素直な遊仙詩

こんにちは。

本日、曹植「遊仙」詩の訳注稿を公開しました。
この詩は、過日取り上げた「仙人篇」と一部の語句を共有しています。
「鼎湖」「九天上」のふたつがそれで、
「遊仙」詩では、これらの語が次のように用いられています。

蝉蛻同松喬  蝉が脱皮するように世俗から離脱し、赤松子や王子喬とともに、
翻跡登鼎湖  足跡を翻して、黄帝が昇天した鼎湖から仙界へと昇ってゆくのだ。
翺翔九天上  九天の上に飛翔し、
騁轡遠行遊  馬車を自在に操って、遠方まで自由気ままに天がけてゆく。

この詩が先に見た「仙人篇」と異なっているのは、
「鼎湖」から登仙し、「九天の上」に「翱翔」しているのが、
この詩の詠じ手その人と見られる点です。
「鼎湖」とは言っていても、黄帝のことを詠じているわけではなく、
あくまでも登仙の描写として、たとえで用いられた固有名詞であるにすぎません。

「仙人篇」では、「見ずや」という語により、それが客体化されていました。
そして、「鼎湖」から登仙したのは「軒轅氏」すなわち黄帝だと明言されていました。
自らを黄帝になぞらえ、しかも「ご覧なさい」と言って、自身を指す、
という解釈の可能性を全否定はできませんが、
その直前にいう「潜光養羽翼、進趨且徐徐」と考え合わせると、
少し文脈の流れがギクシャクするように感じるのですが、どうでしょうか。
「光を潜めて羽翼を養ひ、進趨 且(しばら)く徐徐たらん」とすることそのものが、
仙界に遊ぶことを意味するのだという考え方もあるかもしれません。
ちょっとまだ揺れています。(先日の繰り返しになってしまいました。)

そういう分からなさを多分に含む「仙人篇」と比べると、
今回読んだ「遊仙」詩には、読者を混乱させるような屈折は見当たりません。
堅苦しく退屈な現実を脱出して、のびのびと羽を伸ばして仙界に遊ぼう、
そう素直に詠じているように感じられます。
こうしてみると、本詩の成立年代を、彼が自由を謳歌していた建安年間とすることも、
まったくありえない見方でもないように思います。*

2021年6月19日

**趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.265は、「遊仙」詩を、曹植が自由を奪われた黄初年間に繋年している。

曹植詩の浮揚感

こんばんは。

このところ、曹植の遊仙詩を少しずつ読み進めていて、
強く感じるのはその表現が発する浮揚感です。

たとえば、「仙人篇」にいう「駆風遊四海(風を駆りて四海に遊ぶ)」、
ごくありふれた表現のように見えますが、
「風」を車に見立て、それを「駆」って世界中を天がけるといった表現は、
現存する先秦漢魏晋南北朝詩では、他に見当たりません。

その「七哀詩」に見えていた、
「願為西南風、長逝入君懐(願はくは西南の風と為りて、長く逝きて君が懐に入らんことを)」にも、
前掲「仙人篇」の句と同質の、しなやかな能動性を感じます。

以前、曹植がその「闘鶏」詩の中で、
本来は飛ばないはずの鶏を飛翔させていることに言及しました。
この詩は、建安年間の作だとみてほぼ間違いありません。
すると、こうした資質はすでに二十代の頃からあったと言えるでしょう。

肌感覚で大気の浮揚を感じ取り、
天空に向けて思いを解き放つその詩想が、
ほんとうに曹植に固有のものだとは現時点では言い切れません。
ただ、今はその魅力に牽引されて、
彼の遊仙楽府詩を読み進めていこうと思います。

2021年6月18日

曹植「仙人篇」考(承前)

こんばんは。
昨日の続きで曹植の楽府詩「仙人篇」の末尾について。

最後の一句「与爾長相須」を、
私は軒轅氏から曹植に向けられた言葉として捉えました。

その理由のひとつは、訳注稿の語釈にも示したように、
「爾」は、対等の間柄で使われる二人称だと私は認識しているからです。*
黄帝軒轅氏に対して、「爾」と呼びかけるのはややぞんざいに過ぎないでしょうか。
けれども、もし曹植がほんとうに黄帝に対して君呼ばわりしているのであれば、
それはまたそれで、考察に値する新しい興味が浮かび上がります。

それはともかくとして、
前掲のような解釈をしてみた、もうひとつの理由はこういうことです。

前掲句のごとく「君をいつまでも待っているよ」と言っているのは、
その前の句にある「九天の上を徘徊する」者だろうと見るのが自然でしょうが、
その「徘徊九天上」は、「不見軒轅氏、乗竜出鼎湖」の直後に出てきます。
すると、「九天の上を徘徊する」のは、
「竜に乗って鼎湖を出でた」「軒轅氏」と捉えるのが妥当ではないでしょうか。
そうでないと、ひどく慌ただしい構成になるように思います。
「軒轅氏」の昇天に対して、「不見(御覧なさい)」と人々に注意を向けさせた者が、
今度は一転して、自身も空高く昇天していき、前掲のようなセリフを言うことになるのですから。

類似する表現が、「遊仙」(『曹集詮評』巻5)にも出てきます。
曹植の他の遊仙詩をも広く読んでいけば、また違った結論にたどり着くかもしれませんが、
今は、仮に上記のように通釈しておきます。

この楽府詩「仙人篇」には、ほかにもまだ釈然としないところがあります。
それも、多くの作品を読み、時を重ねていけば、いつかは解明できるかもしれません。
(今はわかる、曹植「七哀詩」と晋楽所奏「怨詩行」との関係も、十年ほど前は未解明でした。)

2021年6月15日

*このことは、拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.428に論及しています。ただ、もっと広く調査すれば、あるいは反証も見つかるかもしれません。

曹植「仙人篇」考

こんにちは。
すっかり間が空いてしまいました。

昨日、曹植「仙人篇」の訳注稿を公開しました。
いくつか残した不明瞭な点も含めて、ここで振り返ってみます。

本作品の成立年代について、
多くの注釈者は、黄初年間(220─226)と推定しています。
すなわち、曹丕が魏の文帝として君臨し、曹植を含めた弟たちを冷遇した時期、
曹植の年齢で言えば三十代前半に当たる年代です。

この推定は妥当だと私も考えます。
というのは、たとえば次のような句が見えているからです。

潜光養羽翼  輝きを隠し、羽翼を休ませて元気を養い、
進趨且徐徐  しばらくは立ち居振る舞いを緩やかに控えよう。

このような発想に至った具体的契機が示されているわけではありません。
ただ、こうした退却志向は、曹操が存命中の建安年間には認められないものです。
本詩を、曹丕によって自由が奪われた時期の作だと見る説には、説得力があると判断されます。

本詩のこの句より前、曹植は言葉を敷き連ねて仙界への飛翔を詠じています。
すると、仙界に遊ぶことが、前掲の二句にいう「光を潜める」ことと重なるでしょうか。
つまり、遊仙を、現実からの逃避と同義だとしているということです。
曹植以前に、こうした発想の遊仙詩はほとんど見出せません。*

ただし、「羽翼」という語が、飛翔ということを直に連想させるため、
前掲の二句を、仙界への飛翔と同一視することには少しくためらいを感じています。

では、その二句に続く次の四句はどう捉えるべきでしょうか。

不見軒轅氏  見ずや 軒轅氏の、
乗竜出鼎湖  竜に乗りて鼎湖を出づるを。
徘徊九天上  徘徊して九天に上り、
与爾長相須  爾と長く相須(ま)たん。

最後の一句「与爾長相須」について、
多くの注釈者は、その主体を「徘徊して九天に上る」者だと捉え、
その者と、本詩の前半で仙界に飛翔している詠じ手とを同一視しています。

そして、「爾」は、「軒轅氏」のことを指すとしています。

本当にこのような解釈でよいのか。
これとは別の見方をすることも可能なのではないか。
この続きは明日述べます。

2021年6月14日

*矢田博士「曹植の神仙楽府について―先行作品との異同を中心に―」(『中国詩文論叢』9号、1990年)に指摘する。

鶏が飛んだわけ

こんにちは。

曹植「闘鶏」詩には、次のとおり、飛翔する鶏が描かれていました。

長鳴入青雲  長く鳴き声を上げて青雲に入り、
扇翼独翺翔  翼で風を起こしてひとり空高く飛び回った。

この飛ぶ鶏について、先日(2021年5月10日7日)疑問が残ると述べました。

もしかしたらこういうことかもしれない、という考えが浮かんだので、
本日ここに記しておきます。

きっかけは、曹植「升天行 二首」其一に見える一句、
「翔鵾戯其巓(翔鵾 其の巓に戯る)」の「翔鵾」に対する語釈でした。

まず、「鵾」は、「鶤」字の別体。

この「鶤」について、『爾雅』釈畜に「鶏三尺為鶤(鶏の三尺なるを鶤と為す)」とあり、
つまり、「鶤」とは、大きな鶏のことだと説明されています。

また、『説文解字』鳥部(段玉裁注本で四篇上)には「鶤、鶤鶏也」とあり、
「鶤」は、鶤鶏(鵾鶏)と同じものだと説明されています。

では、鶤、すなわち鶤鶏(鵾鶏)とは、具体的にどのような鳥なのでしょうか。

『淮南子』覧冥訓に、
「過帰雁於碣石、軼鶤鶏於姑餘(帰雁に碣石に過ぎ、鶤鶏に姑餘に軼(す)ぐ)」、
その高誘注には、「鶤鶏」とは、鳳凰の別名だとあります。

『文選』巻2、張衡「西京賦」に、
「翔鶤仰而不逮、況青鳥与黄雀(翔鶤すら仰ぎても逮ばず、況んや青鳥と黄雀とをや)」、
その薛綜注は、「鶤」を「青鳥」「黄雀」と対比させて大いなる鳥であるとし、
李善注に引く『穆天子伝』には、「鶤鶏飛八百里(鶤鶏は飛ぶこと八百里)」とあって、
この鳥に対して郭璞は、「即鵾鶏、鵠属也」と注しています。

以上を要するに、
大型の鶏を意味する「鶤」は、
別名を鶤鶏(鵾鶏)といい、それは、神聖なる霊鳥、鳳凰だとされたり、
ハクチョウにも似た、天がける大型の鳥とされたりしています。

このような言語上のイメージの集積が、
曹植「闘鶏」詩において、空高く飛翔する鶏となったのでしょう。

ところで、曹植の描く鶏は、声を長く伸ばして鳴いていました。
これも、闘鶏における勝利者宣言を意味するのみならず、
鵾鶏の持つイメージが、それに重ねられている可能性があるかもしれません。

『楚辞』九辯(『文選』巻33、宋玉「九辯五首」其一)にいう、
「雁廱廱而南遊、鵾鶏啁哳而悲鳴(雁は廱廱として南に遊び、鵾鶏は啁哳として悲鳴す)」とあり、
ここでの「鵾鶏」は悲しげな声を上げています。

また、張衡「南都賦」(『文選』巻4)には、
悲しげな音楽を描写して「寡婦悲吟、鵾鶏哀鳴(寡婦は悲吟し、鵾鶏は哀鳴す)」とあります。

これらが記憶の片隅にひっかかっていて、
曹植「闘鶏」詩に描かれた鶏に、そこはかとない悲哀を感じたのだろうと思います。

2021年5月24日

教員としての喜び

こんにちは。

今年も、演習科目で、白居易と元稹との交往詩を読んでいます。
今日、前回の振り返り課題をまとめていて、非常にうれしくなりました。
回を追うごとに、調べ方が深くなっているからです。

たとえば、白居易「寄元九」詩(『白氏文集』巻九、0407)に見える次の句、

況随白日老  況んや白日に随(したが)ひて老い、
共負青山約  共に青山の約に負(そむ)けるをや。

この「青山約」の意味を保留としていたところ、
ある学生は、前回、授業中に紹介したサイト「寒泉」をさっそく利用し、
(今、図書館が使えませんから、ネット上で調べたのですね。)
次のような調査・考察をしていました。

・「青山約」が「奇元九」詩以外で使われている例を調べたところ、……
・「青山」で調べてみると、「白髪」と対となっていることが多い傾向がうかがえる。
・「青山」の意味には、①青々と木の茂っている山。②墓地という意味がある。
・以上のことを考え合わせると、「青山約」には、②の意味が強く出ているのではないか。

こういうレポートに出会うと、教員をやっていてよかったと感激します。
学生たちがそれぞれに、ひとつずつ目の前の世界が明るく開けていく体験をしている、
そのことに立ち会うことができることこそが、教員の喜びです。

この科目も含めて、今期担当している授業はすべて選択科目です。
特に、この演習科目は、本命は別にあって受けてみたという学生が多いと聞きます。
そういう、ちょっと脇道へ行ってみようか、という姿勢がいいです。
自分から、興味本位で触れたものには拾い物があります。

なお、以前この詩に訳注を付したとき(こちらの著書№3)、
私は前記のことに気づけていませんでした。

考え直す必要があると思っています。

2021年5月23日

教員としての所感

こんにちは。

教員としての無力感を覚えることが少なくない昨今、
これを打破せよとばかりに、教え方の勉強会が学内でも盛んに行われます。

教え方にすばらしい技能を持っているかと問われれば、私は黙り込むほかありません。
長年、自分の至らなさに苦い思いをかみしめながら試行錯誤してきました。

ただ、今朝ふと振り返って思ったのですが、
教育というものには、
こちらの熱意や技術だけではどうにもならない部分があります。
それは、相手あってのことですから。
何かを受け取る用意のない人には、どんな言葉も届かない、
その視点が、昨今の教育技術論には抜けているのではないかと思ったのです。

これを学べば、こんな能力が身につく、とか、
この資格を取得すれば、こんな有利なことがある、などと言われて、
果たしてその学ぶ内容に知的好奇心を感じるものだろうか。
自分ならますます嫌になるだろうと思います。

これはどういうことだろう、なぜだろう、
と考えることそれ自体がものすごく面白いことなのです。
そういう、疑問符でいっぱいの人には、ちょっとした一言も響くはずです。

『論語』衛霊公篇にある次のフレーズ、

子曰、不曰如之何如之何者、吾末如之何也已矣。
  先生がおっしゃった。
  「どうしよう、これをどうしよう」と言わない人には、
  私は彼をどうしようもないなあ。

これも、そういうことが示唆されているのだろうと思います。

打っても響かなかった高校時代の私ですが、
孔子という人は、教育者としてすごい人だったのだ、
とおっしゃった国語の先生の言葉が、なぜか深く印象に残っています。

2021年5月21日

日月を連ねる

こんにちは。

先日こちらでも言及した曹植「与陳琳書」の中に、
「連日月以為佩(日月を連ねて以て佩と為す)」という句があります。

表面上これに似た辞句が、昔のノートに記されていました。
(五言句型を為すという点で目に留まったものです。)

『漢書』巻21・律暦志上にいう、
「日月如合璧、五星如連珠(日月は璧を合するが如く、五星は珠を連ぬるが如し)」、
また、これとほぼ同一の、『桓譚新論』(『太平御覧』巻329)にいう、
「日月若合璧、五星若連珠」がそれです。

更に調べてみると、この対句は他の書物にも散見するものでした。*
『宋書』巻27・符瑞志上、司馬彪『続漢書』天文志上、
『旧唐書』巻33・暦志二、同巻79・傅仁均伝、『新唐書』巻25・暦志一にも、
ほとんど同一の対句が見えています。

『漢書』の記述は、前漢太初元年(BC104)の出来事、
『桓譚新論』は周の武王、『宋書』は堯、『続漢書』は三皇のことについて、
『旧唐書』『新唐書』では、いずれも暦法をめぐる説明や論駁の中に、
前掲の対句が、ほとんど形を変えずに見えています。

ということは、「日月如合璧、五星如連珠」は、
ある固有の歴史的事件に対してのみ用いられる辞句ではなくて、
ある特別なめぐり合わせで現れる、天文上の現象を指して言うのでしょう。
なお、『文苑英華』巻3・天象三には、「日月如合璧賦」三首が収録されています。

以上に述べたことは、中国の天文学に詳しい方々には常識なのかもしれませんが、
自分への覚書として、ここに記しておきます。

先に示した曹植「与陳琳書」の辞句、
あるいは、それとの関連性がほの見えた成公綏による宮廷歌曲の歌辞と、
ここに記した表現との影響関係については、もう少し精査する必要があると思います。

2021年5月19日

*台湾・中央研究院の漢籍電子文献資料庫によって検索した。

 

オンライン学会のよさ

おはようございます。

先週末、オンラインで開催された九州中国学会大会に参加しました。
これがとてもよかったので感想を記しておきます。

この学会の大会は、昨年度もオンライン開催でしたが、
発表に対する質疑応答は、文字の書き込みによって行われました。

今年は、リアルタイムの発表と質疑応答で、まずこれが予想外によかった。
やはり、時間的な制約の中でやり取りされる言葉には力があります。

他方、昨年度のように文字で記された質疑応答は、
内容に濃い密度があり、特にその分野の研究者には有益だっただろうと思います。

もし可能ならば、
リアルタイムの質疑応答を設けながら、
その後しばらくは質疑応答コーナーへの書き込み閲覧を開放する、
という複合的な開催方法が実現できれば最高だなあと思った次第です。

更に、リアルタイムの発表に先立って、
一定期間、発表資料の提示があればなおよかったと思います。
(一部の発表ではこれが為されたようですが、私にはよくわからなかった。)

以上は、もとより恩恵を受けるだけの者のわがままな感想ですが、
提案をすることは、設定や運営をしてくださった方々への感謝の表明でもある、
と私は思っています。

大会の最後に、新谷会長が名残惜しいとおっしゃったこと、同感でした。

ところで、オンライン学会には、リアルな対面式の学会にはない気安さがあります。
それは、発表者の話にまっすぐ向き合っているという実感からくるものです。
リアルな学会では、顔見知りの方々にご挨拶したり、そのタイミングが合わなくて疲れたり、
あるいは、知らない人たちばかりの中で所在なく過ごしたり、がつきものですが、
オンライン学会にはこれがありません。
ここから始まるリアルでフラットな学術交流があってもよい、
(そのためには、会員相互が自由に連絡を取り合える基盤が必要です)
それを後押ししてくれる側面を、オンライン学会は持っていると思いました。

2021年5月17日

文意の取れない書簡文

こんばんは。

先日、訳注を公開した「与陳琳書」ですが、
単語レベルではなんとか理解できても、実はその文意が取れません。
「翠雲」「北斗」「虹蜺」「日月」といった天上界のものを身にまとうこと、
そうした服飾が美しいと言っているところまではわかるのですが、
なぜ、それを「帝王」が身につけないと言っているのか、そこが理解できません。
(そのため、「望殊於天、志絶於心矣」は、苦肉の策であのような解釈をしています。)

この曹植作品を念頭に置いていた可能性のある、
成公綏の「雅楽正旦大会行礼詩」(『宋書』楽志二)では、
西晋王朝の初代皇帝、武帝(司馬炎)の壮麗な姿を歌い上げるのに、
「日月」「五星」「虹蜺」「彗」「慶雲」を身におびるといった表現がなされています。
こうした表現は、成公綏のこの歌辞に限らず、他の作品にも散見するものです。

だから当然、「帝王」は天上界のものを身につけるのだと思っていました。
ところが、曹植の文章にはそれとは逆のことが書いてあります。

それならば、この「帝王」は、一般的にいう「帝王」ではないのか、
もしかしたら、魏王となった曹操を指して言っているのか、とも考えたのですが、
曹植作品において(同時代の他の文人の作品においても)、
この語がそうした用いられ方をした例を見出すことができません。

この書簡文の全文が残っていれば、あるいは解明できるのかもしれませんが、
断片しか残されていない今、未詳とするしかないでしょうか。

2021年5月16日

 

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