曹植と魏朝皇帝との間
こんばんは。
曹植は、曹魏王朝の皇族でありながら、
一生涯、王朝運営に関わることはできませんでした。
けれども、文帝曹丕、明帝曹叡ともに、
曹植の進言に対しては、そのたびに丁寧に応答しています。
たとえば、文帝の黄初四年(223)、
曹植の「責躬詩」「応詔詩」及びそれを奉る上表文に対して、
「嘉其辞義、優詔答勉之(其の辞義を嘉し、優詔もて答へ之を勉まし)」ました。
また、明帝の太和三年(229)、
肉親どうしの交流を求める曹植の「求通親親表」に対して、
「已勅有司、如王所訴(已に有司に勅して、王の訴ふる所の如くす)」と詔しています。
上表文中の「臣伏以為犬馬之誠不能動人、譬人之誠不能動天」を引き取って、
「何言精誠不足以感通哉(何ぞ言へるや 精誠は以て感通せしむるに足らずと)」とまで、
自身の叔父である曹植の屈託を汲みとろうとしているのです。
続いて奉られた「陳審挙表」に対しても、
明帝は「輒優文答報(輒ち優文もて答報す)」という対応でした。
以上は、『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の記載ですが、
これ以外にも、曹植と文帝・明帝とを有形無形につなぐやり取りはあったでしょう。
たとえば、先に何度か取り上げた「黄初六年令」からもそう推察されます。
また、曹植が「贈白馬王彪」詩の中で謗る相手は、文帝ではなく役人ですし、
「吁嗟篇」は、焼けただれても「願与株荄連(願はくは株荄と連ならんことを)」と詠じます。
このように、強い骨肉の情で結ばれているようであるのに、
彼らはなぜ断絶を余儀なくされたのでしょうか。
口先ばかりで、何も具体的な手立てを取ろうとしなかった文帝や明帝。
どんなに冷遇されても、肉親に対する一途な愛情と信頼感を失わなかった曹植、
あるいは、信頼するふりをして内心は肉親を憎んでいた曹植。
そんなふうに、個人の資質や人格に帰着させて評するのではなく、
彼らを取り巻く魏王朝ならではの背景から考察する必要があると思います。
その上で、人間の様々な思惑から作り出された制度や組織が、
個人をどのように疎外し、追い込み、破壊するのかを明らかにしたい。
2022年11月24日