曹植「種葛篇」「浮萍篇」の文学史的意義

先日書いたことの続きです。

曹植の「種葛篇」「浮萍篇」は、
夫の愛情を失った女性の悲しみを詠ずる典型的な閨怨詩であると同時に、
兄の曹丕に対する曹植の思いが重ねられた詩でもあります。

このことは、これまでにも指摘してきたとおり、
主に『詩経』の踏まえ方を通して、明確にそれと知られますが、
それは夙に、朱緒曾、黄節、古直といった人々が指摘しているところです。

すでに先人が指摘しているのであれば、
これらの楽府詩が二重の意味を持つことを論じる意味はないでしょうか。

それがそうでもありません。
というのは、こちらには、曹植作品を文学史上に位置づける、
魏の文学の新しさを、曹植の前掲二作品を通して明らかにする、という、
先人にはなかった視座があるからです。

三国魏の時代には、従前にはなかった文学的動向が生じました。
この時代の文学の新しさは、しばしば「文学の自覚」といった言葉で表されます。*
けれども、この視点は主に、文学評論を対象とした研究での話のようです。

魏の文学が画期的である所以を、もっと具体的に明らかにできないか。
前掲二首の楽府詩に着目することは、そうした新しい視点になり得ると考えます。
(続く)

2025年9月16日

*魯迅「魏晋風度及文章与薬及酒之関係」(『魯迅全集3・而已集』人民文学出版社、1981年)p.504に、「曹丕的一個時代可説是“文学的自覚時代”、或如近代所説是為芸術而芸術(Art for Art’s Sake)的一派」と。

研究方法の流行り廃り(改め)

昨日、研究手法に流行り廃りもない、と言ったばかりですが、
その後ふと思い至ることがありました。

そういう自分も、その大きな流行り廃りの中にいるじゃないか、と。
私は、作品の表現を通して、その作者が何を思っていたのかを探究したい。
こうした興味関心の持ち方は、自分が研究対象としている時代の人々には希薄でした。

自分は、作品を通して作者の魂に触れることに引かれますが、
このような視角からのアプローチは、大枠、近代以降のうねりの中にあるものでしょう。
その中で、これを乗り越え、別の方向を模索する研究が登場してきている、
それが、昨今の研究動向なのかもしれません。

今を時めく主流的研究手法とは、要するに、
その時代の基本的なものの捉え方、大枠に沿っているということです。
大事なのは、その大きな枠組みの中に自身が位置していて、
時代の思潮から多かれ少なかれ影響を受けていることに自覚的であるかどうか。
そこが慎重を期するところなのだと思い直しました。

清朝考証学の先達たち、明代、唐代、更に遡って六朝期の先達たちも、
やはりそれぞれの時代特有の傾きと盲点とを持っています。

けれども、そうしたものを差し引いてもなお残るものがあります。
それが、たとえば『文選』李善注のような、典故表現の指摘だったりします。

自己流の解釈は、時代が移ろえば、また忘れ去られるかもしれません。
けれども、学術的な指摘というものは残ると考えます。

2025年9月15日

研究方法の流行り廃り

研究方法に流行り廃りもない、と私は思っているのですが、
どうも事実としてあるらしいと認めざるを得ないことに遭遇しました。

曹植に「浮萍篇」「種葛篇」という楽府詩があります。
この両作品は、かつて何度か言及しているとおり、典型的な閨怨詩です。

閨怨詩とは、夫と離別した女性の悲しみを詠ずる詩で、
漢代の宴席では、こうした内容を持つ五言詩や楽府詩が盛行しました。
そうした漢代宴席文芸の末裔である建安文壇でも同様であって、
曹植の作品もその系譜上に置いて理解できます。

けれども、そのような典型的な閨怨詩に、
兄弟の離別を重ね合わせているのが曹植の前掲作品です。
(詳細は、たとえばこちらをご覧ください。)

それは、読者側が想像力を働かせて創出した解釈ではなく、
その作品が表現上踏まえている『詩経』の意味を押さえることによって、
自ずから立ち現れてきたものなのです。

古典に基づくこうした典故表現について、
たとえば清朝の朱緒曾『曹集考異』、
黄節(1874―1935)の『曹子建詩註』、
古直(1885―1959)の『曹子建詩箋』には、
的確な内容の指摘が多く、しばしば重要な示唆を受けます。

けれども、最近の研究動向を見ると、
(特に現代中国では)こうした視点からの研究はあまり見かけません。*

古典に沿って小さな自分を措いて読んでいると、
作品は時として思いもよらなかった姿を現してくれます。
自分の予測を越えてくるそれに遭遇したときは身震いします。

たとえ流行っていなくても、
自分が本当に面白いと思う道を進むだけのことです。

2025年9月14日

*他方、台湾の曹海東『新訳曹子建集』は、上述の伝統的研究方法を継承しているように見受けられます。私もこちらに左袒する者です。

「飛軒」の意味をめぐって

曹植「鼙舞歌・孟冬篇」の「乱(歌いおさめ)」にこうあります。

聖皇臨飛軒  聖皇は飛軒に臨みて、
論功校猟徒  功を論じ 猟徒を校(くら)ぶ。

この中の「飛軒」という語をめぐって右往左往していました。

「飛軒」は多くの場合、飛ぶがごとく軽やかに走る車のことをいいます。
この意味で、曹植自身もその「七啓」に、狩猟の楽しみを詠じてこう表現しています。

飛軒電逝  飛軒は稲妻のように疾走し、
獣随輪転  獣たちは車輪に従って転がる。

ですが、前掲「孟冬篇」では、皇帝が「飛軒」に臨んで狩猟の成果を評価しています。
疾駆する車上では、落ち着いて「論功」することは難しいでしょう。

黄節は「臨飛軒」の中から「臨」「軒」を取り出して、
「臨軒」という語が、曹植「大魏篇(鼙舞歌3)」(05-42)に、
「陛下臨軒笑(陛下は軒に臨みて笑ふ)」と見えていることを指摘しています。
そこでの「臨軒」は、皇帝が正殿から前殿に進み出て闌干に臨むことを意味します。

先の「孟冬篇」にいう「臨飛軒」は、
「大魏篇」にも見えていた「臨軒」の方向で意味を捉え、
その「軒」に「飛」という形容詞を付したと考えるのが妥当でしょう。

「飛」を、飛翔せんばかりにそそり立つ建造物を形容する語として用いる例は、
曹植作品には複数拾い上げることができます。たとえば、
「東征賦」(01-01)に「登城隅之飛観兮(城隅の飛観に登る)」、
「遊観賦」(01-02)に「渉雲際之飛除(雲際の飛除を渉る)」、
「雑詩六首」其六(04-05-6)に「飛観百餘尺、臨牖御櫺軒(飛観百餘尺、牖に臨みて櫺軒に御る)」、
「贈丁儀」(04-10)に「清風飄飛閣(清風 飛閣に飄る)」とあるように。

では、このような形容詞としての「飛」は、
先行する時代の他の作家の作品には認められるでしょうか。
たとえば「飛閣」という語を取り上げて調べてみると、
班固「西都賦」(『文選』巻1)にいう「修除飛閣」は“架け橋”とされていますが、
同時代の崔駰「七依」(『藝文類聚』巻57)にいう「飛閣曾(層)楼」は聳え立つ楼閣でしょう。

「飛」と「軒」とは、それぞれ特に珍しい語ではないが、
両者を組み合わせたところに意表を突くものがあるということでしょうか。

2025年9月13日

一対で提示される勇者たち

曹植「鼙舞歌・孟冬篇」に、次のような句が見えています。

慶忌孟賁  慶忌や孟賁は、
蹈谷超巒  谷や山を踏み越えてゆく。
張目決眥  目を見張り、まなじりを決して、
髪怒穿冠  いきり立って逆立った髪は冠を突き上げる。

「慶忌」は、呉王僚の子で、機敏さをもって知られる猛者、
「孟賁」は、衛出身の勇者として、様々な書物にその名を記されていて、
それらの文献から、二人それぞれについて説明した部分を抜き出すことは可能です。

ただ、この二人が一対で登場していることに私は目を留めたく思います。

「慶忌」「孟賁」について、同様な言及の仕方をしている例として、
『漢書』東方朔伝に「勇若孟賁、捷若慶忌(勇なること孟賁の若く、捷なること慶忌の若し)」、
また、これとほぼ同文が『風俗通義』正失にも見えています。

「慶忌」「孟賁」は、歴史書などにその閲歴が詳しく記されているわけではなく、
様々なところで、勇者の代表格として登場するという人物たちです。
彼らをめぐるエピソードは、漢魏の間、どのようにして伝えられてきたのか、
それを探るヒントがここにあるように思うのです。

なお、前掲四句の後半に見えている表現は、
かつてこちらにも記したとおり、
『史記』の項羽本紀、廉頗藺相如列伝、刺客列伝(荊軻)にも、
非常によく似た表現が見えています。

そのような表現を伴って楽府詩に登場する二人の勇者は、
静的な書物の中の住人であったというよりは、
動的な演劇や語り物の中で躍動していた人物たちなのではないか。
(動的な文芸がたまたま静的な書物に書き留められたということです。)
そんな風に思えて仕方がありません。

2025年9月12日

昔と今と

昨日触れた傅玄の「苦相篇・豫章行」(『玉台新詠』巻2)には、
その末尾に次のような句が配せられています。

昔為形与影  昔は姿形と影のように一緒にいたのに、
今為胡与秦  今は胡と関中のようにかけ離れている。
胡秦時相見  胡と関中とでは時には会うこともできようが、
一絶踰参辰  ひとたび決裂すれば参星と辰星との隔絶をも越えてしまう。

このうちの特に上の二句は、
蘇武の「詩四首」其一(『文選』巻29)に見える次の句、

昔為鴛与鴦  昔は一対の鴛鴦のように一緒にいたのに、
今為参与辰  今は参星と辰星のように隔絶したところにいる。
昔者常相近  昔はいつも身近なところにいたのに、
邈若胡与秦  まるで胡と関中とのように遠く隔てられている。

これを踏まえることは間違いないでしょう。*

昔と今とを対比させる「昔為」「今為」という措辞、
加えて、「胡与秦」、「参」と「辰」とを並置する表現から、
そのように判断することができます。

同様な表現は、曹植の「種葛篇」(『玉台新詠』巻2)に、

昔為同池魚  昔は同じ池に棲む魚だったのに、
今若商与参  今は商星と参星のように遠く隔てられている。
往古皆歓遇  往年は二人とも会えば歓楽を共にする間柄だったのに、
我独困於今  私はひとり、今この時に行き悩んでいる。

同じく曹植の「浮萍篇」(『玉台新詠』巻2)に、

在昔蒙恩恵  その昔、恩愛の恵みを賜り、
和楽如瑟琴  琴瑟の音が響きあうように、和やかに睦み合っていた。
何意今摧頽  ところが、思いがけなくも私は今ぼろぼろに落ちぶれて、
曠若商与参  あなたとはまるで商星と参星のように遠く隔てられている。

と見えるほか、徐幹の「室思」(『玉台新詠』巻1)にもこうあります。

故如比目魚  もとは比目の魚のようにいつも一緒にいたのに、
今隔如参辰  今は遠く隔てられて参星と辰星のようだ。

仲睦まじく共にいた「昔」と、
離別を余儀なくされている「今」とを対比させるこのような表現は、
おそらくは前掲の蘇武の詩に発祥し、
漢魏の間、それを踏まえて展開させた作品が、
ここに示したもの以外にも多く作られただろうと推測します。

西晋の傅玄は、そうした数ある作品に、
どのように出会い、それらをどのように摂取したのでしょうか。

2025年9月11日

*蘇武の詩は、「古詩十九首」其二(『文選』巻29)にいう「昔為倡家女、今為蕩子婦(昔は倡家の女為り、今は蕩子の婦為り)」を踏まえている可能性が高い。いわゆる蘇李詩と古詩との関係については、柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)の第四章第四節「漢代五言詩歌史上に占める蘇李詩の位置」を参照されたい。

曹植と傅玄

以前、こちらで、
傅玄「明月篇」が曹植「浮萍篇」の影響を受けている可能性を指摘しました。

加えて昨日、次のような事例にめぐり会ったので記しておきます。

曹植「贈白馬王彪」(『文選』巻24)に見える次の句、

丈夫志四海  一人前の男子は広い世界を志し、
万里猶比隣  万里の彼方もまるで近隣のように思うものだ。

これは、傅玄の「苦相篇・豫章行」(『玉台新詠』巻2)にいう、

雄心志四海  雄大な心は広い世界を志し、
万里望風塵  万里の彼方に巻き起こる風塵を望む。

に、表現面で影響を及ぼしている可能性があります。
(内容的にはそれほど関わりはないようです。)

漢魏晋南北朝時代において、「志四海」という語を用いているのは、
前掲詩二首、陶淵明「雑詩十二首」其四、*
あと、梁代の荀済という人物の「贈陰梁州詩」の四首のみです。
(興味深いことに、唐詩には用例がひとつもありません。)

その中で、曹植の詩と傅玄の楽府詩とは、
「志四海」「万里」までが一致し、しかも句の同じ位置に配されています。
そのことに着目して、傅玄における曹植作品の影響を仮想しました。

表現の類似を指摘するには、細心の注意が必要だと思います。
あるひとつの熟語が一致しているだけでは、影響関係があるとは言い切れません。
作者の心中において、ある先行作品の表現がどこまで意識されていたか、
あるいはすでに血肉化して自然にそれを踏まえた表現となったのか、
そうしたことをよく吟味することが大切だと常々思っています。
その上で、なぜ作者はその先行作品を踏まえたのかを考えます。

2025年9月10日

*陶淵明「雑詩十二首」其四の冒頭には、曹植「贈白馬王彪」詩と同じ「丈夫志四海」という句が見えている。釜谷武志『陶淵明』(明治書院・新釈漢文大系詩人編1、2021年)p.294に夙に指摘する。このことをどう見るか。陶淵明が、曹植詩を踏まえたのかもしれない。または、当時に流布していたことわざのような句を両者が用いたのかもしれない。少なくとも曹植はそうした俗語的なフレーズを割合よく用いている。そうした表現の場合は、『文選』李善注も指摘していないことが多い。

深読みの誘惑

曹植「鼙舞歌・孟冬篇」を読んでいます。
本作品は、皇帝の華麗なる狩猟の様子を詠い上げるものですが、
その中にこうあります。

張羅万里  羅(あみ)を万里に張り、
尽其飛走  其の飛ぶもの走るものを尽くす。

広大な敷地を舞台に繰り広げられる狩猟の楽しみを詠ずる句として、
自然に読解することができる表現です。

ところが、黄節『曹子建詩註』に導かれ、次のような類似句にたどり着きました。

『後漢書』巻十六・寇恂伝附寇栄伝に引く、
地方長官たちの苛烈な処罰を批判する寇栄の上書の中にいう、
「張羅海内、設罝万里(羅を海内に張り、罝を万里に設く)」です。

寇栄の上書中にある対句八字を、四字を圧縮しているのが曹植の歌辞です。

これを見て、真っ先に想起されたのは、黄初年間中の曹植が、
臨淄侯時代の彼を見張った監国謁者潅均のみならず、
鄄城侯に移ってからは、東郡太守王機らにもまた罪を挙げられたことです。*

都を離れた地にあって、その言動を厳しく監視されていた曹植の境遇を知り、
寇栄の上書に、それと酷似する内容・表現のあることを認めると、
つい、前掲の「張羅万里」云々の辞句が、
ある特別な意味を持って立ち上がってくるのを禁じ得ません。

けれども、表現の類似は偶然であったかもしれません。
また、表現の一部を切り取って、現実と結びつける解釈には首肯できません。

ただ、上述のような現象が幾たびか重なれば、
作品世界と現実との間に、何らかの相関関係を認めることができるでしょう。

2025年8月1日

*柳川順子「黄初年間における曹植の動向」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第2号、2023年)を参照されたい。

宴と孤独

建安七子のひとり陳琳(156―217)に、
次のような「詩」(『藝文類聚』巻28)があります。

高会時不娯  すばらしき宴席は、時に楽しくないこともある。
羈客難為心  異郷に身を寄せる者には、平静な心でいることは難しい。
慇懐従中発  憂愁が心の内から突き上げて、
悲感激清音  悲痛な感慨が澄んだ音に激しく共鳴する。
投觴罷歓坐  杯を投げ出して、歓楽にひたる宴席を後にして、
逍遥歩長林  ふらりふらりと、どこまでも続く林の中を歩き回る。
蕭蕭山谷風  ヒューヒューと、山中の谷底から吹き上げる風、
黯黯天路陰  黒々と、天上界への道を覆い尽くす暗雲。
惆悵忘旋反  切々と傷む心を抱えて帰るのを忘れ、
歔欷涕霑襟  すすり泣く涙で襟をぐっしょり濡らした。

この詩の第一句に意表を突かれ、
これを起点に、建安詩と漢代宴席文芸との分岐点を論じたことがあります。*

建安詩は、宴という場で競作されることが多いものですが、
同じ宴席から、このような個の屹立する言葉が発せられていることに驚いたのです。
まるで陳琳が時空を超えてすぐ傍にやって来たかのような感覚でした。

ところが、同じ陳琳の別の「宴会詩」(『藝文類聚』巻39)では、
同じ「高会」という語が次のような文脈で登場します。

良友招我遊  良き友が私を遊宴にお招きくださって、
高会宴中闈  宮殿の中で、すばらしき宴席に与った。

これが先の「詩」と矛盾するものではないこと、
すでに前述の拙論で言及したとおりです。

その後、陳琳のまた別の「詩」(『藝文類聚』巻28)に、
次のような句があることに目が留まりました。

閑居心不娯  世事を離れた隠棲には心が弾むこともなく、
駕言従友生  馬車に乗って、友人に付き従って游宴に繰り出した。

前掲「詩」では、「高会」を「娯まず」と詠じていました。
この「詩」では、「閑居」を「娯まず」といい、そこから游宴に繰り出します。

同じ詩人でも、その時と場、情況によって、詠じられる心情はこんなにも違います。
時には、ひとりでいるのを寂しく感じ、友と連れ立って遊宴に興じる。
またある時は、大勢の人たちとの宴席を辛く感じて、そこからひとり遁走する。
こうした心情の振幅は、時代を問わず、ある一人の人の中に共存するもののように思います。

ただ、あるジャンルにおいて、
ある種の心情が表現されるようになった時期というものはありそうです。

建安詩人たちが、五言詩に個人的心情を込めるようになったのは、
それ相当の歴史的経緯の末に、様々な条件が輻輳的に重なって出現した、
大局的必然と個別具体的偶然とが織り成す文学史的事象であったように思います。

2025年7月15日

*柳川順子「五言詩における文学的萌芽―建安詩人たちの個人的抒情詩を手掛かりに―」(『中国文化』第69号、2011年)を参照されたい。

 

瑞祥を演ずる宴席芸能

曹植「大魏篇」の中に、次のような一節があります。

黄鵠游殿前  黄鵠は殿前に游び、
神鼎周四阿  神鼎は四阿に周(あまね)し。
玉馬充乗輿  玉馬は乗輿に充ち、
芝蓋樹九華  芝蓋は九華を樹(た)つ。
白虎戯西除  白虎は西の除(きざはし)に戯れ、
舎利従辟邪  舎利は辟邪に従ふ。
騏驎躡足舞  騏驎は足を躡(ふ)みて舞ひ、
鳳凰拊翼歌  鳳凰は翼を拊ちて歌ふ。

ここに詠じられている鳥獣たちは、
その多くが、徳ある為政者に応じて現れる瑞祥です。
「黄鵠」は、『漢書』昭帝紀に、始元元年、建章宮の太液池に舞い降りたことが記され、
また特に「黄」は、土徳を有する魏王朝を慶賀するものでしょう。
「玉馬」も、賢明なる君主に応じて現れる瑞祥(『藝文類聚』巻99下に引く『瑞応図』)、
「白虎」「騏驎」「鳳凰」も同様です(『白虎通』封禅)。

ところが、その間に必ずしも瑞祥ではないらしい「舎利」「辟邪」が混じっています。
「舎利」は、張衡「西京賦」(『文選』巻2)に、
平楽館で上演される百戯のひとつとして次のように描かれています。

含利颬颬、化為仙車、驪駕四鹿、芝蓋九葩。*
 含利颬颬として、化して仙車と為り、四鹿を驪駕せしめ、芝蓋に九葩あり。

「辟邪」は、鹿に似て尾が長く、二本の角を持つ神獣だと、
『漢書』西域伝上、烏弋山離国に見える「桃抜」の孟康注に説明されています。

すると、前掲「西京賦」にいう「含利」が化した「仙車」を引く「四鹿」は、
「大魏篇」で「舎利」が従っている「辟邪」と同じものを指しているかもしれません。

いずれにせよ、「舎利」「辟邪」は百戯に登場する神獣のようです。
それが、「黄鵠」「玉馬」「白虎」「騏驎」「鳳凰」と同列で登場しているのです。

すると、もしかしたら前掲の瑞祥もまた、百戯として演じられていたのかもしれません。

黄節『曹子建詩註』に、

以上白虎・舎利・辟邪・騏驎・鳳凰之属、
薛綜「西京賦」注所謂「羆・豹・熊・虎、皆為仮頭也」。
 以上の白虎・舎利・辟邪・騏驎・鳳凰の属は、
 薛綜の「西京賦」注に謂ふ所の「羆・豹・熊・虎は、皆仮頭を為すなり」なり。

というのは、このことであったかと思い至りました。
つまり、「大魏篇」に詠じられているこの世ならざる鳥獣たちは、
頭にかぶりものをして演じられる出し物であったらしいということなのでしょう。

2025年6月16日

*「舎利」と「含利」とは、同じものを指す。『続漢書』礼儀志の劉昭注補に引く蔡質『漢儀』には、元旦の朝会で披露される芸能として「舎利従西方来(舎利 西方従り来たる)」云々と見える。

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