曹植の政治思想

こんにちは。

本日、曹植「喜雨」詩の訳注稿を公開しました。

大干ばつの後、やっと雨に恵まれたことを喜ぶこの詩は、
『北堂書鈔』巻156に記されて伝わる佚文により、
明帝の太和二年(228)に作られたということが知られます。
そうすると、本詩は「求自試表」(『文選』巻37)と同年の作であり、
また、「惟漢行」の翌年の作と推定されることにもなります。
(もしこちらの所論*が妥当であるならば)

本詩の序文と見られる上記の佚文には、
飢餓に苦しみながらも、それに甘んじている農民のことが記されています。
曹植の眼差しは、干ばつから農民たちの苦境へと広がっているのです。

同種の眼差しは、「贈丁儀」詩(『文選』巻24)にも認められました。

また、「喜雨」詩の一句目に見えている「天覆」という語は、
天が広く世界を覆っていることを意味するのみならず、そこから敷衍して、
天からの使命を受けた天子が、万物に広く恩沢を敷き広げることをも意味します。

つまり、この詩は、「雨を喜ぶ」ことに、
天子の善政を慶賀するという意味が重ねられているのです。

こうした発想は、近代以前の知識人階級にはごく自然なものです。
けれど、明帝期の曹植が置かれた状況を思えば、当然とも言えないかもしれません。
兄の曹丕が文帝として即位した220年以降、この明帝期初めに至るまで、
曹植はずっと王朝運営から疎外された状態にありましたから。

曹植はこうした政治的意欲を若い頃から持っていたように看取されますが、
(ここでいう政治とは、日本語でいう「政治」とは異なります。)
実際の経験を積むことなく時を経てしまっただけに、
その政治思想は、純粋な、観念的なままのそれだったかもしれません。

「野田黄雀行」における半狂乱の有様を見るに、
現実的な力を持たなければ、人ひとり救うこともできない、
このことを、丁氏兄弟を亡くしてはじめて、彼は骨身に刻み付けたと思われます。
けれども、その後の彼は、権力を持つ方向へは向かわなかった、
というより、その選択肢を王朝から与えられなかったというのが現実です。

曹植の政治思想の発露には、
どこか、痛々しさを感じないではいられません。

2022年4月25日

*『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号(2022年3月)に投稿した原稿です。こちらをご覧ください。