回り道の思考

昨日は、少しばかり意味不明のことを書きました。
「文」は、やはり広い意味での飾りであることは間違いないと思います。
ただ、古代中世においては、言葉は多く音声を根幹とするものだったはずであり、
それで、「文」は多分に音楽的要素を持つ、などとわかったふうなことを書きました。
恥ずかしい限りです。

とはいえ、思えば言葉は、書かれ読まれる時代となってからも、
それが口から発せられ、気を震わせて伝わるものだった名残はあるように思います。
理屈でのみ組み立てられた論説文などは、私にはなかなか腹落ちしません。

そもそも、昨日なぜこのようなことを書いたかと言えば、
詩歌と、作者が口にしていたであろう日常的な言葉とは別次元のものであって、
こんな詩歌を作る人だからその為人はこうだったのだろうとか、
こんな詩歌は、社会のこのような現実を反映しているに違いないとか、
そのように、詩作品と作者や社会とを直結させることはできないと心したかったのです。
先日来、詩を通じて史実や作者の為人が明らかとなる等々と述べてきたので、
それには但し書きが必要だと思ったのです。

このように思考が抽象的な方向へ向かうのは、
曹植詩の訳注稿の見直し作業が思いのほか難航しているからでもありますが、
(こなすべき作業の前に立ちすくむとき、そんな隙間ができます。)
上述のことが自分にとっては考えないではいられないテーマであることも確かです。

2026年1月31日

「文」とは何だろう

これまでにも何度か言及した言葉として、
『春秋左氏伝』襄公二十五年に記された次の句があります。

不言誰知其志、言之無文、行而不遠。
 言はずんば誰か其の志を知らん、之を言ふに文無くんば、行きて遠からず。

これは、鄭の子産が、その文辞によって、覇者である晋の詰問をくぐりぬけ、
陳への侵入について晋から容認を取り付けた、という出来事に対する孔子の評語です。

ですが、元々この辞句が置かれていた文脈を越えて、
今にも通じる普遍性を持つ語として、私は事あるごとに思い出します。
(それが古典というものなのでしょう。)

さて、前掲の句を平たく言うならば、
心中の思いは、言葉で言い表さなければ伝わらないが、
それが「文」を伴わなければ遠くまで届かない、ということです。

この「文」とは何なのでしょうか。

「文」は、「毛詩序」(『文選』巻45)にもこう見えています。

情発於声、声成文、謂之音。
 情 声に発し、声 文を成す、之を音と謂ふ。

ここで述べられていることは、前掲の孔子の語に重なるように思われます。
「情」は、孔子のいう「志」に、「声」は「言」に重なるでしょう。
そして、「声」が「文」を伴って音楽となるのだとあります。

更にまた、六朝期における「文」「筆」の違いをも想起させます。
「筆」は、韻律美が特に意識されていない作品です。

「文」は、語句のレベルでの修辞ということに留まらず、
もっと音楽的な要素を持つ言葉をイメージした方が近いのかもしれません。
詩歌や辞賦がそれに当たるでしょうか。

言葉が韻律やリズムを伴うとき、
それは人の心の中にまっすぐ入ってきて共振します。
詩を対象とするのならば、そこまで認識してこその論だと思います。

2026年1月30日

「思無邪」の詩人

『論語』為政篇にある言葉、

子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪。
(子曰く、詩三百、一言以て之を蔽はば、曰く思い邪無し。)

曹植の詩を読めば読むほどに思い起こされるのが、
『詩経』の特質を、孔子が一言で言い表したこの言葉です。

『詩品』上品の曹植の項で、鍾嶸は曹植の詩を
「其源出於国風(其の源は国風に出づ)」と評していますが、
「国風」は、『詩経』の中でも特に「思無邪」の雰囲気の濃い詩群です。

この鍾嶸の評語は、表現的作風を言うばかりではなく、
その表現を生み出す作者の本質的為人をも包摂しているのではないでしょうか。

たとえば「贈白馬王彪」詩では、
自分と異母弟曹彪との間を裂く邪悪な者はあくまでも役人であって、
王朝の頂点に君臨しているはずの兄曹丕の方に憎悪が向かうことはありません。

「吁嗟篇」でも同じように、
彼は転々と封土を遷され、魏王朝に冷遇され続ける境遇の中で、
なおも骨肉の情を厚く信じ、我が身を滅ぼしてでも共にいたいと詠っています。

作品の基底にあるこの為人が、
感情においても言葉においても、高水準で均衡の取れた、
鍾嶸の絶賛する、曹植ならではの作風に結実しているのでしょう。

当初、私はそれを心から理解するということができませんでした。
どこかで、曹植は兄への不信感を募らせていたはずだと思い込んでいたのです。
実際、そう読めなくもない表現も散見します。

ですが、詩歌作品のほぼ全てを読んだ今、それは違うと感じています。
曹植の詩に散見する、兄曹丕に対する批判めいた言辞も、
その底に流れる感情にもっと耳を澄ませる必要があると考えます。

もっとも、辞賦や散文にも目を通し終わった時、
曹植文学の全体像は、更にまた形を変えているかもしれません。

2026年1月29日

個人サイト雑感

昨日、日本学術振興会から、
科研費研究実績報告書の「研究データのメタデータ情報」に修正が必要、
との通知を受けました。

具体的には、本サイトで公開している、
「曹植の全作品テキストと校勘」(電子資料の中のひとつ)と、
「曹植作品訳注稿」について、
“リポジトリ情報”が記されていないという不備です。

「リポジトリ」というと、
一般には所属機関で運営されているものが思い浮かびます。
けれども、上記の公開データは個人で保管・管理していますので、
どのように書けばよいのかわからず、空欄のまま提出していたのでした。

こうした公開方法は、あまり一般的ではないのかもしれません。
とはいえ、この個人サイト自体、科研費研究の一環として作ったものです。
(課題番号:19K00376「中国中世初期における文学の質的転換に関わる研究」
それは、計画書に記していた取り組みであり、予定どおりの成果です。

他方、個人のサイトに上記のような研究成果を公開することは、
研究機関に所属しておられる方々には、あまりそぐわないかもしれません。
毎年、所属機関から求められる研究業績には、数え上げることが難しいですから。
(私は、近いうちに退職することが明らかだったので敢行しましたが。)

ただ、このあまり一般的ではないかもしれない研究(公開)方法は、
確実に、自分にとっては大きな推進力になっています。
退職後も、長く研究活動を行い、発表できます。

個人のサイトだとはいえ、自分としては「研究室」なのだと考えています。

2026年1月28日

作品から史実へ

作品から史実が明らかとなることがあります。

曹植詩の訳注稿を見直していて、
とても小さなことですが、目に留まったところを記しておきます。

「贈白馬王彪」詩の冒頭にこうあります。

謁帝承明廬  承明門の側にある宿舎で皇帝陛下に謁見し、
逝将帰旧疆  さあこれからもと居た封土に帰るのだ。

ここにいう「旧疆」は、鄄城を指すと見られます。

『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝には、
黄初二年(221)に、臨淄侯から安郷侯への貶爵、次いで鄄城侯への改封が、
同三年(222)4月(文帝紀による)に、鄄城王に立てられたことが記されています。

これによると、すでに足掛け三年を過ごしている鄄城を、
「旧」と称することに何ら無理はありません。

ところが、前掲の記述のすぐ後に続けて、
「四年、徙されて雍丘王に封ぜらる」「その年、京都に朝す」とあります。

この記述だと、雍丘王に封ぜられたのが、
黄初四年(223)のいつなのか、また、上洛との前後関係が明確ではありません。

記述の順番は、事が起こった順番に従うとする見方を取るならば、
そして、この歴史書の記述のみに依拠して事の推移を推し測るのならば、
雍丘王に封ぜられ、その後に上洛したと見ることも、あるいは可能かもしれません。

しかしながら、「贈白馬王彪」詩を読めばこの可能性は消えます。
最近移ったばかりの雍丘に帰国することを、「帰旧疆」とは言わないでしょう。

『文選』巻24所収の本詩について、
李善は「時に植は雍丘に封ぜらると雖も、仍ほ鄄城に居る」と注していますが、
これは、歴史書の記述が、本詩に詠われたことと食い違うと見た李善が、
苦肉の策で注した解釈だったのだろうと想像します。

なお、ここに記したことと関連する過去の雑記として、
こちらもご参照いただければ幸いです。

2026年1月27日

再び「贈徐幹」詩について

曹植「贈徐幹」詩の解釈をめぐっては、
これまでにも何度か雑記で考察を試みたことがあります。
そうした中で、袋小路に入ってしまったような、
ずいぶんと不自然な解釈にたどりついたようなところもありました。
それが、彼の他の作品を読み、少し時間をおいた今、
こういうことだったのではないか、と見えてくるものがあるのを感じています。
また修正を要するかもしれませんが、現時点での考えを記しておきます。

問題となる箇所は、龜山朗氏も取り上げておられる次の部分です。*

19 宝棄怨何人  宝の棄てらるるに何人をか怨まん
20 和氏有其愆  和氏に其の愆(あやまち)有り
21 弾冠俟知己  冠を弾きて知己を俟(ま)つも
22 知己誰不然  知己も誰か然らざらん
23 良田無晩歳  良田 晩歳無く
24 膏沢多豊年  膏沢 豊年多し
25 亮懐璵璠美  亮(まこと)に璵璠の美を懐けば
26 積久徳愈宣  積むこと久しくして徳は愈(いよいよ)宣(の)べられん

まず、20句目は何を言おうとしているのでしょうか。

一般に「和氏の璧」として知られるこの故事は、
粗玉の真価を見抜けなかった楚王に非があると見るのが妥当であり、
それを幾たびも献上した卞和には、慨嘆こそすれ、何ら落ち度はありません。
そうした故事を踏まえつつ、敢えて和氏にこそ「宝棄」の「愆」があると詠ずる、
ということは、楚王の立場に比定される曹操に非はないと言っていることになります。

そう考えるならば、
23・24句目、曹操の恩沢を「良田」「膏沢」と表現する句にぴたりと連結します。

21句目にいう「弾冠俟知己」とは、
知識人が官界に相互推薦する、当時にあってはよくあることで、
語釈に引いた『漢書』巻78・蕭望之伝附蕭育伝の他、同巻72・王吉伝にも見えます。

ところが22句目、自分を推薦してくれるはずの「知己」も「誰不然」だという。
「然」とは、直前に見える「弾冠俟知己」の状態を指すでしょう。
誰もが、官職を得たいと願いつつ、それが得られない境遇にあるということです。

曹操の幕下では、このような情況が多く見られ、
若き曹植は、そうした人々に対する処遇を気にかけていました。
このことについては、たとえばこちらをご覧ください。

さて、21・22句目をこのように捉えるならば、
これもまた、23・24句目に自然につながっていきますし、
本物の才能はいずれ見出される、と詠ずる25・26句目とも響き合います。

ただ、徐幹自身の気持ちはどうだったか。
彼は現実社会からは距離を取り、著述に専念していた人物です。
曹植が詠ずるように、世に知られることを本当に望んでいたのでしょうか。
これについては、保留としておきたく思います。

ただ、ふと思ったのは二人の年齢差です。
徐幹(170?―217?)と曹植(192―232)とは20歳余り離れています。
二十代の若者に、初老の苦労人の気持ちが分からなかった可能性は十分あります。

2026年1月25日

*龜山朗「建安年間後期の曹植の〈贈答詩〉について」(『中国文学報』第42冊、1990年10月)を参照。

記憶の中の情景を詠じた詩

『文選』巻26に「赴洛」と題する陸機の詩が二首採られています。
その一首目に、李善が多く曹植詩を挙げていることに目が留まりました。
その詩の本文は次のとおりです。

01 希世無高符  世間並みの出世を望んでも幸運に恵まれず
02 営道無烈心  修行を積んで道を修めるにも志を貫き通す強い心がない
03 靖端粛有命  そこで謹んで君命を奉り
04 假楫越江潭  舟楫を借り受けて長江の深みを越えてゆくことになった
05 親友贈予邁  親友は私の旅立ちにはなむけを贈り
06 揮涙広川陰  広大な川の南岸で涙を揮って見送ってくれた
07 撫膺解携手  胸をさすって携えた手をほどき
08 永歎結遺音  いつまでも歎きながら別れを惜しむ言葉を交わした
09 無迹有所匿  やがて足跡はかき消され
10 寂漠声必沈  ひっそりと声も聞こえなくなるに違いない
11 肆目眇弗及  目の届く限り視線を伸ばしてみても遥かな彼方へは届かず
12 緬然若双潜  はるばると隔たって双方ともかすみの中に潜ったかのようだ
13 南望泣玄渚  南の方を遠く望んで黒々とした色に沈む長江の渚に涙を流し
14 北邁渉長林  北の方へ進路を取ってどこまでも続く樹海を渉ってゆく
15 谷風拂修薄  暖かな春風は長く伸びた草の茂みをなびかせ
16 油雲翳高岑  湧き起る雲は聳え立つ峰に濃い影を落としている
17 亹亹孤獣騁  群れを外れた獣が風を切って走り去り
18 嚶嚶思鳥吟  連れ合いを求める鳥は和やかに鳴き交わしている
19 感物恋堂室  季節の風物に心を揺り動かされて母や妻のことが恋しくなる
20 離思一何深  離別の寂しさのなんと心にこたえることか
21 佇立愾我歎  いつまでも立ち尽くして我が歎きに身をゆだね
22 寤寐涕盈衿  寝ても覚めても涙が襟に満ち溢れる
23 惜無懐帰志  だが残念なことに帰る気持ちを抱くわけにはいかない
24 辛苦誰為心  この辛さに誰が心安らかでいられよう

以上の詩について、李善注は三箇所で曹植詩の影響を指摘しています。

8句目「永歎結遺音(永歎して遺音を結ぶ)」について、
曹植「雑詩六首」其一にいう「翹思慕遠人、願欲托遺音」を挙げ、

17句目「亹亹孤獣騁(亹亹として孤獣は騁す)」について、
曹植「贈白馬王彪」にいう「孤獣走索群(孤獣は走りて群を索(もと)む)」を挙げ、

20句目「離思一何深(離思 一に何ぞ深き)」について、
曹植に同一句(佚句)があることを示しています。

李善注に引く「集」(陸機の別集)によると、
本詩が成ったのは、陸機が太子洗馬に赴任した時だといいます。
それは西晋の元康元年(291)、陸機の西晋入りから2年後のことであって、
彼はすでに張華とも親交を深めていますし、賈謐の二十四友にも名を連ねています。
ですから、曹植作品に触れる機会は少なからずあったでしょう。
(もっとも在呉時代の陸機がその機会に恵まれなかったとは限りません。)

以上のことは、本詩の内容やその題名と食い違います。
「赴洛」詩は、陸機が祖国呉を離れて洛陽へ赴いた時の作ではなくて、
記憶の中にある故郷を離れた時の情景を、後から思い起こして詠じたものだったのです。

このことに、今日はじめて思い至りました。
以前、彼の「擬庭中有奇樹」と本詩とを関連付けて論じたことがありますが、*
その時は、洛陽へ向かう途上で作られたと思い込んでいました。
ここに訂正します。

2026年1月14日

*『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.469

曹植「離友」詩雑感

曹植に「離友」其一其二という詩があります。
故郷の旧友との別れを詠じた、曹植二十二歳の時の作品です。
その訳注を見直していて気づいたこと、疑問に思ったこと若干を記します。

本詩は、ほぼ完全なかたちで現存するのは二首ですが、
『初学記』に佚文二句が伝存し、その押韻は其一、其二とも異なります。
ということは、曹植はこの時、少なくとも三首以上の詩を作ったと推定されます。
(このことは其二の余説に記しました。)

本詩は、友を見送る宴席上で作られたと見るのが妥当ですが、
その詩型は、「兮」字を挟んで前後に三字句を配する、『楚辞』九歌と同じものです。
この詩型が特に前漢の時代、歌謡に多用される現役の様式であったことは、
かつて何度か(直近ではこちら)言及したことがありますが、
曹植がここで九歌型歌謡という様式を取っていることに何が読み取れるでしょうか。

また、「離友」其二にいう

折秋華兮采霊芝  秋に咲く香草の花を折り取り 霊芝を摘んで
尋永帰兮贈所思  まもなく彼方へ帰ってゆく慕わしいあの方へ贈る

これに類する表現は、『楚辞』九歌「山鬼」にいう
「折芳馨兮遺所思(芳馨を折りて思ふ所に遺らん)」等、九歌に頻見するものであり、
更に、この詩想は「古詩十九首」其六にいう
「采之欲遺誰、所思在遠道(之を采りて誰にか遺らんと欲する、思ふ所は遠道に在り)」、
同其九にいう
「攀条折其栄、将以遺所思(条を攀りて其の栄を折り、将に以て思ふ所に遺らんとす)」
にも流れ込んでいるものです。

これらの古詩と、曹植「離友」詩とは、
源を同じくする『楚辞』九歌を介して表現を共有している、
もしくは、曹植詩は古詩と九歌との双方を踏まえていると見られます。

このことは、曹植詩研究と古詩研究との双方に対して、
重要な示唆を与えてくれるように思います。

それから、二十歳を過ぎたばかりの曹植が放つ言葉の瑞々しさです。
いくら宴席という場で作られた作品であっても、その真情は表われ出ます。
その後に成った曹植作品も、この詩に補助線を引いて読む必要があると思いました。

2026年1月13日

曹植「雑詩六首」其六のわからなさ

「曹植作品訳注稿」詩歌篇の見直し作業を始めて、
まだ間もないというのに、問題点が多々出てきて行き詰まっています。

たとえば、「雑詩六首」其六は、同其五とよく似ていて、
しかも両詩は、制作年の明らかな「責躬詩」とも共通項を持っています。

したがって、「雑詩六首」の其六と其五とは、
「責躬詩」の成った黄初四年(223)の作であると推定できる。
そして、その制作地は、当時彼が王として封ぜられていた鄄城だろう。

このように先には考えていました。
しかし、本当にこのように捉えることができるでしょうか。

「雑詩六首」其六に、次のように詠ぜられています。

国讎亮不塞  我が国の仇敵をまことにふさぎ止めることができない以上、
甘心思喪元  私は自らの首を失うことも辞さない思いを抱き続けている。

「甘心思喪元(甘心して元を喪はんことを思ふ)」は、
其五にいう「甘心赴国憂(甘心して国憂に赴かん)」とよく似ています。*1

そして、ここにいう「国の讎(かたき)」は、
其五にいう「呉国為吾仇(呉国は吾が仇為り)」と響き合います。

ならば、其六の詩の中で敵国として詠われているのは呉である可能性が高いでしょう。

ところが、同詩中にいう「撫剣西南望(剣を撫して西南を望む)」について、
多くの注釈者は「西南」を蜀を指すと見るか、もしくは蜀と呉とを指すとしています。

ですが、趙幼文も指摘するように、
黄初四年当時、魏と蜀とは特に敵対する関係にはありません。*2
この年、蜀は劉備を亡くし、意識は内政の方に向いていたのではないかと推察されます。
他方、呉はその前年、長江中流域にまで侵出し、夷陵で劉備を破っています。

このように見てくると、「西南」とは呉を指すと見ざるを得ません。
ところが、魏と呉との位置関係からすると、呉を「西南」と見るには無理があります。
ただし、曹植が王として封ぜられていた鄄城から見れば、
蜀を相手に不穏な動きに出ている呉は、まさに「西南」の方角に位置しています。

ただ、本詩の冒頭には、こうあります。

飛観百餘尺  百尺あまりの、飛ぶがごとき姿の楼観に上り、
臨牖御櫺軒  格子の手すりに寄りかかって窓の外を眺める。

一句目は、「古詩十九首」其三にいう
「両宮遥相望、双闕百餘尺(両宮 遥かに相望み、双闕 百餘尺)」を思わせます。
「飛観」の「観」は、『爾雅』釈宮によれば、宮闕の上に設けられた一対のやぐらです。
これらを踏まえるならば、本詩は洛陽で作られたと見るのが普通でしょう。

しかしながら、洛陽から眺める呉を「西南」の方角にあると見なせるかどうか。

他方、李善がいうように、「雑詩六首」のすべてが鄄城での作だとすれば、
前述のとおり呉を「西南」と見て何ら齟齬は生じません。
ただ、前掲二句に詠われたような立派な建築物が鄄城にあったかどうか。

あるいは黄節がいうように、本詩の成立を建安年間と見る道もあるでしょうか。
それならば、「西南」を蜀と見ることに不都合はありません。

このように、矛盾だらけのように思える「雑詩六首」其六です。
判断は保留にして、明らかとなったところまで記しておくことにしようと思います。

2026年1月9日

*1 なお、「甘」という語単体では、黄初四年作の「責躬詩」にも「甘赴江湘、奮戈呉越(甘んじて江湘に赴き、戈を呉越に奮はん」と見える。
*2 趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.66を参照。

曹植「雑詩六首」其四と其一

「南国に佳人有り」と詠い起こす「雑詩六首」其四は、
その美しさが世に顧みられないまま、みすみす時を見送る佳人を詠じ、
一見したところ、一首を通して、昨日述べたような特異な表現は認められません。

世に容れられない人物の嘆きは、中国詩には珍しくないテーマです。
そして、そうした人物の筆頭格といえば、『楚辞』のヒーロー屈原です。
したがって、「佳人」が『楚辞』の言葉を用いて表現されるのも自然なことです。

では、この「佳人」はなぜ南国にいるのでしょうか。

訳注稿にも指摘しているとおり、この冒頭句は、前漢の李延年が、
その妹を武帝に推薦しようと詠じた「北方に佳人有り」云々の歌を思わせます。

ですから、詩としては必ずしも「佳人」は南国にいる必然性はありません。
そこに何らかの背景があって、敢えてそのような設定がなされたのかもしれません。

また、本詩がもしこの李延年の歌が設ける枠組みを借りているとするならば、
「佳人」は曹植が大切に思っている第三者を指すでしょう。
自身を、屈原のようなヒーローに見立てたと解釈することは困難です。

ところで、「雑詩六首」其一には、
万里の彼方、江湖の広がる南方にいる「之子」が詠じられていました。
「之子」といえば、『詩経』周南「桃夭」にいう、

桃之夭夭 灼灼其華  桃の夭夭たる 灼灼たる其の華
之子于帰 宜其室家  之子 于(ゆ)き帰(とつ)ぐ 其の室家に宜しからん

が想起されますが、
「桃夭」が詠ずるこの輝きに満ちた若々しい美しさは、
曹植「雑詩六首」其四の「佳人」にもそのまま当てはまるものです。

こうしてみると、其四に詠じられた「佳人」は、
其一の「之子」に重なると見ることができるかもしれません。*

ただし、そのような解釈が成り立つには、
「雑詩六首」がひとつのまとまりを成していることが前提となります。

2026年1月5日

*黄節『曹子建詩註』巻1は、そのような捉え方をしている。

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