黄初二年の曹植(承前)

こんにちは。

以前、こちらで検討したことに関連して。

前に読んだ先行研究の続きを読み直しました。
植木久行「曹植伝補考―本伝の補足と新説の補正を中心として―」
(早稲田大学中国古典研究会『中国古典研究』21、1976年)の第五章です。

そこでは、主に「黄初六年令」及び「責躬詩」に拠って、
黄初二年頃の曹植の事績が精査されています。

「責躬詩」については、以前、こちらでその概略を把握しました。
それに照らして言えば、次の句の捉え方については私も植木論文に全く賛成です。

24 改封兗邑 于河之浜 ⇒鄄城侯への改封をいう。
25 股肱弗置 有君無臣 26 荒淫之闕 誰弼余身 ⇒鄄城侯時代の王機らによる検挙
27 煢煢僕夫 于彼冀方 28 嗟余小子 乃罹斯殃 ⇒王機らの検挙による洛陽への召還
29 赫赫天子 恩不遺物 30 冠我玄冕 要我朱紱 ⇒文帝の恩沢による鄄城侯への復帰
31 光光大使 我栄我華 32 剖符授土 王爵是加 ⇒鄄城王の爵位を授ける使者の来訪

ただ、異なるのは、それぞれの出来事が起こった時期の推定です。

植木論文は、東郡太守の王畿らによる検挙を、黄初二年頃のことと推定しています。
私は、この時期の曹植は臨淄侯であり、監国謁者潅均により検挙されたのだと推定します。
両者の違いは、曹植が臨淄侯として赴任した時期の推定に由来するでしょう。

この一点だけでも、黄初年間の曹植の動向を探る意味はありそうです。

2022年7月14日

直接引用の意味

こんばんは。

毎日少しずつ『曹集詮評』の校勘作業をしながら、ふと思い至ったこと。

曹植「陳審挙表」(『曹集詮評』巻7、『三国志(魏志)』巻19陳思王植伝)には、
実におびただしい数の古典語や歴史故事が直接引用されています。
なぜでしょうか。

現代日本人の多くは、これを知識のひけらかしだと感じるかもしれません。
けれど、もしかしたらそれはこういうことなのかもしれない、
と思い至ったことがひとつあります。

それは、
この文章は、私的な個人の意見を言っているのではなくて、
古来蓄積されてきた知的共有財産に基づく公的見解を表明するものなのだ、
という意思表示としての直接引用ではないか、ということです。

自分の考えを飾り立て、権威付けるための引用ではなくて、
自分の考えが、滔々と流れるものの中に位置付けられるという意識です。
我勝ちに自己アピールすることをよしとする、現代的風潮の対極にあるものです。

もちろんそれは、自分を消して全体の中に呑み込まれよと言っているのではありません。
「我」を棄てて「みんな」の考えに歩み寄るということとも似て非なるものです。

2022年7月13日

昨日の追補

こんばんは。

昨日触れた『春秋左氏伝』襄公三十一年に由来する「人心不同、若其面焉」。
これは、以前こちらで触れた曹丕の言葉、

人心不同、当我登大位之時、天下有哭者。
人心は同じからず、我が大位に登る時に当たりて、天下に哭する者有り。

この冒頭句の出自とも重なっているように思います。

とすると、この語は、『左氏伝』に由来するということがかすむほどに、
広く人口に膾炙していた言葉であったのかもしれません。
(あるいは『左氏伝』の記述も、古来あるこのことわざを取り込んだか。)

すると、曹植が「諺に曰く」としてこの句を引いたのも、
あながち記憶による曖昧な引用とも言えないように思えてきます。

また、もうひとつ「伝に曰く」の方も、
もしかしたら、当時、本物の孔安国伝というものが伝存していて、
それを曹植が引いた可能性も皆無ではありません。

これ以上に遡って確認することはできないのですが、
おしなべて、現存する書物にのみ依拠して判断することは殆うい、
このことは自覚しておきたいと思います。*

2022年7月12日

*こう思ったのは、池田昌広氏の「『袖中抄』と類書」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第27号、2022年)を拝読したからです。顕昭『袖中抄』に、中国の類書『白氏六帖』や『修文殿御覧』がいかに多く利用されているかを精査した卓論で、この中に、刊本として流通する以前の抄本『白氏六帖』の姿が窺えるという指摘がありました。

魔がさすように

こんばんは。

黄初年間の曹植の動向を精査するため、
「黄初五年令」(『曹集詮評』巻8)の訳注を始めました。

すると、「伝に曰く」として引かれた句が、
『尚書』皋陶謨にいう「知人則哲(人を知るは則ち哲なり)」と、
その前の句に対する(偽)孔安国伝の概略的内容の綴り合せであったり、
また、「諺に曰く」として引かれた句が、
こちらにも記したとおり、『春秋左氏伝』襄公三十一年の句だったりします。

このようなことに遭遇したとき、
若い頃は、昔の人のいい加減さに笑っていました。
中年になると、そのいい加減さが示す奥行きがおそろしくなりました。
そして、この頃は、自分の無知を思い知るということ以上に、
彼我の住む世界の隔たりを、つくづく感じることの方が強くなってきました。

曹植の中には様々な古典語がたっぷりと蓄積されていて、
それらを、記憶をたぐりよせるように自在に引用しているのでしょう。
彼はそうした言葉の世界を普通に呼吸していたのです。
けれども、自分にとってそれらは、辞書などによってやっと知り得る言葉です。

彼らの普通が、自分にとってはそうではない、
そんな異なる座標の上に生きた人の書き残したものを、
ただでさえ鈍い自分が、素手で理解できるとは思えません。
だから、時間がかかっても地味に細かく読んでいくしかないのですが、
それをやって、何か少しでも人の役に立てることがあるだろうか、
などと考えてしまう魔が時折ふらりと訪れます。

誰かの役に立とうなどと不遜なことを思うからいけない。
とはいっても、これは趣味でやっているのではなくて、仕事なのだから。
こう右往左往することを、けれど無意味とは思わないでおきます。
現代における古典研究の意義を考えることをばかにしない、
けれど、しっかり手は動かして読み続けます。

2022年7月11日

捉えにくい副詞「まことに」

こんにちは。

遭遇するたびに捉えにくいと感じる副詞があります。
おおむねは「まことに」と読み下される「亮」「良」「諒」です。

自分が遭遇した範囲内で言えば、
たとえば『文選』からは次のような例が挙げられます。

巻29「古詩十九首」其八:
君亮執高節、賤妾亦何為(君 亮に高節を執らば、賤妾 亦た何をか為さん)。

巻29、曹植「雑詩六首」其六:
国讎亮不塞、甘心思喪元(国讎 亮に塞がらざれば、甘心して元を喪はんことを思ふ)。

巻24、曹植「贈徐幹」:
亮懐璵璠美、積久徳愈宣(亮に璵璠の美を懐けば、積むこと久しくして徳は愈(いよいよ)宣(の)べられん)。

巻29「古詩十九首」其八:
良無盤石固、虚名復何益(良に盤石の固さ無くんば、虚名もまた何の益かあらん)。

巻23、曹植「七哀詩」:
君懐良不開、賤妾当何依(君が懐 良に開かずんば、賤妾は当(は)た何にか依らん)。

また、『漢書』巻90、酷吏伝(尹賞)に引く民歌の一節に、こうあります。

生時諒不謹、枯骨後何葬(生ける時 諒に謹まざれば、枯骨となりし後 何(いづ)くにか葬らん)。

これらはいずれも、ただ単に「まことに」と言っているだけではなくて、
何か、条件が十分に満たされたことを前提に、下の句の内容を導き出しているようです。
場合により、「もし……ならば」だったり「……である以上」だったりして、
上記の訓読にも、再考の余地が多分にありますが。

辞書によると、現代漢語「誠然」にも、
「たしかに」「ほんとうに」の意味がある一方で、
「なるほど……ではあるが、(しかし)……」と捉えるべき場合があるようです。
古漢語の「誠」も同様に、こうした意味の広がりを含んでいます。

そうしてみると、「亮」「良」「諒」も同じように捉え得るかもしれません。

この三つは音の響きも同じですし(「良」のみ声調が異なりますが)、
江戸期の字書類等では“通用する”と説明されています。

2022年7月4日

中島敦の葛藤(追記)

おはようございます。
昨日こちらに記したことについての追記です。

先行研究に導かれて原典に当たる中で、*1
実は、妙に引っ掛かるところが一か所あったのでした。
それは、中島敦が妻のタカに「山月記」を書いたことを告げた時期です。
引用文「帰ってから」の前に(南洋から)と入れたのは、このことの覚書きです。

勝又浩「中島敦年譜」にも示されているとおり、*2
中島敦が深田久彌に、「山月記」を含む「古譚」六篇を託したのは、*3
中島が南洋庁に赴く前(1941年6月以前)のことです。

けれども、前掲の中島タカ「お禮にかへて」では、
それが、南洋から東京へ戻ってからのこととして記されていました。

「山月記」を書いた時期と、
そのことを妻に伝えた時期との間には、足掛け二年の隔たりがあるのです。
(「山月記」が『文学界』に掲載されたのは南洋から帰京後です。)

そうすると、妻のタカにこの小説を書いたことを告げたのは、
自身の内にある、全力を尽くして書きたいという作家としての欲望を、
(それを申し訳なく思う気持ちを引きずりながら)妻に打ち明ける、
ということだったのではないかと考え直しました。

「その時の顔は何か切なそうで今でも忘れることが出来ません。
あとで、「山月記」を読んで、まるで中島の声が聞える様で、悲しく思ひました。」

というタカの言葉からは、
彼女もまた、中島の思いをわかっていたように感じられてなりません。

「……それに中島の文章をお忘れなく何時までも愛し下さる読者の皆様に、
一言でもお礼を申しのべたく存じ、恥しさをしのび愚かなことを申し上げます。」

中島タカさんは、文章の初めにこのように記していらっしゃいます。
このような方だったのだと感じ入ります。

2022年7月1日

*1 中島タカ「お禮にかへて」(「ツシタラ第四輯(中島敦全集月報4)」文治堂書店、1972年)。
*2『中島敦全集3』(ちくま文庫、1993年第一刷、2007年第七刷)所収を参照。

*3 深田久彌「中島敦君の作品」(「ツシタラ第二輯(中島敦全集月報2)」、文治堂書店、1971年)を参照。

※弊学(県立広島大学:旧広島女子大学)図書館が、文治堂書店刊『中島敦全集』の月報を、丁寧に冊子として保存してくれていてとても助かりました。こうした資料は、新しい『中島敦全集(全3巻別巻1セット)』(筑摩書房、2001年)にはもちろん収録されているでしょう(?)。すぐに図書館に入れる手配をしました。

中島敦の葛藤

こんにちは。

中島敦とカフカとの関係について論じた先行研究から、*1
未亡人中島タカさんの文章を教えられました。

「お禮にかへて」と題するその文章に、*2
夫として、父親としての中島敦が回想されていますが、
その中に、「山月記」に関わる次のような記述が見えているのです。

 (南洋から)帰ってから、ある日、今迄自分の作品の事など一度も申したことがありませんのに、台所まで来て、
「人間が虎になった小説を書いたよ。」
と申しました。その時の顔は何か切なそうで今でも忘れることが出来ません。あとで、「山月記」を読んで、まるで中島の声が聞える様で、悲しく思ひました。
 好きな本も、芝居も、見ることが出来なくなり、書くことも出来なくなると、
「書きたい、書きたい。」
と涙をためて申しました。
「もう一冊書いて、筆一本持って、旅に出て、参考書も何も無しで、書きたい。」
「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい。」
とも申しました。

「山月記」を書いたことを、なぜ妻のタカさんに言ったのか。
なぜ「その時の顔は何か切なそう」だったのか。

「山月記」のもとになった「人虎伝」では、
虎になった李徴が、たまたま再会した旧友の袁傪に、
まず妻子の世話を依頼し、その後に、自作の詩を託します。

一方、「山月記」では、
まず自作の詩を託し、その後に妻子の世話を依頼します。
そして、この順番が転倒したということを、李徴はひどく自嘲するのです。

この改変は、中島敦自身の中から出てきたものです。

彼は、「人虎伝」に触発されて小説を書きながら、
小説家たらんとする自身の欲望があぶり出されたことを自覚し、
そのことを、まるで妻子を打ち捨てる者のように感じたかのもしれません。
それは、実際には非常に愛情深い夫・父であった彼には酷くこたえることだったでしょう。

一方、残された時間があまり長くはないことを予感していた彼には、
全精力を書くことに注ぎ込みたいという欲望を直視しないではいられなかったでしょう。

この二つの情況に引き裂かれていた彼のことを思うと、心が締め付けられます。

2022年6月30日

*1 有村隆広「日本における初期のカフカの影響―第二次世界大戦前後」(『Comparatio』18号、2014年)
*2 「ツシタラ第四輯(中島敦全集月報4)」(文治堂書店、1972年)所収

曹植に対する処遇

こんばんは。

魏王朝成立後の曹植が、常に不遇感を抱えていたことは、
彼の作品の随所から明らかに感じ取れます。

他方、特に明帝期に入ってからの魏王朝は、
曹植ら諸王に対して優遇政策を取っていたといいます。*

この食い違いをどう捉えたものか。

曹植の主観と、客観的事実との落差と捉えるのではなく、
魏王朝が曹植ら諸王に対して、物質的な面で手厚い待遇をする一方、
それと表裏一体で、彼らの軍事力を無化しようと図ったとは考えられないか。

そんなふうにふと思ったのは、
明帝の太和二年(228)に奉られた「求自試表」に、

窃位東藩、爵在上列、  位を東藩に窃(ぬす)み、爵は上列に在り、
身被軽煖、口厭百味、  身 軽煖を被り、口 百味を厭き、
目極華靡、耳倦絲竹者、 目 華靡を極め、耳 絲竹に倦むは、
爵重禄厚之所致也。   爵重く禄厚きの致す所なり。

とある一方、同じく明帝期に作られた、
「諫取諸国士息表」(『魏志』巻19・陳思王植伝裴注引『魏略』)に、
初めて東土に封ぜられ、魏王室の藩国となったとき、

所得兵百五十人、皆年在耳順、或不踰矩。
(得た兵士は百五十人、その年齢は六十歳、中には七十歳の者もいた。)

と述べ、非常に貧弱な軍事力しか与えられず、
藩国としての任務が果たせなかった無念さを訴えているからです。
こうした処遇は、文帝期のみならず、明帝期に至っても続いていたでしょう。

魏王朝にとって、
いつ独自の勢力を形成するか知れない諸王は、
常に警戒しておくべき不気味な存在であったのかもしれません。

ただ、王朝の中枢にいるはずの文帝や明帝は、
そうした意識を果たして強く持っていたのかどうかが不明です。

(以上、歴史学の専門家からすれば根拠薄弱な思い付き、あるいは、言うまでもないことだろうと思います。)

2022年6月29日

*落合悠紀「曹魏明帝による宗室重視政策の実態」(『東方学』第126輯、2013年7月)、津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年3月)を参照。

旧稿の訂正

こんにちは。

以前、通釈のみ公開していた「娯賓賦」(01-17)について、
その語釈を補った暫定完成版を本日公開しました。

本作品に興味を持って通釈を試みたのは2020年8月上旬でしたから、
それからほとんど二年間のブランクを経ての語釈でした。
すると、以前には語釈が必要だとは思いもよらず、
結果、誤訳をしてしまっているところもあることに気づきます。

その一つが「仁風」という語です。
以前はこの「風」を、「気風」や「風潮」の「風」として訳していましたが、
民を教化して導くという方向での「風化」と捉えて修正しました。

そして、以前こちらで用例を探しあぐねていた表現についても、
用例として曹植「娯賓賦」があることを追記しました。

こんなことにも気づけなかったことが恥ずかしい限りですが、
二年前の自分よりも、少しは読めるようになっているのを喜ぶことにします。

それにしても、当時の曹植はどれほど幸福な人間関係の中にいたことか。
「娯賓賦」での曹植は、何の疑念もなく、父曹操を尊敬し、兄の曹丕を敬愛しています。
後に、兄との関係が突如として暗転したことを、曹植がどう捉えたか、
そのように認知する曹植の発想はどこに由来するのか、
この建安年間に補助線を引いてこそ見えてくるのだろうと思います。

2022年6月27日

黄初二年の曹植

こんばんは。

昨日検討した曹植の臨淄への赴任時期について、
これまでにも何度か言及した津田資久論文はどう見ているでしょうか。*1

この論文は、昨日挙げたような複数の論文を検討しつつ、
「黄初六年令」(『曹集詮評』巻8)に基づいて次のように推定しています。

建安二三年(218)頃
延康元年(220)4月
黄初二年(221)

黄初四年(223)
洛陽での不敬行動により、臨淄侯を失う①
鄄城侯として就国②
東郡太守の王機らに弾劾されて洛陽に召喚③
その途上、安郷侯に貶爵④ 鄄城侯として帰国⑤
雍丘王に改封⑥ 監国謁者潅均による弾劾⑦

『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝に記すところでは、
黄初二年に、監国謁者潅均による弾劾⑦ 安郷侯への貶爵④ 鄄城侯への改封⑤
それに先立って、諸侯の就国が記されています。

このように、かなり大胆に正史を組み替えているのがこの論文です。
(ただ、本論文の眼目は、この点に関して考証するところにはないようです。)

結論から言えば、正史の記述がやはり正しい。*2
曹植「責躬詩」を精読するならば、そのように判断されるのです。
「黄初六年令」は、この詩を読解する際、非常に有益な傍証を与えてくれます。

「責躬詩」に拠って、黄初二年における曹植の動向を明らかにすることは、
あながち無意味ではなさそうだということがわかりました。
(半年ほど前に検討したことが、やっと形を取って見えてきました。)

2022年6月24日

*1 津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)。
*2 ただし、昨日述べたとおり、諸侯の就国の時期については、延康元年ではなく、曹丕が後漢から禅譲を受けた同年の10月より後と判断されます。

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