曹植の罪の意識

『曹集詮評』巻10所収の「金瓠哀辞」は、
わずか半年ほどで夭逝した長女を悼んで作られたものです。

本日、この作品を校訂していて、次の句に目を驚かされました。

  不終年而夭絶  天寿を全うしないで夭折してしまって、
  何負罰於皇天  なんだって天の神から罰を受けることになったのだ。*1
  信吾罪之所招  これは真に我が罪が招き寄せたものであって、
  悲弱子之無愆  咎(とが)もないのに天罰が下された幼い娘を嘆き悲しむ。

「罪」という言葉は、
黄初年間初めに起こった一連の出来事に関連して、
この時期の曹植作品には、かなりの頻度で登場するものです。
たとえば、
摘発された自らの不埒な言動への自責を詠ずる「責躬詩」とその上表文、
それに対する処罰が文帝の計らいで軽減されたことに感謝する
「謝初封安郷侯表」や「封鄄城王謝表」、
また、この間のことを回想して書かれた「黄初六年令」、
こうした作品の中に、自身が王朝に「罪」を得たということが記されています。

それと同じ言葉が、
娘の死を招いた原因として記されていることに、
何か突出したものを感じたのです。

もしかしたら、この「金瓠哀辞」という作品は、
黄初年間、曹植が不遇の時代に入ってから作られたのだろうか、
もしそうだとすると、自身の不遇に、娘の死という不幸が重なったのか、
などと空想したのですが、それは外れているようでした。

いずれの先行研究においても、
この作品の成立時期は建安年間と判断されており、*2
その根拠も納得させられるものでした。

建安年間の曹植に、「罪」の意識があろうとは、
少なからず意外な感じを覚えました。

2023年4月25日

*1「負」字、底本(明・万暦年間の程氏刻本)は「見」に作る。今、『藝文類聚』巻34に拠って改める。
*2 たとえば、徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社・中国社会科学院老年学者文庫、2016年)p.216―217は、本作品の成立を建安二十二年(217)に繋年している。

厳可均と丁晏の同質性

ずいぶん間が空きました。
どんなに慌ただしい日々を過ごしていても、
ここに戻ってくることができるという場所を確保しておきたいです。

さて、少しずつ進めてきた『曹集詮評』のテキスト校訂が、
あと少しを残すだけとなりました。

巻10「王仲宣誄」の校訂を終えて、次の「倉舒誄」に入ったところ、
曹植作品を収める厳可均『全三国文』巻13~19のどこにも、
当該作品の、言葉の片鱗も見当たりません。

厳可均のような人でも落とすようなことがあるのだろうか、
と、ちょっと親近感を持ったりなどしたのですが、
やはりそれは間違っていました。

厳可均の編集が粗雑だったのではなくて、
「倉舒誄」という作品は、ほぼ間違いなく曹丕の作なのでした。

このことについて、丁晏が『曹集詮評』に次のように記しています。

この作品は、『藝文類聚』巻45・『古文苑』巻9(巻20?)では、
魏の文帝、曹丕の作として引かれている。
その作風を見るに、他の曹丕の作品に似通ったものがあるし、
「宜逢分祚*1、以永無疆(宜しく分祚に逢ひて、以て永く無疆なれ)」のように、
陳思王、曹植の言葉としてはふさわしくないと思われる句もある。
恐らく、明・張溥『漢魏六朝百三名家集』の『陳思王集』は、
『藝文類聚』所収の本作品が、曹植「任城王誄」に隣接して引かれているため、
誤って曹植の作品として採録したのだろう。
ただ、旧(張溥)本に載せているので、とりあえずは録した上で誤りを正しておく。

作風等による作者の比定は、自分には判断できないところですが、
それ以外の根拠については、全面的に納得できます。

厳可均は、明の張溥本*2などには見向きもせず、
より確かな文献である『藝文類聚』や『古文苑』に基づいて、
「倉舒誄」という作品を、『全三国文』巻7に曹丕の作として収載しています。
張溥本に対する扱いは異なっているのですが、
その学術的姿勢には、丁晏との間に同質のものを感じます。

厳可均(1762―1843)と丁晏(1794―1875)とは、ほぼ同時代の人です。
学風の近しさは、その時代の気風によるものなのでしょうか。
けれど、近くに寄って見てみれば、個々の違いが目に入ってくるのでしょう。
自分も、誰彼となく同時代人という枠だけで括られたくはありません。

なお、丁晏によると、明の万暦年間の程氏刻本は、本作品を採っていないそうです。
丁晏の『曹集詮評』は、この程本を底本としています。

2023年4月24日

*1「分祚」の二字、『古文苑』巻20は「介祉」に作る。
*2 張溥『漢魏六朝百三名家集』の性格については、こちらをご覧ください。

古典に基づく表現

先日の雑記で言及した「皎若」という語は、
その下に、月光が続く場合もあれば、日光が続く場合もあります。

今、そうした発想を含んでいる古典を示しておきます。

まず、『詩経』陳風「月出」に、
「月出皎兮、佼人僚兮(月出でて皎たり、佼人僚たり)」とあって、
ここでは、月光が「皎」と形容されています。
古楽府「白頭吟」の表現と同じです。

他方、日光を「皎」と形容する例が、
王褒「九懐・危俊」(『楚辞章句』巻15)に、
「晞白日兮皎皎(白日の皎皎たるを晞(のぞ)む)」とあり、
ここでは、曹植「妾薄命」と同様に、「皎皎」と輝くのは「白日」です。
なお、今「晞」を、「睎」に通ずるものとして解釈しましたが、
「明の始めて升る」(『詩経』斉風「東方未明」毛伝)との解釈もあって、
こちらの方が、曹植の「妾薄命」や「洛神賦」により近くなります。

ところで、「皎若」と日光とを結ぶ表現を含む詩歌は、
曹植の「妾薄明」にいう「皎若日出扶桑」以外にもう一例あります。
それは、阮籍「詠懐詩」(其19)冒頭に見える次の辞句です。

  西方有佳人  西方に佳人に有り
  皎若白日光  皎たること白日の光の若し。

この阮籍の詩では、たしかに「皎」は白く輝く太陽です。
けれども、そのような表現で形容されている「佳人」は「西方」にいます。
すると自ずから、「白日」は東方の空に昇ったばかりのそれではなく、
西方の地平線に落ちてゆく太陽が想起させられることになります。
現実の落日は、白く輝いてはいないとはいえ。

「皎若」という措辞が日光と結びつけられている例は、
現存する漢魏晋南北朝期の詩歌を見る限り、曹植と阮籍とのみです。
(もちろん、散逸作品が存在する可能性を視野に入れなくてはなりませんが。)
もしかしたら、阮籍は、曹植「妾薄命」を念頭に置きつつ、
それを敢えて反転させたのかもしれません。

このように、前代の表現を踏まえつつ、
新たな作品世界を作り出しているのが中国古典詩です。
正直なところ、これを読み解くには非常に面倒な作業が必要です。
けれど、これを作る側の人々は自由闊達に古典的世界に遊んでいたのでしょう。
それはちょうど、幾多の音楽を聴き込んだ音楽家が、
即興的に、自由自在に、曲をアレンジして演奏を楽しむのに似ています。

2023年3月27日

注釈しにくい表現

曹植作品の訳注稿が遅々として進みません。
どこまで注釈を付けたものか、いちいち迷ってしまうからです。

たとえば、「妾薄命」二首(其二)の3・4句目、

  華灯歩障舒光  華灯 歩障に光を舒(の)べ、
  皎若日出扶桑  皎として日の扶桑より出づるが若し。

語釈として、「華灯」「歩障」「扶桑」は必須です。
けれども、個々の語句をつないでいる措辞、
あるいはそれらの語句を通底して流れている発想に、
なにか作者が思い浮かべていたものがありそうな気がしてなりません。

「皎若」といえば、
古楽府「皚如山上雪(白頭吟)」(『玉台新詠』巻1)にいう、
「皎若雲間月(皎たること雲間の月の若し)」がまず想起されます。
けれども、こちらは月、曹植「妾薄命」では日(太陽)でした。

曹植本人の「洛神賦」(『文選』巻19)には、
「皎若太陽升朝霞(皎たること太陽の朝霞より升るが若し)」とありますが、
李善注には、「皎若」に対して特に何も指摘されてはいません。

ところで、同じ『文選』巻19所収の宋玉の「神女賦」では、
女神の現れた様子が次のように描写されています。

  其始来也、耀乎若白日初出照屋梁、
  其少進也、皎若明月舒其光。
   其の始めて来たるや、耀乎として白日の初めて出でて屋梁を照らすが若く、
   其の少しく進むや、皎たること明月の其の光を舒ぶるが若し。

この「神女賦」では、「皎若」の語がかかるのは「明月」に対してですが、
続く「舒其光」という表現は、曹植「妾薄命」にいう「舒光」との関連性を感じさせます。
そして、その前の句で喩えに用いられているのは、昇ったばかりの白日です。
もしかしたら曹植は、「神女賦」の前掲二行分をあわせて踏まえているのでしょうか。

もしそうだとすると、
先に示した曹植詩の二句は、ただ単に灯火の様子を描写しているだけなのではなく、
なにか非常に艶麗な雰囲気を醸し出していると感じられるようになります。
なお、描かれているのは、日が落ちた後の「蘭室洞房」で繰り広げられる宴席の情景です。

書いているうちに、宋玉「神女賦」も注に入れた方がいいように思えてきました。

2023年3月23日

重ねて追補説明(厳島八景と南京八景)

昨日に続いて、もうひとつ追補説明を重ねます。
それは、厳島八景の「鏡池秋月」と南京八景の「猿沢池月」との近しさです。

「月」という景物そのものは、本家の瀟湘八景にも「洞庭秋月」とありますし、
近江八景に「石山秋月」、金沢八景に「瀬戸秋月」とあるのは、
明らかに瀟湘八景を踏襲しようとするものでしょう。

ところが、男山八景では、「秋」の要素が抜けて「安居橋月」となっていて、
「○○○の月」という構成から、南京八景との繋がりが推し測られます。

他方、厳島八景は、
「月」が「池」と結びついている点で、南京八景と同じです。
加えて、「秋」の「月」である点では瀟湘八景をも踏襲しています。

実は、厳島の「鏡池」は、潮が引いたときにのみ現れる円形の池であって、
空に浮かぶ満月と同時に見ることはできないものです。

けれども、秋の月といえば、満月が想起されますし、
事実、元文四年(1739)刊『厳島八景』上巻(公家たちによる文芸)には、
鏡池と満月とがひとつの絵画の中に描かれています。*

実態とは乖離しているのに、なぜこのような景目が設けられたのか。
それには、南京八景の「猿沢池月」が強く作用したのではないかと想像します。

2023年3月17日

*高橋修三「翻刻『厳島八景』」(『宮島の歴史と民俗』11号、1994年)を参照。なお、この宮島歴史民俗資料館所蔵本(宮岳 玉壺堂蔵版)とは異なる、早稲田大学図書館所蔵本(厳島松半舎蔵板)がネット上に公開されている(http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he01/he01_01300/)。

昨日の追補説明(厳島八景と南京八景)

昨日、次のようなことを述べました。

厳島八景は、男山八景を選定した柏村直條が事実上の選定者だが、
柏村直條は、男山八景を選定するに当たって、南京八景を意識しただろう。
そして彼は、厳島八景を選定するに当たって、南京八景を念頭においていたのではないか。

別の言い方をすれば、
厳島八景には、男山八景を経由して、南京八景の美意識が流入しているのではないか、
ということです。

なぜこのように想像したのか、以下にもう少し詳しく述べてみます。
(もう一度、こちらをご覧いただければ幸いです。)

八幡八景(男山八景)は、南京八景を参照していると思われます。
南京の「雲井坂雨」と、八幡の「猪鼻坂雨」、
南京の「佐保川蛍」と、八幡の「放生川蛍」を対比すれば、
そのことは明らかだと言えます。

「雨」なら、八景の本家である瀟湘八景にもありますが、
そこには、「坂」と組み合わせる発想はありません。
有名な近江八景や金沢八景も、瀟湘八景を踏襲する「夜雨」です。
他方、前述のとおり、八幡八景と南京八景とは「坂雨」を共有しています。

また、「蛍」を愛でる発想も、瀟湘八景にはありません。
近江八景、金沢八景も同様です。
ところが、南京八景と八幡八景とは揃って「蛍」に注目し、
しかも、「○○川の蛍」という言葉の組み合わせ方でも一致しています。

こうしてみると、八幡八景が南京八景を意識して選定されたことはほぼ確実でしょう。
「蛍」は、厳島八景にも「滝宮水蛍」と踏襲されています。

さて、厳島八景が南京八景を念頭に置いていると判断されるのは、

まず、南京の「春日野鹿」と、厳島の「谷原麋鹿」、
そして、南京の「三笠山雪」と、厳島の「御笠浜鋪雪」という景目からです。

「鹿」は、「瀟湘」のほとりでも「近江」や「金沢」でも目につきませんが、
奈良と宮島には、たしかに群れをなして生息しています。
けれども、それを景物として取り上げるかどうかは美意識の問題です。
先行する南京八景にあることは、厳島八景のひとつに選ぶ上で後押しとなったでしょう。

「雪」の方は、さらに明確です。
厳島に降り積もる雪は、なにも「御笠浜」に限らなかったはずですが、
奈良の「三笠山」に降る雪が、かの八景の一要素にあるならば、
その「雪」を「御笠浜」に降らせたことも納得できます。
厳島の「御笠」も南京の「三笠」も、同じ音「ミカサ」ですから。

なお、柏村直條が厳島八景のうちの十題を選んだのは、
正徳二年(1712)の夏五月二十二日に恕信の依頼を受けてから、
同年六月十八日、宮島を離れるまでの、約一ヵ月足らずの間ですが、*
厳島八景の中には、四季折々の美観が組み入られています。
眼前の風景を写実的に感受して選んだのではなく、
実景に、既存の美意識を組み合わせて選定したことは明白です。

2023年3月16日

*朝倉尚「「厳島八景」考―正徳年間の動向―」(『瀬戸内海地域史研究』2号、1989年)に翻刻された柏村直條「厳島八景和歌(「柏」軸)」の跋文を参照。

厳島八景と南京八景

以前(2021.07.03)、言及したことのある厳島八景ですが、
その景目が、南京(なんきょう)八景とよく似通っていることに気づかされました。

南京八景とは、奈良の八つの景物を選定して、漢詩や和歌に詠じたもので、
遅くとも永徳二年(1382)には成立していたとされています。*1

他方、厳島八景は、安芸の宮島の八景を選りすぐったもので、
事実上、正徳二年(1712)、石清水八幡宮の神職、柏村直條によって選定されました。*2

柏村直條には、かつて男山八景(八幡八景)を選定したことがあり、
それで、宮島の光明院の恕信から、厳島八景のことを依頼されたのでした。

そんなわけで、厳島八景はたしかに、
男山八景と、「蛍」「桜」といった共通項を持っています。
けれども、それ以上に似通っているのが、奈良を詠じた南京八景なのです。
その景目を示せばこちらのとおりです。

もしかしたら、柏村直條は、
男山八景を選定する際、南京八景を念頭においていて、
厳島八景の選定時にも、再び南京八景を想起したのではないかと想像しました。

2023年3月15日

*1 堀川貴司『瀟湘八景 詩歌と絵画に見る日本化の様相』(臨川書店、2002年)p.38―41、安宅望「奈良八景考―成立時期の特定と選定の視点について―」(『立命館文学』676号、2021年)を参照。
2 柳川順子「悦峰の「厳島八景詩序」と柏村直條」(『宮島学センター年報』第3・4号、2013年)、「「厳島八景」文芸と柏村直條」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014年)を参照されたい。

昨日の続き(曹植と「韓詩」)

曹植における『詩経』摂取が「韓詩」によるものであったことは、
彼の他の作品からも示唆されるところです。

昨日の続きで、『詩経』周南「漢広」を踏まえる表現として、

たとえば、「七啓」(『文選』巻34)に見える次の句があります。

  然後采菱華、擢水蘋、弄珠蚌、戯鮫人、
  諷漢広之所詠、覿游女於水浜。
   それから、菱の花を摘み、浮草を抜き、真珠貝を弄び、人魚と戯れる。
   「漢広」に詠ずる詩句を諷誦し、漢水のほとりで水辺に遊ぶ女神に対面する。

「九詠」(『曹集詮評』巻8)にも、次のようにあります。

  感漢広兮羨游女  「漢広」の詩に感じ入り、その漢水の女神にあこがれる。
  揚激楚兮詠湘娥  「激楚」の歌声をあげ、「湘娥」の詩を詠ずる。
  臨回風兮浮漢渚  つむじ風に臨んで、漢水の渚にただよい、
  目牽牛兮眺織女  牽牛を目にし、織女を眺めやる。

また、同作品には次のような辞句も見えています。

  尋湘漢之長流  湘水や漢水の長大な流れをたどり、
  採芳岸之霊芝  芳しい岸辺の霊芝を摘む。
  遇游女於水裔  漢水の水辺で女神に出会い、
  采菱華而結詞  菱の花を摘んで、言葉を結わえつける。

「洛神賦」(『文選』巻19)にもこうあります。

  従南湘之二妃  南方の湘水の娥皇と女英を従え、
  携漢浜之游女  漢水のほとりの女神を連れにする。

ここに挙げた「漢広」の「遊女」は、
毛伝・鄭箋の『詩経』解釈によるのではなく、
『韓詩』によって、漢水の女神を指すのだと見られます。

2023年3月14日

 

曹植における『韓詩』の援用(2)

この題(特に「援用」という言葉)はしっくりこないのですが、
以前(2020年11月27日)にこう題して書いたので、それを踏襲します。

曹植が『詩経』を韓詩によって摂取しているらしい例が、
本日公開した「妾薄命 二首(1)」の中にも見い出されました。
それは、『詩経』周南「漢広」に出る「漢女」という語です。

この語の用例として、馬融「広成頌」(『後漢書』巻60上)に、
広成苑での舟遊びを描写して「湘霊下、漢女游(湘霊下り、漢女游ぶ)」とあり、
李賢等の注に、詩云「漢有游女(漢に游女有り)」とあります。

ところが、現存する『毛詩』を見ても、
毛伝には「漢の上(ほとり)の游女」とあり、
鄭箋には「賢女雖出游流水之上……(賢女の流水の上に出游すと雖も……)」と言い、
そのどこにも「湘霊(湘水の女神)」と並ぶような要素がありません。

対を為す「湘霊」について、李賢等注は『楚辞』九歌「湘夫人」を挙げており、
これとのバランスから見ても、ここは『詩経』が妥当なのですが。

曹植の「妾薄命」でも、「漢女」と「湘娥」とが並んでいて、
「湘娥」は前掲の「湘霊」と同じく、湘水に没した娥皇ら姉妹を言いますから、
この「漢女」が女神であることはほぼ間違いありません。

それで、陳喬樅『三家詩遺説考』(『清経解続編』巻1150)を見たところ、
その韓詩遺説攷一「漢広」の条に、「漢女」は漢水の女神だとする韓詩の説を記していました。

訳注稿の「漢女」の語釈は、この清朝の学者によって導かれたものです。

2023年3月13日

 

再び曹植が示唆してくれた。

以前(2019.08.05)、「曹植が示唆してくれた。」と題して、
原初的古詩(こちらをご参照ください)が誕生した場のひとつは、
後宮の女性たちを交えた宮苑内の水辺であった、ということの傍証が、
曹植「七啓」によって示されたことを書いておきました。

同じことを、曹植「妾薄命」(『曹集詮評』巻5)も示唆してくれています。
それは、この作品中に見える次のような対句です。

仰汎龍舟緑波  振り仰いでは龍をかたどった舟を緑の波間に浮かべ、
俯擢神草枝柯  うつむいては霊草の枝を摘む。

「龍舟」は、宮苑内での舟遊びを詠ずる場面によく登場する語で、
そこにはしばしば、舟に乗り込む後宮の女性たちの姿が描かれています。*1

それと対を為して描写されているのが、霊草の枝を摘み取る所作です。
これは、次に示す古詩「渉江采芙蓉」の前半を想起させます。

渉江采芙蓉  江を渉って、ハスの花を摘む。
蘭沢多芳草  ながめれば、蘭の沢には香り草がたくさん生い茂っている。
采之欲遺誰  これらを摘んで、誰に送り届けようとするのか。*2
所思在遠道  思いを寄せるあの人は、はるかに遠い道を旅している。

この詩は、数ある古詩の中でも、原初的な位置を占めると目されるものです。*3

さて、前掲の曹植「妾薄命」の二句は、
「仰」「俯」という語で結びあわされているので、
舟遊びと、霊草を摘むこととが、同じ場での一連の動作なのだと知られます。

すると、宮苑内で舟遊びをする傍らで、
水辺の草花を折り取って、遠くにいる人へ贈る所作をする女性がいる、
そのような情景がこの曹植詩の二句から浮かび上がってきます。

曹植の楽府詩「妾薄命」は、
その中に、古詩が誕生した場を想起させる情景を織り込んでいると言えます。
それが、眼前に展開しているものか、それとも想像上のものかはわからないのですが。

2023年3月10日

*1 たとえば、班固の「西都賦」(『文選』巻1)に昆明池に浮かべる舟を描いて、「於是後宮乗輚輅、登龍舟(是に於て後宮は輚輅に乗り、龍舟に登る)」とある。
*2 『楚辞』九歌「山鬼」にいう「折芳馨兮遺所思(芳馨を折りて思ふ所に遺らん)」を踏まえる。原初的古詩は、『楚辞』の中でも九歌の辞句を集中的に取り込んでいる。
*3 数ある古詩から、どのようにして原初的古詩を抽出できるのか。詳細は、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)の、特に第二章第一節を参照されたい。

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