再び追記:柏村直條と厳島八景

元文四年(1739)刊『厳島八景』は、高橋修三氏による翻刻がありますので、*1
私のような専門外の者でも、その内容に触れることができます。

その中巻の初めの方に、次のような記述があります。
(以下、柳川の文意理解により、濁点や句読点などを加えたところがあります。)

先年 風早宰相公長卿 あるが中に とりわきたるところをえらミて、嚴嶋八景の題を、冷泉黄門為綱卿にこひ給ひ、王卿雲客の諸家へわかち配り、詩歌を勧進したまひしに、各ミづから御筆を染られ、詩歌二巻事調ひぬ。これを予(やつかれ)にたうびてかたじけなくも 大明神の珍の廣前に奉納せさしめたまふ。

ここには、厳島八景の事実上の選定者である柏村直條の名は見えず、
風早公長がそれを行ったかのような記し方となっています。
昨日記したように、直條と公長とは非常に近しい間柄でしたから、
二人の行ったことは重なって見えてしまうのでしょうか。

一方、同じ中巻の終わり近くには、次のような記述が見えています。

予 年来 景詠の詩哥を簪紳家に勧進して奉納せん事をねがひ侍りしに、石清水の社職柏亭直條ハ、はやく心しらひの友どちにて侍る、予が念願の趣を聞て、しきりに勧め誘ハれけれバ、此人と相ともに風早宰相近長卿の許に参り、ひたすら願ひ侍りし相公にも、神慮のたうとき事をやおぼしめしけんや、ことなき御方にて御沙汰にもおよび侍りしとかや、やがて冷泉黄門為綱卿に申させ給ひしかバ、求に應じて新に八景の題を組て給ハりぬ。相公 題を諸家へわかちくばりたまひしに、正徳五年仲夏の比、詠歌も出来、各染筆も相調しかバ、同年六月中三日、恭しく大明神の珍の廣前に捧奉りぬ。

ここには、柏村直條の名が見えていますが、
それは、宮島の光明院の恕信に八景題詠のことを“しきりに勧め誘”い、
恕信とともに、風早公長のもとに八景題詠のことを依頼しにいった人としてです。

嚴島神社に八景和歌(「光」軸)を奉納した時点で恕信が記した序文には、*2

(恕信は)年来の心ざしをさゝやき侍りしに、翁(直條)打ちうなづきてやミぬ。

とあって、『厳島八景』に記すところとは微妙に異なっています。*3
厳島八景の成立した正徳五年(1715)から、
『厳島八景』が刊行された元文四年(1739)までの約四半世紀の間に、
恕信の中で、柏村直條に対する認識が何か変質しているように思えてなりません。

2023年11月29日

*1 高橋修三「翻刻『厳島八景』」(『宮島の歴史と民俗』11号、1994年)。
*2 朝倉尚「「厳島八景」考―正徳年間の動向―」(『瀬戸内海地域史研究』2号、1989年)を参照。
*3 拙論「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)で言及している。

追記:柏村直條と厳島八景

昨日の続きです。)
柏村直樹先生にいただいた『翻刻柏亭日記(石清水八幡宮蔵)』により、*1
柏村直條こそが厳島八景成立の立役者であったことを、
はっきりと確認できる事柄が二三ありました。
以下、拙論への追補として記します。*2

それは、まず風早公長との関係です。
拙論では、公長の「八景和歌跋」(『厳島八景』上巻)にいう、

頃日有僧恕信者、来請遺佳景於篇詠
(先頃、恕信なる僧が、そのすばらしい景色を歌に詠じてほしいと依頼してきた。)

といった表現から、
恕信と風早公長とはそれほど親しい間柄ではないだろう、
柏村直條が言及されていないのは、むしろ両者の関係の気安さ故であろう、
ということを推し測るところまでで終わりました。

ところが、上記の資料『翻刻柏亭日記』を見ると、
柏村直條は、父の直能の代から、風早家と付き合いがあることが確認できました。
風早公長の名が『日記』に登場するのは、巻の一、元禄九年(1696)八月十五日ですが、
それ以前、二十代の頃にも、父の育てた牡丹の切り花を風早家に届けたり、
その数年後、風早公長が放生会の勤仕からの帰途、直條宅を訪れたりしていることが、
本資料所収の安立俊夫氏による「柏村直條の説明と略年譜」から知られました。
二人の生没年は、直條(1661―1740)、公長(1665―1723)で、わずか四歳差です。
身分は異なってはいても、ほとんど幼馴染といってよい間柄であったと想像されます。

次には、直條と里村家との関係です。
拙論では、たとえば里村昌純の「厳島八景発句」の序にいう、
「彼島の光明院恕信といへる大徳」等々の表現から、
里村家は、恕信とは少し距離のある間柄であろうということを推測し、
他方、里村家と柏村家とは「厳島八景発句」以前にも連歌の会を催していることから、
直條と里村家とは旧知の間柄であったのだろうと推測したところまででした。

ところが、前掲「柏村直條の説明と略年譜」によると、
直條の妹の真(さな)は、里村昌純(1649―1723)に嫁しています。
姻戚関係という非常に親密な間柄であったことを知りました。

柏村直條という人は、実に様々な人々と交友関係を持っていて、
その信頼関係があればこそ、厳島八景の成立も実現したのだと確信しました。

2023年11月28日

*1『翻刻柏亭日記(石清水八幡宮蔵)』古文書の会八幡編集・発行、2013年輪読開始、2017年輪読終了、2018年発行。
*2「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)。

再び厳島八景と南京八景とについて

厳島八景と南京八景の近しさについて、
これまでに何度か述べたことがあります(直近では、2023年3月17日)。

その際、両者の関連性について、次のような見通しを立てました。
2023年3月16日の雑記に記しています。)

イ)厳島八景の事実上の選定者は、石清水八幡宮の柏村直條である。
ロ)柏村直條は、石清水八幡宮周辺の美景、男山八景(八幡八景)を選定した。
ハ)柏村直條は、男山八景の選定に当たって、
  南京八景(奈良の八景)を念頭においていたのではないか。
ニ)柏村直條は、厳島八景の選定に当たって、
  男山八景とともに、それに影響を与えた南京八景をも想起したのではないか。

以上のうち、イ)ロ)については事実であると明言できます。*
ハ)ニ)については、これまで各八景の題目の類似性から推測するばかりだったのですが、
このたび、それが事実であることを示唆する研究に出会うことができました。

それは、竹内千代子・小西亘・土井三郎三氏による、
『石清水八幡宮『八幡八景』を読む』(昭英社、2023年)です。

この研究成果をご教示くださった柏村直樹先生に、衷心より御礼申し上げます。
柏村直樹先生は、直條の直系のご子孫でいらっしゃいます。

その中に紹介されていた里村昌陸による『八幡八景(男山八景)』序に、

直條は社参の折々、山上山下、名ある所に八の景色を望みて大和(南都八景)、もろこし(瀟湘八景)の例にならひ、これを和歌につらね置れば、後のよ迄の風流、かつは男山の面目ならんと、京にのぼりて有栖川の宮へ申上られしに、……

とあって、
直條が八幡八景を選定する際に、
南都八景と瀟湘八景とを参照したことが明記されています。

この序を記した里村昌陸(1639―1707)は、
柏村直條の妹が嫁いだ里村昌純(1649―1723)の兄に当たります。

すると、その内容は信頼できると判断してよいでしょう。
もしかしたら、直條自身から聞き取ったことなのかもしれません。

この『八幡八景』は、
東京都立中央図書館の加賀文庫に、
正徳六年、昭和九年の写本二種が蔵せられていて、
今週末、それらを閲覧させていただけることになりました。
仮名のくずし字は私には読めないでしょうが、目睹するだけでもという気持ちです。

2023年11月27日

*拙論「悦峰の「厳島八景詩序」と柏村直条」(『宮島学センター年報』第3・4号、2013年)、「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)pp.111―130を参照されたい。

曹植とその周辺の人々

「贈丁廙」詩の解釈は、再考する必要があると先日述べました。
このことに関連して、本詩の冒頭四句も捉えなおした方がよいと考えます。

嘉賓填城闕  立派な賓客たちが宮殿を埋め尽くし、
豊膳出中厨  厨房の中からは素晴らしい食膳が運び出されてくる。
吾与二三子  私は気心知れた二三の友人たちと、
曲宴此城隅  この宮城の片隅で内輪の酒宴を設ける。

宮殿の中央で盛大に催される宴に対して、
その片隅で、気心知れた者だけで囲む私的な宴席を詠ずるとは、
ずいぶんとひがみっぽいように以前は感じていました。

ただ、そうすると続く四句とうまくつながりません。
この後には、音楽や酒肴など華やかな宴席風景が繰り広げられているのです。

そこで想起したいのが、先日提示した本詩解釈への新たな視点です。
すなわち、曹植は「朋友」に向けて魏王国への仕官の可能性を指し示している、
臨淄侯である自身のもとを去って、魏国側の人間になるよう勧めているのではないか、
と捉える見方です。

そうした別れと励ましの言葉を、
にぎやかな宴席の情景とともに詠じたのが本詩なのかもしれません。
そこに一瞬、曹植の横顔をみたような思いがしました。

2023年11月24日

阮籍のいう「当路子」について

今日も昨日に続いて青木竜一さんにいただいた指摘を踏まえ、
以下のとおり、私なりに咀嚼したところを述べます。

阮籍「詠懐詩・灼灼西隤日」(『文選』巻23所収「十七首」其十四)に、
次のような辞句が見えています。

如何当路子  なんだって官途に就いている連中は、
磬折忘所帰  磬のように腰を折り曲げて権力者に追従し、帰すべき所を忘れているのか。

今、「当路子」をこのように訳したのは、
李善注に指摘する、『孟子』公孫丑章句上にいう次の辞句を踏まえてのことです。

夫子当路於斉、管仲晏子之功、可復許乎。
夫子(孟子)路に斉に当たらば、管仲・晏子の功、復た許(おこ)る可きか。

もちろん、これで十分、詩の趣旨は把握できます。
が、これに加えて、次のような意味も重ねられているのではないか、と。

当時、魏はよく「当塗高」という語で言い表されていました。
一例を挙げれば、『三国志』巻2・文帝紀の裴松之注に引く『献帝伝』に、
延康元年(220)十月九日、太史丞の許芝が、魏王曹丕に向けて、
魏が漢に代わるべき旨を書き連ねたことが記されていて、
その中で許芝は、白馬令李雲の予言めいた語を引き、
これについて、「当塗高者、魏也(当塗高とは、魏なり)」と説明しています。

「塗」は、意味としては「路」に同じです。
しかも、その上に来る語がどちらとも「当」です。
すると、阮籍「詠懐詩」にいう「当路子」に、「当塗」の者、
つまり「魏王朝側の人間」という意味が重ねられていた可能性は大いにあります。

本来は魏に帰すべき人間なのに、
新興権力者である司馬氏側にすり寄っていく者。

客観的に見れば、そうした者たちの中に阮籍その人も含まれています。
本詩を詠じた時点での阮籍の立ち位置はともかくも、
この人であれば、そうしたことを自覚していたと私は見ます。*

2023年11月23日

こちらの拙論「阮籍「獼猴賦」試論」(『日本中国学会報』第38集、1986年)を参照されたい。

訳注稿「贈丁廙」への追記

本日は、曹植「贈丁廙」の、「大国」に対する語釈を追記しました。
今回も青木竜一さんのご指摘によるものです。

「大国」は、魏国を指すと思われますが、
曹操が後漢王朝から魏王の爵位を与えられて成った魏国は、
後漢王朝と併存する、独立性を持つ国家であったと初めて知りました。
曹丕が曹操の後継者として「太子」という名称で呼ばれるようになったことも、
この魏国の成立と連動するものであったと聞きました。

そこで、新たな考察の糸口を与えられたと思ったことがあります。
それは、この直前に見えている句とのつながりです。

「贈丁廙」という詩は、四句ずつひとまとまりを為すと見られますが、
ちょうど中間に位置する次の部分が、これまでどうにもつかめなかったのです。
その原文を、現時点での通釈とともに示せば以下のとおりです。

我豈狎異人  私はどうして関係のない人々に馴れ親しんだりするものか。
朋友与我倶  古なじみの友人たちが私とともにいるのだ。
大国多良材  大国には良き人材が多く現れ、
譬海出明珠  それはさながら海が真珠を生み出すようなものだ。

上の二句については、かつてこちらで言及したことがあり、
その際には、曹植の兄曹丕に対する屈託を示す表現として捉えました。*

けれども、そうすると、これに続く二句とのつながりが見えてきません。

ですが、「大国」が上述のような意味であるとすれば、
自分の身近にいる「朋友」に対して、魏王国の人材登用を称賛し、
そちら側に仕官できるよう励ますという文脈に取れなくもありません。
そして、後半の八句で、丁廙に対して“君子たれ”と告げるわけも理解できます。

この詩は、再考する必要があると思いました。

2023年11月22日

*川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(2022年2月)p.303にもこのことを指摘する。

訳注稿「雑誌六首」其一への追記

先週一週間、東北大学で集中講義を担当しました。
大学院の皆さんと曹植詩を中心とした作品幾篇かを読んでいく中で、
これまで一人で読んでいた時には気付かなかったようなことが多く指摘され、
実に目の覚めるような思いでした。

本日は、歴史学を専攻する青木竜一さんからいただいたご指摘を、
柳川が把握したところとしてアレンジして書き記します。
(もし不正確な記述があれば、柳川の責任です。)

曹植「雑誌六首」其一(『文選』巻29)に、「方舟」という語が登場します。
この語については、『爾雅』釈水に次のような説明が見えています。
今、これを解説する郭璞注とともに記せば以下のとおりです。
(この資料は、漢賦を研究する木村真理子さんによって提示されました。)

天子造舟 〈郭注:比船為橋(船を比べて橋を為す)。〉
諸侯維舟 〈郭注:維連四船(四船を維連す)。〉
大夫方舟 〈郭注:併両船(両船を併ぶ)。〉
士特舟 〈郭注:単船(単船なり)。〉
庶人乗泭 〈郭注:併木以渡(木を併べて以て渡る)。〉

「雑誌六首」其一の成立年代は、
『文選』李善注や、清朝の陳祚明、民国の黄節らが説くとおり、
黄初四年(223)と見るのが妥当だと柳川も考えます。

すると、当時曹植は、鄄城王(もしくは雍丘王)であって、
身分としては「諸侯」に当たり、『爾雅』によれば「維舟」に乗るはずです。

ところが、この詩を詠ずる人は、自身の乗り物を「方舟」と言っています。
けれども、これに乗るのは、『爾雅』によれば「大夫」のはずで、
曹植自身の現実の身分とは食い違っています。

本詩中の詠じ手を曹植自身と見ることはできない、という立場もあるでしょうが、
そのような論法は本作品には当てはまらないように思いますので、
ここは、曹植が自らの思いを「雑詩」という詩体に乗せて詠じたのだ、
と捉えて話を先へ進めます。

これはどういうことでしょうか。

「諸侯」は、官に就くことができないが、
「大夫」は、官に就いている者を指していいます。

このねじれは、曹植自身の自己認識のあらわれなのかもしれません。
現実としては、魏王朝の官には就けない「諸侯」でありながら、
自身の志向としては、王朝に仕える「大夫」でありたいという引き裂かれた思いです。

なお、同じ「方舟」は、「雑誌六首」其五にも見えています。

以上のことを、訳注稿の語釈に追記しました。
(訳注稿では簡略に記しています。)

2023年11月21日

「現在の研究内容」の更新

本日、本サイトの「現在の研究内容」を更新しました。

自分の考えていることを、人に伝えることはとても難しい。
今日の授業は、過去繰り返し考えてきたことを説明するものだったのですが、
それでも、うまく伝えることができませんでした。
自分の中では自明のことだから、という慢心があったと思います。

「現在の研究内容」もそうです。
いずれ書き直したいとは思っていましたが、
三年ほど前に書いたものが、これほどだめだとは予想を超えていました。
自分の手を十分に離れ切っていないと、人には伝わらないです。
今の自分はすでに、過去の自分からすれば他人です。

今回は、考えのエッセンスを、できるだけ正確に書こうとしました。
具体的な研究内容というには抽象的すぎるかもしれません。
それでも、過不足ない表現をしたつもりです。

2023年9月27日

「ご挨拶」の更新

本日、本サイトの「ご挨拶」を更新しました。

退職まであと一年半、
中国古典文学に特に興味がない人たちにも、
この研究分野の面白さや意義をまっすぐに伝えたいと思い、
授業での話につい熱がこもります。

熱量をかけたからといって、それが皆に届くとは思いませんが、
ひとりくらいは受け止めてくれると信じています。

それで、そんな若い人たちにも理解してもらいたくて、
ほとんど専門用語を使わない、
書いていることに何の衒いもない言葉で、
自分が思うところを正直に、まっすぐに述べました。

現時点での自分の考えを書き留めた感覚です。
また気持ちが変わったら書き改めるかもしれませんが、
しばらくはこのスタンスでいきます。

退職後は、現在勤務している大学から離れて、
大好きな福岡に住み、自由に研究を続けるつもりです。

2023年9月24日

 

晋楽所奏「楚調・怨詩行」の編者について

『宋書』楽志三には、
昨日言及した「大曲」十五篇に続いて、
曹植「七哀詩」に基づく「楚調・怨詩行」一篇が収録されています。

曹植「七哀詩」から「怨詩行」へのアレンジについては、
「晋楽所奏「怨詩行」考 ―曹植に捧げられた鎮魂歌―」と題して論じたことがあります。
その中で、「七哀詩」から「怨詩行」への改変点を指摘した上で、
その改変がなぜ行われたのかを究明し、副題に示すような結論にたどり着きました。

ただ、このアレンジを行った人物を、西晋の荀勗かと推測していたことは、
昨日の結論を経て、修正する必要があると今は考えています。

曹植「七哀詩」から「楚調・怨詩行」への改変者が荀勗であろうとの推測は、
荀勗の歌辞選定が、「清商三調」「大曲」「楚調」の全てに及ぶ、
と見通したことから導き出されたものです。

ですが、「大曲」の編者は、荀勗ではなく、張華である可能性の方がはるかに高い、
との結論にたどり着いた以上、先の推測は妥当とは言えません。

むしろ、「大曲」の編者がもし張華であるならば、
それに続く「楚調・怨詩行」一篇もまた、張華によってアレンジされた、
と見る方が、荀勗と見るよりも、はるかに蓋然性が高いでしょう。

それに、張華には、曹植に対する鎮魂の思いを表現する強い動機があります。
一方、荀勗の場合は、それを意識的に回避したとさえ想像されます。

なぜ、そのようなことが言えるのか。
その論拠は、昨日提示したスライド資料の中に示しています。
それは、「大曲」の中に曹植の歌辞が組み入れられている理由を述べた部分ですが、
それよりも更に明確に、「楚調・怨詩行」について当てはまるものです。

2023年9月15日

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