徐幹「室思」詩の解釈
昨日少しばかり取り上げた徐幹の「室思」詩は、
先人たちによってどのように解釈されてきたのでしょうか。
その多くが表現の絶妙さについて論評する中で、
清朝の沈徳潜『古詩源』巻6に見える次の評語は際立っています。*1
此託言閨人之詞也。自処於厚、而望君不薄。情極深致。
此れ言を閨人の詞に託するなり。
自らは厚きに処り、而して君の薄からざるを望む。情は深致を極む。
女性の口吻を借りて、君主に対する衷心からの願い、
すなわち自身を見捨てないでほしいとの切望を詠じているとの解釈です。
前掲の評語は、「室思」六章の其六に対するものですが、
それは六章全般に渡って言えることではないかと見る論評もあります。*2
同様に、王士禎選・聞人倓箋『古詩箋』五言詩巻2にも、
同じく「室思」詩の其六を対象とする次のような論評が見えています。
按、此託言閨人之辞也。
「想君能終之」「想君時見思」、忠厚悱惻、猶見温柔敦厚之意。
按ずるに、此れ言を閨人の辞に託するなり。
「想ふ君の能く之を終へんことを」「想ふ君の時に思はれんことを」は、
忠厚悱惻にして、猶ほ温柔敦厚の意を見(あら)はすがごとし。
これもまた、徐幹の「室思」詩を解釈して、
抑制のきいた忠義心の表明、『詩経』にも比すべき温厚な精神の表れと見ています。
徐幹の「室思」詩が、単なる閨怨詩ではなく、
君主に対する切実な願望を婉曲に言い表したものだとするならば、
曹植がその「贈徐幹」詩において、彼を慰め励ましていることと符合します。
問題は、徐幹の作品そのものの中に、
こうした解釈を必然とする表現が認められるかどうかです。
2026年3月18日
*1 郁賢皓・張采民『建安七子詩箋註』(巴蜀書社、1988年)pp.184―186を参照。
*2 林家驪『徐幹集校注』(河北教育出版社、2013年)p.4を参照。
徐幹とその「室思」詩
建安七子のひとりである徐幹は、
『中論』という著書を残した思想家として知られています。*1
そのためか、彼の残した詩はあまり顧みられることがないようです。
徐幹には「室思」「情詩」と題する作品があって、
艶っぽい詩歌ばかりを集めた『玉台新詠』の巻一に収載されています。
たとえば、その「室思」六章の其一は、次のような詩です。
沈陰結愁憂 暗く沈んだ気分の中で憂いの糸が結ぼれる。
愁憂為誰興 この憂いは誰のために生ずるのかといえば。。。
念与君相別 いつも気がかりでならないのは、あなたと別れて、
各在天一方 それぞれ天の一方に身を置いているということだ。
良会未有期 楽しい逢瀬はいつになるとも知れず、
中心摧且傷 胸の内は打ち砕かれ、傷の痛みにうち震えている。
不聊憂飧食 食事に困っているわけでもないのに、
慊慊常饑空 いつも飽き足らないようなひもじい思いだ。
端坐而無為 きちんと座って、何をすることもなく、
髣髴君容光 あなたの光り輝くお姿をありありと想い浮かべるばかりだ。
一例として挙げたこの作品は、男女の離別をテーマとする典型的な閨怨詩です。
そして、漢代詠み人知らずの詩歌から多くの表現を吸収しています。
表現上、端的にそのことが確認できる例を挙げるならば、
第3句「念与君生別」は、
『文選』巻29、「古詩十九首」其一にいう「行行重行行、与君生別離」や、
『玉台新詠』巻1、古詩八首其七にいう「悲与親友別、気結不能言」から、
第4句「各在天一方」は、
前掲「古詩十九首」其一にいう「相去万餘里、各在天一涯」や、
『文選』巻29、蘇武「詩四首」其四にいう「良友遠離別、各在天一方」から、
第5句「良会未有期」は、
前掲の蘇武「詩四首」其三にいう「行役在戦場、相見未有期」から、
第6句「中心摧且傷」は、
前掲の蘇武「詩四首」其二にいう「長歌正激烈、中心愴以摧」から、
インスパイアされているであろうことが見て取れます。
では、徐幹はどのような動機からこうした作品を作ったのでしょうか。
表向きには閨怨詩のかたちを取りながら、何かを訴え出ようとしているのでしょうか。
それとも、宴席での余興として遊戯的に閨怨詩を作っただけなのでしょうか。
そこのところがよくわからないのです。
曹植は「贈徐幹」詩を通して、清貧の中に埋もれた徐幹を励ましています。
劉楨の「贈徐幹」詩は、自身の苦境を理解してくれる友として徐幹を見ています。*2
そうした、徐幹を取り巻く他者の言葉から浮かび上がってくる徐幹と、
彼自身が詠ずる閨怨詩とはどのように交わるのでしょうか。
2026年3月17日
*1 思想家徐幹については、池田秀三「徐幹中論校注(上)(中)(下)」(『京都大学文学部研究紀要』23・24・25、1984・1985・1986年)、同氏による「徐幹の人間観」(『哲学研究』571、2001年)を参照。
*2 龜山朗「劉楨贈答詩論」(『中国文学報』47、1993年10月)を参照。
曹魏の人材登用
建安年間の曹植にとって、
曹魏政権下に集まった人々の待遇は大きな関心事だったようです。
このことについては、たとえばこちらでも述べました。
その具体例としてふと思い出したのが、
袁譚のもとから曹操傘下に移った王脩という人物の逸話です。
王脩は、袁譚が破れた後、その清貧と蔵書の多さが曹操を感服させた知識人で、
すぐに招聘されて司空掾・司金中郎将に任命されました。*1
(『三国志(魏志)』巻11・王脩伝)
けれども、司金中郎将に在職して七年、その職に飽き足らない王脩は、
当該職務に関する上奏文に付して、その不満を婉曲に述べます。
すると、曹操からすぐに書簡が届けられ、彼はまもなく魏郡太守に取り立てられました。
その書簡の中に、当時の推挙に関して、次のようなことが記されています。
自是以来、在朝之士、毎得一顕選、常挙君為首、
及聞袁軍師衆賢之議、以為不宜越君。
是(王脩の登用)より以来、在朝の士、一顕選を得る毎に、常に君を挙げて首と為すも、
袁軍師が衆賢の議を聞くに及びて、以て宜しく君を越ゆるべからずと為す。
これによると、ある者が抜擢されると、
その者が、あわせて別の者を推挙する仕組みとなっていたことが知られます。
そして、そうした推挙も、様々な人間関係に照らして実現しないことも多かったようです。
(以上、前掲『三国志』王脩伝の裴松之注に引く『魏略』による)*2
王脩の逸話から見えてくることとして、
まず、曹魏のもとには実に多くの人士が集まっていたため、
中には曹操の目が届かなくなってしまう人物も少なくなかったということがあります。
そして、彼らは相互に人材を推挙しあう関係にあったらしいことも知られます。
もっとも、これだけでは当時の情況がすべてわかったとは言えません。
また、この問題は、歴史学方面ではすでに明らかにされていることなのかもしれません。
ただ、以前にも取り上げた「贈徐幹」詩の背景が少し見えてきたような気がして、
ここに覚書きとして記しておきます。
2026年3月16日
*1 このことは、「曹操楽府詩私論」(『狩野直禎先生傘寿記念三国志論集』汲古書院、2008年)pp.161―182にて言及した。この論考は、柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)のpp.384―413に、第六章「建安文壇の歴史的位置」第一節「曹操の楽府詩を通して見る漢末士人社会の一側面」として収載している。
*2 『魏略』の資料的価値については、拙論「『魏略』の撰者、魚豢の思想」(『狩野直禎先生米寿記念三国志論集』汲古書院、2016年)pp.223―242を参照されたい。
曹植を臨淄侯に任命した者
「責躬詩」の中に「帝曰爾侯、君茲青土」という句が見えます。
魏の文帝曹丕が、曹植に青州・臨淄への赴任を命じたことをいう辞句です。
これより前に「受禅于漢」という句が見えていることから、
それは、魏が後漢の禅譲を受けた延康元年(220)十月以降のことと判断されます。
ですが、曹植が臨淄侯に任命されたのは、それより前の建安19年(214)です。
当時、後漢王朝はまだ存続していましたが、実権は曹魏が掌握するという情況でした。
そこで、曹植を臨淄侯に任命したのは後漢王朝と見て間違いないか、
急に不安になりました。
曹植は臨淄侯となる以前の建安16年(211)、平原侯に封ぜられています。
これは、曹丕が五官中郎将・丞相副(丞相曹操の輔佐)となったのと同時期でした。
まず、『三国志(魏志)』巻1・武帝紀にこうあります。
(建安)十六年春正月、天子命公世子丕為五官中郎将、置官属、為丞相副。
ここにいう「天子」は後漢王朝の献帝、
「公」は曹操、その「世子」とは曹丕をいいます。
そして、この記事に対する裴松之注に引く『魏書』にこうあります。
庚辰(11日)、天子報、減戸五千、分所譲三県万五千封三子、
植為平原侯、据為范陽侯、彪為饒陽侯、食邑各五千戸。
これによると、曹丕が五官中郎将・丞相副に任ぜられたとき、
同じ後漢の献帝から、曹植、曹拠、曹彪に上記の爵位が下されたことが知られます。
つまり、曹植を初めて侯に封じたのは後漢王朝であったということです。
では、下って建安19年、曹植が臨淄侯に移ったときはどうだったのでしょうか。
それに先立つ建安18年(213)、曹操は献帝から魏公に任命されましたが、
そのことを記す策命(辞令書)に次のような記述が見えています。
(『三国志(魏志)』武帝紀)
魏国置丞相已下群卿百寮、皆如漢初諸侯王之制。
これによると、魏公曹操は、漢初の諸侯王に関する制度に沿って、
魏国の配下に丞相以下の諸官僚を置けるようになったということが知られます。
(この他にも、天子に匹敵するような事物の下賜が列記されています。)
これより以降、魏公曹操は、曹植らを侯に任命することができたのでしょうか。
『三国志(魏志)』武帝紀の建安十九年(214)三月の条には、
天子使魏公位在諸侯王上、改授金璽・赤紱・遠遊冠。
と、魏公曹操が、他の諸侯や王たちの上位に位置づけられたことが記されています。
ということは、魏公曹操はあくまでも後漢王朝の諸侯王のひとりであり、
そうである以上、自らが諸侯を配置することは不可能だったと見てよいでしょうか。
そこのところがはっきりと理解できていません。
2026年3月14日
「責躬詩」語釈への追補
先にも言及した「責躬詩」に見える「弼」という語について、
ひとつ語釈に追記したことがあります。
まず、「済済雋乂、我弼我輔」という詩句について、
『尚書大伝』(『礼記』文王世子の正義に引く)に見える次の句、
古者天子必有四隣。前曰疑、後曰丞、左曰輔、右曰弼。
古は天子には必ず四隣有り。
前を疑と曰ひ、後を丞と曰ひ、左を輔と曰ひ、右を弼と曰ふ。
これは、「弼」と「輔」とが並んで表れる例として必要な注です。
そして、「弼」は「責躬詩」にもう一箇所、単独でも出てきます。
荒淫之闕 荒淫の闕
誰弼予身 誰か予が身を弼(たす)けん
これに対して、このたび『尚書』益稷に見える次の句を注に加えます。
予違汝弼。汝無面従、退有後言。
予 違はば 汝 弼せよ。汝 面従して、退きて後に言有る無し。
その(偽)孔安国伝に、噛み砕いてこう記されています。
我違道、汝当以義輔正我。無得面従我違、而退後有言我不可弼。
我 道に違はば、汝は当(まさ)に義を以て我を輔正すべし。
我が違に面従して、退きて後に 我は弼す可からず と言ふ有るを得る無し。
ここにいう「予(我)」は帝で、その点、前掲の『尚書大伝』と同じです。
また、「弼」が、為政者を「たすける」という意味である点でも同じです。
ただ、「責躬詩」の文脈に、より近いものとして挙げておいた方がよいと考えました。
「弼」の意味する「たすける」とは、
君主を正しき道へとただすことを以て「たすける」ことです。
君主の不備や不足を、臣下が補って回ることをいうのではありません。
君主自らが、「わたしが間違っていたら、それを正せ。
上っ面だけ従うふりをして、後から蔭でごちゃごちゃ言うでない」と言うのです。
中国学を学んだことのある人には当たり前のことでしょう。
けれど、現代日本人の大多数にとっては当たり前ではないかもしれません。
それにしても、このようなことを言える為政者が、
理想的な君主像として語られていた時代があったことに打たれます。
2026年3月6日
疑問点を記すこと
「責躬詩」訳注稿の見直し作業に並行して、
これまで日々雑記の中で記してきた本作品に対する疑問を読み返しています。
(「札記」とは誠におこがましい限りで、「疑問」が妥当です。)
すると、史実と本作品とが食い違うと記したことのうち、
実はその「史実」は、むしろ曹植の言葉によって修正されるべきものである、
ということが、今は明らかとなっている事例が目に入ってきました。
特に大きいのは、曹植らが魏の都を離れ、各封土へ赴いた時期です。
これは、本作品の熟読、及びそれと彼の「諫取諸国士息表」との照合により、
黄初元年(220)から翌年はじめにかけてであったと今は言えます。*
曹丕が魏王であった延康元年(220)中のことではないようです。
(このこと自体は、すでに何度か述べています。)
疑問点を記してきてよかったと思いました。
分かったことばかりを書き連ねていたのでは打破できない壁でした。
彼自身による言葉の中には、
一般に語られている史実を修正する力があります。
私はそれを掬い上げ、彼の無念を晴らしたいとひそかに思います。
それとともに、魏王朝のリアルな空気を、文学作品を通して描き出せたらうれしい。
文学研究の立場から、歴史学研究に提供できるものがあるかもしれません。
(前にも書いたことかもしれませんが、敢えてまた。)
2026年3月6日
*柳川順子「黄初年間における曹植の動向」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第2号、2023年)を参照されたい。
「責躬詩」の修正
昨日、平仄とともに記した「責躬詩」の通釈(現時点での仮の訳)に、
以前に示したものから、一部改変した部分があります。
それは、14行目
「ずらりと居並んだ、才徳兼備の人士たちは、我が片腕として輔佐に当たるのだ。」で、
対応する原文・訓み下しは次のとおりです。
済済雋乂 済済たる雋乂
我弼我輔 我を弼(たす)け我を輔(たす)く
これを、以前は次のように通釈していました。
「ずらりと居並んだ、才徳兼備の人士たちは、我が君の片腕として輔佐に当たるのだ。」
原文の「我」を「我がきみ」と訓じ、このように訳していたのです。
それは、「弼」や「輔」といった語が皇帝に対して用いられるものであるからです。
詳細は、こちらやこちらの記事をご参照ください。
ところがその後、後漢王朝の清河孝王慶が、
皇帝に等しい特別待遇を受けていた事実を知りました。
(こちらやこちらの記事をご覧ください。)
この史実は、
曹植「聖皇篇」の読みに修正を迫るものでしたが、
同様の場面を組み入れて詠じる「責躬詩」の解釈にも波及します。
曹植らへの待遇が、後漢王朝と同様に破格であったのか、
曹植がそのように感じていたのか、そのように敢えて詠じたのか、
当時、「弼」や「輔」が『尚書大伝』の語義によらず用いられていたのか、
それは不分明なのですが、
前述のように改めた方が無理がない、と考えるに至りました。
2026年3月4日
押韻から捉える「責躬詩」
本日、「責躬詩」の訳注稿に、押韻を付記しました。
(解題、訓み下し、語釈、通釈の修正はまだこれからです。)
押韻状況を調べていく作業の中で気づかされたのは、
本詩がかなりきっちりと考え抜かれた構成を取っていることです。
ひとつのまとまりを為す句には、同じ響きを持つ脚韻が用いられていますが、
それが、平声と仄声とを頻繁に交替させながら、換韻していくのです。
伸びやかな平声と、屈曲する仄声(上声・去声・入声)とが、
言葉の持つ意味と絡み合いながら、うねりを形作っていくような印象を持ちました。
今、押韻ごとに通釈を区切り、行頭に平仄を記して提示します。
(○は平声、●は仄声、』は換韻するところを示しています。)
○ああ、うるわしき父なる高祖、それはすなわち武皇帝。
○天より命を受けて、天下四方を安らかに平定された。
○漢王朝の朱色の旗が通過したところ、中国全土がなびいてへりくだった。
○奥深い道に基づく教化があまねく行きわたり、最も遠い異域の人々も帰順してきた。』
○魏王国は、商や周の王朝をも凌ぎ、その足跡は堯に並ぶ。
○天の篤い祝福を受けて我が皇が誕生し、父子二代にわたって聡明でいらっしゃる。
○武の方面では厳粛であり、文の方面では民たちに和平がもたらされた。
○かくして、魏は漢王朝から禅譲を受け、万国に君臨することとなった。』
●万の国々が十分に教化されると、古くからの典範に則って、
●広く骨肉の弟たちに命じて、魏王朝の藩としての役割を担うよう指示された。』
●皇帝陛下はおっしゃった、「そなた臨淄侯よ、この青州の土地に君主たれ」と。
●海濱一帯を保有することとなったのは、周王朝が周公旦の長子を魯に封じたのに等しい。
●諸侯に下賜された車や衣服は輝きわたり、各地位を示す旗印は整然と並んでいる。
●ずらりと居並んだ、才徳兼備の人士たちは、我が片腕として輔佐に当たるのだ。』
○ああ、わたくしめは、お上に目をかけられているのをよいことに驕り高ぶり、
○その振る舞いは、どうかすると、世間の掟に抵触し、国の規範を乱した。』
○王朝の籬として防備の任に当たるべきなのに、先人の規範を台無しにしてしまい、
○我が皇の使者に傲慢な態度を取り、我が朝廷の規律を犯した。』
●国家には典範たる刑法があり、わが封土は削られ、わが爵位は落とされることとなった。
●今これから獄吏に引き渡され、大罪を犯した自分が指導されることとなったとき。』
●聡明なる天子は、身内の者に手厚く対処しようと思われた。
●わたくしを処罰して、その身を朝廷や市場に晒すには忍びなかったのである。』
○天子はかの司法官の意向に背いて、わたくしめを哀れんでくださった。
○そして、封土を兗州の町(鄄城)に改め、黄河のほとりに赴かせることとなった。
○だが、輔佐してくれる大臣も置かれず、君主はいても臣下はいない。
○荒んだ無軌道きわまりない過ちを犯しても、誰がわが身を矯め直してくれようか。』
○ぽつんとひとりの御者を連れて、かの冀方(魏の都・洛陽)へと赴いた。
○ああ、わたくしめは、かくしてこの禍に遭遇したのである。』
●だが、明々と輝ける徳を有する天子、その恩沢は万物に対して遺漏がない。
●わたくしに黒い冠冕をかぶらせ、わたくしの腰に朱色の組み紐を佩びさせた。』
○光り輝く大使がやってきて、わたくしに栄華が届けられた。
○割り符を割いて封土を授与し、これに王の爵位が加えられたのである。』
●仰いでは金印を授けられた諸侯に並び、伏しては聖皇から下された任命書を手にする。
●皇帝からの恩沢は身に余るほど盛大で、謹んで承りつつ畏れに打ち震える思いだった。』
○ああ、わたくしめには、かたくなで凶悪な性質がまとわりついている。
○死んでは陵墓に眠る高祖に顔向けできず、生きては宮廷にいます陛下に恥じ入るばかりだ。』
●陛下の徳に敢えて傲慢な態度を取るのではなく、ただひたすらその御恩にすがりたいのだ。
●霊妙なる威力が改めて加えられるならば、十分に一生を終えることができよう。』
○天の徳は果てしなく、それに報いようにも、人の命は予測ができない。
○躓いて倒れ、黄泉の国まで罪を抱えていくことになるのではないかと、いつも心配だ。』
●できることならば、出兵して矢や石を身に受けてでも、魏の旗を東方の太山に打ち立てたい。
●どうか、ほんの少しでも手柄を上げて、ささやかな功績により自らの罪を贖わせてほしい。』
●身を危険にさらして命を投げ出し、身のほどをわきまえて落ち度のないよう勉めよう。
●喜んで長江や湘水のほとりに赴き、戈を呉越の地に振り回す所存だ。』
○天子がその胸襟を開いてくださったおかげで、都にてお会いできることとなった。
○ご尊顔を拝する機会を待ちわびて、喉が渇き空腹に堪えかねんばかりの気持ちでいる。
○心の底からお慕いし、胸の内は悲痛でいっぱいだ。
○天は高くとも低き存在の声に耳を傾ける。陛下よ、どうかこの微賤な者に光のお恵みを。』
封土に赴くよう命ぜられたことを詠ずる部分は仄声で、これはよく理解できます。
他方、赴いた先(臨淄)で放埓な言動を弄したことをいう部分は平声です。
これが罪に問われたのであるにも拘わらず、のびのびと平声なのです。
それぞれの句を、平仄それぞれの醸し出す気分で読んでいくと、
曹植の本音のようなものが漏れ出てくるようです。
2026年3月3日
書面語になった曹植の表現
本日、訳注の見直しに難渋していた「上責躬応詔表」に、
やっと一応のひとくぎりを付けました。
その中で、初めて読んだ時にも引っ掛かっていた「冒顔」という語が、
宋代の任広という人物による類書『書叙指南』に採られていることを知りました。
知典古籍(https://www.shidianguji.com/zh/)のおかげです。
この類書は、書面で用いるにふさわしい語を様々な古典の中から拾い上げ、
その古典的な言い回しを、用いる場面ごとに列記するものです。
その巻10の「胸腹誠懇」の項の中に、
「又曰、冒顔以聞」(「曹植」との注記あり)と採録されています。
もっぱら曹植の作品に焦点を当てて読んでいた時は、
この語が後世、書面語として活用されているとは思い至りませんでした。
曹植のこの文章は『文選』巻20所収で、
『文選』は唐代以降、知識人たちの基本図書として定着しますから、
こうして宋代の人の目にも留まったのかもしれません。
宋代には、たとえば白居易の編んだ類書『白氏六帖』も独自の進化を遂げて、
知識人たちの基礎知識を支える便利な本として流布しましたが、*
そうしたことと同源かとも思われる現象です。
曹植がほとんど一気呵成に書き上げたと思われる文章の一部が切り取られ、
(この文章の文体については、こちら等に推論を記しています。)
指南書に乗せられて、素敵な書面を書きたいと欲する人々の手に渡っていった。
ほとんど千年近くの時を隔てたこの現象に、複雑な思いを持ちました。
2026年3月2日
*学術論文のNo.10、11、13、報告・翻訳・書評等のNo.6で論じたことがあります。ただ、武断に過ぎるところが多々あります。
語釈の難しさ(再び)
曹植は「上責躬応詔表」をかなりの速度で書き上げたのではないか。
このような推定を、かつて、また昨日も重ねて述べました。
この作品には、古典をきっちりと踏まえた典故表現よりも、
その趣旨を大づかみして、日常語に近い表現に組み替えた部分が目立つからです。
そんな作品だからこそ、語釈がし難いと感じます。
踏まえた古典語が、本文の中に明瞭に組み込まれていれば問題ありません。
その原典を示し、これを踏まえていると記せばよいので。
ただ、「上責躬応詔表」のようにそれが明瞭でない場合、
作者は何を見て、あるいは何を想起してこのような表現に至ったのか、
あるいは、特に何も念頭にはなくて、当時のこなれた言い回しを使っているのか、
それを判断するのが難しく、それをどう示すかにまた迷います。
典故表現の典拠と、先行作品に見える用例とは、当然区別して書きますが、
加えて、作者の脳裏にあったものを推し測って示せたらどんなにいいかと思うのです。
(語釈の難しさについてはこれまでにも何度も書いていますが、再び。)
これは、口語による文芸作品の難解さと似ているのかもしれません。
(当時の人々にとっては娯楽、それを読み解く現代人にとっては難解極まりない)
それだけ、曹植の言葉は当時の空気の中で躍動していたということでしょう。
実力不足を嘆くことばかりですが、
うまくいかなくて当たり前、この難航には意味があるのだと考え直します。
2026年2月27日