文学研究における根拠とは
先週末、中国文芸座談会(九州大学中国文学会)に出かけました。
その中で聞いた、東英寿さんの「吉州本『近体楽府』考」が非常に面白かった。
いずれ公刊されますし、ここで私が内容を紹介する必要はありませんが、
ただ自分として言いたいのは、ピントの合った結論を聞いて感嘆、納得したこと、
そして、そこから様々なことを考える契機が与えられたということです。
昨今よく聞く所謂エビデンスということ、
客観的な、たとえば数値で表せるような根拠を示せという要求に、
文系学問、特に歴史的に古い文献学的研究の多くはなかなか対応できません。
ですが、版本研究などは、自分の目で見て、その真実の姿を指し示すことができる、
それが揺るぎのない根拠となって、皆を納得させることができます。
(近年、こうした研究に多く人が集まるのは、こうした背景もあるかもしれません。)
では、作品研究や文学史研究はどうなのだろう。
自分が望む結果になるような勝手な解釈や構想は自戒する、
ですが、それを、目に見えるたしかな形として示すことは非常に難しい。
示せた、と自分で思っても、他者がそれを認めるかどうかはまた別問題ですし。
このあたりのところ、大きな壁を感じることが少なくありません。
恩師の岡村繁先生はさる論文の中で(思わず、でしょうか)、
“これが納得できないなら文学研究なんかやめた方がましだ”といったことを書かれている、
先生でさえ苦労されたのだから、ましていわんや自分のごときをや、です。
(最近、考え抜いた論と思いつきとの区別がされにくい傾向があるように思います。)
ところで、歴史学者の宮崎市定は、『九品官人法の研究』はしがきの中で、
書いてないことは信じない、という清朝考証学のやり方には限界がある。
(およそ当時として当たり前のことは書かれていないのだから。)
考証は、ある段階まで来たら一段の飛躍が要求される。
記録に書かれていないことをも、史実の延長として復原しなければならない。
自分のこの研究は、伝統的考証学の見地から見れば隙だらけだろう。
だが、これを否定して別の体系を立てることは、おそらく容易なことではないだろう。
といったような内容のことを書かれています。
文学史研究においては、常々こうありたいと思っています。
それではまた。
2019年9月30日
心中の親友と語らう
昨日言及した阮籍「詠懐詩」其十七、全文は次のとおりです。
独坐空堂上 ひとり、がらんどうの座敷に座る。
誰可与歓者 ともに楽しみを分かち合える者など誰がいよう。
出門臨永路 門を出て、どこまでも続く道に臨めば、
不見行車馬 行き交う車馬は見当たらない。
登高望九州 高台に登って中国全土を見渡せば、
悠悠分曠野 九つに分たれた原野が果てしなく四方に広がっている。
孤鳥西北飛 見れば、一羽のはぐれ鳥が西北に飛んでゆく。
離獣東南下 群れから離れた獣が東南に下ってゆく。
日暮思親友 日が暮れて、私は親友を思う。
晤言用自写 心中の彼と語らって、自分で自分の憂いを晴らすのだ。
(以上の通釈は、こちらの小文で示したものを多く転用しています。)
ここに詠じられた「孤鳥」「離獣」は、詩を詠ずる者の目に映じた鳥獣の姿です。
ただそれは、詩を詠ずる者の心情がそのようであったからこそ、
鳥獣たちの姿も自分と同じような様子に見えた、あるいは、
そのような様子の鳥獣を描いて詩に登場させた、ということでしょう。
阮籍の描く「孤」「離」と、曹植や陸機のそれとは何が違うのでしょうか。
曹植「九愁賦」には「失群」という語が示すとおり、もといた群れが意識されています。
陸機「贈従兄車騎」には「故薮」「旧林」とあって、遠く離れた故郷への思いを詠じています。
これは、この詩が同郷の従兄に贈られたものであることに大きく因っているでしょう。
ところが、阮籍「詠懐詩」は、もといた共同体も故郷も詠じません。*
そして最後に、心の中にいる「親友」と語り合い、憂いを払いのけようと詠ずるのです。
この「親友」は、私たちすべてに開かれた回路であるように私は感じます。
その心の底を深く降りていったならば阮籍と「晤言」できる、
阮籍のいう「親友」とは自分でもあるのではないか、
そんな風に読者に思わせる詩。
それが「文学」かもしれないと私は思います。
それではまた。
2019年9月27日
*吉川幸次郎『阮籍の「詠懐詩」について 附・阮籍伝』(岩波文庫、1981年)をご覧になってください。また異なる視点からの論が展開されています。
それぞれの孤独
昨日言及した曹植「九愁賦」に、次のような対句が見えています。
見失群之離獣 群れを見失ったはぐれ獣が目に入り、
覿偏棲之孤禽 世の片隅に暮らす孤独な禽(とり)と対面する。
つれあいと離別した鳥というテーマは、漢代の詩歌には珍しくありません。
古楽府「双白鵠」(『玉台新詠』巻1「古楽府六首」其六)はその典型ですし、
もと十七曲あった「相和」のうちの失われた一首「鵾鶏」は、*1
張衡「南都賦」(『文選』巻4)にいう、
「寡婦悲吟、鵾鶏哀鳴」の「鵾鶏」がもしそれであるならば、
「寡婦」と対句を成すことから、やはり同趣旨のテーマを詠ずるものと判断されます。
それを我が身に引き付けて詠じたのが曹植であったと言えるでしょう。
「離」と「孤」とを対で用いる表現は、
続く時代の文人たちに、次のように継承されている例を認めることができます。
魏の阮籍「詠懐詩」其四十六に、*2
孤鳥西北飛 孤独な鳥は西北に向けて飛び、
離獣東南下 群れを離れた獣は東南へ下ってゆく。
また、西晋の陸機「贈従兄車騎」(『文選』巻24)にも次のようにあります。
孤獣思故薮 孤独な獣は故郷の林藪をなつかしみ、
離鳥悲旧林 群れを離れた鳥は古巣の林を思って悲しむ。
陸機は、故郷の呉が滅亡してから、もと敵国であった西晋王朝に出仕した人です。
(こちらの№4『漢代五言詩歌史の研究』第七章をご参照いただければ幸いです。)
その彼が、曹植の如上の表現を踏まえたことも、
それを少しくアレンジしたことも、故あることとして納得されます。
それでは、阮籍「詠懐詩」はどうでしょうか。
明日につないで考えてみます。
それではまた。
2019年9月26日
*1『楽府詩集』巻26、相和曲上に引く、陳の釈智匠『古今楽録』にいう。
*2『阮籍集』巻下、上海古籍出版社、1978年、第111頁。同作品は、『文選』巻23所収「詠懐詩十七首」の其十五でもあります。
2019年9月26日
泥と塵
曹植「七哀詩」(『文選』巻23)に歌われた特徴的な次の対句、
君若清路塵 君は清路の塵のごとく、
妾若濁水泥 妾は濁水の泥のごとし。(現代語訳はこちらに示しています。)
これに類する表現は、同じ曹植の「九愁賦」にも次のとおり見えています。
(丁晏纂・葉菊生校訂『曹集詮評』第1巻、文学古籍刊行社、1957、第11頁)
※現代中国的様式で出典を示してみました。見る人がアクセスしやすい情報開示ですね。
寧作清水之沈泥 寧ろ清水の沈泥と作るとも、
不為濁路之飛塵 濁路の飛塵とは為らざれ。
清らかな水に沈む泥となろうとも、
汚濁の路に舞い上がる塵になどなるものか。
趙幼文が、この作品を文帝の黄初年間に繋年していることは妥当だと判断されます。*
「泥」は、おそらく曹植自身をいい、
「塵」は、暗に文帝曹丕を念頭において言っているのかもしれません。
曹植「七哀詩」の製作年代は未詳ですが、
内容がかなり具体的な「九愁賦」と類似句を共有している、
そこに、何らかの考察の糸口が見えているような感触があります。
それがどう展開するのか、あるいは気づきで終わりなのかはわかりませんが。
それではまた。
2019年9月25日
*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)巻2、p.252~257を参照。
限られた記憶容量
先週、5回にわたって書き記したのは、
今年の三月に書いた論文を再構成するためのメモでした。
ところが、わずか半年ほどしか経っていないのに、
かなりの部分を忘れていた。
清路の塵が高山の柏になったこととか、
西南の風が東北の風になったこととかは鮮明に憶えていたのですが、
小さな、でもこれがないと単なる憶測になる、
そんな結節部分がきれいさっぱりと記憶から落ちていたのです。
ちょっと愕然としました。
思えば、三月は性質の異なる複数の仕事を同時並行で行っていた、
その隙間を縫うようにして書いた論文だからか、
(だから完成度も低い。)
それとも、脱稿後の半年、新たな出来事の記憶が脳裏に刻まれたからか。
忙しすぎるのか、いらない情報が頭に入って来すぎるのか。
いつだったか、入谷仙介先生がおっしゃっていたこと、
王維の詩を長らく読んできて、
彼が参照している書物がだいたいわかった。
経書、『文選』、それから『藝文類聚』、これくらいだ。
意外と少ない。
もしかしたら、『史記』や『漢書』もあったかもしれません。
(上記のこと、私の記憶違いだったらごめんなさい。)
が、『藝文類聚』はたしかに含まれていました。
私から見れば、全然「意外と少ない」ではありませんが、
それでも、その知識のすべてに血が通っていて、
その気にさえなれば、自分の糧にできそうな感触があります。
古人と現代人と、脳の容量はそれほど増減していないでしょうから、
その限られた記憶容量の中に納まるものの質の問題でしょう。
自分にとって関係のないものは、
もう流していっていいのではないかと思っています。
それではまた。
2019年9月24日
注の付け方
ここ数日、論文を中国仕様に改める作業を行っているのですが、
(言語は日本語なのですが、体裁を中国仕様にする必要がありまして。)
戸惑っているのが、注の書き方です。
参照した先行研究については問題ありません。
著書の場合は、著者名、書名、出版社名、出版年、該当ページ、
論文の場合は、著者名、論文タイトル、雑誌名、号、出版年を記すということで。
奇妙に感じるのは、こうした参考文献と同じ様式で、一次資料についても注記することです。
たとえば、『漢書』礼楽志の一部を本文に引用する場合、
~~『漢書』巻二十二・礼楽志に、次のような記述が見えている。
……(引用文)……
※〈巻二十二〉の部分は、場合によっては記さないこともあります。
というふうに、本文中に出典を明記すれば十分だとこれまで認識していましたが、
最近の中国の学術論文では、本文に原文を引用した上で、その注に、
①『漢書』第22巻,中華書局,1975,第1046頁。
といった体裁で、書誌情報を記しているのですね。
ページ数まで示せば、あとで見る人(自分も含めて)が楽でしょう。
本文の校訂など、出版に至る作業に携わった人々への敬意を表する意味もあるでしょう。
また、昨今はネット上に多くのテキストが公開されているので、
それらではない、たしかな出版物を目睹したのだと示す意味もあるのかもしれません。
それでも、どうにも腑に落ちないのが、
こうした一次資料を、研究の成果である参考文献と同列に並べていることです。
(中国でも、一昔前の論文にはこうした体裁は認められません。)
最近は、日本の若い研究者も中国様式で論文を書かれる方が多いですが、
こうした資料の質的差異にどこまで自覚的であるか、一抹の不安を覚えることがあります。
ただ、皆が知っているその理由に、私が思い至らないだけなのかもしれませんが。
それではまた。
2019年9月23日
鎮魂歌としての「怨詩行」(5)
ここまでの何回かにわたって、
曹植「七哀詩」をアレンジした楽府詩「怨詩行」は、
曹植に捧げられた鎮魂歌ではないかという推論を示してきました。
そこで、あらためて思い起こされたいのが、この楽府詩が歌われた場所です。
楚調「怨詩行」として、『宋書』楽志三の末尾に収録されたこの楽府詩は、
同文献に記す、荀勗によって選定された宮廷歌曲群「清商三調」に含まれると判断できます。*
また、根拠が今一つ不明確ではありますが、
『楽府詩集』も、その巻41・楚調曲上に収める本作品に「晋楽所奏」と付記しています。
「怨詩行」は、西晋王朝の宮廷音楽として歌われたと見てほぼ間違いありません。
では、なぜ西晋王朝が、魏の曹植の魂を鎮める必要があったのでしょうか。
ひとつには、先にこちらでも述べた理由によるでしょう。
そしてもう一つ、こういうことも考えられるかもしれません。
西晋の武帝司馬炎は、その同母弟司馬攸を遠ざけて憤死に追い込みましたが、
この兄弟の間を割いたのは、他ならぬ荀勗でした。
司馬炎は弟の死を非常に悲しみ、晩年は病気がちで宴楽に耽ったといいます。
(『晋書』巻44・華嶠伝)※
そして、荀勗は朝廷の中枢から外され、鬱屈した日々を過ごしたと記されています。
(同巻39・荀勗伝)
こうした歴史的経緯を踏まえるならば、
もしかしたら荀勗は、自らの所業を悔い、武帝司馬炎をなぐさめるため、
宮廷歌曲のひとつとして、司馬攸を思わせる曹植に鎮魂歌を捧げたのではないか、
曹植に捧げられた鎮魂歌は、同時に司馬攸の魂を鎮めるためのものでもあったのではないか、
このような推論も成り立ち得るのではないかと思います。
それではまた。
2019年9月20日
*近日刊行予定の『狩野直禎先生追悼記念三国志論集』(汲古書院)に寄稿した拙論「晋楽所奏「怨詩行」考―曹植に捧げられた鎮魂歌―」に詳述しています。ここまで述べてきた一連のことも、この拙論で述べました。ご覧いただければ幸いです。
※先に記していた「華廙」は、「華嶠」の誤りでした。ここに訂正します。
鎮魂歌としての「怨詩行」(4)
昨日の風の話の続きです。
曹植「七哀詩」から晋楽所奏「怨詩行」への改作で、
風にまつわる表現として、
「西南風」から「東北風」へ差し替えられていることは昨日述べました。
これに加えてもう一つ、「長逝入君懐」から「吹我入君懐」への改変があります。
「七哀詩」では、西南の風となった自身が、長い距離を飛んでいくのでしたが、
「怨詩行」では、東北の風が起こって、それが自分を吹き飛ばすことになっています。
では、なぜ「怨詩行」はこのように本辞を改めたのでしょうか。
「吹我入君懐」という表現は、曹植の楽府詩「吁嗟篇」を思い起こさせます。
『三国志』巻19「陳思王植伝」の裴松之注に、
彼が琴を奏でながら歌ったとして引かれるこの楽府詩は、
おおもとの根から離れ、昼夜となくひとり転がり続ける蓬(よもぎ)を詠じていますが、
その中に、このようなフレーズが見えています。
卒遇回風起 突然、吹き起こったつむじ風に巻き込まれ、
吹我入雲間 (つむじ風は)私を吹き飛ばして雲の中に投げ入れた。
同じテーマを詠ずる「雑詩六首」其二(『文選』巻29)にも、
「吁嗟篇」とほとんど同じ「吹我入雲中」という辞句が見えています。
「怨詩行」の改作者は、この楽府詩に曹植の生涯を色濃く重ね合わせるため、
「吁嗟篇」などに特徴的な表現を、この「怨詩行」に組み入れたのではないでしょうか。
この辞句の組み替えによって、
「怨詩行」は、曹丕と曹植との関係性を強く想起させることとなります。
そして、「高山柏」の「君」も「濁水泥」の「妾」もすでにこの世にはいない存在で、
その「濁水泥」から「高山柏」に向けて風が吹くのです。
これは、その死後も兄のことを思って彷徨する、曹植の魂を詠じているのではないでしょうか。
それではまた。
2019年9月19日
鎮魂歌としての「怨詩行」(3)
昨日述べた、風の話に行き着く前に、
もうひとつ説明しておかなくてはならないことがありました。
晋楽所奏「怨詩行」の、「君為高山柏」の前には、
本歌の曹植「七哀詩」にはなかった、次のような句が増補されています。
念君過於渇 貴方のことを繰り返し思うことは、喉の渇きよりもひどく、
思君劇於饑 貴方を思慕することは、飢えよりも激しい。
人に思い焦がれるさまを飢渇に例える例は、漢代詩歌にすでにありますが、
注目したいのは、他ならぬ曹植の作品にも、この表現が用いられていることです。
「責躬詩」(『文選』巻20)に、こうあります。
天啓其衷 得会京畿 天子がお心を開かれ、都でお会いできることとなった。
遅奉聖顔 如渇如飢 面会を待ち焦がれ、飢渇に身をさいなまれる思いだ。
ここに曹植が思い焦がれている天子とは文帝、兄の曹丕です。
そうだとすると、
同様な表現が用いられている「怨詩行」において、
飢渇よりも激しく思いを寄せられている「君」は曹丕を指し、
「君」に思いを寄せる「濁水泥」のような「妾」とは曹植をいう可能性があります。
そして、「怨詩行」が作られた時点で、曹植も曹丕もすでに亡くなっていました。
だからこそ、「君為高山柏」なのですね。では、一方の「妾為濁水泥」はどうでしょうか。
曹丕と曹植の葬られた場所は、
曹丕が、洛陽の東の郊外にある首陽陵(必ずや柏が植わっているでしょう)、
曹植が、最晩年に報じられた東阿(漢代に氾濫を起こした河の傍ら)、
両者の位置関係は、曹丕の陵墓から見て、曹植の墓は東北の方角に当たっています。
「怨詩行」にいう「東北風」とは、東北から吹いてくる風、
つまり、曹植の墓と曹丕の陵墓とを結ぶ線上に吹く風と重なるのです。
本歌にあった「西南風」が、「怨詩行」で「東北風」に改変されたのは、
このことと深く関わっているだろうと私は考えます。
(こじつけのように聞こえますか。)
明日へつづく。
2019年9月18日
鎮魂歌としての「怨詩行」(2)
楚調「怨詩行」にいう「高山柏」は、
陵墓に植わった柏、つまり逝去した人を指すのだと、昨日述べました。
ですが、これには異論が出てくるかもしれません。
というのは、柏という樹木には、また別の表象もあるからです。
たとえば、
亭亭山上松 すっくと抜きんでた山頂の松、
瑟瑟谷中風 さあさあと音を上げて谷底を吹き渡る風。
と詠い起こされる、『文選』巻23、魏の劉楨「贈従弟三首」其二は、
その結句でこう詠じています。
豈不羅凝寒 凍てつく厳寒に痛めつけられないはずはないが、
松柏有本性 松柏にはどんな逆境にも負けない本性が備わっているのだ。
これは、『論語』子罕篇にいう「歳寒、然後知松柏之後彫也。」
つまり、厳寒の季節となってはじめて、松柏が枯れないことに気づく、
という意味のフレーズを踏まえた表現です。
松柏が持つイメージとしては、むしろこちらの方が正統的でしょう。
劉楨の詩のような事例があるなら、
晋楽所奏「怨詩行」にいう「高山柏」もまた、
高い山に植わった常緑樹の柏を詠じることによって、
「君」の抜きん出た崇高さを表したものと解釈できなくもありません。
ですが、「怨詩行」に詠われた高山の柏は、
やはり、陵墓に茂る柏と見るのが妥当だと私は考えます。
そう考える理由は、次に示す第二の改変と関わります。
すなわち、曹植「七哀詩」にいう、
願為西南風 どうか西南から吹く風となって、
長逝入君懐 長く飛んでいって君の懐に入れますように。
これが、晋楽所奏「怨詩行」ではこうなっています。
願作東北風 どうか東北から吹く風が巻き起こり、
吹我入君懐 私を吹き飛ばして貴方の懐に入れますように。
この改変が、前述の「高山柏」とどう関係があるのでしょうか。
明日へつなぎます。
2019年9月17日