曹植の徐幹に対する語りかけ

一昨日の続きです。
曹植の「贈徐幹」詩の解釈について、岩波文庫『文選 詩篇(三)』p.81にこうあります。
(少し長くなりますが、全文を引用します。)

 能力にふさわしい地位を得ていない徐幹の身を憐れみ、はげます曹植の詩。徐幹は五官中郎将文学として劉楨とともに曹丕に仕え、建安十九年(214)には臨菑侯文学となって曹植に仕えたが、二年の後、病と称して政務から退き『中論』の執筆に没頭した。この詩はその頃の作とされる。曹植は後継者争いをめぐって兄曹丕と確執を生じ、それは利害の絡まる配下の人たちにも影を落としていた。曹植から遠ざかろうとする徐幹、それを自分につなぎ止めようとする曹植、そんな思惑が絡み合っていると読み取れなくもない。

この中で、私にはよく理解できないのが最後の一文です。
曹植のこの詩からは、徐幹をつなぎ止めようとする意思は読み取れないように思うのです。
直接関係する19句目以降を挙げれば次のとおりです。

19 宝棄怨何人  宝が打ち捨てられていることについて、いったい誰を怨もうか。
20 和氏有其愆  宝を見出して献上する人に、その過ちがあるのだ。
21 弾冠俟知己  冠を弾いて、知己が推薦してくれるのを心待ちにしていても、
22 知己誰不然  その知己だって誰もが同じような境遇にあるのだ。
23 良田無晩歳  よく肥えた田に収穫の遅れはなく、
24 膏沢多豊年  恵みのうるおいにより、きっと豊かな実りがあるだろう。
25 亮懐璵璠美  真に宝玉の美質を備えていれば、
26 積久徳愈宣  久しい時を重ねて、その徳はいよいよ明らかとなろう。
27 親交義在敦  親交は、どんなことがあっても変わらぬ厚情にこそ意義がある。
28 申章復何言  美辞麗句を重ねてまた何を言うことがあろうか。

「棄」てられた「宝」は、誰もが認めるとおり徐幹でしょう。
「和氏」は、下文の「知己」を喩えたものと見ることができます。(『文選』李善注)
そして、「宝」も「和氏」も、同じく見捨てられた境遇にあると言っています。(第22句)

もし「和氏」に喩えられた「知己」を曹植自らをも含めて言うのだとすると、
曹植は、徐幹をしかるべき職に推薦することができないと言っていることになります。

だからこそ、第25・26句で、真の美質を備えた貴方は大丈夫だと励ましているのでしょう。

曹植は、自分は徐幹に対して社会的地位を準備できるような力を持たないけれど、
その人に対して心からの敬意と親密な気持ちを持っていると詠じているのではないでしょうか。

それではまた。

2019年10月31日

 

徐幹の足跡

曹植の「贈徐幹」(『文選』巻24)は、よくわからない詩です。
逐語的に訳せたとしても、それで何を言おうとしているのかがわからない。
詩が作られた背景がわからないことにはどうしようもない、という句が多いのです。
そこで、まず徐幹の事跡を『中国文学家大辞典(先秦漢魏晋南北朝巻)』で概観しました。*1

①霊帝の末年(189)頃、年は二十歳前、仕官せず勉学に励む。
②建安10年(205)、袁紹を平らげた曹操のもとで司空軍謀祭酒掾属を務める。
③13年(208)、赤壁の戦いに従軍し、「序征賦」を作る。
④16年(211)、曹丕のもとで五官将文学を務める。馬超征伐に従って「西征賦」を作る。
⑤鄴への帰還後(あるいはかつて)、曹植のもとで文学を務める。
⑥建安18年(213)前後、病がひどくなったため退居して『中論』執筆に専心する。
⑦建安23年(218)2月、疫病のために、48歳で卒す。

①⑥⑦については、無名氏による「徐幹『中論』序」、*2
②④は、『三国志』巻21「王粲伝」によって確認することができますが、
⑤は、『三国志』巻16「鄭渾伝」裴松之注引『晋陽秋』、及び『晋書』巻44「鄭袤伝」によって、
曹植が臨菑侯となった建安19年(214)以降と推定(修正)すべきでしょう。
また、⑥については、216~217年頃と比定できるかもしれません。
というのは、「中論序」には、

会上公撥乱、王路始闢、遂力疾応命、従戌征行。歴載五六、疾稍沈篤、不堪王事、潜身窮巷、……
 ちょうど魏公(曹操)は混乱を治め、王道がやっと開かれてきたところだったので、
 かくして(徐幹は)病を押して従軍したのであった。
 五六年の歳月を経て、病が次第にひどくなり
、勤務に耐えられなくなって、
 田舎暮らしに身を潜めることとなった。……

と記されているばかりであって、「歴載五六」の起点は示されていないからです。
そして、もしその起点を前掲の馬超征伐(211)に取るならば、退隠は216~217年頃となります。
つまり、214年から臨菑侯曹植のもとで文学を3年ほど務めた後に退隠した、と。

一応このように徐幹の閲歴を捉えた上で、「贈徐幹」詩を振り返ってみると、
その成立時期は、臨菑侯曹植が父曹操の寵愛を失った頃、
徐幹が隠逸的生活に入った晩年期と見るのが最も妥当であるようです。

岩波文庫の『文選 詩篇(三)』(2018年7月)p.81も同様な推定ですが、
ただ、詩の解釈については少し疑問を感じる点があります。
もう少し考えてみます。

それではまた。

2019年10月29日

*1 曹道衡・沈玉成編撰『中国文学家大辞典』(中華書局、1996年)p.349~350を参照。

*2 孫啓治『中論解詁』(中華書局、2014年)p.393~395を参照。

同じく文治を説いた人

先に、曹操に文治を説いた、袁渙という知識人がいたことを述べました。
時に曹操は魏公となったばかりとあるので、それは建安18年(213)頃のことでしょう。

ところが、ほぼ同じ頃、同じく曹操に文治を説いて黙殺された人物がいます。

参軍の傅幹です。
『三国志』巻1「武帝紀」裴松之注に引く『九州春秋』に、
建安19年(214)、秋七月、孫権を討伐しようとした曹操に対して、
これを諫めた彼の言葉が記されています。

『隋書』巻33・経籍志二によると、
『九州春秋』十巻(雑史)の著者は司馬彪。
彼はまた、正史『続漢書』八十三巻をも著した歴史家です。
(現行の『後漢書』巻末の「志」は、後人が『続漢書』から採ったものですね。)
してみると、傅幹に関する記録は信頼できると見てよいでしょう。

その『九州春秋』は、
傅幹の諫言を引いた後に「公は従わず、軍は遂に功無し」と記していますが、
曹操に関する記録にはよくある、自分の間違いを認めて謝罪したとの記述は見えません。
(曹操が実際に何も言わなかったのか、記録に残らなかっただけなのかは不明ですが。)

また、続けて「(傅幹は)北地の人にして、丞相倉曹属に終わる」とあります。
全国の知識人ネットワークに名を馳せる人物(袁渙など)の言うことは「善し」とするが、
(ただ「善し」としただけなのかもしれませんが。)
無名に近い部下の言葉には耳を貸さなかったということでしょうか。
若い頃の曹操には、あまり認められない姿勢であるような印象を持ちました。

ところで、『九州春秋』の本条によると、
これまでにも何度か言及したことがある傅玄は、傅幹の息子だとのこと。
傅玄の著書や作品は、その父と曹魏政権との関係を視野に入れると理解できることがありそうです。

それではまた。

2019年10月28日

曹操の息子たち

先に、曹操が宝刀5枚を作り、文治を託せる子に与えようとしたけれど、
そのうちの2枚は曹操の手元に残ったことを述べました。

なぜそのようなことになったのでしょうか。

宝刀ができたのは、建安16年(211)から22年(217)までの間、
(もう少し絞り込めると思いますが、今は措いておきます。)
これより以降、曹操は呉の孫権、漢中の張魯、劉備を征伐しに出掛ける一方、
漢王朝の遺臣である金禕や吉本、また西曹掾の魏諷らが起こした反乱に苦慮しています。
相次ぐ内憂外患に、文治どころではなくなったのかもしれません。

とはいえ、曹操の期待に応え得る息子が、
曹丕、曹植、曹林のほかにいなかったのでしょうか。

曹操には二十五人もの息子がいたのですから、
あと二人くらいは、宝刀の下賜に値する人物がいてもよさそうなものです。

そこで、『三国志』の彼らの伝記(巻19、20)を概観してみたところ、
殺伐とした風景が眼前に広がるのを禁じえませんでした。

曹操の息子たち25人のうち、
建安16年(211)当時、生存していたものは15人、
太子が曹丕に決まった同22年(217)には14人、

曹丕が文帝として即位した220年以降の生存者は12人、
更に明帝期になると10人。

(こちらにまとめてみました。)

曹丕が太子に立てられたとき、
その母である卞皇后は、女官長に祝福されても節度を守った、
と、同巻5「后妃伝(卞皇后)」に記されていますが、
卞皇后の態度の背景には、こうした状況もあったのかもしれません。
(それとも、この時代の子供の生存率はこれくらいが普通だったのでしょうか。)

多くの公子が早逝する中で、生きている者の中には、
たとえば曹袞のように非常に聡明な人物もいたのでしょうが、
そうした人々は、曹丕と曹植との後継者問題が緊張の度を増す中で、
それに巻き込まれることを恐れ、敢えて自身の文才を隠した可能性もあります。

それではまた。

2019年10月26日

 

 

文学を好む兄弟

曹植の文才に肩を並べようとした皇族に、中山恭王曹袞(?―235)がいます。
『三国志』巻20の本伝には、
「凡所著文章二万余言、才不及陳思王而好与之侔」と記されています。
才能は異母兄の曹植には及ばなかったけれど、好んで兄と肩を並べたがった、と。
近しい年長者に強くあこがれ、少年らしい勝気さで兄と張り合う様子が目に浮かぶようです。
なお、これは曹丕が曹操の後を継いだ220年以降のことではないでしょう。
曹丕の時代となってからは、兄弟間の交流が禁止されましたから。

さて、実は、宝刀を与えられた曹操の子と聞いて、
曹丕・曹植以外では真っ先にこの曹袞のことを想起したのですが、その推測は外れました。
建安21年(216)に平郷侯に封ぜられていることから考えると、
曹操が宝刀を作った頃はまだ、十代前半くらいの少年だったと推測され、
そのために、宝刀を下賜されて文治を託されるということがなかったのかもしれません。

そして、昨日言及した「饒陽侯」曹林は、彼の同母兄でした。

前掲『三国志』本伝の記述によると、
曹袞は慎み深い態度を貫き、逐一その言動が朝廷に報告される等の仕打ちによく堪え、

明帝の時代、病気で亡くなりましたが、曹林は彼にその死後を託されています。

なお、曹林の孫娘は、嵆康の妻です。(『三国志』巻20「沛穆王林伝」裴松之注に引く『嵆氏譜』)
彼女が婚家に持ち来った家風というものがあるとするならば、
それはきっと、文学や学問を好む、物静かな気風なのだろうと想像しました。

それではまた。

2019年10月24日

宝刀を授けられた王族

一昨日からの続きです。
曹植「宝刀賦」の序文に、饒陽侯(曹林、又の名は豹)が言及されていました。
彼はどのような人物だったのでしょうか。

過日も触れた曹操「百辟刀令」に述べられていたとおり、
この宝刀は、曹操が学問を好む我が子に贈ろうと作らせたものでした。

他にこの宝刀を手にしたのは、曹丕、曹植、そして曹操自らが2枚を保持していました。
すると、曹林(豹)もまた、学問文芸を善くする人物だったと推測されます。

『三国志人名索引』*によって調べてみると、
曹林(巻20に本伝あり)に関する次のような記事にたどり着くことができました。

まず、彼は建安16年(211)、饒陽侯に封ぜられています。
これは、曹丕が五官中郎将、曹植が平原侯、曹拠が范陽侯となったのと同じ時です。
(巻1「武帝紀」裴松之注に引く『魏書』)

第二に、魏の黄初中(220―226)、儒者隗禧を郎中として召し抱えた譙王として、

王宿聞其儒者、常虚心従学。禧亦敬恭以授王。
 譙王(曹林)はつとに彼が儒者だと聞いていたので、常に虚心に彼に従って学んだ。
 隗禧もまた敬意をもって恭しく王に学問を教授した。

と見えています。(巻13「王朗伝附王粛伝」裴注引『魏略』)

『魏略』は、先にも述べたとおり、独自の思想を持つ、史料的価値の高い文献で、
ここも、編者魚豢の眼鏡に叶う儒者たちが「儒宗」として列伝に仕立てられている部分です。
隗禧を含む彼ら数名は、学問が荒廃した時代にあってなお気を吐いた人々ですが、
(とはいえ、王粛などに比べるとほとんど無名に近い人々です。)

そうした儒者を大切にした人物として、譙王曹林の名が記されているのです。
魚豢は、そうした人々の生きた証を丁寧に拾い上げています。

それではまた。

2019年10月23日

*高秀芳・楊済安編『三国志人名索引』(中華書局、1980年)。称号や名が様々に変わっても、ある人物を追いかけることができる、すごい研究成果です。

曹操が宝刀に託したもの

昨日の続きです。
曹操はなぜ文治の思想を子供たちに託そうとしたのでしょうか。

本日「曹操の事跡と人間関係」の修正作業を進めていて、
次のような記事に目が留まりました。

『三国志』巻38「蜀書・許靖伝」裴松之注に引く『魏略』に載せる、
魏の王朗が、蜀の許靖に送った書簡がそれです。
(その中に、曹操が劉備と親交がありながら対立したのはその本意ではない、とあります。)

前掲「許靖伝」によると、
許靖の兄は、潁川の陳紀に師事して、袁渙、王朗、華歆らと親しく、
許靖は、華歆、王朗、陳羣(陳紀の子)らと書簡のやり取りをしています。
彼らは、曹操が丞相から魏公となること(魏の建国)を強く後押しした人々です。

そして、前掲『魏略』に引く王朗の書簡の内容から、
彼らの交友関係が、魏王朝が成立した後も続いていたことが知られます。
こうしたことが、三国間の外交の安定に寄与していたのでしょう。

曹操は、いずれこのような時代が来ると見越して、
宝刀を作り、学術文芸を愛する息子にそれを贈ろうとしたのではないでしょうか。

その契機を曹操に与えたのは、たとえば上述の袁渙がその一人であるかもしれません。
彼は、大方の知識人と同じく、曹操と対等の立場を取りつつ文治の重要性を説き、
曹操はそれに耳を傾けています。(『三国志』巻11「袁渙伝」)

ただ、こうした曹操の姿勢は、晩年に近づくに従って微妙にバランスを失っていきます。
すると、昨日言及した「百辟刀令」が示されたのは、案外早期なのかもしれません。
曹丕が五官中郎将・丞相副、曹植が平原侯、曹豹(林)が饒陽侯に封ぜられた、
建安16年(211)からそれほど下ってはいない時期ではないかと。
曹操が魏公となったのはそのわずか2年後のことです。

それではまた。

2019年10月22日

 

 

曹操の文治志向

曹植の「宝刀賦」(『太平御覧』巻346)の序文にこうあります。

建安中、家父魏王乃命有司造宝刀五枚。
三年乃就、以龍虎熊馬雀為識。
太子得一、
余及余弟饒陽侯各得一焉。

其余二枚、家王自杖之。

建安年間中(196―220)、我が父魏王(曹操)は、役人に命じて宝刀五枚を作らせた。
三年の歳月が経って出来上がり、龍、虎、熊、馬、雀でもって目印を付けた。
太子(曹丕)が一枚を与えられ、
自分と我が弟である饒陽侯(曹林、又の名を豹)がそれぞれ一枚ずつ与えられた。

その残りの二枚は、父が自ら保持した。

これに対応する内容のことは曹操も記していて、
「百辟刀令」(『藝文類聚』巻60)に、次のようにあります。

往歳作百辟刀五枚、
適成、先以一与五官将、
其余四、吾諸子中有不好武而好文学、将以次与之。

去る年、百辟の刀五枚を作り、
ちょうど出来上がったところで、まず一枚を五官中郎将(曹丕)に与え、
その残りの四枚は、我が子らの中で、軍事を好まず学問を好む者に順次与えていこう。

まず、曹植が曹丕を「太子」と称しているのは、
厳密には、曹操の令にいう「五官将」が正しいでしょう。
曹植の賦の序文は、後日記されたか、後人が改めた可能性もあります。

すると、曹操が如上のことを行ったのは、
曹丕が五官中郎将となった建安16年(211)から、
太子に立てられた建安22年(217)までの間となるでしょう。

その曹操が言う「武を好まずして文学を好む」にはっとさせられました。

曹操はまた「内誡令」(『太平御覧』巻345)ではこう言っています。

百錬利器、以辟不祥、摂服奸宄者也。
百錬の利器(武器)は、不祥事を斥け、邪悪な者を正し服従させるものである。

武器は、やむを得ず行使するものであって、それ自体を目的としてはならない、
そう家族に対して戒めているのですね。

曹操はこの間、丞相から魏公(213年)、魏王(216年)へと地歩を固めてゆきますが、
並行して、南へ呉の孫権を伐ちに行ったり、西へ漢中の張魯を降しに行ったりしています。
それでも、武ではない、文による統治を、子どもたちに託そうとしている、
その志の高さに少なからず驚かされました。

もっとも、曹操のことですから、何か現実的な目論見があったのかもしれませんが。

それではまた。

2019年10月21日

どんなに貧弱に思えても

中国の楽府学会で発表する翻訳原稿を見直していて、
言語にはそれぞれ、それが扱う最適な大きさや形があるものだと感じました。
中国語に姿を変えた自分の原稿はまるで、
広い堂の中で、ひどく繊細な踊りを踊っているような感じです。
同僚の中国人の先生に訳していただいたのですが、
どう翻訳すればよいか、苦慮するところが多々あったとうかがいました。

以前、半年足らずほど中国で勉強していたとき、
異なる言語間でも通じる研究とはどのようなものかと考えました。
そのとき、自分の中で真っ先に却下されたのが、いわゆる文学研究でしたが、
このたびの会で試みるのは、そのような方向の研究発表です。

ちなみに、CNKIで中国の論文を検索してみると、
曹植の文学を取り上げた論文は3000件を超えるというのに、
彼の「七哀詩」とそれに基づく「怨詩行」とを中心的に論じたものは0件。
日本にはそうしたテーマの論文が複数件あるのに、です。
これは、彼我で興味関心の方向性が異なっていると言うほかありません。

そんな状況下で、果たして所論を理解してもらえるでしょうか。

ですが、今思うのは、
相手方の研究手法に従うのではなく、
彼我の折り合う中間地点に立つのでもなく、
自分にしかできない研究を全力でやろうということです。
それがどんなに貧弱に思えても、
自身の持ち味を活かしきったときはじめて、
誰かの手に届き得る研究成果となるのだと考えています。

それではまた。

2019年10月18日

私は木こり

自分の考えを表明した後、たいてい「しまった」と思います。
考えは目の前にまるごと見えていたはずなのに、
言葉はいつもそこにたどりつけません。
いつも何かが足りない。

でも、発した言葉は、すでにもう私のものではないから、
(言葉は私と人との間にあるものなのだから、)
少し言い足りないくらいがちょうどよいのかもしれません。
欠損部分があればあるほど、そこに人が関わりやすくなるでしょう。

場違いなことを言ってしまったなあと恥ずかしくなるとき、
私は木こりだと思うことにしています。

『詩経』大雅「板」に、こう歌われています。

我言維服  私の言葉に、さあ耳を傾けておくれ。
勿以為笑  どうか笑いものにはしないでおくれ。
先民有言  昔の偉い人も言っているではないか。
詢于芻蕘  何かあれば、木こりにきいてみよと。

人間である以上、よほどの極悪非道でない限り、
どんな者にも汲むべき何らかの意見はあるだろうという考え方ですね。

自分を木こりだと思っていれば、何も恥ずかしくなることはありません。

それではまた。

2019年10月17日

 

1 70 71 72 73 74 75 76 77 78 83