黄初四年の曹植(3)
こんばんは。
『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝に、次のような記述があります。
四年、徙封雍丘王。其年、朝京都。
(黄初)四年、雍丘王に遷された。その年、都洛陽で皇帝に謁見した。
そして、この後「上疏曰」として、
「上責躬応詔詩表」「責躬詩」「応詔詩」が引用されています。
この、雍丘王に遷されたことと、洛陽への上京との前後関係については、
これまでにも何度か検討してきました。(直近ではこちら)
結論から言えば、先人の多くが推論するとおり、
上洛が先、雍丘王への着任が後と考えてほぼ間違いないと思われます。
その根拠となし得るかもしれないことで、
先人たちには指摘されていないと見られることをひとつ記しておきます。
それは、『文選』巻24、「贈白馬王彪」の李善注に見える、次の二つの記述です。
集曰、於圏城作。
又曰、黄初四年五月、白馬王・任城王与余倶朝京師。……至七月、与白馬王還国。……
「又曰」以下の記述から明らかなとおり、
「贈白馬王彪」詩は、前述の「責躬詩」「応詔詩」及びその上表文と同じく、
黄初四年の上洛を契機として作られた作品です。
注目したいのは、同じ「集」に記されているという「圏城」です。
これは、鄄城のことを指しているのではないでしょうか。
「圏」と「鄄」とは、発音が非常に近いのです。*
もし、この推測が妥当で、
本詩が鄄城で作られたものだとするならば、
曹植は、洛陽からまず鄄城に帰国したということになります。
そうすると、雍丘王への転封は、それ以降のことと見なくてはなりません。
2022年8月22日
*便宜上『広韻』に拠るならば、「鄄」は去声・線韻、「圏」は複数の韻目に見えているが、上声・獮韻のそれなら、声調は異なるものの、「鄄」と同じ韻母(母音)となる。声母(子音)は、「鄄」が「見」、「圏」が「群」で、清濁は異なるが、同じ牙音である。
曹植の「令」とことわざ
こんばんは。
曹植の「黄初六年令」に、
東郡太守王機らのしつこい監視についてこう記しています。
機等吹毛求瑕、千端万緒、然終無可言者。
機等は毛を吹きて瑕を求むること、千端万緒、然して終に言ふ可き者無し。
ここにいう「吹毛求瑕」は、
『韓非子』大体篇に「不吹毛而求小疵(毛を吹いて小疵を求めず)」と見えます。
しかし、他にも様々な文献に少しずつかたちを変えながら見えているので、
曹植は『韓非子』からこの辞句を選び取って踏まえたというより、
古来あることわざを用いたと見た方がよいかもしれません。
続く「千端万緒」も、複数の文献に散見することから、
定型的な言い方なのだろうと思われます。
この「黄初六年令」の結びに、
故為此令、著於宮門、欲使左右共観志焉。
故に此の令を為して、宮門に著し、左右をして共に志を観せしめんと欲す。
とあるとおり、この文章は、
当時、雍丘王であった曹植が、その配下の者たちに示したものです。
ことわざや定型的な文言を多用するのは、
この文章が本来的に担っているこのような役割に由来するものでしょう。
そういえば、先に読んだ「黄初五年令」には、
『尚書』皋陶謨に由来するフレーズを「伝に曰く」として引き、
『左伝』襄公三十一年に出る語を「諺に曰く」として引いていましたが、
あれらの不正確な(と感じられてしまう)表現も、
「令」を読む人々に合わせた言い方だったのかもしれません。
2022年8月20日
曹植における天人相関説
こんにちは。
『曹集詮評』を底本に、曹植作品の校勘作業をしていて、
「誥咎文」(『藝文類聚』巻100)の序にいう、
次のような記述が目に留まりました。
01 五行致災、先史咸以為応政而作。
02 天地之気自有変動、未必政治之所興致也。
03 于時大風、発屋抜木、意有感焉、聊仮天帝之命、以誥咎祈福。
01 五行が災害をもたらすことについて、
先代の史書はみな政治に応じて起こるものだとしている。
02 だが、天地の気は自ら変動するのであって、
いまだ必ずしも政治が引き起こすものだとは言えない。
03 ただ、時に大風が吹いて、屋根を吹き飛ばし樹木をなぎ倒し、
心中このことに感じるところがあったので、
すこしばかり天帝の命というかたちを借りて、咎を告げ福を祈る。
原文の01部分は、いわゆる天人相関説を指しています。
それが従前の歴史書ではまことしやかに記されていることを言います。
ところが、02部分では、その思想があっさり否定されています。
曹植は、合理的批判精神の横溢する王充『論衡』を愛読していたと見られ、
そんな彼からすれば、天人相関説などナンセンスだったのでしょう。
にもかかわらず、03部分では、この思想のフレームを借りて、
「咎を誥(つ)げ、福を祈る」ことを述べています。
その言葉が向けられた対象は誰でしょうか。
「誥」は、後世では皇帝が天下に告げるものですが、
『尚書』では、臣下が目上の王に対して告げる場合もあります。*
たとえば、周公旦が成王に新都洛陽の建設について報告する「洛誥」など。
すると、この文章は、皇帝に奉られたものだと見ることができます。
曹植は、前述のとおり天人相関説を信じていないにも関わらず、
この説に依拠して、皇帝を戒めていることになります。
他方、天界のことは政治世界とは無関係だと述べて、
必ずしも現皇帝に落ち度があるわけではないと言っているようでもある。
なぜ曹植は、こんな複雑な表現をするに至ったのでしょうか。
いずれ本作品を読んでから考えたいと思います。
2022年8月18日
*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.457、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.413は、「誥」を「詰」の誤記ではないかと解釈している。
赤松滄洲の宮島詩
こんにちは。
赤松滄洲による平賀周蔵『白山集』の序をひととおり読み通し、
少し滄洲先生のことが身近に感じられるようになりました。
そして、その目で再び『藝藩通志』巻32を通覧していると、
「赤松鴻 赤穂文学」という文字が目に入りました。
「鴻」とは、滄洲先生の名前です。
遥望彩雲西海天 遥かに彩雲を望む 西海の天
片帆逐旦至無辺 片帆 旦を逐ひて 無辺に至る
豈思更有新知楽 豈に思はんや 更に新知の楽しき有らんとは
吹送清風満閣前 清風吹き送りて 閣前に満つ *
この詩を、自分なりに通釈すれば次のとおりです。
はるかに西海の上空に広がる美しい雲を眺めつつ、
一隻の舟が太陽を追いかけて果てしない空間へ漕ぎ至る。
思いがけなくも、更に新しい友と知り合う楽しみがあろうとは。
清らかな風がたっぷりと吹いて、我々を社殿の前へと送ってくれる。
本詩の三句目にいう「新知楽」は、
『楚辞』九歌、少司命にいう次の句を踏まえていると見られます。
(諸詩歌に頻見する句ですが、最も古典的な『楚辞』を挙げておきます。)
悲莫悲兮生別離 悲しきは生きながら別離するよりも悲しきは莫く
楽莫楽兮新相知 楽しきは新しく相知るよりも楽しきは莫し
滄洲先生の詩にいう「新知」とは、
おそらくは平賀周蔵を指すのではないでしょうか。
こちらでも少し触れましたが、
共通の友人を介して、二人がいかに意気投合する仲となったか、
赤松滄洲による『白山集』序に詳しく記されています。
2022年8月17日
* 訓読は、『宮島町史 地誌紀行編Ⅰ』(宮島町、1992年)p.546─547を参考にした。
『藝藩通志』未収録の宮島詩
こんばんは。
厳島を詠じた詩が最も多く伝わるのは、
先日来話題にしている江戸期広島の漢詩人平賀周蔵で、
それらの作品は、『藝藩通志』巻32に集中的に収載されています。
ですが、先日述べたとおり、
平賀周蔵個人の詩集『白山集』『独醒菴集』の中には、
『藝藩通志』に未収録の宮島詩が埋もれている可能性があります。
その後、次のような詩を拾い上げることができたので、
それが厳島を詠ずるものだと判断された根拠とともに記しておきます。
いずれも『白山集』所収作品です。
イ、巻3「以中菴」
……以中菴は、『芸州厳島図会』にも描かれている。
ロ、巻4「遊厳島舟発港口五更値雨」……先に指摘済み
ハ、巻5「同前過信公隠居」
……「同前」とは、直前の詩「遊厳島主野孫作家」を指していう。
ニ、巻5「謁信公」
……前掲ハ詩に続けて収録。この直後に「発厳島」が続く。
ホ、巻5「訪信公海雲軒不遇」
……前掲ハ・ニ詩と同じく「信公」が登場する。
『藝藩通志』にも見える「華表松」と「別水精寺」との間に収載。
ヘ、巻5「題興徳老上人帰雲軒」
……前掲「別水精寺」と「厳島舟帰」との間に収載。
平賀周蔵には、この他にもまだ埋もれた宮島詩があるかもしれません。
彼はとても宮島を愛し、幾たびも訪れて詩を詠じていますが、
そうした詩の多くに、この島の友人たちが登場します。
どのような人々なのか、興味を引かれます。
2022年8月16日
「壺中菴」とは
こんにちは。
先日紹介した平賀周蔵の詩、
「夏日陪滄洲先生遊嚴島過飲壺中菴」にいう「壺中菴」は、
彼の別の詩「題嚴島壺中庵」にも見えています。
こちらは『白山集』巻5に収められており、
先日読んだ「夏日……」詩(巻3)とは離れた場所に置かれていますが、
これは『白山集』が作品を詩体別に収載しているためであって、
詩中に登場する人物の呼称などから判断して、
両詩が同時期の作である可能性は高いと思われます。
その「題嚴島壺中庵(嚴島の壺中庵に題す)」は次のような詩です。
仙醞醸来誰得同 仙醞 醸し来りて誰か同(とも)にすることを得ん
主人高興有壺公 主人は壺公有るを高興す
登楼終日飲難尽 楼に登りて終日飲むも尽くし難く
剰見名山縮地工 剰(あまつさ)へ見る 名山縮地の工
これを私なりに通釈すれば次のとおりです。
仙界の美酒が出来上がって、誰と共に酌み交わせるだろうか。
主人は、かの壺公のいることをたいそう喜んだ。
楼閣に登って終日飲んでも飲み尽くせないほど酒は無尽蔵にあるし、
その上、神仙の術により、すばらしい山々が眼前に迫って見えるであろう。
この詩の二句目に見える「壺公」は、
先の「夏日陪滄洲先生遊嚴島過飲壺中菴」にいう「懸壺仙」、
すなわち、後漢の費長房が弟子入りした、かの薬売りの仙人でしょう。
続く第三・四句に見える表現内容、すなわち、
楼閣に登って誘われた酒が、日暮れまで飲んでも尽きなかったこと、
壺公の導きで授けられた神仙の術により、遠くの山々の景観が間近に見えたこと、
これらはいずれも、葛洪『神仙伝』巻5「壺公」の項に記されている故事です。
こうしてみると、本詩に見える「壺公」は、
先日紹介した「夏日……」詩の「懸壺仙」であると判断されます。
さて、先に「懸壺仙」とは、医者の笠坊文珉ではないかと推測しました。
また、「夏日……」詩の末尾には、「酒泉」を有する「素封」が登場していました。
本詩においては、この「懸壺仙」すなわち「壺公」の存在を、
「壺中庵」の「主人」は大いに歓迎しています。
そうすると、この庵の主は、笠坊文珉と意気投合するような人物でしょう。
そして、詩中、その主を客体化して詠じていることからすれば、
この「壺中庵」の主は、平賀周蔵とはまた別の人だと考えるのが妥当でしょうか。
(自身を「主」と称することはあり得ない話でもないとは思いますが)
2022年8月12日
厳島に遊んだ儒者と仙人
こんばんは。
昨日紹介した平賀周蔵の詩
「夏日陪滄洲先生遊嚴島過飲壺中菴」の中に、
次のような対句が見えていました。
偶随縫掖老 偶〻縫掖の老に随ひて
来伴懸壺仙 来りて懸壺の仙に伴ふ
この「縫掖老」は、詩題にいう「滄洲先生」です。
「縫掖」とは、袖の大きな一重の衣で、儒者の着るもの。*1
そこから、この詩の中で周蔵がお伴をしている赤松滄洲だと知られます。
では、これと対をなす「懸壺仙」とは誰を指すのでしょうか。
「懸壺」は、後漢の費長房が市場で出会った薬売りの老人の逸話に見える語。*2
注目したいのは、壺を懸けたる仙人が、薬売りであるということです。
ということは、その人は、医薬品を扱う、浮世離れした人物なのでしょう。
結論から言えば、これは、笠坊文珉という人物を指すのではないかと考えます。
笠坊文珉は、芸州広島藩の医師であり、平賀周蔵の友人で、
先に見た皆川淇園による『白山集』の序にその名が見えていました。
もしそうだとすると、この詩から、
平賀周蔵は、笠坊文珉とともに、赤松滄洲のお伴をして、
この初夏の嚴島遊覧を楽しんだということが浮かび上がってきます。
なお、赤松滄洲による『白山集』の序の中にも、
それらしき人物が見えてはいるのですが、
未だくずし字が判読できません。
2022年8月10日
*1『礼記』儒行篇に、孔子が若い頃に着ていた「逢掖之衣」について、鄭玄の注に「逢、猶大也。大掖之衣、大袂襌衣也(逢とは、猶ほ大なり。大掖の衣とは、大袂の襌衣なり)」とある。
*2『後漢書』巻82下・方術伝(費長房)に「市中有老翁売薬、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中(市中に老翁の薬を売る有り、一壺を肆頭に懸け、市の罷はるに及びては、輒ち跳びて壺中に入る)」とある。『蒙求』にも「壺公謫天」として見えている故事。
「滄洲先生」とは
こんばんは。
厳島を詠じた平賀周蔵の詩には、
固有名詞の場所や人物がかなり出てきます。
そのほとんどに、自分はまったく手が付けられていませんでした。
そうした詩のひとつに、「滄洲先生」という人物が登場する、
次のような作品があります。
夏日陪滄洲先生遊嚴島過飲壺中菴(『白山集』巻3)
夏日 滄洲先生に陪して嚴島に遊び 壺中菴に過飲す
竹蹊深卜地 竹蹊 深く地を卜し
茅宇此中偏 茅宇 此の中に偏す
呦鹿新林外 呦鹿は新林の外
残花古砌前 残花は古砌の前
偶随縫掖老 偶〻縫掖の老に随ひて
来伴懸壺仙 来りて懸壺の仙に伴ふ
歓興何辞酔 歓興 何ぞ酔ひを辞せんや
素封有酒泉 素封 酒泉有り
これを自分なりに通釈すれば次のとおりです(語釈は省略)。
竹の茂る小道を分け入ってよき土地を探し求め、
茅で屋根を葺いた質素な庵が、ほかでもないこの片隅に建てられた。
夏の初め、鹿は新緑の林の外で呦呦と鳴き交わしている。
春の過ぎ去った後、花は古びた石畳の階段の前に咲き残っている。
私はたまたま老儒者に付き従って、
壺を店先に懸けて薬を売る仙人と共にやってきた。
感興が高じては、どうして酔いしれるのを辞退しようぞ。
無官のご大臣は酒の湧き出る泉をお持ちだ。
この詩題にいう「滄洲先生」が誰なのか、
『白山集』の序文を読んで、ようやく分かりました。
(前日こちらで紹介した、皆川淇園による序文とは別の一篇です。)
この序文を書いた赤松滄洲という儒者でした。
赤松滄洲は、平賀周蔵と初夏の厳島に遊び、
数日の遊覧の中で、日夜談論し、大いに意気投合したことを、
その経緯とともに、『白山集』序の中に記しています。
この、平賀周蔵の知己とも言える人物が「滄洲先生」でした。
2022年8月9日
「防輔」という官吏
こんにちは。
曹植「黄初六年令」を読み始めて、
以前こちらでも取り上げたことのある『袁子』に再会しました。
吾昔以信人之心無忌於左右、
深為東郡太守王機防輔吏倉輯等枉所誣白、獲罪聖朝。
わたしは昔、人を信じる心から、左右の者たちを忌み嫌うことはなかったが、
東郡太守の王機や防輔の吏の倉輯らからひどい讒言を受け、聖なる朝廷に罪を得た。
ここに見える「防輔」の意味を調べていてのことです。
『袁子』(魏の袁準『袁子正書』)は、
魏王朝が諸王諸侯に対して、相互の交流を禁止し、
朝廷に参内することも赦さなかったということを述べた後、
次のように記しています。
諸侯游猟不得過三十里。又為設防輔監国之官、以伺察之。
諸侯は游猟するに三十里を過ぐるを得ず。
又為(ため)に防輔・監国の官を設けて、以て之を伺察せしむ。
(『三国志(魏志)』巻20・武文世王公伝の裴松之注に引く)
この同時代資料によると、
「防輔」は「監国」と同様、諸王を見張る役だったと知られます。
同じ意味でのこの語は、こちらでも触れた、
『三国志(魏志)』巻20・中山恭王袞伝にも見えていました。
「監国」はともかく、「防輔」という語は用例が少なく、
中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」で検索すると、
二十四史における「防輔」は、『三国志』に見える上記の2例のみです。
朝廷が諸王の動静を見張る「防輔」という官職は、
この曹魏王朝に特有のものであったと見てよいでしょう。
2022年8月8日
★津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)の第三章「曹魏における諸王政策の実態」に、「防輔と監国謁者」と題する、事例に基づいた詳細な論考が見えます。(2022年10月31日追記)
平賀周蔵『白山集』の序文
こんにちは。
9月の公開講座に向けての準備の一環として、
皆川淇園(名は愿)による平賀周蔵『白山集』の序文を読みました。
平賀周蔵の閲歴を概略知ることができた一方で、少し理解の及ばない部分も残りました。
ここに訓み下しを示し、疑問点を記しておきたいと思います。
(内閣文庫所蔵本を翻刻した本文、及び訓み下し文は、別にこちらに上げておきます。)
安芸の国の医者、笠坊文珉は、自分と旧知の間柄である。ある日、詩集一冊を懐に入れてやってきて、これを取り出して私に見せて言った。「これは友人の平賀周蔵、字は子英、号は蕉斎という者が作った詩集です。周蔵は私に預けて、先生にこの序文を書いていただけるよう依頼してきた次第です。」そして、彼はまた子英が私に宛てて書いた手紙を取り出した。これを読んだところ、概ね、その詩集を出版すること、及び私の序文を求める旨が述べられていた。曰く、自分は幼少の頃より藝藩の大夫浅野子敦君に仕えてきた。おそらく自分は幼少の頃から学問好きであったためか、十歳になると、子敦君より特別に俸禄を賜り、広く学ぶよう命ぜられた。二十歳になると、子敦君に従って江戸へゆき、服部仲英について詩作を学んだ。仲英が亡くなった後は、詩を通しての交友関係はますます広がり、たとえば京の都の竜君玉(竜草廬)・江君綬(江村北海)といった人々とも広く交わりを結んだ。四十七歳で退職し、自ら白山居士と号した。今は五十歳になる。その初め、子敦君は物茂卿(荻生徂徠)の文章を読んで、そこに書いてあった「仕事が多くて学問ができないのは運命である。貧しくて書物が入手できないのは運命である。能力があって、人に学問をさせることができるならば、それは自身が学ばなくとも、ほとんど学ぶことに等しい」という言葉に感激したことがあって、子英を観察するに、幼い時から学問好きであった、というわけで、これに優先的に学資を給付しようということになったのである。そして、今、作った諸々の詩型の作品あわせて六百首を集めて五巻とし、これを出版して世に公開するに当たり、聊かなりともその文芸が成就したところを示すことによって、主人が私を理解し、支援してくださった、その御恩の万の一つにでも報いたいと願っている。もし序文を書いていただけるなら、どうか今述べたことを書き入れていただけないか、と。私はそこでまたその詩集を閲読するに、その詩は構想が清新で、表現は非常に練り上げられており、今の世で詩人としてもてはやされている者たちも、この詩集をよく読めば、自らを恥じる表情を浮かべるかもしれない。まさに、この詩集が世の中に伝播し、後世にまで広く伝えられることは必定である。そもそも子敦君が聡明で人を見る目があり、よく子英の学資の支援をしたこと、及び子英が明敏でよく学問に励み、以て自身の才能を成就させたこととは、真にこの二人を共に善しと称賛せずにおれようか。かくして、巻頭にその序文を書いて、これを文珉に託して持ってゆかせた。そしてその翌日、子英がやってきて私に面会し、その序文を書いたことに対する謝辞を述べ、かつまたこのように求めてきた。「今、先生にお会いすることができまして、先生の書いてくださった序文が未だ謁見が叶わなかった時と違いが無いようでは、少しばかり残念な心地がいたします。どうかこの序文を書き直してはいただけないものでしょうか。」そもそも、私の卑しく劣った人品を以てしては、その識語があろうがなかろうが、それが子英の評価の高下に影響を及ぼすには至るまい。とはいえ、彼の懇願が非常にねんごろであったため、更にこのことを書き加えて、これを子英に贈ったのである。
寛政六年(1794)冬十月
京都の皆川愿が撰し并びに書す
この序文の大部分は、平賀周蔵が皆川淇園に当てて書いた書簡の引用です。
ただ、その中に「子敦君」「子英」等々といった言い方が出てきて、
これは、平賀周蔵が自身で書いた文面を、皆川淇園がアレンジしたものでしょう。
ですから、「曰く」以下を間接話法的に訳しました。
よくわからなかったのは、なぜ平賀周蔵は、翌日皆川淇園を直接訪ね、
序文の書き直しを懇願したのかということです。
その懇願の内容は、この通釈のとおりでよいのでしょうか。
翻刻あるいは翻訳を誤ったために、自ら理解できないのでしょうか。
更に、追記された部分というのは、どこからでしょうか。
普通に考えれば、周蔵の来訪とその懇願を記した部分なのでしょうが、
これを記すことで、却って著者の格を落とすことになりはしなかったのでしょうか。
また、京都の人である皆川淇園を、平賀周蔵は翌日すぐに訪ねています。
ということは、この時ちょうど皆川淇園は広島近辺にやってきていたのでしょうか。
2022年8月4日