ひとり同士だからこそ
漢代の詠み人知らずの詩歌は、大多数が悲哀感情を詠じています。
たとえば古詩であれば、生き別れの男女の情愛がその原初的テーマです。
また、そうした詩歌が詠われる宴席の様子は、
一座の人々はすすり泣き、その魂はとろけるようだと表現されています。
(『文選』巻四、張衡「南都賦」)
同じ宴席という場で上演されていたと思しい語り物文芸や演劇で、
たとえば、刺客荊軻の秦国への出立、李陵と蘇武の別れの場面などでは、
しばしば“涙が数行下ったり”しています。
悲哀感情というものは、人と共有しやすいものなのでしょうか。
ただ、宴席の外には、一家離散の流民が多くいたはずで、
それを思うと、宴席に連なる人々の悲哀がどういうものなのか、
リアリティを以て納得することが難しくなります。
他方、人々と共有する悲哀感とは異なって、
ある個人が、その人にしか感受できない悲しみを詠ずるとき、
かえって私はそれに強く共振するものを感じます。
私もひとり、この人もひとり。
ひとり同士だからこそ通じ合えるもの、
それを受け取ることができたなら本望だと思います。
それではまた。
2019年8月29日
恋文のような友情詩
昨日言及した顧栄は、故郷の呉にいる妻に贈る詩を、
同郷の友人であり、当代きっての文人、陸機に代作してもらっています。
(夫婦愛はプライベートではないのか、この種の代作は必ずしも珍しくありません。)
その陸機「為顧彦先贈婦(顧彦先の為に婦に贈る)二首」(『文選』巻二十四)の、
其二の末尾にこうあります。
願保金石躯 どうか貴方には金石のように頑健な身体を保たれて、
慰妾長飢渇 いつか、私の長い飢渇のような寂しさを慰めてくださいますよう。
そしてこの句は、白居易が元稹に宛てた「寄元九」詩(『白氏文集』巻十、0449)に、
次のとおり踏まえられています。
願君少愁苦 どうか君、あまりひどく愁え苦しむことのないように。
我亦加飡食 私もまた、しっかり食べて元気をつけよう。
各保金石躯 それぞれ金石のように頑健な身体を保ち、
以慰長相憶 長く相手を思慕している切なさを慰めようではないか。
この白居易詩は、前掲の陸機の詩に加えて、
古楽府「飲馬長城窟行」(『文選』巻二十七)にいう次の辞句も踏まえています。
上有加餐食 (貴方からの手紙の)冒頭には「ご飯をしっかり食べよ」と、
下有長相憶 結びには「長くおまえのことを思っている」と書いてありました。
陸機の詩も、この詠み人知らずの歌詩も、男女間の愛情を詠じている。
つまり、白居易の詩は、友人の元稹をほとんど妻や恋人のように思い為しているのです。
このことについては、かつて唐代の書簡文との関係から論じたことがあります。
([論著等とその概要]の[報告・翻訳・書評等]№15。原稿も公開しています。)
では、こうした詩風はどのような歴史的経緯から誕生したのでしょうか。
「古詩」が後宮の女性たちに由来するとの推定はこちらでも述べたとおりですが、
その後続作品「蘇李詩」(論文№28)あたりが、上述のような詩の淵源なのかもしれないと考えています。
李陵と蘇武という無骨な男同士の離別詩に、なぜか夫婦の睦言が出てくるのですね。
しかし、五言詩の系譜をたどれば、これは必然のこととして納得されます。
そして、この詩風は後漢末の建安詩にも認めることができます。
では、それ以降、唐代に至るまでどうだったのか。
それは未解明です。
それではまた。
2019年8月28日
やはり天は見ている。
三国の呉から、北に赴いて西晋王朝に出仕した文人に、
陸機・陸雲兄弟(あの陸遜の孫)と並び称せられた顧栄という人がいます。
陸氏兄弟は、王朝の内紛、八王の乱に巻き込まれて亡くなりましたが、
顧栄は崩壊した西晋王朝が南方へ落ち延びていくのに同行し、
司馬睿が東晋王朝を建国するのに協力しました。
彼ら呉人は、西晋貴族社会の中で、敗戦国の田舎者という扱いでした。
それなのに顧栄は、自分たちを冷遇した人々の王朝再建に力を貸したのです。
『世説新語』徳行篇に、こんな内容のエピソードがあります。
顧栄が、西晋王朝の都、洛陽にいたときのこと。
宴席で、炙り肉を食べたそうな様子の料理人に、自分のものを分け与えた。
居合わせた人々は嘲笑したが、顧栄はこう言って意に介さなかった。
「一日中肉を炙りながら、その味を知らないなんて、そんなことがあるものか。」
その後、南へ難を逃れていく途中、間一髪でいつも助けてくれる者がいた。
あとになって聞けば、あの炙り肉を分けてもらった人だった。
顧栄という人物の人柄がしのばれる逸話です。
彼だからこそ、南人と北来の貴族との橋渡しもできたのでしょう。
ところが、顧栄が亡くなった後、
北来の貴族で、司馬睿の参謀であった王導は、
南方豪族たちを切り崩し、分断させて、主導権を手中に収めます。*
ですが、東晋王朝はそれほど長い命脈を保ってはいません。
王導のような天才的な政治家のやり口では結局こうなるのでしょう。
歴史学的アプローチでない、素人的感想ですが。
それではまた。
2019年8月27日
*川勝義雄『中国の歴史3魏晋南北朝』(講談社、1974年)6「貴族制社会の定着 4世紀の江南」を参照。
散歩するように文字を探すと
ある作品に語釈をつけるため、
『春秋左氏伝』の中からある語句を探していたところ、
宣公十二年の条に、次のようなフレーズがあるのに出会いました。
夫文、止戈為武。
そもそも文字として、「戈」(軍事)を「止」めるということが「武」である。
以前、授業の中で、何かの折に触れたことがありますが、
ふと思いついたことだったので、その際には出典を明示しませんでした。
ここにメモしておきます。
さて、何か言葉を古典籍の中から探すとき、今は便利な方法がいくらでもあります。
ですが、散歩をするように一枚ずつページをめくっていると、
期せずしてこんな宝物に出会います。
私が学生だった頃は、コンピュータやネット環境はまだなかったので、
散歩どころか、血眼になって、一枚ずつページをめくって文字を探していました。
索引のような工具書はありましたが、それでも大半は手作業によるしかなく、
少しでも作業を効率化するため、四角号碼という、漢字を記号化したものを覚えました。
ところが、この四角号碼というものを覚え(てい)ない先輩がいて、
その方はたいへんな博覧強記で、古典の世界を自身の血肉にしておられました。
ひとつひとつの知識が有機的につながっているのですね。
今は、コンピュータの普及によって、博覧強記の価値は薄れているのかもしれません。
けれども、身についた知識が薄弱だと、思いつくことも薄っぺらです。
『春秋左氏伝』のような古典を最初からじっくりと読むことは難しいとしても、
せめて出典を探すときくらい、できるだけ手作業で行うことを心がけようと思います。
ちなみに、夏目漱石は『春秋左氏伝』などの古典を愛読していたそうです。
中島敦の「牛人」は、『春秋左氏伝』に(『韓非子』にも)見える逸話に基づいています。
古典の血肉化があればこそ生まれた近代文学(氷山の一角)だと思います。
それではまた。
2019年8月26日
曹植の二種類の相和歌辞
相和歌「薤露」の歌辞として、
魏の武帝、曹操の「惟漢二十二世」、
西晋の傅玄「惟漢行」のあることは先に述べたことがありますが(2019.07.23)、
曹植にも二篇、「薤露行」と「惟漢行」とが伝存しています。
この楽府題が曹植自身によるものだとして、
なぜ片方は「薤露行」で、片方は「惟漢行」なのでしょうか。
「惟漢行」が、曹操の詠じた内容を継承しているであろうことは予測できます。
他方、「薤露行」の方は、そうではないかもしれない。
「薤露」のような挽歌は、後漢時代、宴席でも歌われていましたから、
(『続漢書』五行志一・劉昭注補に引く応劭『風俗通義』*、『後漢書』周挙伝)
そのような場で作られた可能性もあります。
曹植は、明帝の太和六年(232)に亡くなっているので、
当時、魏王朝の宮廷内で、曹操の「薤露・惟漢二十二世」は当然演奏されていて、
そのような状況下で、曹植は二種類もの「薤露」歌辞を作っている。
これはどういうわけなのでしょうか。
他方、二篇の歌辞の成立はいつなのでしょう。
これがまた諸説紛々です。
そして、いずれの説も確たる根拠を示してはいません。
作品の成立時期を推定し、
その時期、作者が置かれていた環境から、作品解釈をする、
そのような研究手法を、自明のこととして取る必要はないと思います。
ただ、作品を精読していくと、
いずれ制作時期を考えざるを得ないところに逢着しそうです。
わかるかどうか、わからないですが。
それではまた。
2019年8月23日
*王利器『風俗通義校注』(中華書局、1981年)「佚文」p.568を参照。
才能よりも人徳か
近頃ちくま学芸文庫に収められた、田中謙二編訳『資治通鑑』の冒頭に、
「才と徳(巻一、周紀より)―人物鑑識のポイント」という章が置かれています。
先学の謦咳に接するような語釈に導かれつつ読み、
(言葉を読むということがどういうことか、みっちりと教えられます。)
たしかに、才能よりも人徳の方がずっと大切だと納得しました。
それと同時に、後漢末の英雄、曹操のことを思わずにはいられませんでした。
曹操の言動には非常にあざといところがあります。
何をするにも、それがもたらす効果というものを計算し尽している感がある。
たとえば、呉の名士、張悌が曹操を評して、
曹操は、功績は中国全土を覆い、威勢は四海を震わせたが、
権謀術策を弄し、絶えず征伐をし、
民はその威力を恐れはしても、その徳に懐くことはなかった。
(『三国志』巻48「呉書・孫晧伝」裴注引『襄陽記』)
と言っているのは、当時も今も、多くの人々が同意するところでしょう。
たしかに、わざとらしい善意には心からの親しみを感じにくい。
ただ、ある人物において「徳」なるものを成立させるのは、
本人の姿勢に加えて、周囲の人々の対し方もあるのではないかと思います。
曹操は、その現実的判断力において、他の英雄たちの追随を許しませんでしたが、
その祖父が宦官という、知識人たちから見れば非常に賤しい家柄でした。
そんな曹操は、配下の人々との信頼関係を築くのに相当苦労したはずです。
周りの知識人たちは、基本的に曹操を見下しているのですから。
他方、曹操が群雄を降すたびに相手方から帰順してきた知識人たちに、
自身の死活とプライドとを天秤にかける計算がなかったとは言えないでしょう。
そんな知識人たちの掲げるスローガンが「徳」でした。
そして、ある時期まで、周囲のアドバイスに従って「徳」を踏み行ったのが曹操でした。
少なくとも、後漢最末期という乱世においては、
「徳」なるものを、普遍的な倫理として語ることは殆いように思います。
それではまた。
2019年8月22日
魏王朝の元旦の宴
昨日言及した曹植「元会」詩の制作年について、以下のことをメモしておきます。
「元会」とは、一年の始まりの日に、君臣が一堂に会して催される王朝主催の宴です。
後漢王朝の最末期、建安二十一年(216)に魏国の王となった曹操は、
都を置いた鄴の文昌殿で、漢儀に則ってこの会を催しました。
(『晋書』巻21・礼志下)
これは、魏の司空となった王朗が、漢の元会の儀について奏上したことによるもので、
『晋書』礼志に記された百華灯の設置も、王朗のこの上奏文の中に見えています。
(『宋書』巻14・礼志一)
では、曹植の「元会」詩は、父曹操の膝下で作られた作品でしょうか。
そうではないだろうと判断されます。
というのは、詩中に「皇家栄貴」と詠じられているから。
後漢王朝がまだ存続している時に、魏に対して「皇家」という語は使えません。
すると、本詩は、黄初元年(220)以降、魏王朝時代の作だということになります。
ところが、魏の制度では、曹植ら諸王は朝見が許されませんでした。
(前掲の『晋書』礼志下)*
そして、明帝の太和六年(232)正月、特別に諸王の朝見が許されたのですが、
彼らはこの時まで、血を分けた一族の催す元会に参列できない状態が続いていたのです。
「元会」詩は、この太和六年正月の会での作と見てほぼ間違いないでしょう。
曹植はその後まもなく、失意の底に沈んで没します。
彼の魂は、その作品が読み継がれるということによって救われたと思いたいです。
それではまた。
2019年8月21日
*このことを指摘しているのが、昨日言及した趙幼文『曹植集校注』です。
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不吉な影をもつ宴の詩
元旦の宴の楽しみを詠じた曹植「元会」詩に、次のような辞句が見えます。
歓笑尽娯 笑いさざめきながら心ゆくまでくつろいで、
楽哉未央 愉快なことよ、楽しみはまだこれからだ。
“楽しみ”が“未だ央(つ)きず”という表現は、この時代の詩歌には割合よく見えるもので、
たとえば、『文選』所収作品からは次のような事例を挙げることができます。
・蘇武「詩四首」其四:懽楽殊未央(懽楽は殊ほ未だ央きず)(巻二十九)
・劉楨「公讌詩」:懽楽猶未央(懽楽 猶ほ未だ央きず)(巻二十)
曹植ももちろん暗誦していたに違いないこれらの詩は、
いずれも、宴の汲みつくせぬ楽しさ、今のこの瞬間の歓楽を謳歌しています。
ところが、同様な辞句に、人の命のはかなさを重ね合わせて歌うものがあります。
曹丕の「大牆上蒿行」(『楽府詩集』巻三十九)がそれで、
宴席の様子を詠じたその歌の末尾に、次のような辞句が見えています。
今日楽、不可忘、楽未央。
今日の楽しみは、忘れてはならぬ。楽しみはまだこれからだ。
為楽常苦遅、歳月逝、忽若飛、何為自苦、使我心悲。
いつも楽しむのに時機を逃してばかりで、
歳月は、あっという間に飛び去るように過ぎてゆく。
どうして自分で自分を苦しめて、悲しみに胸を痛めてばかりでいるものか。
同じ発想は、詠み人知らずの「怨詩行」(『楽府詩集』巻四十一)にも次のように見えています。
人間楽未央、忽然帰東岳。
人の世で存分に楽しみを尽さぬうちに、あっという間にあの世行き。
上文に「嘉賓難再遇(よき賓客は、ふたたびめぐり合うことは難しい)」とあるので、
この「怨詩行」も宴席で歌われたものだと見て間違いありません。
宴の楽しみと人生のはかなさとを表裏一体のものとして歌う、
こうした発想自体は、この時代の詩歌において決して珍しいものではありませんが、
辞句そのものとしては、この組み合わせは必ずしもありふれた表現でもありません。
そして、最初に示した曹植の「楽哉未央」には、次のような辞句が続きます。
皇家栄貴 皇族一家は栄華や富貴を極め、
寿考無疆 限りない長寿に恵まれますよう。
もし曹植が、曹丕の「大牆上蒿行」を踏まえていたとしたら、
ここで祈念している長寿が、ひどく空疎な響きを持ってしまうことになります。
「元会」詩の成立は、趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)が指摘するとおり、
明帝(曹叡)の太和六年(232)の正月と見るのが妥当だと私も思いますが、
この時、曹丕はすでにこの世になく、まもなく曹植も没します。
元旦の宴を言祝いだ詩でありながら、どこか不吉な影を感じる表現です。
それではまた。
2019年8月20日
気付かぬうちに肩入れ
今年中にこちらに公開する予定の「曹操の事跡と人間関係」ですが、
少しずつ修訂作業を進める中、今日、次のことに遭遇して思わず足を止めました。
それは、かつてこちらでも言及したことがある丁儀の所業です。
丁儀は、曹操の跡継ぎとして曹植を強く推したために曹丕の恨みを買い、
曹丕が魏王となってから間もなく殺されたという人物です。
(ここへ至る経緯については、こちらの拙論の特に第三章をご覧ください。)
このため、私はこれまで丁儀のことを、悲劇的な人物として同情的に捉えていました。
ところが、彼は清流の知識人たちを故意に陥れるようなことをしていたのでした。
高圧的な態度で、不仲な人々の欠点をあげつらったり、追い落としたり。
『三国志』及び同裴松之注に引く諸文献に記されているところでは、
その犠牲者はたとえば次のような人々です。
・徐奕(巻12「徐奕伝」、同巻裴注引『魏書』『傅子』、巻22「桓階伝」)
・崔琰(巻12「徐奕伝」裴注引『傅子』)
・何夔(巻12「何夔伝」、同巻裴注引『魏書』)
・毛玠(巻12「何夔伝」裴注引『魏書』、巻22「桓階伝」)
官撰の『魏書』が、魏王朝にとって邪魔者となった丁儀の悪事を暴くのは当然として、
隣接する時代の傅玄(217-278)が著した『傅子』に、
丁儀が徐奕と崔琰との間を引き裂いた、と記されていることには驚きました。
(傅玄もその目で見たわけではないので、これを鵜呑みにすることはできませんが。)
私はいつのまにか、曹植に肩入れするあまり、
彼を推した人物をも、無条件に“いい人”扱いしていたのですね。
他方、丁儀にも“汚い手”を使わざるを得なかった理由があったのでしょう。
誰だって全面的に“いい人”ではないはずで、様々な面を持つのが普通の人間でしょう。
そんな至極あたりまえのことに今さらながら気付かされました。
それではまた。
2019年8月19日
過去から今への道をたどれば
歌声に満ちた世の中にあこがれる、とは一昨日書いたところですが、
実は、為政者が音楽を用いて民を治めるということに、
私は長らく強い違和感を感じ続けてきました。
だいたい音楽に政治的メッセージを込めるということ自体が好きでない。
(音楽家が政治的思想を持つことにはまったく異論はありません。)
音楽に何か社会的用途のようなものを持たせるということを、
芸術への冒涜であるように感じていたのですね。
ですが、ここ十年ほどでしょうか、だんだん分かってきました。
そもそも音楽は天上界と人間界とをつなぐものでした。
そして、人々が自然に対して畏怖の念を持ちつつ生きていた時代、
音楽を通して天上界におうかがいを立てることは、
人間界を治めていく為政者としては極めて重要なまつりごとであった。
だからこそ、歴代王朝は音律を定め、大切な式典で音楽を演奏したのでしょう。
人間社会において、音楽というものが占める位置が違っているのです。
時間を今から過去へと遡ると理解に苦しむことも、
過去から今に向けて経緯をたどりなおしてみると納得できることがあります。
詩人と官僚とがほぼイコールという中国古典の世界も、
政治家が詩を利用するのか、となれば非常に嫌な感じになりますが、
人の心もわからない粗野な人間に、民の公僕となる資格はないと解釈すれば納得できます。
かつての私が抱いた違和感は、ほとんど現代日本人の中国古典に対する違和感です。
ていねいに拾い上げていく価値はあると思っています。
それではまた。
2019年8月16日