奇妙な贈答詩

『文選』巻24所収の曹植「又贈丁儀王粲」は奇妙な詩ですが、
この作品について、龜山朗氏は、示唆に富む、実にスリリングな論を展開しておられます。*
その中から、特に納得させられた点を以下に記します。

その前に、まず本詩の全文を挙げておきましょう。

従軍度函谷  従軍して函谷関を越え、
駆馬過西京  馬を駆り立てて西京をよぎる。
山岑高無極  切り立つ山々は限りなく高くそびえ、
涇渭揚濁清  濁った涇水、澄んだ渭水はそれぞれの波を揚げて流れていた。
壮哉帝王居  壮大なることよ、帝王の居所は、
佳麗殊百城  その佳麗さは幾多の都城とは一線を画する。
円闕出浮雲  円闕は浮雲から突き出てそびえ、
承露槩泰清  承露盤は天上界に届かんばかりであった。
皇佐揚天恵  皇帝を補佐する方(曹操)は皇帝からの恩恵を高く掲げて、
四海無交兵  四海の内で兵器を交えて戦うことは無くなった。
権家雖愛勝  兵法家は勝利に執着するものだとはいえ、
全国為令名  国をまるごと温存させることをこそ名誉だと見なす。
君子在末位  立派な人士であられる君たちはその末位に位置しているから、
不能歌徳声  従軍して主君の徳を歌い上げることはできなかった。
丁生怨在朝  そのため、丁君は朝廷の内で寂しい思いを抱え、
王子歓自営  王氏は自らの生活に楽しみを見出している。
歓怨非貞則  だが、歓楽も哀怨も、規範とすべき正道ではなくて、
中和誠可経  中和の状態こそが、誠に則るべき道である。

以下は、龜山氏の所論からの覚書です。

この作品の奇妙な点として、特に次の二点が挙げられる。
第一に、二人に宛てた贈答詩であること。これは当時としても異例である。
第二に、最後の六句が、丁・王の二人に対して礼に失するということ。

だが、本詩を次のように捉えるならば、これらの疑問は氷解するのではないか。

この詩は曹操が催す宴席で披露されたものである。
この詩の名目上の宛先は丁儀・王粲だが、
重要なのは、本詩の鑑賞者は曹操とその宴席に集った人々だということである、と。

特定のひとりに宛てた贈答詩では、非常に細やかな心遣いを表す曹植ですが、
この詩のある種のぶしつけさは、宴席での戯れ、ということですね。

龜山氏の所論は、こうした推論に続けて、
本詩と王粲「従軍詩」其一(『文選』巻27)との関連性にも踏み込んでいます。

宴席を舞台とした贈答詩という着眼点には、深く納得させられました。
『文選』所収の本詩の題が「又贈……」となっていること、
李善が指摘する、当時伝存していた曹植集が「答……」に作るのは、
本詩が他の贈答詩とは異質のものであることを示唆しているかもしれません。
そこに何度かの往還、リアルタイムでの応酬があった可能性も垣間見えるようです。

それではまた。

2019年10月16日

*龜山朗「建安年間後期の曹植の〈贈答詩〉について」(『中国文学報』第42冊、1990年10月)を参照。

未知の世界の捉え方

大阪の国立民族学博物館で「驚異と怪異」展を見てきました。

不思議な生き物を、それが生息する地域とともに記録した『山海経』、
これが、中国の伝統的図書分類法では史部地理類に位置付けられるのが不思議でしたが、
こうした世界観は必ずしも不思議ではないということに気づかされました。

聞いたことはあるが、実際には見たことのないものを、
なかったことにはせず、よく知っている世界の、その向こうに位置付ける、
未知の世界を、地理学的観点から、我が世界観の一隅に引き入れる、という発想が、
洋の東西を問わず存在することがわかったからです。

およそ人間は(大きく出ますが)、未知のものと出会ったとき、
それを、時間軸の、たとえば遠い過去、あるいは未来に位置付けるのではなく、
(ただし、チベット仏教の占いでは、暦という時間軸を加えて図式化するそうですが。)
あくまでも空間的に把握しようとするものなのだなあ、と。
自然科学誕生以前の彼らの心中を想像するに、恐怖と好奇心の坩堝だったことでしょう。

さて、もと地理書として位置づけられていた前掲の『山海経』は、
現代の、たとえば『中国叢書綜録』では、子部小説家類に分類されています。
では、この書物は、いつ頃、地理書から小説家類へと捉えなおされたのでしょうか。

宋元の間の馬端臨『文献通考』では、新旧『唐書』と同じ史部地理類ですが、
元代に編纂された『宋史』では、子類・五行類に位置付けられています。
ところが、明代の焦竑『国史経籍志』ではまた、史部地里(方物)に戻っています。
というか、この間、書物の捉え方がまだ揺れ動いていたということでしょう。
清朝の『四庫全書総目』に至れば、現在と同じ、子部小説家類に位置付けられます。

この間の推移をざっと通覧した限りでは、
『山海経』を地理書と捉える見方はかなり長く続いたことが知られます。

たとえば、今は志怪小説とみなされる『捜神記』は、
『旧唐書』経籍志(唐代)と『新唐書』藝文志(宋代)との間で、
史部雑伝類から子部小説家類に移されるという大きな変化を通過していますが、
これに比べると『山海経』の変化はずいぶんと緩やかだという印象を持ちました。
明代あたりの人々は、私たちと近いようでいて、実はかなり異質な世界の住人だったのですね。

(専門外の人間が当たり前のことばかりを書いているかと思います。お許しください。)

それではまた。

2019年10月15日

 

建安年間の曹植と「友」

昨日取り上げた曹植「贈王粲」は、
特定の誰かに宛てて書かれたわけではない王粲の詩を、
自分に向けられたものとして受け止め、新たな詩を紡ぎだしています。
そこに、「文学」と呼びうるような普遍性を見出そうとしたのが昨日言及した拙論です。

ですが、「曹操の事跡と人間関係」の修正作業を行う中で、
建安年間、曹植を取り巻いていた現実を、もっと踏まえる必要があると考え直しました。

王粲の「雑詩」は、もちろん文学サロンの仲間たちに朗誦されたでしょうが、
もしかしたら、彼は曹植に直接、それとなくその作品を差し出した可能性があると考えます。

王粲が、荊州の劉表から曹操のもとにやってきたのは208年、
そこから彼が病で亡くなる217年までの間、
曹操から圧倒的な愛情を注がれていたのは曹植です。
217年、曹丕が太子に決定するまで、そんな情況が続いていました。
このことは、『三国志』の随所に認めることができます。

してみると、王粲が上述のような振る舞いに出たとしても不思議ではありません。
彼はとても出世欲の強い人でしたから。(こちらの第三章をご覧いただければ幸いです。)

他方、曹植はそうした人々に対して、詩中、多く「友」と語りかけています。
その「友」に対する語りかけ方を、もっと丁寧に読み解きたいと思いなおしました。

以上のことも、留学生からの質問に触発されて生まれた問題意識です。
感謝。

それではまた。

2019年10月10日

 

私にはあなたが必要だけれど

王粲「雑詩」(『文選』巻29)に応えた、曹植の「贈王粲」(『文選』巻24)。
この作品についてはかつて論じたことがありますが(学術論文№31)、
本日、新たに思いついたことがあります。

少し長くなりますが、この二首の詩を提示します。
まず王粲の「雑詩」から。

日暮遊西園  日が暮れて西園に遊び、
冀寫憂思情  憂鬱な気分を洗い流したいと思った。
曲池揚素波  湾曲する池は白い波を揚げ、
列樹敷丹栄  列をなす樹木には一面紅い花が咲いている。
上有特棲鳥  その上にただ一羽で棲む鳥がいて、
懐春向我鳴  連れ合いを求める彼女は、私に向かって鳴き声を上げた。
褰袵欲従之  私は衣を持ちあげてこの鳥に従っていこうとしたが、
路嶮不得征  路が険しくて赴くことができない。
徘徊不能去  行きつ戻りつして立ち去ることができず、
佇立望爾形  その場に立ち尽くしておまえの姿を眺めやっていた。
風飈揚塵起  そこに、塵を巻き上げて突風が起こり、
白日忽已冥  白日は忽然と薄暗がりに包まれた。
迴身入空房  私は身を翻して空っぽの寝室に戻り、
託夢通精誠  夢に託して真心を送り届ける。
人欲天不違  人が強く願うことに、天は必ず応えてくださるのだから、
何懼不合并  一緒になれないのではないかなどと、何を心配することがあろうか。

これに応えた曹植の詩は次のとおりです。

端坐苦愁思  正座していると憂いに気持ちが押しつぶされそうになり、
攬衣起西遊  上着を手に取り、起き上がって西の方へ遊びに出た。
樹木発春華  樹木は春の花を開き、
清池激長流  清らかな池は勢いよく途切れなく流れている。
中有孤鴛鴦  その中に一羽の鴛鴦がいて、
哀鳴求匹儔  悲しげに鳴きながら連れ合いを求めている。
我願執此鳥  私はこの鳥を捕まえたいと思ったが、
惜哉無軽舟  残念なことに、そこまで漕ぎだす小舟がない。
欲帰忘故道  帰ろうとしたが、もと来た道を忘れてしまっていて、
顧望但懐愁  周囲を見渡しながら、ひたすら憂いを抱くばかりだ。
悲風鳴我側  悲しげな音を上げる風が私の傍らを吹き過ぎて、
羲和逝不留  白日は過ぎゆくばかりで留まりもしない。
重陰潤万物  恵みの雨をもたらす雲は万物を潤すのだから、
何懼沢不周  どうして恩沢が行き渡らないことを心配する必要があろう。
誰令君多念  いったい誰があなたにあれこれと思い悩ませ、
自使懐百憂  自ら様々な憂いを抱くようにさせるのか。

このように、王粲の詩と曹植の詩とは、
同じ語句を用いながら、敢えて違いを打ち出しているところが少なくありません。
そのうち、本日はじめて理解できたように思えたのは、鳥の描き方です。

王粲の描く、樹木の上で鳴いている鳥は、おそらく曹操を指すでしょう。
他方、曹植が描くのは池の中にいる鴛鴦であって、王粲の描くそれとは重なりません。
では、曹植が描く鳥は何を暗示しているのか。それは王粲だと見るのが妥当でしょう。

ここまでは、比較的たやすく推測できます。
では、なぜその鳥を、曹植は掴まえたいのにそれができないと詠じているのか。

私はあなたを求めている、と詠われると、
その詩を受け取った人は、とてもうれしくなるでしょうね。

曹植は、王粲の気持ちが曹操に向かっていることは当然知っています。
そのことは、「贈王粲」詩の最後の四句を見れば明らかです。
ですが、そんな王粲に、私はあなたが欲しいのだがそれは叶わぬ夢だ、と詠えば、
我が身の処遇に不安を覚えている王粲は慰められ、元気づけられたのではないでしょうか。

熱心に聞いてくれる留学生に引き出してもらった解釈です。

それではまた。

2019年10月9日

 

側近の悪事

先に記したことの中に誤りがありました。

丁儀が、徐奕と崔琰との間を引き裂いた(巻12「徐奕伝」裴注引『傅子』)というのは誤りで、
正しくは、曹操という明君と、徐奕・崔琰という賢臣との間を、丁儀が引き裂いたということです。

原文は次のとおりです。(実に初歩的な読み誤りで恥ずかしい。)

武皇帝、至明也。
 (武帝曹操は、非常に聡明な君主であった。)

崔琰・徐奕、一時清賢、皆以忠信顕於魏朝。
 (崔琰・徐奕は、時代を代表する清賢で、いずれも魏朝において忠信で名を知られた。)

丁儀間之、徐奕失位而崔琰被誅。
 (丁儀が両者の間を割いて、徐奕は位を失い、崔琰は誅罰を受けた。)

昨日述べた、崔琰の書簡を曲解して貶めたある者(『三国志』巻12「崔琰伝」)とは、
もしかしたら丁儀のことだったのでしょうか。
同巻裴松之注に引く『魏略』も、「与琰宿不平者(崔琰と常々不仲な者)」と記すのみで、
そこに名前は明記されていないのですが、
もし、近い時代の『傅子』に記すところが正しいならば。

丁儀と崔琰との負の接点は証明できませんが、
丁儀らが、徐奕や
毛玠らを陥れたことは公然の事実です。
なぜ彼らはそこまでして曹植を担ぎ上げようとしたのでしょうか。
そして、そうした側近の言動を、曹植はいったいどう見ていたのでしょうか。

それではまた。

2019年10月8日

曹操晩年の狂気

【電子資料】の「曹操の事跡と人間関係」が長いこと「準備中」ですが、
少しずつ確認作業を進めて、今は建安21年(216)、曹操は62歳、
本日、崔琰が亡くなりました。

『三国志』巻12「崔琰伝」によると、

もと袁紹に仕えていた崔琰は、しばしば袁紹を諫めたが聞き入れられず、
官渡での敗戦の後、袁紹の息子たちは争って彼を召し抱えようとしたが、病気を理由にこれを固辞し、
曹操が袁氏を破って冀州牧となると、その招きに応じて別駕従事となった、とあります。

誰に仕えるべきか、崔琰は冷静に見極めたのでしょう。
とはいえ、彼は曹操にただ追従していたわけではありません。

新たに得た冀州の戸籍を調べて、兵士の人数を数え上げる曹操に対して、
崔琰は、まず民をねぎらい、彼らの塗炭の苦しみを救うことが先決だとの苦言を呈しました。
曹操は表情を改めて陳謝し、その場にいた賓客たちは色を失った、とあります。

また、崔琰の兄の娘は曹植に嫁いでいましたが、
春秋の義をもって、長子の曹丕を跡継ぎに推したことは先にも触れました
曹操は、崔琰の私心のない公明正大さに感嘆したといいます。

このような崔琰は、曹操にとってどのような存在だったのでしょうか。

崔琰の書簡を曲解して貶める、ある者の上奏を簡単に信じ、
懲役囚となってもくじけた様子のない崔琰について、
「刑罰を受けていながら、家には賓客を通し、門は市場の人のような賑わいだ。
 賓客に対して虯のような鬚で直視し、まるで怒って目をむいているかのようだ。」
との令を発し、崔琰に死を賜った、と本伝に記されています。

第一級の知識人である人物と、宦官家出身の新興権力者たる曹操。
権力者に対してまったく媚びることをせず、是々非々を貫く崔琰に対して、
曹操は常々言い知れぬ脅威を感じ、劣等感を覚えていたのでしょう。
晩年になるほどに、それが狂気を帯びてくるようです。

それではまた。

2019年10月7日

 

用と無用との間

『荘子』山木篇にこうあります。

山中を行く荘子が、枝葉を盛んに繁茂させている大木に出会った。
木こりはその木を切ろうとしない。
理由を問えば、用いるべきところがないからだという。

無用であるがゆえにその天寿を全うできる木。
いかにも『荘子』らしい話です。

ところが、これに続くのは次のような話です。

荘子は山を出て、古い知り合いの家に投宿した。
知り合いは彼をもてなすため、鴈をしめて煮物を作ることにした。
鳴く鳥とそうでない鳥と、殺されたのは鳴けない鳥だった。

この二つの話は正反対の方向を向いています。
片や「不材」(用いるべき所が無い)であるがゆえに生き長らえ、
片や「不材」(鳴けない)であるために殺された。
このいずれの立場に立つのか、と弟子に問われた荘子の答えは、
「材と不材との間」でした。
ただし、それは本物ではないといいます。
これより先の次元には、大いなる道とともにある、
何者にもとらわれない在り様がたしかにあるのだというのです。

荘子は、絶対的自由の境地というものの存在を信じつつ、
現世の中で、営為と無為との間を揺れ動きつつ生きたのでしょうか。
ただ、荘子は「笑って」先のように答えたといいます。
そこに悲壮感というものは感じられません。

それではまた。

2019年10月4日

 

近しく感じる人

演習の受講生が、後期になって複数名やめました。
(もともと10名にも満たない人数でしたが、更に少なくなりました。)
その旨を言いにきた学生(礼儀正しいですね)がいうには、
ほかの授業で忙しいから、とのこと。

前期の終わり、
「中国古典文学は半年くらいではその面白さはわからないから、
できれば後期も継続して履修することを勧めます」と言ったのですが、
後期第一週の授業が一巡したところでこうなりました。

受講生が少ないと楽だろう、自分の研究ができていいだろう、
というふうにはなかなか考えることができません。

自分は貴重なものを先人から受け取ったのに、
それをバトンタッチできる人がいない、という寂しさです。
もっとも、そんな重たいものは求められていないのかもしれませんが。

単独で行う講義も、オムニバス形式の講義も、それなりに耳を傾けてもらえる、
それなのになぜだろう、と考えて、考えても詮無いことに気づきました。
人の思うことはわからない。そこには立ち入れません。

ただ、ふと思い起こしたのが、
水村美苗『日本語が滅びるとき』*に書かれていた、
「これからの自分の読者は、自分と同じ世界を共有することはないのを知りつつ書く」
「自分がその一部であった文化がしだいに失われていくのを知りつつ生きる」
夏目漱石の寂しさです。
学識も感受性もまるでレベルが違う人なのに、とても近しく感じます。
このような人がいたということが、今の自分には慰めです。

それではまた。

2019年10月3日

*水村美苗『日本語が滅びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008年)p.224

 

否定の言葉を使うとき

このところ、世間を敵に回すような言葉ばかりを使っています。
「数値化せよ、エビデンスを示されよ」、
「文献研究はもう古い、これからはフィールドワークだ」云々と、
そのようなことをもう何年言われ続けてきたことか、
それらに対する反発心が、このところの荒れたものの言い方のおおもとにあります。

すべてに超越していれば、こんな言い方はしなくてもいいはず。
何かを強く否定するのは、日々そうした現実にさらされ続けているから、
そして、そこから逃れられないからです。

阮籍の「詠懐詩」には、そうした強い否定の言葉、
まとわりつくものを振り払うような、反語表現が多用されています。
そして、彼が疑問をぶつけ、異議申し立てをする対象はある傾向を示していて、
それはおよそ世俗的価値観とでもいうべきものです。

(寵禄、時路、栄名、寵耀、富貴、百世名など)

けれど、彼は世俗から脱出していった先(たとえば神仙世界)で、
そこにも絶望して、再び現実世界に戻ってきます。

だから、阮籍は世俗を見下す超越者なのだ、とは言えない。
むしろ、強く否定しないではいられないほど、
彼の周りには世俗がまとわりついていたということであって、
彼の「詠懐詩」のほぼ全篇に反語表現が現れるのは、
彼と世俗との近さを物語っている。
と、これは若い頃の考察です。(こちらの学術論文№1の一部)

こんなふうに手探りで「詠懐詩」を読んでいたときに出会ったのが、
大上正美「阮籍詠懐詩試論―表現構造にみる詩人の敗北性について―」*です。
表現の仕方は異なるけれど、同じところに目を注いでいる人がいる、
この出会いは、文学研究という世界の中でこそのものでした。

それではまた。

2019年10月2日

*大上正美『阮籍・嵆康の文学』(創文社、2000年)所収。初出は『漢文学会会報(東京教育大学漢文学会)』第36号、1977年。

 

 

文献研究とフィールドワーク

昨日の続きのようなもの。

東英寿編『宋人文集の編纂と伝承』(中国書店、2018年)序文に、
  本書はもちろん文献研究であるが、フィールドワークとして捉えることもできる、
  宋代社会という過去の世界に赴いておこなったフィールドワークなのだ、
といった内容のことが書かれています。

これにはまったく同感です。
私も、自分は文献における路上観察学を目指す、と思っていたし、今もそうです。
(赤瀬川原平(尾辻克彦)の書くものが大好きだったのです。今も。)

ここにいう文献研究とフィールドワークとの間には共通点があります。
それは、自分という枠の外へ踏み出して、そこで拾い上げたものを考察するということです。

では、そこに自分はないのか、といえば、ないはずがない。
他方、純然たる客観性がそこにあるのか、といえば、それはないと思います。
再現性が重視される自然科学とは異なって、人文学には本質的にそれは求められないと思う。

宮崎市定『中国史』(岩波全書、1977年)はその冒頭で、
歴史は客観的な学問であるから、誰が書いても同じ結果になる、
という考えは捨ててほしい、と若い読者に向けて語り掛けておられますが、
その通りだと私も思う。

 「思う」と言えば主観的で、「思われる」と言えば客観的だなんて、ごまかしです。
 忘我的考察を重ねた末に「思う」としか言い表せない判断だってあるでしょう。
 ただそれが、自己ごり押しの「思う」と表面上区別がつかない。

さて、先には自分の外へ踏み出す、と言いながら、
今、考察において自分というものがないはずはない、と言いました。
どういうことでしょう。
同じ「自分」という言葉を使ってはいますが、
前者は、小さな自己、意識で把握できる狭い範囲の自分です。
後者は、もっと広い、普遍にも通じる無意識、でもその人しか持ちえない観点。
一点凝視による独自性ではなくて、
焦点の絞られない状態で見えてきたものを掬いあげる、
その掬い上げるという行為に無意識に働く意識、それが後者の自分。

ちょっと抽象的になりすぎたので、このへんでやめます。
(でも、抽象化が無意味だとは私は思いません。)

それではまた。

2019年10月1日

 

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