用と無用との間
『荘子』山木篇にこうあります。
山中を行く荘子が、枝葉を盛んに繁茂させている大木に出会った。
木こりはその木を切ろうとしない。
理由を問えば、用いるべきところがないからだという。
無用であるがゆえにその天寿を全うできる木。
いかにも『荘子』らしい話です。
ところが、これに続くのは次のような話です。
荘子は山を出て、古い知り合いの家に投宿した。
知り合いは彼をもてなすため、鴈をしめて煮物を作ることにした。
鳴く鳥とそうでない鳥と、殺されたのは鳴けない鳥だった。
この二つの話は正反対の方向を向いています。
片や「不材」(用いるべき所が無い)であるがゆえに生き長らえ、
片や「不材」(鳴けない)であるために殺された。
このいずれの立場に立つのか、と弟子に問われた荘子の答えは、
「材と不材との間」でした。
ただし、それは本物ではないといいます。
これより先の次元には、大いなる道とともにある、
何者にもとらわれない在り様がたしかにあるのだというのです。
荘子は、絶対的自由の境地というものの存在を信じつつ、
現世の中で、営為と無為との間を揺れ動きつつ生きたのでしょうか。
ただ、荘子は「笑って」先のように答えたといいます。
そこに悲壮感というものは感じられません。
それではまた。
2019年10月4日
近しく感じる人
演習の受講生が、後期になって複数名やめました。
(もともと10名にも満たない人数でしたが、更に少なくなりました。)
その旨を言いにきた学生(礼儀正しいですね)がいうには、
ほかの授業で忙しいから、とのこと。
前期の終わり、
「中国古典文学は半年くらいではその面白さはわからないから、
できれば後期も継続して履修することを勧めます」と言ったのですが、
後期第一週の授業が一巡したところでこうなりました。
受講生が少ないと楽だろう、自分の研究ができていいだろう、
というふうにはなかなか考えることができません。
自分は貴重なものを先人から受け取ったのに、
それをバトンタッチできる人がいない、という寂しさです。
もっとも、そんな重たいものは求められていないのかもしれませんが。
単独で行う講義も、オムニバス形式の講義も、それなりに耳を傾けてもらえる、
それなのになぜだろう、と考えて、考えても詮無いことに気づきました。
人の思うことはわからない。そこには立ち入れません。
ただ、ふと思い起こしたのが、
水村美苗『日本語が滅びるとき』*に書かれていた、
「これからの自分の読者は、自分と同じ世界を共有することはないのを知りつつ書く」
「自分がその一部であった文化がしだいに失われていくのを知りつつ生きる」
夏目漱石の寂しさです。
学識も感受性もまるでレベルが違う人なのに、とても近しく感じます。
このような人がいたということが、今の自分には慰めです。
それではまた。
2019年10月3日
*水村美苗『日本語が滅びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008年)p.224
否定の言葉を使うとき
このところ、世間を敵に回すような言葉ばかりを使っています。
「数値化せよ、エビデンスを示されよ」、
「文献研究はもう古い、これからはフィールドワークだ」云々と、
そのようなことをもう何年言われ続けてきたことか、
それらに対する反発心が、このところの荒れたものの言い方のおおもとにあります。
すべてに超越していれば、こんな言い方はしなくてもいいはず。
何かを強く否定するのは、日々そうした現実にさらされ続けているから、
そして、そこから逃れられないからです。
阮籍の「詠懐詩」には、そうした強い否定の言葉、
まとわりつくものを振り払うような、反語表現が多用されています。
そして、彼が疑問をぶつけ、異議申し立てをする対象はある傾向を示していて、
それはおよそ世俗的価値観とでもいうべきものです。
(寵禄、時路、栄名、寵耀、富貴、百世名など)
けれど、彼は世俗から脱出していった先(たとえば神仙世界)で、
そこにも絶望して、再び現実世界に戻ってきます。
だから、阮籍は世俗を見下す超越者なのだ、とは言えない。
むしろ、強く否定しないではいられないほど、
彼の周りには世俗がまとわりついていたということであって、
彼の「詠懐詩」のほぼ全篇に反語表現が現れるのは、
彼と世俗との近さを物語っている。
と、これは若い頃の考察です。(こちらの学術論文№1の一部)
こんなふうに手探りで「詠懐詩」を読んでいたときに出会ったのが、
大上正美「阮籍詠懐詩試論―表現構造にみる詩人の敗北性について―」*です。
表現の仕方は異なるけれど、同じところに目を注いでいる人がいる、
この出会いは、文学研究という世界の中でこそのものでした。
それではまた。
2019年10月2日
*大上正美『阮籍・嵆康の文学』(創文社、2000年)所収。初出は『漢文学会会報(東京教育大学漢文学会)』第36号、1977年。
文献研究とフィールドワーク
昨日の続きのようなもの。
東英寿編『宋人文集の編纂と伝承』(中国書店、2018年)序文に、
本書はもちろん文献研究であるが、フィールドワークとして捉えることもできる、
宋代社会という過去の世界に赴いておこなったフィールドワークなのだ、
といった内容のことが書かれています。
これにはまったく同感です。
私も、自分は文献における路上観察学を目指す、と思っていたし、今もそうです。
(赤瀬川原平(尾辻克彦)の書くものが大好きだったのです。今も。)
ここにいう文献研究とフィールドワークとの間には共通点があります。
それは、自分という枠の外へ踏み出して、そこで拾い上げたものを考察するということです。
では、そこに自分はないのか、といえば、ないはずがない。
他方、純然たる客観性がそこにあるのか、といえば、それはないと思います。
再現性が重視される自然科学とは異なって、人文学には本質的にそれは求められないと思う。
宮崎市定『中国史』(岩波全書、1977年)はその冒頭で、
歴史は客観的な学問であるから、誰が書いても同じ結果になる、
という考えは捨ててほしい、と若い読者に向けて語り掛けておられますが、
その通りだと私も思う。
「思う」と言えば主観的で、「思われる」と言えば客観的だなんて、ごまかしです。
忘我的考察を重ねた末に「思う」としか言い表せない判断だってあるでしょう。
ただそれが、自己ごり押しの「思う」と表面上区別がつかない。
さて、先には自分の外へ踏み出す、と言いながら、
今、考察において自分というものがないはずはない、と言いました。
どういうことでしょう。
同じ「自分」という言葉を使ってはいますが、
前者は、小さな自己、意識で把握できる狭い範囲の自分です。
後者は、もっと広い、普遍にも通じる無意識、でもその人しか持ちえない観点。
一点凝視による独自性ではなくて、
焦点の絞られない状態で見えてきたものを掬いあげる、
その掬い上げるという行為に無意識に働く意識、それが後者の自分。
ちょっと抽象的になりすぎたので、このへんでやめます。
(でも、抽象化が無意味だとは私は思いません。)
それではまた。
2019年10月1日
文学研究における根拠とは
先週末、中国文芸座談会(九州大学中国文学会)に出かけました。
その中で聞いた、東英寿さんの「吉州本『近体楽府』考」が非常に面白かった。
いずれ公刊されますし、ここで私が内容を紹介する必要はありませんが、
ただ自分として言いたいのは、ピントの合った結論を聞いて感嘆、納得したこと、
そして、そこから様々なことを考える契機が与えられたということです。
昨今よく聞く所謂エビデンスということ、
客観的な、たとえば数値で表せるような根拠を示せという要求に、
文系学問、特に歴史的に古い文献学的研究の多くはなかなか対応できません。
ですが、版本研究などは、自分の目で見て、その真実の姿を指し示すことができる、
それが揺るぎのない根拠となって、皆を納得させることができます。
(近年、こうした研究に多く人が集まるのは、こうした背景もあるかもしれません。)
では、作品研究や文学史研究はどうなのだろう。
自分が望む結果になるような勝手な解釈や構想は自戒する、
ですが、それを、目に見えるたしかな形として示すことは非常に難しい。
示せた、と自分で思っても、他者がそれを認めるかどうかはまた別問題ですし。
このあたりのところ、大きな壁を感じることが少なくありません。
恩師の岡村繁先生はさる論文の中で(思わず、でしょうか)、
“これが納得できないなら文学研究なんかやめた方がましだ”といったことを書かれている、
先生でさえ苦労されたのだから、ましていわんや自分のごときをや、です。
(最近、考え抜いた論と思いつきとの区別がされにくい傾向があるように思います。)
ところで、歴史学者の宮崎市定は、『九品官人法の研究』はしがきの中で、
書いてないことは信じない、という清朝考証学のやり方には限界がある。
(およそ当時として当たり前のことは書かれていないのだから。)
考証は、ある段階まで来たら一段の飛躍が要求される。
記録に書かれていないことをも、史実の延長として復原しなければならない。
自分のこの研究は、伝統的考証学の見地から見れば隙だらけだろう。
だが、これを否定して別の体系を立てることは、おそらく容易なことではないだろう。
といったような内容のことを書かれています。
文学史研究においては、常々こうありたいと思っています。
それではまた。
2019年9月30日
心中の親友と語らう
昨日言及した阮籍「詠懐詩」其十七、全文は次のとおりです。
独坐空堂上 ひとり、がらんどうの座敷に座る。
誰可与歓者 ともに楽しみを分かち合える者など誰がいよう。
出門臨永路 門を出て、どこまでも続く道に臨めば、
不見行車馬 行き交う車馬は見当たらない。
登高望九州 高台に登って中国全土を見渡せば、
悠悠分曠野 九つに分たれた原野が果てしなく四方に広がっている。
孤鳥西北飛 見れば、一羽のはぐれ鳥が西北に飛んでゆく。
離獣東南下 群れから離れた獣が東南に下ってゆく。
日暮思親友 日が暮れて、私は親友を思う。
晤言用自写 心中の彼と語らって、自分で自分の憂いを晴らすのだ。
(以上の通釈は、こちらの小文で示したものを多く転用しています。)
ここに詠じられた「孤鳥」「離獣」は、詩を詠ずる者の目に映じた鳥獣の姿です。
ただそれは、詩を詠ずる者の心情がそのようであったからこそ、
鳥獣たちの姿も自分と同じような様子に見えた、あるいは、
そのような様子の鳥獣を描いて詩に登場させた、ということでしょう。
阮籍の描く「孤」「離」と、曹植や陸機のそれとは何が違うのでしょうか。
曹植「九愁賦」には「失群」という語が示すとおり、もといた群れが意識されています。
陸機「贈従兄車騎」には「故薮」「旧林」とあって、遠く離れた故郷への思いを詠じています。
これは、この詩が同郷の従兄に贈られたものであることに大きく因っているでしょう。
ところが、阮籍「詠懐詩」は、もといた共同体も故郷も詠じません。*
そして最後に、心の中にいる「親友」と語り合い、憂いを払いのけようと詠ずるのです。
この「親友」は、私たちすべてに開かれた回路であるように私は感じます。
その心の底を深く降りていったならば阮籍と「晤言」できる、
阮籍のいう「親友」とは自分でもあるのではないか、
そんな風に読者に思わせる詩。
それが「文学」かもしれないと私は思います。
それではまた。
2019年9月27日
*吉川幸次郎『阮籍の「詠懐詩」について 附・阮籍伝』(岩波文庫、1981年)をご覧になってください。また異なる視点からの論が展開されています。
それぞれの孤独
昨日言及した曹植「九愁賦」に、次のような対句が見えています。
見失群之離獣 群れを見失ったはぐれ獣が目に入り、
覿偏棲之孤禽 世の片隅に暮らす孤独な禽(とり)と対面する。
つれあいと離別した鳥というテーマは、漢代の詩歌には珍しくありません。
古楽府「双白鵠」(『玉台新詠』巻1「古楽府六首」其六)はその典型ですし、
もと十七曲あった「相和」のうちの失われた一首「鵾鶏」は、*1
張衡「南都賦」(『文選』巻4)にいう、
「寡婦悲吟、鵾鶏哀鳴」の「鵾鶏」がもしそれであるならば、
「寡婦」と対句を成すことから、やはり同趣旨のテーマを詠ずるものと判断されます。
それを我が身に引き付けて詠じたのが曹植であったと言えるでしょう。
「離」と「孤」とを対で用いる表現は、
続く時代の文人たちに、次のように継承されている例を認めることができます。
魏の阮籍「詠懐詩」其四十六に、*2
孤鳥西北飛 孤独な鳥は西北に向けて飛び、
離獣東南下 群れを離れた獣は東南へ下ってゆく。
また、西晋の陸機「贈従兄車騎」(『文選』巻24)にも次のようにあります。
孤獣思故薮 孤独な獣は故郷の林藪をなつかしみ、
離鳥悲旧林 群れを離れた鳥は古巣の林を思って悲しむ。
陸機は、故郷の呉が滅亡してから、もと敵国であった西晋王朝に出仕した人です。
(こちらの№4『漢代五言詩歌史の研究』第七章をご参照いただければ幸いです。)
その彼が、曹植の如上の表現を踏まえたことも、
それを少しくアレンジしたことも、故あることとして納得されます。
それでは、阮籍「詠懐詩」はどうでしょうか。
明日につないで考えてみます。
それではまた。
2019年9月26日
*1『楽府詩集』巻26、相和曲上に引く、陳の釈智匠『古今楽録』にいう。
*2『阮籍集』巻下、上海古籍出版社、1978年、第111頁。同作品は、『文選』巻23所収「詠懐詩十七首」の其十五でもあります。
2019年9月26日
泥と塵
曹植「七哀詩」(『文選』巻23)に歌われた特徴的な次の対句、
君若清路塵 君は清路の塵のごとく、
妾若濁水泥 妾は濁水の泥のごとし。(現代語訳はこちらに示しています。)
これに類する表現は、同じ曹植の「九愁賦」にも次のとおり見えています。
(丁晏纂・葉菊生校訂『曹集詮評』第1巻、文学古籍刊行社、1957、第11頁)
※現代中国的様式で出典を示してみました。見る人がアクセスしやすい情報開示ですね。
寧作清水之沈泥 寧ろ清水の沈泥と作るとも、
不為濁路之飛塵 濁路の飛塵とは為らざれ。
清らかな水に沈む泥となろうとも、
汚濁の路に舞い上がる塵になどなるものか。
趙幼文が、この作品を文帝の黄初年間に繋年していることは妥当だと判断されます。*
「泥」は、おそらく曹植自身をいい、
「塵」は、暗に文帝曹丕を念頭において言っているのかもしれません。
曹植「七哀詩」の製作年代は未詳ですが、
内容がかなり具体的な「九愁賦」と類似句を共有している、
そこに、何らかの考察の糸口が見えているような感触があります。
それがどう展開するのか、あるいは気づきで終わりなのかはわかりませんが。
それではまた。
2019年9月25日
*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)巻2、p.252~257を参照。
限られた記憶容量
先週、5回にわたって書き記したのは、
今年の三月に書いた論文を再構成するためのメモでした。
ところが、わずか半年ほどしか経っていないのに、
かなりの部分を忘れていた。
清路の塵が高山の柏になったこととか、
西南の風が東北の風になったこととかは鮮明に憶えていたのですが、
小さな、でもこれがないと単なる憶測になる、
そんな結節部分がきれいさっぱりと記憶から落ちていたのです。
ちょっと愕然としました。
思えば、三月は性質の異なる複数の仕事を同時並行で行っていた、
その隙間を縫うようにして書いた論文だからか、
(だから完成度も低い。)
それとも、脱稿後の半年、新たな出来事の記憶が脳裏に刻まれたからか。
忙しすぎるのか、いらない情報が頭に入って来すぎるのか。
いつだったか、入谷仙介先生がおっしゃっていたこと、
王維の詩を長らく読んできて、
彼が参照している書物がだいたいわかった。
経書、『文選』、それから『藝文類聚』、これくらいだ。
意外と少ない。
もしかしたら、『史記』や『漢書』もあったかもしれません。
(上記のこと、私の記憶違いだったらごめんなさい。)
が、『藝文類聚』はたしかに含まれていました。
私から見れば、全然「意外と少ない」ではありませんが、
それでも、その知識のすべてに血が通っていて、
その気にさえなれば、自分の糧にできそうな感触があります。
古人と現代人と、脳の容量はそれほど増減していないでしょうから、
その限られた記憶容量の中に納まるものの質の問題でしょう。
自分にとって関係のないものは、
もう流していっていいのではないかと思っています。
それではまた。
2019年9月24日
注の付け方
ここ数日、論文を中国仕様に改める作業を行っているのですが、
(言語は日本語なのですが、体裁を中国仕様にする必要がありまして。)
戸惑っているのが、注の書き方です。
参照した先行研究については問題ありません。
著書の場合は、著者名、書名、出版社名、出版年、該当ページ、
論文の場合は、著者名、論文タイトル、雑誌名、号、出版年を記すということで。
奇妙に感じるのは、こうした参考文献と同じ様式で、一次資料についても注記することです。
たとえば、『漢書』礼楽志の一部を本文に引用する場合、
~~『漢書』巻二十二・礼楽志に、次のような記述が見えている。
……(引用文)……
※〈巻二十二〉の部分は、場合によっては記さないこともあります。
というふうに、本文中に出典を明記すれば十分だとこれまで認識していましたが、
最近の中国の学術論文では、本文に原文を引用した上で、その注に、
①『漢書』第22巻,中華書局,1975,第1046頁。
といった体裁で、書誌情報を記しているのですね。
ページ数まで示せば、あとで見る人(自分も含めて)が楽でしょう。
本文の校訂など、出版に至る作業に携わった人々への敬意を表する意味もあるでしょう。
また、昨今はネット上に多くのテキストが公開されているので、
それらではない、たしかな出版物を目睹したのだと示す意味もあるのかもしれません。
それでも、どうにも腑に落ちないのが、
こうした一次資料を、研究の成果である参考文献と同列に並べていることです。
(中国でも、一昔前の論文にはこうした体裁は認められません。)
最近は、日本の若い研究者も中国様式で論文を書かれる方が多いですが、
こうした資料の質的差異にどこまで自覚的であるか、一抹の不安を覚えることがあります。
ただ、皆が知っているその理由に、私が思い至らないだけなのかもしれませんが。
それではまた。
2019年9月23日