」

曹植「贈徐幹」詩の解釈の続きです。
昨日は引用しなかった、冒頭から18句目までは以下のとおりです。

01 驚風飄白日  激しい風が白く輝く太陽を吹き飛ばし、
02 忽然帰西山  太陽はあっという間に西方の山へ帰っていった。
03 円景光未満  月はまだ満月の光をたたえてはおらず、
04 衆星粲以繁  あまたの星が燦然とびっしりと輝いている。
05 志士営世業  志士は、先祖代々受け継いできた仕事に精を出し、
06 小人亦不閑  小人もまた、閑居して不善を為しているわけではない。
07 聊且夜行遊  まあとりあえず夜の散歩にでかけ、
08 遊彼双闕間  かの向かい合う宮城の門のあたりをぶらついてみた。
09 文昌鬱雲興  文昌殿はうっそうと雲が湧きあがるように建ち、
10 迎風高中天  迎風観は高くそびえて天に届かんばかりだ。
11 春鳩鳴飛棟  春鳩は、飛翔するかのごとき高い棟木の間に鳴き交わし、
12 流飆激櫺軒  渦を巻いて流れる風は、連子窓を備えた長廊に激しく吹き付ける。
13 顧念蓬室士  振り返って粗末な草堂に暮らすそなたに思いを馳せれば、
14 貧賤誠足憐  その貧賤のあり様にはまことに憐憫を禁じ得ない。
15 薇藿弗充虚  ゼンマイやアカザは空腹を満たさないし、
16 皮褐猶不全  粗末な皮衣では身体を十分に覆うこともできない。
17 慷慨有悲心  そなたは悲憤慷慨の思いをかかえ、
18 興文自成篇  それを美しい言葉に紡げば自ずから作品に結実する。

このうち、第7~12句は宮殿の有り様、13~18句は貧困の中で著述に励む人の描写です。

その前に置かれた「志士」と「小人」は、これに対応すると見ることができるでしょう。
すなわち、宮殿にいる「小人」と、その外にわび住まいしている「志士」です。

「志士」は、誰もが認めるとおり、徐幹その人を指すに違いありません。
では、「小人」とは誰か。
『集注本文選』に引く『文選鈔』は、これを曹植その人だと解釈しています。
冒頭4句を叙景と見て、第7・8句の行動の主体を「小人」と見るならば、それが自然でしょう。
4句目までを時代状況の比喩と見るならば、「小人」を文字どおりに取ることも可能でしょうが、
そうすると、第7・8句が浮き上がってしまいます。

また、本詩の成立は、曹植が数々の失態により父曹操の寵愛を失った頃だと推定できますが、
そのような状況の中にある人が、他者のことを「小人」呼ばわりするのは不自然です。
さらに言えば、これは謙遜語でもなく、曹植の自己認識なのかもしれません。

このように見てくると、詩の後半における徐幹への語りかけ方にも納得がいきます。
相手への敬愛を詠じつつも、若干の距離を感じさせる表現(第25・26句)となっていたのは、
自身がこうした状況に陥っていたからではないでしょうか。

それではまた。

2019年11月1日

曹植の徐幹に対する語りかけ

一昨日の続きです。
曹植の「贈徐幹」詩の解釈について、岩波文庫『文選 詩篇(三)』p.81にこうあります。
(少し長くなりますが、全文を引用します。)

 能力にふさわしい地位を得ていない徐幹の身を憐れみ、はげます曹植の詩。徐幹は五官中郎将文学として劉楨とともに曹丕に仕え、建安十九年(214)には臨菑侯文学となって曹植に仕えたが、二年の後、病と称して政務から退き『中論』の執筆に没頭した。この詩はその頃の作とされる。曹植は後継者争いをめぐって兄曹丕と確執を生じ、それは利害の絡まる配下の人たちにも影を落としていた。曹植から遠ざかろうとする徐幹、それを自分につなぎ止めようとする曹植、そんな思惑が絡み合っていると読み取れなくもない。

この中で、私にはよく理解できないのが最後の一文です。
曹植のこの詩からは、徐幹をつなぎ止めようとする意思は読み取れないように思うのです。
直接関係する19句目以降を挙げれば次のとおりです。

19 宝棄怨何人  宝が打ち捨てられていることについて、いったい誰を怨もうか。
20 和氏有其愆  宝を見出して献上する人に、その過ちがあるのだ。
21 弾冠俟知己  冠を弾いて、知己が推薦してくれるのを心待ちにしていても、
22 知己誰不然  その知己だって誰もが同じような境遇にあるのだ。
23 良田無晩歳  よく肥えた田に収穫の遅れはなく、
24 膏沢多豊年  恵みのうるおいにより、きっと豊かな実りがあるだろう。
25 亮懐璵璠美  真に宝玉の美質を備えていれば、
26 積久徳愈宣  久しい時を重ねて、その徳はいよいよ明らかとなろう。
27 親交義在敦  親交は、どんなことがあっても変わらぬ厚情にこそ意義がある。
28 申章復何言  美辞麗句を重ねてまた何を言うことがあろうか。

「棄」てられた「宝」は、誰もが認めるとおり徐幹でしょう。
「和氏」は、下文の「知己」を喩えたものと見ることができます。(『文選』李善注)
そして、「宝」も「和氏」も、同じく見捨てられた境遇にあると言っています。(第22句)

もし「和氏」に喩えられた「知己」を曹植自らをも含めて言うのだとすると、
曹植は、徐幹をしかるべき職に推薦することができないと言っていることになります。

だからこそ、第25・26句で、真の美質を備えた貴方は大丈夫だと励ましているのでしょう。

曹植は、自分は徐幹に対して社会的地位を準備できるような力を持たないけれど、
その人に対して心からの敬意と親密な気持ちを持っていると詠じているのではないでしょうか。

それではまた。

2019年10月31日

 

徐幹の足跡

曹植の「贈徐幹」(『文選』巻24)は、よくわからない詩です。
逐語的に訳せたとしても、それで何を言おうとしているのかがわからない。
詩が作られた背景がわからないことにはどうしようもない、という句が多いのです。
そこで、まず徐幹の事跡を『中国文学家大辞典(先秦漢魏晋南北朝巻)』で概観しました。*1

①霊帝の末年(189)頃、年は二十歳前、仕官せず勉学に励む。
②建安10年(205)、袁紹を平らげた曹操のもとで司空軍謀祭酒掾属を務める。
③13年(208)、赤壁の戦いに従軍し、「序征賦」を作る。
④16年(211)、曹丕のもとで五官将文学を務める。馬超征伐に従って「西征賦」を作る。
⑤鄴への帰還後(あるいはかつて)、曹植のもとで文学を務める。
⑥建安18年(213)前後、病がひどくなったため退居して『中論』執筆に専心する。
⑦建安23年(218)2月、疫病のために、48歳で卒す。

①⑥⑦については、無名氏による「徐幹『中論』序」、*2
②④は、『三国志』巻21「王粲伝」によって確認することができますが、
⑤は、『三国志』巻16「鄭渾伝」裴松之注引『晋陽秋』、及び『晋書』巻44「鄭袤伝」によって、
曹植が臨菑侯となった建安19年(214)以降と推定(修正)すべきでしょう。
また、⑥については、216~217年頃と比定できるかもしれません。
というのは、「中論序」には、

会上公撥乱、王路始闢、遂力疾応命、従戌征行。歴載五六、疾稍沈篤、不堪王事、潜身窮巷、……
 ちょうど魏公(曹操)は混乱を治め、王道がやっと開かれてきたところだったので、
 かくして(徐幹は)病を押して従軍したのであった。
 五六年の歳月を経て、病が次第にひどくなり
、勤務に耐えられなくなって、
 田舎暮らしに身を潜めることとなった。……

と記されているばかりであって、「歴載五六」の起点は示されていないからです。
そして、もしその起点を前掲の馬超征伐(211)に取るならば、退隠は216~217年頃となります。
つまり、214年から臨菑侯曹植のもとで文学を3年ほど務めた後に退隠した、と。

一応このように徐幹の閲歴を捉えた上で、「贈徐幹」詩を振り返ってみると、
その成立時期は、臨菑侯曹植が父曹操の寵愛を失った頃、
徐幹が隠逸的生活に入った晩年期と見るのが最も妥当であるようです。

岩波文庫の『文選 詩篇(三)』(2018年7月)p.81も同様な推定ですが、
ただ、詩の解釈については少し疑問を感じる点があります。
もう少し考えてみます。

それではまた。

2019年10月29日

*1 曹道衡・沈玉成編撰『中国文学家大辞典』(中華書局、1996年)p.349~350を参照。

*2 孫啓治『中論解詁』(中華書局、2014年)p.393~395を参照。

同じく文治を説いた人

先に、曹操に文治を説いた、袁渙という知識人がいたことを述べました。
時に曹操は魏公となったばかりとあるので、それは建安18年(213)頃のことでしょう。

ところが、ほぼ同じ頃、同じく曹操に文治を説いて黙殺された人物がいます。

参軍の傅幹です。
『三国志』巻1「武帝紀」裴松之注に引く『九州春秋』に、
建安19年(214)、秋七月、孫権を討伐しようとした曹操に対して、
これを諫めた彼の言葉が記されています。

『隋書』巻33・経籍志二によると、
『九州春秋』十巻(雑史)の著者は司馬彪。
彼はまた、正史『続漢書』八十三巻をも著した歴史家です。
(現行の『後漢書』巻末の「志」は、後人が『続漢書』から採ったものですね。)
してみると、傅幹に関する記録は信頼できると見てよいでしょう。

その『九州春秋』は、
傅幹の諫言を引いた後に「公は従わず、軍は遂に功無し」と記していますが、
曹操に関する記録にはよくある、自分の間違いを認めて謝罪したとの記述は見えません。
(曹操が実際に何も言わなかったのか、記録に残らなかっただけなのかは不明ですが。)

また、続けて「(傅幹は)北地の人にして、丞相倉曹属に終わる」とあります。
全国の知識人ネットワークに名を馳せる人物(袁渙など)の言うことは「善し」とするが、
(ただ「善し」としただけなのかもしれませんが。)
無名に近い部下の言葉には耳を貸さなかったということでしょうか。
若い頃の曹操には、あまり認められない姿勢であるような印象を持ちました。

ところで、『九州春秋』の本条によると、
これまでにも何度か言及したことがある傅玄は、傅幹の息子だとのこと。
傅玄の著書や作品は、その父と曹魏政権との関係を視野に入れると理解できることがありそうです。

それではまた。

2019年10月28日

曹操の息子たち

先に、曹操が宝刀5枚を作り、文治を託せる子に与えようとしたけれど、
そのうちの2枚は曹操の手元に残ったことを述べました。

なぜそのようなことになったのでしょうか。

宝刀ができたのは、建安16年(211)から22年(217)までの間、
(もう少し絞り込めると思いますが、今は措いておきます。)
これより以降、曹操は呉の孫権、漢中の張魯、劉備を征伐しに出掛ける一方、
漢王朝の遺臣である金禕や吉本、また西曹掾の魏諷らが起こした反乱に苦慮しています。
相次ぐ内憂外患に、文治どころではなくなったのかもしれません。

とはいえ、曹操の期待に応え得る息子が、
曹丕、曹植、曹林のほかにいなかったのでしょうか。

曹操には二十五人もの息子がいたのですから、
あと二人くらいは、宝刀の下賜に値する人物がいてもよさそうなものです。

そこで、『三国志』の彼らの伝記(巻19、20)を概観してみたところ、
殺伐とした風景が眼前に広がるのを禁じえませんでした。

曹操の息子たち25人のうち、
建安16年(211)当時、生存していたものは15人、
太子が曹丕に決まった同22年(217)には14人、

曹丕が文帝として即位した220年以降の生存者は12人、
更に明帝期になると10人。

(こちらにまとめてみました。)

曹丕が太子に立てられたとき、
その母である卞皇后は、女官長に祝福されても節度を守った、
と、同巻5「后妃伝(卞皇后)」に記されていますが、
卞皇后の態度の背景には、こうした状況もあったのかもしれません。
(それとも、この時代の子供の生存率はこれくらいが普通だったのでしょうか。)

多くの公子が早逝する中で、生きている者の中には、
たとえば曹袞のように非常に聡明な人物もいたのでしょうが、
そうした人々は、曹丕と曹植との後継者問題が緊張の度を増す中で、
それに巻き込まれることを恐れ、敢えて自身の文才を隠した可能性もあります。

それではまた。

2019年10月26日

 

 

文学を好む兄弟

曹植の文才に肩を並べようとした皇族に、中山恭王曹袞(?―235)がいます。
『三国志』巻20の本伝には、
「凡所著文章二万余言、才不及陳思王而好与之侔」と記されています。
才能は異母兄の曹植には及ばなかったけれど、好んで兄と肩を並べたがった、と。
近しい年長者に強くあこがれ、少年らしい勝気さで兄と張り合う様子が目に浮かぶようです。
なお、これは曹丕が曹操の後を継いだ220年以降のことではないでしょう。
曹丕の時代となってからは、兄弟間の交流が禁止されましたから。

さて、実は、宝刀を与えられた曹操の子と聞いて、
曹丕・曹植以外では真っ先にこの曹袞のことを想起したのですが、その推測は外れました。
建安21年(216)に平郷侯に封ぜられていることから考えると、
曹操が宝刀を作った頃はまだ、十代前半くらいの少年だったと推測され、
そのために、宝刀を下賜されて文治を託されるということがなかったのかもしれません。

そして、昨日言及した「饒陽侯」曹林は、彼の同母兄でした。

前掲『三国志』本伝の記述によると、
曹袞は慎み深い態度を貫き、逐一その言動が朝廷に報告される等の仕打ちによく堪え、

明帝の時代、病気で亡くなりましたが、曹林は彼にその死後を託されています。

なお、曹林の孫娘は、嵆康の妻です。(『三国志』巻20「沛穆王林伝」裴松之注に引く『嵆氏譜』)
彼女が婚家に持ち来った家風というものがあるとするならば、
それはきっと、文学や学問を好む、物静かな気風なのだろうと想像しました。

それではまた。

2019年10月24日

宝刀を授けられた王族

一昨日からの続きです。
曹植「宝刀賦」の序文に、饒陽侯(曹林、又の名は豹)が言及されていました。
彼はどのような人物だったのでしょうか。

過日も触れた曹操「百辟刀令」に述べられていたとおり、
この宝刀は、曹操が学問を好む我が子に贈ろうと作らせたものでした。

他にこの宝刀を手にしたのは、曹丕、曹植、そして曹操自らが2枚を保持していました。
すると、曹林(豹)もまた、学問文芸を善くする人物だったと推測されます。

『三国志人名索引』*によって調べてみると、
曹林(巻20に本伝あり)に関する次のような記事にたどり着くことができました。

まず、彼は建安16年(211)、饒陽侯に封ぜられています。
これは、曹丕が五官中郎将、曹植が平原侯、曹拠が范陽侯となったのと同じ時です。
(巻1「武帝紀」裴松之注に引く『魏書』)

第二に、魏の黄初中(220―226)、儒者隗禧を郎中として召し抱えた譙王として、

王宿聞其儒者、常虚心従学。禧亦敬恭以授王。
 譙王(曹林)はつとに彼が儒者だと聞いていたので、常に虚心に彼に従って学んだ。
 隗禧もまた敬意をもって恭しく王に学問を教授した。

と見えています。(巻13「王朗伝附王粛伝」裴注引『魏略』)

『魏略』は、先にも述べたとおり、独自の思想を持つ、史料的価値の高い文献で、
ここも、編者魚豢の眼鏡に叶う儒者たちが「儒宗」として列伝に仕立てられている部分です。
隗禧を含む彼ら数名は、学問が荒廃した時代にあってなお気を吐いた人々ですが、
(とはいえ、王粛などに比べるとほとんど無名に近い人々です。)

そうした儒者を大切にした人物として、譙王曹林の名が記されているのです。
魚豢は、そうした人々の生きた証を丁寧に拾い上げています。

それではまた。

2019年10月23日

*高秀芳・楊済安編『三国志人名索引』(中華書局、1980年)。称号や名が様々に変わっても、ある人物を追いかけることができる、すごい研究成果です。

1 67 68 69 70 71 72 73 74 75 80