擬態語の解釈

古楽府「善哉行」(『宋書』巻21・楽志三)の中に、
次のような表現が見えています。

月没参横、北斗闌干。
 月は没して参(オリオン座の三星)は横たわり、北斗は闌干たり。

ここにいう「闌干」は、韻母(母音)を重ねる畳韻語で、様子を音で表現しています。
では、この擬態語はどのような様子を表現しているのでしょうか。

唐代の詩では、涙がはらはらと流れ落ちるさまを表す語としてよく目にします。
白居易「戯題盧祕書新移薔薇」(『白氏文集』巻15、0850)に、

風動翠条腰嫋娜  風が緑の枝を動かせば、その腰はなよやかに揺れ、
露垂紅萼涙闌干  露が紅色の花びらから滴ると、涙がはらはらと流れ落ちるようだ。

とあるのがその一例です。

また、後漢末の蔡文姫(蔡琰)の悲劇を詠じた「胡笳十八拍」第十七拍にいう、
「嘆息欲絶兮涙闌干」の「闌干」も、同じように解釈できます。*1

では、前掲の漢代古楽府「善哉行」にいう「闌干」はどうなのでしょうか。

近人の黄節(1874―1935)の『漢魏楽府風箋』(中華書局、2008年)は、
これに「横斜貌(横斜のさまなり)」という語釈を付け、
余冠英(1906―1995)の『楽府詩選』(人民文学出版社、1997年)は、
これをそっくりそのまま踏襲しています。*2
小尾郊一・岡村貞雄『古楽府』(東海大学出版会、1980年)も、
「ななめに傾く」と注記して、先人の説をさりげなく襲っています。

ですが、ずっと継承されてきたこの語釈には、根拠が示されていません。
根拠を探し出そうとしても、案外こうした文脈での「闌干」は用例が少ないのです。*3

他方、この語が形容する対象は異なりますが、
左思「呉都賦」(『文選』巻5)に、黄金や珠玉の豊富さを描写して、
「金鎰磊呵、珠〓[石+非]闌干(金鎰は磊呵たり、珠〓は闌干たり)」とあります。
ここから類推して、「善哉行」で北斗七星を形容していう「闌干」を、
「きらきらと縦横に光を放つさま」と解釈することはできないでしょうか。
星の光と、金や玉の輝きとは、硬質の美という点で共通するように感じられます。
ただ、北斗七星から、奔放にまき散らされる光のイメージはやや浮かびにくくもあって。

擬態語はイメージを言い表す言葉なので、
当時を生きる人間ではない以上、語釈に難渋して当然かとも思います。

2024年2月16日

*1 この表現を根拠に、この作品の成立を唐代と判断する論者がいる。入矢義高「紹介「胡笳十八拍」論争」(『中国文学報』13、1960.10)p.133、137を参照。
*2『漢語大詞典』も、本詩を曹植の作とした上でこれを襲っている。
*3 古楽府「満歌行」(『宋書』楽志三所収「大曲」)には「攬衣起瞻夜、北斗闌干(衣を攬りて起きて夜を瞻れば、北斗は闌干たり)」という句が見えている。だからといって、的確な語釈には直結しない。

同時代人の捉えた語意

曹植集に紛れ込んだ古楽府「善哉行」(『宋書』巻21・楽志三)の、
第一句「来日大難」にいう「来日」について、

『漢語大詞典』(1冊目/p.1298)は、
この「善哉行」を挙げて、〈往日、過去的日子〉と説明しています。

この解釈の直接的な根拠となったのは、
続けて引かれる李白「来日大難」(『李太白文集』巻5)に、
清の王琦(四部備要『李太白全集』巻5)がこう注していることでしょう。*

来日、謂已来之日、猶往日也。
 来日とは、已に来たるの日を謂ひ、猶ほ往日のごときなり。

李白の本作品は以下のとおり、明らかに古辞「善哉行」を踏まえています。
そして、その内容はたしかに王琦の説くとおり、過去を指して言うように読めます。

来日一身 携糧負薪  来日 一身、糧を携へ 薪を負ふ。
道長食尽 苦口焦唇  道は長く食は尽き、口 苦(にが)く 唇 焦げたり。
今日酔飽 楽過千春  今日 酔飽、楽しみは千春を過ぐ。
仙人相存 誘我遠学  仙人 相存して、我を誘ひて遠く〈仙術を〉学ばしめんとす。
……

ですが、古楽府「善哉行」の「来日」を、
『漢語大詞典』に従って、本当に過ぎ去った日々と解釈してよいでしょうか。

というのは、晋楽所奏の古辞「善哉行」を耳にしたに違いない陸機が、
その「短歌行」(『文選』巻28)の中で、次のような対句を提示しているからです。

来日苦短 去日苦長  来たる日 苦(はなは)だ短く、去る日 苦だ長し。
今我不楽 蟋蟀在房  今 我 楽しまずんば、蟋蟀 房に在らん。

ここに見えている「来日」は、「去日」と対句である以上、
これから自分に訪れるであろう日々を指して言っていることは確実です。
『漢語大詞典』も、これを挙げて〈未来的日子〉と解しています。

なお、陸機の前掲句の、特に一句目が、
曹植「当来日大難(「来日大難」に当つ)」にいう
「日苦短、楽有餘(日は苦だ短く、楽には餘り有り)」を踏まえていることは、
『文選』李善注も指摘しているとおりです。*

李白(701―762)と陸機(261―303)とは、生きた時代が遠く隔たっています。
西晋王朝の宮中で歌われた古楽府「善哉行」にいう「来日」の意味は、
その歌曲が流れる空気の中にいた、同時代人の陸機の方が、
より的確に捉えていると見てよいだろうと思います。

2024年2月14日

*ただし、現行の李善注は、「曹植苦短篇曰、苦楽有餘(曹植の「苦短篇」に曰く、「苦楽 餘り有り」と)」とあって、楽府題からして現存作品とは異なっている。

 

その人らしい詩

曹植作品訳注稿は、本日「善哉行」に入りました。

といっても、この作品は、『宋書』巻21・楽志三をはじめとして、
歴代の文献では、詠み人知らずの古辞とされています。*
このことについて、丁晏『曹集詮評』巻五には次のようにあります。

此篇張無之。楽府三十六御覧四百十均作古辞、程誤収入、提要已加駁正。
惟藝文四十一引為植作、今姑存之。然細味詩意、乃漢末賢者憂乱之詩、似非子建作也。

この篇、明の張溥「漢魏六朝百三名家集」所収『陳思王集』には見えていない。
『楽府詩集』巻36、『太平御覧』巻410はともにこれを古辞としているが、
明の万暦年間の休陽程氏刻本十巻は、誤ってこれを採録していて、
このことは『四庫全書総目提要』巻148、集部・別集類の、
「曹子建集十巻」においてすでに論駁是正されている。
ただ、『藝文類聚』巻41に引くところでは曹植の作となっているので、
今とりあえずはこの篇を残しておく。
けれども、仔細に詩の趣旨を吟味してみると、
どうやらこれは漢末の賢者が乱世を憂える詩であって、
曹植の作品ではないように思われる。

では、この「善哉行」は、どこが曹植らしくないのでしょうか。

曹植には、本詩の第一句「来日大難」を題目に示す楽府詩「当来日大難」があります。
両者の比較を通して、曹植らしさというものが明らかになるかもしれません。

2024年2月12日

*漢魏晋時代の俗楽系宮廷歌曲を最もよく保存する『宋書』楽志三も、「来日大難」に始まるこの「善哉行」を、「清商三調」瑟調の「古詞」として採録している。

魏晋時代の押韻

本日、曹植「丹霞蔽日行」の訳注稿を公開しました。

今回から、脚韻についても調べ、記入していくことにしました。
すでに公開している訳注稿にも追記していく予定です。

近体詩が成立する以前のこの時代ではあるのですが、
後に『切韻』系韻書に集約されていくような音韻の体系が、
この頃すでに認められるらしいということを、
参加している『宋書』楽志の読書会の中で知りました。
そこで、それを曹植作品においても検証してみようと思ったのです。

韻目は、北宋初めに成った『広韻』に依って示しますが、
これはあくまでも目安として記すにすぎません。

『広韻』で「同用」とされず、
『平水韻』で同じ韻目とはなっていなくても、
また、小川環樹先生が「古詩通押」としていないものも、*1
曹植においては通じて押韻しているらしいものは、「、」でつなぎ、
韻が切り替わっていると見なせるものについては、「。」で区切っています。

おそらく、先人の研究成果を追認する結果となるだろうと予測されますが、*2
曹植という、この時代としては比較的多くの作品を残している人物の作品全体を通して、
当時の押韻情況を確認することには意義があろうかと思います。

2024年2月11日

*1 小川環樹「唐詩の押韻 および韻書」(『中国詩人選集』別巻『唐詩概説』岩波書店、1958 年第 1 刷、1979 年第 20 刷に収載)を参照。この一覧表を打ち出したものを、こちらに公開しています。
*2 門外漢の手元にあるものとして、于安瀾『漢魏六朝韻譜』(河南大学出版社、2015年)、羅常培・周祖謨『漢魏晋南北朝韻部演変研究』(中華書局、2007年)。

書き替えの足跡

今読んでいる曹植「丹霞蔽日行」は、かなり異同の多い作品です。

中でもその第7・8句目、底本(『曹集詮評』巻5)では、
「漢祚之興、秦階之衰(漢祚 之れ興こり、秦階 之れ衰ふ)」ですが、

唐代初めの類書『藝文類聚』巻41に引くところでは、
「漢祖之興、階秦之衰(漢祖の興こるは、秦の衰へるに階る)」となっています。
(『楽府詩集』巻37も同じなのは、『藝文類聚』を襲ったのでしょうか。)

宋本『曹子建文集』では、「漢祖之興、秦階之衰」です。

どういうわけで、このような異同が生じたのでしょうか。

思うに、まず初めにあったテキストは、おそらく、
『藝文類聚』に記されているのと同じ「漢祖之興、階秦之衰」だったでしょう。

ところが、両句とも下の二字が類似する形を取っているので、
これに合わせて、「漢」と「秦」とを句中の同じ位置に揃えたのではないでしょうか。
この二句が対句を為すのだとすれば、王朝名は同じ位置に来るのが自然ですから。

更に、この詩は王朝の切り替わり、易姓革命を詠じているので、
天から授けられた王朝の命脈をいう「祚」が、「祖」に取って代わられたのでしょう。
この二字は字形が似ていて、少し摩耗すれば容易に「祖」は「祚」になります。

加えて、「階秦」の「階」は語釈を要する難解な字義ですが、
他方、「秦階」は、既視感のある「泰階」という語と字面がよく似ています。
「泰階」は、星座の名であると同時に地上の王朝をも象徴的に表すので、
意味としても文脈に沿っているように見えます。

こうした要素が複合的に重なって、
底本のようなテキストとなったと推測できるように思います。

このように書き替えの足跡を辿ってゆくと、
一貫した傾向として、より理解しやすい方へと流れているように看取されます。

分かりたいという欲求は、人として普遍的な心性なのでしょう。
その普遍の前に立ち止まって、面倒なことを考えるのが研究者なのかもしれません。
常識を破るような新見地は、そうして見つけられるものなのだと思います。

2024年2月9日

母語で書くということ

昨年の夏に行った、中国での口頭発表
「探討晋楽所奏“清商三調”与“大曲”的関係」をもとに、
先日まで、日本語の論文に書き直していました。
昨日、「大曲」の編者なる語がふと出てきたのはそのためです。)

すでに発表原稿があるのだからそれほど時間はかからないだろう、
と思っていたら、とんでもないことでした。

母語で書くとは、手慣れた表現の手段などではなく、
むしろ、考えるための道具だと言った方がよいのではないかと思います。

それは、自身の考察内容を改めて問い返す、
鋭利な刃物で、論の筋目のその奥へと切り込んでいくような作業でした。

発表原稿を準備する段階では気づいていなかった論理の飛躍は目につきますし、
また、本当にそう言い切れるのか、詰めの甘かった部分もありました。

そのような再検討をする中で、新たに知ったこともあります。
(もしかしたら周知のことなのかもしれませんが)

そのひとつが、阮籍の兄の子、阮咸に関する次のような逸話でした。
『宋書』巻19・楽志一にこうあります。*

勗作新律笛十二枚、散騎常侍阮咸譏新律声高、高近哀思、不合中和。
勗以其異己、出咸為始平相。
 荀勗は新しい音律の笛十二枚を作ったところ、
 散騎常侍の阮咸は次のように批判した。
 新律は音調が高く、高きは悲哀に沈む亡国の音に近く、中和の世には合致しない、と。
 荀勗は、彼の主張が自身とは異るという理由で、始平(長安の西方)の相に左遷した。

同様の記事は、『晋書』巻49・阮籍伝付阮咸伝にも次のように見えています。

荀勗毎与咸論音律、自以為遠不及也、疾之、出補始平太守。以寿終。
 荀勗は阮咸と音律を論ずるたびに、自分は彼に遠く及ばないと自ら思い、彼を憎んで、
 都から出して始平太守に就任させた。阮咸は天寿をまっとうした。

荀勗は同様な仕打ちを、張華に対しても(『晋書』巻36・張華伝)、
張華が高く評価した陳寿に対しても行っていますが(『晋書』巻82・陳寿伝)、
阮咸も彼の標的になったとは驚きでしたし、
その理由が、自分とは見解が異なる、自分より優れているからだとは呆れました。
もっとも、彼には彼なりの理由があったのでしょうが。

2024年2月8日

*釜谷武志「六朝の楽府と楽府詩」(課題番号14310203、平成14年度~平成16年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(2))研究成果報告書)p.31注(18)を参照。

「丹霞蔽日」句の共有

曹植作品の訳注は、今日「丹霞蔽日行」に入りました。

黄節は、これと同じ楽府題の作品が曹丕にもあることを指摘しています。*1
『藝文類聚』巻41によると、その全文は次のとおりです。

丹霞蔽日、采虹垂天  丹霞 日を蔽ひ、采虹 天に垂る。
谷水潺潺、木落翩翩  谷水 潺潺として、木より(葉の)落つること翩翩たり。
孤禽失群、悲鳴雲間  孤禽 群を失ひ、雲間に悲鳴す。
月盈則冲、華不再繁  月 盈つれば則ち冲し、華 再びは繁らず。
古来有之、嗟我何言  古来 之れ有り、嗟(ああ)我 何をか言はんや。

この曹丕「丹霞蔽日行」の前半六句は、
明帝曹叡による「歩出夏門行」(『宋書』巻21・楽志三「大曲」其十二)にも、
次に示すとおり、ほとんど同じ辞句が見えています。

乃眷西顧、雲霧相連、丹霞蔽日、采虹帯天。
(乃ち眷みて西のかた顧みれば、雲霧相連なり、丹霞日を蔽ひ、采虹天に帯びたり。)
弱水潺潺、落葉翩翩、孤禽失群、悲鳴其間。
(弱水潺潺として、落葉翩翩たり、孤禽群を失ひ、其の間に悲鳴す。)
善哉殊復善、悲鳴在其間。
(善き哉 殊に復た善し、悲鳴 其の間に在り。) 以上、第二解より

曹丕作品と曹叡作品との間で共有されているこれらの辞句は、
曹叡が父曹丕の辞句を踏襲した結果なのか、
あるいは、「大曲」の編者によってそのようにアレンジされたのか、
判断が難しいところです。

というのは、「大曲」の歌辞には、
その編成者が本辞にかなり手を加えている可能性があるからです。*2

「善哉殊復善」という句が、第一解にも見えていることから、
楽曲にあわせて辞句が付け加えられていることは容易に推し測られます。

2024年2月7日

*1 黄節『曹子建詩註』(中華書局、1976年重印)巻2、p.83を参照。
*2 たとえば「大曲」其四の「西門行」は、本辞「西門行」(『楽府詩集』巻37)に、本辞との関わりが深い古詩「生年不満百」(『文選』巻29)から更に別の新しい辞句を汲み上げ、古詩「迴車駕言邁」からも一句を取り込んでいる。柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.343―351を参照されたい。

「我」の解釈をめぐって

本日、半年ぶりに「曹植作品訳注稿」をひとつ、公開しました。
その「05-16 梁甫行」の末尾にこうあります。

柴門何蕭条  雑木でこしらえた門のなんと物悲しいことか、
狐兎翔我宇  狐や兎が、我が陋屋を駆け回っている。

この「我」とは何でしょうか。

というのは、この詩の前半では、
海浜の草地に身を寄せて暮らす民の有様を描いているからです。
それがなぜ、詩の最後になって「我」と言い出すのか。

曹植作品における「我」については、これまでにも、
「五遊詠」(2021.08.05雑記)に頻見するそれに言及しています。

また、訳注稿「04-04-1 送応氏 二首 其一」の末尾、
「念我平常居(我が平常の居を念ふ)」の語釈でも触れています。

曹植は、海辺の民に心を寄せているのでしょうか。
それとも、海辺の民と自身が重なって見えたのでしょうか。
あるいは別の解釈(意味のない間投詞とか)が妥当なのでしょうか。
この語に出会うたびに困っています。

2024年2月6日

知らなかった語義

『韓非子』説林下に、次のような文章が見えています。

鳥有翢翢者。重首而屈尾、将欲飲於河則必顛、乃銜其羽而飲之。
人之所有飲不足者、不可不索其羽也。

この前半は、次のように読み下せます。

鳥に翢翢なる者有り。
重首にして屈尾、将に河に飲まんと欲すれば則ち必ず顛(たふ)るれば、
乃ち其の羽を銜(ふく)みて之を飲ましむ。

ところが、これに続く文の「所」の意味がどうしても分からず、
その後しばらくの間、立ち止まったままだったのですが、
昨日、『故訓匯纂』を手掛かりに解決しました。

清朝の王引之『経伝釈詞』巻九「所」の項に、
「所、猶若也、或也(所は、猶ほ若なり、或なり)」として、
『尚書』『毛詩』『左伝』『論語』『孟子』の辞句が例示されています。

これにより、「所」を仮定の意味で捉え、
前掲文章の下半分を読み下せば、次のようになります。

人の所(もし)飲みて足らざる有らば、
其の羽を索(もと)めざる可からざるなり。

太田方『韓非子翼毳』(冨山房・漢文大系収載)は、
この部分に次のような頭注を付しています。

翢翢一羽ニシテ河ニ飲マントスレバ必ズ顚仆ス、
故ニ二鳥相依リテ一鳥ガ他鳥ノ羽ヲ銜ミテ顚仆ヲ免レ水ヲ飲ムヲ得シム、
人モ事ヲ為サントシテ勢不可ナルモノ有ルニ遇ハバ、
他ノ己ヲ輔クベキ者ヲ求メザルベカラズ、

「遭ハバ」と未然形に読んでいることから、ここは仮定と捉えている、
と心強く思ったら、この後に「所有ハ有所ノ誤」という語が続いていました。

太田全斎も、よほど読解に困ったのだろうと想像します。

2023年12月21日

『文選』李善注の編集方法

曹植「洛神賦」(『文選』巻19)に、次のような対句が見えています。

栄曜秋菊  栄 秋の菊よりも曜(かがや)き、
華茂春松  華 春の松よりも茂し。

これに対して、李善注は朱穆「鬱金賦」にいう、

比光栄於秋菊  光栄を秋の菊に比(なら)べ、
斉英茂乎春松  英茂を春の松に斉(ひと)しうす。

を引いています。
曹植が、この百年ほど前の先人の辞句を踏まえているのは、
李善が指摘するとおり、どう見ても間違いないことだと言えるでしょう。

ところで、『藝文類聚』(『藝文類聚』巻81)に引くこの朱穆の賦には、
この直後に次のような句が続いています。

遠而望之     遠くして之を望めば、
粲若羅星出雲垂  粲たること羅星の雲垂より出づるが若く、
近而観之     近くして之を観れば、
曄若丹桂曜湘涯  曄たること丹桂の湘涯に曜(かがや)くが若し。

これを目にしてたいへん驚きました。
なぜならば、この表現は、前掲の曹植の対句から二句を隔てて見える、
次の辞句と非常によく似ているからです。

遠而望之     遠くして之を望めば、
皎若太陽升朝霞  皎たること太陽の朝霞より升(のぼ)るが若く、
迫而察之     迫(ちか)くして之を察(み)れば、
灼若芙蕖出淥波  灼たること芙蕖の淥波より出づるが若し。

けれども、李善は曹植のこの表現に対して特に注は付けていません。
すぐ前に、「秋菊」「春松」の対句が朱穆「鬱金賦」に基づくことを注記し、
その朱穆作品の当該箇所の直後には、前掲のとおりの辞句が続いているにも関わらず。

これはどういうことでしょうか。

もし、李善が朱穆「鬱金賦」一篇をまるごと眼前に置いて、
そこから曹植「洛神賦」の表現に影響を与えた部分を抜き出したのであれば、
朱穆の「遠而望之」云々の四句は必ず注記されたに違いありません。

思うに、李善はもしかしたら、特徴的な表現や事物を項目立てて、
それに関連する語をカードのように情報化して蓄積し、
そこから随時、注記すべき典拠文献を引き出していたのかもしれません。

たとえば中唐の白居易は、その私撰の類書『白氏六帖』を作るに当たって、
部門名を記した数千の陶瓶を並べ、諸生に命じて瓶中に文献を蓄積させたそうですが、*
この言い伝えのような方法が実際に行われていたのだとするならば、
李善も、これと同様の方法で『文選』に注を付けていた可能性があると思いました。
もちろん、これだけのことでは断定できないのですが。

2023年12月19日

*楊億(974―1020)の談話録『楊文公談苑』(宛委山堂本『説郛』〓[弓+冫]十六)による。

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